花籠の囚人
-2 隔岸観花-


隔岸観花 :2
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 ミキの学校はてっきりエンナにあるのかと思っていたら、そこからさらに鉄道馬車で二駅行った所にあるそうだ。バティ川に一番近いのはその反対側、三つ先の駅。ハクトが最初に運び込まれた病院もその街にあった。
 鉄道の上を馬車が走っていくのが珍しく、ハクトは馬から目が離せなかった。バティ沿いのその小さな街に着いたあとも、去っていく馬車を名残惜しそうに眺めている。そんなハクトに、シアが「どうしたの?」と声をかけた。
 ユノはエンナで引き返し、買い物をして帰っていった。夕方の馬車が着く頃には、また迎えに来てくれるそうだ。鉄道馬車の運賃は、一人あたり林檎が二つ買えるくらい。それが高いのか安いのか、ハクトには判断しかねた。
「いえ、ああいう馬車を初めて見たものですから」
「ティナもそう言ってたけど……嘘でしょう? 馬車がないなんておかしいよ」
「でも、発動機で動く車と鉄道がありますから」
 ティナが「訳せない」とハクトの袖を引いた。「ティナも説明しようとしたけど、自分で動く車や鉄道って言っても分かってもらえなかったのよ」
 なるほど、ではどうしよう、と考えているうちに小さな病院に着いた。白い壁の、三階建ての建物で、平らな屋根がわずかに傾斜しながら乗っている。
 待合室に入ると、シアが「できるだけ黙っててね」と声をかけてきた。ティナが小声で通訳する。
「いろいろ説明するの、面倒くさいんだ」
「分かりました」
 ロカの食堂でのことを考えれば、シアの判断もうなずける。ここまでの道程でも、あまり大声で喋らないようにとティナとハクトにくぎを刺していた。
 待合室はほどほどに混んでいる。風邪を引いた者からハクトのような怪我人までがごった煮だ。暇なので、シアに発動機についてどう説明すべきかを考えることにした。
 ヴァナの都は発動機であふれかえっている。大きな街ならばたいていの建物からは冷却管が突き出し、田舎でも発動機を積んだ車が道を行き交う。発動機には熱源が必要なので、夏になれば発動機で換気扇を回し、余計に外気温を上げていく。交通機関のほかにも紡績機に井戸水のくみ出しと、その用途は枚挙にいとまがない。
 鉄道とは呼ぶが実際に鉄を使っている線路はわずかだ。たいていの軌条は硬木でできている。木製の軌条では、発動機のついた車両の重みに耐えられないからだ。車両には発動機がついていて、その動力で車輪を回す。軌条に沿って走らせれば車体が安定するということは、こちらでも知られているようだ。
 発動機は本体とは別に加熱部を必要とする。小型のものならわずかな熱で動くが、鉄道車両を動かすには大きな燃焼室が必要だ。あの燃焼室、粗悪な燃料を放り込まれて黒煙を上げる発動機が懐かしい。しかしこれを説明できるものだろうか。絵でも描けば、少しは分かってもらえるかもしれない。困ったことに、絵心はないのだが。
 そうこうしているうちにシアの名が呼ばれた。医者はハクトの全身の怪我を確かめ、順調な回復だと感心していた。そのあと施された脚の火傷と骨折の治療法は、ヴァナと大して変わらないようだ。
「これに懲りたら、二度と霧に近づくような真似をしちゃいけないよ」
「もちろんです! 以後気をつけます」
 シアが首がもげそうな勢いでうなずき、ハクトにも同意するよう促す。こちらでも、霧を吸って気絶する人間はいるらしい。霧に近いであろうこの街ではなおさらだろう。またか、とでも言いたげな医者の反応は、霧から遠い街に住んでいたハクトにはかえって新鮮だった。
「大丈夫。もう私が診る必要はないようだ」
