花籠の囚人
-4 光芒一閃-


光芒一閃 :1
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 曲がり角の向こうでティナの声がした。しかし様子がおかしい。ユノが声に気づいて馬車を止めた。ハクトはユノに礼を言って馬車から下り、足を引きずりながら声の元へ向かう。
 そこに広がる光景を見た瞬間、今度こそ状況はハクトの理解を超えた。
 ハクトはひとつ深呼吸をする。落ち着け。
 シアとハクトは、ミキの伝言に従ってリズを探しにきた。杖を片手に危なっかしく歩くハクトを見かねて、ユノが馬車に乗せてくれたのが先刻のことだ。それから真っ直ぐ、リズの家がある大通りへと向かった。大きな道は一本だから、まず行き違いになることはないと踏んで。
 しかしどうして、そのはるか手前にあるこんなところにオースンがいて、悲鳴を上げるティナに銃を突きつけているのだろう。その向こうに立つ人影の顔は、暗くてよく見えない。
「フェルティナダ……?」
「来ちゃだめ! 殺されちゃうわ!」
 さっぱり意味が分からない。どうしてオースンが自分を殺す必要があるのだろう。しかもオースンときたら、銃をティナの喉元に突きつけている。あのまま撃ったら、弾が貫通した時に自分が怪我をするだろうに。手つきの危なっかしさは決して安心材料ではない。慣れないうちは、思わぬ拍子に引き金を引いてしまうこともある。
「レイジ! ティナを放せ、何やってるんだ!」
 叫んだのはシアだ。声にそこまで危機感が感じられないのは、銃の危険性を理解していないからだろう。彼女が先走らないか不安ではあったが、今はティナとオースンから視線を離せない。自分がいない間に、いったい何が起こったのだろう。
「放したいのはやまやまなんだ。シア、僕とひとつ取引をしてはくれないかな」
「取引?」
 シアの眉がひそめられた。オースンの言葉の意味は分からなかったが、あまり好意的な発言には見えない。そんなことより銃だ。シアの言葉を信じる限り、この都には銃はないはずだ。そう考えるとおかしい。シアがハクトを拾ったように、オースンもどこかで銃を拾ったのだろうか。だとしても、使い方が分かるはずがない。それに水に沈めば火薬も湿るはずだ。
「そう。ティナとハクトを置いて、実家に帰ってくれないかな。そのまま、研究からも手を引いてほしい」
「どうして?」
 シアが当惑顔で答え、ハクトに「私に、研究、やめる、ろ、って」と伝える。ティナがこちらを向いて頷いたので間違いないのだろう。
「その方が、君以外の誰にとっても幸せだからさ。ハクトとティナは言葉の通じるところへ行き、僕は自分の仕事を果たし、僕の仲間も霧が守られることを喜ぶ」
「ティナたちが? 本当に? ……もしそれが本当なら、話し合う意志はある。だからまずティナを放して」
「断る。それで、君の返事は?」
「条件が、二つある」
 奥歯を噛みしめ、シアはうろうろと視線をさまよわせる。自分の都の言葉を喋っているのが嘘のようにゆっくりと、一つずつ単語を吐き出していった。頭の中で言葉を組み立て直す時間がある。ハクトには、その七割方を聞き取った自信があった。
「ハクトとティナが、ほんとうに言葉の通じるところに行くのかどうか、証拠を見せて。もう一つ、そう言うってことは、ハクトとティナの仲間が……霧の向こうの人がいるんでしょう。じゃあ、本当に霧の向こうには別の都があって、そこには塩がいっぱいあるの? 昔は全部、ひとつの都だったって本当なの? 答えを教えてくれるなら、私にはもう研究する意味がない。喜んで止めるよ」
 驚いてシアの横顔を見つめる。オースンといいシアといい、本気か?
「ハクシャダイト、シアの仮説は本当よ。霧の向こうにはティナたちの故郷がある。こいつらも研究者で、しかも霧を越えられる。だから、ついて来れば帰れるかもしれないのよ。この銃がその証拠、分かるでしょ?」
 オースンに小突かれたティナが早口に叫んだ。そして最後に、早口言葉のようにつけ加える。
「あなたの相棒もその仲間よ」
 意味が分からず、ハクトはぽかんと口を開けた。シアの仮説は信ずるに足る。なにせ自分がその証拠だ。銃もその通り、持って来なければあるはずもない。なにせ二十年前に発明されたばかりの銃なのだ。銃把に巻かれた緑の革帯は見間違いようもない。
 それにしても、なぜトウヤがここに?
