スプリング*スプリング12
「マイ・フェア・レディ」   月香るな



 丘の上に立つと、そこからはシュリフィード王国の中心街が一望できた。背の高い建物が建ち並ぶ中で、それでも圧倒的な存在感を誇る白い王宮。その周りに広がる緑地、少し離れたところには清潔感のあるビルが建ち並び、そこから山裾へ近づくにつれて、街は少しずつその背を縮めていく。街をぐるりと取り囲む丘は、緑の豊かな公園地帯になっている。
 春月はぽかんと口を開けたまま、その光景に見入っていた。
 勇戸高校の卒業式は、昨日のうちに無事に終わった。卒業証書を受け取り、校歌を歌うとなぜか涙が出てきた。卒業アルバムに寄せ書きを集め、軽音楽部の後輩に花束をもらい、後輩達が歌う別れの曲に耳をすませた。
 山田はどこか寂しそうにその歌を聴いて、花束を抱いて笑った。
その帰り際、山田はその花束を、春月に渡して言った。
「藤原、これ、お前がもらってくれよ。もう、部屋の荷物もあらかた引き払った後でさ。飾っておくわけにもいかないから」
 これで日本とも当分お別れだな、と山田はつぶやいた。
「ところで藤原、たしか前に、シュリフィードに行きたいとかって言ってなかったっけ?」
「言ってたよ。よく覚えてたね」
「ああ。晴れて高校も卒業したことだし、お前さえよければ、一度連れていってやるよ」
 そんな会話を経て、春月は山田と共に魔法のじゅうたんに乗り、シュリフィードへとやって来たのだった。
 春月達がいま立っているのは、街をぐるりと取り巻く丘の上だ。春月は広大な地面が空に浮いている様を想像していたのだが、実際には、いくつもの小さな島をあわせてシュリフィード王国と呼ぶのだそうだ。ここは首都であり、最大級の都市なのだという。
「なあ、藤原」
 背後に立つ山田が、春月に声をかける。
「あのさ。……三年間、迷惑かけ通しで、悪かった」
 春月は驚いて振り返る。やけに思い詰めたような表情で、山田は真っ直ぐに春月の目を見た。
「本当に、ごめんなさい。一歩間違ったら、お前を危険にさらすところだった。正直、無事に卒業できるなんて、思ってなかった」
 強い風が、木々の梢を揺らして騒ぎ立てる。
「藤原、……これが終わったら、オレのことは、忘れていいから」
 山田が、崖のそばにある双眼鏡をいじる。手招きされて、春月はそちらへ近寄った。ここは空に浮かぶシュリフィード王国本島の、へりに当たる部分だ。見下ろせば、白い雲の彼方に、ほのかに地上が透けて見えるような気がする。風が強いのもうなずけた。
「むしろ、忘れてほしいんだ。オレは顔も名前も、戸籍だって後から作って持ってきた。だから、『山田太郎』なんて人間、元からどこにもいなかったんだ。オレはただ、生きるために嘘をついて、楽しむために嘘をついて、嘘をつくために嘘をついて、そうやって生きてきた。そんな『ごっこ遊び』は、そろそろ終わりにしたいんだ」
 百円玉が見つからず、春月は諦めて、崖の手前に渡された柵に近づく。近寄るな、という看板が出ているが、足元に広がる地上都市という景観の誘惑には負けた。柵のそばに立ち、春月は短く答える。
「私は嫌だよ。理由、聞きたい?」
「ああ、いや――」
 しばらくの沈黙のあと、山田は顔を歪め、続ける。
「むしろ、忘れてくれ、なんてのが虫のいい話か。ある意味、お前の母親の件だって、オレのせいみたいなものだし――」
 山田の言葉の意味がつかめず、春月は首をひねりながら、柵からわずかに身を乗り出した。真下は雲でぼんやりとしか見えないが、その雲が切れた向こうには、航空写真のような大地が地平線まで広がっている。飛行機から見る光景と同じだな、と春月は思った。写真を撮ることは止められているのが残念だ。
「でも、もう終わりだ。これで最後にするから」
 まるで台本を読んでいるかのような、やけに演技じみた山田の言葉が聞こえる。強い風が春月の髪を弄ぶ。山田が、すぐ後ろに立つのがわかった。
「だから最後に――地獄の底まで、つき合ってほしいんだ」
 そして山田は両手で春月の背中を突き飛ばした。
「え、――」
 一瞬何が起こったのかわからずに春月は目をしばたく。春月の上体が柵を越えて滑り落ちた。柵を掴もうと伸ばした手を払われる。
 身体が空中に投げ出されていることに気付き、春月はとまどいの声を上げた。山田のやけに醒めた表情が春月の目に映る。視界がぐるりと回って遮るもののない青い空が見えた。当たり前だ、ここは雲より上なんだから、と思ったのとほぼ同時に、全身に鈍い衝撃が走り、春月の意識はぷつりと途切れた。

           *

