46の台詞。inスプリング*スプリング part2
月香るな


 「悪いけどこっちが先約なの」 本編第六話の読了を推奨



 放課後の視聴覚室で、藤城育人はエレキギターを相手に、文字通り格闘していた。
「鳴れ! 鳴れって言ってんだよ! 聞こえねえのか、このポンコツ!」
「育人、ちょっと落ち着いて……」
「これが落ち着いていられるか! ええい、動くな、ぎっちょん!」
 逃げようとしたエレキギターのストラップを握りしめ、藤城は叫ぶ。それを見ていた輝美は、やれやれ、とでも言いたげな表情でため息をついた。
 やや太めの紐のような手足を生やし、漫画のような丸い手足をつけたエレキギターは、肩から掛けるためのストラップを押さえられてじたばたと暴れている。
 ぎっちょん、という名前らしいそれは、つい先日、王子とやらが作って放置していった物体だ。元はごく普通のエレキギターだったはずなのだが、時々手足を生やしては、逃亡を図ったり、へそを曲げて音を出さなかったり、抱きついてきたりと迷惑この上ない。久々のバンド練習だというのに、これではいつになったら練習が始まるのだか。もっとも、メンバーの残りの二人、春月と山田がまだ来ていないところを見ると、もうしばらくはギターと戦う時間があるように思えた。
「なんだよ、さっきまでちゃんと鳴ってたじゃねえか……」
「ぎっちょん、いつも機嫌悪いわよね。安西くんや春月がいる時は大人しいのに」
「安西や一条の前で手足生やされても困るけどな。そこら辺は、一応自制心があると褒めてやってもいいのかな……あ、鳴った」
 触れてもいないのに、エレキギターが和音を鳴らす。よしよし、と藤城がボディを撫でると、エレキギターの手足が彼の腰に抱きついた。
「よしよし、いい子ね」
 輝美が同じように手を出すと、今度は大音響で不協和音が鳴り、エレキギターは輝美の手をはね除ける。輝美はわずかに眉根を寄せたが、それ以上は何もせずに、藤城の身体にしなだれかかる。その途端、エレキギターの足が伸びて、輝美を思いきり突き飛ばした。その手足は、再び藤城の身体を抱きすくめる。苦しい、と藤城がうめくと、わずかに拘束が緩んだ。
「……わたしのこと、そんなに嫌い?」
 肯定するように和音が鳴った。
「育人のこと、そんなに好き?」
 奏でられたのは、流行のラブソングのコード進行だ。輝美はくすくすと笑いながら、藤城の腕に抱きついた。
「ギターごときに、育人は渡さないわよ。悪いけどこっちが先約なの」
 エレキギターは輝美を藤城から引きはがそうと蹴りを繰り出した。輝美はそれを避けようとはせず、手で受ける。それと同時に、膝でエレキギターのボディを蹴飛ばした。ゴッ、と痛そうな音がしたが、輝美は意に介す様子もなく、手足を引っ込めて床に落ちたエレキギターに対し、優しい笑顔を向けた。ゆっくりと口を開く。
「無機物がわたしと張り合おうなんて、百年早いのよ。あなたは大人しく、ただ鳴っていればいいの」
「……あの、輝美?」
「どうしたの、育人? 顔が青いわ。汗もかいてる。気分が悪いの? きっとこのギターがいけないのよ。こんなの準備室に片づけちゃって、いつも安西くんが使ってる方を出してくるといいわ」
 そう言いながら微笑まれ、藤城の頬を冷や汗が伝う。どうしよう、と悩んでいると、エレキギターが跳ね起きた。振り回されたストラップが輝美の鼻先をかすめる。輝美はあせらず迷わず、上履きでボディを蹴飛ばし、踏みつける。そのまま反対の膝をついてかがみ込み、「それ以上調子に乗ると燃やすわよ」とささやいた。
 背後で扉が開く音がして、藤城は振り返る。見ると、山田と春月が入ってくるところだった。一瞬目を離したすきに、輝美はギターから離れ、椅子に腰掛けてにこにこと笑っている。
「ずいぶん遅かったね」
「うん、ごめんね。掃除が長引いちゃって。もう、こいつがさあ……」
 三歩離れた場所で穏和な笑顔を浮かべる輝美と、足元で転がっているエレキギターを交互に見つめながら、藤城は深いため息をつく。
「俺はひょっとして、とても愛されてるんですかね」
 春月のけたたましい喋り声に紛れて、そのつぶやきは誰の耳にも届かなかった。

(本編とは設定が大きく異なります。藤城・輝美が魔法のことを知っているという前提でお読みください)









 「彼女は、お前の手には負えないよ」



 本庄サトミは、レースのカーテン越しに隣家の窓を見つめていた。距離はわずかで、両側から手を伸ばせば届きそうな気もしてくる。向こうの窓は障子がきっちりと閉められ、電気は消えている。まだそう遅くはない時間だから、部屋の主はまだ夕食でも食べているのだろうか。
「……カナ子」
 動揺しているのが自分でもわかった。机の上に開いたままの手帳には、中学生の時に二人で撮ったプリクラが貼ってある。「写真に撮られると魂が吸い取られるんだ!」と主張するカナ子を、屁理屈で言い負かしたことを思い出した。
「電波のくせに、電波のくせに……」
 拳を強く握りしめて、どん、と机を叩いた。
「彼氏ができたって何ー! 意味わかんないしー!」
 向かいの部屋の電気が点いて、サトミはハッとなって口をつぐむ。バン、と勢いよく障子が開いて、ガラス窓の向こうに脳天気なカナ子の顔が見えた。
 サトミはカーテンとガラス窓を開け、やっほー、と手を振る。
「皓羅! あのね、今日は心霊スポット巡りをしてきたのよ」
「それは良かったねー」
 落ち着いた小花模様の、アーリーアメリカン調のワンピースは、カナ子にやけに似合っていた。フリルの多いロングスカートなど、かなり人を選ぶ洋服ではあるが、ぶっ飛んだ電波具合と相まって、それなりにちょうどいい。
「皓羅がいれば、あんな怨霊ども、すぐに除霊できたのにね」
 にこにこと笑いながら言うカナ子。どうもテンポを狂わされて、サトミは複雑な表情を浮かべた。
 こんなの、いつもの電波じゃない。そう叫びたいのを、サトミはぐっとこらえた。彼女の、ワンピースに軍靴やらおもちゃの王冠やらを合わせるファッションセンスは、いつものようにサトミには理解できない。それでも、明るく笑う顔はサトミが落ち込みたくなるほどに整っていて、均整の取れた身体つきも見とれたくなるほどだ。口を開けば電波だから、それがすべてをぶち壊すのだが。
 ……だが、そのはずなのに、今のカナ子は電波に見えない。まるで、普通の女の子に近づきつつあるような――
(って、だったら喜ぶべきじゃないか)
 そう自分に言い聞かせても、やはり何かがおかしい。その違和感の正体がつかめなくて、サトミはカナ子の話を聞きながら、どこか無理のある笑みを浮かべた。

 そもそも、サトミは最近の動向が面白くなかった。
 少なくとも、あの日――前世で仲間だったと名乗る、奇妙な占い師が現れてから、カナ子の周囲の世界は一気に変容していったのだ、と思う。
 妄想の副産物、で片づけるには、あまりにもリアリティがありすぎた。カナ子の電波に同調できる人間が、複数人存在することも知った。記憶が飛んでいてよくわからないのだが、確か勇者となって魔王と戦って負けていたような気がする。そう、あの頃から、電波は現実世界を確実にむしばんでいる。
(魔法……そう、魔法だ)
 幽霊がいるのなら、魔法だってあるだろう。信じない人間はきっと何をやっても信じないだろうし、信じる人間は深く存在を信じている。サトミはしばらく考えていた。しかしどうしても、重い剣を軽々と振り回したりスプーンを曲げたりといった能力が、プラズマのせいで発現したとは考えづらい。
 カナ子の妄想がただの妄想ではなく現実なら、おかしいのはカナ子ではなく世界の方なのだろうか。サトミは頭を抱える。考えれば考えるほど、泥沼にはまっていくのがわかった。
「おはよう、皓羅。今日もトカゲが飛び回る良い天気ね」
 カナ子のその声で、サトミは現実に引き戻された。いつものようにカナ子の家の前で待ち合わせ、高校へ向かう。家が隣同士で、学校が同じならば、別々に通うほうが不自然な気もして、十年来のこの慣習は、未だに連綿と続いている。
「おはよー。……って、あれ? なに、その荷物」
「学校帰りに待ち合わせて、遊びに行くのよ」
「彼氏と?」
 カナ子は大きくうなずいた。膨らんだバッグの中身は、どうやら私服らしい。
「あとで皓羅にも紹介するわ」
「楽しみにしてるよ」
 そう答えたとたん、なぜかカナ子の顔を正視できなくなって、サトミは思わず空を仰いだ。
「どうしたの、皓羅?」
「……何でもない」

