46の台詞。inスプリング*スプリング part4
月香るな


 「愛してるっていえばよかったのかな」 」の読了を推奨



 玄関を出て、ふと横を見ると、壁に忍者が貼り付いていた。
「どこの不審者かと思ったら、朝日さんじゃないですかー。おはようございます」
「僕は朝日ではなくただの壁ですが、おはようございます、本庄さん」
 本庄サトミは、塀と同色の布を被って立っている朝日昇をまじまじと見つめた。マンガでは、確かに塀と同色の布を被って立っていれば、敵には見つからないらしい。とはいえここは、最近あまり自信がなくなってきたが、おそらく現実世界だ。いかんせん陽の光の元では、ただの馬鹿にしか見えない。
「今日はカナ子とデートか何かですか」
「はい。紫蘭を待たせてはいけない、と早く出てきたのですが、この辺りは以前関係をこじらせた女性の家の近くなので、せめて出来るだけ目立たないように待っていようかと」
 余計目立ってるよ、と思いながら、サトミは朝日の格好を、頭から足元まで舐めるように見回す。確かに以前と違い、首から下は普通の格好だ。しかしながら、頭に巻いた頭巾は変わっていない。この大きな布といい、彼らは本気でこの格好で都会に行くつもりなのか、とサトミは真剣に悩む。どうせいつもの通り、カナ子はお笑い芸人か天然系アイドルと紙一重、といった雰囲気の服で現れるに違いない。
「関係をこじらせた……って、元カノですか?」
「いえ、そこまで行ってません。ただちょっと、同じ趣味を持っていたので仲良くなったんです。でも、僕の彼女に対する情熱を伝えようと何度か夜道で後をつけたり、校門で待ち伏せしたり、遊びに行く彼女を追跡したり、彼女が衣装係をしていた文化祭の映画に勝手にエキストラ出演したりしていたら、なぜか警察に通報されてしまって」
「それ、世間ではストーカーって言うんじゃないですかねー。……ところで、趣味ってもしかして忍者ですか?」
「いえ、服飾の方です。僕も彼女も裁縫が趣味で。彼女は自分で作ったものを、フリーマーケットで販売してるんですが、その縁で知り合いました」
 そう言って、朝日は自分がかぶっている頭巾を指さした。
「手作りだったんですか。まあそりゃあ売ってるとは思えませんもんね」
「家にもっと色々な衣装がありますから、機会があったらお見せしますね!」
「申し訳ありませんがお断りします」
 朝日の表情が変わったようだったが、頭巾のせいでよくわからない。
「そういえば、その彼女も本庄さんや紫蘭と同い年なんですよ。勇戸高の、鈴木紗恵子と言うんですが、ご存知ありませんか?」
「あー、名前は聞いたことがあるような。同じ中学校だったかもしれません」
「そうですか! それは奇遇ですね」
 勢い余って布からはみ出しつつも、朝日は憎たらしいほどの笑顔で答えてきた。
「それにしても、どうして通報されなければいけなかったのか、未だによく分からないんです。恋人だったら夜道で待ち伏せしていても良かったんでしょうか。いっそ、あそこで愛してると言えばよかったんでしょうか」
「言わなくて良かったんじゃないですか。おかげでカナ子と知り合えたんでしょう」
「そういえばそうですね!」
 だんだん腹が立ってきて、サトミの笑顔が引きつる。こんな男だが、一応サトミよりは年上で、しかも近くにある、それなりに偏差値の高い学校に通っているそうだ。世も末だ、と本気で思う。
 その時、深川家のドアが勢いよく開き、中から「待たせてごめん」とカナ子が飛び出してきた。心なしか、何となく虹色のアフロヘアが頭上で輝いているような気がするのだが、サトミはとりあえず見なかったふりをした。
「皓羅もいたのね。おはよう、今日も良い陽気ね」
 陽気、のアクセントが妙だった。心なしか、妖気、と聞こえたような気がする。というより、そちらの方が正しいような気がしてきた。
「うん、今日もいい陽気だね」
 じゃあね、と手を振って、布をかぶったままの朝日と一緒に去っていくカナ子。その後ろ姿を見送りながら、サトミはがっくりと肩を落とした。
「もしかしたら、奴には勝てないかもしれない」
 つぶやいた彼女の声を、聞く者はいない。









 「最近どうも視線を感じるんだ」



「最近、どうも視線を感じるのよね」
 比奈子がそう言って、小さく息をついた。夏美は比奈子の隣で牛丼を食べながら、「また誰か来るのかしら」と首をかしげる。
「かもね。面倒なことにならなきゃいいけど」
 牛丼を食べ終え、店から出る。夕暮れの町並みは暗い。道路まであと数歩、というところで、比奈子の肩に何かがぶつかった。触れると、どろりとした触感がある。
「……生卵、か」
「もったいない。生卵は投げるものじゃなくて、牛丼に入れるものよ。で、誰?」
 夏美がティッシュを探しながら振り返ると、そこには二人と同じ中学校の制服を着た少年が立っていた。ネクタイの色から見て、比奈子たちより一つ年下だ。少年は夏美の顔を見て驚いたような表情を浮かべる。夏美はその顔に見覚えがあるような気がして記憶を探ったが、彼が何者だったか思い出すことはできなかった。
「武者小路さん、どいてくださいッ。ボクは隣の山田さんに用があるんです」
 比奈子が眉を上げた。生卵を拭き取ろうともせずに、二、三歩ばかり少年の方へ近づく。やけに表情のない比奈子の横顔を見ながら、夏美は小さく舌打ちした。
「あたしに何の用?」
「あんたの兄貴のせいで、うちの姉ちゃんは……! 一体あんた達、姉ちゃんに何をした!」
「あんたのお姉さんのことなんか知らないわよ。兄貴のことは兄貴に聞きなさい。それより君、だれ?」
 あくまで冷ややかな語調で、比奈子が答える。少年よりも一回り身長の高い比奈子は、彼を見下すような姿勢で言葉を続けた。
「どうせあんたのお姉さんが、誰かに恨みを買うようなことをしたんでしょう。あたしや兄貴を恨むのは勝手だけど、それじゃあ何の解決にもならないんじゃなくて?」
 唇の端に薄い笑みを浮かべ、比奈子は淡々と言い放つ。
「用事があるなら、兄貴の連絡先を教えてあげようか? ああ、ごめんなさい、あんたにそんな勇気はないわよね。こんなタマゴくらいで、あたしが参るとでも? そうだわ、あんたにも取りあえず、あたしと同じ目に遭ってもらいましょうか。そうね、ただのタマゴじゃ面白くないから……」
 比奈子がかざした右手の中に、卵がひとつ現れた。投げようと比奈子が右腕を引くと、少年は「ちくしょう、覚えてろ!」と言いながらきびすを返す。数歩行った所で振り返り、夏美に向けて叫んだ。
「そんな女と一緒にいると、武者小路さんまで悪く思われますよッ!」
 夏美はわずかに頬を引きつらせたが、何も言わない。少年は再び後ろを向くと、一目散に駆け出した。
「……比奈子」
 手の中に作った卵の幻覚を消し、手についた卵白を見ながら立ちつくしている比奈子の腕を、夏美が引いた。ようやく取り出したポケットティッシュで、比奈子の制服の肩についた生卵を、丁寧に取り除いていく。
「いい加減にしなさいよ! なんであんたがいちいち好きでもない悪役やってやらなきゃいけないのよ。必要もないのに、わざわざ相手を逆撫でしてどうすんの!?」
「じゃあ何て言えばいいのよ。あっちは何かに怒りをぶつけたくて来てるんでしょ。あたしがゴメンナサイなんて言ったら向こうも困るんじゃないの?」
「そりゃあ逆ギレする人もいるかもしれないけど、そんなの関係ないでしょ! 悪いのはあんたの兄貴であって、あんたじゃないんだから」
「そうだけど。でも、あたしが変な対応して、兄貴の仕事の邪魔したら悪いし」
 夏美は生卵を取ったティッシュを地面に投げ捨て、運動靴のつま先で踏みにじる。ひとしきりティッシュへの八つ当たりが終わると、夏美は比奈子の肩に手を当てて呪文を唱え、布地に染みこんだ生卵を魔法で振り落とした。
「あんたはあんた、お兄さんはお兄さん! わたしにだって、そろそろ我慢の限界ってものがあるんだからね」
 ティッシュをそのままに、夏美は大股で歩き出す。夏美が捨てたティッシュを比奈子が拾い、店の前のゴミ箱に捨てると彼女の後を追った。
「ごめん。でもこれはあたしの問題だから、好きにやらせて」
「いつか絶対にやめさせるからね」
 比奈子の肩に手を回し、夏美は口早に答えた。

