花籠の囚人
-1 鴬語花舞-


鴬語花舞 :2
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 鈴は金属製だった。いや、目を覚ましてからというもの、まだ硬木を見ていないような気がする。確かに金属は硬木より重厚感があり、手触りも硬木のようにざらついてはいないが、それにしても値段が違いすぎる。
 皿を机上に置いて横になり、ハクトはゆっくりと視線をめぐらせる。扉と反対側の壁には、それほど大きくはない窓。戸は開け放たれている。窓の向こうに目をやるが、青い空とそこに浮かぶ虹柱しか見えてはこない。どこで見てもあの虹柱は変わらない。切り取られた景色の中にあるのはそれだけで、少なくとも建物は隣接していないようだ。喧噪も聞こえてこないから、大きな街ではないのだろう。
 簡単に姿勢を変えられはしないのだから、寝転がる前にもう少し外を観察しておけばよかった。頭はそう訴えるが、体は譲らない。一度横になってしまった今では、どうやっても起きあがる気にはなれなかった。どうやら、自覚している以上に体力が落ちているらしい。そういえばひげを剃らなければ、と思う。動く方の手であごを撫でると、無精ひげが思った以上に伸びていた。
 そのままうつらうつらしていると、扉が開く音がした。見れば、ティナが入ってくるところだ。目元が赤らんでいるような気もするが、ただの見間違いかもしれない。
「起こしちゃったかしら。ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です」
 机の上の盆を手に取ったティナは、ふと思い出したように懐を探る。出てきたのは、紛れもなくハクトの拡大鏡だ。
「返しておくわ」
「ありがとうございます。他はともかく、これだけは無くすわけにいかないんで」
「高価いの?」
「それもありますけど」
 安いか高いかと言われれば、間違いなく高い方に入るだろう。かといって最高級品というわけでもない。なにせ技師用の拡大鏡ときたら、上を見ればきりがないのだ。技師なんて大して儲かる職業でもないというのに、道具にやたらと金をかけたがる物好きはあとを断たない。
 たとえば、ハクトの父のように。
「形見なんです。他界した父の」
 ティナが言葉に詰まるのが、見なくても分かった。
 とはいえ、拡大鏡がないと落ち着かない、とまで感じたのは初めてだ。ハクトにとって、これは父の形見である以前に片眼用三層式拡大鏡、たしか玻璃八式とか呼ばれるやつであり、それ以上のものではなかったはずだ。
「……壊れてない? だいじょうぶ?」
「ええ、おそらくは」
 革帯と帯鉤に何カ所か傷がついているが、こちらは換えれば済むことだ。大切なのは右目を覆う部分。三枚の円板をそれぞれ上げ下げしてみるが、問題なく動いているようだ。ハクトは胸をなで下ろす。一番外側の硝子板にさえ傷がついていないとは運がいい。
「ねえ、技師の拡大鏡って何に使うの?」
「細かい部品を見るのに、これがないと目が痛くなるんですよ」
「へえ。三枚あるのはどうして?」
「拡大鏡は二枚目だけ。一枚目は保護用の硝子板で、三枚目は硬度鏡です」
「あ、そうか。硬度鏡がないと仕事にならないものね」
 合点がいった、という様子でティナは頷く。
「でも、たぶんロカでは使う機会がないわよ」
「どうして?」
「だって」ティナは何気ない様子で答えた。「ロカの人は、硬木を使わないから」
「え……?」
 拡大鏡を上げ硬度鏡を下げて、ハクトは部屋の中をぐるりと見渡す。普通ならひとつくらい硬木を示す明るい光が見えるものだが、視界は一面、むらのある暗い色だ。硬度鏡は通常の光を押さえ込み、硬木が放つ精気の波長だけを増幅して見せる。
「ね?」
「本当だ……すごい」
 自然志向の物好きの中には、硬木などという「怪しげな」ものには頼らずに暮らしていこうという人間がいるそうだが、この家の住人もその手合いだろうか。感心するよりも先に、警戒心が頭をもたげる。
「フェルティナダ」
「どうしたの? 怖い顔しちゃって」
「ここは一体、どこなんですか」
「だから言ったじゃない、ロカって街よ」
 むずかるように言って、ティナは椅子に腰掛ける。
「じゃあ、俺が流れ着いた川ってのはどこですか。トロップクランデは俺が出航したところより東にあるんです。西に流された俺が辿り着くはずがない」
「ああ、やっぱり船が流されたのね。発動機は?」
「壊れたんですよ」