 けたたましいサイレンの音で目が覚めた。春月は反射的に身を起こし、いつも目覚まし時計が置かれている位置へと手を伸ばす。しかし手のひらが叩いたのは、目覚まし時計ではなく硬い棒だった。
 そこでようやく、春月はそこが見たことのない部屋であることに気付く。どこかの会社の仮眠室、といった趣で、シンプルな部屋にベッドが並べられていた。
 叩いた棒は先に金属製の飾りがついた木の棒だった。直感的に、魔法の杖だ、と思う。
「目が覚めたか、藤原春月」
 春月の足元に近い位置から、王子がこちらを見ていた。その表情はひどく動揺していて、視線がせわしなく動く。
「王子! ……って、あれ、私、生きてる?」
「島から落ちたくらいで死ぬか。ああ、地上まで落ちると思ったか? 少し想像力を働かせてみろ、今まで空から人が降ってきたことなどあるまい。島の下には、ちゃんと防護ネットが張ってある」
 王子は淡々と答えるが、春月の方を見てはいない。不思議そうに、自分の手を見つめていた。
「そ、そりゃあ、そうだけど……でも、本当に、死ぬかと思った」
 春月が涙ぐむのに気付いたか、王子は春月の背中を、子供をあやすようにさすった。抱いていた印象よりも筋張った手が暖かい。
「なんで、どうしていきなり、あんな――」
「事故ではないんだな? まあ、事故だとしたらあの魔法使いが助けないはずがないか。魔法使いがお前を突き落とした、ということで間違いないか?」
 春月は小さくうなずいた。
「くそ、何をする気だ、あいつ――」
 苦々しげに顔を歪めた王子の胸元で、提げていた携帯電話がけたたましい着信音を上げる。王子は慌ててそれを取り上げ、しばらく会話をすると、険しい顔で電話を切った。
「来い、藤原春月。とんでもないことになりそうだ」
 王子は春月の手を引いた。春月はベッドから立ち上がる。ネットとやらに落ちた時に打ったか、腰のあたりがわずかに痛んだが、それを訴える間もなく王子は廊下へ飛び出し走り始めた。
「ど、どうしたの、王子様?」
「聞いて驚け」
 狭い廊下は壁も床も天井もくすんだ白色で、両側の壁には一定の間隔で黒い扉が並ぶ。
「魔法使いが、この島を落とそうとしている」
「……え?」
 先ほど崖の上から見た光景と、ここに来るまでに魔法のじゅうたんが飛んできた軌跡を思い出す。いつかの聖地行きのバスと同じく、魔法の影響下にない者には見えない、延々と続く長い道路。そこを走りながら、「落ちても大丈夫だから」と言った山田の言葉が、ちっとも信頼できなかったことを思い出した。とにかく、ここは、飛行機が飛んでいそうなほどの上空なのだ。
 確かこの真下は千葉県浦安市のレジャーランド。春月の想像よりは小さいとはいえ、大きな街一つ分の広さがある島なのだ。それが地上に落ちた日には、どんなことになるのか、想像もつかない。
 ふと、山田の最後の言葉が頭に浮かんだ。
「『地獄の底まで、つき合って』か」
 不安も恐怖も突き抜けたのか、春月は思わず笑みを浮かべた。
「いいわ、つき合ってやろうじゃないの」
目の端に浮かんだ涙を拭い、春月は王子の後を追って走る。一瞬前まで頭の中に浮かんでいた怒りも悲しみも恐れも、すべてが自分でも説明のつかない激しい衝動へと転化しようとしていた。
「で、山田は何をしようとしてるの? 詳しく教えてよ」
「どこまでお前が理解できるのかは分からないが、善処しよう」
 エレベーターに乗り込み、階数のボタンを押して、苛立ったように「閉」のボタンを押しながら王子は答えた。
「この国は、島の最下部に設置してあるエンジンの力で浮いている。動力源は魔力。構造は、地上にある科学仕掛けのエンジンと比較的似ているはずだ。だから科学仕掛けのエンジンと同じように、故障もするし、出力が落ちることもある。そうなっても国が落ちないように、この島には一基のメインエンジンの他に、十六基のサブエンジンが設置されている」
 エレベーターは下へと向かう。表示されている階は、乗り込んだ階が地下二階、目的地が地下六階。
「今、サブエンジンのうち一基が破壊されている。普通は絶対に侵入できない区画なんだが、あのエリアの魔力の供給源は防護ネットと同一でな。まあ早い話が、お前の救出に人員と魔力を取られている間に、まんまと侵入されたというわけだ。なぜお前がここにいるのか謎だったが、おとりとして利用されたんだな。お前が魔法使いの知り合いだとは伝えたから、それなりの対処はされているはずだ」
 王子は早口にそう言って、エレベーターから降りて走り出す。
「サブエンジンを壊すのが先か、メインエンジンが先か――」
 王子は暗い廊下を走り、突き当たりに現れた部屋に飛び込んだ。中には機器類と十数個のモニターがあり、その室内に人間はいない。
「な――なぜだ、担当官はどこへ行った!」
