いろはのお題inスプリング*スプリング part2
月香るな


 罠の数は35



 藤原春月が、成り行きで山田太郎の家に行くことになったのは、ある火曜日の放課後のことだった。
「そういえばあんた、どの辺に住んでんの?」
「五丁目の、結婚式場の近く」
 そういえば五丁目には結婚式場と総合病院と斎場が並ぶ、ゆりかごから墓場まで完全対応の地区があった。魔法のじゅうたんに二人乗りして、ついたところはボロアパートの前。
「ここがオレの家」
 なんだか日当たりの悪そうなその家。鍵を開けた山田の後を、入ろうとしたところで山田が声を上げた。
「あ、そうだ。藤原、その足下、落とし穴あるから気をつけて」
「はぁ?」
 言われるままに靴を飛び越え、その先の玄関マットも踏まないように進む。
「何なのよ、これ……」
「あ、そこ頭下げて。いや、侵入者の撃退用に作ったんだけどさ。全部あわせて、罠の数は35ある」
 やりすぎだ。
「そこ座って。ピンクの座布団の上は安全地帯だから」
 言われるままに座って、周囲を見渡す。
 とりあえず目を引くのは、天井に貼られた山咲トオルのポスター。漫画のではなく、本人の、だ。
 何か違和感があると思えば、この部屋、家具が少ないのだ。棚の代わりに、段ボールが口を手前に向けて積み上げられている。春月が借りようと思っている漫画が、全巻並んでいた。
「今、なにか冷たいものでも持ってくるから」
 別にいい、と言おうとしたが、下手に立ち上がって罠でもあるといやなので踏みとどまる。何せここは山田太郎の家だ。
「お待たせ」
「……なに、その微妙すぎるの」
 戻ってきた山田が手にしたガラスのコップには、紫の液体がなみなみと注がれていた。中から炭酸飲料のごとくに泡が出ている。傾けると、どろりとした液体であることがわかった。
「飲めよ。うまいぞ」
「うわあコレやっぱり飲み物なんだね!」
 2Kのアパートは狭苦しいが、とりあえずコタツとその周辺だけはきれいにされている。そういえばこのクソ暑いのにどうしてコタツなのだろうと思ったが、聞くだけ無駄なような気がして口にするのはやめた。
「にしても、ずいぶん涼しいね。日当たりのせい?」
「多分。まあ、悪の居城は涼しいものと相場が決まってるけどな」
 勇気を出して口に含むと、紫の液体は意外にまともな味だった。はちみつをかけたキュウリの味に似ている、と春月は思う。ほのかな酸味が怪しい。
「ところで山田、コレ何なの?」
 紫の液体を指さすと、山田は平然と答える。
「自分でもよく覚えてないんだが、確かイモリの黒焼きと、プリグレ草の干したのと、カルバグの生き血と赤キャベツの芯と、あと台所に転がってた正体不明の果物をミキサーで……おい、どうした? 変な顔して」
 この部屋の随所に散らばる35の罠よりも、この謎ドリンクの方がはるかに恐ろしいと、そのとき春月は確信した。









 枯れない花



 家に帰るといつものようにテーブルの上に書き置きがあった。夕ご飯は鍋の中。忙しいのにいつも悪いなあと思いながら、それでも自分で料理を作るのは怖い。
 昔から料理が苦手だった。いや、あたしが食べる分にはそこそこのものが作れるのだけど、他人に食べさせると決まって悶絶されるのだ。理由はわからない。
 誰もいない家の中で黙々とカレーを温めて、皿に盛る。あたしはカロリーメイトの方が好きなのだけれど、それは母親が許さない。
「あーっ、つまんないの!」
 乾燥機が洗濯物を乾かしている。掃除は終わっているようだ。いつの間に母が帰ってきたのかは知らないが、まったくまめな人だと思う。さすが、「良い魔法使い」を標榜するだけのことはある。
 あたし、山田比奈子は、「良い魔法使い」の両親と「悪い魔法使い」の兄を持つ中学生だ。まったく、どちらも笑っちゃうくらい忙しそうにしている。兄貴の方は日本に留学してしまったから最近見ないけれど、中学生の頃だって、ほとんど学校にも行かずに、やれ修行だ、やれ仕事だと、ほとんど家には帰ってこなかった。
 そこでふとあたしは、部屋のすみに見慣れない観葉植物が置いてあるのに気づいた。赤と黄色のだんだら模様の、毒々しい色の花がついている。近寄って突っついてみたら、ふしゅう、と花粉を吐いた。
 さてこれは何かしら、と考えていたら、ふと視界に入った書き置きに裏面があることに気づいた。ひっくり返して読んでみれば、どうやらこの花のことが書いてあるようで。
「追伸 比奈子へ。部屋に置いてある観葉植物は、もらい物なので枯らさないように。少なくとも一日に一回、生きのいい羽虫を与えること……」
 ウツボカズラ、という名前があたしの脳裏に浮かんだけれど、どうやらそれではないらしい。気になったので、本棚にある分厚い植物図鑑をひもといてみることにした。
「ええと……多分これだ、サー・ディオキシアン・ペルパラライズ・(中略)・アンジリオン。性格は獰猛にして寂しがりや。一日に一回はきちんとエサをあげましょう。忘れると拗ねて泣きじゃくりながら噛みつきます……」
 日本語名はエンノシタノヤクタタズカモシレナイ。もうなにがなんだか。
「エサと愛と魔力を与え続ける限り、枯れることは滅多にありません……」
 寂しがりやでエサ(と愛と魔力)が必要でしかもなかなか枯れない花。なんて厄介なものを貰ってきたんだ、母さん!
「なお、寂しいときにはなぐさめてくれます。一人暮らしのお供にどうぞ」
 いらねえ。内心そう思いながら、あたしはふと兄貴のことを思った。遠い(ってほどでもないけど)日本で一人暮らしをしている兄貴に、このサー・(中略)・アンジリ何とかをプレゼントしてあげたら、喜んでくれるかな?
 幸いにして、魔法使いとしては天性の才能を持つ兄貴だから、たぶんこいつに与えるくらいの魔力は余っていることだろう。愛……はよくわからないけど、羽虫くらいは捕まえられるんじゃないかしら。
「でも、どうやって人をなぐさめるのさ、花のくせに……」
 つぶやいたあたしの首に、ぐるり、と巻き付くものがあった。振り返って見れば、サー・(中略)・アンジリオン(以下サ某)の葉が伸びている。
「……あの、もしかして……」
 その葉がグン、と引っ張られて、あたしはサ某の足下に引き寄せられる。よしよしをするようにもう一枚の葉が伸びてきて、グロテスクな色の花が頬にすり寄せられた。こいつの目的に気づいたのは、実に五分くらい経ったあとのこと。
「なぐさめて、くれてるんだ?」
 頷くように花が揺れた。嬉しいのか、あたしの首に巻き付いた葉が絞まる。ああ、馬鹿、こんなのに絞め落とされてたまるか。
 ふと目に入った植物図鑑の最後、おまけみたいに書かれた言葉。
「時折、あなたに激しい親愛の情を示すことがありますが、拒絶すると悲しんで巨大化するので、優しく受け入れてあげましょう」
 どうしろって言うんだ。
 朦朧とする意識の中で、あたしはこのサ某を、兄貴のもとに持っていく計画を立て始めた。

