さくらが丘のうそつきデュラハン
-2 愛のかたちは人の数だけあるんだよ-


愛のかたちは人の数だけあるんだよ :3
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 それは翌日、水曜日の放課後に起こった。
「ねえヘンタイ」
 住之江のそばにいた黒衣の少女妖怪が、俺の机に腰掛けて喋っている。
「ひとつ決闘しない?」
「はあ?」
 俺はカバンに教科書を詰め込みかけた姿勢のまま固まり、我ながらマヌケな声を上げた。
「殴り合い。アタシが勝ったらあんたは一志に近寄らない。その代わり、あんたが勝ったらアタシはもう文句言わない」
「俺はお前に触れないだろ。不公平な」
「バレたか」
 まさかバレないつもりだったのだろうか。頭の中身も年齢相応だとしたらそんなこともあるかもしれない。
「じゃあ決闘はナシとしてさ。あんたに話があるんだけど、ちょっとそこまで来てくれない?」
「ここじゃダメなのか」
「何もないところに向かってブツブツ喋ってる変な人って思われたいなら、好きにしなさい」
「別にいいよ、思われても」
 殴られた。こちらからは手が出せないというのに卑怯だと思う。
「もうちょっと強く叩いたら、その首取れちゃうかもね」
 黒衣の妖怪は笑った。それはちょっと困る。まだ教室には何人かの生徒が残っている。こんなところで俺の首が落ちたりしたらクラスメイト達はどんな反応をするだろうか。ミキちゃんを始めとして、確実に喜ぶであろう何人かの顔が思い浮かぶ。
「どうする?」
 にやりと笑った少女の口元から鋭い牙が見える。ああ、こんな顔をしていてもやはり妖怪は妖怪、しょせん正体不明のバケモノだ。
 俺はカバンを担いで少女の後に従った。彼女が向かう先は屋上。鍵は開いていた。建前上は常に施錠されているはずだがいつの頃からか鍵が壊れてかからなくなっている。まったく不用心な。とは言えそんなどうでもいいところにいちいち修繕費をかけないのが公立高校というものである。
 空は晴天。屋上には十一月のさわやかな風が吹いていて、振り返ればさくらが丘のはずれに紅葉と緑のまだら模様になった林が見える。駅のこちら側には高い建物がないため、鎮守の森も線路も駅前のスーパーも校舎の屋上からよく見える。線路の向こうにはちらほらと四、五階建てのマンションやビルが建ち、その向こうに四階建ての団地が灰色の壁のようにそびえるのが見える。なんと平和な日常だろうと思っているうちにぐるりと視界が回り俺はコンクリートの床に突っ伏していた。
「ごめんねヘンタイ、アタシも命は惜しいのよ」
 そう言って俺の視界から消えた黒衣の少女は俺の名前をヘンタイだと勘違いしているのではないだろうか。しかしまあ悪くない勘違いなので放っておこう。ところで命が惜しいとはどういう意味だ、それにどうして俺はコンクリートの上で這いつくばっているのだろう?
「いらっしゃい、桐生くん」
 灯花ちゃんのクリアな声が冷たい空気を切り裂いていく。コンクリートに片頬をつけた俺の視界に入るのは上履きと紺のハイソックス。そのまま視線を上に向けたりしたら灯花ちゃんは俺を蹴飛ばしてくれるだろうか。どうせ膝上数センチのスカートの下には短パンを穿いているだろうから見たところで動じないという可能性もある。
「騙したのか」
「あら、別に騙してなんかいないわ。私がとっておきの道具を用意していたところに、たまたまあなたが来ただけよ」
 見れば灯花ちゃんの上履きの向こうには、五百ミリのペットボトルほどの大きさをしたこけしのようなものが置いてある。見回せばそれがあと四つ、いま俺が倒れている場所を囲むように五角形を形作っている。怪しい。
「さあ、今日こそ本気でやるわよ」
 彼女はごく普通の女の子だからそうやって悪役めいた笑いでも浮かべないと人を殺せないのだろう。ちなみに俺は人を殺すどころか殴ることもできない。特に女は。
 やられてたまるか。俺は自分の髪を掴んだ。ごめんよ俺の幸薄い毛根、あとでワカメいっぱい食べてあげるからな。そんな俺の行動に応えるように怪しい鎧武者が灯花ちゃんの隣に現れて日本刀をかざす。待って、それ本当に切れちゃったりするじゃないの?