「二つ目から答えていこうか。霧の向こうに都があるのは君も知っているだろう? 塩だってあるさ。霧の向こうには金と絹の都もあるんだ。都が一続きだったというのも勿論本当だけどね、口外したところで気がふれたと思われるのが落ちだよ。そもそも君は、僕ごときの言葉を信じるのかい?」
「証拠を見せて」
 手を出すシア。オースンは困ったような顔でティナの喉から手を放し、髪飾りの珠をひとつ抜き取った。
「それじゃあ、こんなのはどうだい?」
 白くて細い、労働慣れしていない指が珠を砕く。欠片が指の間から落ちるのと同時に、覚えのあるうす白いもやが、薄い帯のようにオースンの周りを取り巻いた。
 その色には見覚えがあった。頭ではなく体が覚えている。霧の色だ。
 シアも同じことに気付いたのか、口元に手をやって絶句している。
 乳白色にも見える霧の帯は、オースンの指に収まった珠の周りを漂っている。ティナが顔をそむけ、彼の手から逃れようと身じろぎした。オースンは表情を変えずに、銃口でティナの喉を突く。咳き込む彼女の顎に珠を持った手を回すと、霧もそれにつれてティナの頬を撫でた。
「それ、まさか――」
「いい加減にしやがれ!」
 シアの声を遮る、乱暴なラサ語があった。男の声だ。それも、聞き覚えがある。ティナが必死で伝えようとしたのはこういうことか。数歩先に浮かぶ白い顔を見ようと、ハクトは右目を閉じた。悲しいような、怒っているような、なにか激情にゆがめられた顔が見える。そのままふらふらと近づこうとした瞬間、ティナに向けられた銃口に気づき、足が止まった。
 代わりに、彼の名を呼ぶ。
「トウヤ」
 繁茂する柊。愛すべき盟友の名を。
「……んだよ」
 返ってきた声には、鼻水をすする音が混じる。シアはトウヤの名を聞いて状況を察したようだったが、わけが分からないのはハクトと同じだ。どうして、とつぶやく。
「こっちの言葉、分かるのか」
「そりゃ、まあ……昔、色々あってね」
 同じ学年だが、ハクトは十八、トウヤは二十歳。昔とは、彼の人生のどこかにある空白の二年間のことを指しているのだろう。ハクトは唾を飲み込んだ。
 トウヤは涙声だが、そのために情けをかけることはない。いつものことだ。ハクトの方が泣き出したくなるくらい、いつものことだ。涙もろい割には、すぐにけろっとした顔で復活してくる。そうだ。男が泣いてどうする。
「霧、越えられるのか」
「僕が守ったからお前が生きてんだ。越えられるよ。そういう血筋だもん」
 ふとオースンの顔に目を向ける。髪は確かに、トウヤに似た暗い色だ。茶色よりは灰色に見える黒い瞳も同じ。
「こいつとは親戚?」
「ずっと先祖まで辿れば、そうなんだろうね」
 オースンが忌々しげに足元の小石を蹴飛ばした。
 ふと振り返ると、シアが道ばたにかがみ込み、下生えの草をつまんでいた。何を、と言おうとしたその時、シアは一本の雑草の茎を掴む。ひときわ背が高く、ひょろりとした黄色い花だった。
「これだ!」
 硬度鏡を下ろしていたら、精力の動きが見えたことだろう。シアの指先で何かがざわめき、そして突然体積を増す。あれは葉だ、と理解する前に地面が爆発した。唖然とするハクトの前で、ハクトの腕ほどもありそうな太い根が地面をかき分けて飛び出してくる。ユノの悲鳴が聞こえた。根はシアがいる場所から放射状に広がり、木々を揺らし、道路を寸断する。瀝青で固められていればまた違ったのだろうが、ただ踏み固めた土は、暴れ狂う根の前でむなしく吹き飛んで地面に溝を穿った。花術士の力だ、と気付いたのは一拍後、混乱に乗じてトウヤが駆け寄ってきたときだった。それと時を同じくして、ユノが悲鳴を上げて走り出す。林の中を突っ切って、彼方にある人家の灯りを目指して一目散に駆けていった。
「ティナ!」