 このサ某、兄貴ととても仲良しになったらしいというのは、また別の話。









 夜を盗みにくる男



 時計の針は午後十時。
 そろそろあいつがやってくる。
 夜を盗みにくる男。

「はーいコンニチハー今日も元気に出張して参りましたイエー!」
 無駄なハイテンションで現れた、黒いマントの男。
「徹夜が続いてオレはもうそろそろ死にそうですがお客さんはいかがですかー!?」
 なら来るな。
 バカでかい照明器具を担ぎ、空いた手にピンクの杖を持って、男――悪の魔法使い山田太郎は、今日も私の安眠を邪魔しにやって来る。
「どうですかお客さん。そろそろここらで諦めてサクッと要求呑みません?」
「冗談じゃないわよ! なんで私がそんなことしなけりゃなんないの!」
 肩からかけたカバンから、小型のラジオがのぞいている。山田太郎はそいつを最大音量でスイッチオン、やめてくれ近所に迷惑だ。
「オレもいい加減飽き飽きしてるんだが、一応こっちも仕事なんでね!」
 ラジオを入れてしまったせいで声が通らない。山田太郎は私の耳元でがなった。だったらそのボリュームを落としたらどうなんだ。
 目深に被ったフードの下に、見える顔はまだ若い。日系の名前が示す通り、両親に似た日本人顔。どうしてあの両親からこの息子が、とあちこちで嘆かれる、立派な魔法使いの両親を持つ男。
 その両親から受け継いだ才能は間違った方向に開花してしまったらしく、ここ三代ばかり年輩の魔法使いが務めてきた、俗に言う「悪の魔法使い」という役職(?)を、二十歳にもならないうちに継いでしまった。
 ……って、こんな奴について長々と語っている場合じゃない!
「やかましい、さっさと帰らないと警備会社呼ぶわよ!」
「すでに回線は切ってありますのでそこら辺はご心配なく!」
「ええ? なに、聞こえないわよ!」
 ほんの四日だ。だが私の神経はそろそろ限界、キレてしまいたくて仕方ない。
「……とにかく、何があっても、私は絶対に、店の名前は変えないからねッ!」
「わかんない人だな、自警団からも苦情が来てるって言ってるだろう!?」
 やかましい。私が私の店にどんな名前をつけようと勝手じゃないか、別に人に迷惑をかけてるわけじゃないし。
「いいから早く折れてくれよ、オレもう寝不足で死にそうなんだよ!」
「ならもっと別の方法を考えればいいでしょ! それともなに、あんたの依頼人は手口まで指定してきたわけ!?」
「い……いや別に、そんなことはないけど……最近ちょっとネタ切れで、他に思いつかなくて!」
「それは単にあんたのボキャブラリーが貧困なんじゃなくって!?」
「お前にだけは言われたくない!」
 ピンクと白のストライプ模様が入った、可愛らしい杖を私の喉元に突きつけ、山田太郎はカバンから目覚まし時計を取り出した。
「あと五分でこいつが鳴り出す! それまでにお前が言うことを聞かなかったら、今度こそ実力行使に出るからな!」
「何分もらっても変わらないわよ!」
 そうだ。何度言われたって、変えるものか。私の店だ、私が決める。
「だから、何度も言ってるように――」
 山田太郎が声を荒げた。
「広島風お好み焼き屋に『大阪の風』って名前は似合わないんだよ!」
「だから、そんなの私の勝手でしょう!?」
 私たちが安眠を手に入れる日は、まだまだ遠そうな気がしてきた。









 ただの婆さん 」の読了を推奨



「山田くん山田くん、勇者を見つけたんだよ!」
 佐藤浩が嬉しそうに報告してきたのは、ある日の朝のことだった。
「いくら出したら、討伐を手伝ってくれる?」
「相手と程度によるけど……まあ、勇者を襲うのは悪としての義務だし」
 言って、山田はちょっと首をかしげた。
「……そうだな。明後日提出の生物のノート、代わりに作ってきてくれるなら、一時間くらいはつき合ってもいいぜ」
「え、その程度なんだ……?」
 小さく頷いた山田。佐藤は一瞬あきれたように山田を見たが、すぐにこれは儲けたと思ったのか、その契約に乗ってくる。
「一時間あれば充分、だと思う」
「近所か?」
「うん、隣町だからここから自転車で10分もかからないよ」
 ならじゅうたんで飛んでいけばもっと早いな、と山田はつぶやき、かくしてここに魔王のイトコと悪の魔法使いの契約が成立することになる。
 背後で立ち聞きしていた春月が、心底やってられないという感じで顔をしかめたことを、二人は知らない。

