花籠の囚人
-3 虹下放吟-
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互いの息づかいまでが聞こえそうな沈黙の中で、ティナは小さくうめいた。トウヤがティナの胸に押しつけた銃口は、上下左右にかすかに振れている。それでようやく、ティナは自分が震えていることに気付いた。いくら拳銃とは言え、銃は銃だ。撃たれれば死ぬだろう。 「あんた……どうしてここにいるの」 「ハクトを探しに来たのさ。友達だからね」 「じゃあ、どうして……ただの人間である、あんたが」 喉が渇いて痛い。だが、これだけは聞いておかなければならない気がした。 「こっちの言葉を、知ってるのよ」 トウヤは低く笑った。陽は沈み、山際の空は紫から橙へと変わりながらわずかに光る。 「知らない方がいいと思うよ」 「……冥途のみやげには、いいと思うんだけど」 「ははっ、いい覚悟だ。君はなかなか賢い子だね」 彼は痩せている、というより、やつれている。その顔はどこかオースンにも似ていた。ティナは唇を噛む。それから舌に前歯を当て、噛み切れないことを確認するように、二、三度力を加える。 間近で見る彼の額には脂汗が浮いていた。肩を抱く彼の手に目をやると、手の甲に白い包帯が巻かれているのが見える。 「色々と、君を慕う男に邪魔をされたものでね。どうなることかと思ったけど、君に会えて本当によかったよ」 何を言っているのか理解できないといった表情で、ティナは小さく首を振った。 「フェルティナダ・リチカート。去年、コウランゲートの崖崩れに巻き込まれた死者だね。家は中央区、フィデルウィッカ市」 「え……?」 ティナは目をしばたく。確かにそれは事実だ。ティナの故郷は中央区、議城の街フィデルウィッカ。城のある中心部は賑やかだが、郊外は閑静な住宅地になる。ティナの家はその住宅地で、両親と二人の兄が一緒だった。 「あれ、間違ってた?」 ティナはあわてて首を横に振る。しかしハクトはティナのことなど知らなかった。その友人であるトウヤも、条件は同じだろう。一年も前の事件のことを、そう克明に覚えているはずもない。ティナは疑わしげに眉をひそめた。 「どうして……」 「不思議に思うことはない。ぜんぶ新聞で発表されたことだよ。それにしても、どうやって生き残ったんだい?」 「し、知らないわ。足元が崩れて、霧に巻かれて、だから息を止めてやみくもに走って、気がついたらこっちにいたのよ」 「それはすごいね。ハクトが同じ目に遭ったら、きっと死んでいたよ」 押しつけられた銃口と、それを握るトウヤのあいだで視線をさまよわせる。夕陽の残滓は今や消え、トウヤの黒髪は夜の闇に溶け込むようだった。 ふと、彼はティナの顔から視線を逸らし、背後を振り返った。厚い布地の靴が、静かに土を踏む音がする。その足音をかき消すように、金属どうしがぶつかり合う音が聞こえた。トウヤの視線を追ったティナの目に、背の高い人影が映る。林を渡る風が、闖入者の長い髪を揺らした。なま暖かい風には草の匂いが混じる。 「そこで何をしている」 男の声を聞いて、ティナは目をしばたいた。道は林の中で大きく湾曲する。その西側、大通りへ続く道に立っていたのは、リズの家に行ったはずのオースンだった。しかしいつもの陽気な調子は陰をひそめ、その目は獲物を見つけた狩人のように鋭い。ティナは顔に警戒の色を浮かべ、身を縮めた。 「いえね、ちょっとした交際の申し込みを」 軽口を叩くトウヤの腕は、緩む気配がない。 ティナの、決して好意的とは言えない表情に文句を言うでもなく、オースンはまっすぐ二人のもとに歩いてくる。数歩の距離はあまりにも短かった。トウヤは動かない。銃を手で払い、トウヤから引きはがすようにして、オースンはティナの胸ぐらを掴む。 「こんな乳臭い子供の、どこがいいんだ?」 