花籠の囚人
-1 鴬語花舞-


鴬語花舞 :3
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 とにかく暇だった。この左半身を脱ぎ捨てられたら、今すぐにでも外に飛び出せるだろう。ハクトは目を閉じるが、どうもうまく眠れない。窓からの日差しは、まぶたを通り抜けて眠りを妨げる。
 だから窓枠を叩く音がしたとき、ハクトの思いは一つだった。
 暇がつぶせる。
 起きていることを示すために、無事な右手を振ってみせた。顔をしかめながらも上体を起こすと、窓の外にはシアが立っている。
「ゴメンナサイ、ハクト、痛い?」
「だいじょうぶ、元気です。そんなに痛くないですよ」
 シアは少し考えてから、「ハクトは、元気だ!」とうなずいた。
「ハクト、これ、見て」
 シアが掲げて見せたのは、一羽の鳥だった。鶏よりは一回り小さい。両羽を手で押さえられた茶色の鳥は、首を伸ばしてぴいぴいと鳴いている。
 鳥を見せびらかすかのように、シアは笑っている。その瞳からは、子供のような好奇心が感じられた。ハクトの反応を観察するように、その目はしっかりと彼を捕らえている。
「鳥ですか?」
「はい、鳥デス」
 そして無造作に手を離した。
 ハクトの目が丸くなる。
「うわあっ!」
 驚いたはずみに体を逸らすと、左手に体重がかかる。ふたたび悲鳴を上げたハクトをあざ笑うように、鳥はシアの頭上へと飛んでいった。そしてそのまま、木々をかすめて空に消える。
「な、な、何ですか! 鳥? え、だって、鳥……」
 シアの顔に会心の笑みが浮かぶ。彼女はすぐさま身をひるがえし、さよならも言わずに走り去った。ハクトの背後で扉が開く。
「どうしたの?」
「と、鳥が……フェルティナダ、何なんですか、ここは!」
 涙目で訴えるハクトを見て、ティナは状況を察したようだった。小さく肩をすくめる。
「飛んだのね?」
「そう! 飛んだんです! 虫みたいに!」
 左肩の痛みも忘れて叫ぶハクトを、ティナはおかしそうな笑い声で迎える。母が息子にするようにハクトの背中を抱き、「だいじょうぶ」とささやいた。
「ロカでは鳥は飛ぶものよ」
「意味がわかりません!」
「見たんでしょう? あれは飛ぶ種類の鳥なのよ。鶏とはぜんぜん違うの」
「なんで飛ばなきゃいけないんですか。そりゃ鳥は跳びますけど、下りてこないでずっと飛んでいくなんておかしいですよ!」
「鳥だって進化するわよ。飛ぶ鳥がいたっておかしくなんかないわ。ほら、昔話にもいるじゃない、空を飛ぶ鳥」
 納得のいかないハクトを、ティナは辛抱強くなだめる。ハクトはそんなティナの肩を掴んで揺すぶった。痛い、とティナが声を上げる。
「俺だって痛いんですよ!」
「ちょっと、やめてってば! 八つ当たりは良くないわよ!」
 とがめるようなティナの声。そこで何かが吹っ切れた。
 上半身から倒れ込むように、ティナを床に押しつける。板張りの床にティナの金髪が広がった。掴んだ肩は想像以上に細い。頭の隅に追いやられた理性が、子供相手にうっぷんを晴らすなと訴えている。それを退け、「いい加減にしてくれ!」と叫んだ。手を上げる。
「やめて! 放しなさい、ハクシャダイト!」
 ティナが叫ぶのと、頭を殴られるのはほぼ同時だった。左肩をしたたかにぶつけ、声も出せずにうずくまる。一瞬白くなったあとの視界に入ってきたのは、重そうな靴を手にしたシアだった。
「だめ、ハクト」
 自分の右靴を手に、シアはハクトのそばにかがみ込む。口を開きかけ、少しためらったあと、ティナに早口で何かを言った。よく聞き取れない。
「ハクシャダイト。もうこんなことをしないと約束しないなら、もう一回殴るそうよ」
「……すみません」
 殴られた右の側頭部がずきずきと痛む。手をやると額の包帯に触れた。これまで傷があったのは左側だから、傷口が開いたりする心配はないだろう。そう考えて、小さく息をつく。
「気持ちは分かるわ。ティナも最初はそうだったもの」
「そう、って」