 ハムスター柄の魔法のじゅうたんに乗って、二人は隣町へ向かった。
「ところで山田くん、ハムスター好きなの?」
「家で何匹か飼ってる。好きだよ」
「へえ……僕の家は魔物で手一杯で、普通のペットまで飼えないからうらやましいよ。ねえ、今度遊びに行ってもいい?」
「……お前も、ハムスター好きか?」
 あのぶちスライムあたりから佐藤家の様子を想像すると、背筋が寒くなってくる山田だった。どう考えてもそれは魔窟だ。色々な意味で。
 とにかくそんな会話を交わす間にじゅうたんは隣町に着いて、二人は上空からお目当ての「勇者」を探す。
「ええと、確かそのビルを曲がって、この道の二軒目……あ、あの家だよ」
 赤い瓦の平屋建て。何年前に建てられたのか聞いてみたくなるようなこのボロ家に、勇者が住んでいるとでも言うのだろうか。
「ええと、この間の日曜日に、全国から勇者を捜して回ってる『大臣』がここの住人に接触したんだ。だからここの住人は『勇者』になってるはず」
「……なあ、勇者よりも『大臣』を倒した方が建設的なんじゃないのか?」
「それは古代からのしきたりで禁止されてるの。さあ、行くよ」
 どうも納得いかない、と首をかしげながらも、山田は人払いをしてじゅうたんを下ろし、家の前に立つ。しかしよく見れば、インターホンがない。表札も、読めるか読めないかという字で「吉田」と書かれているだけだ。
 佐藤はガンガンと扉を叩き、「すいませーん」と呑気に声をかけている。その背後にはいつのまにやら、ぶちスライムのタマが控えていた。このスライムは普段どこにいるんだろうと、少し疑問に思う山田。しかしその疑問は、直後どうでもいいこととなっていた。
「はいはい、なんでしょう?」
 建て付けの悪い扉を開けて出てきたのは、
「た……ただの婆さん……?」
 腰の曲がった、やさしそうな顔の老婆だった。
「……佐藤。コイツが勇者なのか?」
「うん。あの、吉田ミヨさんでよろしいですね?」
 佐藤の問いに、婆さんは「ええ、そうですよ」と頷いた。
「念のためにお訊きしますが、勇者さんですよね?」
「ええ、そうですよ。……すると、坊やたちは……?」
「初めまして。僕は魔王の部下で、佐藤浩と申します。『食われる前に食え!』の家訓に従って、吉田さんを倒しに来ました」
 山田は初めて、魔王の部下と勇者の、こんなに礼儀正しい掛け合いを見た。これはどうも悪としての美学に背いている、と山田の中のなにかが告げる。
 婆さんはそれはそれはいい人そうに微笑んだ。笑うと目が細くなり、目尻にきゅっとシワが寄る。
「おやまあ、それは大変だったでしょう。お上がりなさい、麦茶がありますよ」
「遠慮します」
 どこの世界に、魔王の部下にお茶を勧める勇者がいるんだ。いつもの春月よろしくツッコミを入れたくなって、山田はふと、自分に突っかかる春月の気持ちを理解したような気がした。
 佐藤の方も、地味で気弱そうな顔立ちをしているものだから、婆さんが聖剣を抜き、佐藤が魔物を呼ぶべく笛をくわえたときも、どうも緊迫感が湧かなかった。
 しかしふと自分の役目を思い出し、急いで左手で印を組む。倒していいのかなあ、敬老精神は大切にしろって言われたんだけどなあ、と悩む山田の前で、真剣勝負は始まった。

「……オレ、あんなに戦いにくい敵って初めてだったよ……」
「僕もさすがに、ただの婆さんと戦ったのは初めてだな」
 ぎっくり腰で動けなくなったミヨ婆さんを、病院に連れて行った帰り。悪の魔法使いと魔王のイトコは、魔法のじゅうたんの上から夕日を眺めつつ、この世の不条理に思いを馳せるのだった。