「ハクシャダイト、あなた技師なんでしょう?」
「残念ながら、見習いです。そんなことより、質問に答えてください」
 ティナは小首をかしげ、少し考えてから口を開いた。
「確かに、トロップクランデじゃないわよ。あれはバティ川。まあ、川と言っていいのかどうかは分からないけど。川の向こうは霧だから」
「……西区の……境界線の向こうですか?」
「川のことなら、そんなところよ。ここは安全だから心配しないで」
 境界線の向こうは、風向きによっては霧が吹き寄せる危険な地域だ。そんなところに好んで住む人間もいないから、境界線のあたりにはほとんど街はないと聞いている。ロカがその辺境にあるのならば、ハクトが知らないのも無理はない。
「そういえば、あなた何歳?」
「十八です」
 答えた途端、ティナは驚いたように口元に手を当てる。
「老け顔なのね。二十歳はとうに過ぎているかと思ったわ」
 あまりにも真っ直ぐな物言いに、ハクトは思わず頭を抱えた。
「放っておいてください。気にしてるんです」
 年上のはずの相棒と一緒にいても、同い年だと思われるか、下手をすればハクトの方が年上に見られてしまう。あれは相棒の方が童顔なのだと自分に言い聞かせてはいるが。
 ハクトの相棒であるトウヤは、学校の女の子には「小動物みたい」と評されていた。虫を見ると悲鳴を上げ、嬉しいことがあると歌い出し、さらに嬉しいと踊り出すあたりが評価の原因だろうか。彼の態度の、どこまでが地でどこからが計算なのかは知らない。
 ふと、耳の奥に水音がよみがえった。思わず頬が引きつる。そうだ、忘れてはいけない。掛け布団に爪を立て、小さく首を振った。
「フェルティナダ。俺のほかに、流れ着いた人はいませんでしたか」
「いないわ。誰か一緒だったの?」
「ええ、相棒が」
 ティナは気の毒そうに眉をひそめ、「見つかったら教えてあげる」と答えた。
「どんな人? 名前は?」
「ビットクラーヤ・アガトゥス、愛称はトウヤ。黒い髪を、こう一本に編んでいます。確か二十歳だったと……ただ」
「ただ?」
「霧に巻かれたあたりで、俺を置いて湾に飛び込んでいましたから、同じ所に流れ着くかどうかは分かりません」
「なるほど。何にせよ、無事に岸に着いているといいわね」
 黙ってうなずくことしかできない。ティナはそれ以上なにも言わず、盆を持って部屋を出ていった。

 窓の外で、がたん、という音がしたのは、ティナの足音が聞こえなくなった頃だった。
「なんだ?」
 思わず声を上げる。しばらく沈黙が続いた。しかし静かになった部屋の中で耳をすますと、窓の下に誰かがいるのが感じられる。息づかいが聞こえるわけではないが、今の音は明らかに外壁に何かがぶつかった音だ。その直後に聞こえたのも足音に違いない。ハクトは肘をつき、慎重に体を起こした。好奇心が痛みに打ち勝つ。
「あの、誰かいるんですか?」
 声をかけると、窓の下端に丸いものがのぞいた。じっと見つめていると、それが黒い帽子をかぶった人間であることが分かる。黒い帽子の頭は、そっと窓枠から顔を出した。
「こ、コンニチハ」
 上擦った女の声でそう言われ、ハクトは「こんにちは」と返す。人影は帽子を取った。つばに隠れて見えなかった顔が露わになる。茶色い髪に白い平紐を結んだ少女だった。飾りではなく、おそらくは実用的な理由で髪を留めているのだろう。ぱっちりした目が印象的だ。年はハクトとそう変わらないように見える。ハクトと目が合うと、少女は歯を見せて笑った。
「いい、お天気、デスね」
 唇から漏れる言葉は発音が怪しい。最南区か北区島嶼部の、それも最果てに住む人間が、方言を押し隠して中央区の言葉を喋ろうとしているような雰囲気だ。
「そうですね」
 ハクトが答えると、少女は表情を輝かせる。おもちゃを見つけた子供のような様子で、窓枠に片手をかけた。
「わタし、シア。あなタが、ハクト?」
「そうですよ。ハクシャダイトです」
 いきなり愛称で呼ばれ、ハクトは少しばかり面食らう。
「アクサタイト?」
「ハクシャダイト」
「ハクサ……?」
 そこでやっと、ハクトにも合点がいった。
「いえ、いいです。ハクトです、ハクト。よろしくお願いします、シア」
「よろシク、お願いシマす!」
 シアは楽しそうに手を振った。
 つまるところ、彼女にはハクトの名前が発音できないのだろう。だいたい、都会の人間は本名が長い。都会ことばに苦労する辺境の人間に、装飾音の多い本名は発音し辛かろう。劇や小説で見る南部訛りは、装飾音をことごとく潰す。ティナもそれを分かっていたから、最初に愛称を聞いたのだ。彼女たちにハクトの名前を伝えるために。そう考えれば合点がいく。