 シアがティナの手を握り、狼狽するオースンの腕からティナの体をもぎ取った。慌ててオースンがこちらに銃口を向けるが、引き金を引こうとしてその手が固まる。さては火蓋を開かずに撃とうとしたのか。その隙をついてシアは走り出す。後を追うハクトはなんとか馬車までたどり着き、シアに引き上げられ、背後のトウヤに押されて荷台に転がる。驚いて逃げ出そうとする馬を逃がすまいと、シアはその首を叩いている。背後で乳白色の霧が渦巻いた。さっきよりもずっと濃い。トウヤは腰から一丁の銃を取り出し、狙いも定めずに一発撃った。威嚇の効果はあったらしく、オースンが追ってくるまでに一瞬の間がある。
「ちぇ、外したか」
「当てる気だったのか?」
 どうだろうね、とうそぶくその素振りがひどく懐かしい。まだ別れてから十日ばかり、目を覚ましてからはたったの五日だ。それなのに、もう一年も会っていないような気がする。
「乗って! あんたもよ!」
 その言葉は乗車をためらうトウヤに向けられていた。ティナが「早くしなさい」とせかす。彼が荷台に飛び乗るのと同時に、シアは思いきり馬の横腹を蹴飛ばした。馬車が走り出す。
「ユノ、ちょっと借りるよ!」
 事後承諾にもほどがある。遠くなっていくオースンの姿をしり目に、馬車は勢いよく畑の間を駆け抜けていった。馬を御すシアの手が汗で濡れている。だが何にせよ、とりあえず馬が走ってくれていることだけは事実だ。
「どこに行く気よ、シア!」
「知らない!」
 シアの返事に舌打ちしてから、ティナはトウヤの腕を掴んだ。そこではじめて血の匂いに気付く。思ったよりも動転しているらしい。トウヤの左手首に巻かれた包帯には、じっとりと血がにじんでいた。すり傷などではない。彼が涙を浮かべているのは、再会を喜ぶせいばかりではないのかもしれない。
「あなた、霧を越えられるって言ったわね。オースンがいなくなったら、ハクシャダイトをヴァナに帰してくれる?」
「君のことを含めて、善処はする。だから放してくれないかフェルティナダ、痛いって」
 馬車が右に曲がった。振り落とされそうになって、荷台の三人は必死に柵を掴む。シアはそんなことを意にも介さない。この先にあるのは、双子たちの家のくるみ畑だ。
「トウヤ、私と一緒に逃げろ!」
 叫んだのはシアだ。身も蓋もないそのヴァナ語を聞いて、ティナとハクトは思わず顔を見合わせる。
「最初から、あの豚野郎の条件なんか呑む気はなかったの?」
「当たり前でしょ、研究は私の命なんだから。ここで研究をやめたら、私の人生お先真っ暗だよ! それにあいつ、絶対にティナのことをいじめる! その怪我、あいつにやられたんでしょう?」
 トウヤの流暢なラサ語に戸惑いながらも、シアはやけっぱちのように叫んだ。ティナの代わりに、トウヤがハクトに会話の内容を伝える。しかし何という剣幕だろう。彼女の手から研究を取り上げたら、のたうち回って死んでしまいそうだ。ただし、きっと色々なものを道連れにしていくだろう。
「そ、そうだけど」
 頬を押さえてティナが答えた。頬が赤くなっていることは知っていたが、銃に気をとられてそこまで意識が回らなかった。こうして改めて見ると、結っていた髪も乱れ、ひどい有様だ。ハクトの視線に気付き、ティナは不快そうに顔をしかめた。
「女を殴るのは悪いやつだ。いい女を裏切るのも悪いやつだ。だからリズを裏切ってティナを殴ったレイジは悪いやつだよ。そんなのにティナを渡せるもんか!」
 哀れな馬は重い馬車を牽いてひた走る。勢いがついた車は止まらない。本調子でもないのに酷使した足が、今頃になってじわりと痛んだ。膝に力が入らない。
 後方を振り返ったティナがトウヤの腕を引っ張る。彼女が指さす先を見ると、白い帯が空中を漂ってくるのが見えた。
 違う、あれは霧だ。
