魔女は胡蝶の夢をみる
-七章 逃走-
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夏茨ジュンは大柄な男だ。縦にも長いが、横幅もどちらかと言えばたっぷりしている方だろう。その横幅は残らず筋肉で出来ているというわけではないが、かといって肥満体型というわけでもない。 その夏茨が握っているのは何の変哲もない包丁だった。魔法のための儀礼用剣ですらない、飾り気のないただの包丁。男子生徒の手から包丁が引き抜かれ、刃先から血が滴るのを、その男子生徒本人であるところのタツキはぼんやりと見つめていた。 「入ってくる時は、ちゃんと自分の名前と用件を言おうね」 「2年G組、春川ユリンです。夏茨先生をブン殴りに来ました」 どこまでが本気か判別のつかない口調で、ユリンが大人しく答える。その途端、なぜか笑いのスイッチが入ってしまい、タツキは腹を抱えて笑い出した。 なんだこの茶番劇は。 「やべえ、全然意味わかんねえ!」 こんな展開があってたまるか。きっとこれは夢だ。夢ならば突飛で当然だろう。きっとそのうちに目が覚めて、こんな夢のことなどすっかり忘れてしまうのだ。 「遊んでる場合じゃないでしょう」 ユリンに頬をつねられ、タツキは笑いを抑えられないまま不明瞭な声で抵抗の言葉をつぶやいた。悲しいかな、想像していたよりは痛い。 刺したあとで血が流れているということは、自分はまだ生きているらしい。正視するほどの根性はなかったので、代わりに周囲を見回した。元は実習室だったのか、色々な器具が所狭しと棚に並んでいる。しかし椅子や机はあらかた取り払われていて、部屋の隅に机が一つと椅子が数個、ほこりをかぶったまま積み上げられているだけだ。 床にはばかに大きな円が描かれていた。板張りの床はところどころどす黒く変色している。その上の空間では、時折さまざまな光や音が爆ぜた。夏茨がいるのは円の端で、その円の中心には、薄暗い実習室にはそぐわない天蓋つきのベッドが置かれている。 タツキは笑いすぎて滲んだ涙を拭いながらそのベッドに近づいた。大小のぬいぐるみとパステルカラーのクッションに囲まれて、銀髪の少女が眠っている。 「近寄っちゃ駄目だよ、神代くん。穢れが移ってしまう」 「それもそうですね」 髪が長くて、静かな、人形のような少女。 ベッドの上で、少女――雪島ハンナは落ち着いた寝息を立てている。 「春川さんの推理、かなりいい線行ってたんじゃないの?」 「そうみたいね」 これが彼女の身体なら、タツキ達が行動を共にしていた雪島ハンナは、きっと彼女本人の言葉を借りれば「タマシイ」というやつなのだろう。夏茨がタツキとベッドの間に立った。彼の手を汚す血の匂いの方が、よほど彼女に悪いと思う。 これだけ人間の血液があれば、魔法のための力を集めるのに苦労はしないだろう。夏茨の魔法に関する知識は大したことはないはずなのだが、どこか高宮以外の場所で魔法を学んだ可能性は否定できない。これほどの魔法を連発し、長期間維持することも、不可能というわけではないと思われる。信じたくはないが、こればかりは仕方ない。 ふざけた話だ。 ハンナに言おうとした時には止められたが、おそらくは志野田アイカをはじめとする今までの「迷子」も、タツキと同じようにここへ連れてこられたのだろう。 アキジとユリンの身体は見あたらなかった。彼らは生身というわけか。 「というわけで先生、とりあえず私たちをここから帰してくれませんか」 「駄目だよ。帰ったら春川さんは警察に駆け込むだろう?」 「当たり前じゃないですか。血を目的として人を傷つけるのは重罪ですよ」 律儀な人だなあ、とタツキは横目でユリンを見た。口からでまかせで、絶対に他人には話さない、とでも言っておけばいいのに。 「それに、先生はまだ西貝くんを捕まえていないんだ。彼もなかなかいいものを持っていると思うんだけれど、なかなかガードが堅くてね。ところで神代くん、西貝くんは今どこにいるんだい?」 「さあ、その辺にいるんじゃないですか。ところで、俺はそんなに不用心でしたかね」 「それはもう。神代くんはバカだからすぐに捕まるだろうと思っていたら、本当に簡単に捕まえられたから驚いたよ。紅茶に薬を入れたことには気付いていたかな?」 「気付くわけないじゃないですか。気付いてたらとっくに何とかしてますよ」 「だろうね。先生も、君に気付かれない自信があったから入れたんだし」 そんな会話を交わす間にも、タツキの身体はぐったりと地面に横たわり、右腕を血に染めている。