 ハクトが何か言おうと口を開いた時、シアが何かに気付いたように表情を変えた。口元に手をやり、「ナイショ」とささやいてから、彼女は窓枠の下に消える。その頃には、廊下を歩いてくるティナの足音が聞こえ始めていた。
 予想通り、扉が開いてティナが顔を出す。手には陶製の水差しを持っていた。
「水を持ってきたわ。……どうしたの?」
 シアの声が脳裏によみがえる。あれはきっと、言うなという意味なのだろう。
「いえ、何も。それにしても、ここはずいぶん静かなところですね」
 ティナはうなずき、水差しを文机の上に置いた。窓に向かうハクトの視界をさえぎるように、置いてあった椅子に腰掛ける。
「そうね、田舎だから。畑しかない街だもの。ほら見て、あれも」
 改めて窓の外に目をやった。身を起こしているせいで、さっきよりは広い範囲が見えている。二十歩ほど行ったところに細い道があり、そこまでは背の低い草がまばらに生えていた。道の向こうは森で、二階建ての家屋ほどの広葉樹が連なっている。よく見れば、一定の間隔をおいて並んでいるようにも見えた。
「畑? あの木、林業のものじゃないんですか」
「あれは畑よ。秋になったらすごいんだから。ティナもはじめて見たときは驚いたわ」
 その時の情景を思い出したのか、ティナは窓の外を見て笑う。せわしなく動くその瞳に、秋の実りが映っているかのようだ。
「フェルティナダ」
「なあに?」
 ここはどこですか、という問いを、ハクトは喉元で呑み込んだ。ティナの目が物憂げに伏せられたせいかもしれない。代わりにもう一つの、もっと差し迫った質問をぶつける。
「便所はどこでしょうか。あと、杖かなにか貸していただけると有り難いんですけど」
 ティナはぱっと顔を赤らめ、「ごめん」とつぶやいて走り去った。
「ありガと、ごザイます」
 窓の方からシアの声がした。結果的に、隠れていた彼女を助けることになったのかもしれない。シアはひらひらと手を振って「サヨナラ!」と言い残し、これまた全速力で走っていった。
「トウヤ、俺、どうすりゃいいんだ?」
 返ってくるのは、もちろん沈黙だけ。
 遠くでティナが叫んでいるのが聞こえたが、内容までは分からなかった。

 家の裏手、急ごしらえの屋根の下には井戸があり、便所にも風呂にも台所にも、そこから水が引かれているようだった。蓋だけでなく、小屋のような屋根があるのは雨の日のためだろう。足下には砂利が敷かれ、周囲はついたてで囲われていて、外の様子は窺えなかった。ついたての隙間から光が射し込んでくる。便所から出たついでに、顔を洗うことにした。少し舐めてみたが塩水ではない。剃刀はないかと聞いてみたが、ひげを剃るようなものはないとの返事だった。無精ひげを気にしながら、右手一本でつるべを引き揚げる。
 それにしても今どきつるべで水を汲むとは珍しい。故郷では、たいてい水を汲んで塩を飛ばすところまで、すべてを機械まかせにしている。地下水と、塩を抜くため加熱した蒸気との温度差が、また汲み上げ用の歯車を回すのだ。
 ハクトが寝ていた物の少ない部屋とは違い、通ってきた廊下や居間にはにぎやかに小物が置かれていた。ただ、天井と同じくどこもあまり良い造りになっているとは言えず、扉や壁面の格子飾りもぞんざいで、柱も木目がむき出しになっている。
 井戸の脇に左足を投げ出すようにしゃがみ、額の包帯を外して顔を洗った。水をかぶったこめかみの辺りと、左頬の耳に近いあたりがぎゅっと痛む。鏡がないので気づかなかったが、額のほかにも傷を負っていたらしい。その額の小さな切り傷は、もうかさぶたになっているせいか痛まなかった。拡大鏡の帯が深い怪我から守ってくれたのだろう。
「そうだわ、ハクシャダイト」
 井戸小屋の隅にあった籠から、ティナが出してきたのはハクトがもと着ていた上着だった。畳まれていたそれを惜しげもなく広げ、ハクトの前にかざす。左の袖、上腕のあたりがかぎ裂きに破れていた。腰までの丈の上着だが、左の裾も大きく欠けている。
「血はいちおう落としたけど、ちょっと染みになったところもあるわ。繕ったら着る?」
「ええ」
「こっちは無理よね。血も落ちないし」
 もう一つ、出してきたのは一瞬ただのぼろ布に見えたが、よく見れば左膝のところで千切れた服の残骸だった。右膝にまで血が飛び散っている。思わず自分の足に目を落とした。上着の下に着せられている裾の長い袷は、膝上から足首までを固める添え木の邪魔をしないためのものだろう。
