花籠の囚人
-3 虹下放吟-


虹下放吟 :1
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 シアにとって、本業は農作業ではなく研究らしい。向かいに座ったシアの顔をちらりと見上げると、彼女は真剣な顔でハクトの手元を見つめていた。机上に広げた大きな紙に、ハクトは地図を描いていく。請われるままに西区や都の全図を描くのだが、記憶はあやしいものだ。シアは以前ティナが描いたという地図を持っているのだが、頼んでも見せてくれない。先入観なしで描けと言われても、ハクトには大まかな街の位置と、湾の形と川の流れくらいしか分からない。
 ティナの叫び声が聞こえたのは、ハクトが紙の上で筆をさまよわせている時だった。
「危ない!」
 声にわずかに先行して、耳をつんざくような爆発音と共に居間の窓硝子が割れた。格子の一画分、すっぽりと硝子が抜け落ちる。ほぼ同時に、奥の壁に吊してあった工芸品の人形が砕けた。空気を切る、鞭をふるう時に似た音が鼓膜を叩く。目の前で、シアが小さな悲鳴と共に頭を引っ込めた。
「シア!」
 椅子から腰を浮かせる。シアは耳を塞ぎ、目を閉じて背を丸めていた。怪我をした様子はない。ティナがシアに駆け寄り、「だいじょうぶ?」と声をかけた。
「私は平気だけど、何なの、今の音? 爆発かなにか?」
「銃……みたいでしたが」
 ティナがためしにヴァナの言葉で「銃」と言ってみるが、シアはきょとんとしている。ティナが遠回しな説明を始めた。いつも分からない言葉はこうして伝えているのだろう。
「持ち手のついた筒があって、そこから火薬を使って、すごい勢いで小さな弾を発射する武器よ。狩りの時なんかに使うの。知らない?」
「さあ、狩りの時にはふつう、罠や弓矢を使うから……」
 ハクトは壁に近寄る。人形の腰から下を砕いた何かは、壁にめり込んで亀裂をつくっていた。銃の使用目的として真っ先に狩りを挙げるあたりに、ティナとの間の階層差を感じる。銃は人を脅す時に使うものだとばかり思っていた。おそらくヴァナに住んでいたら、彼女とは言葉を交わす機会もなかっただろう。
「シア、何か細長くて硬い物はありませんか」
 少し考えてから、シアは「箸」と答えた。それでいいか、とハクトはティナに箸を取ってくるよう頼む。ティナが持ってきた箸の先で、少しずつ壁の穴を押し広げていった。しばらくそうしているうちに、ハクトの手の中に小さな塊がこぼれ落ちる。
「銃弾ですね」
「間違いないと思うわ……でも、これ」
 それを見たティナの表情が硬くなる。ハクトの額の硬度鏡を指さし、ティナは命じた。
「ハクシャダイト、それで見てみて」
 首をかしげながら硬度鏡を下げ、手の中の銃弾を見る。ハクトの手を示すぼんやりとした光から浮かび上がるように、まぶしいほど明るい光が見えた。硬木だ。
「硬木よね?」
「はい」
 ハクトの手が震える。ただならぬ二人の様子に気付いたのか、シアがゆっくりと近寄ってきた。その顔には、まだ恐怖心が見てとれる。
「どうしたの?」
「硬木なのよ」
 ティナが短く答えた。
「こっちの人は、硬木なんか使わないんでしょう? これ、木でできてる。銃弾を普通の木で作ったらきっと焼けこげるわ。ラサの人なら、金属で作るはずよ」
 それじゃあ、とシアは口元に手をやる。ゆっくりと振り返った。視線の先には、一角を切り取られた窓がある。
「これはヴァナ人がやったってこと?」
「そういうことになるわね」
 窓の穴からは傾いた太陽の光が差し込んでくる。橙色に染まった部屋の中で、三人は言うべき言葉を見つけられずにしばし立ちつくしていた。

「あ、良かった、生きてる!」
 いつの間にか廊下に立っていた少女の声を合図に、ハクト達の時間が再び動き始める。いつも通りの赤い服を着た、これは双子の妹のメグだ。ティナが「どうしたの?」と声をかけ、ハクトは銃弾をふところにしまう。シアは割れた硝子を片づけ始めた。
「母さんが、変な音が聞こえたから見てらっしゃい、って」
「気にしないで。ちょっと花術に失敗しただけだから」
「やっぱりシアのせいなんだ。分かった、母さんに言いつけてくる!」
「音は大きいけど、本当に大したことじゃないのよ。馬を驚かせたんなら謝るわ」
 メグは「合点承知!」と言い残して走っていった。いつもながら小回りの利く娘だ。ティナの例えではないが、メグが姉の分まで動いているような気がする。足して二で割れば、ちょうど一人前だ。
「そうだ、シア」
