花籠の囚人
-3 虹下放吟-


虹下放吟 :3
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 眠る男を前にして、ハクトとシアはしばし無言だった。
 先に沈黙を破ったのはシアだ。
「追いかける、ない、の?」
「分かりません」
 ティナは何を言っているのだろう。どうして怒っているのだろう。追いかけてもいいのだろうか。かえって怒らせてしまうだろうか。
「難しえ、い、ね」
「そうですね。難しいです」
 言葉が通じるならば、シアに相談したかった。どうすればいいんだ。今の、このことだけではない。これまで何をすべきだったのだろうか。これから何をすべきなのだろうか。
 ラサとヴァナの言葉は、まったく違うわけではないが、すんなり通じるほど似てもいない。シアの話が本当なら、霧の向こうには他にもいろいろな都があって、きっと少しずつ違う言葉を話しているのだろう。
 一度は男に落とした視線を上げる。ティナもこうしてハクトを見ていたのだろうか。何を知っているのか、起きたら何を聞こうか、と考えながら。シアはハクトの視線を受け止めて、困ったように微笑んだ。敵意はない、怒っていないよと示すように。
「シア」
 言葉がつたないのはお互いさまだ。よく耳をすませれば話せるはず、というティナの言葉を思い出す。相手は同じ人間だ。たぶん。やってやれないことはない。
「ティナは、最初、どうやって話しましたか」
「……黙っていタ、よ」
 つたないラサ語の質問に、シアはヴァナの言葉で答えた。二人は顔を見合わせて苦笑いする。シアは改めて、ゆっくりと自前の言葉で話し始めた。
「ティナは口を利かなかった。話してくれるまで、半月かかったんだ」
「どうして?」
 推測であることを断った上で、シアはぽつりぽつりと話し始める。
「たぶん、分からなかったから。ハクトには、ティナが言葉を教えた。ティナに向こうの言葉で教えてくれる人は、いなかった。私にも、ハクトの言葉は分からない」
 できるだけ簡単な言葉を選んでくれているのだろう。聞いたことのある単語が多い。そういえば、とハクトは振り返る。ティナの訳語とつき合わせたからこちらの言葉も少しは分かるが、いきなりこちらの言葉だけで話しかけられていたら、未だに会話などできなかっただろう。
「ティナはたぶん、自分がどこにいるかも分からなかった。怖かったと思う。色々あったと思う。私には、話してくれないけど」
 だから、とシアは首を傾げた。髪が肩から束になって落ちる。なめらかとは言い難い髪質だ。
「ハクトはたぶん幸せなんだよ。私が言っちゃいけない、かもしれないけど。最悪の中では、いちばんましなところにいると思うんだ」
 最悪の中のいちばん上。その表現は、三度言い直させてなんとか聞き取った。なるほど、そんな考え方もあるだろう。
「だからハクト、ティナを大切にしてあげて。私はずっと一緒にいるけど、でも駄目だよ。私じゃ足りない。霧の向こうの人でないと駄目なんだ。ハクトにも、ティナは大切、でしょ?」
 足りない、といくつかの表現で、身振り手振りまで交えて伝えようとするシア。ハクトも理解につとめる。それでも、二人の間に苛立ちが芽生えることは抑えられない。
「そう、ですね」
 ハクトが答えたのは、納得したがゆえか、それとも対話をあきらめたゆえか。自分でも判断しかねた。おそらくはその両方だ。
 日は暮れようとしている。窓から差し込む光は赤に近い橙色に染まった。太陽は霧の中にその身をなかば沈めている。やがて地平線に至るまで、もうそれほどの時間はないだろう。ティナはどこまで行ってしまったのだろう、とハクトは考える。双子の家か、それとも食堂か、はたまた裏庭に積まれた薪のところか。
 玄関の呼び鈴が鳴った。そのかすかな音を聞きつけて、シアが立ち上がる。しばらくして戻ってきたシアは、双子の姉、ミキの方を連れていた。いつも通りの青い服に、妹とは対照的なおどおどした仕草。見間違えるはずもない。
「ごめんね。メグが、面白いものがあるって言うから」
「面白いかなあ」
