花籠の囚人
-4 光芒一閃-


光芒一閃 :3
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 土に木の枝で引いた線は、思いの外はっきり見えた。月が明るいのと、目が闇に慣れたせいだろう。碁盤目に引いた線は畑の作業道路だ。ティナの言う通りに引いただけなので、本当に正しいのかどうかは分からない。
 ハクトは顔を上げ、右目に映る光を確認する。左目が見る夜の景色に、硬度鏡越しの光が二重写しになる。二つの輪郭が重なる瞬間が好きだ。硬度鏡には双眼のものもあるが、あまり好きになれない。たとえ視力が落ちると言われても、やはり単眼鏡がいい。
 土の上に描いた地図に、印がひとつ増えた。ティナが走り回る足音が、倉庫から漏れだしては広い闇の中に消えていく。
 寄宿舎もジュレスバンカートの街も、深夜まで明かりが絶えることはなかった。ハクトは硬度鏡に覆われた右目を閉じる。ちらついていた光が消え、闇が大地を包み込む。南の虹柱も暗闇の中に融けて静かに眠っていた。右目を開けると、手にする枝が明るく光りだす。これもあの虹柱からの恵みなのか。鍬にも負けない強度を得た枝は、より深い線を土に穿つ。
 ハクトはぐるりと周囲を見回した。開け放した二つの入口を通して、倉庫の反対側の景色も見える。木々の間に点々と残る明るい光が花術のもので、それを追うぼんやりとした光は霧だろう。霧は速度を落としていた。オースンからあまり離れることはできないのだろう、と見当をつける。光は作業道路を離れ、畑の中を右往左往する。そこから辿れるシアの移動は、倉庫から見て反時計回りの軌跡を描く。一方、反対側でたまに見え隠れする光はたぶんトウヤの霧だ。彼もまた反時計回りに移動している。挟撃、できるだろうか。トウヤがオースンの背後を取る前に、オースンがシアに追いついてしまう可能性もある。硬度鏡はシアが持っていた方が役に立ったかもしれない。迷わず駆けだしていったシアの背中を思い出す。今はどんな顔をして走っているのだろう。
 ふところの銃を確かめる。弾は一発きり。振り返って、木箱を運ぶティナに声をかける。
「どうですか、フェルティナダ」
「こっちは平気よ」
 軽くはないであろう木箱を平然と運びながら、ティナは小声で答えた。服についた靴痕が痛々しいが、本人は意に介する様子がない。そうこうするうちに、視界の右側で光が爆発する。またくるみが一本、異常な成長を遂げた。ティナ曰く、あれをやると近くの土壌がしばらく使い物にならないそうだ。オースンを誘うように、二倍ほどの高さになった木はねじくれながら天を指す。祭りの日、ろうそくを飾り付けたときのように、枝の先までが明るく光っていた。今度は左目を閉じる。精力の濃淡が陰影を描く。暗闇よりはわずかに明るい墨色の木々に遮られながら、輝く白い木がそびえ立つ。異常な濃度の精力を流し込まれた木の枝葉から、湯気のように光が抜けていく。
「できたわ。あとはお願い」
 ティナが長い枝を手にやって来る。ハクトは鍬を手に立ち上がった。倉庫の中には他にも農具が置いてある。肥料袋の陰では荒縄がとぐろを巻き、そばには釘や金槌が無造作に置かれている。古い斧は薪を割るためのものだろう。金属製の工具がうち捨てられていることに、居心地の悪さを感じた。勿体ない。そんな感情でも突き詰めればずいぶんなものになるようで、だんだん気分が悪くなる。それらは言葉の違いよりも雄弁に、今いるこの場所が異邦であることを伝えてくる。
 それにしても膝が痛い。どだいまともに走れるような状態ではなかったものを、酷使したのだから当然だ。それは馬も同じだろう。倉庫の横で棒立ちになっている馬は、叩いても蹴っても動かない。引く車が鉄塊に変わっているかのようだ。ながえを外せば歩き出すだろうか、と思ったが、裸馬になど乗れる気がしない。乗る機会がなかったのだから当たり前だ。故郷ではほとんどの用事は三輪車で事足りたし、遠出や荷物の運搬に使うのも自動車や機関車だ。かさばるものなら水路と機関船を使えばいいし、それでも運べないようなものは、どうせ馬を使っても運べない。