 ためらう暇はない。俺は右手で髪を勢いよく引っ張り左手で顎を押した。ごろりと俺の首が取れる。それを振り払うように投げてみた。投げる先が見えないのが問題だが見えたところでどうせ真っ直ぐは飛ばない。俺の投げた球が相手の手元へ確実に届くのは五回に三回、あとの二回は少し違うところへ飛んだり全然違うところへ飛んだりするのだ。だから賭けだったのだけれど、俺の額は無事にこけしをなぎ倒した。体が楽になり俺はよっこいしょと声をかけて立ち上がる。
「させない!」
 灯花ちゃんは持っていたソプラノリコーダーくらいの長さの笛を吹いた。聞くに堪えないひどい演奏だったが問題はそこではなくその内側に込められた強い力。俺はふたたび膝をつき頭を拾おうと手を伸ばすのだが、いかんせん俺の目は頭の方にあるので大変コントロールが難しい。自分の頭を探して体が右往左往する様はさぞかしバカらしく見えるだろう。なにせ俺自身が見ていてそう思う。
 左右の感覚がつかめないまま試行錯誤していると右手が頭に触れ、俺はあわてて自分の頭を引き寄せる。俺は俺の肩越しに背中側を見ている格好だ。すると刀を振り上げる鎧武者の姿が見えて、とっさに数歩這い進んだが屋上のフェンスにぶつかって驚く。
「気持ち悪い。死ね」
 足がたくさんある虫を見つめるような顔で灯花ちゃんは吐き捨てた。俺だってそう思う。
 なんとか首をもとに戻そうとするが焦っているせいかどうしていいのか分からない。線路の向こうのマンションを見て肝が冷える思いがした。この高校の校舎は二棟が縦に並んで長い直線を作っているので、向かいの校舎から屋上が丸見えなどということはない。けれどどこに人の目があるか分からないのは少し怖かった。
 それにしても俺も灯花ちゃんも興奮していたのだろう。
 屋上に通じる扉が開くまで、少なくとも俺はそこにある扉の存在を忘れていた。
 扉がきしむ音。
「ここは立ち入り禁止……で……」
 おお。
 住之江が変な悲鳴を上げながら後ずさるのを、俺は妙に冷静な気持ちで見つめていた。


 それから思い出したのだがこの真下は生徒会室だ。今月下旬の生徒総会に向けて資料などを作ることもあるだろう。生徒会役員が一番忙しい時期かもしれない。
 俺は昨日うちの守護霊と交わした会話を思い出した。お引っ越し、という言葉がなんとなく現実味を帯びてくる。今さらになって顔から血の気が引いてきた。どこからどこへ引いているのかは知らないが。
 灯花ちゃんは泣きそうな顔で住之江の学生服を掴んでいた。なんでもないのよ、とバカのひとつ覚えのように繰り返す。俺にもそんなことしか言えない。首をなんとかあるべき場所に戻すと、口が回るに任せて俺は住之江に話しかけた。
「落ち着いて聞いてくれ住之江。実は俺、地球を侵略に来た宇宙人なんだ。この体は着ぐるみみたいなもので」
「近づくな」
 住之江の返事は明瞭だった。俺は思わず言葉を切り、それからフェンスの傍まで戻って頭を抱えた。手足に力が入らず、どこかぎくしゃくした動きになる。
 このままフェンスを乗り越えて飛び下りたりしても逃げられないだろうなと思いながら俺はフェンスに体重を預けた。
 灯花ちゃんが俺を殺そうとする理由を、今さらながらに理解した気がする。
 俺だったら、こんなバケモノと一緒に生活なんかしたくない。
 認めないようにしてきたけれどやっぱりそれは事実で、「そんなこと気にしませんよ!」と笑顔で言ってくれそうな有坂のほうが間違いなく例外なのだ。
 重苦しい空気を深く吸い込むと肺腑までもが重く沈み込むようで胸が苦しい。吐き出せどもその重さは胸の中にずしりと残る。絶やしてこなかったはずの笑顔が消えていることに気づいて俺は笑おうとしたけれど、どうしても上手くいかなかった。珍しいこともあるものだ。何度殴られても金を取られても携帯電話を便所に沈められても俺は笑っていられたのに。
「住之江くん……あの」
「うるさい」
 ぴしゃりと言って、住之江は灯花ちゃんの手を振り払った。いつも不機嫌な男だが、今は不機嫌というより怖がっているように見える。
