魔女は胡蝶の夢をみる
-六章 ダンス・マカブル-


ダンス・マカブル :3
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 何かの魔法が起こした音かと思ったが、廊下に出てみると確かにガラスが割れていた。ここは東棟の三階。廊下の窓からは特別棟と旧校舎が見える。
 どこか下の方で、再びガラスが砕ける音がした。ほぼ同時に、背後でガタガタと音がする。ハンナが教室の中へ戻ってきたのだろう。
 机をなぎ倒すような勢いで廊下へ飛び出してきたハンナは、血相を変えて窓の外を見た。それだけではただごく普通の光景が広がるばかりだったが、窓を開け放ち、目の前にある見えない境界を突き破って顔を出すと、旧校舎と特別棟の間でオレンジの光が飛び散っているのが分かった。ハンナを追って顔を出したタツキの舌に、ぴりっとした辛さが伝わってくる。
 遠くではじけるオレンジ色をどこかで見たことがあるような気がして、タツキは考える。すぐに答えは出た。昇降口でユリンが使った、変装の魔法。あの時にユリンの手の中で閃いていた光に相違ない。
「春川さん!」
 思わず叫んでいた。ほぼ同時に、狭い窓から頭を出していたアキジが踵を返して階段へと走り出し、ハンナとタツキはその後を追う。三階から一階へと階段を駆け下り、上履きのまま昇降口を飛び出した。
 あのオレンジ色はユリンの真名だ。ならば、きっと光がある先にはユリンがいる。アキジを途中で追い抜き、タツキは走った。特別棟の脇を抜けたところで何かにつまずき、危うく転びそうになる。足元に視線を落とすと、厄除けガーゴイルの石の腕が転がっていた。
 前方に視線をやると、そこには壁に背を預けてぼんやりと座っているユリン。その数メートル先には、片腕と片足を吹き飛ばされ、地面に這いつくばったままで翼を不格好に動かす石像の姿があった。
「春川、さん……?」
 ユリンは気だるげに腕を上げ、転がっている石像を指さした。
「壊しておいたわ。どうせ誰かがやらなきゃいけないんだろうし」
 さっき擦りむいた傷のほかに、プリーツスカートにはかぎ裂きが走り、その下の傷口から血が滲んでいた。こちらに顔を向けると、死角になっていた右のこめかみから血が伝っているのがわかる。
「でも、どうして一人で」
「あなた達がいたって何も変わらないでしょう。一人でやった方が早いと思っただけよ。この中に術者と通じてる人がいて、邪魔でもされたらたまらないしね」
「……アタシのこと、疑ってるの?」
「そう思いたいなら勝手にして。私はただ、今日中に家に帰れるといいなと思ってるだけよ。あなた達に任せてたら、何も案なんか出てこないんだもの。かといって、勝手に動くな、って文句を言われるのは嫌だから、面倒なところは私がやっておいたわ」
 壁を伝って立ち上がり、ユリンは足で地面に円を描いた。そこには既にいくつかの円と、ほとんど空になった小瓶が落ちている。ユリンの髪が風に舞い上げられ、彼女の足から伸ばした腕の先へと力が伝わっていくのが分かった。バケツの水をぶちまけたような音がしたかと思うや、石像の翼が片方、砕けて落ちた。
「十センチほど間違ったわね。まあ、どうせもう動かないだろうからいいか。ところであなた達、そんな所でぼーっと立ってるヒマがあったら、この後何をするつもりか教えてくれない? それは私が考えることじゃないはずよね」
 タツキは旧校舎を指さした。これだけ派手にやれば、もしも術者がいたならとうに気付かれているはずだ。見ると、遠くにある新校舎のガラスだけでなく、特別棟や旧校舎のガラスも何枚か割れている。旧校舎の、元からガラスが割れていた窓でさえ、窓をふさいでいた段ボールが外れているものがあった。
 タツキは少し考えて、ユリンに答えを返す。
「入る。もう待ってたって仕方ないし」
「でも、相手はきっと強いわよ。どうするの?」