 レタスとキャベツとマヨネーズ 本編第二話の読了を推奨



「あの、すみません」
 私が声をかけられたのは、五丁目の信号横。山田に貸したノートを返してもらいそびれて、このままじゃ宿題が提出できないという窮地に追い込まれていた私は、山田の住んでいるボロアパートに向かう途中だった。
 いや、普段ならそんなことしないのだけれど、テストの点にして十点分もあると言われたら、出すしかないじゃないか、宿題。
 とにかく、私に声をかけてきたのは中学生くらいの女の子だった。時代錯誤な風呂敷包みを抱えて、重そうにしている。
「この住所、どのあたりかわかりますか?」
 そう言って、女の子は風呂敷包みを下ろし、メモを差し出した。白い紙に殴り書きされた住所は、今まさに私が行こうとしている通り。
 いや、むしろこのアパートの名前と、一○二号室の文字。これは、もしかするともしかするのではなかろうか。
「あの、もしかして山田さんの家をお探しですか?」
 私がたずねると、女の子は大きくうなずいた。
「ご存知なんですか?」
「高校の、クラスメイト……と同一人物だと思うんですが。ちょうどそこに行く途中なんですけど、ご一緒します?」
 女の子はもう一度うなずく。ポニーテールにした黒髪が揺れる。
「お願いします」
 そして風呂敷包みを抱え上げると、私の後について歩いてきた。
「山田って、山田太郎ですよね?」
「はい」
「そこの高校の一年生の、ですよね?」
「多分、そうだと思います。日本の高校の、一年生です」
 ふと、その言い方に引っかかるものを感じて、私は女の子の方を見た。ティーンズ向けのファッション雑誌にでも出てきそうな、ありがちな服装。礼儀正しい言葉遣い。別に、おかしいところはないのだけれど、どこかが気になる。
「もしかしてあなた、シュリフィードの方?」
「……え? はい。日本に留学した兄を母が心配しているので、差し入れを持ってきました」
 ちょっと待て。今、何と言った?
「山田太郎の……妹さん?」
「はい。あの、あたし、山田比奈子と言います。兄がいつも、お世話になっております」
 うわあ、としか言いようがなかった。だって、普通に可愛いじゃないか、この子。山田の妹と言ったら、もっと変人というイメージがあったのに。
「そっか……私は藤原春月って言います、よろしく。ところで差し入れって、なにを持ってきたんですか?」
「下着と、愛用の枕と、それから食べ物……お米と、レタスとキャベツとマヨネーズ。しょうゆもあります。あと、これ」
 道端に風呂敷包みを下ろして、丁寧に見せてくれる比奈子ちゃん。最後に出てきたのは、どう見ても風呂敷包みの体積より大きい観葉植物。六畳二間の家で暮らす兄に、この観葉植物を差し入れるのは嫌がらせ以外の何者でもない、と私は思った。むしろどこに入っていたのだ、と突っ込むべきなのか。
 山田の住むボロアパートが見えたところで、私と比奈子ちゃんはふと足を止めた。一○二号室の前に、男が二人。山田でも、高校の友人でもない。
「よう、比奈子ちゃんじゃないか」
 比奈子ちゃんの姿をみとめ、右側の男が言った。比奈子ちゃんの顔が、さっとこわばる。
「お兄ちゃんは、まだ帰ってないのかい?」
「知らないわよ。そこをどいて。差し入れ、持っていかないといけないの」
 気丈な様子で顎を上げ、言い放つ比奈子ちゃん。この男たち、どうせ山田が仕事で作った敵かなにかだろう。
「おやまあ、優しいことで。実の兄でもないのに、比奈子ちゃんも健気だな」
 比奈子ちゃんの頬に、さっと赤みがさした。風呂敷包みの中から、引っ張り出したのはマヨネーズ。
「そこをどきなさい! あんた達なんかに、そんなこと言われる筋合いはないわ! どかないなら、力ずくで行くわよ」
 実の兄じゃない、ってどういうことだろう。……なんて、深く詮索してるヒマはなかった。ふと気がつけば、私の身体が動かない。男のどちらかが、魔法でも使ったのだろう。
「後ろのお嬢さんの命が惜しければ、さっさと帰るんだな、比奈子ちゃん」
「いやよ」
 うわあ、もしかして私、大ピンチですか。
 その時、比奈子ちゃんがマヨネーズのフタを開けた。中ブタを取って、チューブの先を男に向ける。
 そして、一喝。
「This is a pen!」
 ……それが呪文だと気付いたのは、チューブから飛び出したマヨネーズが男達の目をふさぎ、私にかけられた呪文がとけたあとだった。
 たとえ血のつながりがなくたって、比奈子ちゃんと山田は兄妹だと、私はその時確信した。
 こんな変な呪文の使い手が、何人もいてたまるもんですか。









 その他の人々 」の読了を推奨



 勇戸総合病院の五階、六人部屋の扉が開いて、ひとりの青年が入ってきた。
 片手に薄焼きせんべいの袋を提げたその男は、まっすぐに窓際の老婆の元へと向かう。
「お久しぶりです、吉田さん」
 声をかけられた老婆――吉田ミヨは、あらまあ、と言いながらやってきた男の方に向き直った。
「あなたがいらっしゃるなんて思いませんでしたよ。この間はおかまいもしないで、すみませんでしたね」
「……謝るのはこちらの方です。もしよろしければ、受け取ってください」
「あら、まあ。すぐに退院できるそうですから、そんなに気になさらないでいいのに……ああ、わたしはこのおせんべいが大好きなんですよ。ありがとうございます」
「この前うかがったときに、お宅に置いてあったのを思い出したものですから。……ここ、座っても良いですか」
 ミヨがうなずき、青年はベッド際の丸椅子に座る。立てた茶髪に大仰なシルバーのアクセサリーという、軽い容姿とは裏腹に、その表情や口調は堅い。
「そういえば、まだお名前も聞いていませんでしたね」
「……名乗るほどの者ではありません」
「そんなことを言わないで。ここで会ったのもきっと何かの縁ですよ。お名前くらい、よろしいじゃありませんか」
「山下、です。山下、……直樹」
 一瞬のためらいを見せた後に、青年はそう名乗った。明らかに落ち着かない表情を浮かべる青年に対し、本名なのか、などと下世話なことを聞くこともなく、ミヨは微笑み、「それでは、山下さん」と切り出した。
「あなたの御陰で、若い人といろいろお話ができて、楽しかったんですよ。息子や孫も最近じゃあめっきり尋ねて来なくなってね、寂しい思いをしていたところだったの。……そこに、あなたが来てくださったのよ」
 山下は表情を変えない。
「最初は、何のご冗談かと思いました。勇者だなんて、わたしをからかっているんじゃないか、と疑ったりもしましたよ。でも、あなたはとても真剣でしたから、すぐに冗談で言っているわけではないんだ、とわかりました。本当に……あなたが来てくれて、嬉しかったわ」
「……最初はたいてい、誰に話しかけても冗談だと思われます。吉田さんのように、私が何の……魔法……も使わないうちから、私の話を聞いてくれる方など滅多に居ません」
 魔法、のところで声をひそめ、山下は淡々と言葉を紡ぐ。その視線は、彼の生真面目さを現すように、まっすぐにミヨの方へと向けられている。
「『魔王』……どもは私のことを、テレビゲームになぞらえたのか『大臣』と呼んでいます。しかしそんな偉そうな名前はただの戯れ言、私をからかう言葉に過ぎないのでしょう。私はただの裏方、名もない『その他の人々』のうちの一人に過ぎません。……だから、そんな優しい言葉をかけてもらう権利などありませんよ」
「人が人に感謝するのに、権利も義務もありません。わたしは楽しく、『勇者』をつとめさせて頂きましたよ。至らない『勇者』でしたけどね」
 いたずらっ子のような表情を浮かべ、ミヨはころころと笑う。
「そういえばあの時、あのお二人……佐藤さんと山田さん、とおっしゃったと思うのだけれど、面白いことを言っていましたよ」
 何ですか、と山下が尋ねると、ミヨはゆっくりと彼らの言葉を再現する。
「あれは確か――」

