46の台詞。inスプリング*スプリング part3
月香るな


 「嘘をつく理由なんて僕にはありませんよ」 」の読了を推奨



「いつまで昼寝しとる気だ。いい加減に起きんか、たわけ!」
 耳元で怒鳴られて、山下直樹は耳をふさぎ、「あと五分」と呻いた。
「お前がいつも見ている番組も、そろそろ始まるぞ」
 そう言われた途端に直樹は目を開け、ソファから勢いよく身を起こすと、テーブルの上のリモコンを掴んでテレビの電源を入れ、チャンネルを合わせた。以前は父と姉と共に親子三人で住んでいたこのマンションは、姉の独立と父の死を経て、今は直樹一人のものになっている。もっとも、一人、というのが正確な表現かどうかはわからないが。
「まったく、情けない……」
 直樹は無言で、声の主の頭を掴んだ。声の主――野球のユニフォームを着た虎のぬいぐるみは、「何をする!」と声を上げた。
「それはこっちの台詞だ、ジジイ。見た目だけ可愛くたって騙されねえぞ。いきなりぬいぐるみなんか買ってくるから、何をするのかと思ったら……」
「良いアイデアだとは思わんかね。こうでもせんと、お前はワシらの声を聞けんのだし。まったく、生身の人間は不便だ」
「そうか? 俺の身体を使わなきゃ動けもしないバケモノ共に言われたくないよ。それにどうせいつも、俺が知らないところで勝手に相談して、勝手に動いてるくせに」
「まあ、そう言うな。ワシらはワシらなりに、お前を大切にしようと……」
 直樹はぬいぐるみの頭を掴む指に力を込めた。虎の顔がゆがむ。
「うるせえよクソジジイ。俺を大切にする気があるんなら、たまには大学以外のところに行かせてくれ。最近、記憶の飛び方が前より激しい気がするんだ」
「それとこれとは話が別だ。だいたい、詫びにレポートも書いてやってるじゃないか」
「余計なお世話だ。まあ確かに、俺が書くより出来がいいことは認めるけど!」
 憮然とした表情で、直樹はテレビの画面を見つめる。虎のぬいぐるみはなおも直樹に声をかけるが、彼はテレビの方に視線を向けたまま生返事をするだけだった。しばらくの後、直樹はぬいぐるみから手を離して伸びをする。
「まったく、最近の若者は辛抱が足らん。『バトラー』の名が聞いてあきれるわ」
「バトラー、ね。勝手に変な名前つけてんじゃないよ、クソジジイ。なんでお前らみんな、そんな名前で納得してるんだよ。帝国側がそう呼んでるとかいうならともかく、お前が適当につけた名前らしいじゃないか。昔ヨウコに聞いたぞ」
「余計なことを言いよって。後で叱っておこう」
「ならついでに、勝手にピアス穴開けるのはやめてくれって言っといてよ。手入れが面倒だし、そもそも俺はあいつの着せ替え人形じゃないんだ」
 考えておこう、と虎のぬいぐるみは答えた。
「しかしお前といい佐藤家の一郎といい、最近の若者は軟弱でいかん。少しはワシや春楽を見習ったらどうだ。ワシらの若いころは――」
「もう何度も聞いた。でも今は時代が違うんだよ。一郎はあいつのじいさん……春楽さんと違って魔法使いじゃないんだし、上の情勢も色々変わったし。いわゆる魔王さんと俺たちが、昔みたいな仲良しこよしの関係でいられるわけがないだろ。俺はあいつが好きだけど、あいつは俺が来ると塩を撒き始めるし、ろくに会話にもなりゃしない」
「ワシは未だにそれが解せんのだ。春楽のやつめ、魔法の存在を伏せて、息子や孫に何と説明したのだろうな。まあ、今となっては聞きようもないが」
「そりゃ、お前みたいに死んでもバケモノになってまで生き延びようって物好きが、そんなに沢山いるとは思えないしな。ヨウコの気持ちはわかるよ、夭逝は無念だったろうし。だけどお前、『もう一度猛虎の優勝を見るまでは死ねん』って、それ絶対間違ってるっつーか」
 言いながらも、直樹は画面から目を離しもしない。それに加えて、ビデオデッキはきちんと録画の用を果たしている。保存用のビデオテープは、とうの昔に棚からあふれ、段ボールに入って部屋の隅に積まれていた。見たものから消していけばいい、という他人の忠告に、直樹は絶対に耳を貸そうとしない。
「まあ、春楽の考えも分からんわけではないが……同じように子孫を守ろうと考えるのなら、奴のように全てを伏せ通すよりは、ワシのように全てを教えた方が、まだ親切だとは思わんかね」
「否定はしない。色々教えてくれすぎて発狂するかと思ったけどね。知らなかった方が幸せなことも多かったし。なんで俺の上にいるやつはあんなのばっかりなんだよ、まったく。佐藤家の奴らも、帝国のことを伏せるなら伏せる、伝えた上で抵抗や口外できないようにするならするで、ちゃんと処理しておけばいいのに。おかげですっかり俺ばっかりが悪役だ。中途半端に放っておいて、あの魔物使いの一族に暴走の可能性を残しておくってのは最悪……って、待てよ、まさか春楽さん、そこまで考えてたのか?」
「それはないな。奴はああ見えて親帝国派だ」
「じゃあ、ただあの人がアホだっただけか。……なあ、今からでも、佐藤家の奴ら捕まえてきて、帝国に逆らわないように洗脳しただけじゃ駄目なのか? そりゃ、このまま放っといたらあのガキ共、なんか勘違いしたまま帝国に乗り込んできそうだけどさ、しかも原因はたぶん半分くらい俺が岡田良昭を襲ったせいだけど、でも殺したりするのはちょっと。今ならまだ問題はないレベルだし、あのシュリフィードかなんかの魔法使いとの繋がりさえ絶てれば、放置しておいてもそんなに害はないんじゃ。つーか正直、お前らだってそう思ってるんじゃないのか。外交問題がそんなに怖いとも思えない」
 虎のぬいぐるみが、楽しそうに笑い声を上げる。テレビ番組はコマーシャルに入り、直樹はようやくぬいぐるみの方に視線をやった。
「ワシらの見解についてはお前に伝える必要を感じないが、前半は面白いな。奴らが帝国に逆らわないように、か。そんな処理をしたことがバレたら最後、『魔王』が存在する意味もなくなれば『賭け』も成立せんぞ」
「バレなきゃいいんだろ、バレなきゃ! そもそもあいつら、っ……」
 そのまま、腐り果てた帝国の体制を批判する言葉を口にしそうになり、直樹は顔をしかめた。突如襲ってきた激しい頭痛に耐えきれず、ソファにぐったりと体重を預ける。
「痛え……春楽さんみたいに、もう少しソフトな魔法はかけられなかったのかよ。あの人が岡田良昭にかけてた発話制限なんか、感動モノの傑作だったぞ。普段は本人もほとんど意識できないようなレベルで、あのガキからの情報の漏洩を防いでた。意識したって、発話行動が出来ないだけで別に痛くはなさそうだったし」
「諦めろ。あれは春楽が特別製だというだけだ、常人には出来んよ。お前にはまだ考える自由があるだけ、かなり紳士的な魔法だと言えるだろうしな」
「これで紳士的? 嘘だろ」
「嘘をつく理由なんぞワシにはないな。そもそも、お前の心がけが良ければ苦しむこともあるまい。まあ若いうちは色々なものに反抗したくなるという気持ちも分かるが、そろそろ大人になれ」
 コマーシャルが終わり、直樹は頭を押さえながらも視線をテレビに戻した。
「そうするしかなさそうだもんな。畜生、可能なら佐藤家の奴らに全部ぶちまけてやりてえ……ちなみに、そんなことをすると俺はどうなりますかお祖父様」
「死んだ方がマシ、というくらいには大変なことになるだろうな。おそらくお前のその台詞もギリギリだ。まあ、お前が苦しむところを見るくらいなら、その前にワシらが出ていってお前を止めてやるから安心しろ。今だって、お前がいい子にしていれば、ここまでワシらが手を出す必要もないんだがな」
「ああ、そうかい……余計なお世話だ、クソジジイ」
 誰かがパーッと、全部ブチ壊してくれればいいのに。その台詞を喉の奥で飲み込み、直樹は小さくため息をついた。