 ティナに渡された枝に精力を流し込み、硬木に仕立てる。ティナの真剣な表情は本物で、枝を持つ手がわずかに震えているのが分かる。オースンから逃げているであろうシアのことを思った。間に合ってくれるといいのだが。
「本当に大丈夫なの?」
「さあ、分かりませんよ。幸運を祈っていてください」
 腰帯に差した銃を抜き、火蓋の留め金を外す。銃把に巻かれた赤い革には、銘柄を示す杯の紋が焼き付けられている。ハクトでも知っている安物だ。火蓋の留め金は安全装置と言うには頼りないし、事故もよく報じられている。赤革杯印の銃をハクトに渡したあたりに、トウヤの性格が垣間見える。こんな時だというのに、笑いが込み上げてきた。
 ティナが差し出したろうそくを受け取る。こんなものが倉庫にあるとは運がいい。ティナの強運を信じても良さそうだ。
「行きますよ」
 杯印の銃は、つぶれた球体から柄と銃身が生えたような形をしている。全体は硬木でできていて、部品同士の噛み合わせは甘い。安全は使用者が確保するものであり、銃が用意してやるものではない、とは杯印銃の擁護者の弁だ。左側にある蓋を開け、折り取った枝を差し込んで固定する。そこにろうそくの芯を押し込んだ。
 そのまま銃口を空に向け、引き金を引く。
 きゃっ、とティナが叫んで耳を押さえた。どこか間の抜けた銃声は広い畑の中を響き渡る。暗くて分からないが、その音に反して、弾はほとんど飛ばなかったはずだ。火打ち石と火薬が生み出した力の大半は、左の蓋から噴き出してしまっているのだから。額の硬度鏡を下ろせば銃弾の位置を確認できただろうが、あいにくハクトの両手は塞がっている。しかしそんなことより、発射の反動で肩が痛むのが気になる。
 背後で車輪が回る音がした。馬が一声いななき、車を引きずったまま信じられない勢いで走っていく。
「へえ、本当に燃えるんですね」
 右手に銃、左手にろうそくを携えたまま、ハクトは小さく息をついた。赤革杯印の銃といえば、よく左の蓋から火が噴き出すと聞いている。ろうそくに移った小さな火は、小指の先ほどにふくらんで燃え始めていた。
「そんなことより、本当に走り出しちゃったわよ! 急いで」
 ティナにろうそくを渡し、熱い銃身を腰帯に差し込む。ティナがハクトを引きずるように倉庫の中に入った。ハクトは硬度鏡を下ろす。ここから先は、三人の動き次第だ。白い木を辿り、大きな霧を捜し、小さな霧の気配を探る。硬度鏡の向こうで、シアとオースン、トウヤが動くのが分かる。こうもりは暗闇でも音で周囲を探る。見通しの悪いくるみ畑の中でも、ハクトは精力の光で周囲を探る。
 オースンの霧が向きを変えた。二手に別れるようなこともなく、まっすぐにこちらに向かってくる。いや、馬を追っているのか。とにかく、これでシアから気を逸らしてくれればいいのだが。技師が一度に作れる硬木の量は技師の精力に依存する。花術士が育てる樹木の大きさは土地と術士の精力に依存する。おそらく霧を操る民も、無尽蔵に霧を操れるわけではないだろう。その推測が間違っているとしたら、もはやハクトに打つ手はない。
 ふと、シアの声が聞こえたような気がした。ティナの声と木がはぜる音に隠れて、はっきりとは聞き取れない。だが、ハクトの気分を煽るには充分だった。屈託のない笑顔が脳裏によみがえる。たった数日の思い出が、取っ手を勢いよく回しすぎたからくりの影絵映しのように、忙しく脳裏をよぎっていく。
 ティナが立ち上がり、ハクトの横に立った。片手をらっぱのように口元に当て、大きく息を吸う。
「こっちだ、ばかやろーうっ!」