 さて、その日の放課後、帰宅部のカナ子は大ぶりのカバンを足元に置いて、校門の門柱に寄りかかっていた。サトミは部活のためのジャージ姿のままその横にしゃがみ込み、「早く来ないかなー」とつぶやく。
「あ、来たわよ」
 カナ子の指さす方を見たサトミは、そのまま反応に困って沈黙する。
 ……植え込みが、カサコソと音を立てながら移動してきている。
「あの、カナ子、あの不自然な物体が、その……彼氏?」
「そうよ。のんちゃん、今日も良い陽気ね」
 のんちゃんと呼ばれた植え込みが、小さく頷いた。それから壁に近寄ったかと思うと、植え込みはもぞもぞと動き、そして中から人間の頭が突き出した。
「やあ紫蘭、待たせたね」
 爽やかな口調で言うその男は、頭に黒い頭巾を巻いていた。顔を隠そうとでも言うのか、口元も布で覆われている。いわゆる、漫画に出てくる忍者の格好だ。
「ううん、全然。のんちゃん、こっちはアタシの友人の皓羅よ。前世で一緒に戦った仲間なの」
「やあ、こんにちは、会えて光栄です! 僕は朝日昇、略して風来のジョーと呼んでください」
「略してねえよ」
 それにしてもポジティブな名前だなあと思いながら、目の前の忍者を見つめる。
「はじめまして。……あの、ちょっと失礼」
 朝日を植え込みごと引っ張って、少し離れたところに移動する。小声で尋ねた。
「カナ子とは、どこで知り合ったんですか」
「ある日、僕が職務質問をされて困っていたら、彼女が助けてくれたんです。あの天真爛漫な性格、独創的な服のセンス、その他諸々に一目惚れして、僕のほうから告白しました」
「へえ。で、めでたく告白は成功してしまった、と」
「はい!」
 覆面でよくわからないが、おそらく笑顔で答えているであろう朝日の耳に顔を近づけ、サトミは囁いた。
「ふうん。……でも彼女は、あなたなんかの手には負えないわよ」
 え、と声を上げた朝日から離れ、サトミはカナ子に手を振る。
「カナ子、どうもありがとねー。そろそろ始まっちゃうから、もう行くよー」
 そしてそのまま一度も振り返らずに、早足で校庭の方へと歩いていった。









 「余計なことを」 」の読了を推奨



 佐藤浩は、いやに不機嫌そうな顔でハンバーガーを口に運ぶ。平日の午後とは言え、バーガーショップの店内はやけに空いていて、二階席の隅に座っている山田と佐藤の会話を聞く者はいないだろうと思われた。
「余計なことをしないで欲しいんだけどな。何なのさ、対決って」
「これはオレと『大臣様』の問題だ。お前にとやかく言われる筋合いはないよ。……それにしてもあの大臣様、お前にいたくご執心じゃないか。何かあるのか?」
「……僕に?」
「そりゃ、そうだろうよ。白見沢って言ったら、ここからヘタすりゃ一時間近くかかるだろ。現魔王が、『大臣様』と同じ白見沢に住んでるなら、わざわざこの土地で『勇者』を探している理由として、考えられるのは次の二点」
 バニラ味のシェイクを一口すすり、そのストローを右手でもてあそびながら、山田は空いた左手の指を二本立てた。
「その1、魔力型の関係で、西東京よりも埼玉で『勇者』を探す必要があった」
 魔力型って地域差が大きいから、と山田は補足する。
「その2、お前の目が届く場所で『勇者』を探したかった」
「僕の? まあ、確かに、わざと僕に分かるように行動してるフシはあるけど」
「お前がここに引っ越してくる前、勇者は大体、どこに現れてた? どうせ『お前の』近くだろ? 『魔王の』ではなく」
 佐藤はわずかに眉根を寄せ、上方に視線をさまよわせる。
「僕が引っ越す前に住んでたのは、東浜渡町。小さな町だし、知らないかもしれないけど、白見沢の隣。で、勇者は確かに、その東浜渡によく現れてたね。『魔王』のいる白見沢には、あんまり出なかった……ような気がする」
「だろ。そこに、オレには把握できてない、何らかの意図があるはずだ。ああ、最初に言った魔力型うんぬんについては、一応言ってみただけだから、あんまり気にする必要はないぜ。関東には、聖剣を触れない人間はあんまりいないし」
「ちょっと待って。……聖剣に触れるかどうかって、魔力型で決まるの?」
 ポテトを頬張りながら、不明瞭な声で佐藤が尋ねる。数回噛んだだけで無理にポテトを呑み込み、コーラで流し込むと、改めて同じ質問を繰り返した。
「そうだよ。別に魔王だから聖剣に触れない、ってわけじゃない。……って、お前、あれ触れないよな? 火傷するだろ?」
「火傷するかどうかは知らないけど、触ったら痛いよ。勇者から聖剣を取り上げたら、ウチの魔物が勝手にどこか……多分『大臣様』のところへ運んでいくんだけど、その前に触ったら痛くてびっくりした」
「……その聖剣を渡さなければ、次の勇者も生まれずに全て丸く収まるんじゃ」
「それは禁止されてるの。親も『それはお国のためにならないからやめなさい』って言うし。大体、あの『大臣様』、明らかに僕より強いしさ、逆らえるわけがない」
「そうか。お前の親の意見はともかく、『大臣様』はまあ、そんな感じだったな……話を戻すぞ。ちなみにオレもあの聖剣には触れない。あの剣は、たぶん『氷晶石』っていう鉱物で出来てる。基本的に、魔力を吸い取るんだ。魔力型によっては、魔力を吸われる時にアレルギー反応が起きて、石に触れた部分に、火傷に近い症状が出る」
 へえ、となおざりな返事をして、佐藤はストローを口にくわえた。コーラを飲みながら、目だけで続きを促す。
「興味ないの?」
「現象に興味はあっても、原理に興味はないよ。どうせ意味わかんないし」
「まあ確かに、オレも上手く説明する自信はないや。まあとにかく、オレもお前も魔力型の関係で、聖剣と呼ばれているあの剣には触れない。だから魔物を使って身を守るんだろ? 触っただけでキツいんだ、もし斬られでもした日には、相当ひどいことになるのは目に見えてる」
「だったら、なんでそんな意味のわかんない対決を持ちかけたのさ」
「仕方ないだろ。これが一番、相手の手の内が見えてる対決方法なんだから。正直、あんまり相手にしたくないけど、だからって、あいつの申し出を無視するわけにもいかない。下手したら、外交問題にも発展しかねないし――」
「ねえ、山田くん」
 山田の声をさえぎるように、佐藤が手を挙げた。
「君は確か、初めて喋ったとき、『悪の魔法使い』を自称してたよね? だったら、外交問題とやらが起こるのは、むしろ歓迎すべき事態なんじゃないの?」
 山田は首をかしげ、シェイクを一口飲んでから、厳しい表情で口を開く。
「冗談じゃない。オレ以上の脅威なんて邪魔だ。そんなもん、シュリフィードに持ち込んでたまるかよ。意地でも日本でくい止めさせてもらうぜ」
 アップルパイの紙箱を開けて、その端を一口食いちぎる。その山田の顔から、ふと表情が消えた。何かを考え込むように、しばらく口をつぐむ。
「あ……そうか。えーと、ちょっと基本的な話をするぞ。魔法王国の人間は、基本的に地上みたいな戦争はしない。あんまり派手に戦うと、存在が地上人にバレるから。だから外交問題を片づけるのに、多対多の戦争という選択肢は、ハナからない。基本的に、話し合い、少数対少数の戦い、またはその他の方法、ってことになる」
 佐藤は食事の手を止め、黙って話を聞いている。
「シュリフィード王国ってのは、それほど国力がない。財源不足に喘いでるし、同盟国といえば隣国のガザくらいだし。対して、ランケル帝国ってのは、とにかく人脈やら財力やらが豊富でね。一歩間違うと、『その他』の方法で片づけられる……事実上の属国にされちまう。いや、それでも別に、住んでる分にはあんまり困ることはないんだ。別に奴隷にされるわけじゃないし。ただ、国家の方針は好きにはならないし、王族も議会も実質権力を失う。それって、国民として、なんかムカつくだろ?」
「…………」
「そりゃあ、国内を引っかき回すのは好きさ。せせこましい悪事を繰り返して、巨悪を隠蔽するのも大好きだ。でも、それと外交問題は別」
「……たいした愛国心だね。だったら尚のこと、人の家の台所事情なんかに首突っ込んでる場合じゃないでしょ」
「仕方ないだろ。お前と会って話を聞いた時点じゃ、こんな面倒な裏があるなんて思ってなかったんだから。お前にも分かってない事情だって、沢山ありそうだし」
「僕には何も分かってないさ」
 佐藤は視線を手元へ落とし、ハンバーガーを一口かじる。
「別に、裏の事情なんか知りたくない。そりゃ知ってることもあるけど、認めたくない。僕はただ、自分のために『役割』を演じてるだけ。言ったっけ? 『角を折られた魔王は、その力を失う』。つまり、勇者に斬られたら魔王はそこでおしまい。息子がいればそっちへ、いなければ弟へ、順次代替わりしていくことになる。今の魔王である一郎兄さんは一人っ子だから、もし一郎兄さんが勇者に負けたら、次の魔王はその叔父の長男である僕だ。冗談じゃない、あんな面倒なこと、誰がやるかっての」
 山田は無言でシェイクを飲んでいる。ストローに空気が入り、ズズッ、とやかましい音を立てた。
「調べるなら勝手に何でも調べればいいし、質問があるならしてくれればいい。僕が正直に答えるかどうかは保証できないけど」
 最後のポテトを口の中に放り込み、甘ったるいコーラと一緒に呑み込んだ。
「妙な話に巻き込んじゃった、ってことについては謝る。でも、そこから先は好きにやってよ。僕は一切関係ないからね、あんまり事を引っかき回さないでよ」
「お互いにな。……まあ、お前の言いたいことは分かった。前向きに努力する」
 アップルパイの空箱を潰しながら、山田はそう答え、わずかに視線を逸らした。