 ―欠番―





 「海苔巻いとけ、海苔」



 購買部で買ってきた焼きそばパンと烏龍茶の缶を手に、山田はため息をついた。
「メロンパン売り切れてた……」
「そんなことでいちいち陰気な顔してるんじゃないわよ。いいじゃない焼きそばパン。メロンパンより栄養バランス取れてそうだし」
 自分は母親の作った弁当を食べながら、春月が答える。女子の弁当のご多分に漏れず、小さな二段組の弁当箱に、色とりどりのおかずが入っている。
「栄養バランス、ねえ。でも自分で作るのも面倒だし、総菜屋の総菜って高いし、なんかもう適当でいいかなって思うんだ。しかしお前の弁当、いつもすげえよなー」
「おかずはほとんど冷凍食品。最近の冷食はすごいよ。このグラタンはもちろん、このほうれん草も冷食。弁当用は小分けになってるから、一人暮らしでも使いやすいんじゃない? っていうかあんた、普段家で何食べてんの?」
 春月の質問に、山田は首をひねり、しばらく考えてから口を開く。
「ここんとこの主食は、インスタントラーメン……かな。近所のスーパーで安売りしてて、つい沢山買っちゃって……前に安売りしてたビーフンも消費できてないのに」
「へえ。タマゴとか野菜とか乗せてんの?」
「たまに。でもやっぱりラーメンには、白米を合わせるのが無難かと」
「ごめん、関東人の私にはちょっと抵抗があるわ、ラーメンライス」
「そうか? けっこう美味いぞ。じゃあ、マンドラゴラとか。あ、地上でたまに見る、あの朝鮮人参の仲間のマンドラゴラじゃなくて、もっと魔法的なやつね」
「日本人はそんなもん食べないわよ! っていうかそれ毒とかじゃないの?」
 あははと笑いながら、山田は烏龍茶のプルトップを引いた。
「フグと一緒で、ちゃんと料理すれば美味しいよ。何ならいっぺん食ってみる? まだ冷蔵庫に残ってると思うんだけど」
「え、本当? 一回食べてみたい……ような気も……って、待てよ」
 一瞬その話に乗りかけた春月だったが、すぐに首を振る。
「あんたの味覚はアテにならないのよね」
「もしかして、まだいつかの調理実習のこと、根に持ってる?」
「当たり前でしょ! あの衝撃はそう簡単に忘れられないわよ!」
 飯粒を飛ばす勢いで主張する春月。山田は春月をなだめながら、「オレの友達のラーメン研究家も美味いって言ってたし」などと怪しげなフォローを入れる。
「……じゃあ、ちょっとだけ食べてみる」
「よし、決まりだ。今日の放課後はヒマ?」
 かくして、春月は山田の魔法のじゅうたんに相乗りし、彼が住むアパートへと向かったのだった。

「ほれ、食え」
 台所には入るなと言われたので、手前の部屋のコタツで待っていた春月の元に、山田がラーメンの丼を持ってくる。
「……これ、本当に人間の食べ物?」
 割り箸で麺を指し、春月は尋ねる。
 そのスープは、なぜか濁った桃色をしていた。
 そして麺の上に、ごろりと何かが転がっている。
「大丈夫だって。ちょっと朝鮮人参よりは生々しいけど、普通のマンドラゴラと大差ないから」
「どこがだ!」
 それは確かに植物の根らしいのだが、やけに人間の女性に似ている。朝鮮人参の比ではない、というよりは、もはや植物にすら見えない。ケーキに乗ったマジパン製の人形を食べるのにも躊躇してしまう春月には、さすがに箸をつけづらい代物だった。
「本当に食べるの? っていうか上ではこんなのスーパーで売ってたりするの?」
「スーパーでも売ってるけど、コンビニで買った方が一本ずつバラ売りしてて便利」
「じゃあスーパーでは束で売ってるの!?」
 今にもしゃべり出しそうなほど生々しいマンドラゴラをじっと睨んでいると、山田が丸い缶を差し出してきた。
「見た目が気になるなら、海苔巻いとけ、海苔。マンドラゴラとは合うぞ」
 おそるおそる受け取り、マンドラゴラの一端を箸で引き上げ、左手で海苔を巻こうと試みる。しかし、箸が滑ってなかなかうまく行かない。ふと、春月の指がマンドラゴラの表面に触れた。
「やだやだ、何だコレ、感触が既に植物じゃねえー!」
 震える手でマンドラゴラに焼海苔を巻き、春月はぜいぜいと息を切らしながら目の前のマンドラゴラ入りラーメンを見つめる。
「っていうかこの桃色は何? マンドラゴラってダシでも取れるの!?」
「取れるけど、そのダシはカルバグの生き血で……」
「取るな! だってそれ明らかに怪しいし! 絶対マンドラゴラ以下だよ!」
「でも美味いんだぞ!? インスタントラーメンとは思えないほどの美味さなんだからな! 騙されたと思って食べてみろ!」
 正面に山田が座る。ここまでお膳立てされては食べないわけにもいかない。春月は意を決して、麺を一口すすった。
「……普通だ」
 見た目の割には普通だった。というより、どちらかと言えば確かに美味しかった。インスタントラーメンの元々の味であるチキン風味が、少しばかりの塩気によってよく引き立っている。色からは想像もできないその味に感動しながら、春月の箸が海苔に伸びた。そこで、はた、と手が止まる。
「待って、まだ最大の難関が……」
「どうした藤原。麺が伸びるぞ」
 おずおずと、海苔の上からマンドラゴラを掴んだ。口元に持ってきて、一口かじる。ラーメンのスープを吸ったマンドラゴラは、断面をほんのりと桜色に染めていた。
「どうした。泣くほど美味いか?」
「なんでこんなに美味しいのかわかんない……すごい敗北感」
 やや厚い皮を破ると、中は意外にやわらかく、スープと、それとは何か違う汁が噛むたびににじみ出てくる。それらはマンドラゴラそのものの甘味と相まって、不思議な風味をかもし出していた。
「毒抜きに色々使ってるから、けっこう味はついてるはずだぜ」
「うん、なんでこんなにゴチャゴチャした味なのに、ぶつからないのか分からない」
 その次の言葉を、言ってしまってから春月は後悔した。
「ところで、毒抜きってどうやるの?」
「ああ、塩とハシバミとコレック茸とバシラ草を入れるんだけど、ちょっと材料が足りなかったんで、とりあえず台所に生えてたキノコと白菜で代用……」
「ちょっと待って! 台所に生えてたキノコって何ー!?」
「深く突っ込むな! オレもさっき毒味したけどまだ死んでないし、大丈夫!」
「全然安心できないわよ!」
 桃色のスープの上のマンドラゴラは、口げんかをしているうちに海苔がふやけ、まるでタオルを巻いた人間が温泉に浸かっているような外見になっていた。
 春月がそれに気づき、さすがに白旗を挙げるのは、この数分後の話。









 「おあつらえむきのものがあるわよ」



「アナタは今、幸せデスカー?」
 突然問われて、佐藤浩は目をしばたいた。
「いえ、あんまり幸せじゃないですけど」
 答えると、校門の横に立っていた男は、そばの段ボールから本を一冊差し出した。
「では、アナタにこの本をさし上げマース。これを読めば、デンジャー明津教祖のパワーで、アナタも必ず幸せにナリマスヨー!」
 佐藤は男の目を見て、にこりと微笑み、口を開いた。
「それくらいで解決する悩みなら苦労してねえよボケ」
 そして早足にその場を立ち去り、昇降口へと向かっていった。

「アナタは今、幸せデスカー?」
 突然問われて、輝美と藤城は顔を見合わせた。
「そりゃあもう幸せですよ俺たち」
「ええ、見ての通りとても幸せだから宗教の勧誘とかはいらないわ。ごめんなさいね」
 校門をくぐろうとする二人を、男は必死に止める。
「そう言わずに! 話だけデモ聞いてクダサイヨー!」
「あの、これで遅刻しちゃうと、俺あんまり幸せじゃなくなるんで、失礼します」
 爽やかな笑みを残し、二人は連れだって歩いていった。

「アナタは今、幸せデスカー?」
 突然問われて、山田は首をかしげた。
「難しい質問だな。どちらかというと、あまり幸せじゃない……かな?」
 そう言った彼の眼前に、一冊の本が差し出された。
「そんなアナタにおあつらえむきのものがアリマース。この本を読めば、デンジャー明津教祖のパワーで、アナタも必ず幸せにナリマスヨー!」
「なあ、お兄さん」
 山田は本を受け取り、深刻な顔で尋ねた。
「幸せって何だ?」
「何だ、と言われても……人ソレゾレ、だと思いマスヨ」
「そうか。で、この本を読むとその人それぞれの幸せに行き着くんだな?」
「そういうことデス」
 うーん、と山田は難しい顔で本の表紙を見つめる。「運を開く101の方法」という書名が、シンプルな表紙に大きく印刷されていた。隅には、この宗教が崇めているものなのか、像の写真が載っている。
「今ならコノ本を特別に、タダでお配りしてイマス。デンジャー明津様にお祈りスレバ、きっと運が――」
「とはいえ、もうオレには馴染みの神様がいるからなあ。なんかこの神様、すましてて感じ悪いよ。もっとフレンドリーな神様じゃないと、祈る気になれないっていうか」
「オオ、何と罰当たりな!」
 男が大げさに手を広げる。その山田の腕をぐいと引く者があった。
「久しぶりに歩いて来てると思ったら、何そんなのに捕まってんのよ。遅刻するよ」
「あ、藤原、おはよう。いや、じゅうたんが破れちゃってて飛べなくて」
 山田を連れて行こうとする春月にも、男はしつこく声をかける。
「アナタは今、幸せデスカー?」
「幸せだよ。家があって金があって家族がいて友達がいるんだからね」
「今の自分に、満足しているのデスカー?」
「時々イヤになるけど、他人に逃げ道を用意してもらうほど落ちぶれてないもん。神様をそうやって使う人、嫌い」
 でも本はちょうだい、と春月は手を出した。
「あとで古本屋に売るから」
「なかなか大胆なことするな、お前」
「何言ってんの? これはこの人のためなのよ、山田」
 本を差し出そうか迷っている男に、春月は畳みかけるように言う。
「あなたが本を私にくれるでしょ。私はその本を売るでしょ。そうすると、見知らぬ誰かがその本を買って、幸せになるのよ。私はお金がもらえて幸せ、あなたは新しい信者仲間ができて幸せ、本を買った人はもちろん幸せ。ほら誰も損しない!」
「なんか騙されてるような気がする……」
「山田、何か言った?」
 春月に笑顔で問われ、山田は首を振る。
 男から本をせしめる春月を見ながら、山田は何となく、彼女は今幸せなんだろうな、と考えた。