 そしてたぶん、俺も何かを怖がっている。
「おい、桐生」
 住之江は恨みがましく俺を睨む。それから迷うように視線を巡らせ、沈黙ののちに再び口を開いた。
「叫んで悪かった」
 ちょっと待て。
 何を言っているんだ、こいつは。
 灯花ちゃんも驚いている風だった。住之江はひとつ深呼吸をして、それからしぼり出すように尋ねる。
「わざとやってるのか?」
 その質問の意図が掴めず、俺は目をしばたく。さっきから普段の三倍ほどこき使われていた俺の心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻しかけていた。
「なにを」
「屋上でバタバタやって、変な笛まで吹いて。この間だってそうだ。そんなに他人に見つけてほしいのか? それともおれが狙いか?」
 住之江の指摘はもっともだ。俺は困ったように灯花ちゃんを見る。どう言い訳するのが一番ましなのだろう。もっともどんなに頑張ったところでゼロ点のテストが三点になるくらいの違いしかないような気がする。むろん百点満点のテストの話である。
「わざとじゃないわ、偶然よ」
「じゃあ桐生がバカなだけか」
「なんで俺のせいになるんだよ、屋上に呼んだのも笛吹いたのも灯花ちゃんだろ」
「ん? ああ、じゃあ訂正する。沖浜さんに考えが足りなかっただけか」
 どうして少し丁寧な言い方に変わっているのだろう。住之江の質問の意味もわからない。
「わざとだったとして、どうしてお前にこんなもの見せなきゃいけないんだ」
 俺が首の傷を指さすと、住之江は露骨に顔をしかめながら「嫌がらせじゃないのか?」と答えた。
「いきなり桐生がおれと仲良くしようだなんて、裏があるに決まってる。どうせ、おれになら見せても大丈夫だと踏んで近づいてきたんだろ」
 住之江のほうもだいぶ落ち着いてきたらしい。まるで退路だけは死守するかのように扉を背にして、俺をじろりと睨みつけた。
「違う、べつにそんなつもりじゃ……」
 俺の言葉にかぶさるように笑い声が聞こえた。見ればフェンスの上に黒衣の妖怪少女が腰掛け、くすくすと笑っている。
「アタシがいるから、妖怪に理解があるだろうと思って一志に声をかけたんじゃないの? ……って、その顔は違うみたいね、それはそれでビックリだわ」
 灯花ちゃんからは離れた場所で、少女は灯花ちゃんの行動をちらちらと確認しながら喋る。脅威に思っているのだろうか。
「ねえ、一志?」
 少女の視線を、住之江は真っ向から見つめ返した。
 ……あれ?
「危ないから出てくるなと言ったはずだ、夏夜」
「だって、おもしろいんだもん」
 するとなにか。
 俺がたまたま話しかけた野郎は、たまたま妖怪が見える男だったのか?
「……桐生くん、本当になにも考えてなかったの?」
「灯花ちゃんが考えてなかったのと同じくらいにはね」
 バカが、と住之江が吐き捨てた。そんなことは分かっているが改めて言われると腹が立つ。俺は人を怒らせるのは好きだが怒るのは嫌いなのだ。
「なあ」
 疲れ切ったような表情で、住之江はため息交じりに言う。
「説明はいらない、興味もない。でも校内では騒ぎを起こさないと約束してくれないか」
「もちろんよ」
 住之江は肩をすくめた。あれは灯花ちゃんの言葉をまったく信じていない目だ。
 黙ってその場を立ち去りかけた住之江は、その前に足を止めて振り返る。
「そうだ沖浜さん。もう夏夜を脅すのはやめてくれないかな、ああ見えて彼女は繊細なんだ」
 恋人について語るようなその口調が腹立たしい。
「それから桐生」
 俺の方には視線すら向けない。
「もし友達が欲しくなったら、とりあえず黙って人の話を聞いてみるんだな。元がこれだから難しいだろうけど、少しはマシになるだろ」
「はあ」
 そもそも俺に話しかけてくる人間自体が貴重なのでそのアドバイスを生かせる自信はあまりなかったが、せっかくなのでその余計なお世話も一応覚えておくことにした。


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