 「抱っこしてあげる」 



 思い出はいつも、暗闇の中へとたどり着く。
 近世の魔法国家は、基本的に空に浮かぶ浮島の上に建つ。島を浮かすのは魔法仕掛けのエンジンで、そのエンジンは途方もないエネルギーと騒音と熱を生み出す。
 エンジン自体の巨大さと、その性質のために、エンジンと居住地域は極力引き離されるように設計されている。居住地域である地表の地下深くに、エンジンが埋め込まれているのだ。そしてそのエンジンと居住地域との間を埋める広大な空間には、いつの頃からか人間が住み着くようになっていた。
 「地下」、またはスラム、裏通りなどとと呼ばれるその場所には、地表の法は及ばない。浮島の強度を維持するために複雑に張り巡らされた壁と柱、その間に住みやすいようにと人々が勝手に渡した床や橋、階段のおかげで、「地下」の住人には自分の住むブロックの外を知らない者も多い。下手に踏み出せば、道に迷い、余計な危険に足を踏み込むことにもなりかねないからだ。
 その「地下」の片隅にある、頼りない床と隙間だらけの壁で作られた空間に、二人は住んでいた。
 少女と子供の二人を母子だと思っている者も多かったが、実際のところ、彼女は子供の母ではなかった。彼女はただ、自分の雇い主に命じられて、子供を育てていただけだ。彼女が知っているのは、子供の名前と、その子供がようやく歩き始めたばかりだということくらいのもので、その子供の親が誰なのか、どのような縁で彼女の主人の手に渡ったのか、そんなことについては彼女は何も知らなかったし、それを尋ねようともしなかった。
 そうして、いつの間にか二年の月日が経った。
 少女は物心ついたときからこの「地下」で育ち、雇い主の下で働いてきたが、きちんとした教育を受ける機会には恵まれなかった。だから子供が病気になったときも、その原因が分からずに、ただうろたえるばかりだった。
 ある日、そこへ一組の夫婦がやって来た。彼らは立派な身なりをしていて、少女のように痩せこけてはおらず、その髪からは清潔な石鹸の香りがした。「地表」の人間だ、と少女は悟った。
「この子を、助けてくださいませんか」
 同情と哀れみの視線を向けられ、動揺しながらも、少女はそう懇願した。
 子供は不安げな様子で、少女と夫婦の方を見る。暗いランプの灯りの元で育ったせいか、それとも病気のせいか、その視点は定まらない。
「手足が、痺れているようなのです」
 夫婦は顔を見合わせた後で、子供の腕に押しつけられていた氷晶石を取り上げた。
「な――なりません、それはご主人様が」
「このまま放っておけば、確実に死にますよ」
 夫人は言い放ち、子供の頬を撫でた。
「抱っこしてあげるわ。おばちゃんの所へいらっしゃい」
 子供はわずかに右手を動かす。それが精一杯の動きだった。両脚や左腕は、ぴくりとも動かない。
「あなた、名前は?」
「あや、と申します。この子はジョシュ」
 そうですか、と夫人はつぶやいた。夫は彼女を守るように、そばにじっと控えている。
「この子の身体には、魔力が不足しています。補ってやれば、そのうちに良くなりますよ。もっとも、あなたの主人がそれを許すかどうかは分かりませんけどね」
「晶石がいけないのですか?」
「そうです。やはり『地下』にも教育は必要ですね。身体の魔力を抜きすぎると、こうして手や足が痺れたり、身体に不調をきたすのですよ」
 夫人は若い女性だった。少女よりは幾分か年上だろうとは思ったが、それでも十は離れていまい。少女は子供を抱きかかえる夫人を見ながら、知らず知らずのうちに涙を流していた。
「ならば、この子はここにいてはいけません」
 少女は訴えた。夫人は少女の話を聞いてくれたが、夫は冷たい視線を送ってくるばかりだ。「地下」で育った彼女は、「地表」の人間にそのような視線を投げかけられる場面に何度か遭遇したことがある。むしろ、少女に優しく話しかける夫人の方が、非常に珍しい存在だと言えた。
「ここにいれば、この子は必ず魔力を売るために使われます。腕に石を押し当てて、魔力を取って。そうしなければ、わたしたちは飢えてしまいますから」
 夫人は「お気の毒に」と言いながら子供の髪を撫でた。
「あら、竜の子なのね」
「そうかもしれないが、竜の血はかなり薄そうだな。しかし竜の子なら、変化させて鱗を売られることもあり得るか」
 ずっと押し黙っていた夫が、ぼそりと口を挟む。気まずい沈黙が落ちた。
「ねえ、あなた」
 子供は泣きもせず、じっと夫人の顔を見つめている。
「この子を、引き取りたいんだけど」
「正気か? 『地下』の子供なんか引き取ったところで、ロクなことにならないだろう。戸籍を作ったところで『地下』の出であることは書かれるし、そんなもの家族に抱える度胸は、俺にはないからな」
「前から私は言っているでしょう。一人でも、ここで死んでいく子供を減らしたいの。私たちがこの子を引き取ることで、少しでも里親になる人間が増えてくれたら――」
「くだらない」
 夫はぷいとそっぽを向く。少女は彼に取りすがった。
「お願いします。どうか、この子を助けてやってください。この子が死ぬのは嫌。わたしが生んだ子ではないけれど、でも、わたしはこの子の母親です。この子を、生かしてやってほしいんです」
 この子はここに居てはいけない、と少女は直感していた。きっと聡明な子に育つ、と少女は信じていた。何より、二年間も一緒に居たのだ。別れは辛くないはずがないが、それでも、永遠に別れることになるよりは遙かにましだと、少女は頭で理解していた。
「ご安心なさい、あや」
 夫人は子供を抱いて、微笑んだ。
「必ず、この子は生かします」
 少女は最後に強く子供の手を握り、「お願いします」とつぶやいた。
 そして、何度かけたかもうわからない言葉を、再び子供に語りかける。
「大丈夫、あなたは運の強い子よ。必ず良い巡り合わせが来るから、それまで、生きて」
 子供は少女の指を強く握り、おかあさん、とささやいた。
 夫婦は子供を連れて行き、少女の雇い主はあの夫婦が子供の代わりに金を置いていったと喜んでいた。少女はこれで良かったのだと思いながら、今でも子供の行方が気になってならない。

 そんな話をしたあとで、蓮実あやは黒衣の男の表情をうかがった。
「あのう、これでよろしかったでしょうか?」
「ええ、ありがとうございます」
 男は柔らかく微笑んだ。これで彼女に子供のことを尋ねてきた人間は二人目だ。不思議なことにどちらも黒衣の男だった。ドレッドヘアの軟派な男と、今目の前に座る、半竜とおぼしき茶髪の青年。雰囲気も立場も全く違うようだったが、少なくとも彼らが動いているということは、子供はなにがしかの未来を掴んでいるのだろう。
 薄暗い部屋に、今は一人で住みながら、あやはいつまでも子供のことを夢見ていた。









 「連絡しろっていったでしょー!」



 携帯電話が、ずいぶん長いこと振動を続けている。この長さはメールではなく電話だ。山田はちらりと机の上の携帯電話に目をやり、背面のディスプレイに表示された相手の名前を見て、すぐに手元の教科書に視線を戻した。
 固い机の上で震える携帯電話はうるさいので、敷きっぱなしの布団の上に移動させる。
 六畳の山田の部屋は、年中出しっぱなしのコタツと万年床を中心に、ごちゃごちゃと物であふれている。きちんとした家具は、コタツの他には、木製の棚がひとつあるだけだ。その他は、開いた口を手前にして積み上げた段ボールや、百円ショップで買ってきたゴミ箱や籠が、適当に散乱している。陽当たりの悪い空間は、長いこと座っていると、段々気が滅入ってきた。
 その上、電話の主がこれだ。山田は鳴りやまない携帯電話に郷を煮やし、しぶしぶ電話を取った。
「ただいま留守にしております」
「太郎! 用事がなくても、週に一度は連絡しろと言ったでしょう!」
「……すいません、母さん。えーと、オレは元気で、まだ生きてます。じゃあ、今連絡したんで、もう切りますね」
 待ちなさい、と母親の声がする。
「今、日本にいるのよ。お父さんと一緒にそっちへ行くわ。どんな暮らしをしてるのか、私は心配でならないの。比奈子も心配だって言ってるわ。ちゃんとしてるという所を見せて、みんなを安心させてちょうだい」
 携帯電話を持つ手が、一瞬こわばった、ような気がした。
「今、家にはいないんで、来ないでください。来ても迎えられません」
 できるだけ動揺を悟られないように、答えた。そんなことは仕事中なら無意識にでも出来ることなのに、やけに緊張する。
「そう。帰るのはいつ?」
「わかりません。だからまた今度にしてください」
「ウソは良くないわね」
 母親の声と同時に、玄関のチャイムが鳴った。
 そのチャイムが、受話器の向こうからも聞こえてきたことに気付き、山田は顔をしかめ、こん畜生、とつぶやいた。