 「偶然だね」



「おい、藤原?」
 公園で春月の姿を認め、山田は手を振った。犬の散歩をしていた春月は、「あれ?」と言いながら手を振り返す。
「山田じゃない。こんな遠くまで、何しに来たの?」
「いや、ちょっと仕事で」
「ふうん、偶然だね」
 春月が連れているのはごく普通の中型犬だ。前に遊びに行った時は、彼女の弟が犬に引きずられながら散歩をしていたような気がするが、今日の散歩は春月の担当らしい。
 春月の家は高校から遠い上、山田の家とは逆方向なので、山田がこの辺りに来るのは久しぶりだ。山田は「こんにちはー」と、笑顔で犬に声をかける。
「うーちゃん、太郎お兄ちゃんがこんにちはって言ってるよ」
 犬が尾を振りながら一声吠えた。歓迎されているようだ。
「うーちゃんって言うのか。よろしくな、うーちゃん」
 犬が山田の足にじゃれつく。動物は嫌いではないので、されるがままになっておく。ズボンに毛がついたら後で面倒だな、と思った時には、すでに手遅れになっていた。
「行くよ、うーちゃん」
「あ、藤原、せっかくだから途中まで一緒に行ってもいいか?」
 いいよ、と答えが返ってきた。山田は春月と犬と共に、のんびりと道を歩き始める。この時間はどこの犬も散歩に出ているようで、春月は犬に会うたびに「こんにちは」と挨拶をしていった。
「あれがシュガー、あっちの黒い子がキャンディ。一緒にいる大きいのがお母さんのクッキーだよ」
「なんか食い意地の張った名前だな……」
「何言ってんの、お菓子の名前って可愛いじゃない。ねえうーちゃん」
 ワン、と犬が吠えた。春月の話によると、知り合いからもらい受けた雑種のオスらしい。茶色と白の入り交じった色をした犬で、尾がふさふさとしている。
「うちの正面のワンちゃんがマロンとクリーム、二つ隣の家のワンちゃんはプリンっていうんだ。だからウチも、犬を飼うならお菓子の名前をつけたら可愛いねって、ずっと母様と話しててね」
 前へ飛び出そうとするたびに、春月がリードをぐっと引いた。元気な犬の姿を見ていると、つい頬がゆるむ。
「だからうーちゃんにも、お菓子の名前をつけたの」
「あ、うーちゃんって愛称?」
「うん。最初は普通に呼んでたんだけど、なぜか弟と父様が頼むからやめろって言ってきて。可愛いと思うんだけどな」
 片手のスコップとビニール袋を、手首を使ってくるくると無意味に回しながら、春月は横を歩く山田の顔を見上げる。身長差は約二十センチ。山田は取り立てて背の高い方ではないが、小柄な春月と並べばやはり随分な差ができる。
「絶対気に入ると思うよ、うーちゃんの名前」
「もったいぶらずにさっさと教えろよ」
 春月は照れくさそうに笑い、さらりとその名前を口にした。
「『うまい棒』」
「……は?」
「いや、だからうまい棒よ。この子の名前は、藤原うまい棒」
 一瞬、脳が受け取りを拒否したような気がした。
 数秒経ってようやくその名前を認識し、山田は思わず叫ぶ。
「そ……そりゃ確かに菓子だけどさ! そりゃねえだろ!」
「なんでよ! すっごい可愛いじゃない!」
「ちょっとお前の発想にはついていけないよオレ……」
 目の前を元気に駆け回る犬を見ながら、山田は「強く生きろよ」とひそかにエールを送った。









 「やだやだやだやだ絶対やだ」



「うわあ、なんか肉ついてる……」
 ごろりと転がる豚の目玉を前に、春月は思わず声を上げた。
 生物実験、「豚の目玉の解剖」。楽しみにしていようといまいと、生物を選択してしまった生徒には否応なしに課される実験だ。
「くそ、結局受験にも使わないのに、なんで生物なんか取っちゃったんだろう」
「まったくもって同感だ」
 通路を挟んだ隣のテーブルで、ハサミを片手に山田がうめく。
 目玉の解剖、といっても、与えられるのは眼球そのものだけではない。まずはまとわりついた筋肉やまぶたを切り離す必要があった。周りの女子と共にきゃあきゃあと悲鳴を上げながら肉を切り離すと、グロテスクに見えた目玉は、とたんに生々しさを失う。
「以前は牛の目玉だったんですよー。牛の目玉の方が大きくていいんですけどねー、狂牛病問題以来、牛の目玉が手に入らなくなってしまったのでー」
 教師が間延びしたテンポで話をしているが、そんな事情に興味はない。なぜかご丁寧にも一人に一つずつ与えられた豚の目玉を、これから解剖しなければならないのだ。
「もうイヤだ、オレこういうグロテスクなの苦手なんだよ……」
「悪の魔法使いがグロいの苦手でどうするの」
「そんなのオレの勝手だろ? 嫌いなもんは嫌いなんだって。悪の魔法使いったって、別に嬉々として人殺しとかするわけじゃないんだしさ……」
「……それってもしかして、性格的にあんまり向いてないんじゃないの?」
 山田は無言で目玉からまぶたを剥がす。意外に硬い目玉の表面に苦労しながら、何とかハサミを入れると、どろりとした透明の流体と、剥がれかけた黒い薄膜が現れた。
「硬膜、硝子体、脈絡膜……」
 ぶつぶつと呟きながら目玉にハサミを入れていた山田は、ひとつため息をつくとハサミを置く。
「おい山田、こんなん出たぞ。これが本当の目玉焼き、なんちゃって」
 前の席に座る藤城が、硝子体と水晶体を取り出して山田に見せる。確かに、透明な硝子体とそこに貼り付いた水晶体の形は悲しくなるほど目玉焼きにそっくりだったが、それがかえって不気味さを際だたせる。藤城も春月たちと同じく、受験に生物を使うわけではないので、気楽なものだ。ただし彼が生物を取った理由は間違いなく彼女の輝美を追いかけるためで、その輝美は山田と同じように目のパーツの名前をつぶやきながら、真面目な顔で解剖に取り組んでいる。
「もう本当にやめてくれ……オレ、駄目なんだってそういうの」
「そんなこと言ってたらゴミ箱なんか見られないぞ。すげえスプラッタになってた」
「言うな……」
 想像してしまったのか、山田が頭を抱えた。
「畜生、こうなったら……!」
 ハサミを構え、山田はそれを眼前の目玉に突き立てる。一瞬、視界が揺らぐような感覚があって、藤城と春月は目をしばたいた。
「……あの、山田、これは?」
 ハサミの下に現れたものを見て、春月は思わず尋ねる。
「ちょっとアニメ風にしてみた」
 おもちゃのような丸っこい目玉が、ころんと転がっていた。山田は難しい顔をしながら一番外側の白い硬膜をハサミで切って開け、中の透明な硝子体を取り出す。硬膜の裏側に貼り付く脈絡膜はやけに均等な黒色をしていて、レンズもまるでプラスチックのおもちゃのような、不完全な透明色だった。
「もうスケッチなんかどうでもいいや。藤城、書けたら見せて」
「いや、いいけどさ、お前、それはほとんど解剖実験の意味が」
 豪快に簡略化された虹彩と角膜を見ながら、藤城があきれたように呟いた。
「いいんだよ! 全部終わったら元に戻すから」
 てきぱきと指示通りに目玉をばらし、山田は「おしまい!」と言ってハサミを置いた。可愛らしいパーツがごろごろと転がっている。硬膜はピンポン玉を裂いたような外観で、黒目の反対側から、視神経がちょろりとはみ出ていた。
「右目だな」
 それだけをノートに書き留めると、山田は再びハサミで目玉を叩く。おもちゃのような目玉の輪郭が溶けて、すぐに間違いなく本物の目玉が現れた。
「う、これ捨てるのか……」
「おい山田、俺も書き終わったからついでに捨ててきてくれよ」
「ずるい! じゃあ山田、私のもついでにお願い」
 二人に解剖したての目玉を見せられて、山田は必死に首を振る。
「やだやだやだやだ絶対やだ! もう本当に無理! 呪われる!」
「度胸ねえなあ。大丈夫だって、お前だって普段から豚肉とか食ってるだろ? 呪われるならとっくに呪われてるよ」
「つうか、悪の魔法使いが呪いを怖がってどうするの」
 からかうように言った春月のことを、山田は睨みつける。
「じゃあ暴走族は道に迷っちゃいけないのかよ! ヤクザはホラー映画で泣いちゃ駄目なのかよ! そんなの、他人に指図されるいわれはない!」
「いや、そんな暴走族もヤクザも嫌だし」
 くそっ、とつぶやいて、山田は藤城と春月が解剖していた目玉をピンセットでつまみ上げ、まとめてゴミ箱へと走っていった。
 涙目で戻ってきた山田を見ながら、春月はぼんやりと、いつかこいつにホラー映画でも見せてやろう、と考えた。