 首をひねるシアをよそに、ミキは中年男のもとに駆けより、楽しそうに観察を始めた。何が楽しいのか、時折くすくすと笑みを漏らす。一通り男の所持品や風体をあらためると、満足したのか男のそばを離れた。
「こんな大きい男の人を、けがもさせずに気絶させるなんて、何者かな。不思議ね」
 妹と違い、彼を落とし物呼ばわりはしない。ティナの通訳がないのでミキの言葉はあまり聞き取れなかったが、必死になって聞くほどの言葉でもないだろうと思われた。そんなハクトの様子に気付いたのか、ミキはハクトのそばにやって来て袖を引く。
「こんにちは、ハクト」
 ヴァナ語だった。しかも、シアのそれより発音がいい。面食らいながらも「こんにちは」と返すと、ミキは口元に手をやり、ほっとしたように笑う。
「ティナは?」
「ハクトと喧嘩して、飛び出して行っちゃった」
 あきれたような口振りでシアが答える。ミキは残念そうに口を曲げ、それからハクトの方へ向き直った。
「じゃあ、ハクトでいい。霧の向こうのこと、もっと教えて」
 驚くほど流暢だった。子供だけに吸収が早いのだろうか。シアの方も驚いているようだった。
「ヴァナの言葉、上手ですね」
「ティナと遊んでるときに、覚えたの。わたしがティナに、ひとつ言葉を教えたら、ティナはわたしに、ひとつ言葉を教える。メグはみんな忘れた、みたいだけど、わたしは紙に書いて、覚えたの。ティナの代わりに、ハクトの言葉を、伝えてもいいよ」
 胸を張るミキ。そういえばティナとは年齢も近い。ロカの街に子供がどのくらいいるのかは知らなかったが、すぐ近所に住むティナと双子は、一緒に遊ぶにはいいだろう。
「ミキはよく勉強するんですね。偉いです」
 ハクトがかがんでミキの頭を撫でると、ミキははにかみ、それからそっと視線を逸らした。ちらりとハクトの顔を見上げ、言いにくそうに「ハクト」とつぶやく。
「ティナには秘密、の話をしてもいい? ティナに言わない?」
「はい。なんですか」
 ミキは、口元に近づかなければ聞こえないほどの声で喋り始めた。もしこれがこちら側の言葉なら、ハクトにはお手上げだったことだろう。
「メグは、ティナを信じた。わたしは、信じ、なかった。ティナの言うこと、嘘だと思った。だからわたし、いじわるしようと思って、ティナに色んな言葉を聞いたの。同じ言葉を、ティナが忘れたころにまた聞いて、違う答えが返ってきたら笑って、やろう、と思った」
 大人しい外見に似合わない告白に、ハクトは思わず目をしばたく。ミキは泣きそうになりながら、それでもハクトの服の裾を握り、なおも喋り続ける。まるで、そうすることで罪が晴れるとでも言うかのようだ。
「でも、ティナは本当に、霧の向こうの人なのね。ハクトにも、この言葉が通じるんだね。わたしは偉くないよ、ひどい子だ。なんにもできないのに、そのうえ、人を信じられないなんて、すごく悪い子だ、よ」
「なんにもできない?」
 ミキは小さくうなずいた。
「わたしはメグみたいに早く走れないし、重い物を持つのも、苦手。野菜を採るときも、いつも若すぎるのを採ってくるし、馬にも嫌われる。おまけに、大きな街の学校に行って、お金ばっかりかかる」
 ハクトは再び、ミキの頭を撫でた。くせのないその髪はひんやりと冷たくて気持ちいい。迫ってくる夜闇にも似た清涼感。
「フェルティ……ティナは、幸せですね」
 ミキがおずおずと顔を上げる。何もせずに放っておいたら、このまま小さくなって消えてしまいそうだ。きっとハクトの視線が、縮こまるミキを溶かしていく。
「こんないい子に、信じてもらえてるんですから」
 ごめんなさい、とミキは頭を下げた。メグのものとは違う、ゆっくりとした仕草だ。頭を下げた拍子に髪が跳ねることもない。
「で、でも、わたしは」
「今は信じてるんでしょう? だったら、いいじゃないですか」
「……うん」
 それから、シアの耳に入るのを避けるように、ハクトに耳打ちした。
「だからわたし、花使いになるの。シアみたいに、花を使って、お金をもらって、お金と花を使って、調べることをするの。それでいつか、霧の向こうに行くんだ」
 ハクトは、そっと若い花術士の肩を叩いた。
「紺碧の都ヴァナは、いいところですよ」