「薄汚いところだな。空気が悪い」
「放っておいてください」
 ちらりと視線を上げ、父親の顔色をうかがった。不機嫌な様子が、ありありと見てとれる。母親に無理矢理連れてこられたのだろう、と山田は考えた。日本で仕事をする機会が多い割には、この男が自分から息子の家を訪れたことはない。母親に言われなければ、これからもずっと、彼がこの家を訪れることはなかっただろう。
「……何しに来たんですか」
「さあな」
「あなたのことが心配で、こうして来てるに決まってるじゃない。太郎、ちゃんとご飯は食べてる? 洗濯物はちゃんと洗ってるの? お風呂は入ってる?」
 母親の存在を無視したまま、山田と父親の視線は一瞬絡み合い、すぐに互いが目を逸らす。緊張した空気の中で、茶を出そうと立ち上がった山田を母親が制した。
「私がやるわ。太郎は座っていていいわよ」
「ここはオレの家です。母さんの方こそ、座っててください!」
 母親の手を振り払い、部屋からつながる狭い台所へ駆け込む。冷蔵庫の中の麦茶はあと二杯も残っているか不安だったが、何とかそれくらいの量はあるようだった。湧かさずにすんだ、と思いながら、安物のコップに麦茶を注いだ。
 逃げ出したくなるのをこらえて、大きく一回、深呼吸する。コップを両手に持ち、コタツに座る両親の前にそれぞれ置いた。
「……不味いな。比奈子の茶の方がまだ美味い」
「そこまで言いますか」
 比奈子本人が居合わせたら怒りそうな会話を交わしてから、山田は少し迷った後、父親の向かいに座った。
「しかし、薄汚い仕事はずいぶん儲かるようじゃないか。いつの間にか、こんなところに住んでいたとはね」
「ええ。父さんに王立高校への出願を差し止められなければ、こんなところに来る必要もなかったんですが」
「それで結構。お前なんかにあれ以上我が家にいられては、比奈子にも迷惑だ」
 山田は淡々と、それもそうですね、と答えた。握った拳が、かすかに震える。
 母親が一緒に来たことは、幸運か不運かよく分からなかった。母親がいなければ、おそらく既に殴り合いになっているだろう。それはそれで、あっさりと事が済むので歓迎したいものだ。大抵はこちらが折れて終わりだが、こちらからも数発は食らわせることができるから、お互い、それなりに気が晴れる。こんな風に、ねちねちと発せられる嫌味を受け流すのは、あまり好きではない。父親の言葉は鋭いが、決して否定できないものであることを、山田自身もよく知っている。
 別に、義理の親子だからだとか、そんな理由で父親と対立しているわけではない。たとえ血が繋がっていようが、この男は同じことを言っただろう、と山田は思っている。ただひとえに、息子の今の地位が気に入らないだけなのだ。なにしろこの不出来な息子は、身内に最もいてほしくない人種、下手に関われば自分の身を滅ぼしかねない存在、陳腐な言葉を使えば、悪の魔法使い、というやつなのだから。
 詳しいことはよく知らないが、おそらくは軽い気持ちで引き取ったのだろう子供が、こんな風に成長するなどとは思ってもみなかったに違いない。そんなことは山田自身にすら想像のつかない事実だったし、現に数年前、山田が自分の師匠と出会うまでは、彼は今にして思えば笑ってしまうほど真っ直ぐに育っていたのだ。
「さあ、飲み終わったら帰ってください。この部屋を見たら満足でしょう。飯は食ってます。コインランドリーはすぐ近くにあります。風呂だってちゃんと水は出ますし、水道代くらいは払えます。気にするようなことは何もありません!」
 母親が、憐憫とも困惑ともつかぬ表情でこちらを見た。山田はその顔から目を逸らし、父親の目を正面から睨みつける。
「もういいでしょう。早く帰ってくださいよ」
「そうしよう。こんな空気の悪いところに、もう一秒だって居たくない。胸が悪くなりそうだ」
 一口しか口をつけなかった麦茶のコップを前に、父親は立ち上がった。
「行くぞ」
「待って、あなた……」
「こっちも暇じゃない。そろそろ行かねば、先方を待たせることになる」
 夫と息子の剣幕に気圧されたのか、母親は小さく頷いた。
 二人を外へ追い立てて、山田は勢いよく扉を閉める。母親が何か言っているようだったが、聞こえないふりをして鍵をかけた。そのまま、玄関先に座り込む。
 コタツに戻る気にもなれず、山田はその場にへたり込んだまま、遠ざかっていく両親の声を聞きながら、短い謝罪の言葉をつぶやいた。









 「それはいわない約束でしょ」 



 毎年二月になると、勇戸高校では持久走大会が行われる。ハーフマラソン並のコースが設定された隣の高校よりはずっとましだが、それでも男子7km、女子5.6kmのコースは、決して短いとは言えない。三年生は既に自由登校期間に入っていて、参加するのは一・二年生だけなので、在学中にこのイベントを経験するのはわずか二回。とはいえ、走るのは決して楽ではないし、そうでない時間は沿道での応援に費やされる。特に文化系の春月達にとっては、大して面白くもないイベントだ。
 もちろん、真面目に走る生徒もいれば、最初からやる気のない生徒も多い。上位に入れなければ坊主になると宣言した陸上部の男子数人はやけに覚悟を決めているし、逆に「最後尾で楽しく走ります」と宣言し、必死にパフォーマンスを考えている生徒もいた。
 男子が走っている間、女子は応援に回ることになる。春月と輝美は、他の軽音楽部の友人と共に校庭の隅に陣取っていた。コースは学校の周りを数周するもので、取りあえずここに座っていれば、知り合いは何度か目の前を通るはずだった。
 友人である佐原菜子と高田芽衣子の二人は、彼女達のバンド仲間である男子二人にからかいの言葉を投げる。安西孝士は律儀にそれに応え、「愛してるぜ、タカコ、なすびー!」と二人の名を叫び、手を振りながら軽やかに去っていった。彼はまだ何回も目の前を通るというのに、その時はどうするんだろう、と春月は思う。気まずくはないのだろうか。
 上位二十番以内には入るだろう、という勢いで駆け抜けていった安西の後を、藤城、一条の順に軽音楽部の生徒が通っていく。それからずいぶん沢山の生徒が通り過ぎ、遠くから最後尾宣言をしていた生徒のやかましい歌声が聞こえるに及んで、ようやく山田が現れた。隣には、必死で走っているらしい山田と違い、明らかに手を抜いている佐藤がいた。
「頑張ってね」
「うん、ありがとう!」
 答えたのは佐藤の方だ。山田は早くも息が上がりかけた様子で、必死に前方を睨んでいる。体力がないとは思っていたが、まさかここまでとは、と春月は正直に思った。
 しばらくして二周目の生徒が戻ってきた。安西はさらに順位を上げており、藤城も悪くないペースで走っている。一条伸大はちょうど真ん中あたりで落ち着いているようだった。そしてふと気がつくと、山田と佐藤は最下位集団に紛れていた。
「……こう、魔法を使ってパーッとスピード上げるとか、出来ないのかしら」
「きっと山田くん、真面目な人なのよ」
「こんな時だけ律儀でどうするんだよ悪の魔法使い」
 さらにしばらくして、三周目の集団が近づいてくる。
「いつも、すまないねえ」
「それは言わない約束でしょ」
 そんな会話を交わしながら、山田と佐藤が前を走っていく。山田のあまりの必死さに、最後尾を走る体育教師も「真面目にやれ」とは言えないらしく、「頑張れよ」と言いながらのんびりと後をついてきていた。
 いつの間にか二人は周回遅れになっていて、後ろから藤城が二人を追い上げてくる。
「もういいよ、そんなに律儀に付き合ってくれなくても」
「え、でも、そうすると山田くん、多分ダントツのビリになっちゃうよ?」
「覚悟は出来てるよ……」
 そう、と佐藤は少し考え、「じゃあね」と手を振って藤城の後を追った。彼の方は体力が有り余っているのか、一周多く回ってきている先頭集団をごぼう抜きにしながら走っていった。
「佐藤君って、意外に足速いんだね」
「真面目に走れば一位にもなれそうな勢いよね……」
 そんな春月たちのことを一瞥し、山田は力無く走っていく。