「おい、そこのガキ」
 声をかけられ、少年は立ち止まる。おそるおそる振り返ると、そこには黒いマントを着込んだ魔法使いが、不機嫌そうな顔で立っていた。
「やってくれたな。関係のないオレの妹まで巻き込むとは、さすがあの女の弟だ」
「出たな。姉ちゃんに何をしたんだ、お前!」
「うるせえな。ちょっと根性たたき直してやっただけだっつうの。じきに目を覚ますから、そうしたらあの世間知らずに、剃刀レターは犯罪だって教えといてやれ。今度からは、胡散臭い魔法使いなんかとつながりのない、無難な奴にだけ送っとけ、ってさ」
「だからって、姉ちゃんがあんな目に遭っていいわけじゃないだろ!」
 少年は魔法使いをにらみつけ、習ったばかりの魔法で殴りかかろうとする。魔法使いはあっさりそのエネルギーを散らし、少年の胸ぐらを掴んだ。
「ガキが偉そうにガタガタ抜かすんじゃねえよ。別に復讐すんなとは言わねえけどさ、そこは堂々とオレの方に来たらどうなんだい。オレの母親も妹も、聞かれればちゃんとオレの居場所を答えてくるはずだぜ?」
 そのまま手に力を込める。少年の顔が歪んだ。
「そんなに妹さんが大事なら、悪人なんて辞めちまえ!」
「世の中にはオトナの事情ってもんがあるんだよ。分かったら坊やは大人しく、おうちで宿題でもしてるんだね」
 そう言って少年を突き飛ばす。少年は魔法使いの方へ二言、三言悪態をつき、大通りへと走り出した。
 背後の魔法使いが、うかない表情でうなだれたことを、少年は知らない。









 「キャベツの芯残すなよ」 」の読了を推奨



「おはようございます、本庄さん」
 朝、庭の鉢植えに水をやろうと本庄サトミが勝手口を開けると、柵のすぐ向こうで、朝日昇がウサギにエサをやっていた。
「おはようございます。ナナ、すっかり懐いてますねー」
 深川家の飼いウサギであるナナは、広い囲いの中でキャベツを食べていた。普段は部屋の中にいるのだが、運動をさせるためにちょくちょく庭に連れてこられているのを見かける。ちなみにこのナナ、飼い主であるカナ子に言わせれば「前世で共に戦った神竜の生まれ変わり」なのだそうだ。それを聞いた時には、さすがのサトミも返事に困った。
「そうですね。やっと敵じゃないと認めてくれたようです」
 いつもの怪しげな忍者装束ではなく、水色のシャツにジーンズという至極まっとうな格好をした朝日は、愛しげにウサギを見つめている。
「おい、キャベツの芯残すなよ」
 軽くキャベツの芯をつつき、ナナに食べるよう促す。
「ところで本庄さん、前々から言おうと思っていたんですが、ちょっといいですか」
 ウサギに視線を落としたまま、朝日はつぶやく。サトミは足元に転がるジョウロを拾い上げ、勝手口のそばの蛇口をひねった。
「どうぞ」
 ジョウロに水がたまる音が、しばし静かな朝の空気を震わせる。その音が止むのを待っていたように、朝日が顔を上げた。
「そろそろ、紫蘭を解放してくれませんか」
「どういう意味ですか」
「あなたが彼女を愛していることはよく分かりますが、彼女は僕のものです」
「ノロケなら間に合ってます」
 重いジョウロを両手で支え、サトミは短く答える。簡素な柵の向こうから、朝日が視線を向けてきた。サトミは振り向きもせず、ジョウロを持って庭の鉢植えの元へと向かう。
「紫蘭は――カナ子は、あなた一人のものじゃないんです。確かに、彼女に付き合うことができるのはあなたくらいのものかもしれませんが、彼女の妄想をあそこまで育てたのも恐らくはあなたでしょう」
「言ってる意味がわかりません。カナ子は朝日さんが貰っていけばいいじゃないですか。そもそも、なんでわたしがカナ子を愛してることになってるのか分かりません」
「そうですか。それじゃあ僕の気のせいだったのかな。本庄さんは、僕が彼女と付き合うことを嫌っているように見えたんですけど」
 ジョウロの水は庭の半ばで尽きる。そうなった後で水を汲み直すのがいつもの習慣だが、蛇口は勝手口の横、深川家の庭に隣接する位置にある。朝日の目の前に戻るのがしゃくで、サトミはジョウロを手に立ち止まった。
「別に嫌ってないですよ。あの電波と付き合うなんて、相当の覚悟がないと無理だと思ったんで、素直に『あなたの手には負えない』と言ったまでです」
「それじゃあ、本庄さんはそれだけの覚悟を持って彼女に臨んでいるわけですか」
「わたしのはただの習慣です。生まれた時から一緒の幼なじみですから」
 そうですか、と朝日が答えた。そちらへ視線をやると、朝日はウサギに目を落としている。拍子抜けしながら、サトミは蛇口へ駆け寄り、勢いよく水を出す。すぐにジョウロの八分目まで水が入った。
「ところで、カナ子はいつ頃から紫蘭をやっているんですか」
「あれはたぶん、小学校の……四年生くらいだと思います。ナントカってアニメが流行っていたころで、あの頃はわたしも喜んで付き合っていた気がします」
「あんがい根が深いんですね。それで、あなたはカナ子のあの想像について、どう思っているんですか?」
「はた迷惑な妄想だと思います。わたしになら何を言ってもいいけど、ほかの人を巻き込むのはやめてほしい。まあ、あれに付き合えるのはわたしくらいでしょうけど」
 サトミはそこで、ふと口をつぐんだ。佐藤という、あの隣町の高校生のことを思い出す。それからもう一人、カナ子に剣を渡した男のことも。
 目の前でウサギの横にしゃがみ込む朝日を見下ろした。カナ子は、朝日昇に役を割り振らなかった。サトミはかれこれ七年ほど皓羅と呼ばれ続け、ウサギのナナも彼女にかかれば竜王になるというのに、カナ子が彼を呼ぶ時の呼称は「のんちゃん」だ。一応尋ねてみたが、間違いなく由来はノボルという彼の名前である。
 突き上げるような衝動にかられて、サトミは口を開いた。
「昔、逆にカナ子を巻き込んだ奴がいました。カナ子に『勇者』の役を振った、『吟遊詩人』を名乗る奴がいたんです。詳しいことは、カナ子に話を聞いてもらえば分かります。とにかくその時から、わたしにはカナ子の妄想が、本当にただの妄想なのかどうか分からないんです。カナ子の妄想を切って捨てられない。何が真実でどこまでが妄想なのか、もうわたしには分からないんです。カナ子の世界はわたしとあの子だけのものだったのに。カナ子のことも、あの子の世界も、全部分かってると思ってたのに。誰よりもあの子を分かってるのはわたしだと思ってたのに!」
 自分でも何を言っているのかわからないまま、激情のままに言葉を紡ぐ。
「カナ子はいい子です。頭もよくて、美人で、優しくて、さり気ない思いやりができる子です。服はフリルとパンクと軍服が好きで、でもそれをちゃんと自分に合った方法で着られる子です。そうです。好きです。電波じゃなかったら、みんなわたしなんか放っておいて、カナ子の所に行ってしまうんじゃないかって思うくらい、すごくいい子です」
 朝日は顔を上げない。遠くで扉のきしむような音が聞こえたような気がしたが、サトミの言葉は止まらない。
「でも、もうカナ子は十分あなたのものじゃないですか。少なくともわたしが閉じこめてるものじゃない。私だけのものにしたくても、そんなの無理です。だいたい、ちょっと考えれば分かる話ですよね。エスパーじゃないんだから、カナ子の考えが全部分かるわけがないのに。そんなことに気付くまでに十七年もかかったわけですよ。バカな話でしょう」
「それでも、紫蘭よりは先でしたね」
 朝日がぽつりとつぶやいた。
「そこまで分かったら、そろそろ彼女を放してください。彼女は、外の世界に出ていくべき人です。あなたの世界にとらわれ続けていいような子じゃない」
「紫蘭を救うのは、わたしの仕事じゃないと思います」
 ジョウロを足元に置いて、サトミは朝日の方へと向き直った。朝日は立ち上がり、サトミより幾分高いところから、真っ直ぐに視線を受け止める。
「魔法使いに囚われたお姫様は、王子様によってしか救われないものですよ」
「逃げるんですか、本庄さん」
「あなたが彼女を救えないようなら、やっぱり彼女はあなたなんかの手には負えなかったってことでしょう。わたしなら、そんな王子様は認めませんよ」
「なるほどね」
 サトミは朝日の顔から、視線を右にずらした。
「ねえ、そんなところで隠れてないで、出てきなさいよ――カナ子」
 砂利を踏む音がする。朝日が身をこわばらせた。
 三歩進んで、カナ子はサトミ達から見える位置に立つ。
 カナ子、と朝日が彼女の名を呼んだ。カナ子は目を丸くして、朝日を見つめたあと、彼に駆け寄って抱きつく。腕を回して、彼の身体をきつく抱きしめた。
「ごめんなさい、のんちゃん、……サトミちゃん」
 消え入りそうな声で、カナ子はずいぶん久しぶりに、サトミの名を呼んだ。
「あんたが謝ることなんて、全然ないじゃない」
 魔法使いになれなかった少女は、そう答えて、目元を手で拭いながら笑った。
 勇者になり損ねた少女は、小さく首を振って、親友の手を握る。
 王子様になりたがった少年は、愛する姫君の横顔を見て安堵した。
 少女達が知る魔法使いの魔法には及ばないのかもしれなかったが、それよりもずっと大切な魔法が、朝の空気に満ちようとしていた。