 霧がためらうように止まった。ティナがくすぶる枝を振り回す。その枝先では、中身を抜いた肥料袋が、枝と一緒に勢いよく燃えている。煙と炎と、なによりこの倉庫は遠くからでも見えるはずだ。少なくともティナがここにいることは、容易にオースンに伝わるだろう。
 その隙にトウヤが動いた。とは言え、ハクトのように相手の位置が見えているわけではない。小さな霧は迷いながらもこの倉庫に向かっている。本人はそのずっと後ろだろう。
「シアより先に、ティナを殺せえっ!」
 霧が視認できる距離まで近づいてきた。ティナは一歩後じさる。だが、それ以上動こうとはしなかった。即席のたいまつをかざしたまま、霧を睨みつける。ハクトは彼女の左手を握った。汗で濡れた手は、強くハクトの手を握り返す。
 沈黙のまま、にらみ合いの時間が過ぎた。遠くで鳴った足音は誰のものだろう。シアならいいなとハクトは思う。シアの挑発は止んでいた。ティナの声を聞いて、意図を察してくれたのだろうか。彼女はこのまま、安全なところへ逃げればいい。きっとノッジやグレン家の主人が手を貸してくれるだろう。
 逃げるな。ハクトは霧を睨みつける。ここでオースンがシアを追うようなら、二人がやってきたことに意味がなくなってしまう。花術を使うのをやめたシアの居場所は分からない。特に何もしなければ、生物が持つ精力の濃度は草木や水と同じだ。くるみの葉が視界を塞いでいなければ、目で見ることができただろう。
 金属音まじりの荒い足音が、木々の間からやって来る。長い髪、派手な装飾品、外套のようにまとった霧。走り通しで疲れたのか、オースンの息は上がっている。息をつくたびに腕輪と髪の珠が音を立てた。彼はハクトの姿を認め、意外そうに眉を上げた。
「お前もいたのか」
 ハクトは無言でオースンを見つめる。言葉の意味はなんとなく分かるが、答える気にはなれなかった。生木が焼ける臭いが鼻をつく。
「アガトゥスといい、ヴァナ人は自殺行為が好きなのか?」
「どこの人間だろうと関係ないわ。ティナはシアを助けたいだけよ」
「それが自殺行為だと言っているんだ。考えなしの馬鹿げた行動、と言い直してやろうか」
 ハクトは倉庫を振り返る。ティナが一歩前へ出た。
「あんたみたいな、馬鹿でうぬぼれ屋でもてない野郎に言われたくないわ! 趣味も悪いし性格も悪い、あんたなんかに殺されたらシアが可哀想だもの!」
 中空に漂っていた霧が、細い帯となってティナを取り巻く。ハクトはティナの肩を掴んで数歩下がった。霧はそれ以上追ってこない。余裕を見せつけるように、二人の目の前に留まっている。ティナは牽制するようにたいまつをかざした。
「なによ、あんたなんか霧がなけりゃ何もできないくせに。ビットクラーヤみたいに、自分の銃の腕で戦うくらいの気概を見せなさいよ! ばっかじゃないの!」
 ティナの目に涙がにじむ。煙のせいか、霧のせいか、それとも。ハクトはもう一度、強くティナの手を握った。
 酔ったような足取りで、オースンは二人との距離を詰めていく。膝が笑うのか、忌々しそうに舌打ちをした。いつも歌うばかりでは、農作業にいそしむシアに比べて体力も落ちるだろう。とは言え、足を痛めているハクトよりはよほど早く走れるに違いない。
「き、来てみなさいよ。あんたのその不細工な顔、焼き潰してやるから」
 壁に立てかけた戸板に隠れるようにしながらティナは叫ぶ。不細工というのがオースンの気に障ったのだろう、彼は大股で近寄ってくる。その場で立ち向かおうとするティナを、ハクトは倉庫の奥へと引きずり込んだ。完全に戸板を盾にする格好だ。
 霧使いと共に霧が倉庫の中に入り込む。生木が燃える臭いが強くなった。ハクトは鼻と口を押さえる。気休めのようなものだ。喉に思い切り吸い込めば、息が詰まって死んでしまう。二度目とは言え、さすがに腰が引けた。背後には倉庫のもう一つの入口がある。冷たい夜風が今ばかりは恋しい。