「シアに――ああ、彼女がシアよ――いろいろ、思い出すのも恥ずかしいようなことをやったわ。まあ、今のはさすがに驚いたけどね」
 ティナは起きあがり、服についたほこりを払う。ハクトは寝台の側面に寄りかかるように上体を起こした。シアはどうしたものかと二人を見ていたが、やがて脱いでいた自分の靴を履きはじめる。
「だから、ティナはハクシャダイトを怒らないわ。謝らなくてもいい」
「すみま……ありがとうございます」
 靴ひもを結んでいたシアが、「ゴメンナサイ」と言葉を漏らす。ティナが小首をかしげた。
「わタしが、鳥、見せタから……」
 ティナの唇が引き結ばれる。シアを睨みつけたあと、「だから止めたのに」とつぶやいた。シアはうなだれる。はじめてそばで見る彼女は、思ったよりも背が高かった。ティナと比べるせいかもしれないし、底の厚い靴のせいかもしれない。まっすぐに伸びた髪は硬く、ティナのふわふわした髪とは対照的だ。裾の広がった子供のような服は、洗濯のしやすそうな生地で作られていた。
「フェルティナダ」
 肩を落とすシアは、うつむいたまま顔を上げない。ハクトが彼女の顔を見ようとすると、ついと顔をそむけられた。
「ここがどこなのか、教えてもらえませんか」
「だからロカよ。言ったじゃない」
「ここがたとえ西区の果てだとしても、車と鉄道を使えばジュレスバンカートまで一週間もかかりません。家族に覚悟がいるほど遠い場所ではないでしょう」
「だって西区じゃないもの。だからって中央区でも南区でも最南区でもないわ」
 ティナはため息をついた。シアが何か言う。訛りがきつすぎるのか、ハクトにはまったく意味が取れない。ティナは二言、三言返事をして、眉をひそめながら頭を掻いた。結った髪が崩れる。
「はぐらかさないで、はっきり教えてください。分からないから不安なんですよ」
「分かったらもっと不安になるわよ」
「知らないよりは知っている方がいいに決まってるじゃないですか」
 思わず声を荒げそうになって、ハクトはひとつ深呼吸する。本当に、どうかしている。
 たいてい、ハクトは騒ぐ相棒を止める役だ。こんな課題は無理だと思っても、この失敗をどう取り返したらいいのかと悩んでも、自分以上に焦るトウヤを見るうちに不思議と落ち着く。あの男は一見するとまともなのに、緊張するとすぐ指先が震えるのだ。おそらく彼は技師には向いていない。なのにこれでは、そんな相棒よりもよほどたちが悪い。トウヤ、とハクトは心の中でつぶやいた。
 お前、意外にいいやつだったんだな。
 複雑な表情を浮かべるハクトをよそに、ティナとシアは何ごとか話し合っている。
「……ハクシャダイト」
 やがてティナがゆっくりと振り返った。
「ちゃんと説明するから、笑わないで聞いてね。冗談なんじゃないんだから」
 ハクトがうなずくと、シアは開いたままの扉から廊下へ出ていった。一度遠くなった足音は、すぐにまた近づいてくる。その間にも、ティナは念押しを続けた。
「ティナは嘘なんてつかないから。ハクシャダイトを馬鹿にしてるわけじゃないのよ」
 戻ってきたシアの手には、丸めた大きな紙が握られている。心なしか、その顔は緊張しているように見えた。ハクトは手をついて右足一本で立ち上がり、あらためて寝台に腰を下ろす。ティナもかたわらの物入れの上に座った。
「シア」
 ティナが手を出し、シアから紙を受け取る。広げると、それはどうやら地図らしかった。だが、見慣れた地図と違って横に長い。かといって、特定の区を切り取ったものでもなさそうだ。
「これ、何ですか?」
「地図よ」
「それは見れば分かりますけど……」
 ふう、とティナは息をついた。
「これは、『深緑の都』ラサの全図」
 反射的にハクトは「え?」と尋ねかえす。
「ティナ達が住んでいた『紺碧の都』ヴァナは、この地図には載ってないわ」
「どういう、意味ですか」
「ここはね、ハクシャダイト……信じられないだろうけど」
 異国の地図を掲げたまま、ティナは告げた。
「『霧の向こう』よ」