 王子は狼狽した表情で声を上げる。「落ち着いて」と春月が声をかけた。
「頭に血が上ると、考えられるものも考えられなくなるわよ」
「ああ、そうだな……魔法使いだって万全の状態ではないはずだ。慎重にあたれば、恐ろしい相手ではない……」
「万全の状態ではない、って?」
 王子は軽く両手を広げた。
「今朝早くからつい十数分前まで、俺様は例によってカカシに変えられていたりしたわけなんだが」
 目を閉じて、自分を落ち着かせようというのか、ふう、と息をつく。二回深呼吸をしたあとで、王子は目を開けた。
「お前が目を覚ます直前、なぜだか元に戻っていてな。理由はいろいろ考えられるが、一番可能性が高そうなのは、魔法使いが手傷を負った、という考えだ」
 春月は、まじまじと目の前に立つ王子を見る。
「警備官には手練れが多いからな。実戦経験は少ないかもしれないが、よく訓練はされているはずだ。遅れは取るまい。あと、なぜか兄上もこちらに向かっていたはずだが……まあ、どうでもいいか」
 王子はもう三回深呼吸をしてから、近くの操作盤に近づいた。表示画面を見ながら、「まだ動きがないな」とつぶやく。
 その王子の言葉を聞いていたかのようなタイミングで、二人の立つ足元が揺れた。震度で言うなら3か4、と春月は思う。それなりに大きな揺れが、二秒近く続いて止まる。
 こんな立地であるだけに地震には慣れているのか、王子はわずかに眉根を寄せただけだった。その直後、二人の目の前にあるモニターがエンジンの異常を知らせる。春月が目覚めた時に聞いたのと同じサイレンが、うるさく響き渡った。
「王子、今のはどこのエンジンが壊れたの!?」
「メインエンジンだ」
 声にはっきりと焦りをにじませながら、王子は答えた。
「このまま放っておけば、少しずつ高度が落ちることになる。六時間後には擬態魔法の効果がなくなる距離まで地上に近づき、さらにその三時間後には――」
 王子は口をつぐむ。春月が後を引き取った。
「落ちるんだね」
 無言を肯定と受け取り、春月はモニターを見つめた。
「……だが、それは全サブエンジンが通常稼働している状態での仮定だ。普通はサブエンジンの出力を限界まで上げて極力高度を保つ。とは言え、今はサブエンジンが破損しているから……」
 ふざけんじゃねえ、と王子はつぶやいた。
「警備官は何をしている! とっととあの魔法使いを捕まえて、エンジンの修理にかかれ!」
 王子は上擦った声で絶叫し、春月の手を引くと部屋を飛び出した。
「警備官が来ないなら俺様がやる! 国家と国民の安全と平和を守ることこそが、王家の人間に与えられた責務だ!」
 春月の背筋が冷えた。それは決して冗談でも強がりでも演技でもなく、彼は本気でそう言っている。違う、と春月は感じた。この少年でさえ、根本的に、春月とは人種が違う。
 王子は自分に言い聞かせるように、似たような意味の言葉をもう一度、こんどは小声でつぶやき、急な階段を駆け下りた。先ほどの部屋のモニターで故障箇所を確認していたのか、壁に貼られている現在地を表す看板を頼りに、王子は走る。春月は必死に後を追った。
 ふと王子が足を止めた。目の前の床に数人の人間が倒れている。一瞬ぎょっとしたが、よく見るとただ眠っているようだった。
「担当官だ。魔法なら抵抗できるはずだが――科学を使ったか」
「科学、って」
「よく知らないが、あの魔法使いめ、何か催眠効果のある薬でも使ったんじゃないのか?」
 王子は彼らに一瞥をくれると、その先へと走り出す。
「科学はよく分からんが、色々とすごいこともできるようだし」
「魔法のほうがよっぽど色々できると思うんだけどね」
「その辺りは見解の違いだな。無事に生き延びられたら、後でゆっくりと論議したいものだ」
 答えた王子の前方五メートルほどのところに、突然音を立てて金属製のパイプの一部が落ちてきた。明らかに何かの部品だろう。暗くてよく見えなかったが、何か蒸気が漏れるような音もした。
「ああ、ここだな……随分ややこしい壊れ方をしているようだ」
「暗くて見えないよ。王子、なにか灯りとか持ってないの?」
 王子はどこに持っていたのか、先ほど春月の枕元に置いてあった杖を取り出す。その先に柔らかい光がともり、二人が立っている空間を照らした。進行方向に向かって左手、壁と見えたものはエンジンの一部だったのか、縦横に金属製の部品やパイプが取り付けられている。春月の頭くらいの高さに、大きな穴が開いていた。何か重要な動力線を切ったのか、パイプの数本からは勢いよく液体やガスが吹きだしていた。
 春月は壊れたエンジンをしばらく見つめていたが、やがて口元を押さえ、「マジかよ」とつぶやいた。
「……ねえ、王子」