 ぎっくり腰で動けなくなったミヨを介抱し、腰を冷やしてやりながら、佐藤はふう、と息をついた。
「すみませんねえ、本当に」
「謝ったりしないでくださいよ。元はといえば、全て僕が悪いんですから。まったく……どうして勇者ってやつは、みんなそうやって、お人好しで真っ直ぐなんですかね。僕には、どうしても理解できません」
「へえ、お前がそんなこと言うとは意外だね」
 救急車を呼んできた山田が、そう言って佐藤の横にしゃがみ込む。
「悪い? 君もそうだけど、勇者ってのは得てしてそういう、変な純粋さがあってさ……『大臣』がどんな基準で『勇者』を探してるのか知らないけど、まったく、あれには人を見る目がありすぎるよ……」

 ミヨの話を聞き終わった山下は、視線を落とし、ふう、とため息をつく。何かを考えているような複雑な表情を浮かべ、しばらくの沈黙ののちに、ゆっくりと口を開いた。
「そんなことを言ったんですか、あのバカは。……買いかぶりすぎですよ」
「そうかしら。……わたしは色々な人を見てきたけれど、若い人というのは誰にも、びっくりするくらいに真っ直ぐな気持ちがあるものよ。あの二人も、あなたも、とても純粋な人だわ。……だからこそ、負けないでくださいね」
「……何に?」
「ご自分に」
 そう言ってミヨはにこりと微笑み、山下は弾かれたように立ち上がると、失礼します、と言ってその場を立ち去った。
 その後ろ姿を、ミヨはじっと、無言で見つめていた。









 吊り橋のまんなかで



「さあて……なあ、我が弟子よ」
「なんですか、師匠」
「こういう時、悪の魔法使いとしてはどうするのが正しいと思う?」
「煙と共に消えるべきだと思います」
「それが出来ない時は?」
「下の川に飛び込むしかない、と思います」

 吊り橋を見るたび、思い出すことがある。
 二年前、師匠と行った山の中。川にかかった長い吊り橋のまんなかで、前後を敵に――もとい、正義の騎士様に囲まれて。
 シュリフィード王国に山はないから、あれは多分「地上」のどこかだったのだろうと思う。よく覚えていないが、しかしよく地上の観光地に、あんな大軍が出てきたものだ。
「山田、なに見てんの? ……あ、あの絵? キレイだよねー」
 美術は選択していないから、椅子を運びに入った今日、はじめて見た美術室。後ろの壁にかかった油絵には、確かにあの吊り橋が描かれていた。
「ぼーっと見てないで、早く行こう」
「ああ……藤原、先に行ってていいよ」
「そう?」
 言いながらも、春月はドアの辺りでこちらをうかがっている。

 鳥でも呼んで、スマートに逃げ去るのが良かったのだろう。けれど騎士は前後だけでなく、上空にも控えているのが見えた。歩空騎士が出てくるほどの仕事をしたのかと、羨望の眼差しで師匠を見たのは、もう、二年も前の話。
 結局その仕事がもとで、師匠は山田の前から消えることになる。
「さて、それじゃあ飛び込むとするか」
 小声でつぶやいた後、師匠は大声で叫びだした。
「ち……畜生、どうしてここが分かった!」
「逃げ切れるとでも思っていたのか?」
「うるさい! こうなったら……貴様らなど、こうしてくれる!」
 髪の毛を一本抜いて、それをロウソクの芯にでもするかのように、小さな炎をともす。その炎を、わざとらしく吊り橋を支えるロープに近づけた。
「バカめ、そんなことをすればお前もただでは済まんぞ!」
「俺に忠告してるヒマがあったら、早く逃げることだな! もっとも、そんなことはさせてやらんがね!」
 師匠の指先から火矢が放たれ、吊り橋の根本を焼いた。吊り橋が崩れ、落ちる。
 言いつけ通り風の魔法を発動させた山田と共に、師匠は高笑いを上げながら落ちていった。たくさんの騎士を道連れにしながら。
「……いいか我が弟子、大切なのは格好だ。カタチだ。パターンだ。それさえ踏み外さなければ、悪は悪たり得ることができる。逆にそれを踏み外せば、ソイツは魅力的な悪役ではなく、ただのチンピラになっちまう。常に悪役の美学を忘れるな」
「はい、師匠」
 魔法で姿を消して、混乱に乗じて川原を走りながら、師匠が言ったその言葉は、今も鮮明に記憶に残っている。

「……ねえ山田、どうしたの? 早く運ぼうよ……ああ、その絵? そういえばそれ、友達の友達の、美術部のコが描いてるんだよね。確か、古い写真を資料にしてるんだって」
「そうだろうな。もうこの吊り橋は残ってないわけだし」
「ふうん……あれ、もしかして知ってる吊り橋なの?」
「まあな。……行くぞ、藤原」
 思わぬ出会いに運命の存在を感じながら、山田は美術室のドアを閉めた。