 目覚める前に見た、あの溺れる夢を思い出した。
「そうですね。……そういえばフェルティナダ、俺が気を失っている間、着替えなんかはどうしてたんですか」
 ふと嫌なことを思いついて、おそるおそる聞いてみる。ティナは笑って肩をすくめた。
「近所の男の子が手伝ってくれたわ。ティナ、男の裸なんか見る趣味はないから」
「そ、……そうですよね」
 何を聞いているんだ、俺は。まだしも動く右手で頬を掻くと、伸びた爪が痛かった。

 気がつけば朝になっていた。いや、窓からの光がずいぶん壁の近くにあるから、もう昼近いのかもしれない。
 杖は文机の端に立てかけてあった。寝台からは少しばかり遠すぎる。そのあたりは気を利かせてくれても良さそうなものだ。杖を持つべき左手は、いまだ動かすたびに痛むのだから。これは暗に呼べと言っているのだろうか。
 鈴を鳴らそうとして、はたと手を止める。使用人を呼びつけるお坊っちゃまのようできまりが悪い。昨日見た限り、明らかにここはただの一般家屋だ。病院ではない。そもそも、この田舎に病院などというものがあるのかどうかも怪しかった。しかしとにかく、ハクトがただの居候であることは間違いないように思えた。
「さて……」
 もう一度眠るという選択肢もある。天井を眺めながら緩んだ留め針をにらんでいると、窓枠を叩く音がした。首だけをめぐらせてそちらを見ると、シアが立っている。長いまつげに縁取られた目で、ハクトの顔をまっすぐ見つめてきた。
「コンニチハ!」
 彼女がまっすぐ立って、ようやく首から上が見える高さなのだろう。ハクトはゆっくりと身を起こしながら、「こんにちは」と答えた。
「お元気デスか?」
「いや、あんまり……」
「あんまり?」
「元気ではないです」
「元気では、ない」
 シアはそうくり返し、しばらく考えてから「あっ」と声を上げた。
「痛い?」
「ええ、まあ、ちょっとは」
「ちょっとは、痛い?」
「はい」
 シアは戸惑ったように、窓枠にかけた自分の指先を見つめている。手は土で汚れていた。農作業でもしていたのだろうか。技師の家で育ったハクトは畑に携わった経験がないので、その辺りはよく分からない。
「シア」
 おそるおそる声をかけると、シアは一瞬ハクトの方に目をやって、また逸らしてしまう。
「どうして、ティナには、ナイショなんですか?」
「あ……なぜなら、ティナ、わタしがハクトと会う、は、ダメだって言っタ、だから」
「どうして?」
 シアは黙って首を振った。
「そうか。ありがとう」
「は、ハクト」
 ハの音を慎重に発音しながら、シアはおずおずと呼びかける。
「ゴメンナサイ」
 ハクトの返事を待たずに、彼女は窓のそばから姿を消した。
 しばらくして、扉が遠慮がちに開けられる。一瞬シアかと期待したが、入ってきたのはティナだった。
「おはよう。起きたなら、それ鳴らしてくれればよかったのに」
「いえ、今起きたところですから」
「ならいいんだけど。いま朝ご飯持ってくるわ。食べられる? 少しは西区らしい味付けになったと思うの」
「だいじょうぶ、頂きます」
 頷いて出ていこうとするティナを、ハクトは「ちょっと」と呼び止めた。
「この家、ほかに誰か住んでるんですか? ご家族とか」
「家族じゃないけど、同居人がいるわ。今はちょっと忙しくて、こっちには来られないんだけどね」
 それでは、ティナの家族はいないのか。事情を問うていいものか、少し悩んでやめた。その前に訊くべきことは多い。
「男の人?」
「女の人よ。どうして?」
「あ……ええと」
 思わずティナの顔から目をそらすと、自分が着ている上着が目に入った。
「この服、お借りしているならお礼をしたいと思いまして」
「ああ、それは地主のおじさんに貰ったの。太っちゃってもう着られないから、ハクシャダイトにあげるって。ほら、昨日言った近所の男の子がいるでしょう、そのお父さんよ」
「そうですか……それはどうも、お礼を言っておいてください」
 それから、何気ない風を装って続ける。
「ところで、その同居人のお名前をうかがってもいいですか」
「シアよ。正式名なんかは気にしなくていいわ」
 覚えておきます、と返しながらも、ハクトは頭の中の混乱を整理できずにいた。


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