 男子が全員走り終わり、最後まで粘っていた山田も戻ってくる。
「よく途中棄権しなかったね。偉いよ」
「みんなにすげえ応援されて恥ずかしかった……」
 山田は肩を落とし、ため息をつく。
「あれは仕方ないよ。無理しないで、休めばよかったのに」
 横から口を出したのは佐藤だ。最下位から怒濤の追い上げを見せた彼は、ちゃっかり一条と同じくらいの順位でゴールしていた。
「魔法とか、使えば良かったんじゃないの?」
「使った。使った結果があれだ」
 フォローに困った春月の肩を、佐藤が叩く。
「仕方ないって。確かに山田君は足遅いけど、普段はさすがにあそこまで酷くない。今日調子が悪かったのは、単に怪我のせいだよ」
「怪我?」
「関係ねえよ。大した怪我じゃない」
 言いながら、山田は左足を押さえた。わずかに顔をしかめる。そう言われてみれば、少しばかり左足を引きずっているようにも見える。
「そんなことないでしょ。タマが血の匂いに興奮してる」
「うるさい。ただちょっと、昨日ホウキでパトカーと追いかけっこしてたらスピード出し過ぎて運転誤ってビルに激突しただけで、大したことは」
「十分大したことあると思うんだけど、どうなのよ」
「大丈夫だって。今時のホウキには色々と安全装置がついてるんだ」
 春月たちを、芽衣子や一条がいる所からは離れた物陰に誘い、山田は右手を出す。白煙が上がり、煙が晴れたあとにはホウキが一本、山田の手に握られていた。乗用なのだろう、なぜか自転車のサドルのような座席がついている。
「なんかもうホウキである意味が全くないよね」
「いや、合理的だと思うんだけどな。で、ここに衝撃が加わると」
 柄の先を指さし、鋭く口笛を吹くと、どこからともなく座席の前方と左右に白いエアバッグが現れた。一瞬大きくふくらみ、しぼむと同時にかき消える。
「ちなみに左右のは転落防止用。まあ普通は転落防止の魔法があるから大丈夫だと思うけど。昨日はこのエアバッグのおかげで、切り傷くらいで済んだ」
「もう普通にバイクに乗ったんでいいじゃない……」
「バイクよりもホウキの方が運転が楽だろ。シュリフィードの高等学校じゃ、ホウキで持久走大会するらしいぞ。こう、シュリフィード本島――浦安から、ガラシア地方――九十九里浜の方まで、運転技術を競いつつ走るんだ。ホウキを浮かすにはそれなりに魔力がいるから、体力がないと途中で高度が落ちて大変らしい」
 凄いなあ、と藤城が手を伸ばす。
「あ、気をつけろよ。盗難防止のために、色々な罠とかも仕掛けてあったりするから。南アフリカでの最新流行を取り入れて、火炎放射器なんかもついてるし」
「もう何が何だか意味わかんないわよ」
「いいじゃないか、ホウキは男のロマンなんだぞ。だからこそ、それで事故って学校休むなんて、オレのプライドが許さないというか」
「持久走で学年最下位になってみんなに暖かい声援を送られる方がマシってわけ?」
「当たり前だ」
 山田は胸を張る。佐藤が「付き合って損した」とつぶやいた。輝美と藤城はホウキを物珍しそうに眺めている。春月はひとつため息をつきながら、取りあえず山田をどうやって保健室に連れて行こうか、と考えた。









 「つもる話はまたの機会にしてくれ」 」の読了を推奨



 呼び鈴が安っぽい音を立てた。この安アパートにインターフォンなどという高度なものはついていないので、取りあえずルパートに様子を見に行かせる。
「太郎君? なんか、『集金でーす』って言ってるよ」
「持ち合わせがない。無視だ、無視」
「いいの? 『集金でーす』って言いながら、剣構えてる女の子がいるけど」
「……は?」
 慌てて玄関へと走り、のぞき窓から外を見た。ルパートの言うとおり、長剣を構えた少女が立っている。その剣のデザインは、どう見ても――いつか見た、聖剣だ。
「女装趣味があったとは知りませんでしたよ、『大臣様』」
 ドア越しに声をかけると、小学生くらいに見える少女は、偉そうに胸を張って答えた。
「一緒にしないで。私はヨウコ。『山下直樹』とは別人よ」
 そう言って、軽く剣を薙いだ。閉じたままのドアを突き抜けて顔を出していたルパートが、悲鳴を上げて引っ込んでくる。
「た、た、太郎君! あれ誰? 何者!?」
「取りあえず今の所、敵だけど。どうした、何か分かったか?」
「あ、あれは……ち、近寄らない方がいい。憑いてる、なにか途方もないものが憑いてる……た、太郎君。ボクと同い年くらいの、茶髪の男……が、本体、だよね?」
 怯えた調子でうめくルパートの姿が、空気に溶けてはまた形をつくる。いつになく混乱したその様子に、山田は眉をひそめた。
「そうだよ。あれは単に変身してるだけ。女子供には手を出しづらいとでも踏んだんじゃないの? ……で、『憑いてる』って何のこと?」
「う、上手く説明できないんだけど……『あの身体』には、沢山のバケモノ……幽霊じゃない、でも妖精とも違う何かが、色々、憑いてる。動物とか、人間とか。今はあの、見えてる通りの、あの女の子が喋ってるけど……その中に、崩れかかってるけど、ボクと同じくらいの歳の男がいる。そいつを食い破るように何か黒い影がいて、いや、そんなのはどうでもいいんだ、あの、その、もの凄く恐ろしい……」
 ぎゃあっ、と悲鳴を上げて、ルパートは頭を抱えた。
「……阪神ファンの爺さんがいる」
「はあ?」
「ぼ、ぼ、ボクは誰が何と言おうと、絶対に巨人ファンなんだぞ! う、うう、うわあああッ!」
 叫ぶだけ叫んで、ルパートは空気にかき消えてしまった。
「……じゃあ、ヨウコ、ちゃん? 阪神タイガース、好きなんですか?」
「おじい様が大ファンよ。他の球団のファンを見ると、見境なしにケンカするくらいにはね……あんたは? どこのファン?」
「オレ、野球には興味ないんで。……って、そうじゃないでしょう。どうしてそんな微妙な姿で……あの、『ゲーム』のために来てるんですよね?」
「どうして私が来たかって? 小学生の女の子が『キャー、変態!』って叫べば、あんたなんかイチコロでしょ。とりあえず、社会的に抹殺されてしまいなさい!」
 彼女の叫びと同時に、ドアの蝶番が吹き飛んだ。とっさに三歩下がった山田の前で、ドアが手前に向かって倒れてくる。管理人さんが見たら怒るだろうな、と思いながら、山田は廊下に置いてあるスリッパ立てを掴んだ。
 聖剣をかざして、彼女が飛び込んでくる。金属製のスリッパ立てを、そのまま大ぶりの楯に変えて、最初の一撃を受け止めた。一瞬だけ彼女の動きが止まる。その間に、ドアがあった場所に幻覚をまとわせ、外からのぞき見られる危険を回避した。
「あんたや爺さんは、あの『大臣様』の演技じゃなく、取り憑いてる『別人格』ですか……どおりで、性格に一貫性がないはずだ」
「『私』も『おじい様』も『山下直樹』も、全部引っくるめて『バトラー』よ! 人をタチの悪い幽霊みたいに言わないで!」
 聞き慣れない単語を口にして、彼女は再び剣を振るう。的確で隙のない動きだ。山田の方には心得がないからよく分からないが、おそらくは訓練を受けている。使える魔力の総量だけなら山田の方が上かもしれないが、経験や技術に関しては彼女の方が上だろう。
「『バトラー』って何ですか?」
「あんたやあのバカ兄弟が『大臣様』とか呼んでる役職のことよ!」
 山田は楯を彼女に投げつけ、廊下からつながる六畳間に飛び込んだ。ふすまを急いで閉めてから魔法をかけ、しばらくは破られないようにする。ふすまの向こうで、彼女が「いやー、変態!」やら「助けてー!」やら、さっき言ったとおりの発言をしているが、残念ながらこの時間、アパートにいるのは二階の、事なかれ主義の大学生くらいのものだ。
「ところで、この間オレと喋ったあいつは何て名前なんですか、ヨウコちゃん?」
「『バトラー』でしょ。私たち全てを統率する、陛下の忠実な僕。姿や名前を持たない存在だから、今は直樹の身体を借りてるわ。……って、そんなことはどうでもいい! 早く出てきなさいよこのアンポンタン!」
「どうでも良くないっすよ! そんなしち面倒な存在だって分かってたら、手なんか出さなかったのに!」
「しち面倒? さっきその辺にいた、あの鬱陶しくてキモいオタクと、存在としては大差ないと思うけど? 大体、そもそも私たちは……」
 ルパートが何か言いたげに形をつくり、すぐに首を振って霧散した。
「……何でもいいですよ、つもる話はまたの機会にしてください。後日対策を練って出直しますから、とりあえず今日はお引き取り願います!」
 彼女はおそらく、ふすまのすぐ向こうに立っている。そう踏んで、山田は部屋に置いてある、魔法の発動媒体を手に取った。リモコンに模したそれは、家の中に仕掛けた罠をコントロールする。
 ふすまの向こうへと魔法を飛ばす。きゃっ、と可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「な、何するの!? 服が汚れちゃったじゃない! むしろ何、この物体!」
「このアパートに住んでる人が作って、失敗したキムチ。まだまだありますよ?」
 頭からキムチをかぶったらしく、彼女はしばらく「クリーニング代出しなさい!」と叫んでいた。山田は無言でリモコンを操作する。
「鈴子さんのキムチはよく効くね……」
「キムチのくせに甘くてベタベタするってのもポイントだな」
 いつの間にか、ルパートが山田の背後に立っていた。ふすまの向こうをのぞく勇気はないらしく、山田の背に隠れるような仕草を見せている。
 またもや大きな音が聞こえた。足元に張ったヒモに足を引っかけたか、その先の落とし穴にはまったか。落とし穴だとすれば、余ったキムチがそこにも入れてあったはずだ。
「何なのよ! こんな家もうイヤ! 私、帰る! 今度は別の場所でやるわよ!」
 彼女の声が遠ざかっていく。
「……あの、太郎君?」
 安堵のため息をつく山田に、ルパートがそっと問いかける。
「今から、あのキムチ、掃除するんだよね?」
 すっかり忘れていた事実を指摘され、山田はがっくりと肩を落とした。