 霧の向こうは、どこでもない場所。死の霧は世界を、紺碧の都を包む。
 だから、霧の向こうなんて、あるはずがない。
 ティナの言葉が右から左へ抜けていく。ティナがあれだけ念押ししたのもうなずける。何度も言われたのに、それでもまだ、騙されているという思いが抜けない。
 地図をなめるように見てみても、知った地名は見あたらない。それどころか文字すら分からない。見慣れた文字も多いが、どう読むのか、どういう意味なのか、見当もつかない文字がいくつも混じっている。
 まず目立つのは、湾がないこと。ティナがロカとバティの場所を教えてくれたが、それらは右の上隅の方にあった。バティのほかにも川は数本あったが、すべて霧の向こう、地図の外へ流れていってしまう。ティナにあらためて尋ねてみたが、やはり湾はないそうだ。
 地図の下端は霧ではなく、山脈をしめす記号で縁取られている。左下には大きな湖。地図の中央にはひときわ大きな街が、ほかとは違う赤色で記されている。赤色で記された街は、右下と左上にも一つずつあり、全部で三つ。太い点線が、その赤い街を一つずつ含むように土地を三分割していた。
「この赤い街が、お城があるところ。でもお城に議会はないの。それぞれのお城には偉い人がいて、その人たちが好きに領地を治めてるのよ」
「議会がなくて、どうやって都が治まるんですか?」
「さあね。難しいことは分かんないわ……それにしたって、ずいぶん冷静じゃない?」
「驚くほどの気力が残っていないんです」
 寝台ごと世界が揺れているような錯覚がある。どこか挑発するような気配をはらんだティナの言葉も、さっきのように神経を逆撫でしてはこない。薄い布を一枚へだてたところから、とげの生えた木の実を投げつけられているような気分だ。鬱陶しいが、どうでもいい。
 その代わり、シアの視線が絡みついて離れない。
 ティナを守る警備員のように、シアは彼女のそばに佇んでいる。表情は穏やかだが、その視線の中にひそむ不信の念は、無視するには少々重すぎる。自分がまいた種とはいえ、どうも釈然としない。
「なにか聞きたいことは?」
「ありすぎて、何から聞いていいのか分かりません」
 正直に答えると、ティナはさもありなんと頷きながら立ち上がった。
「実際に、その目で見てみるといいわ」

 空はよく晴れていた。南の空には見慣れた虹柱が見えたが、その根本、地平線に山々が連なっているのは異様な光景だった。
 荷運び用の大型一輪車に乗せられたハクトは、ぽかんと口を開けて周囲の光景に見入っている。一輪車を押すシアは、楽しそうに畑へと視線を送っていた。ティナはその横で、見えるものひとつひとつに解説を加える。
「あれが南の山脈。地図にあったでしょう」
「ずいぶん背が高いんですね」
 一輪車は畑のあぜ道を通っていた。家の前にあった畑という名の森はすでに通りすぎ、左右には背の低い作物が植えられている。葉を食べる野菜だろう。
 ぐるりと首を巡らせても、動くものが見あたらない。ずっと遠くに二棟の建物が見えた。小さい方が隣家、大きい方はその家の倉庫だそうだ。木造の建物は小さい方が二階建て、ということは倉庫はさらに背が高いというわけだ。畑のない区画は、膝くらいまでの高さの草で覆われている。黄色い花はヴァナでも見慣れた雑草だ。ぽつりぽつりと木の生えた区画があり、遠くへの視界をさえぎる。
「あとで家の反対側にも行ってみる? 地主さんの家と、それから広いくるみ畑があるわ。ここのくるみの木はすごく大きいから、本当に自然の森みたいに見えるわよ」
「地主さん……そうだ、この上着のお礼をしないと」
「そうだったわね。じゃあ、夕方にでも改めて挨拶に行きましょうか。この時間は、まだミキが帰ってきていないから」
「ミキ?」
「娘さんよ。三人きょうだいの二番目」
 ミキの名に反応して、シアが首をかしげてみせる。ティナに会話の中身を説明され、シアは納得したようにうなずいた。
「ミキはいい子だから、きっとハクシャダイトは気に入るでしょう、だそうよ」