 ひときわ太いパイプの断面をなぞり、春月は王子に尋ねた。
「スパナ持ってない?」
 王子は無言で杖を差し出した。明かりをともす杖の先が、ぐにゃりと溶けてスパナに変化する。
「何をする気だ、藤原春月」
 王子の問いに、春月は肩をすくめ、「まあ見てて」と答えた。

           *

「やあ魔法使い。派手にやっているようだね」
 山田はゆっくりと振り返り、視界にヨシュアの姿を認めた。
「本気でこの国を落とす気か?」
「けっこう本気ですよ。そこ、どいてください」
「そうはいかないな。国を守るのは王家の責務だ」
 山田はヨシュアの顔面へと、持っていた杖を向ける。
「うるせえ」
 その息は荒い。空いた左手は脇腹を強く押さえている。黒いマントの影に隠れてよく見えないが、その手が血にまみれていることは、ヨシュアの側からも容易に推察された。
「今すぐオレの前から消えろ。嫌だと言ったらブチ殺す」
「そう怖い顔をするなよ、魔法使い。警備官に撃たれたのか何なのか知らないが、手負いのお前に、残りのサブエンジン十五基を壊す余裕などないだろう。早く投降した方が身のためだ」
「ご明察恐れ入る。だが全部壊す必要はないだろ。あと四基壊せば島が傾いて、落下速度が上がるんだから。……それにな、お前にやめろと言われると、余計にやりたくなるんだよ」
 唇に皮肉めいた笑みを乗せて、杖を真っ直ぐにヨシュアの方へと突きつけたまま、山田は口を開く。
 そして静かにつぶやいた。
「失せろ、贋者」
「――ほう」
 ヨシュアはわずかに眉根を寄せる。山田の方は余裕めいた冷笑を浮かべたまま、じりじりとヨシュアとの距離を詰める。
「お前のような俗物がヨシュア様なものか。王家を馬鹿にするな」
「何を偉そうに。私が贋者だという証拠でもあるのか?」
「証拠なんか出すまでもねえ。初めて会った時からお前が贋者だってことは確信してたっつうの」
 山田の鬼気迫る表情に圧され、ヨシュアは一歩後ずさる。
「あの無能な陛下が太鼓判を押したからって、何の証拠になるものか。あんな馬鹿が治めている時点で、この国はもう終わってる。王子の即位を待つまでもねえ、こんな国はさっさと落としちまった方が世界のためだ」
 吐き捨てるその表情は、どこまでも感情に満ちていた。怒りと悲しみと喜びと、その他のあらゆるものが渾然一体となった表情。山田が一歩踏みだし、ヨシュアが一歩下がる。ヨシュアの存在を検知して、彼の背後の扉が開いた。その向こうには、サブエンジンのうち二基の動力源となっている炉がある。
「引け際はわきまえた方がいいぜ、三流役者さん。お前ごときに、王家の人間として一生演技を続ける度胸なんかねえだろう」
「そこまで言われる筋合いはないな。おい魔法使い、初めて会った時から私を疑っていたと言ったな。理由を聞かせろ」
「言いたくねえな。ぐちぐち言う悪役って、なんか弱そうだし」
「茶化すな!」
 ヨシュアは腰に差していた杖を抜いた。装飾過多な服とは違い、それは飾り気のない、しかし拵えのしっかりした杖だった。
「じゃあ、簡潔に話すから聞けよ」
 山田は目を細め、ヨシュアの背後にある炉を睨んだ。
「昔々、あるところに、神田・マディラ・ハル様と、佐藤うめ様という、二人の聡明な女性がおりました。二人はクリストファーという一人の王子様を取り合って、壮絶な争いを繰り広げました」
「話を逸らすな」
「ちっとも逸らしてねえよ。人の話は最後まで聞け」
 山田の魔力がヨシュアの身体を捉えた。逃がさない、とでも言うように、ヨシュアの足を床に釘づける。
「結果、ハル様はうめ様の卑劣な罠により、王子との子であるヨシュアと共に王宮を出ていくことになりました。国民には、王子の妻という地位にありながら奔放な生活をする彼女が悔い改め、王子と離縁し、彼女は自分の意志で外国へ向かったのだと説明されました」
 子供に絵本を読み聞かせるような、ゆっくりとした調子で、山田は話を続ける。
「しかしそれは、うめ様による真っ赤な嘘。うめ様はハル様を醜い動物に変え、彼女の息子については殺してしまうように命じました。ヨシュアの殺害を命じられた侍従長は、殺すのは忍びなく、白雪姫よろしく、その子供を森ならぬ『地下』へ売り飛ばしました」
「……そこまでなら、王宮の中には知っている者もいるだろう」
「そんな人間はほとんど居ないはずなんだけどな。オレも師匠からこう聞いただけだし」
 ヨシュアの反応をうかがうように、山田は彼の顔を見つめる。
「やがてクリストファー王子は国王となり、うめ様は王妃となりました。一方、ハル様はいつの間にか物好きな悪の魔法使いに助けられており、その息子も、やはり物好きな善の魔法使いの手によって、『地下』から引き取られていきました」