 「寝相悪ぃんだこのバカ」



 黒板にチョークが触れる単調な音と、生徒達がノートにペンを走らせる静かな音が、教室に独特のリズムを生み出している。四時間目の教室は、適度に陽が入って暖かい。
 秋本芳晴は眠気を必死にこらえながら、黒板に書かれるやたらと簡単な問題を写し取る。ふと隣の席に座るシャビィの方を見ると、彼女もちょうど、あくびをかみ殺しているところだった。一瞬視線が合って、シャビィは恥ずかしそうに姿勢を正す。
 問題の解説が始まり、書くことがなくなった秋本は、教師の言葉に頻繁に混じるせき払いの数を数え始めた。その時、ふと爽やかなミントの香りが鼻を突く。苦手な魔法理論の時間だからと、シャビィが眠気覚ましに魔法を使ったのだろう。
 リリアン・シャビィと秋本は、初等学校の一年生の時から、かれこれ十年間の付き合いになる。王立北第三中等学校から私立聖イサルバ高等学校に進学した生徒は、普通科と魔法科を合わせてもわずか四人だったこともあり、秋本とシャビィは、以前よりはずいぶん親しく話をするようになった。
 それはそうと、魔法の甲斐もなく、シャビィは今にも眠り込んでしまいそうな様子だった。何度か頭が大きく下がり、机にぶつかりそうになる。秋本はそんな彼女の耳元へ向けて、糸電話のように魔法を組み上げていった。
「辛そうだねー、リリちゃん」
 ささやく声は、シャビィの耳に入ったはずだ。彼女は秋本の方を向き、唇を動かして「うるさい」と伝えてきた。ミントの香りが、甘ったるい花の香りに変わる。俺まで昼寝の道連れにする気ですか、と秋本は笑った。
 そうこうするうちに、若干ノイズ混じりのチャイムが鳴って、教師の話が終わる。彼が出ていくか出ていかないかのうちに、幾人もの生徒が椅子を引くやかましい音を立てて立ち上がった。
「あー眠い眠い、ビンちゃんの授業とは、私ってホント相性悪いわ」
 ボリュームのある金髪をかき上げ、シャビィは大仰なため息をつく。それから大きく伸びをして、「パンでも買いに行くか」と立ち上がった。
「あのビンちゃんのパイプの臭いが良くないのよ。すっごく眠くなるんだもの」
 秋本が音を操る魔法を得意とするように、シャビィは香りを操る魔法を好む。そのせいか、彼女は秋本には感じ取れないような香りにまで、敏感に反応する。
「待って、俺も行くわ」
 逆に、シャビィは音には鈍い。これは一般的に言えることだが、得意な魔法に関係することについては、感覚が鋭くなるものだ。
 しかしながら、誰もが秋本やシャビィのように、はっきりとした指向性を持っているわけではない。得意な魔法は、と問われれば、天気予報や失せ物探しのような、はっきりとした拡張性がない魔法を答える者が圧倒的に多いのだ。
 五感に関する魔法は、基本的に初等学校で教えられる。秋本にも、幻覚を作り出したり、料理の味をごまかしたりすることはできる。しかし人には向き不向きというものがあって、秋本は幻覚にかけてはどうあっても友人の山田太郎には勝てないし、その山田は致命的な味覚音痴のため、味に関する魔法は使えないも同然だ。そんな中で、秋本の音に関する魔法や、シャビィの香りに関する魔法の才能は、頭一つ飛び抜けていた。その代わり二人とも、その他の魔法はそれほど得意ではない。
 パンを買って、シャビィの誘いで屋上へ昇る。聖イサルバの校舎は、立ち並ぶ建物の中では取り立てて低い方ではない。土地の限られたこの都市では、建物は低いほど高級だ。そういう意味では、眼下に広がる校庭は、かなりの贅沢品と言えた。
「ところでさ、アッキーは何でいつも、わざわざ私を起こしてくれんの?」
「リリちゃんのせいだよ。寝相悪いんだってば、このお馬鹿さん。一度寝始めると、絶対隣の俺の机まで浸食してくるんだもんねー。しかもリリちゃん、寝ぼけるとたまにすごい臭い出すし」
「あれは不可抗力、ば、馬鹿って言ったら自分が馬鹿なんだからねっ」
 小学生のような答えを返してから、シャビィはコンクリートの屋上に寝転がった。いつものことだから、秋本もわざわざ、汚れるよ、とは言ってやらない。
「あーもう、ガロンや山ちゃんがいたら、絶対あんたに気の利いたこと言ってくれるのに! ねえアッキー、そういえば最近、山ちゃんはどうしてるのよ」
「さあねー。山田のヤツ、最近ぜんぜん連絡よこさないしさ。親友の俺がこんなに心配してやってるのに、気の利かない男だよ」
 シャビィは小さく首を振って、「私、昔は山ちゃんのこと、好きだったんだ」とつぶやいた。秋本は驚いて、シャビィの顔をまじまじと見つめる。
「今じゃすっかり、新進気鋭の魔法使い様だもんね。手紙は返事来ないし、メールアドレスは知らないし、そもそも、今の山ちゃんには怖くて声かけられないや。昔は可愛かったのになあ、いつからひねくれちゃったんだろ」
「怖いか?」
「うん、怖いよ。もう、すっごく遠いところに行っちゃった感じがする。噂もいろいろ聞くもん。アッキーから聞いてる話と、全然違う」
 周囲は相変わらず騒がしいはずだったが、シャビィの言葉を聞き漏らすまいと、無意識に周りの音を遮断していたようだ。シャビィもそれに気付いたらしく、「どうしたの?」と聞いてきた。
「いつも、そんな余計な魔法使うの、嫌いなくせに」
「別に……」
 違うんだ、とシャビィに言いたかった。動揺しているのだろう。周囲の音を消すなど、秋本にしてみれば二桁の足し算程度の問題でしかない。何を言っていいのかわからないままに、思わずやってしまったのだろうと思う。違うんだ、と再び頭の中で繰り返す。
「リリちゃん……山田は、お前が聞いてるほど変わっちゃいない。保証する」
 シャビィは驚いたように目を見開き、そしてくすくすと笑いながら身を起こした。清潔な石鹸のような香りが、秋本の鼻腔をくすぐる。
「それはよかった。アッキーがそう言うなら、私、自信を持ってみんなに、あれは誤解だって言える」
 消音の魔法が解けて、とつぜん喧噪が戻ってきた。
「あれは誤解だって。フードを取っても、別に目が三つあったり、角が生えてたり、牙が生えてたり、夜な夜な若い女性を取って食ってたり、生き血をすすってたりはしないって」
「……どこで広がってるんだよ、そんなデマ」
「え、結構有名な噂だよ?」
 笑うシャビィの声が、校庭で巻き起こった歓声にまぎれていく。シャビィは秋本の方を向いてくすくすと笑い、甘い花の香りを流してきた。秋本もつられるように笑いだし、それから二人で、山田も見ているのであろう、高い空を仰いだ。