 ハクトにシアの言葉を伝えてから、ティナはシアに何ごとか耳打ちする。シアは驚いたように声を上げた。
「何を言ったんですか」
「ハクシャダイトならミキのいいお父さんになれる、って言うもんだから、ハクシャダイトはまだ十八歳だって言っただけよ」
 シアはまじまじとハクトの顔を見ながら「じゅう、はち?」とつぶやく。動揺のためか一輪車が揺れた。転倒防止の杭が地面に当たり、ハクトの体に振動を伝える。そんなに驚かれてはきまりが悪い。ハクトは小さくうなずいた。シアの目からは、もう先刻の警戒するような色は消えている。代わりに顔を出すのは、抑えきれない好奇心だ。
「ミキちゃんは何歳なんですか」
「十歳」
 ハクトは思わず肩を落とす。いったい何歳に見られていたのだろう。
 木々の間を抜け、隣家の方へと近づいていくと、やがて広い道に出た。草に隠れて遠くからでは見えなかったのだが、一輪車が通れる程度には整備されている。敷石も瀝青による舗装もないが、むしろこの農村にそんなものは不要だろう。
 発動機の動作音の代わりに、鳥と虫の鳴き声が聞こえる。家を包み込むのも冷却管の束ではなく、よく茂った蔦だ。一輪車に不規則な振動が伝わる。春の風が畑の上を渡ってきた。潮の香りはしない。
「こういうのも、悪くないですね」
 太陽に目を細めながら、ハクトはつぶやく。ティナにその言葉を伝えられたシアが、おずおずと声をかけてきた。
「ハクトは、ここ、好き?」
 うなずいたハクトに、シアはほっとしたような笑顔を向けた。けれどそれはすぐに、困ったような表情に変わる。
「ゴメンナサイ」
 そう言ってから、ティナに長い言葉を伝えた。ティナも難しい表情でそれを訳す。
「いろいろ、ハクシャダイトに謝りたいことがある。あなたがロカを気に入ってくれたことはとても嬉しい。ティナは、……ずっと、帰りたいって言ってたから、だって」
 一輪車が木陰で止まった。畑ではなく、道ばたにぽつんと生えた広葉樹だ。真上から太陽に照らされて、影は小さい。これから少しずつ伸びていくのだろう。シアは一輪車のながえを握ったまま、ゆっくりと口を開いた。ティナは淡々と、ハクトとシアの間で通訳を務める。
「私の名前はシア・ベリー。このあいだ十七歳になったところ。出身はロカではないんだけど、研究のために引っ越してきたんだ。ここからなら、馬と鉄道馬車で、霧沿いのたいていの場所には行けるから」
 ティナの口を通したシアの言葉は、ざっくばらんで少年のようだ。それが正確な雰囲気をくみ取ったものなのか、ティナの解釈をいれた結果なのかは分からなかった。鉄道馬車というのが何なのかは知らないが、馬が引く鉄道かなにかなのだろう。発動機を使わないものを鉄道と呼んでいいのかどうかは判断がつかない。
「研究?」
「そう。私は『霧の向こう』についてずっと研究してるんだ。学校では止められてたから、思い切って辞めてきちゃった。親にはすっごく怒られたけどね」
 それはそうだろう、とハクトはうなずく。「霧の向こう」の研究に熱中するのも大したものだし、そのために学校を辞めるというのも、ハクトの感覚ではとんでもないことだ。いったい、それからどうやって暮らすつもりなのだろう。学校や組織を通さずに得られる仕事も、こちらにはあるのだろうか。見かけによらず、なかなか大胆な少女らしい。
「ハクシャダイトとティナを引き取ったのも、正直言えば研究のため。一年前にティナに会えたのはたまたまだけど、ハクシャダイトのことは、ずっと待ってた」
「どういう意味ですか」
 ティナはわずかに視線を逸らした。その続きを伝えたくないとでも言うように。
「バティ川に堰を作って、水の流れをおかしくしたのは私。それがきっと、ヴァナに影響したんだと思う」
 あの湾の流れを思い出す。いつもなら緩やかなはずの流れが、あの日は異常に強かった。