「どうした、ティナ・リチカート。僕と戦うんじゃないの?」
「そうよ! ち、ちょっと心の準備をしてるだけ!」
 霧を吸い込まないようにしながら、ティナはやけっぱちのように叫ぶ。その頬を霧が撫でていった。小さな悲鳴が上がる。ティナの頬が、軽い火傷をしたときのように赤くなっていた。オースンが肩をすくめ、低く笑う。
「僕がそんなに愛されていたとは、光栄だね。ときに、後ろの衛士様はお飾りかなにかかい?」
 歩を進めるごとに、装身具が足音よりも大きな音を立てる。彼はティナの不機嫌そうな表情をあざ笑うように、さらに一歩踏み込んだ。
 ハクトは大きく息を吸う。
「ティナ!」
 無意識に愛称を呼んでいた。ティナはそれに気づく様子すらなく、その声に応えてそばの戸板を蹴りつける。きしむような音がハクトの耳に届いた。ハクトはティナの手首を掴むと、間髪入れずに身をひるがえし、背後に開いた戸口から外に飛び出す。
「何を――」
 言いかけたオースンの頭の上から、大量の木箱が降ってくる。
 一瞬、オースンの姿が木箱に隠れて見えなくなった。
 ほぼ同時に、戸板の影から火の手が上がる。
「行くわよ!」
 ティナが足下に伸びていた荒縄を引いた。
 木箱と共に、今度は重い肥料袋がなだれ込む。木箱をはね除けていたオースンは、今度こそ土と木箱の山の中に埋もれた。木箱の山の中で霧がうごめき、それに伴うように火の手が強くなる。ティナは手の届くところにあった木箱に火をつけた。
「霧は硬木の硬度と難燃性を失わせます。あんたが近寄ると、火は木切れに燃え移るんです」
 聞こえてはいないだろうし、聞こえたところでオースンにヴァナ語は分からないだろう。
「死ぬまで出てこないでください」
 ハクトがつぶやいたその時、叫び声と共にシアが木陰から飛び出してきた。涙を袖でぬぐいながら、ティナとハクトをまとめて抱きしめる。
「ばか! 騙されタじゃないか!」
 そしてティナの手からたいまつをもぎ取ると、動き始めた木箱の山に投げつける。火の手はすでに床から壁に燃え移り、木造の倉庫を焼き払おうとしていた。
「は、ハクト達が、あいつ、殺すとは、思わなかっタ。ゴメンナサイ、わタし達が、もっと上手くできれば……」
 しゃくり上げながら、シアは燃えさかる倉庫に目をやる。梁を残して東側の壁はずいぶん燃えて、屋根がゆっくりと傾いでいく。じきに崩れるように見えた。
「やめてください。そんなことより、シアが無事で良かった」
 シアはハクトの笑顔をじっと見つめ、悲しそうに目を伏せる。自覚はないが、うまく笑えてはいないのだろう。安心させようと思ったのに、どうやら逆効果だったようだ。
「結局、僕の出る幕は全然なかったってことか」
 呆れたような声はトウヤのものだ。片手には銃と一緒に、数本の木管を携えている。まだあったのか、とハクトは口の中でつぶやいた。
「相手はどうあれ、人殺しをするような顔には見えないんだけどね、お前」
「正当防衛だ」
 吐き捨てると、トウヤはぽんとハクトの肩を叩いた。
「まあ、結局はただの事故だしね。気に病むなよ、非常事態だったんだ」
 軽い口調でそう言って、トウヤは肩をすくめる。同胞であるはずのオースンについて、恨み言のひとつも言う気配はない。視線すら、そちらに向けたくはないようだった。代わりにハクトが燃える倉庫を見る。オースンが姿を現す気配はない。怨嗟の声すら聞こえない。
 疲労のせいか、ティナがぐったりとその場に座り込む。シアも「ひどい、騙されタ」とぶつぶつ言っていたが、やがてその小言も止んだ。
 ひときわ大きな音を立てて、倉庫の屋根が落ちた。火花が夜闇を明るく照らし出す。炎はたまに爆ぜながら、静かに梁を舐めていた。
 一度だけそちらに目をやって、トウヤは目を閉じる。息を整えて目を開けると、南の空の、虹柱がある辺りを向いて顔をしかめた。