 玄関を出ていったはずのメグが、すぐさま引き返してくる。ハクトは一度は取り出した銃弾を再びたもとに押し込んだ。
「これ拾ったの。落とし物じゃない?」
 彼女は上がりかまちのすぐ向こうに立っている。こちらに伸ばされたメグのてのひらの上には、小さな金属片が乗せられていた。玄関に出ていこうとするシアについて行く。一拍遅れて、面倒くさそうにティナが顔を出した。
 その正体に思い当たった瞬間、ハクトはメグの名を叫んでいた。シアを押しのける勢いでメグの元へ駆け寄る。ほんの数歩の距離が長く感じられた。怒られるのかと、メグが体をこわばらせる。ハクトはそんな彼女をかかえ上げ、きつく抱きしめた。
「ありがとう!」
 慣れないラサ語は、きちんとメグに伝わっただろうか。ずっと抱いていたせいで、彼女の表情を確かめることはできなかった。腕をゆるめると、メグは戸惑いの色を浮かべながら金属片を差し出す。ハクトはそれをそっとつまみ上げた。そうしなければ砕けてしまうとでも言わんばかりに。メグは一つ頭を下げて、「じゃあ、わたしはこれで」と踵を返す。去っていくメグに、ハクトは目礼した。
 金属片は、長方形の角がひとつ取れたような台形をしている。そこに刻まれているのは文字だ。裏には、それが布地に取り付けられていたことを示すごく短い針。その針を受ける皿はなかったが、これは確かに記章だ。
「ジュレスバンカート市立技師学校、機械科」
 表面に刻まれた文字は、よく見慣れたものだ。これと同じ物が三年間も自分の服の襟についていたのだから間違いない。ハクトは文字を辿る。最後に刻まれているのは、記章の持ち主の名だ。頭文字だけだが、間違えるはずもない。
「ビットクラーヤ・アガトゥス」
 愛称である、トウヤ・アガトゥスの名の方が耳慣れている。だから頭文字が違うことに一瞬戸惑ったが、記章の名が本名で表記されることを思い出した。ハクトの場合は頭文字が変わらないから、普段は気にも留めなかった。
「……トウヤ」
 すべての状況が、記章の持ち主がトウヤ、すなわちハクトの相棒であることを示している。相棒であり、親友であり、そしてずっとその身を案じ続けてきた相手だ。
「生きてるのか」
「ハクシャダイト、落ち着いて」
 ティナの鋭い声が思考をさえぎった。切れ味のいい包丁のような声が、ハクトの頭の中にあるふわふわしたものを切り裂いていく。
「ビットクラーヤはあなたの友人だったわね。彼の記章がここに落ちていて、ここから銃弾が発砲されたっていうんなら、つまり……」
「犯人はトウヤだ、って?」
 その言葉をティナに言われたくはなかった。急いで先回りしたハクトの言葉を、ティナは肯定も否定もせずに受け流す。その声にとがめるような響きを感じて、ハクトは眉根を寄せた。二人の間に流れる剣呑な空気に気付き、シアが会話に耳をすます。彼女を一瞥すると、ハクトは口早に否定の言葉を口にした。もちろんヴァナ語だ。シアに聞かれたくはなかった。
「ですが、撃ってくる理由がありませんよ。鳥が空を飛ぶのと同じくらい」
「でも鳥は空を飛ぶわ。理由だってある。きっと人に食べられないためよ。霧よりも、人のほうが恐ろしかったんだわ」
「そんなのは憶測にすぎません」
「ビットクラーヤがシアを襲わないっていうのも、ハクシャダイトの憶測よ」
 シアを。ティナのその言葉を聞いて、ハクトは額の革帯を押さえる。そうだ。その誰かはハクトを襲ったわけではない。あくまでシアの家に銃弾を撃ち込んだだけだ。そしておそらくその誰かが、トウヤの記章を落としていった。
 記章が落ちていたからといって、トウヤが生きていることにはならない。シアがハクトを拾ったように、その誰かがバティの岸を探り、トウヤの記章を見つけただけかもしれない。しかしそうだとしたら、今度はそれがトウヤの生存を否定することになりかねない。拡大鏡の縁に指を這わせた。冷たい金属の上を、指が自然な円弧を描いて滑る。陶製では細かな部品が噛み合わないし、硬木製では硬度鏡に余計な光が入る。だから硬度鏡の部品には金属が最適だ。
「俺は」しぼり出すように、ハクトはうめいた。「落ち着いてます」
「でも……」
「フェルティナダは、トウヤを犯人にしたいんですか」
「違うわ。撃ってくるくらいだから、お友達じゃなくてほかのヴァナ人なんじゃないか、なんて思ったりもするけど、それもおかしな話よね。ティナが言えるのは、まだ何も言える段階じゃない、ってこと。それから、ビットクラーヤが味方とは限らないってことかしら」