 ヨシュアは眉をひそめる。山田の言葉の意図が掴めず、当惑しているようだった。魔法で応急処置はしたのだろうが、未だに血が滲んでいるらしき傷口を抱えて、なぜこんな話を続けるのか。
「息子は何も知らずに大きくなりましたが、ある日彼の前にハル様を助けたあの悪の魔法使いがやって来て、彼に出生の秘密を語りました。ところが場を引っかき回すのが趣味のその悪の魔法使いは、『面白そうだから』という理由で、その息子をむりやり自分の弟子にしてしまいました。かくして今に至ります。めでたしめでたし」
 ヨシュアが――もとい、そう名乗っていた青年が息を呑んだ。
「整形してるって所までは、お前も気付いてたんだろ?」
 山田が顔の幻覚をはぎ取った。青年には、山田の顔から魔力の気配が消えたことが分かる。だからそこに現れたのは、正真正銘、彼の素顔であるはずだった。
 左の瞳は髪と同じ焦げ茶色。右の瞳は、金に近い色。整った顔には幾筋かの傷痕が走っていたが、それでもなお醜いとは言いにくい。何よりその顔には、どことなく国王の面影がある、ようにも見えた。
 青年は腹を抱えて笑い出す。けたたましい笑い声はどこか下卑ていて、寸前までまとっていた空気はどこかへ飛んでいた。
「傑作だ」
 山田は元の通りに顔に幻覚をまとわせると、笑い転げる青年を見て冷ややかに声をかけた。
「あんた、名前は?」
「レオナルド・浩介・ユトー。ガザ王国生まれの人竜ハーフさ」
 笑いながら、青年、改めユトーは杖を放り投げた。両手を上げて、降参のポーズをする。
「畜生、てめえ、知っててずっと笑ってやがったな。胸くそ悪い、これじゃあ俺はまるっきり道化じゃねえか!」
 ユトーは道を空けた。その先にはエンジンに続く炉がある。
「好きに壊せ、あんたには勝てねえ。この国が終わってるって点には同意するよ。あの国王が俺に『息子よ!』なんて言ってきた時には、本気でこの国の未来を心配したぜ。……ああ、もしかして」
 山田が疲れたような顔でユトーの方を振り向いた。
「ヨシュアちゃん、自分のパパに愛されてる俺に嫉妬した?」
「あの場でお前を殺したくなるくらい、ムカついた」
 そのまま奥の部屋へ進もうとした山田の背中に、何かが投げつけられた。ユトーと山田が振り返ると、そこには人影が二つ。
「……待ちなさい」
 藤原春月と、フィガロ王子が立っていた。

           *

 春月はやけに沈痛な表情で、王子は妙に冷静な様子で、先刻山田が出てきたばかりの曲がり角に立っていた。
「どこから聞いてた?」
「ハル様が王宮を追い出されたってあたりから」
 春月は今にも泣きそうな表情で、絞り出すように答えた。
「でも、王子はその前に、全部、気付いてたよ……」
 山田とユトーの表情に驚きの色が浮かぶ。
「そんな顔をするな。それに俺様が自力で気付いたわけじゃない、あれはただの偶然だ。城の魔法人形が、お前が何か企んでいることに気付いていてな。ずいぶん前に、気をつけろ、と教えられていた」
「キャサリンか。……あのお喋りめ、黙っていろって言ったのに」
 山田が答え、ため息をついた。
「だが、彼女の話を聞いてもずっと半信半疑だったし、まさか島を落とす気でいるとまでは思わなかった」
「オレだってこの馬鹿がいなけりゃ、ここまでする気はありませんでしたよ。本当は、いつか穏便に去るつもりだったんですから」
 ちっとも反省していなそうな様子で、ユトーが「悪かったよ」と肩をすくめた。
「その代わりと言っちゃなんだが、てめえの野望につき合ってやろう。王子さん、この先は通さないから覚悟しとけよ」
「別に構わん。サブエンジンが三基壊れたくらいでは、高度維持に影響はないからな」
 首をひねる山田の前で、春月が一歩前に出た。
「山田、さっき私が投げたのが何だかわかる?」
 山田は足元に落ちている杖を見た。先が工具状に変化している。
「メインエンジン、修理してきた」
 春月の言葉に、ユトーが「は?」と間抜けな声を上げ、山田はまったく理解できないとでも言うように首を振った。
「それは、どういう――」
「形状、パイプの配置、規模からして、あれはD8型ラクトエンジン。ラクトエンジンの中でも、最も出力が大きくて安定している型ね。そのくせ構造はきわめて単純。あんたが壊したのは心臓部でも何でもないから、知識があればすぐに直せるわよ」
 春月は親指で自分の胸を指さした。
「通信教育で修理の方法を習ったことがあってね!」
「何でだよ!」
 思わず叫んでしまってから、山田は何かに気付いたように目を見開いた。んなアホな、とつぶやいた山田に、王子が語りかける。