「都は、永遠に生きる」
「何か言った?」
 彼がつぶやいた言葉はハクトの耳にも届いたが、意味はよく分からない。
 ただ、あまり彼に似合う言葉だとは思えなかった。
 煙が目に染みたか、硬度鏡で覆われていない左目の視界が涙でにじんだ。炎に照らされて、トウヤの顔の半分は明るく照らされている。
「なあ、トウヤ」
「どうしたの」
「狭霧の都って、いいところ?」
 時間割を確かめる時のように尋ねると、彼はいつものように少し考えて、編んだ長い髪をいじりながら答える。
「ヴァナよりは過ごしやすいよ。何でもあるしね」
 相棒はかげりのある表情で、面倒くさそうに笑った。
「……でも僕は、ヴァナの方が好きだったかなあ」
 おまけのように付け足して、トウヤはその場に腰を下ろす。銃を置き、細い木管を指でもてあそび始めた。世の中、何が武器になるか分からないものだ。トウヤにかかれば銃よりも恐ろしいであろう霧の管を見ながら、ハクトはため息をついた。右目を覆う硬度鏡を、意味もなくいじる。まだ先の長い夜の闇に、きらりきらりと光が舞った。
「俺、お前が相棒で良かったと思うよ」
 手を伸ばし、緑革の銃を拾った。ハクトの記憶が確かなら、まだ弾は込められているはずだ。
「なんだよ、いきなり」
「今言っとかないと、言えなくなりそうだから。本当に、本気でそう思ってるんだ」
 銃把に巻いた緑の革は、しっくりと手に馴染む。杯印銃の赤革とは大違いだ。ここまで差が出ることがむしろ興味深い。
「本当だからな」
 銃声一発。
 トウヤが右胸を押さえる。
「……心臓なら左だよ、ハクト」
 女二人があっけに取られた顔でこちらを見ている。口を開こうとしないのは、何が起こったのか理解できていないからだろう。ひょっとすると、先刻からこの場に満ちている、ほのかな霧のせいかもしれない。
「疲れてんじゃ、ないの?」
「お前こそ。硬度鏡の前で霧を使うな。丸見えだ」
 掲げたトウヤの手から、砕けた数本の木管が落ちた。
「あはは、忘れてたよ」
 言葉に呼気が混ざる。傷口を押さえる手は既に真っ赤で、袖口にも上着にも大きな染みができていた。
「それも事故かな。いや……」
 立ちすくむハクトの前に、トウヤは血がついていない方の手を差し出した。
「お前を信じた僕が馬鹿だったのか」
「お互いさまだろ」
「確かにね……」
 ハクトはその手を取り、トウヤの傍にかがみ込む。トウヤは相棒から目を逸らし、呆然としたままのティナに笑いかけた。
「君は本当に、運がいい……きっと、神が君を生かしているんだ」
 トウヤはハクトの肩にもたれかかり、それでも喋るのをやめない。額に脂汗が浮いていた。ハクトは反射的に口を開く。
「ごめん」
「こちらこそ……馬鹿で、ごめん。でも、僕は、やっぱり……」
 その先は言葉にならない。トウヤはハクトを押しのけるようにして地面に横たわった。
 余力さえあれば、きっと猫かなにかのように姿を消すに違いない。
 最後まで、小動物めいた印象のある男だった。

 硬度鏡に映るものが信じられず、ハクトはしばらくその場にうずくまっていた。
 異変に気づいたティナに促され、重い腰を上げる。その時にはすでに、息苦しさを覚えていた。だがそれ以上のことはなく、歩を進めるにつれて呼吸は楽になっていく。
 乳白色の濃い霧が、トウヤの体を包み込んでいた。
 それはまるで彼の死を待っていたようだった。霧の民なりの、あれは棺なのかもしれない。
 虹が闇から浮かび上がり、朝日がその光をのぞかせるころになって、倉庫を全焼させた火は消えた。
 火を吹き消した風は、そのまま霧の棺を吹き散らし、後には塵も残さなかった。


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