 「睫毛と眉毛、どっちを褒められると嬉しい?」



 特大のため息をつきながら、王子は質素な扉を開け、あまり使われていない応接室に入った。部屋の隅にはフランス人形の梅吉がちょこんと飾られていて、王子の来訪に気付き、明るい笑顔を浮かべる。
「フィガロちゃん! どうしたの、暗い顔しちゃって」
「……なあ、梅吉」
 頼りない足取りで梅吉の方へ近づき、泣きそうな声で王子は訴えた。
「マリアンヌに、『あなたなんか、睫毛くらいしか良いところがないわ』って言われたんだ」
「……姫君に?」
「ああ。その後とってつけたように、『ああ、眉毛も悪くないわね』とも言われた」
 仕方ないだろ、生まれついた顔なんだから、と王子はつぶやく。
「ところでフィガロちゃんは、睫毛と眉毛、どっちを褒められると嬉しい?」
「まだ眉毛かな。……って、そういう問題じゃなくて! なあ梅吉、俺様にはそこまで魅力がないのか? そうなのか?」
「あたし、竜族のセンスなんか分かんないわ。でも、眉毛とか睫毛とか、褒められてもあんまり嬉しくないところくらいしか、褒めるところがなかったってことよね」
 他人が言いはばかることを、梅吉はずけずけと指摘する。
「でもフィガロちゃん、人間としてはいい顔してるでしょ? ガザ人のあの美形騎士、名前は何だっけ、ケン・ワタナーベ? にも、ちょっと似てるような気がするし」
「……竜になったときが問題なんだろうなあ」
 シュリフィード王家とガザ王家は、婚姻関係によって深い契りを結んでいる。先王の妻はガザ人であり、現ガザ王の妻は、現シュリフィード王の妹姫だ。だからもちろん、王子にも色濃い竜族の血が流れている。それはつまり、竜としての姿をも持っているということだ。
「あたし、フィガロちゃんが竜になったところ、見たことないな」
「見る?」
 王子はマントをかたわらのソファーの上に投げてから、パチンと指を鳴らした。一瞬、煙が梅吉の視界を覆う。煙が晴れたそこには、一頭の竜が立っていた。
「……あー」
 梅吉が頭を抱えた。しばらくの沈黙のあと、梅吉はようやく口を開く。
「あの、フィガロちゃん? そ、率直に言っちゃっても、いい?」
「……別に、いいけど」
 よく手入れされた金髪をかき上げ、梅吉はひとつ、艶っぽいため息をついた。控えめに色づいた唇が、ゆっくりと開く。
「キモい」
「……そ、そこまで言うことないだろ!? そりゃみんな、遠回しに『どちらかというと控えめなお顔ですね』とか言うけど! そこまで言われるほどなのか!?」
「百年前ならモテたかもしれないけど……まあ、正直、運が悪かったと諦めるしか」
 呟いた梅吉の前で煙がふたたび噴き出し、数秒で人間の姿に戻った王子が現れる。今の変化で若干体力を消耗したのか、ソファの背に寄りかかった。
「ど、どうにかならないか!?」
「……だって竜の顔ってみんなアクが強いから、人間みたいに小手先の化粧で誤魔化せないじゃない。別にガザ人だって、四六時中あの竜の姿でいるわけじゃないんだから、姫には何とか諦めをつけてもらえればいいんじゃない?」
「それでマリアンヌが最大限妥協したのが、さっきの睫毛と眉毛発言だと思うんだけど」
「厳しいわね」
 ふう、と梅吉がため息をついた。
「もしかして、いつも夫婦仲が悪いのって……」
「色々噂されてるけど、たぶん、マリアンヌは俺様の顔が嫌いなんだと思う。それだけ」
 再び、王子はため息をついた。
「じゃあフィガロちゃん、いっそイメチェンしてみたら? その、辛うじて褒められた睫毛と眉毛を強調してみるとか。髪染めてみるとか……って、もう染めてるのよね。じゃあいっそのこと、地毛に戻してみるとか。元の髪は暗めの色だったわよね?」
「そんな美しくないことはしたくないんだけど」
「ガザ人の価値観に照らせば、また別の反応があるかもしれないわよ?」
 王子はしばらく考えて、「ありがとう」と梅吉に言って、部屋を出ていった。

「……王子。それは多分、あまり容姿にそぐわないのではないかと」
 突然意見を求められて、山田は難しい顔で返答した。
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「あー……いや、確かにちょっとマシになったんですよ、竜になった時はね。でも、多分それは、プラスマイナス合わせたらかなりマイナスかなーと」
 戻した方がいいですよ、と続けた。
「姫だって子供じゃないんですから……いや、まあ子供ですけど、人を外見だけで判断なさるほどの世間知らずではないでしょうし……嫌われるのには、他に原因があるんじゃないですか?」
「その原因とやらが知りたいんだ。姫に聞いても教えてくれないし」
「他に好きな人でもいるんじゃないですかね。この間捕まえたあの浮気相手も、全然懲りてないみたいですし」
 山田の言葉を聞いて、王子は小さくため息をつく。
「……愛してるんだ。それでマリアンヌがより幸せになるなら、浮気だってすればいい。でも、でもやっぱり、俺様は……そうだ魔法使い、バラでも贈れば喜んでもらえるかな」
「好きにすりゃいいじゃないですか。オレに聞かないでくださいよ。センス、かなり古いですけどね。ただ、何にせよ」
 山田は、王子の髪の毛を撫でた。
「髪の色、ショッキングピンクにするのはやめた方がいいと思いますよ」
 王子が小さくため息をつく。山田はそれを横目に、この上なく暗い顔で、深いため息をついた。









 「けど、彼は善人じゃない」



「はいよ、比奈ちゃんからの伝言」
 秋本が渡した封筒を開けると、びっしりと文字が書かれた便せんが三枚出てきた。
「俺がお前のところに行くって言ったら、ちょうどいいから渡してくれって言われてさ」
「ありがとう」
 山田はその便せんを折り畳み、元の通りに封筒に入れる。秋本はその様子を見ながら、またいつもと同じ内容かな、と思った。
「しっかし比奈ちゃんもマメだねえ。こんな甲斐性なしにはもったいない妹だ」
「同感だ」
 玄関で立ち話もなんだから、と山田は秋本を奥の部屋に上げる。コタツと段ボール製の棚が部屋のかなりの割合を占める、生活臭が漂いすぎる部屋だ。
「比奈ちゃん、たまには帰ってきてほしいって言ってたよ?」
「知ってる。たぶんコレにもそう書いてあるし」
 コタツに入って頬杖をつき、山田は気のない様子で答える。
「たまには帰らないの? 正月くらいは家に帰ってんのか?」
「いや、全然」
「あ……もしかしてお前の親父さん、今でも殴るの? それで帰るのがイヤとか?」
「殴るけど、別に大したことはないっつうの。誤解を招くような発言をしないでほしいな。それじゃまるで、うちの家庭が崩壊してるような物言いだ。帰らないのは、単にオレのけじめの問題だよ」
 崩壊してないのかねえ、と一瞬思ったが、口には出さない。彼の家庭のことは他人よりはよく知っているつもりだが、それでも無責任に批判の言葉を口にできるほどではない。
「そもそも、父さんなんて月に三度くらいしか家に帰ってこないんだから、そんなのが理由だったらいくらでも帰るよ」
 秋本の記憶によれば、彼の父親は日本に単身赴任している。小さい頃に何度か会ったことがあるが、長身で筋肉のついた、息子とは対照的な容姿の男だったと記憶している。
 初等学校の四年だか五年だか、記憶は定かでないがその辺りから、山田は学校を休みがちになった。思えばその頃から彼は師匠に連れ出され、様々なことを教えられていたのだろうが、とにかく親友の変化を見かねて、秋本はよく山田の家を訪ねていた。
 最初は「何でもない」と言い張っていた山田だが、やがて秋本と、彼の妹である比奈子の説得に負け、やがて彼の師匠になる人間と接触していることを告白してきた。
 山田が話す彼の師匠の人物像は、茫洋としていて分かりにくかった。それはその人物像が持つ二面性のためだろう。山田は彼を崇拝しているように見えたが、時として激しい嫌悪感をあらわにする。それに比べ、彼の家族への評価は、常に気味が悪いほど高かった。
 外から見ているだけの秋本には、しばらくはその通りの良い両親に見えていた彼の家族だったが、比奈子が秋本をつかまえ、愚痴をこぼしはじめてから、秋本は考えを改めた。
「お父さんはお兄ちゃんを殴るし、お母さんは仕事で家にいないことが多いし、お兄ちゃんは部屋に閉じこもっちゃって出てこなくて、それでまたお父さんが怒って……」
 何とかしてくれ、などと言われても困る。なにせその時まだ秋本も比奈子も小学生で、そもそも比奈子の訴えは日本語になっていない。それでもなんとか山田を問いつめ、服の裾をまくると、秋本の想像以上の傷が残っていた。
 悪いのはオレだし、そういうのはうちの家庭の問題だから、と言われても、平穏な家庭に育った秋本には今ひとつ理解できない。
 だから今でも、山田が語る家族像にはあまり信頼を置いていなかった。それが幸福か不幸か決めるのは本人なのかもしれないと思いながらも、疑いを持たずにはいられない。
「仕方ないんだよ。もう、どうしようもないんだ」
 山田のその言葉で、ふと我に返る。
「何でこんなことになっちゃったのか、正直わかんないんだけど、でもそうなんだ」
「要点をまとめて喋ってくれない?」
「オレのせいで、家族に迷惑かけるわけにはいかない。お前にも、正直言って、会わない方がいいんじゃないかと思ってる」
 秋本の顔から視線をはずし、山田はぼそぼそとつぶやく。
「オレはお前のこと、すげえ好きだ。父さんのことも、母さんのことも、比奈子のことも好きだ。だから、『あんなの』の家族だとか友人だとかって思われて、反感買ったりするのが、正直、もうイヤになる」
「へえ、また面白いことを言い出すね、お前は」
「……冗談で言ってるわけじゃない。昔のオレに、馬鹿野郎、って言いに行きたいよ。師匠は確かに優しくて、厳しい時には厳しかった。けど、あの人は善人じゃない。オレがこうやって泥沼にはまることなんて、とっくの昔に見透かしてたに違いない」
 秋本は無言で目を細めた。何を言っているんだ、こいつは。無性に苛立ちがつのる。
「面白ければ何でもいいんだ、あの人は。国を愛してるわけじゃない。やりたいことがあるわけでもない。オレとは、何かが根本的に違う。あの人は、自分のしがらみを全部捨てて、その上作らないようにして、いつでも逃げ道を残したまま生きてた。こんな風にハマったりするようなバカは、師匠なら絶対にしないだろう」
 机の上に視線を落として、だらだらと言葉をつむぐ。
「父さんと母さんはオレを拾ってくれた。『地下』で死んでいくはずだったオレを助けてくれた。実の娘の比奈子と、同じように育ててくれた。なのに、どうしてこんな形で、恩を仇で返さないといけないんだろうね」
 うるせえ、と叫びたいのをぐっとこらえた。そんな話を聞かせて、自分にどうしろというのだ。
「おい、山田」
 彼の目の前でひらひらと手を振って、前を向かせる。
「あんまり比奈ちゃんを泣かすなよ。他は知らないけど、俺のことなら何も気にしなくていいから。お前ごときの親友だからって、俺の立場は揺るぎませーん。変な心配してる暇があったら、家に顔出しな」
 うん、とつぶやいた山田の顔を見ながら、秋本は苦笑する。
 こりゃ駄目だ。
 もちろん彼は両親のことも比奈子のことも秋本のことも、きっと好きでいてくれているのだろう。そうでもなければここまで悩まない、のだと思う。しかし、少々そのベクトルが歪んでいるような気がしてならない。
 どうしようもないのはこっちだよ、と思いながら、秋本は山田の顔を見つめた。
 こんな時でも彼の力になれたらと考えてしまう自分が、少しだけ悔しかった。
 いっそ突き放せたら、どんなに楽だろう。
 重苦しい空気の中で、秋本と山田は、延々と実りのない会話を続ける。
 不快ではなかった。
 ただ、無性に悲しかった。