 「夢ばっか見てンじゃねぇよ、バーカ」 」の読了を推奨



「ねえ山田、聞いてる?」
 春月が山田の腕を軽く叩きながら訴える。携帯電話で天気予報を見ていた山田は、液晶画面から顔を上げ、「聞いてるよ」と答えた。
「昨日のこと、絶対に忘れるって約束して!」
「どうしようかなあ。けっこう面白いセリフ沢山聞いちゃったしなあ」
「忘れるって約束しなきゃ、あんたの昨日の様子もバラすわよ!」
 山下直樹が二人の前から姿を消した翌日。彼の魔法のせいでやたらに気を滅入らせていた山田も、その山田に一目惚れさせられていた春月も、なんとか正気に戻っていた。
「まさか泣くとは思わなかったからねー。携帯で写真でも撮っとけばよかったわ」
「お前が抱きついてきたのは予想外だったなー。あれは貴重な体験だった」
 お互い、誰かに聞かれれば誤解を招くことは分かっているので、教室の隅で声をひそめ、それでも山田はからかうような、春月は皮肉っぽい口調で会話を続ける。
「でも、まあ、怪我がなくて何よりだ。病院送りなんかになったら、ぜったい父さんに怒鳴られる」
「せめて私のことを心配してるってポーズくらいは見せてよ」
「と言われても、お前は刺しても死ななそうだしなあ」
 佐藤の傷は山田が治したが、大事を取ったか、彼は今日欠席している。彼の場合、急所を外したことと、コートや学生服が厚かったことが幸いし、怪我は山田の魔法でもそれなりに癒せる程度のもので済んでいた。春月の方は、そもそも肉体の側はまったく傷ついていない。春月が感じた痛みの元凶であった、乱れた魔力の流れだけは整えたが、それも山田が手を出すまでもなく、ほとんど正常な状態に戻っていた。
「無意識だったとはいえ、大声で言いたいことを言う、って、ああいう魔物にやられた時の処置としてはほぼ完璧だったし。……ところで藤原、ひとつ聞いてもいいか?」
 別にいいよ、と春月が答えた。
「お前、魔法が怖いか?」
「は?」
 春月は一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべ、それから即答した。
「そんなわけないじゃない。なんで?」
「いや、大したことじゃないんだ。山下――昨日のバイクの人が、そんな感じのことを言ってた気がしたから」
「あのロリコンの人? ああ、薄気味悪いとか何とか、言ってた気もするけど……ダメだ、昨日のことは何一つ思い出したくないや……でもあの人、魔法使いじゃないの?」
 言ってもいいものか、と一瞬考えてから、どうせもう彼と会うこともないだろう、と思い、山田は口を開いた。
「父親は魔法使いだったらしいけど、それを知らされずに大きくなったんだそうだ。魔法の存在を知ったのが、あいつが高校二年の時、今から五年くらい前らしい」
「え、あのロリコンの人、もう二十歳過ぎてるの?」
 少し外れたところに対して、春月が驚いたような声を上げる。少し大きな声を出したところで、昼休みの教室の中では誰に聞かれる気づかいもないが、春月はとっさに口をつぐんで左右を見回した。
「ああ。家庭の事情で魔法を使わないといけなくなって、仕方なく魔法を学んだ、って感じだったな、ありゃ。だから当然、オレ達が幼稚園で学ぶようなことから、地道に勉強したんだろう。かなり珍しい例だな」
「なんで? 日本からシュリフィードに嫁いだりした人なんかは、やっぱり魔法を一から勉強するんじゃないの?」
「そういう人は、あそこまでマトモな勉強はしないよ。たとえば、魔法はよく数学と近いって言われる。数学で例えるなら、お前が知ってるのは、数学を使えばどんなことが出来るのか、ってことだけだ。天気予報をするにも、ロケットを作るにも、数学の知識が要るってことは分かってても、実際にその計算をすることは出来ないだろ?」
 春月はうなずく。
「オレは本業の数学者で、専門である分野については大抵のことは知ってる。でも、オレは幼稚園の頃から少しずつ数学を勉強して、ここまで来てるわけだ。あいつは、高校生になるまで数学という存在を知らずに育って、その後の五年間でオレに匹敵するくらいの知識を身につけた。普通の、たとえば上の人間と結婚したりした日本人なら、初等学校……えーと、日本語だから……小学校レベルのことが分かった所で止める。四則演算が出来れば、日常生活は送れるしね」
 春月が困ったような顔で視線を逸らした。「ごめん、それはやっぱりちょっと微妙かも」とつぶやく。
「ちょっと、あの人の気持ちも分かるかも。そもそも魔法って、そんなに理詰めのものなの? こう、『ホイミ!』とか言ったら回復できたり、『アイドルになーれ!』って言ったら変身できたりするものじゃないの?」
「そんな物騒なシロモノだったら、こんなに広まるかよ! 確かに気分ってのは重要だけど、その感情が魔法にどう関係してくるかってことについては、ちゃんとセオリーがあるんだからな」
「へえ……知らなかった。なんか夢がないなあ」
 春月は難しい顔で考え込む。自分の発した質問の答えを考えているのだろうか、と思いながら、山田は彼女の言葉を待った。
「私ずっと、昔話やゲームに出てくる魔法と現実の魔法って同じものだと思ってた。表面が同じでも、中身が同じとは限らないよね。確かあの人、アニメ好きそうだったし、薄気味悪い、っていうよりは、単にアニメの中と違う現実に幻滅したんじゃないの?」
「幻滅、か。それは初めて聞いた表現だな」
 そういう考えもあるのか、と山田は春月の顔を見る。
「私は面白いと思うよ、魔法。世の中、自分が知ってることばっかりじゃないのって当たり前だし。でも、あのロリコンの人に『夢ばっか見てんじゃないわよ、バーカ』って言うのは簡単だけど、気持ちは分かるような気がするわ。……まあ、私はあの人じゃないから、あの人が何を考えたかどうかなんて分からないけど、『怖い』とか『薄気味悪い』とかって言われても、怒らないであげてよ」
 ね、と春月が笑う。
 始業五分前のチャイムが鳴って、春月は次の移動教室の準備のために、慌ただしく自分の席へ戻っていった。山田はその背中を見送りながら、昨日春月にかけられた慰めの言葉の数々を思い出し、唇の端に笑みを乗せた。
 彼女なら、一緒に道に迷って地獄にたどり着いたって、笑って許してくれるような気がする。
 そんなことを考えながら、山田は机の中に手を伸ばし、音楽の教科書を探した。









 「メルカトル図法だとグリーンランドは広いねえ」



 席替えの季節がやってきた。
「よっしゃあ! 毎月恒例の席替えタイムがやって来たぜ! 準備はいいか!」
 春月たちのクラスメイトである遠藤大輔と野島遼太の二人は、二人だけで勝手に盛り上がっている。別に彼らは学級委員長でも何でもないのだが、席替えの指揮を執ってくれるというのを邪魔する理由もないので、クラス一同、彼らの企画に乗っているのが現状だ。
「さて、今月はコレを使ってみようと思う!」
 遠藤が叫び、野島がいそいそと黒板に何かを貼りだした。
「……世界地図?」
「そう、世界地図だ! この地図の上に、1から40までの数字が書いてある国がある。この中から一つの国を選んでくれ。その後、ここにある対応表で席が決まる」
 二つに折った紙を取り出し、遠藤は言った。
「遠藤ー、誰から選ぶの?」
「いつものように席順で。俺と野島は余った席をもらう。というわけで隅に座っている四人、プリーズ・スタンダップ! 一本勝負でジャンケンしてくれ!」
 窓際最前列、窓際最後列、廊下側最前列、廊下側最後列に座っていた四人が、席を立ってジャンケンをする。勝ったのは窓際最前列に座っていた生徒だった。
「ちなみに、席と世界地図にはちょっとばかり関係があるから、心して選べよ!」
「エジプトはストーブの近くだからな!」
 遠藤と野島のその言葉を聞いて、それまでただのくじ引きだと考えていた生徒達は急に相談を始める。
「お隣同士の国を選んでおけば、隣同士になったりするのかしら。アメリカとカナダとか、フランスとドイツとか……」
「ああ、それはあり得るな」
 輝美と藤城が隣同士になろうと画策している横で、山田は難しい顔をしていた。
「ストーブのそばって暑いんだよな。荷物とか焦げそうだし、適度に離れたところがいいなあ」
「でも、下手に涼しそうな国を選んで、廊下側のドア前とかになったら悲惨よ」
 春月の言葉を聞いて、山田はさらに深く考え込む。
「あいつら単純だから、廊下側と窓側は、あの地図の中で西側か東側かで分かれてたりしそうじゃないか? だから多分、日本よりも西側にある国を選べば大丈夫だよ。いやあ、しかしメルカトル図法だとグリーンランドは広いねえ、オレあそこにしようかな」
「ンなアホな。そもそもグリーンランドは国じゃないしさ」
「え!?」
 違うのか、と山田は心底衝撃を受けた様子でつぶやいた。
「じゃあどこの国なんだ?」
「デンマークだったと思うけど」
 それどこだっけ、と山田は机の中から世界史の資料を引っ張り出した。現代史のページにある地図でヨーロッパを調べ、ああ、と納得したように頷く。
「ロスフォト王国が浮いてるあたりか……」
「へえ、そういう基準になるのね」
 山田は番号がついている国を手元の資料集で調べながら、やっぱり地理選択にすれば良かったかなあ、とひとりごちた。
「地上って良くわかんねえんだよな。真下にある日本については色々習うけど」
 そうこうしているうちに春月の順番が回ってきた。取りあえず無難そうなオーストラリアを選んでおく。山田の席は廊下側から二列目なので、ほとんど残り物を取るかたちになる。
「下手な国を選んだりしたら、あのハズレ席になりそうで怖いよな」
「ああ、あの席ね……」
 今は野島遼太の席になっている、廊下から三列目最後列の席に視線をやり、山田と春月は顔を見合わせた。ストーブには近すぎず遠すぎず、最後列なので内職もしやすいのかもしれない、まあ悪くはない席ではあったが、いかんせん真上の天井が雨漏りする。
「あと、そこも嫌」
 春月が指さしたのは窓際の席の前から三番目。たまに思い出したように、天井から何かが降ってくる。それが何かと言われれば、まあ、天井のかけら、としか言いようがないだろう。運悪く地震などが起こったりすると、派手にパラパラとかけらが落ちる。
「残ってる中で、ああいう席になりそうな国は……ああ、インドネシアとか? スコールとか降るし」
「うーん、確かに雨漏りはスコールに似てるかもしれないけど」
「じゃあ黄砂が飛びそうってことで中国とか」
「うん、降ってくるのが木片じゃなくて黄砂だったら、まだ校舎が倒壊する危険を感じないだけマシかもね……ああ、所詮は中途半端に伝統のある県立高校か」
 山田は少し迷った後で、残った国のうち最も西側に書かれていたイギリスを選ぶ。
「まあ、これだけ遠ければ隣の席になったりすることもないわよね」
「下手にお前と近いと、また何か言う奴がいそうだしな。しかも何だか知らないけどお前と近い席になることが多いし」
「愛のなせる業とか言わないで欲しいよね。絶対アレは遠藤くんの策略よ。自分が彼女いるからって、その幸せを他人に押しつけないでもらいたいわ」
 などと話しているうちに世界地図が埋まり、遠藤と野島は欠席者に適当な国を割り振ると、対応表の中身を黒板に写しはじめた。
「とりあえず、エジプトとかメキシコとかその他砂漠っぽかったり赤道直下だったりするのがストーブのそばで」
 野島が国名を書き並べるごとに、遠藤が解説を入れる。
「で、イギリスと旧イギリス領はこの辺に固めてみましたぁ」
 何だか、嫌な予感がした。
「オーストラリアって旧イギリス領だよね」
「国旗の左上にイギリス国旗入ってるぞ。ほら」
 山田がまだ持っていた世界史の資料集を見せてくる。
 野島が教室の左前方にすらすらと国名を書き入れていった。
「お、また山田とはーちゃんが隣同士だね!」
 地図と黒板を見比べ、おそろしく楽しそうな笑顔で遠藤が言った。野島も「いやあ、偶然だねえ」とにやにや笑いを浮かべている。
 山田と春月は顔を見合わせ、ため息をついた。
 卒業まであと一年あまり。クラス替えのない国際科クラスでは、当分安息の日が来ることはなさそうだった。









