魔女は胡蝶の夢をみる
-七章 逃走-


逃走 :3
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 ハンナの身体を外に運び出すと、ユリンは踵を返して旧校舎の中へと戻ってくる。しばらくして、ハンナはアキジに肩を貸しながら戻ってきた。
 アキジは出口のすぐ外に座り込み、制服のズボンをまくり上げる。左足のふくらはぎに深い裂傷があり、今しがた廊下に落ちていた血はこの傷からのものだろうと思われた。しかしアキジはその傷よりも、足首を押さえて荒い息をついている。先ほども引きずっていたその足首は、明らかに腫れ上がっていた。
「大丈夫か?」
「いや、あんまり……挫いたみたいだ。歩けそうにない」
「何があったんだ?」
「……悪い……ちょっと、話したくない」
 そのままアキジはゆっくりと地面に横になった。身体を丸めて苦しげに咳き込む。
「神代、お前が、何をしてたのかは知らないけど、……っ」
「もういい、話は後だ。喋るな」
 後、なんてものがあるのかどうかは知らなかったが、取りあえずそう声をかけるとアキジはうなずいて目を閉じた。
「あんた、他人の心配なんかしてる場合?」
「どうだろう。ヤバいような気はしないでもないけど」
 アキジは寝かされているハンナの姿に気づき顔を上げた。何か言いたげに口を開きかけたが、その先の言葉は咳に紛れてしまう。
「春川さん、あんたは大丈夫? その身体、本物?」
「大丈夫よ、ちゃんと制服や靴の真名も感じられる。幽霊なんかじゃないわ。……それにしても、さっきは変なところを見せちゃって悪かったわね」
「いやあ、面白かったよ。いい冥土の土産になりそうだ」
「あら、まさかこのまま死ぬ気なの?」
「あれじゃあ助からないだろ、もう」
 何だか動くのが億劫になって、タツキはその場にしゃがみ込んだ。やけに腹が減る。これは自分の身体から「力」が抜けていく感覚なのだと、今になってようやく気付いた。ちょっとやそっとの魔法を使ったところで、体内の力はそれほど減りはしない。けれど出血があれば、その血と共に大量の力が抜けていくことは避けられない。ハンナにもらったリンゴにも、気休め以上の効果はなかったのだろう。
「ふうん、もう諦めちゃうんだ。私が見込んだ通りの腰抜けね」
「何だよ、それ」
 ユリンはタツキの隣に座った。数歩離れたところで、アキジは再び目を閉じてじっとしている。
「私は高宮の創設者であるセイカおばあさまの孫で、両親も魔法使い。高宮には幼稚園からいるの。自分で言うのもなんだけど、成績は決して悪くないと思うわ」
 突然そんなことを言い出され、タツキはユリンの横顔を見る。ふと、その視界にもやがかかったような気がして、慌てて目をこすった。
「何と言ってもおばあさまの孫だから、成績なんて良くて当たり前よね。おばあさまの孫だから、しっかりしていて当たり前。性格もよくあるべきよね。運動もできるんじゃないかしら。将来は高宮の大学を出て、高宮財団の関係企業に就職ね」
 頬杖をついて遠くを見ながら、ユリンは不快そうな表情で語り続ける。
「おかしな話よね。私は銀髪の魔女でもないんだから、そう高いポテンシャルを持ってるわけでもないわ。幼稚園から来てる高宮生なんて、どのクラスにも少なくとも五人は混じってる。両親が魔法使いなのは、高宮の生徒としてはちっとも珍しいことじゃない。私たちの親くらいの世代より下なら、生まれた時にはもう魔法が当たり前に存在していたわけだし、魔法使いもぐんと増えていたものね」
 ふとユリンの足に目をやった。ずり落ちた靴下のかげからのぞく、真っ赤な紋様。タツキの視線に気付いたのか、ユリンは靴下を直す。本当に性格のいい優等生は、こんな下品な魔法を使わない。
「正直、天井も見えてるのよね。おばあさまの孫だから、ってちやほやされても困るだけ。私よりも魔法の才能がありそうな人間なんて、いくらでもいるじゃない。例えば、あなたみたいにね」
 突然ユリンに視線を向けられ、タツキの心臓が跳ねた。その彼女の顔が、ふとソフトフォーカスをかけたように滲む。何度か目をしばたいて、再び目をこすった。
「ラウラだって、私よりはずっと才能のある魔法使い……だった、わ。西貝くんも、魔法を使い始めて四ヶ月だなんて、とても信じられない。凄いわよね、普通やらないわよ、普通高校からの編入なんて。バカだとしか思えない」
 当のアキジを目の前にしていながら、ユリンはそれを意に介する様子もない。
「なんでわざわざ、こんな田舎のツブシの効かない学校に来るのかしら。本当に……もう、みんな私をバカにしてるようにしか見えないわ。私に選択権がないのは分かってるくせに。それでいて都合のいい時だけおだてて乗せて、陰でこっそり笑ってるのよ。大した実力もないくせに、なにが大魔女の孫だか」
 ユリンは唇の端を歪めた。ちっとも楽しくなさそうな笑みだった。