 「殴っていいかな、ちからいっぱい」



 呼び鈴に応えて玄関に出ると、そこに秋本紫乃が立っていた。
 山田は訳がわからないまま、親友の妹の顔を見つめる。
「お久しぶりです、山田のお兄ちゃん」
 彼女のことはもちろんよく知っている。秋本レイチェル紫乃、山田の親友であり優秀な聴覚系魔法使いである秋本芳晴の、三つ年下の妹だ。
「ちょっと色々と話があるんですけど、今ヒマですか」
「ヒマと言えばヒマだけど」
「そうですか。では取りあえず最初に用件だけ言わせてもらいますね」
 紫乃は腕組みをして、背の低い身体をできるだけ威圧的に見せたいのか、胸を張る。
「これ以上、ヨシと連絡取らないでください」
 紫乃は兄である芳晴のことをヨシと呼ぶ。それは何度か聞いたことがあるのですぐに思い出したが、今度は彼女の言葉の意図を汲むのに時間がかかった。
「理由は?」
「そもそも、山田のお兄ちゃんみたいな汚らしい人間がヨシの友達だってのが信じられません。外見取り繕ったって中身の底は見えるんだから。あんたのせいで、ヨシだって迷惑してるんです。ヨシもそろそろ進学考える時期なんです。あんたなんかのために、治安維持隊を敵に回してドンパチやってる場合じゃないんですよ」
 明確な毒を含んだ口調で、紫乃は言い放つ。山田はわずかに眉根を寄せながらも、紫乃を部屋に上げた。
「そうか。確かに紫乃ちゃんの言うことはもっともだ。自重する」
「分かればいいんですけど。そりゃあヨシは強いし便利だと思うけど、あんたみたいなウジ虫が利用していいだなんて思わないでくださいね」
「なんか会うたびに形容詞がひどくなってないか?」
「いいじゃないですか。『地下』育ちの忌み子のくせに、お天道様の下で生活してるってのが既に間違ってるんですから。ウジ虫をウジ虫と言って何が悪いんですか」
「相変わらず保守的だねえ。うん、確かに悪くはないし、好きに罵ってもらっても構わないんだけど、オレだって人間なんでね、多少はムカつくんだよ」
 紫乃はすすめられた座布団に座ることもなく、山田を睨みつける。昔から紫乃と山田は折り合いが悪かった。昔は比奈子とも仲が良かった紫乃だが、いつの間にか比奈子は紫乃を避けるようになっていた。何があったのか、と山田が問いただしても比奈子が答えないので、おそらく自分のことでケンカにでもなったのだろう、と山田は勝手に想像している。
「人は産まれる場所を選べないんだよ。そりゃ、オレは『地下』育ちの非登録児だったけど、そこまで言われる筋合いはないというか」
「黙れ生ゴミ」
 冷ややかに、しかし顔には明らかな憤怒の表情を浮かべながら、紫乃はつぶやく。
「いっそ殴っていいかな、力いっぱい。ああ、ダメだわ、触ったりしたら穢れが移る」
「何を言っても自由だけど、お前を殴りたいのはオレも同じだぞ」
「その細腕で何が出来るもんか。ヨシの力を借りなきゃ、あんたなんかとうの昔に牢獄送りですよ。だからヨシに頼るのはやめてください。会うのもやめて。あんたと友達だってだけで、ヨシが嫌な目に遭うのはもう見てらんないんです」
 それじゃ、と言って、紫乃は踵を返す。
「そろそろ帰ります。これ以上いたら穢れがうつりそう」
「待てよ」
 紫乃の肩に手をかけ、山田は無理矢理に彼女をこちらへ向かせた。山田には腕力がないとはいえ、相手は女子中学生だ。さすがに、もみ合いになればねじ伏せられる自信があった。
「少しは口の利き方に気をつけな、紫乃ちゃん。そりゃあ、『地下』なんて胡散臭いし怪しいし女神の祝福からも遠い場所だけど、だからって好き放題言っていいわけじゃない。物には限度ってものがあるだろう」
 紫乃は山田の言葉を鼻で笑う。
「よく分かってるじゃないですか。ヨシも比奈子も、なんでいつまでもあんたを気にかけてるんだかわかりません。小さい頃はあんたの出自なんか知らなかったかもしれないけど、今は違うでしょうに。あんたなんか、地上で無能どもと一緒に暮らしていくのがお似合いだわ。二度と上に戻ってこなければいいんですけど」
「市民絶対主義の上に、ダルマン思想かぶれか。いつの間に道を踏み外したんだ、紫乃ちゃん?」
「近くにこんなろくでもない例があれば、『地下』を見限りたくなって当然です。非魔法使いがあんな幼稚な世界で生きてるのだって、彼らが無能だからに決まってる」
「まあ、みんな一度くらいはそういう時期もあるよな。後で恥ずかしくなるだろうから覚悟しておけよ」
 紫乃が突然、右手で山田の頬を打つ。山田はわずかに顔をしかめただけで、避けもせずにその平手打ちを浴びた。続けて、紫乃は語気鋭く叫ぶ。
「分かったような口利いてんじゃねえ! いつまでもヨシに甘えてんじゃねえよクソ魔法使い! 小汚い出自と仕事にふさわしい、腐った根性してやがる! ヨシや比奈子の気持ちも知らないで、よくもまあいけしゃあしゃあと説教なんかできるもんだ!」
 そして山田を突き飛ばし、脱兎のごとく走り出て、玄関脇のホウキを掴むと飛び乗って去っていく。山田はそばに人の気配がないか見回したあと、小さくため息をついて、紫乃が開け放していった玄関扉を閉めた。
「甘えてる、か。そうかもな」
 打たれた頬を押さえ、山田はぽつりとつぶやいた。









 「ラジオで流れてたんだけど」



 西原家のラジオは、今日も木綿子ゆうこにはあまり馴染みのない曲を流していた。パラボラアンテナが故障してからもう随分経つが、取りあえず衛星放送を見なくても生活は出来る、ということで夫婦の意見は一致した。木綿子は洗濯物を干し終わり、リビングの椅子に腰掛けて、ふう、と息をつく。
 南を向いたベランダの先には、勇戸高校の校庭が広がっている。野球をする生徒たちの声がうるさく聞こえて、木綿子はもう一度、小さく息をついた。
 目の前のラックに置かれた家電のうち、テレビの方はごく普通の家庭用テレビだが、ラジオは日本では売っていない代物だ。日本の放送と混線しないよう、波長を変えて流されている、魔法使い達の番組を受信する。
 木綿子がシュリフィード人の夫と結婚してそろそろ二年。四ヶ月後には、ついに待望の第一子も誕生だ。あとは姑との関係を改善できれば言うことはないのだが、肝心の夫は非協力的で、木綿子も半ば諦めはじめている。
 夫と出会ったきっかけは、友達に誘われた合コンだった。意気投合して、携帯電話の番号とアドレスを交換し、たまに二人で遊び、その何度目かの帰り際に、向こうから告白された。愛の告白のついでに、彼が日本人でないことと、魔法使いであることまで告白されたのには面食らったが、さすがに目の前で魔法を使われては、信じるほかない。
 最初は警戒していた木綿子だったが、彼の出身地であるシュリフィード王国に連れて行ってもらい、様々なものを見聞きし、歴史を知るうちに、その疑念もすっかり晴れた。夫の話によれば、彼のように、日本人との出会いを求めて日本に降りる人間は、意外に多いのだという。夫は、結婚したら日本に住みたい、とも語った。木綿子の方はといえば、魔法が使える世界の方がいいに決まっているのに、と最初は思っていたのだが、夫に医療技術の程度や福利厚生の制度、治安の差について聞かされるうちに、すっかり上に住む気は失せてしまった。
 いつの間にか音楽番組は終わっていて、ラジオからは、パーソナリティの落ち着いた声が流れ出している。
「今日の『ホウキで巡るふるさと』、行き先はトクラ王国のサフキ。世界的な芸術の街、サフキを巡る旅に、いざ、出発します」
 どうしてわざわざ「ホウキで巡る」を付ける必要があるのかと夫に聞いたところ、アジアの魔法使いは大抵がじゅうたんか車に乗るから、たまにホウキに乗ると、その観光地の新鮮な一面を見ることができるものなんだよ、と答えが返ってきた。何にせよ、この番組は木綿子のお気に入りだ。新婚のころは、面白そうな場所の存在を聞いては、夫にせがみ、よく旅行に行ったものだ。最近はさすがに旅行は控えているが、子供が産まれたらあそこに連れて行こう、と考えることもある。
「それでは早速、サフキの硝子美術館へ入っていきましょう」
 美術館の外観について詳細な解説を交えながら、マイクは館内へと進む。「あの有名な芸術家が〜」と語られる芸術家の名前の中には、既に知っているものもあった。
「大きな扉を入ると、正面にはあの、『バラと子鹿』の像が据えられています。愛らしい子鹿の生き生きとした様子が、美しいガラス細工で表現されています。右手にあるのは、国の重要文化財に指定されている、『無塩バター』の像――」
「……無塩バター?」

