魔女は胡蝶の夢をみる
-六章 ダンス・マカブル-


ダンス・マカブル :2
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 ハンナを捜して走り回っていると、廊下の角で息を切らしたアキジと鉢合わせする。なまじタツキの足が速いのが災いしたかもしれない。アキジはタツキの腕を掴み、「落ち着け」と彼をなだめた。
「うるせえ! 放せ、早くあいつのところに行かないと」
「行き先には心当たりがある」
 タツキが動きを止めると、アキジの手が離れた。早足で歩くアキジの後を小走りについて行く。アキジは三階に上がると、そばの教室に入り、窓を大きく開けた。
「ほら、やっぱりね」
 アキジが示した窓から身を乗り出すと、二階の窓の上に張り出したコンクリートのひさしの上で、ハンナが身を縮めていた。背後にあるのはトイレだ。トイレの窓は小さいから、ハンナが座っていても中から見つかる気づかいはない。
 ハンナはタツキの声を聞いて、小さく肩を震わせる。
「……ここのこと、アキジちゃんに教えたのは間違いだったみたいだね。何しに来たの、タツキちゃん?」
「あんたを捜しに来たんだよ。このまま逃げられたら不愉快だからな」
「放っといてよ。別にアタシなんかがいなくたって、タツキちゃん達にはユリンちゃんがいるじゃない。あの子に任せておけば、きっと勝手に何とかしてくれると思うんだよ」
 タツキの方を見もせずに、ハンナはしゃがみ込んだまま、眼下の中庭を見下ろしている。
「まあ、確かにそうかもな。やっぱり春川セイカの孫だけあって、よく出来る人だし」
 窓際の机を足がかりに桟を越え、タツキはひさしの上に降りる。菓子やパンの袋が散乱した幅一メートル半ばかりの足場は、乗ってみると思ったよりも頼りなく感じられた。おっかなびっくり歩を進め、ハンナの横にしゃがみ込む。アキジは窓から身を乗り出した格好のまま、困ったように二人の方を見ていた。
「でも、そしたら俺、もう春川さんには会えないかもな」
「何言ってるの、タツキちゃん? もしここが論理空間なら、ここが消滅した瞬間にアタシ達は……この中にいる人は全員、平行世界、っていうか元の学校に戻れるはずなんだよ」
「その時に、まだ生きてりゃな」
 ハンナが目を見開いてタツキの方を振り返り、驚いたような表情を浮かべた。
「な……何言ってるの、タツキちゃん? 意味が分かんないよ」
「雪島さん。中学から高宮にいたなら、俺よりは色んな話を聞いたことがあるだろ? さっき春川さんが言ってた、魂と肉体がなんたら、って話、知ってたら教えてほしいんだ。俺にも西貝にも分かるように」
「知ってるよ。ヒマだったから、図書室でいっぱい魔法書読んだもん。全然難しい話じゃない。たとえばアタシという存在は、この身体と、その中を巡る『力』から出来てるよね。でもここですごい魔法を使えば、アタシのこの身体から『力』を外に追い出すことが出来るんだよ。追い出された力はそのままだと四散しちゃうし、そうしたらアタシは身体ごと死んじゃうんだけど、その力をそっくりそのまま、カタマリとして保存する魔法があるの」
 タツキは魔法を使う時のことを考える。効率のいい方法を計算して、いくら力を集めても、その力を保存しておけるのはわずかな時間だけだ。手でいくら水をすくっても、指の間からこぼれ落ちていくのを止めることはできない。だから、こぼしてしまう前に使い切るのだ。
 けれど、その水を氷にすれば、どこへでもそのままの形で置いておくことができる。
「無生物の持つ力をカタマリにしても、ちょっと便利に使えるってだけで位相は変わらない。だけど、生き物の――特に、アタシたち人間みたいな、複雑な構造の生き物の持つ力をカタマリにすると、面白い現象が起こるんだ」
 右手の人差し指を立て、空中にくるくると円を描きながら、ハンナは解説する。
「そのカタマリは、記憶とか感情とか、そういった情報を保持してる。どうせそのうち習うだろうから詳しいことは端折るけど、とにかく、そのカタマリには人間の心がごっそり写し取られてるんだよ。普通は幽霊みたいにふわふわ漂って、相手に自分の存在を知覚させられない存在になるけど、色々な条件が重なれば普通の人間みたいに身体を持つこともある。まあ、身体って言っても仮のものだけど。で、その幽霊みたいなカタマリを指して、タマシイって呼ぶこともあるんだ。さっきユリンちゃんはタマシイって言ってたよね」
 アキジが感心したようにうなずいた。ハンナは小さく首を振る。
「でも、魔法的に説明できるものを幽霊って呼ぶのは、やっぱり抵抗があるんだよ……。だいたい、今の理屈で言えば、幽霊って死んでるとは限らないもんね」
「ちょっと待て、力を抜かれた身体はどうなるんだ?」