 「みんな避難しちゃったのかな?」



「そこまでだ」
 安っぽい刑事ドラマのようなその言葉を聞いて、ドロシーは反射的に振り返る。その先にいるのはてっきり王宮の警備兵かと思っていたのに、予想に反して、立っていたのは一人の少年だった。焦げ茶色の髪に日系らしき彫りの浅い顔。丈の長い黒いマントを羽織り、杖を手にしている。
「武器を捨てて、大人しく投降しな」
 杖がぐにゃりと変形し、刃となってドロシーの喉元に突きつけられる。
「な……何なのよ、あんた。お子さまは家に帰って宿題でもしてなさい!」
「そうも行かねえな。やっぱり、城の中にオレ以外の悪人がいることは望ましくない。で、お前は誰だ? 誰の命でこんなことをしている?」
 仕掛けの途中だった魔法仕掛けの爆弾を見ながら、少年は淡々と尋ねる。
「誰の命、ですって? あたしは誰からも命令されたわけじゃないわ、我が暗黒秘密結社の未来のために、まずはこの邪魔な東塔を吹き飛ばそうと思っているだけよ!」
 少年の表情が、げんなりしたものに変わった。
「その蛍光ピンクのしつこい服は、まさか暗黒秘密結社の制服かなんかなのか?」
「しつこいとは何よ、スタイリッシュと言いなさい! それに制服なんかじゃないわよ、こんなゴージャスな服を着こなせる人間はあたしくらいなんだからね!」
 ドロシーより十歳近く年下に見えるその少年は、疲れ果てたようなため息をついた。
「これだから中途半端な悪党は嫌なんだ。こんなのと同類扱いされるオレの身にもなってみろよ、くそ。貧弱な悪役なんか淘汰されるべきだ。少なくとも、城内では存在を認められるべきじゃない」
「言ってくれるじゃない、ボウヤ。あたしが貧弱? ふん、あとで吠え面かいても知らないわよ。今は地盤を固めるとき。やがて我が総統が、この国どころか地上までもを制圧する日が来るのよ!」
 少年が杖をドロシーの喉に押しつけた。わずかに痛みが走る。
「そうかい。悪いがオレは保守派でね、今の王制や地上との断絶関係を乱すような存在はちょっと許しておけないんだ。そりゃあ偉い人だって、自分の敵にもなりうる悪人よりは、少なくとも自分の存在を根本的には覆さない悪人を好むよな」
「何を言ってるのかよく分からないけど、あたしはこんな所では捕まらないわよ」
 ドロシーはひだと無駄な飾りの多いワンピースの中から手榴弾を取りだした。同時に空いた手で突きつけられている杖を握る。女としてはあまり自慢にならないと思っている怪力をフルに生かし、杖を少年の方へと突き出した。不意をつかれてバランスを崩した少年の顔に向けて手榴弾を叩きつける。少年は慌てて頭を引っ込め、手榴弾は廊下に落ちて小規模な爆発を巻き起こした。
「バカか。そんなことをすれば、警報が鳴ってすぐに警備兵が――」
「あら、来ないわねえ。もしかして、さっきあたしが出したニセの警報で、みんな避難しちゃったのかな? お姉さんをナメると痛い目に遭うわよ、ボウヤ!」
 高笑いを上げながら、ドロシーは手近な扉へと走る。
「世界から納豆を駆逐する日まで、我が暗黒秘密結社の活動は終わらないわ! 納豆なんて人間の食べ物じゃない!」
「うるせえ、お前の嗜好なんか知るかー!」
「まさか、あなたも組織の陰謀によって欺かれている一人なのかしら!? 納豆は身体にいいとか、一日一パック食べるべきだとか、あんな報道はすべて敵の策略よ! あんな害毒に騙されちゃ駄目!」
「お前らの方が百万倍くらい害毒だろ!」
 そのままドロシーは扉を開け、裏口から城の敷地を脱する。あの少年がいったい何者だったのか、ドロシーが知ることはついになかった。