「ティナもそう言ってた」
 二人は笑みを交わし、それからハクトはミキに「すみません」と声をかける。
「ヴァナ語を書いた帳面、見せていただいてもいいですか。こちらの文字も覚えたいんです」
「うん。そういうことなら、すぐ持ってくる」
 シアに「すぐ戻るね」と手を振って、ミキは部屋を出ていく。ハクトは小さく肩をすくめた。
「フェルティナダには、あとでよく謝らないといけませんね」
 寝台の上の中年男がうめき声と共に目を開けたのは、ハクトがそうつぶやいた、まさにその瞬間のことだった。

「起きた?」
 シアの声に、中年男は「ああ」と肯定の声を上げる。それから自分の顔をのぞき込んでいる人間の顔を認め、ぎょっとしたように身を逸らした。
「お嬢さん! 自分は、どうしてここに」
「覚えてないの? うちの畑で倒れてたんだよ」
 さあ、と男は首をひねる。
「自分には、何がなにやら」
「そう。ところで、あなた誰? 私のことを知ってるの?」
 歯切れのいい会話は断片的にしか聞き取れないが、単語をつなぎ合わせれば概要は分かる。ハクトは今更ながら、ミキを帰したことを後悔していた。ティナのところに行くまで、通訳をしてもらえばよかった。
「自分は……ドム・ノッジと申しまさあ。それ以上のことは、ちいと勘弁してくだせえや」
「嫌だ」
 ハクトはまばたきした。腕組みをしてそう答えたシアの声音に、人を使い慣れている響きを感じる。今まで気付かなかったが、もしかするとシアも中流以上の家の出なのかもしれない。よく考えれば、いくら花術士と言っても、十七歳の少女がそう簡単に二人の人間を養えるとは思えない。彼女の部屋には親からの手紙もあったから、いくばくかの援助を受けている可能性はある。
「し、しかし」
「じゃあ、あなたのことはいい。どうして倒れてたのかってことと、どうしてうちの畑にいたのかってことを教えて」
「はあ」
 寝台から身を起こし、頭を揉むようにしながらノッジは口を開いた。額に落ちた油っぽい髪が、指を動かすたびにうるさく揺れる。
 そして、その姿勢のまましばし沈黙した。
「すんません、お嬢さん」
 シアが口を開こうとしたその瞬間、彼は口早に訴える。
「とんと記憶にごぜえませんで」
「本当に?」
「それはもう、掛け値なしの事実でさあ。怪しい野郎を見つけたんで、ちょいと問いつめてやろうと畑を突っ切っているうちに、ふっ、と気が遠くなって」
 ばたん、と擬音を口でつくりながら、ノッジは寝台に身を沈めた。
「怪しい男っていうのは?」
 ノッジは億劫そうに体を起こしながら、「さて」とつぶやく。シアの方に目をやって、その厳しい視線に押し負けるように視線を逸らした。しかしながらその先にはハクトがいて、ノッジは小さなため息をつく。
「お嬢さんも聞いたでしょう、あのけったいな音。お嬢さんの家の前で、その野郎が何かした途端に、あの音と共に窓が、ばりいん! と割れたってな次第でさあ」
 擬音や大げさな身振り手振りを交えて喋ってくれるおかげで、言いたいことはハクトにも理解できた。シアやティナもこれくらい分かりやすく喋ってくれればいいのに、などと詮無いことを思う。発砲したのは、どうやらノッジではないらしい。
「その男、どんな風体だったか覚えてる?」
「さあ、ずいぶんと距離もあったもんで。黒い髪を、こう編んで背中に垂らしてたのは覚えてまさあ。服は地味なもんでしたよ」
 シアが困ったようにハクトを見た。目で救難信号を送っているかのようだ。当惑しきった表情のまま、シアは尋ねる。
「ハクト、友達の髪は」
「黒です」
 ノッジの言葉はシアのそれに比べて歯切れが悪かったが、黒い髪という言葉は嫌というほどはっきり聞き取れた。こんな時にばかり、とハクトは歯噛みする。黒髪の男などどこにでもいる。頭のどこかがそう訴えるが、しかしそんな直感だけでは、記章の存在を無視するまでには至らない。感覚が麻痺してしまったのか、少々の矛盾ではハクトの信念に傷をつけることはできない。
「ありがとう。気絶したときのこと、もう少し教えてくれる?」
 了解はしたものの、ノッジはしばらく考え込んでいる。くせなのだろうか、鼻の横を掻きながら顔をしかめた。やがて、不本意そうな表情を浮かべて口を開く。