「私ね、あなたが嫌いなのよ、神代くん。実力がないわけじゃないのに、いつもボーッとして何もかもサボり倒して。それなのにちっとも苦しそうな様子もないし、それを気に病んでる感もない。少しは足掻いてみなさいよ。諦めが早いのは何の自慢にもならないわ。もしも諦めてるんじゃなくて、あなたなりの信念があって自堕落に生きてるって言うんなら、私はあなたに嫉妬する。どっちにしろ、絶対に好きにはなれないわ」
 反論はできない。否定もできない。本当に何も考えていなかっただけで、特に信念などあるわけがない。ただ、必死にならなくても生きていけるし、目先の課題だけはギリギリで通過し続けているし、それ以上のことは望もうとも思わない。
「だからサッカー部の子に色々吹き込んで、あなたを孤立させてみたりもしたのよ」
「え?」
 部内の人間関係が崩壊しているのは、てっきり自分の社交性のなさが原因だと思っていたのだが、まさかそんなところに原因の一端があったとは思わなかった。しかしそんな所から攻めてくるあたりが女の子だな、と思う。
「それでもちっとも困った風じゃなくて、あっさり来なくなってあっさり辞めちゃうんだもの。あなた、サッカー好きじゃなかったの?」
「そりゃ、好きだけど……あんなに面倒な思いをしてまでやるほど好きじゃない」
 そんなことを言ったら、真面目に活動をしている運動部の生徒に怒られそうだ、と思いながらタツキは答えた。サッカーは好きだったはずだ。いつからあんな風に楽しめなくなってしまったのだろう。
「他に、何か好きなことでもあるの? 将来なりたいものとか」
「趣味も夢も、これと言えるようなものは何もないよ。行けるところに行くし、やれることをやる。高宮に来たのは勢いと流れからだしなあ」
「ふうん、そんなものかしら。……話を戻すけど」
 ユリンは視線を前方に落としたまま、タツキの方へと身体を傾けた。
「あんた、このまま死んじゃっていいの?」
「しつこいな。たぶんもう手遅れだって言ってんだろ」
「そんなこと言って諦めるわけにはいかないのよ」
 地下で起こったことが嘘のように、のどかな蝉の声が響いていた。遠くからはバットが野球のボールを打つ高い音。校舎の脇からわずかにのぞく校庭では、どこかの運動部がジョギングをしている。
 まったく、平和な光景だ、と思った。
「私がついているのに、あなたが死んだりしたら困るじゃない。助けられないなんて恥じゃない。だからせめて私のために、なんとか生きのびなさい。もし死んだりしたら、一生恨んでやるからね」
「おお怖い」
 見上げると空がやけに青かった。白い雲がゆっくりと流れていく。陽光で汗ばんだ肌を冷やすように、木々の間を抜けた涼風が通りすぎていった。
「でも、あんたが俺を恨む筋合いはねえだろ。だいたい、もう岸本ラウラは死んでるじゃねえか。ここで俺が殺されたって、それは恥か? この状況じゃ、誰もあんたを責めないだろうし、責められないだろうよ」
「そんなことない」
 だだをこねる子供のように、ユリンは膝を抱き、眉根を寄せる。
「みんなが何も言わなかったとしても、私がいる。私はきっと自分を責めるわ。あんたは逃げ出して、いずれ身体が崩れれば真名が変質して、そのまま力が風に散って痛みもなく死んじゃって、それでも満足なのかもしれない。けど、残された私はどうなるのよ。それって、どうしようもなくムカつくわ」
「厳しいね」
「そうかしら。人がいなくなるって、嫌なものよ。……ところであなた、さっき『自分がやるべきことを教えてくれ』って言ったわよね。文句は言わないで従う、とも言ったわよね?」
「言ったかも」
 何となく、彼女の声が聞き取りにくくなってきたような気がする。
 それを自覚した途端に眠気が襲ってきた。何でもない風を装って、会話を続ける。
「あなたがやるべきことを教えてあげる。生き延びなさい。生きてここから帰るのよ。それで、もう一度向こうに帰るのよ」
 タツキはうまく答えを返せず、正しい答えを期待するようにユリンの顔を見た。驚くほど必死な彼女の顔が、目と鼻の先にあった。
「もう一度、先生のところに行きましょう。そこで、あなたの身体を取り戻す。保存液などの混ぜ物のない血の魔法式内における強度は、時間をおけばおくほど下がっていくわ。それに今や、この大量の力が注ぎ込まれていたハンナちゃんの身体もここにある。先生が正確に私たちの位置を推定することはかなり難しいし、出来たとしても、術者からの距離がありすぎて魔法はかかりにくいはずよ。だからあの地下から直接こちらに魔法が飛んでくる気づかいはないし、先生の元にある力も少しは減っているはずだわ」
 常識的な魔法の性質を並べ上げながら、ユリンは指を折る。
「無駄だよ。いくら春川さんだって、そんなことすれば下手したら殺されちまうかも」
 その時、アキジが不意にユリンの名を呼んだ。
 彼の視線の先で、ハンナが顔をしかめ、そしてゆっくりと目を開けた。


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