 両手を広げたくらいの幅になって、霧がやってくる。帯がそばをかすめると、木の葉が焦げるように枯れて落ちた。霧のそばに生える木々と同じく、枝が力無く垂れ下がる。ハクトは反射的に口を手で覆った。
「もっと飛ばせ!」
 トウヤがラサ語で叫んだ。霧に触れた枝が変色していく。陽が沈んでいて助かった。未来の自分の姿かもしれないそれを、あまり直視したくはない。視線を下に戻せば、はるか向こうに馬を駆るオースンの姿が見えた。どこから調達してきたのだろう。しかし裸馬と馬車では、牽いている重量が違いすぎる。先に速度を落とすことになるのはこちらの馬だ。
「ビットクラーヤ! あなた、霧を操れるって言ったわね」
「言ったよ。あのうるさいのも今に散らしてやる」
 トウヤは馬車の手すりに足をかけた。目で要求されたとおり、ハクトは腕を回して彼の体を支える。自動車や鉄道の発動機になら確実に用意されている、体を支えるための布帯はない。揺れる馬車の上で高い位置に手を伸ばすのは、危険を伴う行動だ。
 懐から細い木管を取り出すと、トウヤはその端を噛みちぎる。吐き出した欠片は地面に落ち、あっという間に見えなくなった。
「だいじょうぶ、お前らを害するものじゃない」
 中空の木管から、葉巻のように立ち上る白い煙、いや、あれは霧だ。トウヤは木管の反対端を噛みちぎると、その端に唇を添え、ふうと霧を吹く。ハクトはふと思い立って額の硬度鏡を下ろした。木片を硬木に変えるときのように、精気の明るい光が染み通っていく――木片ではなく、白い霧に。
「まさかそんなことで、霧が操れんのか? だって、そんなことができるなら、今頃……」
「僕にはできる。無事に逃げられたら、あとでゆっくり話すよ」
 トウヤの唇から吹き込まれた精気が、闇夜の霧を明るく輝かせる。それは馬車を追う、大きいがぼんやりとした塊に突き刺さり、突然爆発するように広がった。通常の視界と硬度鏡越しの視界が重なって、まるで空中を光条が閃くようだ。至近距離で花火が爆発すれば、きっとこんな景色が見えるだろう。
「うわ……っ」
「離すな!」
 その光景に引き込まれていたハクトは、怒鳴られて我に返る。煙管のように木管をくわえたトウヤは、ばらばらになった霧を、今度は吸い寄せていく。
「危ない!」
「僕にとって霧は毒じゃない。とりあえず頭下げてろ」
 君も、とティナを肘で指すと、トウヤは再び馬車の後方に向き直る。
「ハクト、僕の右足に銃が吊ってある。抜けるか」
 服越しに脛を触ると、確かに銃のかたちをなぞることができた。裾から手を突っ込み、長靴の鋲に留めてあった帯を外す。
「持っとけ」
「何丁持ってたんだ?」
「五丁。二丁あいつに取られた」
 ティナの首に突きつけられていた銃を思い出す。あの分では、オースンが持っていても宝の持ち腐れにしかならないだろう。そういう意味では少し安心だ。
「こっちもあとで装填しないと」
 腰帯に差した銃を肘で示すと、トウヤは大きく息を吸った。白い霧は今やトウヤの前で凝っている。馬車と同じだけの速度で向かってくるので、まるで勢いを感じない。じわりじわりと広がりながら、馬車との距離を詰めようとする。背筋が冷えた。
「捕まってたまるかってんだ!」
 トウヤの叫びを合図に霧がうごめく。まるで白い大男が振り返ったようだ。大男は腕を広げてその場に立ち塞がり、やがてやってきたオースンの馬を抱きすくめた。オースンは霧を払ったが、密度の高い霧に抗しきれなかったのか、馬が明らかに速度を落とす。それでも走るのをやめないのは、霧を思い切り吸い込むことだけは避けられたからだろう。人間と同じだ。少しの霧なら、息苦しさとだるさを感じるだけですむ。
 その隙に馬車はくるみ畑の中へ飛び込み、碁盤目に引かれた作業道路を北へ進む。


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