花籠の囚人
-5 能事畢矣-


能事畢矣
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 朝、ハクト達が家に帰ってみると、ミキはノッジが寝ていた寝台で静かな寝息を立てていた。椅子には憮然とした表情のノッジが座っていて、「遅かったですな」とつぶやく。その横には、台所の椅子を持ち込んで座るユノがいた。うつらうつらしているところを見ると、寝ずに家の主を待っていたのだろう。ユノもあの時、怖くて逃げたわけではなかったのだと、ハクトは今更になって思う。ただ、得体の知れない連中から妹たちを守らなければならないと思っただけのことだ。ハクトはもう何も言う気になれず、帯に差した銃もそのままに、居間の長椅子に寝転がった。
 目が覚めたら、すべて夢だった。そんな結末が来たらいいのに、と思いながら部屋の中を見回す。硝子が割れた窓を布で塞いであるため、部屋は薄暗かった。長椅子よりも大きな家具のない部屋だ。机は二つに分かれるし、棚も小さなものを積み重ねて出来ている。
 ぜんぶ夢だったらいいのに。口の中で繰り返す。目が覚めたら、きっと窓にかぶせた布もなく、正月の祝い絵で隠した壁の傷もなく、ティナがいて、シアが――
 ――なんだ、それ。
 シアとノッジはまた遠回しな言葉を交わしていた。ティナは目を覚ましたミキにひたすら謝っている。そうだ、帰るまで待っていてくれと彼女に頼んだのだった。その約束を守ろうとするミキと、彼女を説得できず、結局はこの家に泊まってしまったユノの姿が目に浮かぶ。ミキにはあとで謝らなければ――
 ――違う、だから、そうじゃなくて。
 目を閉じても、相棒の顔はおぼろげで、ぼんやりとした輪郭が浮かぶばかりだ。あんなに長いこと毎日顔を合わせていたのに、たった一晩で忘れてしまったというのか。
 もう、ずっと前からここに住んでいるような気になる。調度品も聞こえてくる言葉も異邦のものなのに、なぜかすっきりと耳目に染み通る。
 言葉にならないうめき声を上げ、天井に視線をやった。天井に貼った麻布は、この部屋でもやはり緩んでいる。
 どこからか入り込んだぬるい風が、じんわりと頬を撫でていった。潮の香りの代わりに、草葉と土の香りを含んだ風。故郷では、少なくともあの街では、決して嗅ぐことのない香りだ。
「ちくしょう」
 語気荒く喋るシアの言葉は、今ちょうどノッジの正体を質しているところだ。
 トウヤの言葉が本当ならば、二つの都はただ霧が隔てるだけの、同じ大地の一部でしかない。今なら納得できる。霧を払ってしまえば、きっと二つの都には、ジュレスバンカートとフィデルウィッカほどの差しかないのだ。
 そんなものを守るために、彼はハクトに霧を向けた。
 右手の袖で両のまぶたを覆った。地味な色の、しかし丈夫な布地の袖が、ほんの少し湿る。
「馬鹿か、お前は」
 殺そうと思えば殺せたくせに。硬度鏡を上げているときを狙えば。銃をしまっていれば。オースンの馬を襲ったあの大きな霧に、ハクトを抱かせてしまえば。そもそも、助けに来ないという選択肢だってあったはずだ。あの船ごとハクトを見殺しにすることだって、簡単にできたはずなのに。
 それを言うなら自分にだって、ただ逃げるなり、殴るなり、やりようはあったはずだ。シアとティナを見捨てれば逃げられたかもしれない。胸を撃たなくても、突きつけるだけで彼は霧を止めたかもしれない。オースンだってそうだ。
 全身が総毛立つ。悲鳴を上げて長椅子から飛び下りたいのをこらえて、ハクトは深呼吸をくり返した。ティナの、子供の前で人を殺してしまった。しかも彼女に手を下させた。言い訳をして許されるものではない。
 そうまでして、お互い何を守りたかったのだろう。
「ハクト」
 愛称を呼ぶ、ティナの声。袖を持ち上げると、間近にティナの顔があった。霧の毒で腫れた頬が痛々しい。二歩後ろで、ミキが心配そうに胸を押さえている。
「なんですか、ティナ」
 ティナは無言でかがみ込み、胸の前でてのひらを合わせた。小さく顎を引く。
「まだ、お礼を言ってなかったわ。ありがとう……その……いろいろと」
 ハクトは重い体を起こし、同じように礼の仕草をする。
「こちらこそ」
 どんな顔をしていいのか分からず、合わせた手で顔を隠す。ティナを突き飛ばすように、横からシアが駆け寄ってきた。
「ハクト! わタしも、ありがとう!」
 面食らうハクトをよそに、シアはその首っ玉にかじりつく。彼女の顔をどうしても正視できず、ハクトはそっと視線を外した。シアはそれを責めることもなく、「だいじょぶ」とささやく。
「言わな、ければ、け、ええと、憲兵は、来ないよ!」
「そっちなんですか」
 シアは大きくうなずいた。
「だカら、安心して、泣きなさい!」
 それからシアは、ラサ語でなにか言った。ティナが後を引き継ぐ。
「だからあなたは、ビットクラーヤの分まで、泣いて、笑って、生きなさい」
「……ラサの教えですか」
「たった今、シアが考えたそうよ。なかなか偉そうでしょう、って言ってるわ」
 ミキがくすくすと笑い出した。シアも笑っている。ティナも遠慮がちに口角を上げた。
 たくさんのものを失った代わりに得た小さな輝きを、ようやく見つけたような気がした。
 所在なさげに立つノッジと目が合い、ハクトは彼に笑いかける。
 深緑の都も、悪くないところですね、と。

 バティの河岸から、花籠が流れていく。
 中には花を編んで作った冠と、緑革の銃。今日は月に一度の、二つの都の流れが交差する日だ。今度はふくらませた流木を沈めるようなことはせず、ただヴァナに向けて花を流す。
 花も銃も霧で痛んでしまうだろう。それはそれで構わない、とハクトは考えていた。彼は霧の民だ、霧に帰るならそれもいい。
 ハクトはじっと手を合わせるシアの横顔に目をやった。死者を悼むのではなく、旅人を送る礼。シアはハクトの視線に気づくと、困ったような笑みを浮かべる。
「さて、これからどうしましょうか?」
 二人の様子に気づいているのかいないのか、ティナが明るくそう言ってのびをする。水際を浚ったのか、肘までが濡れていた。ハクトとシアも立ち上がる。
「とりあえズ、ごはんは、どう?」
 わあっ、とティナが歓声を上げ、河岸の街があるほうへ二、三歩踏み出す。
 振り返れば川、その向こうには霧。南の空には虹柱、青い空には白い雲。どこから見ても今は春で、それは故郷も同じこと。
 ハクトは空を仰ぎ、高いところを飛ぶ銀の鳥を見た。
 いつか、故郷の人々が鳥を見る日が来るだろう。それがいつになるかは分からないけれど、きっとその日は訪れる。翼は空を飛ぶためのもので、檻の中を巡るためのものではないのだから。
 前を行く二人の少女に目を移し、ハクトはその後を早足に追いかける。
 霧をくぐる花籠は、もう見えなくなっていた。

(終)



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