 「二手に分かれた方が効率がいいよ」 」の読了を推奨



 魔法のじゅうたんを担いで屋上へ続く扉を開けると、山下直樹が扉のすぐ外であくびを噛み殺していた。山田はじゅうたんをコンクリートの床に放り投げ、顔を上げた山下直樹と目を合わせる。ふと見れば数歩離れたところに、いつかのバイクが止まっていた。
「やあ魔法使い。先日は『バトラー』や『ヨウコ』がご迷惑をおかけしたようで」
 その言葉で、この間やってきた元気のいい少女のことを思い出す。彼もまた、この男の中に潜む「別人格」のひとつなのだろう。外見は最初に出会った時とほとんど同じだが、口調や表情がずいぶん違った。ぞんざいな調子で、動きに無駄な仕草が多い。「ヨウコ」ほどではないが、表情もくるくると変わる。
「キムチの臭いは落ちましたか」
「それがもう、全然落ちなくて大変だったよ。一生懸命洗ってファブリーズしたんだけどね、まだあの臭いが残ってる気がする」
 消臭スプレーの名前を挙げ、彼は歯を見せてけらけらと笑う。
「いやあ、しかし、あのキムチは傑作だった。ヨウコも少しは頭を冷やしただろ。ああ、自己紹介がまだだっけ。俺の名前は山下直樹、この身体の元々の持ち主。あんたくらいの歳まで、魔法のマの字も知らずに育った、日本生まれの日本育ちさ」
 立ち上がった彼の背は、山田よりも少し高い。傾きはじめた陽の光に照らされて、シルバーのピアスが鈍く光る。模してあるものは安全ピンやボルト、ゴシックな十字架などで、あまり統一性のないラインナップだ。両耳あわせて五個のピアスは、おそらくどれも、前に見た時とは違うものだ。ヨウコも似たような趣味をしていたような、と考える。確か彼女が着ていたのは、フリルの多い、黒ずくめのワンピースだ。
「ところで今更なんだけど、あんた何者?」
 てっきり彼も全てを知っているものだと思っていたので、山田は一瞬言葉に詰まる。
「聞いてないんですか?」
「みんな過保護だからなあ、余計な情報は教えてくれないんだ。そもそも俺が売りたかった喧嘩なのに、なんで『バトラー』やヨウコが出てくるんだろ。別にあいつら、あの分家のガキに恨みは無いだろうに。俺はあんたのことをほとんど知らないんだよ、魔法使い。せいぜい魔法使いであるってことと、シュリフィード人だってことくらいしか」
「十分じゃないですか。ちなみに名前は山田太郎です」
「何それ、偽名?」
「本名ですけど」
 マジかよ! と一声叫んで、山下直樹はおかしそうに笑い出した。日本に来てからよく見る反応だ。シュリフィードでは別段おかしな名前でもないと思うのだが、日本ではそうでもないらしい。
「もしかして、名前つけた親って日系じゃない方だったの? 無理に日本人っぽい名前にしようとしたとか、そんな感じ? ハーフっぽい顔してるし、日系の血は薄いでしょ」
「知りませんよ。他人の名前なんかどうでもいいじゃないですか。……で? 他に何か聞きたいことはありますか?」
「そう言われてもな。じゃあ、魔力型と、得意な魔法を教えてよ」
「嫌です」
「だろうなあ。手の内明かしても仕方ないだろうし。じゃあせめて、晶石反応くらいは聞いてもいいかな? ちなみに俺はオレンジ色、天真爛漫だけど八方美人」
 勢いよく喋るその度に、チェーンピアスの先端の蜘蛛が落ち着きなく揺れる。彼のペースに巻き込まれているような気分で、少し落ち着かない。
「赤です」
「へえ、意外だなあ。直情的で頑固……うーん、あんまり当たってないんじゃない?」
「性格占いはいいんで、さっさと本題に入ってくれませんか? こっちだってあんまり暇じゃないんですけど」
「いいじゃないか、所詮は高校生だろ。俺だって別に暇じゃないけど、自主休講してわざわざこんなところまで来てるんだよ。まあ、たぶん大学生の方が副業だから、本業のために犠牲にするのは仕方ないよな。あんたもそうだろ?」
 よく喋る奴だな、と思いながら、山田は「高校生の方が本業のつもりですけど」と答えた。言葉の端に苛立ちがにじみ出ているのが、自分でもわかる。
「なんか……俺が想像してたのとちょっと違うなあ、あんた。あのシュリフィードで、本職の魔法使いっていうんだから、そりゃあその辺の高校生よりは人生経験積んでるんだろうなあとは思うけど。あ、ところであんた、どういう魔法使いなの?」
「いわゆる『悪の魔法使い』ですけど」
「ああ、なるほど。それじゃあ、修行は辛かっただろうねえ」
「そりゃあ、それなりに大変でしたけど、成り行き上どうしようもなかったんですよ。別に、元々こんな職に就きたかったわけじゃないし……」
 山下が軽く眉を上げた。一瞬、顔から笑みが引く。それからすぐに下世話な表情を浮かべ、山田の肩に手を回し、顔を近づけてきた。
「何があったんだ? お兄さんに詳しく聞かせとくれよ」
「詳しく話すほどの事情はないですよ。元々、オレの師匠がオレを誘拐したのが最初の出会いで、『何でもするから助けてくれ』って言ったら、『じゃあ弟子になれ』って言われて……その時、オレまだ十歳ですよ。まさか師匠が悪の魔法使いで、こんなことになるなんて、普通思わないじゃないですか」
「まあ、普通は思わないだろうな。つーかそもそも、なんで誘拐されたんだ?」
「オレの実の母親を見て、息子がどんなものか興味を持ったそうですよ。うちの実の両親はオレが小さい頃に離婚しちゃったんで、ほとんど会ったことないんですけどね」
 山下直樹はうなずきながら、面白いなあ、だの、いいこと聞いた、だのと、興味深そうな表情でつぶやく。
「それに比べると俺の境遇なんか面白みがないな。親父もじいさんもこの職に就いてたらしいし、親父が死んで、その職が俺に回ってきただけだ。いや、でも最初は面食らったぜ? ありゃ高校二年の時だったな。親父の葬式が終わるか終わらないかって時に、変な黒服に迎えに来られて……というより連れ去られてさ、ついた先が魔法の国だ。俺はてっきり、親父が死んだショックで自分の頭がおかしくなったのかと思ったね」
「お父様は、自分の仕事のこと、あんたに何も教えてなかったんですか?」
「ああ、一言も聞いてないよ。さっきも言ったとおり、その時まで魔法の存在なんか知らなかった。そんな状態で、いきなり『バトラー』やら何やら、あのバケモノどもを押しつけられたんだ。よくもまあ正気でいられたと、自分を褒めてやりたいよ」
 少しだけ早口にそう言い切って、山下直樹は山田の顔から視線を外した。ふう、と大きく息をつく。
「実はもう、あんまり正気じゃねえのかもな。『バトラー』どもに取り憑かれてから、俺が動ける時間はガクッと減ったし、なんか昔の記憶は急にぼんやりしてくるし。で、何やってんだ俺、とか思ってる時に、楽しそうに笑ってたり、俺のこと憐れむようなこと言ってくるあの佐藤浩のことが、本当にムカついて仕方なくて」
 彼は小さく首を振る。シルバーの蜘蛛が、それに合わせて跳ねた。
「何でだろうな。どうしてあんなガキに固執してんのか、自分でもよく分からない。でもな、最近気がついたんだけど、『バトラー』の行動は、俺の意思をそれなりに尊重した上で決定されているらしいんだ。そんなわけで、俺が嫌いなあのガキに、『バトラー』様が嫌がらせに行ったんだろう。その上で、邪魔なあんたを排除しようとあいつは考えた。だから、あいつの本当の目標は、今でもまだあの分家のガキ」
 その時、下から「いい加減にしろ!」という怒鳴り声が聞こえてきた。声はおそらく、佐藤のものだ。慌てて山田は金網の柵に駆け寄り、下を見る。
「だからあいつは考えた。二手に分かれた方が効率がいい、と。ガキの方に行ってんのは『バトラー』様の使い魔だ、俺の言うことなんか聞きやしない。まあ、あっちはあっちで楽しんでもらいましょうや」
 そう言って山下直樹は、バイクに立てかけてあった聖剣を抜いた。
(こ 「殺されるなんて体験、一回でじゅうぶん」へ続く)