「い、痛いよ」 その声には耳も貸さず、オースンはティナを地面に叩きつけた。土の上に仰向けに転がった彼女の腹を踏みつける。男ひとりの体重をかけられて、ティナの喉に吐き気がこみ上げる。 「なん、で……」 「愛すべきティナのために、教えてさしあげようか」 脇腹を蹴り上げられ、ティナは身を丸める。踏み固められた土の上に、涙がじわりと広がった。オースンの攻撃は止まない。 「レイジ・オースンは、ティナ・リチカートを監視するためにこの街にやって来た」 「え?」 上げた顔に蹴りが入る。そのまま、踵で頬を踏みにじられた。声音ひとつ変えることなく、オースンは淡々と続ける。 「ほんとうは殺してあげたかったんだよ、この僕の手でね。でも偉いさんが駄目だって言うんだ。事なかれ主義のあんな連中には、いい仕事はできまいよ……まあ、おかげであの馬鹿な年増と、新鮮な時を過ごせたわけだけどね」 トウヤが左手を伸ばし、ティナとオースンを引きはがすような仕草をする。 「なにを考えてるんだ。やる気か」 訛りこそあるが、ティナのそれとも遜色ないラサ語だ。 「元はと言えばお前のせいだろう、アガトゥス。役立たずもここまで来れば爽快だ。なあに、全部お前の独断だったことにして報告してやるよ。お前の首と一緒にさ」 ティナの苦悶の声には耳も貸さず、オースンは口角を上げる。足にかかる力は緩まない。やがて靴は頬を離れ、土の上に広がったティナの金髪を踏みつける。 「ありがとう、ティナ。君を見ている間、ずっとこうしてみたくて仕方がなかったんだ。愛していると言ってもいい。こんな男に、君を連れて行かせやしないよ」 オースンの足を払いのけようと試みるが、ティナの力では動かすこともできない。髪の先を踏まれているせいで、顔を上げることすらできなかった。白茶けた地面が視界の半分を覆う。残りの半分は暗い林と、二組の靴と脚だ。痛みよりも混乱からか、ティナは身を強ばらせる。 「あんたたち、知り合いなの……?」 ようやく絞り出せたのはそんな言葉だった。「ただの同胞だ」という答えはトウヤから返ってくる。「知る必要はないよ」というのはオースンの返事だ。 「いいじゃない、殺す前に教えてよ……わけわかんないよ、全然わかんない!」 何度も叫んでいるうちにすっかり発音の良くなったその言葉を、久しぶりに口にする。 「い、今さら」勢いのままに言葉をつむぐ。「ちょっとやそっと痛いくらいのことじゃ、ティナは死なない。教えてくれるまで、死んであげないんだから!」 オースンは物憂げにため息をつき、ティナの髪から足を引いた。痛む右頬を押さえながら、ティナはゆっくりと身を起こす。 「ことは簡単だ」 うつむくティナの頭上から、トウヤの声がする。不審者を前にした番犬のような、余裕を感じさせない、剣呑な調子だった。 「見当はずれの研究を邪魔しに来るほど、そいつは暇じゃない」 その意味を、しばらく考えてしまった。 やがて結論らしきものに行き当たったとき、ティナは思わず口元を押さえた。 「霧で隔てられた都は、かつて一つだった……本当に」 「まあ、そんなところかな」 シア以外の口からその事実を肯定されたのは初めてだったのだろう。ティナは力の抜けた笑みを浮かべる。 「本当、なんだ」 その言葉はオースンに聞きとがめられることもなく、ティナの口の中で反芻されていった。彼女の口元がわずかにほころぶ。必死に笑いをこらえるようで、それでいて眉は困ったように寄せたまま、ティナは再び「本当なんだ」と繰り返した。 「嬉しそうだな」 「そんなこと、ない。……じゃあ、あんたたちも霧の研究をしてるの?」 「まあ、そんなところかな」 その返事を聞いた瞬間、ティナは弾かれたようにトウヤにすがりつき、上着の裾を掴む。銃口を向けられたが、それに頓着する気配も見せなかった。 