「どうって、別に。大丈夫、この身体はただのイメージだから、ケガなんかしないよ」
 ゆっくりと校舎の周りを回る。灯油と非常用のテントが置かれた倉庫の横を回り込み、もう何もいないかと辺りを見回す。ユリンが足を引きずりながらついてきた。アキジとハンナは、遠く距離を置いて後ろの方にいる。
旧校舎の南側入口に立って、タツキは扉に手をかけた。
「心配いらない。この身体はタマシイだけの存在だから。自覚すればそうと分かる。真名がいつもと違うんだ」
 身体の中を流れる力は、必然的に着ている服や周囲にある物の力を巻き込んで流れる。高宮の制服は魔法的にもきちんと調整された代物なので、普段はほとんど何も感じないが、注意深く自分の真名を呼んでみれば、すぐにいつもと違うことが分かる。
「つまり、ケガを心配するのは無意味ってことさ。たぶん、俺もう死んでるしね」
 どうしたらいいのか分からなかった。混乱が過ぎ去った後には諦めがやってきた。思い悩むだけ時間の無駄だ。特にこの世に未練もない。たぶん。
 「神隠し」が効いていて、誰も自分の死を悲しまないというのなら、それはそれで素晴らしいことじゃないか。自分でもどこまでが本気なのか分からないまま、そんなことを考えた。
 扉を開けて中に進む。古くさい板張りの廊下は、歩くたびに音を立てて軋んだ。一人分の足音が近づいてくる。振り返らなくても誰なのか分かった。ユリンだ。
「術者は地下よ」
 ずっと後ろでハンナとアキジが何か話している。会話の中身までは聞き取れなかったが、興味もなかった。地下へ降りる階段を捜していると、後ろから二人が小走りにやってきて、音を立てて入口の扉を閉める。校舎中にその音が反響し、ユリンが舌打ちした。そんなところでピリピリしても仕方ないだろう、と思いながらタツキは歩く。どうせ自分たちが来ていることくらい、向こうは分かっているのだ。
「正直、あなたが何だろうがもうどうだっていいわ。術者に聞けば全部はっきりするもの。でも一つ、ちょっとだけ気になることがあってね」
 見つけた階段を前に立ち止まり、ユリンは目を細めた。階段の先は暗い。
「職員室で、用事があったのはどの先生?」
「別に誰でもよかったよ。退部届けをもらいに来ただけだし。結局、夏茨先生がいたから、先生に退部届けと、ついでにお菓子と紅茶をもらった」
「そう。西貝くんにも聞いたけど、最後に会ったのは夏茨先生だそうよ」
 思わぬ話の展開に、タツキは首をかしげる。
「つまり、その……あまり信じたくはないんだけど、術者の顔も見えちゃったのよ。あの先に誰がいても、あんまり驚かないでね。さっきみたいに、いきなり逃げ出されたらたまらないもの。まあ、今のうちに逃げ出したいって言うなら止めないけど」
 ユリンは大げさにため息をつきながら、階段をゆっくりと降りはじめた。
「西貝くんといい、ハンナちゃんといい、後からついてくるだけならヒヨコにだって出来るわよ。普通高校からの転入生だろうが、頭が悪かろうが、私の知ったこっちゃないわ。思考停止してる奴って、見ていてムカついて仕方ない。ましてやあなたみたいに、逃げることばっかりに頭を使ってる奴なんか、ちょっと殺してやりたいと思うわ」
 ユリンが乱暴に扉を蹴破った。その勢いで学校指定のハイソックスがずり落ち、足に赤いインクで描いた紋様が露わになる。この筆致は極太の油性ペンだろうか。やけに描き慣れているようにも見える。蹴る力を強化するだけのそんな単純な魔法は、ケンカっ早い男の専売特許だと思っていたので、正直タツキは少し驚いた。
 ユリンが一歩進み出て、口を開く。
「こんにちは、先生」
 部屋の中からはすえた血の匂いがした。
 床に倒れた男子生徒の右手のひらにナイフを突き立てた格好のまま、タツキ達の担任である夏茨ジュンは、「こんにちは」と明るくさわやかな返事をした。


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