 「殺されるなんて体験、一回でじゅうぶん」 」の読了を推奨



(ふ 「二手に分かれた方が効率がいいよ」の続き)
「大きな声を出さないでくださいよ。また余計な魔法を使わなければならなくなってしまったでしょう」
 ドッペルゲンガーはそう言って、赤い瞳で佐藤のことを睨みつけた。佐藤は笛を構え、何を呼ぼうかと考える。ドッペルゲンガーの指が空を撫でると、ふっと周囲の空気が変わった。何をしたのか、と一瞬いぶかったが、すぐに違和感の正体は判明した。周囲の音がぱたりと止んだのだ。
「……音を消した? ずいぶん色々な力を持ってるんだね、君」
「音を消したのではなく、他の方々から気付かれにくいようにしただけです。あなたも、外で起こっていることに気付きにくくなっているだけ。聞こうと思えば外の音も聞こえますし、入って来ようと思えば外からでも入ってくることができます」
 ドッペルゲンガーは言いながら、手にした包丁を佐藤の方へ向けた。相変わらずその姿は佐藤と寸分違わないもので、傍目に見ると異様な光景だろうな、と佐藤は思う。
「意味ないって分かってるだろうに、なんでいつも包丁持ってくるかなあ」
「あなたを殺せ、とあの方に命じられたもので……とりあえず、刺すのが手っ取り早いかなあ、と思ったんですけど」
 あの方、と言いながら、ドッペルゲンガーは屋上を見上げた。校舎裏にいる二人からは、角度がついて上の様子はよく見えない。佐藤は校舎の壁から数歩離れ、屋上からこちらを見ている人影の存在と、それが山田であることを確認した。
「大臣様も来てるの?」
「はい。あそこにいらっしゃる、あのシュリフィードの魔法使いのことは、私のご主人様が倒してくださるそうです」
 佐藤は銀の笛を吹き鳴らす。上手くいくかどうか不安だったが、やがて頭上に巨大な鳥の影が現れた。紀香、と呼ばわると、鳥は佐藤のそばに降りてくる。
「悪いけど、君にかまけている余裕はないんだ。あいつは君にとっては大切なご主人様かもしれないけど、僕にとってはただのウザったい他人なんでね……くそ、人をナメるのもいい加減にしろよ、畜生!」
 魔鳥の背に飛び移り、佐藤は笛を吹く。魔鳥は翼を広げてはばたき、三階分の高さを一瞬で飛び上がる。杖を構えた山田と、聖剣を構えた山下直樹が、鋭い空気を漂わせながら対峙している。
「危ないから来ない方がいいぜ、佐藤」
「なんだ、あいつからは逃げてきたのか、クソガキ」
 二人がそれぞれに口を開くが、佐藤の方にはちらりと視線を向けたきりだ。と、突然魔鳥が鳴き声を上げる。とっさにその場から飛び退くと、頬に鋭い痛みが走った。
「惜しい。あと二秒遅ければ、頸動脈に刺さったんですけどね」
「痛っ……冗談じゃないよ、まったく」
 指で触れると、肌が浅く切れていた。いつの間にか屋上に上がってきていたドッペルゲンガーは、包丁を逆手に持ち替え、佐藤を睨みつける。視線は佐藤に据えたまま、ゆっくりと口を開いた。
「そこにいるのは直樹様ですね。ご主人様からの伝言をお伝えするのを忘れておりました。お聞きになりますか?」
 山下直樹は短く口笛を吹き、そばにあった自分のバイクにどこかへ行くように命じた後、山田への警戒を怠らないまま「頼む」と答えた。
「『あなたの意思には反しますが、佐藤浩を始末させていただきます』」
「理由は聞いてる?」
「『放置しておけば、職務の遂行に支障をきたすおそれがありますので』」
 そうか、とつぶやき、彼はわずかに目を伏せた。その間に山田はカバンの中から、布にくるんだ何かを取り出す。
「佐藤、これ使え。火傷するから、直には触るな!」
 佐藤は素早く身をひるがえし、投げられた包みを片手で受け取る。包みを開けると、ほのかな金色の輝きを持つ石が出てきた。
「何、これ?」
「聖剣の刀身と同じ石。たっぷり魔力が注ぎ込んである。お前の力を助けてくれるだろうよ。使い方は口じゃ説明不能だ、直感で使え!」
 そんなこと言われても、と佐藤はドッペルゲンガーの方を振り返る。包丁が再び空を薙いだ。石を布で包み直し、数歩下がって包丁のリーチの外に出る。
「直樹様、勘違いなさらないようにお願いします。ご主人様が彼を始末するのは、決してあなたなんかのためではありませんから」
「言いたいことはそれだけか。……失せろバケモノ。そこにぼんやりつっ立っていられると、間違えて刺しちまうかもしれないんでね」
 ドッペルゲンガーと山下直樹の間に、棘を含んだ言葉が交わされる。ドッペルゲンガーは佐藤を強く睨みつけた。佐藤の動きがぴたりと止まる。そして数瞬の後、二人の足が、同時に踏み出された。佐藤が小さく舌打ちする。
「了解いたしました」
 ドッペルゲンガーが金網に取り付き、よじ登って柵を飛び越えた。そのまま下に飛び下りる。佐藤は何かに追い立てられるように、同じ仕草で三階から空中へと飛び出した。
「あのガキのことなら大丈夫だ、あのでっかい鳥のバケモノが助けてくれるだろうよ」
 山下直樹が笑いながらそんな台詞を吐いた。彼の言うとおり、落ちる佐藤の身体は、中空で魔鳥に支えられて止まる。
 なんとか地面に降り立つと、ドッペルゲンガーは包丁を地面に放り出す。地面を滑って、包丁は佐藤の足元に転がってきた。自分の手がその包丁を拾おうとしていることに気付き、佐藤はその干渉を解こうと歯を食いしばる。左手に握ったままの石の存在が気になるが、ほのかに暖かいような気がするだけで、どうすべきものなのかよく分からない。
 佐藤の右手が包丁を掴んだ。刃先が彼の喉もとに向けられる。以前は簡単に振りほどき、逆に相手を操ることができたはずなのに、どうにも上手く行かない。
「魔法理論も知らない、『魔王』の一族ごときに、二度も遅れは取りませんよ」
「個人的な意見を言わせてもらえば、殺されるなんて体験は一回でじゅうぶんだよ。そりゃあ、君にもあの人にも同情はするよ。可哀想だし、仕方ないんだろうなとは思う。けどね、ちょっといい加減、しつこいと思うんだ」
「あなたのそういうところが、直樹様を怒らせているんだと思いますけどね。直樹様は、格下のあなたに憐れまれるなんて、とご立腹です。あなたの幼なじみも、あの『電卓』も、あなたへの嫌がらせのために傷つけられているのだと、気付いていらっしゃいますか?」
 その瞬間、何とも言えない感情に突き動かされ、佐藤は右手の包丁をドッペルゲンガーの方へと向けた。左手の石をくるむ布を引きはがし触れる。石に触れた指先が焼け付くように痛んだ。しかしその熱が、そのまま指先から腕を通って身体を巡るような感覚がある。
「とりあえず、お前なんかが僕と同じ顔をしてるって考えただけで虫酸が走る」
 ドッペルゲンガーと佐藤の間に、力の流れのようなものを感じた。それが何なのかはよく分からなかったが、佐藤は迷わず包丁でそれを断ち切り、そのままドッペルゲンガーに斬りつける。身体は自由に動いた。いつも彼が家に住む魔物にするように、従え、と念じる。
「さっさと僕の前から消え失せろ!」
 ドッペルゲンガーの姿が、ぐにゃりと歪んだ。髪や肌、上着の色が鮮やかさを失い、コンクリートのような無機質な灰色に変わる。形が、粘土細工を丸める時のように凹凸を失い、やがて新たな形を作り始めた。石から与えられる熱のせいなのか、やけに澄んだ感覚の中で、佐藤はドッペルゲンガーの身体の中心めがけ、包丁を深々と突き立てる。
「いいんですか?」
 返ってきた声は、佐藤のものではなかった。聞き覚えのある声に、佐藤は目を見開く。
「あーあ、またあなたのせいで、余計な人を巻き込んでしまいましたね」
 ドッペルゲンガーは、腹に包丁を埋めたまま、高い女性の声で答える。
 その顔は、どう見ても藤原春月のものだった。
(え 「得手不得手っつうもんがあるんですよ」へ続く)