「ありゃあ、狐狸にでも化かされたんじゃねえかと思うんですが」
 やがて吐き出されたのは、そんな一言だった。首をひねるハクトに、シアが「お化けに、だまされた」と補足する。
「野郎はね、確かにこっちを向いたんでさあ。それから、野郎はこう手を出して、えいっとばかりに気合いを入れて」ノッジは右の拳を正面に突き出し、えいやっ、と叫ぶ。「そうしたら、白い煙みたいなもんがふわーっと漂ってきましてね。ありゃあ、近くで見たことはないんですが、果ての霧に似てまさあ。それを吸った途端に、こう、ばたん! と」
 今度は手だけで、軽く寝台を叩いてみせる。シアは再び腕を組み、難しい顔で何やら思案しているようだった。
「やっぱり、霧か……ハクト、霧は、近くで見ても、白い?」
「さあ……」
 首をひねる。いくら思い出そうとしても、霧がどんな風に見えたかという記憶は掘り当てられない。ハクトが覚えているのは、鼻腔から肺までを満たす湿った重苦しさだけだ。
「ところであなた、出身は?」
「西の方でさあ。それがどうかしましたかい」
「西か……依頼人は?」
 は、と声を上げるノッジの前に、ティナはずいと顔を突き出す。鼻息がかかりそうな距離から、「誰に頼まれたの?」と再び尋ねた。
「自分には、何のことやら、さっぱり」
「あなた、もし探偵なら転職を考えたほうがいいよ。じゃあ、『はい』か『いいえ』のどっちかで答えてよ。それくらいなら言えるでしょ? 言えるよね?」
 シアはたもとから草の実を出して、わざとらしく前歯で噛みちぎった。そのまま息を吹きかけると、ノッジは涙ぐみながら咳き込み、その息から逃れようと身を引く。勢い余って宙に手をつき、寝台から落ちて上掛けを跳ね上げ、派手にひっくり返った。
「くさい? 慣れるとやみつきになるよ。……で、本題。あなた、エリン・ベリーに頼まれて来たの?」
 ノッジは「お答えはできませんや」と首を振った。シアは鼻息を鳴らすとノッジに近寄る。彼が起きあがる前に、その頬に触れるかどうかという位置に靴底を叩きつけた。床板を叩く音からするに、顔を踏まれたらさぞかし痛いだろう。鼻の骨くらいは折れるかもしれない。シアは息を吸った。
「『はい』か『いいえ』で答えろって言っただろ!」
 ハクトの背筋が寒くなる。
 刃物のような迫力はすぐに引っ込み、代わりにシアの顔にはつまらなそうな表情が浮かんだ。
「お母様に頼まれて来たって言うんなら、何の問題もないよ。シアは健康にやってますって、適当に伝えておいてちょうだい。でも私、隠れてこそこそ動く人って大嫌いなんだよね」
「し、しかしお嬢さん、あんな野郎がうろついてるような街に、お一人ではあまりにも」
「あれは例外中の例外。すぐに片づく。それに一人じゃない、三人だよ」
 草の実の匂いを吹きかけながら、シアは静かにささやいた。男にしてみれば笑い事ではないのだろうが、その仕草はどことなく商売女を思わせる。もっともあの匂いは、葉巻の匂いよりはずっと強烈なのだろう。
「分かったら――」
 シアが再び息を吸ったそのとき、玄関で呼び鈴が鳴る。「入りまあす」という声はミキのものだ。それを聞くなりシアは肩をすくめ、二、三歩男から離れる。
「ハクト、ほかの人には、ナいショよ」
「は、はい!」
 ご先祖さま、ごめんなさい。ハクトは天井を仰いだ。これはなにか、日頃の行いの悪さに対してばちが当たったに違いない。ほんの数歩先には鬼神が立っている。ヴァナに帰ったらお参りに行きますから許してください。そんなハクトの心の声を知ってか知らずか、ミキが「持ってきたよ」と弾んだ声を上げた。おそらく、一番ほっとしているのはノッジだろう。次点は間違いなくハクトだ。
「はい。大切に、読んでね」
 帳面のつくりはヴァナで見るものと大差ない。紐のかがり方が少し違うくらいのものだ。そこに、細い筆で書かれた丁寧な字が並んでいる。真ん中に線を引いて、上がラサの言葉、下がヴァナの言葉。常用文字に、ときおり役人文字で読みが振ってある。そのあたりの使い方は故郷と変わらないらしい。言葉を交わすより筆談の方が早いのではないかという気もしたが、しかし読んでみても意味は半分も分からなかった。