 かんたんな質問をされて適当にうなずいていると、医者はそんな結論を下した。あとは近くの医者に診せなさい、と言って診察は終わる。最後にティナに向かって、「お兄ちゃんが無茶をしないように見てやるんだよ」と助言を残していった。
「あの、すいません」
 ティナが「妹じゃない」と口をとがらせた時、シアが医者に尋ねる。
「最近、ほかにバティで霧に巻かれた人はいませんか」
「いいや、近ごろじゃ向こう見ずな若者も減ってるからねえ」
 ありがとうございます、と頭を下げ、シアは二人を促して診察室を出ていった。
 診察料を払って外に出るまでの間、シアは厳しい顔で何やら考え込んでいた。ハクトの方も移動に疲れていたので、あまりその沈黙を気にはしていなかったのだが、ティナは違ったようだ。
「どうしたの、シア」
 ティナに袖を引かれ、シアは立ち止まる。ロカよりはよほど大きいが、エンナほどではない街だ。行き交う人々は三人の方に目もくれない。
「やっぱり、見つからないね」
「もしかして、トウヤのことですか」
 シアはうなずいた。ティナもその名前を思い出したのか、訳しながら「ああ」とつぶやく。
「私のせいなんだよね、やっぱり」
「何言ってるんですか。トウヤなら制限線のあたりで湾に逃げましたから、きっとヴァナで無事にやってますよ」
「ハクト!」
 シアの声が強くなる。
「正直に教えて」
 そこまで言ったところで、ティナが言葉を切った。シアが早く訳せとうながすが、ティナは小さく首を振る。いやだ、と言ったのがハクトにも聞き取れた。シアはじれったそうにうめき、ハクトの腕をつかんで会話を試みる。
「ハクト、本当で、信じてる? トウヤ、生きるのコトが、信じてる?」
「はい」
「どう、して?」
 つっかえ、何度も言い直してはいたが、意味は伝わった。ティナの方に目をやると、彼女は地面に視線を落としたきり顔を上げない。握った拳がかすかに震えていた。肩に手を置こうとすると、無言でその手を払われる。
「生きる、こト、とても難しいよ。ハクトの、生きてるは、とても嬉しい、こトだよ。どうして、信じてる、られる、の?」
 どうして、とシアは繰り返す。ハクトは即答できずに口をつぐんだ。理由?
 考えてみる。彼が飄々と現れるところはありありと想像できても、苦しみながら溺れていくさまは、どうやっても考えられない。つまり、これは。
「トウヤなら、大丈夫なんです。信じてますから」
「信じて、る……」
 ラサの言葉でつぶやき、シアは小さくうなずいた。まるで予想もしなかった答えを返された新米教師のようだ。どう返事をすべきか、迷っているように見える。
「どうし、て? だって、よく、考えると、とても、難しいこトだよ?」
「友達を信じるのに、理由が要りますか」
 ティナが顔を上げ、ぼそぼそと通訳を再開した。それに気付き、シアも口にするのをラサの言葉に切り替える。
「そうかんたんに割り切れるなんて信じられないよ。我慢してるなら言ってよ。私は不安なんだ。ハクシャダイトはもっともっと不安だと思う。私がもしヴァナに行ったら、きっと不安でたまらないよ。友達のことだって、きっと心配で心配で、そんな風に笑って、信じてる、なんて言えるはずがないよ」
 かんたんに割り切れる。そんなつもりはないのだが、そう見えただろうか。ひょっとすると、信じてる、なんて言葉はただの格好つけか、そうでなければ自分を落ち着かせるための方便なのかもしれない。こんなとき、トウヤならどうするだろう。げらげら笑いながら、臭いこと言うんじゃない、と笑い飛ばす、そんな様子が目に浮かぶ。
 嵐が去って静かになったばかりの水面に、大きな石を放り込まれたような気分だった。ハクトはシアの肩に手を置く。その手が震えたのは、きっと気のせいだ。