 「得手不得手っつうものがあるんですよ」 」の読了を推奨



(こ 「殺されるなんて体験、一回でじゅうぶん」の続き)
 ドッペルゲンガーは、春月の顔でにっこりと微笑んだ。
「え……なんで、藤原さん……?」
「たまたま近くにいた方の姿をお借りしました」
 そう言って、ドッペルゲンガーは佐藤の背後を指さす。振り返った佐藤の目に、青ざめた表情で立っている春月の姿が飛び込んできた。確かにここは裏門への近道だ。時間的に考えても、彼女がいたところで何もおかしいことはない。
 ドッペルゲンガーが、力の抜けた佐藤の手の上から包丁の柄を握り、ゆっくりと引き抜く。背後の春月がその場に膝をついた。佐藤は慌てて彼女に駆け寄る。
「ふ……藤原さん!? 大丈夫? 怪我は――」
「佐藤くん? ちょっと、何なのよあれ、っていうか何? あんたが実はキレると怖いタイプで、前の学校で番長張ってて裁判沙汰になって逃げてきたって噂はマジなわけ!?」
 噛みつくような勢いでまくしたてると、春月は佐藤の腕を掴み、「なんか痛いんだけど!」と叫んだ。厚いコートの下でよく分からないが、腹を押さえて苦しそうにしている。ちょうど、佐藤がドッペルの身体に包丁を突き立てた、その位置だ。
「いや、その噂はデマだけど……ってそうじゃなくて」
「痛……って、ちょっと、何そんな心配そうな顔してんのよ。そんな似合わない顔されたら、まるで私が死んじゃうみたいじゃない。私は大丈夫だから、そんな顔しないでよ!」
 確かにそれだけ喋れるのだから、それほどの傷ではないのかもしれない。それでもなぜか、佐藤は次に続けるべき言葉を見つけられずに喘いだ。
「おや、もしかして幼なじみのことでも思い出しましたか? 辛そうですね」
「……黙れ」
「いいんですか? 彼女がどうなっても知りませんよ?」
 勝ち誇ったように言うドッペルゲンガーの頭上に影が落ちる。佐藤が見上げると、そこには魔法のじゅうたんに乗って降りてくる山田の姿があった。山下直樹がバイクで追ってくる。二人は一瞬のうちに地面に降り立った。山田は状況が掴めずに眉をひそめ、山下直樹は興味のなさそうな様子でバイクのスタンドを立てる。
「やっぱりあんたが関わってたんだ、山田?」
「藤原……おい、どういうことだ、佐藤!」
「僕から引きはがしたあいつが、たまたま通りかかった藤原さんに化けた。ついでに僕はあいつを刺しちゃったから、藤原さんにその余波が来てる」
 山田は舌打ちし、春月の元に駆け寄った。春月は荒い息をつきながらドッペルゲンガーを睨みつける。山田はとっさに春月のコートの腹に触れたが、出血しているような様子はない。セクハラ、と春月がつぶやいて、山田の手を払いのけた。
「ちょっと、あんた」
 赤い瞳の他は、春月と寸分違わない姿のドッペルゲンガーに、春月が話しかける。染めるのに失敗して少し明るくなりすぎた茶髪、コートの裾と同じくらいの長さまで裾を上げたスカート、くたびれ気味のルーズソックス。その姿で手に包丁を持ったドッペルゲンガーは、春月の方を見て「どうかしましたか?」と尋ねた。
「そもそもアンタ何者? もしかしてあれ? 見たら三日で死んじゃうとかいうドッペルゲンガー? 何でもいいんだけどね、そういう中途半端なコピーは頂けないわ」
 ふらつきながら春月は立ち上がり、ドッペルゲンガーを指さす。
「私はもっと美人よ!」
「ンなわけあるか!」
 思わずツッコミを入れてしまった山田の前で、春月は大きく咳き込み、山田の胸に体重を預けた。それでも彼女の言葉は止まらない。
「今時、ドッペルゲンガーの一匹や二匹で誰が怖がるかっつうの。だいたいね、私は今から大物になるんだから、まだ死ぬわけにいかないの。そもそも、その劣化コピーは最悪ね。今どきの女子高生は、包丁なんて可愛くないもの持って学校に来ないわよ!」
「女子高生じゃなくても学校に包丁持っては来ないだろ」
「うるさい黙れ部外者!」
 怒鳴りつけられて山田は口をつぐむ。春月は大きく息をついた。
「ふう……叫んだらちょっと治まったわ。ちょっと一瞬死ぬかと思ったわよ。慰謝料請求していいかしら。ところであんた誰? 部外者は立ち入り禁止だよ、ちゃんと許可取ってる? 事務室で許可証貰ってこないと、不審者扱いで通報されちゃうよ?」
 台詞の後半は山下直樹に向けられたものだ。彼は一瞬あっけに取られたあとで、唐突に吹きだし、勢いよく笑い出す。
「すげえ! お前本当に、いつか絶対大物になるよ。感激した。でもそれとこれとは話が別だよな。おいバケモノ、必要ならコイツ殺してもいいからな」
「了解いたしました」
 ドッペルゲンガーは自分の腿に包丁の刃先を当てる。春月が「何よコレ」とつぶやきながら、同じ姿勢を取った。その包丁を突き立てれば、春月の方にも影響が行くだろう。佐藤はそう考えながら、それでも動けずにじっと立っていた。
 山下直樹が春月の方に近づき、山田の側に立っている彼女の顎を掴んだ。山田が制止の声を上げたが、ドッペルゲンガーの存在を気にしてか、手を出そうとはしない。
「お前、日本人か? ずいぶん肝の据わった女だな。怖くないのか?」
「私は日本人よ。あんたも魔法使い? 別に怖くもないわよ、あんなの。どうせ魔法で動いてる何かでしょ?」
 顔にはっきりと不快の色を浮かべながら、春月は答える。
「まだ魔法を万能だと思っているクチか。うん、まあ、いいだろう。それなら仕方ない。知れば知るほど、薄気味悪くなること請け合いだ」
 そう言った山下直樹の表情が、突如硬いものになる。春月から手を離し、一瞬前まで聖剣を握っていた右腕を押さえて舌打ちした。春月がとっさに顔を背ける。山下の着ていたジャンパーが裂け、血が滲んでいた。
「隙あり」
 山田が聖剣を片腕に抱え、春月を引き寄せる。山下の腕を傷つけ、勢いで聖剣を奪ったようだった。ほぼ同時に佐藤が動く。素早い手刀をドッペルゲンガーに見舞い、その手から包丁をはじき飛ばした。
「……『バトラー』が出てきたのって、単にあなたがケンカに弱いから、オレと勝負させるわけにはいかないって意思表示だったんじゃないですか。世の中には得手不得手っつうものがあるんですよ。無理はしない方があなたのためだったような気がするんですけど」
「そうかもなあ。でもそれって、子供の喧嘩に親が口出すようなモンだよな」
「自分で言っててむなしくなりませんか? ……じゃなくて、少しは痛いとか止血しようとか考えないんですかあなたは」
 山田に言われ、山下直樹は首をかしげながら右腕を見下ろした。
「と言われても、別に痛くもないしなあ。上着が汚れたのは気にくわないけど」
「痛くない、って……」
「俺はもう、人間っつうよりバケモノの側に片足突っ込んでるし。『バトラー』は執事じゃなくて戦闘機だぜ。痛覚は抑えてあるし、傷の治りも早い。初めはショッカーに改造された仮面ライダーみたいな気分で、もの凄く違和感があったけど、すぐに慣れた」
 皮肉めいた笑みを浮かべながら、山下直樹はジャンパーのポケットに手を突っ込み、カッターナイフを取り出す。たちまちカッターナイフは形を変え、長剣の姿をとった。
「俺の負けだ、魔法使い。あのクソガキには当分会わないでおいてやるよ。『バトラー』様は怒るかもしれないけど、知ったこっちゃないや。だからせめて、最後に」
 長剣の先を、佐藤に向ける。
「取りあえず、お前を刺して行こうと思うんだ」
 その剣をじっと見ていた春月は、おずおずと顔を上げ、口を開く。
「それ、もしかしてコモルレッドのコモルソード? 根暗戦隊コモルンジャーの……」
 放送中の戦隊ヒーロー物の名前を挙げ、春月が尋ねると、山下直樹は大きく頷いた。
(て 「手を繋ごうか?」へ続く)