「在日魔法使い向けのダイレクトメールなんて、幾らでもあるだろうな。通信教育の宣伝だって混じっているだろう。母上のところへ届いたものが誤配されたか、藤原彰子宛に宣伝が届いてしまったのか、とにかく藤原家に宣伝が行った。あの藤原彰子は魔法を忘れているし、おそらく何かのきっかけで魔法に関する記憶が戻らないように、魔法そのものが理解できない状態にされているだろう。だから、魔法式エンジンの修理方法だのお手軽料理魔法だのという教材も、何の疑問も抱かずに受け取ったり申し込んだりできただろうな」
 ああ、と山田がこめかみを押さえてつぶやいた。
「そういえば、お前たしか通信教育で古武術とかやってたもんな」
「他にも色々できるよ?」
 答えた春月の声をさえぎるように、ユトーが再び笑い出した。
「女神に見放されたのは俺だけかと思ったら、どうやらてめえも同類だったようだな。どんなに強力な魔法だって、運命の前では無力だと思わないか、魔法使い?」
 マントを投げ捨て、杖を拾い、ユトーは山田の額をつつく。
「それじゃあ、俺はこのあたりで消えるとしよう。本物さんの前で、いつまでも演技を続ける自信はねえや」
「好きにしろ。王家の人間に害をなさないなら、追う気はない」
 ひらひらと手を振った彼の姿が、ふっ、とその場からかき消えた。
「ああ……まったく、道化はどっちだよ。とことん運に見放されてる気がするぜ、オレは……」
 背後の炉に目をやって、山田は深いため息をついた。
「ユトー、か。くそ、見覚えがあるはずだ。前に一度、頼まれて捕まえたことがある。王子、彼のことはご存知ですか?」
「知らないな。何かお前以上のことを企んでいたのか? ……いや、そんなことはもうどうでもいいんだ、それより魔法使い」
 王子はゆっくりと山田の前に進み出て、膝をついた。
「知らぬこととはいえ、数々の非礼をお詫び申し上げる」
「気持ち悪いんで止めてください。師匠が本当だって言ったんだから確かにオレが本物のヨシュアさんなんでしょうけど、記憶も自覚もないし、どうせ今更名乗り出るわけにも行かないんで。正直、あなたがオレの弟だろうが何だろうが、どうでもいいです」
「嘘つき」
 春月がぼそりとつぶやいた。
「本当にどうでもいいなら、贋者さんが出たくらいでやけっぱちになる必要はないんじゃないの?」
「別に、やけっぱちになんか――」
「そう? 本当は、自分が息子だって名乗り出たかったんじゃないの? ……ひとつ確認しておきたいんだけど、『ごっこ遊び』をやめたら、本当のあんたは山田太郎なの? それともヨシュア王子?」
 山田は顔をそむけ、壁を伝って奥の部屋へ進む。春月はその後を追って、山田の腕を引いた。その左手が血で汚れていることに気付き、春月は息を呑む。マントの下に見える傷は、春月が思っていたよりも深そうだった。
 山田は春月の手を乱暴に振り払う。
「わかんねえよ」
 右の拳を叩きつけるように壁にあるボタンを押し、その横にあるレバーを勢いよく引き下げた。どこかで重い物を引きずるような音がする。
「強いて言うなら、どっちもオレじゃないような気がする。どんな所にいても、ここにいていいんだって気がしない。今の家族は好きだけど、あの家にこれ以上いたらいけない気がする。だからって、さんざん悪評バラ撒いてるオレが、今さら出自をばらすわけにもいかない。陛下はオレのこと何とも思ってないみたいだし、あげくにハル様は息子に関する記憶をばっさり消されてるし」
 山田が壁のハンドルに伸ばした手を、春月が掴んで止めた。
「だから、逃げるの?」
 王子が背後で唇を噛み、やるせない様子で立ちつくしている。
 春月の手を振り払うこともせず、山田は彼女の視線から逃れるように天井を仰いだ。
「逃げたつもりはないんだけどなあ。でも考えてみれば、逃げたいのかもしれない。実際、この国を落とす理由なんか特にないんだし」
 山田が額に浮かんだ脂汗を拭い、その場に膝をついた。腹を抱えて顔を歪める。王子が一歩進み出た。
「……兄、上……?」
「やめて下さい王子、いつものように魔法使いと呼んでくれれば結構ですから!」
「だ、だが……」
 山田は目を閉じ、床に爪を立てる。春月は側にしゃがみ込んだが、何が出来るわけでもなく、ただ「大丈夫?」と声をかけるのみだ。王子は戸惑いながら、次に言うべき言葉を探している。
「そういうのはね、これからこの島が落ちるっていう、最大のピンチの時に言えばいい台詞なんです。すでに完全な敗北を喫した小悪党相手じゃ、ちっとも美しくないんですよ、王子」
 シャツには血が滲んでいたが、その染みは広がる様子がない。山田の左手が傷口を撫でるたびに、ほのかな燐光がひらめく。悔しいことに、春月にその魔法を手伝うことはできない。