目はわずかに開いていたが、何かを見ている様子はない。白いシャツはあちこちが血で汚れていたが、それが別の傷のせいなのか、右腕から流れた血がついたものなのか、わざわざ目をやって確かめる度胸はなかった。 「西貝くんは後でゆっくり仕留めようと思って、取りあえずこちらに引きずり込んだんだ。論理の成績はいいが、実技の成績は今ひとつでね。ポテンシャルが高い割には、簡単に勝てるような気がしたんだよ」 「私はどうしてここに来たんですか?」 「あれは不幸な事故だね」 ユリンの問いに夏茨は答える。夏茨とタツキは、それぞれ逆方向に後ずさってベッドから距離をあけた。タツキは苦い表情を浮かべる。 いいから襲ってくるなら襲って来いよ、こっちは心の準備をして来てるんだから、と言い出したい気分だった。わざわざ自分で墓穴を掘る意味もないので何とかこらえたが、ハンナならばしびれを切らしてさっさとそう怒鳴りそうだ。 「神代くんと西貝くんがハンナちゃんを捜していてね。こちらの存在を気取られないようにと対抗呪文を組んでいたら、そちらに力を取られて、この箱庭と現実世界との垣根が薄くなってしまった。そこにちょうどいいタイミングで君が現れて、あの首無しの魔法使いにちょっかいを出したものだから、計算が狂って君までもがこちらへ来てしまったんだよ」 部屋の隅に立てかけられた姿見に目をやり、タツキは納得した。東棟の大鏡の中で見たのは、まず間違いなくこの部屋の映像だ。あの魔法は、学校中の鏡を呼んで、映った像の中からハンナを捜すもの。魔法式の中には、これら鏡と共にタツキの真名も組み込まれている。その魔法を夏茨が無理にはね返したために、術者と調査対象がごちゃ混ぜになった魔法がうっかり働いてしまったのだろう。だから鏡は命令の通り、探し当てた彼自身の姿を映した。 推理小説の探偵が推理を披露する場面に似ている、とタツキは思った。犯人が探偵に追いつめられ、自らの罪を暴露する場面でもいい。だが、ここで問題なのは、今現実に起こっているこの事件はまだ終わっていないし、犯人だってちっとも反省なんぞしている様子を見せていないということだ。 そう、この担任教師はちっとも反省していない。なぜなら今だって、床に倒れたタツキの身体を抱え上げ、その喉元に包丁を突きつけているところなのだから。 「……先生」 力をこめれば傷がつくだろう。切っ先が喉仏の斜め上に当たり、わずかに血を滲ませている。ユリンは奥歯を噛みしめ、鋭い表情で夏茨を睨みつけていた。そんなに怒らなくてもいいのに、と相変わらず他人事のように思う。 「どうしたんだい、春川さん?」 「ひどい。何が目的か知りませんけど、そんな人だなんて思いませんでした。……というか」 ユリンの足元で風が渦巻いた。何をする気か、と見ていると、風はオレンジ色の光をはらんで広がり、夏茨の方へと流れていった。夏茨は包丁を抱いた身体の喉から離し、血が止まりかけていた右の手首をかき切った。流れた血が床に落ちるのとほぼ同時に、強烈な柑橘系の香りが部屋を満たす。 「うちらがガキだからってナメてんじゃねえぞ、畜生が」 一瞬、それがユリンの口から発せられた言葉だと理解できなかった。 ユリンはそばに立つタツキの腕を掴む。自分が数メートル先で倒れているという非現実的な状況に首をひねっていたタツキだったが、無理矢理に彼女の魔法に巻き込まれて我に返った。 「ボケッとしてる暇があったら手伝え! 死にたいんか!」 どんどん化けの皮が剥がれてないですか、などと指摘する暇もなく、ユリンの魔法はタツキの力を計算に入れて発動する。この空間に濃く澱んだ力を吹き飛ばそうとでも言うのか、叩きつぶされそうな強風が決して狭くはない部屋の中を暴れ回る。棚から器具が落ち、大きな台が倒れ、あちこちで危なげな物音がした。床に描いた円の上に置かれていた一抱えほどの箱が、風に飛ばされて壁にぶつかり音を立てる。その勢いで蓋が開き、中に入っていたものが蛍光灯の頼りない光の下にまろび出た。 ――一瞬、音が消えたような気がした。 そんなことがあるはずはない。ユリンの魔法と夏茨の対抗魔法がぶつかって鼓膜を刺激し、風の音と相まってとてつもない不協和音を奏でているのだ。 それでも、タツキとユリンの視線はその箱の中身に釘付けになる。 箱の中に入っていたのは、腐りかけた人の身体だった。 |
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