魔女は胡蝶の夢をみる
-七章 逃走-


逃走 :2
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 死体は高宮の女子制服を着ている。ショートの銀髪は輝きを失い、腕は妙な方向にねじれていた。タツキはとっさに視線を逸らす。
 ふと気付くと風が止んでいた。ユリンがその場にへたり込む。夏茨はそちらを一瞥すると、やれやれ、とでも言いたげに首を振った。眉を残念そうにひそめ、点数の悪いテストを返却する時のような、演技じみた表情を浮かべる。
「あれでは、もう力を紡ぐ役にも立たないね。そろそろ換え時だ」
「せ……せんせ、い」
 一瞬前までの気迫はどこへやら、ユリンは掠れた声でそうつぶやいたきり押し黙る。タツキは彼女と箱の間に立ち、夏茨の方を見た。
 恐ろしさよりも怒りよりも、哀れみが先に立った。朝のホームルームで出席を取るのと同じ声で、部活をやめようとするタツキを引き留めるのと同じ口調で、生徒の抜け殻に包丁を突き立てながら、死体の腐臭に眉をひそめる。
 時折、床の図形のあちこちから香りが巻き起こされては腐臭を隠すように広がるが、そんなものはものの数秒で消えてしまう。
「何……なんなの、それ、だって」
 ユリンは腰を抜かした格好のまま、重そうに右手を上げ、タツキの方を――箱がある方角を指さした。
「ラウラじゃないの……?」
 夏茨が眠るタツキの身体を離し、銀髪の少女を箱の中へと収めた。壁にぶつかった衝撃で歪んだ蓋を、力ずくではめ込む。
「そうだね。C組の岸本さんだ」
 その名前には聞き覚えがある。ハンナが言っていた、「迷子」の一人、岸本ラウラ。
 いや、それ以前にも会ったことがあるではないか。気の強そうなつり目に、これまた目つきの鋭さを強調するような化粧。細身ながら締まった少年のような体型に、銀髪でなければ男と見間違いそうな短髪。快活な笑い声が耳に蘇る。
 待て、と頭のどこかで警鐘が響く。タツキは彼女を知らないはずだ。ハンナにその名を聞いた時、自信を持って否定することができたじゃないか。
それなのに、どうしてこんなにもはっきりと彼女のことが思い出せるのだろう。
「殺したの……? あんたが? この鳥頭のために?」
 ユリンは眠るハンナを指さす。まなじりから堰を切ったように涙が流れ出した。ゆっくりと頬を伝い、顎へ流れ、制服の胸元へとしたたり落ちる。
「中身なんかどうだっていいさ。先生はいつも言っているだろう? 人は見かけじゃない、と言うけれど、いざという時に大切になるのはやっぱり見た目だ、ってね」
 タツキの染髪をとがめた時に口にした台詞を、夏茨は繰り返した。それでもその時タツキは「校則は破ってなんぼ」と開き直っていたし、高宮にはそもそも魔女やらその血を引く女生徒やらがいる。彼女たちのおかげで高宮の生徒の髪色には相当のバリエーションがあり、今更髪を染めたところで大して目立ちはしない。染めた後でもタツキの髪は暗い茶色であることもあり、特に罪悪感はなかった。
 しかし、あの時は聞き流していた夏茨のこの言葉が、今はやたらとカンに障る。
「雪島ハンナを知っているのかな? この子は見ての通りの美人だが、あんなに頭の悪そうな発言が飛び出してはこの美しい顔が台無しだからね。こうして先生のもとで眠っている方が、彼女のためになるんだよ」
「あの鳥頭に、ラウラを殺すほどの価値があるとは思えない」
 ユリンがぼそりとつぶやく。表情を変えないまま、涙を拭いもしない。
 岸本ラウラは、この人形と空間を維持するためだけに力を搾り取られて死んだのだろうか。箱の中の彼女は答えないが、タツキが彼女と同じ運命を辿るのならば、それはおのずと分かることだ。もっとも、その結末をタツキが知ることはないだろうが。
「価値観は人それぞれだよ、春川さん。先生はね、どんなことをしても彼女をここに置いておきたいんだ。ここにいる限り、彼女は時を止めたままだ。醜く太ることも、見苦しく痩せることも、このあどけなさを失うこともない」
 論理空間とやらを維持するには、いささか強大すぎるような力。その余剰分は彼女のために注ぎ込まれていたのか、とタツキは想像する。あまり自分の思考に自信はなかったが、それならば少しは納得がいく気がした。
「彼女と出会った時に、これは運命だと感じたんだ。魔法とは無縁な学校に進学したのも、教師になったのも、高宮に戻ってきたのも、きっと彼女と出会うためだったんだと思ったよ。中身はいらない。たとえうわべは上品でも、春川さんのように、心の底では薄汚い言葉を吐きながら先生のことを嫌っているかもしれないんだからね」
 ユリンは箱の方に目を向けたまま動かない。
「ああ、そうか。岸本さんは先生が『神隠し』に誘ったんだっけ。彼女がいなくなって四ヶ月も経つのに、みんな何も言わないんだから、冷たいよね」
「冷たいって……そういう魔法なんですよね? その人の存在を、『なかったことにする』」