 夕飯を食べ終わり、テレビを見ながら夫と他愛もない会話をしている時、ふと木綿子は昼間のラジオ番組を思い出した。
「ねえカッちゃん、今日ラジオで流れてたんだけど……」
 硝子美術館の話をすると、ああ、と夫は頷いた。
「サフキのだろう? 確かウチにも目録があるよ。ちょっと待って、今探してくる」
 立ち上がり、夫は寝室の押入の中を探し始めたようだった。しばらくして、一冊の大きな本を持って戻ってくる。テーブルの上に、その目録を広げた。
「この本には、ちょっと仕掛けがあってね……」
 広げたページには、「バラと子鹿」の像が載っている。子鹿の細いしなやかな脚、つややかな花びらを広げるバラの形が、ガラスで精巧に作られていた。夫はそのページの上に手を載せ、とん、と人差し指でページを叩く。一瞬、ページの上に複雑な模様が浮かび上がって消えた。それとほぼ同時、ページのすぐ上の空間に、子鹿像の幻覚が浮かび上がる。幻覚はゆっくりと回転しながら、写真に映っていない側面までもを、ゆっくりと木綿子に見せていく。
「どう? すごい魔法仕掛けだろ。慣れれば、きっとユウにも出せるよ」
「す……すごい! 他のページも、こんなのが出るの?」
「有名ないくつかの彫刻だけだけどね。いつかユウに見せようと思って持ってきて、そのまま忘れてたよ。ああ、これ、今ユウが言ってた『無塩バター』」
 夫が本から手を離すと、子鹿像は消えた。別のページを開くと、その写真を包み込むように手のひらを乗せ、合図をするように、また人差し指でページを叩く。木綿子の目の前に、触れれば硬いのではないか、と思えるような、鮮やかな幻覚が浮かび上がった。それは作品に付けられた題名の通り、今にもなめらかな感触や味が感じ取れそうな……
「……直方体」
「そう、この素晴らしく均整の取れた直方体が美しいんだ。『無塩バター』という作品名も素晴らしいね。最初は『バター』という題だったんだけれど、それじゃあ寂しい、と言った美術商の言葉に応えて、『無塩バター』という題になったという逸話が」
「へえ……」
 木綿子の目の前で、ただの透き通った直方体は、くるくると回っている。
「これはあの美術館にある作品の中でも、最高傑作だと言われているんだ。これにあやかって、子供用の積み木なんかも作られてるんだよ」
「うん、確かに積みやすそうね……」
「子供が産まれたら買ってくるよ。うん、そうしよう」
 夫は本から手を離した。同時に、目の前にあった直方体の幻覚は消える。木綿子はおそるおそる本に触れてみたが、何も起こらない。夫の骨張った手が、木綿子の手を包み込むように触った。その途端、少し大きさは違うが、先ほどのものと寸分違わない幻覚が現れる。
「ユウの魔力を僕のと混ぜて、魔法を組み立てた。だからこれは、半分は君の魔法」
 夫は過去に、何度か木綿子に魔法を教えようとしたのだが、その度に上手く行かずに挫折している。そのあたりが姑にも嫌われる原因なのだろうと思いつつも、こればかりは自分の魔力型のせいということで、木綿子は半ば諦めていた。
 だからこんな些細なことでも、自分の力で魔法の仕組みが動いている、と言われたことに、木綿子は喜んだ。けれどそれ以上に、自分の手を包み込む、夫の手が暖かい。
「ありがとう。ねえ、産まれたら、なんて言わないで、今度のお休みにでも買ってきましょうよ、積み木。ね、車を出してくれれば、私も大丈夫だから」
 夫がうなずき、木綿子は笑う。幸せな二人の間で、無塩バターはくるくると、揺らぎながらも回り続けていた。









 「無理があるってば、その設定」



 いつものように総合病院の待合室に座っていると、正面に座っていた女性が、突然ぎょっとした顔でこちらを向いた。どうしたんだろう、と思って見ていると、彼女は立ち上がり、真っ直ぐこちらへやってきて……
「何しに来たのよ、この変態!」
 ……と叫びながら、僕の頬を平手で思いっきり叩いた。
 かなり痛かった。
「……あの」
 僕は必死で、彼女が誰だったか、思い出そうと試みる。しかしどうしても心当たりがなくて、仕方がないので、彼女におずおずと尋ねてみた。
「どちら様ですか?」
「忘れたなんて言わせないわよ。わたしよ、加藤早央里よ!」
 余計に訳がわからない。誰だ、この女は。
「あの、どなたかとお間違えではないかと」
「その顔、見間違えたりするもんですか。あんた、ルパートでしょ?」
 僕のあだ名を知っている。ということは、やはり知り合いなのだろうか。しかしこのあだ名を知っている人間は、それなりに限られているはずだ。大学に入ってから、同じアニメ研の連中が呼び出した名前だから、アニメ研の誰かか、その友人か。
「そう、ですけど……あの、本当にすいません、僕はあなたに、いったい何をしたんでしょうか」
 取りあえず問題はそこだ。正直言って、この女性は僕の好みではない。だからこそ、変態、と呼ばれるほどの行動を彼女に対して取った記憶は、断じて、ない。
「わたしの部屋に生き霊になって取り憑いて、勝手に洗濯物を漁ったり、部屋を荒らしたりしたのよ。覚えてない?」
「いや、生き霊って……無理がありますよ、その設定」
 正直言って、少しホッとした。これはさすがに、ただの言いがかりだろう。ただ、どうして僕のあだ名を知っていたのか、ということだけが気にかかる。
「とぼけないで。あんた、上町の片山荘に住んでたでしょう?」
「……確かに、住んでましたけど。でも、もう随分前の話ですよ。交通事故に遭って、長いこと入院することになったんで、もう三年近く前に引き払って……」
 ちょっと待て、と僕は頭を抱えた。そりゃあ確かに、事故に遭ってからしばらくの間、意識がないまま昏睡していたことはある。しかし、その間に生き霊になって女性の部屋を荒らしていたとは、あまり考えたくない。そこまで品性下劣な人間ではないはずだ。
「百歩譲って、それが僕の生き霊だったとして……それはいつ頃の話ですか」
「もう、三年近く前の話よ。話を聞いた感じだと、あんたが引き払ったあとの部屋に、わたしが入ることになったようね」
 部屋を引き払った後なら、もう意識はあったはずだ。近くにある祖母の家に荷物を移すため、動けない自分の代わりに、友人に手伝いを頼んだことを思い出す。
 僕は一生懸命そのことを説明したが、彼女は不満顔のまま、僕のことを睨みつけている。
「……そういえば、どこかお悪いんですか?」
 そもそも、ここは病院だ。何とか話を逸らそうと、僕は彼女に尋ねてみた。
「別に。弟が風邪を引いたっていうから、私が車で送ってきただけよ。さっき呼ばれていったから、じきに戻ってくるわ。あんたは……足、悪いの?」
「さっき言った事故で膝を痛めたんで。それはともかく、もしもお暇なら、片山荘に行って確かめてみませんか? 僕は断じて、あなたに変なことをしたりはしてませんから。行ってみれば、生き霊とやらがいるかいないか、はっきりするでしょう」
 加藤早央里は、恐ろしい形相で僕を睨みつけていたが、すぐに「それでいいわ」とうなずき、僕に今週の予定を聞いてきた。

 こんなに居心地の悪い車は久しぶりだった。新勇戸駅で待ち合わせ、片山荘まで来るのに要した時間はわずか数分。しかしその間、ずっと加藤早央里に、僕がしたという行為の数々を聞かされていると、本当に気分が萎えてくる。
 管理人のお爺さんが不在だったので、二人で相談した結果、とりあえず問題の104号室を訪ねてみることにした。懐かしい、安っぽいチャイムの音が響いた十数秒後、立て付けの悪い扉がゆっくりと開く。中から出てきたのは、高校生くらいの少年だった。表札には「山田」と書かれている。
「どういったご用でしょうか」
 加藤早央里の方を見てそう言った少年は、その後ろに立つ僕の顔を見た途端に顔色を変えた。まさか、と思った直後、少年はおずおずと口を開く。
「ルパート?」
 加藤早央里が勝ち誇ったような顔でこちらを向いた。僕はあっけにとられたまま、取りあえず「田中利也です」と本名を名乗っておく。
 僕の言葉を無視して、「ルパート!」と少年が奥に向かって叫んだ。
 その直後に起きた現象を、僕はどのように説明すればいいのだろう。少年の背後に、白い霧のようなものがふわりと現れ、それはやがて人の形をとって……
「……久しぶり、と言っていい……のかな?」
 喋った。
 それは確かに生き霊と言うべきなのだろう。僕にそっくりな……正確に言えば、三年前の僕にそっくりな顔の「それ」は、当時僕が愛用していた無地の安いトレーナーに、やはり履き古したジーパン姿で、自分の事ながら気持ち悪い笑みを浮かべている。僕はここまで服装に無頓着だったのか、と唐突に思った。
「取りあえず、上がっていきませんか?」
 当惑した表情のまま、少年がそう言って、部屋の奥を指し示した。

「……つまり、皆さんの話を聞いたところによると……」
 山田少年は、面倒なことになった、と言わんばかりの表情で、僕と加藤早央里と、この「生き霊」との間で視線をさまよわせる。
「田中さんは三年前、この家に大量のアニメグッズと共に住んでいたんですね。で、やっぱりアニメキャラの真似をして車で暴走していたら、勝手に路肩に突っ込んでしまって瀕死の重傷を負ったと」
 当時のことは恥ずかしくて、あまり思い出したくない。全く、日本の恥だ。
「そしてルパートの話によると、その時あなたは『このアニメ部屋をこのままにしては死ねない!』と必死に考え、その強い思いが、この妖精さんを生み出した」
 妖精さん、という言葉に、ものすごく引っかかるものを感じた。
「そしてあなたは、この妖精さんの存在を知らないまま、この部屋を出た、と」
 あの事故以来、この部屋に戻ってきたのは今日が初めてだ。だからまさか、こんな過去の恥が生きているなんて思いもしなかった。穴があったら入りたい。
「まあ、オタクは純粋だって言うものね。妖精くらい生み出してもおかしくないわ……で? どうするの、この生き霊」
「持って帰ります!」
 僕は力強くそう宣言し、横で浮いている生き霊を捕まえた。感触はなかったが、引っ張るとついてくる。杖を取り、僕が出せる限りの速さで、部屋を出ることにした。背後から、「いつでも帰ってきていいよー」と山田少年の声がする。
 この生き霊は、幸いなことに、あの少年にはそれなりに愛されていたようだった。





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