 「知らない知らない知らない知らない」



「……何やってるの?」
「見てわからないか。占い師だ」
 山田の言葉に、クロンは楽しそうに答えた。地面に座り込み、紙製の看板を立てて、広げた布の上にタロットカードを撒いている。二人がいる路地からは、一軒の焼肉屋が見える。何の変哲もない雑居ビルだが、その二階から上には、日本に住む魔法国家人たちのための相談所が入っていた。これは民営の、しかもどちらかというと裏世界に近いもので、胡散臭いことこの上ない。しかし取りあえず、クロンはそこに縋ることを決めたようだった。そこを拠点に動いている以上、そのビルの近くに仕事を探すことは、決して間違ってはいない、と思う。
「そんなの、客が来るとは思えないんだけど。それともあんた、占いとか得意なの?」
「明日の天気なら百発百中で占えるぞ」
「日本人は天気なんか占わねえよ。科学に絶対の信頼を置いてるんだから」
「まあ、気持ちは分かるがな。おい小僧、せっかくだから占ってやろうか。貴様の住むあたりの、今後十二時間の天気」
「いらねえよ。つうか天気予報なんて、何の役に立つんだよ」
「さっき小学生が一人、『明日の遠足は晴れますか?』と聞いて来たぞ。娘と同じくらいの歳でな、思わず長話をしてしまった」
 そう言って、クロンは笑顔を見せた。いつものような、皮肉と自嘲のこめられた笑みではない。
 実際に天気予報が当たるのならば、日本人を相手にするのはともかく、魔法国家の人間を相手にすれば十分に商売として成り立つだろう。日本でまとも食べていくためには何か職を探す必要もあるのだろうが、彼が未だにシュリフィードに戻ることを考えているのなら、下手にきちんとした職につくのは得策ではない。そもそも彼の歳では、雇ってくれるところも少ないだろう、と山田は考える。若白髪のせいで、彼は実際の年齢よりも老けて見えるので、そんな印象を持つのだろうが。
「しかしまあ、堂々と事務所を構えたものだな。在日邦人向けの相談所というと、シュリフィードの公立施設になら行ったことがあるのだが、あそこはもっと分かりにくい場所にあったぞ。……ああ、そういえば、君のお父上もあそこで働いていたな」
 しゃがみこみ、クロンの話を聞いていた山田の肩が、小さく震えた。視線は裏向けられたタロットカードに落ちている。
「今にして思えば、貴様の名前を最初に聞いたのはあの場所だ。山田という名前の悪の魔法使いが何人もいるという話は聞いたことがないから、まず間違いないだろう」
 山田が小さく息をついた。やけに喉が渇き、唾を飲み込む。
「案外、あの時『こいつの息子の顔が見てみたい』と女神様に願ったのを、女神様は覚えていたのかもしれん。少しは親のことも大事にするんだな、小僧。親孝行、したい時には親はなし、と言うだろう。今の親不孝の分まで、いつか恩を返すんだぞ」
「親不孝……」
「ああ。貴様の家庭の事情は知らんが、やはり父親は息子が可愛いんだな。そうでもなければ、あの針のむしろには座れんだろう。一般人にはそう名を知られているわけではないかもしれんが、貴様の素性はその筋では有名だ。その父親が、何のしがらみもなく公務員でいられると思うか?」
「それは、どういう――」
「わからないのか? 魔法の勉強も大事だが、まずは国語を勉強した方がいいぞ。どうした小僧、何か言い返しては来ないのか?」
 クロンは、小さな子供にするように山田の頭を撫でる。馬鹿にするようなその仕草に腹が立ち、山田はその手を払いのけた。
「知らない知らない知らない知らない! あんたが何を見たかなんて興味も関心もない! 言いたいことがあるならハッキリ言え、くそ……」
「何だかんだと言っても、やはりまだ子供だな。貴様の師匠とは比べるべくもない。あの男は恐ろしい奴だったな。奴が死んだというのもどうせ嘘だろう? 自分については名前すら他人に掴ませなかったあの化け鴉が、お前の名前や素性を平気でバラまいて回ったのも、以前奴を痛い目に遭わせた貴様の父親への、ちょっとした復讐だろうかね。まあ、そんなことに興味はないが」
 山田は軽く唇を噛み、顔を伏せる。
「しかし、貴様のそんな顔が見られるとは思わなかったな。だがそろそろ、貴様にお別れを言う時間だ」
「……お別れ?」
「ああ。もう貴様には頼らんよ。昔の知人とようやく連絡がついてな、これからはそちらのつてで動くつもりだ。……ああ、私はこう見えても昔はやんちゃ坊主でな、軍部の施設で内乱を扇動したり逃亡を図ったりと、それなりに充実した学生生活を送っていたものだ。今ではすっかり腕も鈍ったが、当時の仲間にはまだ元気なのもいてね」
 クロンはタロットカードを一枚めくった。「運命の輪」の逆位置だ。山田はその意味を知らないが、あまり良い意味であるようには思えなかった。
「本当はあまり頼りたくない仲間だったんだが、貴様にとってもっとも不愉快であろう結末を探したら、ここに行き着いてね。ところで小僧、今はどんな気分だ?」
 てっきりあざ笑うのかと思ったが、クロンは意外にも柔らかな口調で問いかける。
「あまり気張るなよ、小僧。私が思うに、貴様は悪事に向いていない。魔法使いは貴様一人ではないんだ、嫌なら辞めろ。もしも違ったら申し訳ないが、誰かのために戦う、なんて傲慢な考えは捨てることだ。他人はともかく自分が傷つけられることには無頓着そうだから、一応警告しておくぞ。誰かが自分のために傷つくことを、喜ぶ奴なんていないんだからな」
「……あんたにオレの何が分かるんだ」
「さあね、これはただの自己満足、貴様を昔の私に重ねて説教してみただけさ。誰かに聞いてみたいものだな、本当によく似ていると思うんだ。なに、少しでも多く貴様の気に障ることを言ってやろうと思ったんだが、腹を立ててくれたのなら本望だ。さて小僧、それでは今度こそさよならだ。最後に二つだけ言っておこう」
 クロンはタロットカードをかき集めると、布をたたんで立ち上がった。
「一つ。天気予報と天候の操作がしたければ、いつでも呼んでくれ。金次第で請け負おう。冬の雨を雪に変えるくらいなら、七千円もあればいいだろう」
 厚紙の看板を拾い上げ、二つに折り曲げた。
「そしてもう一つ。こんなことはあまり言いたくないのだが、貴様には感謝している」
 顔を上げた山田の方を振り向きもせずに、クロンは荷物を抱え、大通りの方へと歩いていった。
「機会があればまた会おう、魔法使い」
 残された山田は、そんな彼を追うこともせずに、長いことその場に座り込んでいた。









 ―欠番―





 「百回謝ったって、許さない」 本編第十二話の読了を推奨



 大木の根本に背中を預け、山田はぼんやりと空を見上げた。
 まだ新緑の季節は少し遠く、太陽の光は枝々を透かして落ちてくる。
 警備官に撃たれた脇腹の傷は、止血こそしたが、それ以上の処置をする気になれずに放置してある。どれほどの傷なのか探る気も起きなかった。
 贋者の自分を逃がし、エンジンの破壊には失敗し、あげくの果てに藤原春月にいきさつを知られた。今日はついてない、と思いながら目を閉じる。
 これからどうしたものか。最終的にはアメリカにでも逃げようと思っているが、その前にせめて、自分の後継者くらいは見つけておかなければならないのだろう。面倒くせえ、と口中でつぶやいた。
 痛みはごまかしているだけで、引いたわけではない。放っておけばおくほど悪化するのだろうなと思いながら、まどろみに身を任せる。竜の姿で地上に降り立ち、人気のないこの山の中に潜り込んだはいいが、もう山を下りることすら億劫だ。
 しばらくそうしていた時、耳に足音が届く。慌てて身を起こし木陰に隠れて息を殺すと、やがて人影が見えてきた。がっしりとした長身の男だ。
 男がこちらを向いた。山田は思わず息を呑む。逃げなければ、と思うのに、身体がぴくりとも動かなかった。魔法を使われたわけではない。何を言われたわけでもない。ただその男がそこにいるという事実だけで、山田の腰を砕くには十分だった。二人の距離が詰まる。喉が渇いて、山田はつばを飲み込んだ。
「出てこい、太郎」
「父さん……」
 胸ぐらを掴まれ、木のかげから獣道へと引きずり出された。そのまま、勢いよく横っ面を殴られる。踏ん張りがきかず、勢いのままに地面へ突っ伏した。
「馬鹿野郎!」
 身体は痛みと疲労で悲鳴を上げていたが、思考はやけに冷静だった。確かに馬鹿だ、そこには全面的に賛同する。未遂とはいえ、捕らえられれば言い訳もできまい。仮にも父親は公務員だ、このまま警備官に突き出される可能性は高い。そんなことを考えているうちに、喉元に杖の先が突きつけられた。
「……すみません」
「謝ってすむ問題か! たとえ百回謝ったところで、許しはしないぞ!」
 息子に抵抗の意思がないことに気付いたか、杖が離れた。代わりに山田の前にしゃがみこみ、「行くぞ」と言う。言われるままに、その背におぶわれた。重いだろう、と思ったが、父は軽々と息子の身体を背負い、そばに止めてあったワゴン車に乗せた。車内を汚さないためか、座席にはビニールシートが敷いてある。
「どうしてこんなことをした?」
 倒した座席に山田を寝かせ、父親が厳しく問いかける。
「色々あったんです」
 マントを脱がされ、シャツの前が開けられる。「乱暴な治療だな」と父がつぶやいた。これなら比奈子の治療の方がましだ、と呆れたような声がする。
「逃げたかったのか?」
「ごめんなさい」
 そんなに逃げたがっているように見えただろうか、と思いながら答える。最後まで逃げなかった人間の前で、それを認めたくはなかった。しかし、春月と言葉を交わした時とは違い、否定をする気は起きなかった。
「俺が嫌いか?」
「そんなわけないじゃないですか」
「まさか、俺に『申し訳ない』なんて、人間様みたいな感情を抱いていたなんて言わないだろうな」
「残念ながら、虫けらにも人情のカケラくらいは残っていたみたいです」
 父の表情は相変わらず厳しかった。
「逃げ切れると思っていたか?」
「さあ、考えていなかったんでわかりません。……そんなことより」
 血が抜けたせいなのか、身体がひどく重かった。腕を上げる気にもなれない。
「どうして、助けてくれたんですか」
「職務熱心なお役人様が、貴様の息子はどこだと丁重な連絡をくださってね。その後で怪しげな人物が地上に降ってきたとなれば、おのずと事の次第は見当がつくだろう」
「そうじゃなくて!」
 叫んでしまってから、脇腹に引きつるような痛みを感じて顔を歪めた。
「父親が息子を助けに来るのに、いちいち理由を要求するのか、馬鹿息子」
 へ、と変な声を上げてしまってから、山田は父親の顔を見てぽかんと口を開ける。
「俺はお前を捕まえに来たわけじゃあない、どちらかと言えば逃がしに来たんだ。だからといって誤解はするな。正直気は進まないんだが、こんなところでお前に死なれたりしては後味も悪いし、何より母さんと比奈子が悲しむからな」
 何だかわけが分からなくなって、山田は唇を噛んだ。唐突に涙があふれる。何をやっているんだ、と思っても、出所の知れない涙は止まらない。
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
 百回謝って許してもらえないのなら、二百回謝ればいい。子供のように泣きじゃくりながら、山田はひたすらに謝罪の言葉を繰り返した。
 もしかしたら目を背けていただけで、本当はここにいても良かったのではないかと、そんな風に思いたい衝動にかられた。流れる血がなんだ。継いでしまった仕事がなんだ。自分が彼の息子であることや、春月の友人であることさえも、そんなものとは何の関係もないじゃないか。
 すべてを捨てるか、すべてを背負うか、そんな二択はナンセンスだ。
「黙れ、もういい」
 父の手が、軽く息子の頬を叩いた。相変わらず表情は硬いが、声は決して冷たくはない。泣き笑いの表情を浮かべ、山田は口を閉じた。
「お前の面倒を見るにも限度がある。治療を受けたら、あとは自力で逃げるんだぞ」
 小さくうなずいた。
「盆と正月には帰ってこい」
 そこにうなずく自信はなかった。
「……父さん。ひとつだけ、聞いてもいいですか」
 父親が黙って眉を上げた。
「もしオレが、実の親のところに行くって言ったら、どう思いますか?」
「お前を生んだ親が、どんな人間なのかは知らないが――」
 本当に彼は息子の実父を知らないのか、それも聞こうと思っていたが、やめた。
「お前がそうしたいというなら、そうすればいい。お前がこれからどこで暮らそうが、我が家で過ごした時間が消えるわけじゃあないんだからな」
 山田は笑いながら、はい、と小さく答える。
 どんな仮面をかぶったところで、素顔の自分が消えるわけではないんだ。
 まだ混乱の抜けきらない思考の中で、山田は耐え難くなってきた眠気に身を任せ、静かに目を閉じた。