「俺に何があっても、俺ひとりの問題です。心配する人間はいません。せいぜいトウヤくらいでしょう。そう思うと、けっこう気が楽です。安心して異国の地を楽しめる。トウヤのことは心配してません。さっき言った通り、信じてます」
 シアの目元が赤らんでいる。泣かせてはいけないとは思ったが、何を言えばいいのか分からない。
「それに、これからお世話になる、それもこんなに可愛い女の子を、わざわざ恨んだり嫌いになったりしようとは思いませんよ」
「ハクシャダイト、それ本当に言っていいの?」
 ティナに問い返されて一瞬躊躇したが、思い切ってうなずいた。彼女は胡乱げな表情を浮かべながらも、ちゃんと訳してくれる。静かな水面が乱れたのならば、観光をやめてそこで水遊びでもすればいい。
 シアは一瞬の沈黙のあと、笑顔とも怒り顔ともつかない複雑な表情で「分かっタよ」とうなずいた。

 どこへ行くのかも知らされないままシアの後をついていくと、彼女はそばの貸し馬車屋で二頭立ての馬車を借りてきた。例によって乗用ではないが、大した問題ではない。
 シアが手綱を取り、ティナとハクトが荷台に座る。わだちの跡もかすかな道をしばらく進むと、遠くに右手から左手に向かう水の流れが見えてきた。船を漕ぎだせば、渡るのにずいぶん時間がかかりそうだ。ゆるやかだが幅が広い。その向こうでは、立ちこめる霧が対岸のあるべきあたりを覆い隠していた。風はないが、霧までの距離はわずか半浬といったところだろう。今更ではあったが、河原に近づくことがためらわれた。
「フェルティナダ、あれ……霧ですよね」
「見たら分かるでしょう」
 そばの低木に馬をつなぐと、シアは二人を手招きし、自分はさっさと歩き出す。杖をつきながらのハクトは遅れがちになるが、シアは特に気にしていないようだ。
 医者の言うことなどまるで聞いていなかったかのように、シアはずんずん河岸に近づいていく。先ほどの低木を最後に、木は生えていなかった。やがて草むらも切れる。川からある程度の距離までは、木も草も生えていない、灰茶けた地面が広がっていた。よくある、流れ着いた石が積もる河原ではない。きっと風が強い日には、ここまで霧が流れてくるのだろう。霧に晒されれば、動物ばかりではなく植物も枯れてしまう。あの低木は、運良く霧を逃れたのだ。そう思うと、なんでもない木にもちょっとした親近感が湧いた。
 ティナはハクトを助けるでもなく、急かすでもなく、半歩後ろをのんびり歩いてくる。
「あそこで、ハクシャダイトを拾ったの」
 不意にティナがつぶやき、川がゆるやかに湾曲するところを指さした。
「ティナもシアも、すごく驚いたわ。たまに物が流れてくることはあるけど、大抵は板きれや魚の網で、人間が流れてくるなんて初めてのことだったから」
 ちらりと背後の馬車に目をやる。馬たちは大人しく低木に繋がれていた。ハクトを拾った日も、彼らはこんな風に繋がれていたのだろうか。血なまぐさい荷物を担いで、街までの道を走らされる馬の姿を思い浮かべる。
「馬って、肉食でしたっけ?」
「やだ、肉食動物に車なんか牽かせたくないわよ。乗ってるうちに食べられちゃったらどうするの」
 ということは草食なのか。ならば、血の匂いを嗅いで困ることもなかっただろう。そんなことを考えながら、一歩ずつ歩を進めていく。
「ところで、シアは何をしに来たんですかね」
「ラサから何か流れてきてないかどうか、確かめに来てるんでしょう。ハクシャダイトも、お友達のこと、探してみたらどう? 案外、その辺りに引っかかってるかもしれないわ」
 どこか小馬鹿にするような口調でそう言って、ティナは肩をすくめた。
「まあ、見つけたとしても死体でしょうけど」
「失礼なことを言わないでください」