「ミキ! これ、すごいよ!」
 横からのぞきこんだシアが目を丸くする。おねがい、写させて、とミキに頭を下げ始めた。ミキの方はといえば、シアの息に残る草の匂いに涙を浮かべている。
「すごく分かりやすい。そうか、こうやって紙にまとめればいいのか……」
「ま、まとまってないよ。日付の順番に書いてあるだけだもん。ほら、ここ」
 ミキが指さした先には、たしかに日付が入っていた。月の名前も散見される。全体に使われている書体はあまりなじみのないものだが、読めないほどではない。
「何を喋ってるんですかい?」
 ノッジの声に、シアは首だけを動かして振り返る。中空にふっと息を吐き出しながら、「秘密だよ」と短く答えた。
「そう、けちくさいことを言いなさんな」
「だったら、お金払ってくれる? 言っておくけど、高いよ」
 そのままノッジは無言になり、寝台の上に再び寝転がった。顔をしかめてこめかみの辺りを押さえている。本調子ではないのだろう。倒れた原因がなんであろうと、先刻のシアの形相を目の当たりにしては、動けるものも動けなくなるに違いない。
「そうだ、シア」
 ミキが呼んでも、シアは帳面から顔を上げない。紙が破れそうな勢いで頁をめくりながら、「なるほど」やら「間違ってる」やらとつぶやいているばかりだ。ミキは「もういい」とことわって、ハクトの上着の裾を引いた。
「ハクト、あのね。ティナはリズと、一緒。さっき、兄が見たの」
「リズと? どうして」
「きっと、ティナがリズと会ったんだよ。リズは、子供とごはんを食べるのが、好きなの。ごはんを食べてから、街の食堂に来る、と思う」
 それから、ミキは声をひそめた。
「兄が言ってた。ティナは泣いていた、って」
 シアの方を見る。広げられた帳面には「一月朔日」の文字。三月近く前だ。
「ひとりぼっち……」
 突然聞こえたその声に、ハクトは唾を飲み込んだ。シアの視線をたどると、そこには確かに役人文字で「ひとりぼっち」の音が綴ってあった。真上にあるのが、ラサで同じ意味を示す言葉なのだろう。
「ティナは、いつからここにいるんですか」
「ええと……去年の夏、たぶん」
 やけに喉が渇く。理解する者のいない寂寥の念は、どんな思いで吐き出されたのだろうか。半年のあいだ、少女の中で反響していたのだろうか。地面が揺れるような錯覚があった。落ち着け、と自分に言い聞かせる。勝手な想像だ。ティナだって、そんな安易な同情は望んでやいない。同情? ならばこの思いはハクトの中にも生まれているのか。
「シア」
 いても立ってもいられなくなって、ハクトはシアの腕を掴んだ。研究を邪魔された彼女は眉をひそめたが、ハクトの顔を見て姿勢を正す。
「ティナを、迎えに、行きます」
「わ……分かっタ。私も、行く」
 張り子の人形のようにくり返しうなずいて、シアはノッジとミキに視線を向けた。寝台の上のノッジは動く気配がない。まるで精気を吸い取られてしまったようだ。ただでさえ尽きかけていた精気が、シアにすべて散らされてしまったようにも見える。
「ミキ、悪いんだけど、すこしお留守番しておいてもらえない?」
「ティナが戻るまでだね。いいよ。わたしの家族に会ったら、わたしはシアの家にいるって伝えておいて」
 そう答えて、了解の意味で指を立ててから、ミキは思い出したようにノッジの方を見た。
「あの人は?」
「放っておいていいわ。帰るようなら帰してあげて。どうせ逃げたところで、今夜はこのあたりに泊まるんだろうし」
 シアの視線から逃れるように、ノッジはシアに背を向けて身を丸めてしまった。ごていねいに掛け布団を引き上げ、頭まですっぽり覆う。すねた子供のようだ。この様子なら、ミキと二人にしておいたところで問題はないだろう。
「よろしくね」
「任せて!」
 あこがれの花術士に大役を任された喜びなのか、ミキの声は華やいでいる。
 ノッジは布団からほんの少し顔を出して、顔のわりに小さな目を細めた。


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