 「物は相談なんだけど」 本編第十二話の読了を推奨



 母親が自分を呼ぶ声がしたので、葉太は階段を駆け下り、玄関へ出る。上がりかまちのところで、一人の少女が何かを横抱きにして立っていた。少女が「ごきげんよう」と挨拶してきたので、葉太も「こんにちは」と答える。
「葉太、お隣の子が遊びに来たの。お姉ちゃんがまだ帰ってこないみたいだから、よかったら葉太の部屋に通してあげて。それじゃあ花子ちゃん、ゆっくりしていってね」
 今日はクリスマスイブ。葉太の小学校も姉が通う高校も終業式だ。この時間だから、姉もそろそろ帰ってくるだろう。
「初めまして。あたくしはマリアンヌ・ローズ・ヴェロニカ・花子、花子と呼んでいただけると嬉しいですわ」
「じゃあ、花子お姉さん。こんにちは、僕は藤原葉太です」
 葉太は花子が抱えているものに目をやった。軽く触れると、「やあ藤原葉太」と声がする。一瞬奇妙な感覚があって、葉太は頭を押さえて何度かまばたきをした。頭痛のようなものが去ったあとで見れば、花子が抱えているのは、どう見ても隣家のフィガロ少年だ。
「フィガロお兄さん! 何やってるの? 取りあえず、僕の部屋は上だから、上がるならどうぞ」
 あら、と花子がつぶやいてから、失礼いたしますわ、と靴を脱いだ。革靴をきちんと揃えて上がり、葉太の後に続いて部屋に入る。葉太にすすめられるままに、花子はベッドに腰掛け、フィガロを床の上に置いた。
「花子お姉さんは、フィガロお兄さんの妹なの?」
「いいえ、妻ですわ」
「え、奥さん? そうなんだ、フィガロお兄さんが羨ましいなあ。花子お姉さん、モデルさんみたいにキレイだし」
 あら嬉しい、と花子が答えた。柔らかい髪が、肩から胸の前へとこぼれ落ちてくる。
「ところで藤原葉太、お前には俺様のことはどう見えているんだ?」
 フィガロの問いに、葉太は見たままを答える。
「どう、って……フィガロお兄さんでしょ。金髪で、緑のシャツに赤茶のコートの」
 フィガロと花子は一瞬顔を見合わせる。ややあって、ああ、とフィガロは頷いた。
「もしかしてお前、未だに山田太郎の魔法を無効化し続けているのか」
「え、そうなの? 山田さん、たまにしか来ないからわかんないや」
「ああ。魔法が効いていれば、俺様の姿はクリスマスツリーに見えているはずだからな」
 ふうん、と葉太は首をかしげた。フィガロの姿は、どう見てもただの人間だ。
「山田さんと言えば……ねえフィガロお兄さん、どうして山田さんの目はあんな色なのか知ってる?」
「あんな色、というと?」
 葉太は花子の瞳へと視線をやった。薄い茶色、というよりは金色と呼びたい、不思議な色の瞳。日本人である葉太には、あまりなじみのない色だ。
「右と左で色が違うでしょ? 片方だけ、花子お姉さんみたいな金色なんだ」
「金の瞳は竜族に多いものだな。……と、ちょっと待て、藤原葉太。まさかお前、あの魔法使いが自分にかけている幻覚魔法まで無効化しているのか?」
「よく意味がわかんないけど、前に泊まりに来たときに山田さんを起こそうと思って触ったら、火花みたいなのが散って……それで、そしたら山田さんの顔がちょっと変わったんだ。そうか、ほっぺたにすごく痛そうな怪我があったのに、誰も何も言わないから不思議だったんだけど、あれきっと山田さんが魔法で隠してたんだね!」
 間違いないな、とフィガロはつぶやく。
「しかし、金目とのオッドアイとはね……と言うことは、あいつは半竜か。マリアンヌ、お前は何か知っているか?」
「あたくしに聞かないでくださいまし。そう言われてみれば竜の気配がするような気もしますけれど、だから何だとおっしゃいますの? ガザでは、竜と人の混血なんて特に珍しくもありませんわよ」
 それもそうだ、とフィガロは肩をすくめる。もっとも、葉太からは見えないのだがクリスマスツリーになっているらしいので、動きが鈍いのはそのせいだろう。
「……なあ、藤原葉太。物は相談なんだが、お前があいつの魔法を今でも無効化していることを、あの魔法使いの前では黙っていてくれないか?」
「別にいいけど、なんで?」
「ちょっと思うところがあってな」
「うん。じゃあ、黙ってる代わりに、フィガロお兄さんのプロポーズの言葉を教えてください!」
 あっけらかんとした顔で妙な要求を突きつけられ、フィガロは反応に困って花子の方を向いた。葉太は焦るフィガロの顔を見ていたずらっぽく笑う。これだから子供は嫌いだ、とフィガロが当惑気味につぶやいた。
「残念ながら、プロポーズの言葉と言えるような会話を交わした記憶がないんだ」
「え、じゃあどうして結婚したの?」
「マリアンヌは、あいつが生まれた時から俺様の許嫁でな」
「まあ、そういうことですわ。期待しているようなラブロマンスはありませんわよ」
 花子にまでそう言われ、葉太はむすっとした顔でフィガロを睨む。
「じゃあ、今から改めてプロポーズしてみてよ」
「…………」
 フィガロが言葉に詰まる。花子が冷ややかな視線をフィガロに向けた。
「ま……マリアンヌ、その……」
「止めてくださいな、気持ち悪い」
「え……」
 フィガロが固まった。葉太もあまりに気まずい雰囲気に、ちょっとまずいことを言ってしまったか、と反省する。
 その時、玄関の扉が開く音と、ただいま、という姉の声が聞こえた。
「おかえり、お姉ちゃん!」
 葉太はやけっぱちじみた声で叫ぶ。
「とにかく、絶対他人に話すんじゃないぞ、いいな」
「何だかよくわかんないけど、そうするよ」
 パタパタと階段を駆け上がる音がして、勢いよく扉が開き、春月が顔をのぞかせた。
「あ、お姉ちゃん、おかえりー」
「お邪魔しております」
 葉太と花子の声を聞いて、春月は困ったようにこめかみを押さえ、ひとつ深呼吸した。

(本編第八話に続く)