「だいたい月に一度、バティ川は大きく逆流するんだ。その日は水流が荒れる。だから私はたくさん大きな木を沈めて、その流れを弱めて、別の所にぶつけようとした。そうすれば、霧の向こうから色んなものが流れてくると思ったんだよ。記録を調べたら、変なものがバティ川に流れ着くときは、いつも理由があって逆流が弱まった日だったから」
 だから、とシアはうつむく。
「ヴァナの物がバティ川に流れ着けば、それはヴァナとラサが繋がっている証になるでしょう。私は、霧を通してヴァナとラサが繋がってるって信じてるの。確信を持ってるって言ってもいいわ。だけど、決定的な証拠がなかった。ティナをヴァナに帰す方法もちっとも見つからなくて、私はすごく焦ってた」
 シアの肩が震える。ハクトはながえを握るシアの手に自分の手を添えた。指先が白くなるほど力の入った手は、緊張のためかひどく冷たい。ティナが「ごめんなさい、ハクシャダイト」とつぶやいた。それはシアの言葉ではない。
「つまり、そうやって計画通りに流れ着いた『変なもの』が、俺だったというわけですか」
「本当に、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだ」
 ゴメンナサイ、と、シアはヴァナの言葉で繰り返した。
「全部、私のせいなんだ。ハクシャダイトがここに来ちゃったのも、大怪我したのも。ハクシャダイトの友達も、私のせいで大変なことになってしまった。霧を吸ったら、生き物は死んじゃうか、そうでなくても人形みたいになっちゃうのに。ヴァナでもそうでしょう?」
 最後の質問は、訳しながらティナがうなずいてみせた。それはどちらの都でも変わらないらしい。それにしても、とハクトは考える。故郷であるヴァナとここラサ、二つの都が繋がっているとはどういうことだろう。どちらもお互いを「霧の向こう」だと考えていて、存在そのものを知らないか、知っても信じてはいない。もちろんそのはずなのに、ハクトは今、「霧の向こう」にいる。シアにしてみても、「霧の向こう」の住人を相手に喋っているわけだ。
 自分で言ってみても、さっぱりわからない。これはどこの夢物語だ。
 だからこそ、シアに「俺は大丈夫です」と笑いかける余裕があるのだろう。
 さっきティナに言ったことも真実だ。そもそも、驚くほどの気力が残っていない。
「シア」
 トウヤがここにいたら、どんな反応を見せるだろう。もしかしたら彼も今頃、どこかで驚いているところかもしれない。いや、きっとそうに決まっている。たしか運は強かったはずだ。自信も確証もないが、そうに違いないのだ。だからそんなトウヤのために、自分が落ち着かなくてはならない。ハクトはシアの目を正面から見つめた。思うように動かない体がもどかしい。
「済んでしまったことは、仕方がありません。だからお願いします、ここのことを教えてください。ティナも一緒に、ラサへ行く方法を探しませんか」
 シアの顔に、ぱっと笑みが浮かぶ。取っ手から手を放し、ハクトの首に抱きついた。一輪車が揺れ、車輪のない側に傾いた。金属製の支えが地面を叩き、箱がばらばらになりそうな振動が伝わる。勢い余って柄の側へ押し出されたハクトは、シアの腕の中に抱きとめられるかたちになる。シアはそんなことは意にも介さず、「アリガトウ!」と叫んだ。
「ここのこと、まず何を教えたらいいかな?」
 耳元でささやかれる言葉は、やはりティナの通訳なしではまったく分からない。ティナは苦笑しながらその言葉を訳してくれる。ハクトはティナの方を見やり、肩をすくめた。
「まずは言葉でしょうね」
 シアに伝える前に、ティナは片目をつぶって「任せて!」と笑った。
「ただし、もうか弱い乙女を傷つけるようなことしちゃ駄目だよ」
「もちろんです。俺は紳士に生まれ変わりますから」
 ティナがその言葉をシアに伝える。女二人のさざめくような笑い声につられて、ハクトも声を立てて笑った。
 そうすれば、この声を聞きつけて、誰かが助けに来てくれるような気がした。


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