 値切るつもりじゃなかったのに 」の読了を推奨



「うわあ、可愛い!」
 レイコちゃんはペットショップの、ハムスターのケージに顔を近づけて、目を輝かせている。レイコちゃんのお父さんは、渋い顔でその様子を見ていた。
「レイコ、ハムスターは世話が面倒だぞ。たまに逃げるし」
「でも飼いたい! なんでもいいって言ったの、お父さんじゃない!」
 たまたまそこの道で出会って、一緒にペットショップに来ただけの僕は、視線をレイコちゃんからまわりの動物たちに移した。
「おい、そこの坊主」
 ふと声がして、僕は辺りを見渡した。レイコちゃんのお父さんの声と似てる、だけど少し違う、男の人の声だ。
「こっちだ、こっち!」
 囁くような声に耳をすませて、僕が探り当てた声の主。それは――
「は、ハムスターが喋った……?」
「ん? ……ああ、日本のハムスターは喋らないのか。これは失敬」
 これまで十二年生きてきたけれど、これはちょっと前例がなかった。家で飼ってるやつらは、可愛いし懐いてくれるけど、ほとんどのやつは喋らない。ハムスターが喋るなんて、僕は知らなかった。
「坊主、私の声が聞こえるのだな。ちょうどいい、ここから出してくれ」
「出してくれ、って……僕、今あんまりお金ない」
「いくら持ってるんだ!」
「ええと……千円くらいかな」
 財布を出して数えてみたけど、やっぱり千三十四円しかない。この喋るハムスターのケージについた値札は、千四百八十円だ。
「ええい、そこを何とかするんだ!」
「うるさいなあ、ハムスターの分際でがたがた言わないでよ」
「……タカシ君、誰と喋ってるの?」
 レイコちゃんが横からやってきて、小首をかしげた。恥ずかしい。転校早々仲良くなった、せっかくの可愛い女の子に、妙な誤解はされたくない。
「べ、別に誰とも」
 言いながら、さっきのハムスターを見る。詳しい種類とかは僕にはわからないけど、とにかく可愛いのは確かだった。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
 店員さんが声をかけてきて、僕はうろたえる。だから、千三十四円しか持ってないんだって。
「あ、あの……この子、可愛いですね。だけど、ちょっと高くて、その」
 僕の名前は佐藤隆、十二歳。イトコのお兄ちゃんは魔王をやってて、僕にもその血が流れているそうだ。だからこんな時、魔王の眷属としては万引きのひとつもするべきなんだろうけど、僕のモットーは「人生、堅実が一番」。将来の夢は公務員だ。
「いくらお持ちですか?」
「あの……千円ちょっとしか、ないんですけど」
 店員さんは笑顔のまま、困ったように首をかしげ、一旦店の奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきた店員さんは、営業スマイルのままケージを手に取る。
「ハムスターだけなら、もう少しお安くなりますよ。エサは後で別に用意するか、買っていただくことになりますけど……今お手元に、税込みで千二十九円、ありますか?」
 僕はうなずいた。ああ、しまった、このままでは今月残り一週間、五円で過ごす羽目になる。けれどこの喋るハムスター、妙な迫力があるんだ。
 ケージはあるかと聞かれたから、僕はうなずいた。任せろ、魔王の一族だけに家にはモンスターがいっぱい。ケージの一つや二つ、子スライムを入れてたのがあったはずだ。ひまわりの種は……ああ、確か誰かのエサになっていたはず。
「タカシ君、ハムスター買ったの?」
「ああ……うん」
 レイコちゃんが自分のハムスターを得意げに見せてくれた。でも、たぶん、僕のハムスターは……違う。
「お金持ってたんだね」
「値切ったんだ」
「うわあ、タカシ君って買い物上手なのね!」
「値切るつもりじゃなかったのに……」
 むしろ買うつもりもなかったのに。なんかハメられた気分だ。

「ここが僕の家。コイツは番犬のタロウだよ」
「……どう見ても犬には見えないのだが」
「うん、タロウは元・地獄の番犬だからね。首が三つあるんだ」
 お母さんに見せたら、また余計なもの増やして、って怒られるかな。
 いや、お兄ちゃんだってそこら辺で拾ってきたやつを、可哀想だからってたくさん飼ってるんだ。僕より先に責められるべきは、お兄ちゃんだ。
 台所で野菜を刻むお母さんに、声をかける。
「お母さん、ハムスター買ってきちゃった」
「あらまあ。自分できちんと世話するのよ」
「しかもこのハムスター、喋るんだ」
「あらまあ。夜中にあんまり騒がないようにね」
 お兄ちゃんじゃないんだから、そんなことしないよ。ね、ハムスター君。
「これからもよろしくね。……あれ、どうしたの?」
「……どうも私は、拾ってもらう相手を間違えたようだ」
 どうしてか知らないけどやさぐれてるハムスターを連れて、僕は自分の部屋に戻っていった。