 「狭いっ。もうちょっと詰めてよ」 本編第九話の読了を推奨



「狭いっ。もう少し詰めてよ」
「狭いのはお前の荷物のせいだろ!? だいたい、久しぶりに会った男を捕まえて、荷物持ちにするとはどういう了見だ」
「それとこれとは話が別でしょ!」
 柚木崎ゆきざき海は隣に座る藤原春月がこちらを見ていることに気付きながら、不機嫌そうな表情で唇をとがらせる。春月の横には、たっぷり一人分の座席を占領する買い物袋の山があった。広くはないカラオケボックスの室内で、積み上げられた買い物袋はいっそ壮観だ。
「だいたい、カイが別に行きたいところなんかないって言うからいけないんだよ」
「うるさいな、まさかそのままバーゲンセールにつき合わされるなんて思わないだろ、普通! 何かこう、もっと他にあるだろ、例えば……」
「別にファミレスとか映画とかでも良かったんだけどさあ、バーゲン今日までじゃない。いきなり会おうって言ってきたのはそっちなんだから、それくらい我慢してよ」
 こうして彼女と会うのは二年半ぶりだ。中学校を卒業したあとの春休み、遊園地に行ったのが最後の思い出になる。毎年夏と冬には学校の寮から帰ってきていたとはいえ、何だかんだで会わないまま時が過ぎてしまった。
「だいたいさあ、自分から告ったあげくにフッた女を呼び出すって、ずいぶん図太い神経してんじゃない? まったく、ホントに変わってないんだから」
 何にする? と、ドリンクのメニューを差し出しながら、春月は拗ねたような表情を浮かべる。中学生の時はけばけばしい印象を与えていた容姿も、髪を黒に戻したせいかそれとも化粧が薄くなったせいか、ずいぶんと落ち着いて見える。彼女も受験か、と海は先刻の会話を思い出していた。
「っつーかさ、それで今いろいろ思い出しちゃったわよ。いきなり東北の高校行くって言われた時もびっくりしたけど、向こう行って一ヶ月で別れようって手紙が来た時にはマジで驚いたんだからね。早すぎるっつうの」
「いや、ほら、仕方ねえじゃん。あの頃はまだ携帯電話持ってなかったし、疎遠になるのも致し方ないかなー、というか」
「カイのことだから、どうせ秋田美人にでも惚れたんでしょ。まあ過ぎた話だしどうでもいいけど。友達レベルで良かったらいつまでもつき合ってあげるよ、どうせそんな話でもしに来たんでしょ?」
 曲集をめくりながら、春月は楽しそうに笑う。
「なにせ、きりん組のマサコ先生を好きになった時から全部知ってるからねえ。カイの言いそうなことなんて予想がつくよ。今にして思えば、なんであんたを彼氏に出来るなんて思ったんだろう。やっぱカイは、私の中ではどこまでも、『砂場の帝王』カイちゃんなんだよなー。とても恋愛対象にはならないわ」
 確かに海と春月は幼稚園の時からの幼なじみだけれど、そうやって一蹴されてしまうと少し切ない気分になる。
「あれ、でも私なんか誘ってきたってことは、今は彼女はいないの?」
「今は、って何だよ。まるで俺が女を取っ替え引っ替えしてるみたいじゃないか。高校入ってからは一度も彼女なんか出来てませんよ」
「そいつは意外だ。私なんかとつき合って、女に懲りた?」
 逆だ、と思いながらマイクとリモコンを引ったくり、適当に目に付いた曲を入れる。お互いを知り尽くした幼なじみよりも快適に過ごせる相手には、そうかんたんに巡り会えるわけもない。
「そういうお前はどうなんだよ。彼氏がいたなら、誘ったりして悪かったな」
「お気遣いありがと。あいにくと今は独り身でーす。惚れた奴にそれとなーく聞いてみたら、思いっきり眼中にないって言われちゃったし」
 いやあもうバカでしょ私、と春月が笑う。海が歌い始めると、春月は置いてあったタンバリンを手に拍子を取る。歌い終えると、次の歌を物色していた春月が曲集から顔を上げた。
「相変わらず音痴だねえカイちゃん」
「うっせえ。これでも昔よりはマシになったと思うんだけどな。……で? お前のタイプってどんな男なんだ? やっぱりマツケンやら藤丼隆やらに似た奴なのか?」
「なんか激しく誤解されてるような気がするんだけど。マツケンはともかく、藤丼隆は好みじゃないよ……ってそうじゃなくて、顔はそんなに問題じゃないでしょ。カイのことだって、顔が好みだから好きだったわけじゃないしー」
 海の背中を何度か叩き、春月は声を上げて笑った。
「どう言ったらいいのかね……カイとは全然タイプ違うな。カッコつけたがりって言うのかな、無理して背伸びしてコケてる感じ。周りがすごい心配してるのに、本人だけはそれに全然気付いてないって気もするなあ」
「学校の友達?」
「うん、部活が一緒。言ったっけ? 軽音楽部入っててさあ、私がドラムでそいつがベース。同じ国際科だからクラスも一緒でね、顔合わせないわけにもいかないし」
 彼女が入れたのは洋楽だった。その曲を聴いたことはあったが、歌詞をまともに見るのは初めてだ。お前と別れたところで、私はへいちゃら、強く生きてる。そんな歌詞をテンポよく歌い上げながら、春月は海の前にタンバリンを突き出した。受け取って、難しいその調子に合わせてタンバリンを鳴らす。彼女は早口に進むサビを適当にごまかしながら歌いきり、海に拍手を要求した。
「仕方ないから、せめていいお友達でいようと思ってるわけ。別に諦めたわけじゃないけどね。そんなわけだから、今更ヨリを戻そうなんて虫のいいこと考えないでよ?」
「何を今更。うぬぼれんなよ」
「いやーん、乙女の可愛い冗談なんだから、そこはツッコミ入れてくれなきゃ!」
 何が「いやーん」だ、と思いながらも、海は複雑な思いで彼女の顔を見た。ほとんど密着する位置に座っているというのに、彼女はそれをちっとも意に介する様子がない。物理的にはすぐ側にいる彼女が、やけに遠い存在に思えた。もちろん別れようと言ったのは自分の方なのだし、あの時はそれが最上の選択だと思ったのだ。今更、その決心が揺らいだとも言えない。
 我ながらみっともない、と思う。彼女が別の男に夢中になっているからといって、どうして嫉妬なんかしなければならないんだろう。
「あー……でも、よく考えたらそいつ、ちょっとカイに似てるトコもあるかも。誰かが側にいてやらないと暴走しそうっていうか、何するか分からないっていうか、すごいアホなことを真顔でやりそうっていうか。あんたには自覚がある分タチが悪いかな」
「お前の俺に対するイメージはどんなもんなんだ……」
「小五にもなってでっかい木に登って降りられなくなってハシゴ車呼ばれたり、乾布摩擦に挑戦して三日でカゼひいたり、宅配便のトラックに描いてあるマスコットに触ると幸せになれるっていうんでトラックに突っ込んでいって事故ったり……」
 放っておいたらまだまだ続きそうだ。海のあからさまに不機嫌な様子に気付いたのか、春月は六つばかり海の過去の恥を喋ったところで言葉を切った。
「まあ、なんと言うか、あいつは一人で考え込んだ末に変な結論を出しちゃうっていうか、一言誰かに相談しろっていうか。アホすぎて、私がそばについてやらないと駄目なんじゃないかって思えてくるのよね」
 そう語る彼女の表情は明るく、声は弾んでいて、海は心の中だけでため息をついた。
「ま、頑張れよ」
 顔も名前も知らないその男に勝手にライバル意識を燃やしながら、海は表面だけは気のない様子でそう答えた。









 「ズルしてもいい?」 本編第十二話の読了を推奨



 マリアンヌ姫は、まるで磁器人形のような、透き通った肌とやわらかい髪の持ち主だった。金の瞳はくるくるとよく動き、桜色の唇は上品な笑みを浮かべる。その美しさは竜になった時でも変わらない。よく手入れされた艶のあるウロコ、しなやかに伸びる尾、控えめな牙、どれを取っても文句のつけようがないほど美しい。
 両親と三人の兄に溺愛されて育った姫は、十二の歳に、かねてからの婚約者であったシュリフィード王国の王子の元へと嫁いでいった。人間の元へ嫁ぐなんて酷い風習だ、と憤る者もいたが、大半の者は二人の結婚を素直に祝福した。
 二人の結婚の裏にはもちろん複雑な政略が渦巻いていて、残念ながらあまり顔の造作が芳しくない王子も、寂しがりやでわがままな姫も、そのことに気付いているようだった。
 だからこそ二人とも表立って不平不満を言うことこそないが、二人の間に溝が出来ていることは、近くにいる人間にははっきりと感じられる。
 こうして、姫が他の男のもとに泊まっていてさえ、王子も従者たちも何も言わないのだから、シュリフィード王家の腐敗ぶりがよく分かる。
 ユトーは自分の膝を枕に眠っている姫の髪を指で梳いた。可愛らしい声を上げて、姫が目を開ける。
「あ……ごめんなさい、レオナルド。あたくし、眠ってしまっていましたのね」
「お気になさらず、姫」
 二人がいるのは、何と言うことのない週貸しのマンションだ。王宮のような豪奢な装飾もなければ、柔らかい寝床もないのだが、姫はこの場所が好きだと言う。
 ユトーが初めて姫と出会ったのは、彼女がこの国へ嫁ぐ直前のことだった。姫より三歳年上のユトーは、その時まだ十五歳。竜族が治めるガザ王国で、片親が人間であったために肩身の狭い思いをすることが多かったユトーだが、たまたま縁があり、彼女と話をする機会を得たのだった。考えてみれば、ガザ王家もシュリフィード王家も、伝統的に続く婚姻のために半人半竜の血が流れる家系だ。彼の師が彼を王城に連れてきたのも、そういったことを意識したからだったのかもしれない。
 姫の家庭教師であった師の雑用係として王城に上がり、姫と会話を交わすうちに、お互いがずいぶんと気の合う相手であることに気付いた。もちろん庶民であるユトーと姫では身分の差がありすぎるのだから、そう簡単に会うことができるわけではない。姫がシュリフィードに嫁いだ後、ユトーはガザからシュリフィードまで彼女を追ったが、まさかこうして会えるようになるとは思いもしなかった。
「……姫。私めは、もっと姫のお側にいとうございます」
「あたくしも同感ですわ、レオナルド」
 いつものように答えてから、姫はふと何かに気付いたように目をしばたき、身を起こす。ユトーのやけに真剣な目が、姫の視線を釘付けにした。
「姫、何とぞ私めの暴挙をお許しくださいませ」
 ユトーはソファを降り、姫の前にひざまずいた。
「姫のお側にいるために――狡いことを、してもよろしいでしょうか」
 姫はわずかに目を細め、「顔をお上げなさい」と言ってユトーの前にかがみ込んだ。
「あたくしを追って城に来て、与作の目を盗んでこんなところまで連れてきて、今度は何をしてくださるおつもり?」
 声はあくまで柔らかく、育ちの良さを感じさせる。ユトーは顔を上げることができないまま、自分の計画を姫に洗いざらい話した。
 香料の甘いにおいが鼻をつく。姫のたおやかな腕が、ユトーの身体を抱きしめた。
「前からずっと思っていましたわ――レオナルド、おまえは本当にお馬鹿さん」
 姫の長い髪が、ユトーの頬をくすぐる。喉のあたりに、あたたかい液体が滴った。
「どうか涙をお拭きください、姫」
「ええ、後でね……ねえレオナルド、決して無理はしないと約束して下さいまし。ことが露見したらすぐに逃げて、あたくし如きのために未来を捨てないと、そう約束して下さらないのなら、あたくしはおまえに手を貸すわけには行きませんわ」
 ユトーの肩に顔を埋めたまま、姫は絞り出すようにそう言った。腕の中の細い身体が今にも崩れ落ちてしまいそうで、ユトーはそっと彼女の背に手を回す。姫がわずかに顔を上げて、ユトーの目を見つめた。距離が近すぎて心臓に悪い。
「でも、嬉しい」
 彼女のその言葉を聞けただけで、彼女のそのはにかんだ笑顔を見ることができただけで、もう何を捧げてもいいと、そうユトーは思った。もし姫が望むのならば、今も未来も来世までも、全てを捨てて彼女の前に馳せ参じようと思った。
 ユトーの計画が上手く行ったなら、それは姫とのこの関係を一度突き崩し、新たな関係を築き直すことを意味する。それが彼女にとって幸せなのかどうか、ユトーには自信がなかった。
 ユトーは決して彼女の思い人にはなれない。彼が側にいて、彼女に恋い焦がれていることは、彼女にとっては決して歓迎すべきことではないのかもしれない。だから決して思いのたけを口には出さない。愛しているなら、声にしてはいけない。
 次期王妃にはあまりにも不釣り合いな質素な部屋の中で、王宮のものとは比べるのもおこがましい艶のないフローリングの上で、二人は長いこと、じっとお互いの顔を見つめていた。
 今はただ、それだけでよかった。