 せめて、とばかりにハンカチを出して、顔に滴る汗を拭う。
「山田。……『ごっこ遊び』は、そろそろ終わりにすれば?」
 エンジンの重苦しい動作音が、狭い部屋の中にやけに大きく響いた。薄暗い部屋の中で、山田の表情はうかがいづらい。春月の言葉に何らかの反応があったのかどうか、近い距離にいるはずの春月にも、はっきりとは分からない。
「結局、誰よりタチの悪い観客はあんたじゃない。役に振り回されるなんて、役者としても三流ね。名前なんて、ヨシュアだろうが山田太郎だろうが大した差はないわ。顔なんて、もっとどうでもいい。ねえ山田、私と一緒にいた三年間、何から何まで全部演技だった? 笑ったのも、悔しかったのも、ぜんぶ嘘だった?」
 春月はゆっくりと語りかける。先刻、王子を追って部屋を出た時の、あの感情が戻ってくる。王子に話を聞き、物陰で山田の会話を聞いていたときの、どうしようもない寂しさも悲しみも怒りも、臨界点を突破して、とうに感じられなくなっていた。我ながら説教じみたことを言っている、と頭の隅の何かが訴えるが、だから何だ、と春月は思った。
「私は全部本気だったし、今でも本気で喋ってる。あんたがどう思ってたって、私とあんたは友達だと思ってる。さっきは言いそびれたけどね、だから私はあんたを忘れないよ。忘れろって言われたって忘れるもんか。たとえ魔法で忘れさせられたって、それでも絶対、いつか思い出してやるんだから」
 なぜか涙があふれてきて、春月は苦笑する。
「嘘をつき続けるなら、その嘘ごと思い出してやるから」
 山田が無理に首をねじって、顔をそむけた。
「私はあんたが舞台にいるのか楽屋にいるのかなんて考えたことない。あんたが何を演じてたって、その下にいるあんたはひとりの人間だよ。仮面をつけかえたくらいで、逃げた気にならないで。ここにいていいって思えないなら、一緒に居場所を探しに行こうよ。大切な人に忘れられてるなら、今からもう一度覚えてもらおうよ」
 冷静なつもりなのに、悲しいなんて感情はとうに突き抜けたはずなのに、なぜか涙があとからあとから出てきて止まらない。ごわついたジャケットの生地は、涙を拭くのに適さない。
「あんた、このままでいいの? よしんばこの国が落ちてたとしても、それであんた納得できた? いや、納得できるんだったらいいけど……って、全然良くないか……とにかく、私はイヤだよ。あんたは本当は強いって思ってるもん、弱虫じゃないって信じてるもん、だからこんな中途半端なままで、こんな別れ方したくない!」
 ジャケットに血がつくのも、山田が顔をしかめるのも構わずに、春月は山田に抱きついた。振り払われるかと思ったが、予想に反して、山田は特に何も言わない。
「納得できるところまで、一緒に行きたい。私のこと、地獄の底までつき合わせてくれるんじゃなかったの?」
 声を上げて笑う気力もないのか、山田が唇の端をつり上げて笑い、ささやくような声で答えた。
「ここまで八方ふさがりになる前に、その台詞、聞きたかったなあ」
 春月の腕をそっと払い、山田は壁に手をついて、ふらつきながら立ち上がる。
「本当にさ……もう意味わかんねえよ、お前、自分が言ってることがどれだけメチャクチャか分かってる? オレがどういう存在で、今どういうことをしてるのか、知っててそんなこと言ってる? ああ、もう、本当にお前、バカで浅慮でどうしようもねえ。……でも」
 王子の方にちらりと視線をやってから、山田はさらに奥の扉に目を向けた。
「お前のそういうところ、嫌いじゃない」
 そして危なっかしい足取りで走り出し、壁のハンドルを回し向かって右の扉を開けると、その先の空間へ飛び出した。強い風にあおられ、春月は思わず悲鳴を上げる。
「なに、この奥、なんの部屋なの!?」
「右は確か――エンジンの排気口に続いている。整備用の入口だ。くそ、さっき引いたのがそこのハッチを開けるレバーか!」
 声をかき消すような強風が部屋を満たす。王子が風とエンジンの音に負けないように怒鳴った。奥の空間に足を踏み入れると、三人の足元に、一辺が一メートルほどの大きな四角い穴が開いている。
「……藤原」
 穴の反対端で、山田が口を開いた。
「最後に、お前に会えてよかったよ」
 そして山田は床を蹴り、床に開いた穴へと飛び込んだ。その下には薄い空気と雲。慌てて春月が手を伸ばすが届くはずもなく、黒いマントは白い雲の上で翻り、すぐに雲に紛れて見えなくなった。

           *

「胃が痛い」
 公園の噴水の脇に腰掛け、王子はうかない顔でつぶやいた。