「目を覚まさないだけで、ちゃんと面倒さえ見てもらえてれば生きてるよ。力と身体は同じ真名を持ってるから、魔法的には強い繋がりがあると言えなくもないけど、物理的には何の関係もない。だから最悪の場合、身体が死んじゃってもタマシイが生きてるって事例はあるみたいだよ。まあ、限界はあるみたいだけどさ」
 ハンナは自分の顔を指さして、「どう?」とタツキに尋ねた。
「こんなに長いこと元気でいるんだから、アタシは死んでるわけがない。でしょ?」
「ああ……うん、あんたは生きてるかもな。でも、志野田アイカは――」
「神代!」
 アキジが唐突に叫び、タツキの声を遮った。
「やめろ、黙れ。こっちに戻って来い」
「やだよ。文句があるならこっち来て、力ずくで引き戻してみたら?」
「そ……それは」
「ああ、もしかして高いところは怖い?」
 アキジは小さく舌打ちして、「そうだよ」と吐き捨てた。
「怖いんだよ。だからお前たちがこっちに来い」
「あんた、俺の何なの? 偉そうに言うなよ」
「友達だろ、たぶん」
「いや、友達になった覚えはねえけどな」
 その答えを聞くと、アキジはいつの間にか手にしていた白のチョークで左手の甲に何かを描きはじめた。チョークを離すと、自分のネクタイを外して左手で握る。
「遊んでる場合か!」
 アキジの左手を中心にネクタイと同じ赤色の光が閃いた。同時にタツキの身体を軽く引っ張られるような感覚が襲う。直後、黒板を引っ掻くような不快な音がしてタツキは耳をふさいだ。至近距離で音の直撃を受けたアキジは、顔をしかめながらも魔法を解かずに立っている。
「くそ、何で上手く行かないんだ!?」
 計算よりもはるかに効きの悪い魔法を前に、アキジはネクタイを握りしめる。ハンナが耳をふさいだまま、「ヘタクソ!」と叫んだ。
「い、今の音はひどいんだよ! だいたい、ネクタイ引っ張ったら下手すると首が絞まっちゃって良くないと思うんだ!」
「いいじゃないか、別に」
 口振りだけは素っ気なく答えたアキジだったが、涙目でにらみつけてくるハンナの剣幕に少したじろぐ。
「アキジちゃん、真名を呼ぶところまではうまいよ。うまくアレンジしてあると思う。多すぎず少なすぎず、いい量の力が集まった。でも、その後がダメだったんだよ。力を使えずに逃がしちゃったから、あんなひどい音になったんだ」
「いちいち解説してくれなくて結構。少しは自覚もあるよ」
「じゃあ、どうして力を導きそこねたか、理由はわかるか?」
 タツキはゆっくりと立ち上がり、壁づたいに窓の下まで歩いた。降りる時よりも戻る時の方が怖いな、と思いながら桟に手をかける。アキジが数歩退いて場所を空け、元々そこに置いてあった机を押し戻した。
「あんた、ネクタイ使ってあんな魔法を組んだってことは、俺の身体じゃなくてネクタイが狙いだったんだろ?」
 よっ、とかけ声をかけて桟に足をかけた。窓の下に戻された机の上に乗り、がたつくその机から飛び下りる。
 アキジの左手に目をやった。ネクタイではなく手に、それも手の甲に図形を描いたあたりに性格が出ている。ネクタイに触れる手のひらに描いた方が魔法の成功率は上がるが、それではネクタイがチョークの粉で汚れてしまう。夏の暑い日で、手が汗ばんでいるから尚更だ。
「そいつを媒介に、俺のネクタイの真名を呼んで繋げようとした。でも、こいつが真名を呼んでも答えてくれなかったから、行く先に迷った力が音となって発現した」
「そうだな。繋がる感覚がなかった。上手く行けば、お前のネクタイ掴んで引きずり上げられるはずだったのに」
「ああ。……おかしいと、思わなかったか?」
 アキジはわずかに眉をひそめた。言いながら、無茶な要求だ、と思う。彼の編入からわずか四ヶ月しか経っていないのだから、使った魔法の量もタツキよりはずっと少ないはずだ。知識はあっても、それを実際に生かすことは難しい。
「何が?」
「制服のネクタイだぜ。デザインは一緒。真名もかなり近い。高宮の人間なら、小学生でも力を繋げるだろうよ。それが失敗したってことは、お前の導き方がヘタクソだったか、運が悪かったか、そうでなけりゃそもそもの式が間違ってたってことだな」
 意味もなく指先に力を集める。澄んだ紫の光と、ライトに手を近づけた時のようなほのかな熱気。こんなにきれいな紫色が出たのは初めてだ。
「距離を測り間違ったんだろ。俺のネクタイ、今どこにあるのか知らないけど、ここからはきっと遠い」
 術者から見た対象の距離と方角を過てば、魔法は成功するはずもない。小学校や中学校から高宮に通っていた生徒は、十メートル先の対象までの距離を数センチ単位で目測できるというが、これはそれとは別の話。
「たぶん、ここにいる俺は『タマシイ』なんだな」
 アキジが驚いたように目を見開いたその時、遠くでガラスが割れる濁った音が聞こえた。


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