 「手を繋ごうか?」 」の読了を推奨



(え 「得手不得手っつうものがあるんですよ」の続き)
「根暗戦隊コモルンジャー……?」
 首を傾げた山田に、春月が説明を始めた。
「日曜の朝にやってる、子供向け戦隊ヒーローもの。引きこもりのレッド、ナルシストだけど性悪のブルー、自殺志願者のピンク、過食症のイエロー、ロリコンのブラックの五人が、幼稚園バスを悪の組織の手から守ろうとする番組。弟が好きで、私もたまに見てるんだ。ブラック役の俳優さんが、けっこう格好いいのよね」
「……で、あの剣がそのレッドの武器なのか?」
「うん。ちょっと違うけど、よく似てる。本物はもっと安っぽい雰囲気だよ。ただあの剣、敵を斬るより、自分の手首を切ってる時の方が多いような気がするけど」
 山下が嬉しそうに春月の肩を叩いた。
「分かってくれたのはお前が初めてだ! いやあ、嬉しいなあ。俺、あの番組いつも見てるんだけどさ、なぜか勇者のやつら、みんな日曜の朝から魔王退治に出かけるもんだから、リアルタイムで見れたためしがなくて」
「そりゃあ勇者にだってそれぞれの生活がありますからね。日曜の朝くらいしか暇がないんじゃないですか」
 山田が冷たく言い放った。少し離れた所で、佐藤があからさまに反応に困っている。ドッペルゲンガーが「あの能無しめ」と小声でつぶやいた。それを聞きつけ、佐藤がぎょっとした表情を浮かべる。魔鳥はグエッゴポーと鳴きながら佐藤の周りを飛び回っている。「帰りたい気持ちはよく分かるけど、もう少し待っててくれる?」と佐藤が呼びかけているのが、春月たちの耳にも聞こえた。
「ところで、ロリコンのブラックが幼稚園バスを救いに行くのか? どっちかというとそっちの方が悪の組織より危ないような気がするんだけど、その辺はどうなんだ?」
 山田が声をひそめ、春月に尋ねる。春月が答える前に、山下直樹が口を挟んだ。
「それなら問題ない。ブラックは二次元の幼女にしか興味がないからね。俺と一緒で」
「……二次元って、アニメですか。見かけによらずダメ人間だったんですね」
 山田がこめかみに親指を押し当てながら呻いた。
「ダメ人間ってお前、現実の幼女なんかにはまったく興味ないんだから、人畜無害だぜ? ちなみに特撮モノも好きだけど、ヒーローショーはスーツアクターの存在を意識しちまうから絶対に行かないな。そもそも、コモルレッドは強いんだぜ? ちょっと思い知ってみるか? 行け、スーパーコモルビーム!」
 至近距離で剣の先から光が放たれ、山田の額に当たる。春月が顔色を変えた。山田は頭を押さえ、そのままその場にかがみ込み、地面に指で「の」の字を書き始めた。
「……なんか今、突然生きてることが虚しくなってきた」
「山田、負けちゃダメ! 相手を暗い気持ちにさせる、それがレッド最強の攻撃、スーパーコモルビームよ! 抵抗できないと、そのまま引きこもりになっちゃうわ!」
 山田の肩を必死に揺する春月。危ない、と佐藤が叫んだ。直後、春月の頭に衝撃が走る。彼女がおずおずと背後を振り返ると、さっきの剣とは違う長いステッキを持った山下の姿があった。細いステッキの先には、ハート型の宝石が取り付けてある。
「それ……まさか、『恋愛お助け隊・まじかる☆ココア』のラブリーステッキ!?」
「ああ! まじかるココアは俺の永遠の憧れだ。さて、そろそろラブラブアローの効果が発動するんじゃないかな」
 山田は俯いたまま、顔を上げようともしない。佐藤はうんざりした表情で肩をすくめ、ドッペルゲンガーはさめざめと涙を流し始めた。春月は必死に首を振り、魔法の効果に耐えようとしている。
「やだやだ、この中の誰とだとしても嫌すぎるー!」
「……藤原さん、ラブラブアローって何なの?」
「まじかる☆ココアは日曜九時から放送してるアニメで、その主人公が魔法少女まじかるココア! ラブラブアローは主人公の魔法のひとつで、男と女をムリヤリくっつけてラブラブにしちゃう呪文よ! だからもし私があんたに抱きついちゃったりしても、それは魔法のせいだから後でさっぱり忘れてちょうだい!」
 春月は歯を食いしばり、山下直樹を睨みつける。彼はすました表情で、その視線を受け流した。ドッペルゲンガーが、マスカラと涙を拭いながら何かつぶやいている。
「いい年して、あんな役にも立たない呪文ばっかり身につけて。勇者探しに行く時だって、普通に話しかければいいものを、わざわざ前世とか持ち出して、占い師か何かになりきっちゃって、気持ち悪いったらありゃしない。いつまでもいつまでも人のことバケモノ呼ばわりするし。私だけなら良いですよ、でもご主人様のことまでバケモノ扱いは酷いんじゃないですか。ああ、あなたは知りませんでしたっけ、あそこにいるのはご主人様とは別の人格、直樹様ですよ。ご主人様に身体を貸しているだけのただの人間の、残りカスみたいな意識。それでも魔力の相性が良すぎて、ご主人様が直樹様から離れられないのが本当に悔しい。彼のお父様の誠様は本当にいい方だったのに、どうしてあんなごくつぶしが後を継がなければならなかったのかと思うと、残念で仕方ありません。私はお姉様の陽子様が良いと思ったんですけどね、『同じ名前の人格が複数いるとややこしい』とか訳の分からない理由で継承順位を飛ばされて」
「……意味はよくわからないけど、君も意外に苦労してたんだね」
 ドッペルゲンガーは佐藤の腕を掴み、上目遣いにじっと彼を見上げた。春月の顔でそんなことをされると、佐藤の方も落ち着かない。
「そうなんです! しかもご主人様は直樹様に甘くて。そりゃあ仕方ないんですよ、ご主人様は直樹様の心を糧にしているんですから、憑いて五年も経てば感情も混じるし、愛着も湧くでしょう。だからって、直樹様があなたを嫌ってるというだけで、あんな手間のかかる嫌がらせに奔走して! 分かりますか? 分かってくださいよ! あなたがたまたま、あの魔法使いや『電卓』に接触して余計なことを知って、始末されるべき存在になってくれなかったら、ご主人様はきっといつまでも直樹様のために骨を折り続けたんですよ! ご主人様は私の物なのに!」
 ご主人様、というのが、あの丁寧かつ人を小馬鹿にした口調で喋る男なのだろう、と思う。直樹様、と呼ばれている今の山下直樹は、明らかに以前会った時とは別人だ。なんとか頭の中で整理をつけながら、結局最後の一言が本音なのだろうな、と佐藤は思った。
「一郎兄さんが、魔王を継いだ途端に自殺したくなる気持ちもよく分かるよ。相手があれじゃあね……マジメにやる気もなくなるってもんだ」
「それは今の魔王様のことですか? そんなことをしていたんですか。直樹様は『俺はあいつよりはマシだ』と常々おっしゃっていますよ。嫌がらせの矛先が魔王様ではなくあなただったところを見ると、魔王様は相当見下されているんですね」
「さすがの一郎兄さんも、あんなロリコンよりはマシだと思うんだけど!」
 春月が山田の横にしゃがみ込んだ。魔法の標的は無難に山田だったらしい。山下直樹がステッキを剣に戻し、「掴まえておけ、バケモノ!」と叫んで佐藤の方へ走ってくる。
「俺はどうせケンカに弱いさ! 『バトラー』様に任せておけば勝てただろうし、ヨウコだってお前を倒してくれると信じてる! だけど俺だって、元が一般人だった割には頑張ってると思うぜ! 俺のように魔法を知らずに育った日本人にとって、魔法ってのがどれだけ気持ちの悪い存在か、一度でも想像したことがあるかクソガキ!」
 ドッペルゲンガーは佐藤の腕を強く握っている。山下直樹は剣を腰の高さに構えて突っ込んできた。佐藤は少しだけ眉をひそめる。振りほどこうと思えば、ドッペルゲンガーを振り払うことはできるはずだ。しかし、
「それは同情のつもりか!」
 佐藤は切っ先を避けようともせず、まともに刃を受け止める。体重の乗った一撃に逆らわずに、そのまま地面に転がった。ふう、と小さく息を吐いて、コートを裂いた剣の先を目で追っていく。力を受け流したので、それほど深い傷にはなっていないようだった。脇腹を手で押さえ、顔をしかめながら立ち上がる。
「そうかもしれませんね……ああ、もう、制服の修繕は大変なのに。母さんに何て言おう……で、僕を刺して満足しましたか? しないでしょうね。させる気もありません。あなたが僕を嫌いなように、僕はあなたが嫌いですから。ロリコンだからとか、そんな下らない理由じゃなくて、人間としてのあなたがありとあらゆる面において嫌いです。僕と同じレベルで戦おうなんて甘いことは考えないでください。僕は嫌です。……ついでに言うと、あなたと同じシステムの中にいるのも不快なので、魔王を継ぎたくもありません。知人を巻き込みたくもないし、まだ死にたくもないんで、必要ならば口をつぐみましょう」
 口早にそう言って、佐藤は山下を正面から睨みつける。
「何にせよ、僕はもうあなたに会いたくない。これだけ僕の方から探しておいてこんなことを言うのもなんですけど、これで縁が切れるなら幸いですよ。あとは一郎兄さんが、魔王として長いこと頑張ってくれることを期待するだけです」
 山下の表情が、ふと硬いものに変わる。「そうか」とつぶやいて、踵を返した。
「それでは、私はそろそろ失礼するよ。少なくとも、あんたが高校生であるうちは、手を出さないことにしようじゃないか。あんたが卒業するか、魔王を継いだ時にはまた来る」
 山下直樹、もとい「バトラー」はそう言って、まだうずくまっている山田とその横の春月を一瞥し、バイクに乗り込んだ。ヘルメットを被り、エンジンをふかし、勢いよく発進して、前輪を浮かせ、そのまま中空へと飛んでいく。
「山田、泣かないで。ほら、大丈夫? 手でも繋ごうか? 立てる?」
 春月の声がする。愛の力なのか、やけに面倒見がいい。「それでは、私も失礼します」とドッペルゲンガーが言って、佐藤の前で小さく手を振った。
「でも、私はまだ、あなたの前に現れないなんて約束はしてませんからね」
「勝手にしろ」
 ドッペルゲンガーは春月の顔で微笑んだ。直後、その姿がかき消える。
「紀香、もう帰っていいよ」
 銀の笛を吹き鳴らしながら、佐藤は目を閉じる。
「もう当分、戦うことはないから」
 冬の冷たい空気の中に、ふと暖かい風が吹き抜けた、ような気がした。





わ〜む へ / 戻る / あ〜ん へ

Copyright (C) 2004-2005 Runa Gekka All rights reserved.