 勇戸高校の近くにあるこの公園は、花見に向いた場所として知られる。現にどちらを向いても桜の木が生えていて、ちらほらと花をつけていた。まだ花見には少々早いせいか、それほど人出は多くなく、二人の姿に目を留める者もいない。
「ねえ、王子。王様って、本当に山田が自分の息子だって気付いてなかったの?」
「父上は、たぶん全く気付いていないだろうな。残念ながら、政治以外のことについては、あの贋者や魔法使いの言うとおりの無能だ」
 王子は隣に座る春月に、憔悴しきった顔を向けた。
「魔法使いの気持ちも分からなくはないな。実の両親は自分の存在に気付かず、義理の家族は自分の悪行のせいで後ろ指をさされ、かといって名前が知れ渡った今では悪の魔法使いをやめるわけにもいかない。逃げ出した先の日本では、嘘をつき続けて疲れ果てたか。開き直って悪事を行うには、奴はお人好しすぎたんだろうな。跡継ぎを用意せずに消えようとしたところを見ると、よほど追いつめられていたんだろうが」
 ふう、と王子は、今日だけで何度目になるかわからないため息をついた。
 あの後――防護ネットの働かない出口から山田が飛び下りた後、今までどこにいたのやら、どこからともなく警備官がやってきた。警備官の幾人かは山田の後を追ったようだが、まだ彼が捕まったという連絡はない。春月は、本来ならば取り調べられる立場にあったのだろうが、王子の口添えであっさりと解放された。
 その王子はと言えば、昨日はエンジンの破損とヨシュアの失踪についての後始末を抱え、一日中飛び回っていた。誰も地上まで送ってくれなかったので王宮に居座っていた春月は、その慌ただしい空気を肌で感じることになった。
 王子は意外にもてきぱきと指示を出し、後始末を済ませていった。自分の祖父ほどの歳の臣下に命を下す様子を目にし、春月は初めて、王家の人間らしい王子の姿を見たような気がした。並の人間とは造りが違う、と思わせるほどの働きぶりを見て、血が繋がっている程度ではこの空間には入っていけまい、と思う。ヨシュアの贋者について春月は詳しいことを知らないが、きっとあれ以上王宮に留まれば、近いうちにぼろを出し始めたのだろうなと思った。
「なんだかなあ……王子も山田も、別世界の人みたいだ。遠すぎる」
「俺様から見れば、お前の方が遠すぎて理解できん」
 はあ、とため息をつく王子。春月が「二十八回目」とつぶやく。
「しかし、まあ……あの魔法使いも、どこへ逃げたんだか」
「どっかで生きてるといいんだけどね……」
 自分で言ってしまってから、春月はふとある可能性を考えて口をつぐむ。手についた血の感触が忘れられない。――その時だ。
「勝手に殺すな」
 突然声が聞こえて、春月は声の方を振り向く。
「や……山田!?」
 水音と共に、山田が池の中から顔を出していた。マントを水びたしにしながら、王子と春月の間に割ってはいる。
「ば、バカ! 死んじゃってたらどうしようって、結構本気で心配したんだからね!」
「叩くな、本当にバカになったらどうしてくれる」
「心配ない、もう限界までバカになっているから変化はないさ」
 軽口を叩く王子の表情は安堵に満ちている。山田はそんな王子に気付き、濡れた手でその頭を軽く叩いた。
「まったく、言ってくれますね」
 そう言って山田は屈託のない笑みを浮かべる。池から上がり、マントの裾を絞った。
「山田……あの、だってあの時、最後って……だから、もう私の前には現れないんじゃないかと、思ってたん、だけど……」
「オレもそのつもりだったんだけどな、いろいろ誤算があったんだ」
 ばつが悪そうに頬を掻く山田を、春月は思わず抱き寄せる。「痛い」と山田が顔をしかめた。
「あ……そういえば山田、あんな所からじゅうたんもなしに落ちて、よく無事だったわね」
「大したことじゃない、竜に変化して近くの山まで飛んでいっただけだ。こんな時にでも使わなけりゃ、何の役にも立たない血だしな」
 ぼそぼそと答え、山田は春月の肩へもたれかかる。
「藤原。厚かましいお願いなんだけど……ほとぼりが冷めるまで、少しだけ世話になってもいいかな?」
「おいで。地獄でも北海道でも宇宙でも、好きなところまでつき合ってやろう」
 王子がはやすように口笛を吹いた。一瞬、王子に反論しようかと思った春月だが、すぐにまあいいか、と思い直す。
 それは山田も同感だったようだ。ためらいながらも、山田の腕が春月の肩を抱く。いいの? と尋ねると、文句あるのか、と何とも言えない答えが返ってきた。
 ほころび始めた桜の下で、三人は顔を見合わせ、誰からともなく笑い出す。
 春のやわらかな陽光が、いっぱいに降り注ぐ日だった。


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