 ハクトの顔から視線をはずし、彼の手中にある記章をにらみながらティナは言う。弁解めいた響きのするその言葉を聞きながら、ハクトはわずかに眉をひそめた。
 ハクトの胸ほどの高さに、うなだれたティナの頭がある。どうしたらいいんだ、とハクトは心の中でひとりごちた。これでは、まるでこちらが悪者だ。シアの目つきが、心なしか非難の色を帯びている気がする。
「ハクト、それ、何?」
 シアがのぞき込んでくる。何とか説明しなければならない。ごまかすのは得策ではない。ティナの視線に追い立てられるようにハクトは口を開いた。
「俺の学校の生徒であることを示す記章です。ここに役人文字で入っているのが名前。俺の友人、トウヤの名前の頭文字です」
「名前が似てる他の人のものじゃなくて?」
 そう言われて目をこらしてみても、見つかるのはシアの仮説を否定する証拠ばかりだ。入学年が記された部分はこすれて傷がついているが、文字は容易に読みとれる。常用文字ではなく音を示す役人文字で書けば、トウヤの名の頭文字は珍しいものになる。名の意味は柊、そこから音を拾った愛称に込めた意味は鏃。植物の名は、男名にするには珍しい。男女比をとれば男のほうがずっと多い技師学校で、同じ頭文字を持つ人間の顔は思いつかない。
 ハクトが首を横に振ると、シアは腕組みをして考え込む。
「あのときバティに流れ着いたものを、全部集められたわけじゃないからね。誰かがこれを拾うことはあるだろうけど……なんでここに落ちてたのか、それが問題だな」
 シアはティナとはまた違う方向に思案を巡らせているようだった。考え事の邪魔をしてはいけないのかと思いながら見ていると、シアは「分からん!」と叫んでハクトの手から記章をもぎ取った。発音の怪しいヴァナの言葉で叫ぶ。
「おまえは、悪い子だ! 出てきタ、良くない! ハクトに謝る、なければならないよ!」
 真剣な表情で叫ぶ仕草がおかしくて、ハクトは思わず吹き出す。ティナも苦笑いしていた。シアはなおも記章を叱りつけている。
「ティナ、怒らないのデスか? これ、きっと、イリーダ奇書だよ!」
「イリーダ奇書?」
 首をかしげたハクトに、ティナがすかさず説明する。
「あるはずのない場所にあるもののこと。イリーダ奇書っていう本があってね、空の星座を書いた本なんだけど、霧の端っこからでも見えないはずの星座が載ってるの。最近こっちではいい望遠鏡ができて、地平線のすぐそばの星を、霧を透かして見ることができるようになったそうなんだけど……」
「そうして初めて見えたはずの星が、その本に載っていた、と?」
 ティナはうなずく。そんな話は故郷にもあったが、しょせんは噂の域を出ない。イリーダ奇書とやらも、実際に目にしたことがある人間がいるのだろうかと疑問に思う。
「そんな気持ち悪いものと一緒にされてるんですか」
「ハクシャダイト」
 記章をにらみつけるティナの声は冷ややかだった。初めて会った時、帰るのは諦めろとハクトに告げた、あの時の顔に似ている。年齢に似つかわしくない顔だった。
「忘れないで。こっちの人たちから見れば、ティナたちはそれ以上に気持ち悪い存在よ」
「わ……分かりますよ。そんなに怖い顔しないでください」
 シアが困り顔で記章をさすっている。汚れは一度拭き取られたあとだった。荒い布で拭いた痕跡が金属片の上に残っている。硬木を扱う以上、身につけるものにはむやみに硬木を使えないから、少々値が張っても記章は金属で作らねばならない。そう乱暴に扱うなと言いかけて、こちらでは金属など大して珍しくもないことを思い出す。
 ほんの一瞬、静寂がするりと家の中に入り込んできた。静寂のほうが、扉のかげでつけ入る隙をうかがっていたかのような頃合いだった。その静寂の正体を確かめようと玄関扉を見て、はじめて扉が開いたままであることに気付いた。
 扉を閉めようと玄関に近づいたハクトの耳に、何かを引きずるような音が聞こえた。物音は家の前を通る道から草の上を通ってくる。何事かと顔を出そうとしたとき、物音の正体が喋った。
「シア、もう一つ拾ったの! もらって!」
 玄関から顔を出し、メグの足元にあるものを見て、ハクトはあんぐりと口を開ける。のんびり歩いてきたシアが、ハクトを突き飛ばしてメグの元に駆け寄った。言うべき言葉を見つけられず、酸欠になった魚のごとく口をぱくぱくさせている。
 さもありなん。
 メグが引きずってきたのは、一人の中年男だった。


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