「うん。でも見ての通り、彼女本人を前にすれば魔法は解けるし、破って破れない魔法じゃない。この魔法の存在に気付くことができれば、きっとみんなにも破れるよ。まあ、それが一番難しいんだけどね。ちなみに、本人と会えば効果が切れるというこの魔法の性質は、『神隠し』の魔法を作った人間がもともと長期旅行のためにこの魔法を作ったことに起因するんだ。責任ある立場にいたその魔法使いは、旅行中に何らかの方法で呼び戻されることを恐れた。旅行をしている間は誰にも捜して欲しくはないし、自分のことを思いだして欲しくもないけれど、ちゃんと後で魔法が解けるように保険をかけておかないと、万が一解くことに失敗したら寂しいことになるからね。あとは、まあ、イタズラ防止の意味もあったのかな。それでも強力すぎて、すぐに禁呪の仲間入りを果たしたんだけどね」
 授業中によく挟み込まれる雑学講座のように、やけに気合いの入った様子で饒舌に話し続ける夏茨。感心するのが一割、あきれたのが六割、苛立ちが三割くらいの内訳で、タツキはそっとため息をついた。
「その魔法があるから、俺たちがいなくなっても誰も捜しに来る奴はいないってわけですか」
「そうだね。たとえここで死んでも、岸本さんがずっとこの論理空間の中にいれば、先生が魔法を解かない限り彼女の存在が思い出されることはないというわけだ」
 夏茨が得意げに言ったその時、頭上で机がひっくり返る派手な音と、ハンナの叫び声が聞こえた。そう言えば、とタツキは思う。アキジとハンナはどこへ行ったんだ。自分たちの後ろをついて来ていたはずなのに、一体何をやっているのだろう。
 夏茨は明らかに上階の様子を気にしているようだった。ユリンがタツキの肩にすがって立ち上がり、どうしたものかと夏茨と天井の間で視線を行き来させる。
 タツキは夏茨と、その足元に転がる自分の身体に目をやった。文字通り魂が抜かれたような様子で、ぼんやりと目を開けたまま、右腕をどす黒い赤色に染めている。痛そうだ、と素直に思った。本来タツキの真名と力があるべき場所だというのに、あまりあの身体には戻りたくない。
 それでも、行かなければならないのだろう。
 タツキは一歩足を踏み出した。ヒット・アンド・アウェイ、一撃で決めて逃げる。背後のユリンは勝手に逃げてくれるだろう。夏茨とタツキの間にはハンナが眠るベッドがある。どのようなルートを通るのが最適か、冷静に判断する。小学校や中学校から高宮にいる生徒にはとてもかなわないけれど、これでもタツキは高宮生の端くれ。魔法を使うために訓練させられるから、ある程度正確な距離の目測は可能だ。
 最適解にたどり着き、タツキは床を蹴った。
「させるか!」
 夏茨がタツキの身体の前に立ちふさがった。しかしタツキは自分の身体には目もくれず、ベッドの上のハンナに近づく。彼女の身体にかけられた薄い布団をはね除けると、夏茨が包丁を構えて突進してきた。こういった咄嗟の動きに対応するには魔法は向いていない。なんとかステップを踏んで切っ先を避け、機をうかがう。夏茨はタツキとハンナの間に割り込むようにして、がむしゃらに包丁を振り回した。ユリンのように足にでも魔法式を描いておけば良かっただろうか。そうすれば、一秒程度の準備時間で蹴りを強化するくらいのことはできる。
 包丁を振り回す夏茨に対し、攻めあぐねるタツキ。不規則なその包丁の軌道を読めるほど、タツキは物騒な人種ではない。
 その時、そっとベッドの方へと回り込んでいたユリンがハンナの肩を捕まえた。脇の下に手を回し、ベッドから彼女を引きずり下ろす。それに気付いた夏茨は包丁を振り下ろそうとしたが、ユリンはハンナの身体を楯にした。そうなっては彼女を傷つけることもできず、夏茨は舌打ちして手を止め、転がしたままのタツキの身体へと大股で近づく。
 夏茨が次にやろうとすることは想像がつく。短時間で力をかき集め、ユリンの足を止めるための魔法を使う。そのために自分なら何をするかと考えた。すぐに答えは出たので、タツキは勢いよく駆けだした。
 夏茨が包丁を振り上げ、眠るタツキの腹に切っ先を突き立てる。
 タツキはハンナを引きずるユリンの元へ駆け寄ると、ハンナの足を抱えて走り出した。彼女の肩を抱えたユリンが当惑した表情を浮かべる。タツキは構わず、いつの間にかほとんど閉まっていた扉に駆け寄るとそれを蹴破って外に飛び出し、階段を駆け上がる。
 身体があからさまな変調を訴えているが、問題ない。まだ走れる。
 開けたままの扉から濃密な力が溢れだし、タツキの視界が一瞬虹色の光に覆われた。もはや何の音なのか判別もつかない大音響が鼓膜を揺るがし、ねばついた湿気と鋭い痛みと、酢とコーヒーを混ぜたような味がラベンダーの香りと共に襲いかかってきた。拷問のようなその衝撃に耐えて何とか階段を上がりきり、目に付いた外への出口へと走る。ユリンが必死に追いすがってくるのが分かった。全力で走るタツキの足について来ているのだから、彼女が火事場の馬鹿力を出しているか、そうでなければ、タツキの方がいつものように走れていないのだろう。
 突然そばの教室の扉がはじけ飛び、中から何かが勢いよく吐き出された。再び机が倒れる音が校舎中を揺るがす。タツキが速度を緩め振り返ると、そこには廊下を横切るように点々と落ちた血と、廊下の壁に叩きつけられて呻いているアキジの姿があった。


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