 涙を舐める 」の読了を推奨



 私の名前はクロン・ドルチェ・ヴィ・サクスフォン。シュリフィード王国にて王に仕える、自分で言うのも献身的な部下だ。……いや、だった、と言うべきか。
「ポチ、おはよう! いい朝だね」
 ちっともいい朝じゃない。
 半月ほど前、悪の魔法使いと名乗る少年にハムスターに変えられてしまったあたりから、どうも私の人生はろくなものじゃないらしい。
 少年の元から命からがら逃げ出したと思えば、見知らぬ人間に拾われペットショップに売られ、挙げ句その私を買い取ったのは、魔王のイトコと名乗る子供だった。
「だから、私の名前はクロン――」
「長いからポチでいいよ。ポチの方が可愛いし」
 ハムスターにポチと名付ける、その神経が私には理解できない。
「それより、今日は土曜日だ! 土曜日といったら、なんと朝から休みだよ! 今日はゆっくり遊ぼうね、ポチ!」
 そういえば、いつの間にか日本も、中学校は完全週休二日制になったのだったか。中学一年生のタカシは、その恩恵にあずかれるわけだ。もっとも、私にとっては迷惑なことこの上ないが。
「ねえ、ところでポチはどうして喋るの?」
 よくぞ聞いてくれた。この家の人間は自然にその事実を受け入れすぎるので、少々拍子抜けしていたところだ。
「私は元々人間だ。悪の魔法使いに、ハムスターに変えられてしまったのだよ」
「うわあ、マヌケだね」
 うるさい黙れ。
「じゃあ、じゃあ、その悪の魔法使いを探せば、ポチも人間に戻るの?」
「さあな」
 こっちが聞きたい。このまま一生、この変な家でハムスター生活はごめんだ。
「ねえポチ、イトコのお兄ちゃんと僕のお兄ちゃんが勇者に倒されたら、次の魔王は僕なんだ。魔王になったら、悪の魔法使いくらいちょちょいのちょいで倒せるよ! だから、それまで待っててね」
 あと何年待てばいいのだ、それは。むしろ魔王が悪の魔法使いを倒すのって間違ってないか。
「ところで、ポチはどうしてハムスターにされたの?」
「知らん。悪の魔法使いの考えることなど、理解できてたまるか」
「そっか……それもそうだね。あんまり聞くのも悪いよね。……あ、そうだポチ、一緒にこの家に住んでる友達を紹介するよ」
 三つ首の地獄の番犬の他に、まだ妙なのがいるのか。
「コイツはタマ。お兄ちゃんの親友なんだ」
 どう見てもそれはぶちスライムだ。こんなのが親友って、それは人として考え直した方がいいんじゃないのか。
「こっちがジロウ。噛まれると痛いから、気をつけてね」
 宝箱の形をしたそのジロウとやらは、鋭い牙の生えた口を開けて笑った。どうでもいいのだが、この現代日本で何がしたいんだ、そのクラシックな形の宝箱。
「それから、これがフランソワ三世」
 なんか一匹だけ名前が豪華だな。思いながら出された怪物を見つめる。不気味なほど大きな瞳、毛のない犬が二足歩行しているような外見。不格好なその怪物は、こちらを見て小首をかしげた。
「まあ、タカシ様に取り入ろうとするバカがまた参りましたのね」
 ……喋った。
「こら、フランソワ、そんな風に言っちゃダメだよ。ポチはポチなりに苦労してるんだから」
 こんな屋敷しもべ妖精もどきに偉そうにされると、妙に腹が立つ。
「タカシ様はあたくしのモノですの。誘惑しようなんて、ダ・メ・よ☆」
 挙げ句投げキッスまで頂いた日には、もうどうしたらいいか。
 思わず涙が流れた。涙を舐めると、口の中にしょっぱい味が広がる。
 ハムスターにされて半月。はじめて流した涙は、このような実にどうでもいいものだった。









 ラストバトル2060



 山田がいつものように家に帰ろうと屋上に出た、ある日のこと。
 珍しく、屋上に先客がいた。
 その女生徒はちょうどフェンスをよじ登っている最中。背後から見ると少々格好悪い。しかしそれを指摘するのも無粋だと思い、山田は黙々と魔法のじゅうたんを広げた。
「危ないから気をつけろよ」
 空中に浮かぶ魔法都市・シュリフィードにも、周囲に巡らせたフェンスがある。それを越えたところで魔法の雲に絡め取られ、下に落ちることはないのだが……この校舎の屋上では、そんなわけにはいかない。
「……うるさいわね」
 フェンスの反対側になんとか降り立った女生徒は、山田の方を振り返ってうめいた。
「だいたい、人が折角センチメンタルな感情と共に青春のあやまち的に飛び降りようとしてるのに、邪魔するなんて無粋よ!」
「あやまちだと思ってるなら止めろ。この高さじゃどうせ死ねない」
 下には彼女を受け止められそうな、自転車置き場の屋根もある。たかが四階の屋上からでは、飛び降りたところで骨折が関の山。少なくとも、よほど当たり所が悪くない限り、死ねるとは思えない。
「なによ、アンタなんかに何がわかるっていうの!」
「知らん。ただオレは、ここでお前に飛び降りられると色々厄介だと思っただけだ。せめてオレが帰ってから飛び降りろ」
「な、なんなのよソレ!」
「日本では、事情聴取だろうと警察の世話にはなりたくないんだ。……そんなことはどうでもいい。いいからこっちに戻ってこい!」
 右手を開いてかざし、それを手前に引きざまに拳をつくる。その動作に呼応するように、女生徒の身体が宙に浮き、フェンスの内側に引きずり下ろされた。
「……今起こったことは青春のあやまちだと思って忘れろ。ほうらあなたはだんだん今起きたことを忘れたくなる」
 はじめて会ったときの春月の記憶を消し損ねて以来、適性がないなりに努力してきた記憶操作の魔法で女生徒の記憶を消す。この魔法はスピードが肝心だ。ある程度時間が経ってしまうと、消せる記憶も消せなくなる。
「で? どうして飛び降りようなんて思ったんだ?」
「……ラストバトル2060、って知ってる?」
「小説だろ。読んだことはある」
 近未来を舞台に繰り広げられる、学園さわやか青春皆殺し小説だ。今大人気で、シュリフィードにも出回っている。
「あれが今度、映画化されることになったんだけど」
「ほう」
「キャスティングが気に入らないから、死をもって抗議しようかと」
「どれほどのキャスティングだ……」
「あの強面の岩吉をナカタク。それだけでも相当我慢ならないのに、主人公なんてもう」
 ラストバトル2060の主人公と言えば、さわやかな笑顔と共に友人や教師を釘バットで皆殺しにする青年だ。その暗い過去や甘い言葉と相まって、女子の中では人気だと聞いている。
「だいたいあり得ないよ、主人公がバートたけしって!」
 バートたけし。有名な映画監督、兼、有名お笑い芸人という、シュリフィードでは「日本の神秘だ」と言われる男。この間テレビを見ていたら、突然大河ドラマに主人公の父役で登場し、山田はそれはもうびっくりしたものだ。あの顔は心臓に悪い。
「……主人公、なんだ」
「そう、主人公。二時間半、ずーっと画面にバートたけし。あの顔で『僕のために死んでくれ』。あの年で『忘れないよ、君のこと』。うわあ考えただけで鳥肌が!」
 やっぱり死をもって抗議するしか、とフェンスを登り出す女生徒。
「せめて岩吉と主人公が逆だったら良かったのにな」
「でしょう?」
「だからってお前の自殺を容認するわけじゃないからな、オレは」
 女生徒をフェンスから引きずり下ろすと、山田はその額に右の手のひらを当てる。
「わかった、それでは君の悩みを解決してやろう。君はだんだんバートたけしが好みのタイプになってくる、なってくる……」
「……アンタ、催眠術師かなんか? ……そういえば、バートたけしも大人の魅力があっていいわよね。あのアバタ顔とか平たい鼻とか、ミカンの皮みたいな荒れ果てた肌とか、つまらなすぎて背筋が寒くなるオヤジギャグとか……ああ、素敵……どうして今まであの魅力に気付かなかったのかしら……」
 うっとりとつぶやく女生徒を残して、山田はひとまずその場を去った。