 「ん?」



「ねえ山田、お正月ってヒマ?」
 春月から電話がかかってきたのは、クリスマスの翌日のことだった。
「もしヒマなら、一緒に初詣に行ってくれないかなあ、なんて……」
「別にいいよ。特に予定もないし」
 答えると、春月は電話の向こうで「じゃあ決まり!」と華やいだ声を上げた。そういえば、去年も一昨年も彼女は初詣に友人を誘っていた気がする。今年は樫原輝美も辻堂舞も受験生だから、暇そうな自分にお鉢が回ってきたのだろうか、と山田は考えた。
「大晦日の夜八時に、新勇戸駅の西口で待ってる。雨が降るとか言ってるけど、雨が降っても槍が降っても来てね! 私も絶対行くから!」
 そう言って電話は切れた。山田は少し考えたあとで、とある電話番号を呼び出し、電話の相手にひとつ頼み事をした。

「すまない、ちょっと手元が狂った」
 大晦日、電話の相手は悪びれもせずにそう答えた。
「ちょっと雪が舞う程度にするつもりだったんだが、まさかこんなに降るとは……」
「あんたの実力はよく分かったから、今度から気をつけてくれよ! もうこれじゃあ、風情とか風流とか言ってる場合じゃねえしな。七千円の魔法のスケールじゃねえよ」
 電話を切って、山田は玄関の扉を開けた。その先に広がるのは一面の銀世界。いや、ただの銀世界ならいいのだが、関東平野の人間にはいささか荷が勝ちすぎる、どうしようもない大雪だった。
 この雪ではじゅうたんもホウキも飛ばせまい、と考え、山田は派手な色のジャンパーを着込むと、手袋とマフラーと帽子で防寒し、雪の中へと歩き出した。
 新勇戸駅には、宣言通り春月が立っている。山田の姿を認めて、彼女は苦笑した。
「ごめんね、さすがにこの雪じゃ来ないかと思った。本当は振り袖着てくるはずだったんだけど、この雪じゃ流石に無理だよね」
 どうやら電車は動いているらしかった。大したものだ。しかし家を出た時に比べれば雪はずっと小降りになっていて、間もなく止みそうにも見えた。
「雨よりは雪の方がいいかもって思ったけど、こんなに積もるとはね」
 二駅先で降り、駅前のバーガーショップに入った。まだ、十二時までには時間がある。春月はコーラを飲みながら、「着物だったら面倒くさかっただろうな」と笑った。
「あ! そういえばあんた、もしかして神社とか行ったら良くない? 他の神様にお祈りしても大丈夫?」
「え? ああ、別にそんなに気にしなくても。女神様、そんなに心狭くないし」
 そんなことは全く考えていなかったので、山田は驚いて目をしばたいた。他の神に挨拶をしたくらいでへそを曲げるような神は、彼の胸中に存在しない。
「だったらいいんだけど。そういえば、シュリフィードの人も初詣とか行くの?」
「初詣……ああ、初詣みたいなものはある。新年のお祭りがあるから、神殿に行ったりすることはあるよ。シュリフィードにも日本神道の人はいるから、そういう人は初詣なんかもするんだろうし……」
 興味津々といった表情の春月に、山田は新年の祭りについて簡単な説明をした。春月はいたく感動した様子で、しきりに感嘆の声を上げながら細部について質問する。
 そうこうしているうちに時間が過ぎて、「そろそろ行くか」と春月は時計を見た。
「意外と混むんだよね、あの神社」
 春月に連れられて向かったのは、山田の想像よりも数段大きな神社だった。まだ日付が変わるまでには時間があるというのに、人でごった返している。
「初詣の問題点は、紅白歌合戦が見れないところにあるわね」
「うちはテレビないからどうでもいいや……」
「シュリフィードでも紅白歌合戦は見るの?」
「基本的に、関東圏で放送されてるテレビは一応入るよ。真下で放送してても、千葉のローカル局は入らないんだけど」
 行こう、と春月が人混みの中に突っ込んでいく。はぐれないようにとでも言うのか、春月が山田の腕にしがみついてきた。
「ねえ山田、その格好で寒くない?」
「え? いや別に、寒くはないよ。さすがに、日本でいつものマント着てくるわけにもいかないから、ちゃんと暖かいの買ったんだ」
「周りを気にしないんだったら、マントの方があったかいの?」
「型と生地と、縫い込んである魔法による」
 辺りに人が多いので、声をひそめるようにして会話する。二十センチばかりの身長差が、こんな時には少し辛い。雪はすでに止み、神社の屋根や周りの木に降り積もった雪が、時折ばさりと音を立てて落ちる。
「もう新年かあ……一年って経つの早いよね。だって私たち、あと二ヶ月ちょっとで卒業なんだよ? ちょっと想像できないなあ」
「ああ……うん。もう終わりか、って気がするな。何だかんだ言ってすげえ楽しかったから、終わりになるのが惜しいよ。もう学校に通う機会なんかないだろうし」
 足元の雪は踏みしめられてあらかたが茶色く溶け、一部は凍り付き、足場を悪くしていた。
「楽しかった?」
「ああ。……友達にも、恵まれたし」
「そっか」
 春月が足元の雪で足を滑らせ、山田の腕を強く掴んだ。
「大丈夫か?」
「うん、平気。……あのさあ」
 停滞する人混みの中で、春月は動かない。というより動けないのだな、と思いながら山田は彼女の顔を見下ろす。
「このまま、掴まっててもいいかな?」
「放したらまた滑りそうだし、好きにしろよ」
 除夜の鐘が打ち鳴らされ始めた。重い鐘の音が、境内の冷たい空気を震わせる。
「あ……あの、山田。一応助言しとくけど、こういうこと無闇にオッケーすると、たまに誤解されるからねっ」
 寒さのせいか、春月の頬は上気している。言葉と共に吐き出された息が、見る間に白く凍っていく。
「誤解される、って……」
「乙女に皆まで言わせるな、鈍感!」
 動いたはずみにまた足が滑ったか、春月は体重を山田の腕に預け、肩で息をする。春月の息の湿り気が、ジャケットを通じて伝わってくるような気がした。
「……七千円じゃ安すぎたな」
「ん? なんか言った?」
「いや、何でもない」
 そこでふと会話が途切れる。春月は山田の腕に抱きつくような格好で、たまに思い出したように二、三言話す。山田はぼそぼそとそれに答え、そんな二人の会話を除夜の鐘が遮っていく。
 やがてひときわ大きなざわめきが境内を包んだ。春月は慌てて時計を見る。
「あ、年明けちゃった……それじゃ改めて、あけましておめでとうございます」
 顔を上げて満面の笑みを浮かべる春月につられて、山田も笑う。
「今年もよろしくお願いします!」
「こちらこそ」
 動き始めた人波に押し流されながら、自分の腕にぎゅっと掴まってくる春月。人に流されてしまわないように、山田は彼女を胸の前へと引っ張り込んだ。春月は特に何も言わずに、照れくさそうな表情で山田の顔を振り仰ぐ。
 空気はしんと冷えているはずなのに、なぜかやけに暖かい夜だった。


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