「現実を見てるだけよ。だいたい、人間みたいな大きなものが流れ着いてたら、釣りに来た人が見つけて拾ってるわ」
 こんな霧に近い場所で釣りもないものだ、と思いながら川をのぞき込む。透明度は決して高くないが、劣悪な環境の中でも、いちおう魚は住んでいるようだった。
「ハクト、ティナ!」
 川縁で水と戯れていたシアが、何かを手に戻ってくる。彼女が自慢げに広げたてのひらの中には、見覚えのある印を押した油紙があった。長いこと水で揉まれていたにしては、はっきりと印字を残している。
「柳葉印だわ」
 横から覗いたティナが、嬉しそうに声を上げる。
 故郷では馴染みの印だ。柳葉印は安心の印。都中に手広く展開しながらもその伝統の味を守る、有名な乾物屋の包み紙だ。ジュレスバンカートのはずれにも大きな店があった。
「コれ、ヴァナの?」
「そうよ。乾物をこれに包んでくれるの。魚とか水草とか、そのままじゃ長いこと保存できないでしょう? でもたくさん採れるし、これで内陸の工業地帯の人も食べていかないといけないから、干して乾燥させて食べる」
 ティナの説明を、シアはしきりに感心しながら聞いている。
 それにしても、目の前でこんなものを拾われてはたまらない。ヴァナとラサが霧を隔てて繋がっているなんて話はあまりにも荒唐無稽で、こんな証拠を見せられてもなお信じられない。当事者であるハクトがこれだから、他の住人など推して知るべしだ。
 ぶるっ、と体を震わせた。春のまだ冷たさを残す風のせいか、それとも別のなにかのせいなのか、ハクトには判断しかねた。

 帰りの鉄道馬車はそれほど混んでいなかった。それでもエンナで降りる人間は多い。肩はそこそこに動くようになったが、いまだ脚を固定したままのハクトに、鉄道馬車の乗り降りは少々手間だった。人が多ければなおさらだ。
 ユノとの待ち合わせまでまだ時間があったので、駅の待合室で時間をつぶす。長椅子に腰掛けて行き交う人を見ているのは、それなりに楽しいものだった。ヴァナならば子供が着るような裾の広がった服を、ここでは女性が着ている。髪の色や目の色はさまざまだが、故郷とそう変わりはないようだった。暗い茶色、明るい茶色、たまに金髪や黒髪。目の色は大抵が暗い茶色だが、たまに青い目の人間も見かける。その割合も故郷と大差ない。
「霧の向こうって感じはしませんね。最南区にでも行けば、普通にこんな格好の人間がいそうですよ」
「それは最南区に対する偏見じゃないかしら。やっぱり違うと思うわ。……ところでハクシャダイト、あの黒い帽子の人、見える?」
 まっすぐ見ないで、と言われ、ハクトはちらりとティナが示した方を見る。
「見えますけど、彼がなにか?」
「さっきからずっと、ティナたちの方を見てるの。ずっとよ」
「馬車を待ってるんじゃないですか?」
「違うわよ。西に行くならティナたちが乗ってきたあの馬車に乗るだろうし、東に行く馬車もさっき出ていったわ。でもあの人、ずっとあそこにいるの。気味が悪い」
 黒い帽子を目深にかぶった男は、本に没頭しているようだった。しかしそう言われてみれば、時折こちらに視線をやっているような気がする。
「手洗いに行って来るね」
 シアが席を立つ。男はシアの背中を目で追った。彼女が扉の中に消えてからも、男の視線は確実にそちらに向けられている。
「ね、やっぱりあっち見てる」
「茶にでも誘うつもりなんじゃないですか。シアだって、いい年頃の女性なんですから」
「そうかしら」
 シアが戻ってくるとすぐに、駅の時計台から太鼓の音が聞こえた。
「そろそろだね」
 シアの声に重なるように、待合室に入ってきたユノが「こんにちは」と声をかけてきた。


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