「じゃあ、あんたは……まさか、霧を越える方法を知ってるの?」 トウヤは「いかにも」とうなずいた。 「それで、ハクトを探してたの? ヴァナに連れ戻すために?」 次の問いには、否定の手振りが返ってきた。 「そうできたら良かったんだけどね。あいつがいなけりゃ、そうするつもりだった」 オースンは鼻を鳴らすと、無造作にティナの横っ腹に蹴りを入れた。転がったティナを鞠のように蹴飛ばすと、先刻トウヤが手にしていたのと似た銃を取り出す。とっさに数歩飛びすさったトウヤの胸に、その銃口を向けた。 「だがそれは、場合によっては死罪にも値する重大な規定違反だ」 「まあね。知っててやったわけだけど」 トウヤほど銃に慣れていないのだろう。オースンはまっすぐに腕を伸ばし、片手で銃を支えている。遊んでいる左手をちらりと見て、ティナは小さく肩をすくめた。ゆっくりと身を起こし、数歩先に立つトウヤに尋ねる。彼が手にする銃はオースンに向けられていた。 「じゃあ、あんたも死ぬの、ビットクラーヤ」 「悪いかい? 人はいずれ死ぬ生き物だよ」 トウヤは唇に笑みを乗せた。オースンの表情が険しくなる。 「都は永遠に生きられるかもしれないけどね」 ティナはぐっと眉根を寄せた。夜のとばりの中で、その表情はトウヤに見えてはいないようだった。いつの間にか陽光のなごりも消え、林の上にわずかにのぞく南の空の虹柱も、暗い紺色の中に沈んでいる。 ティナは小さく息をつく。いつの間にか手のふるえは止まっていた。 「いい心がけだ」 オースンの笑い声がした。彼の横顔を見上げると、空いた方の手で肩をそっと抱き寄せられた。ほんの一瞬前まで彼女を足蹴にしていたとは思えない、丁寧な仕草だ。ティナはわずかに目を伏せ、その手に視線を落とす。鼻腔をくすぐるつんとする匂いは、いつも彼がまとっている香料のものだ。銃の狙いはトウヤから離れ、ティナの首筋に突きつけられた。刃物じゃないんだから、と口の中だけでつぶやく。少しだけ緊張がほぐれた。 「何のつもりよ」 「思い出したよ、馬鹿にかまけている時間はないんだ。この間の大逆流は実にひどかった。僕のような優秀な人材は、今は引く手あまたなんだ。ねえティナ、腰の赤い袋を開けてごらん」 彼の腰に組み紐で吊られた巾着を、おそるおそる開ける。中から出てきたのは小さな歯車だった。ああ、とティナは小さく声を上げた。シアの家から盗まれたものだ。 「あの泥棒、あんただったの」 「その前のもね。我ながらいい手際だった」 「あんたは、一体――」 肩に回した手の人差し指を伸ばし、オースンはティナの頬を軽くつついた。彼の顔に貼り付く笑顔は仮面のようだ。鋭い視線だけは隠せない。 「さあ、せっかくの人質がいるうちに、できることは全部やっておかなくちゃ。シア・ベリーを殺す前に、あの鬱陶しいハクト・グレイダームだね……それとも自分でやるかい、アガトゥス?」 肩に回っていた手がティナの顎を持ち上げた。おかげでトウヤの反応はよく見えない。オースンは左腕でティナの首を抱え込み、右手に銃を持って立ち上がる。喉を締め上げられるかたちになって、思わずティナはうめいた。細身に見えてもしょせんは男、その膂力は十分だ。 「そうかい、じゃあそうやって、またリズの家にでも隠れておいで。墓はお友達と一緒がいいかい?」 足がつくかつかないかという状態のまま、ティナは数歩引きずられる。曲がり角の向こうから話し声がするのに気付いたのはその時だった。その声は蹄と車輪の音を伴って、まっすぐ近づいてくる。 一人は少年。そしてそれとは別に、男女の声が聞こえる。 それが誰なのか理解した瞬間、ティナは「だめ!」と叫んでいた。 馬車の上で、ハクトが目を丸くしている。 |
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