「……山田、あんたバートたけしなんか好きだったっけ?」
「ん、最近この魅力に目覚めてな。いいだろー、このガラの悪さ、あの短足」
 どうやら少し魔法が効き過ぎたらしい、というのは、また別の話。

(この物語はフィクションであり、実在の人物とは一切関係がありません。某映画監督に対し悪意は一切ありませんのでご了承いただければと思います)









 無の境地はどこにある



「おい、藤原、アレは何だ?」
 廊下に張り出されているのは、先日の書道コンクールで入選した、書道部生徒の作品だ。アレは何、というような質問ができるモノではないような気がする。
「アレって、書道の?」
 春月が答えると、山田は「ああ」と手を叩いた。職員室前の廊下に数枚並んで掲示された作品は、この帰国子女にとっては珍しいものだったらしい。
「そういえば、四月に部活の紹介で言ってたな! これが『習字』とかいうヤツか、本物だ、すげえ!」
 本心から言っているらしい。春月としてはさっさと視聴覚室のカギを借りて、部活動を始めたいところなのだが、山田は矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「おい、日本人は誰でもアレをやるのか? お前もできるのか? 藤原もあんなの書けるのか?」
「誰でもやるだろうけど、私はあんなに上手くは書けないよ。シュリフィードって、日本語使うくせに習字はやらないんだ?」
「シュリフィードは元々、外国から流れてきたオレ達の祖先が、たまたま日本の上空に建てた国、ってだけだから。日本語は喋るけど、法は違うし、学校で習うこともずいぶん違うらしいし。……それにしても面白いなあ、やってみたいなあ」
 春月がカギを取ってきても、まだ山田は書道部の作品のまえでぐずぐずしている。春月の学校には書道の授業はないし、選択することもできないので、やろうと思えば書道部が活動している教室に行くしかない。
「じゃあ、後でバンド練習終わったら、一緒に書道部に行こうか? 友達いるから、やらせてくれるように言ってみるよ」
「本当か!? よーし、さっさと練習終わらせちまうぞ!」
 さっさと終わらせるも何も、どうせバンド練習は時間で交代なのでどうしようもない。だが、珍しく素直な山田を見ていると、ツッコミを入れる気も失せる春月なのであった。

 山田に習字の経験がないと聞いて、面白そうだとついてきた藤城と輝美を伴い、春月と山田は書道部を訪れた。
 教室の、一番隅の机に道具を広げ、書道部の友人は「後はわかるよね?」と去っていく。墨を擦るヒマはないので、墨汁を硯に垂らし、筆にたっぷりと墨汁をしみ込ませると硯で整える。それから、春月は紙に「希望」と書いた。その様子を、山田は物珍しそうに見ている。
「はい、次はあんたね。文字は何でもいいよ。とにかく、漢字は間違えないようにね」
 山田はおっかなびっくり筆を受け取り、半紙を取ってフェルトの下敷きの上に乗せ、文鎮を置いて紙を留める。そのぎこちなさに、見ている春月達の方がイライラしてくる。
「ええと……二文字くらいの方がいいのかな?」
「ま、初めてだったらそんなもんじゃない?」
 何て書こう、としばし考え、山田は筆を取った。見よう見まねで筆を整え、紙に筆を走らせる。
「……ええと、山田、これは」
「天井」
 何でまたそんなわけのわからない字を。しかも、と春月はため息をついた。
「あのね山田、これじゃ天井じゃなくて天丼よ」
「……この点、きれいに書けたと思わないか?」
 そんなこと言われても。小さく首を振ると、山田は少し考え、人差し指を出して一振り。紙から、天丼の真ん中の点が消えて、「天井」の文字になる。
「一手戻してみましたァ」
「うわあなんか魔法って便利だね!」
 これに調子づいたのか、山田は二枚目の半紙を出して、筆に墨を含ませる。
「ところで山田、習字を上手く書くにはね、『無の境地』に達することが大切なんだってよ」
「何だソレ?」
「さあ。小学校の三年生のとき、先生に言われたのよね」
「要は、無心になって、よけいな煩悩を捨てるってことよ」
 輝美が口を挟む。よけいな煩悩、と山田が呟いた。
「そう。食欲とか、名誉欲とか、そういったものにとらわれないこと」
 うーん、と山田は呟いて、視線を半紙から春月の方に移す。
「なあ藤原、五文字書くときはどうすればいいんだ?」
「最初の行に三文字、次の行に二文字。難しかったら、先に半紙を折っておくといいわよ」
 言われるままに山田は半紙を折り、できた升目に文字を埋めていく。
「無の境地、無の境地……」
 書き上がった半紙を見て、山田は満足そうな笑みを浮かべた。右払いは貧相で、そもそも真っ直ぐ線も引けていない気がするが、まあ小さなことだろう。
「……山田、無の境地はどこにあると思う?」
「さあ、難しい問題だねえ」
 「世の中金だ」と書かれた紙を見ながら、春月たちは顔を見合わせる。
 もしかするとさっき、山田は本当に天丼が食べたかっただけなのだろうか、という気がしてくる春月であった。
 ちなみに、その日山田が書いた残りの作品は、「一人一殺」「牛丼」「王子のバカ☆」(山田いわく「空白ができるのは良くない」)、それから春月たちには読めない、山田いわく「魔法陣」の四枚だった。





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