ヴェイパー・トレイル 第二話 ヴェイパー・トレイル |
獣使いの佐藤春楽は、心臓発作であっけなくこの世を去った。あとを継いだのはその孫だ。彼は魔獣を従えて生きていながら、昨年には結婚までしている。当然と言えば当然なのだろうが、それはひどく意外なことに思えた。 山下直樹はひとつため息をついて、眼下で繰り広げられる光景に再び目をやった。剣を握る少年と、獣を操るその親友。剣を持つ少年の名は忘れたが、獣使いの方は佐藤浩。一族の中では第二位の実力を持つ、分家の長男だ。今は高校一年生だったはずだが、それにしては幼い、人の良さそうな顔立ちをしている。 廃ビルの屋上は絶好の観戦スポットだった。バイクで空中を駆け上がるのにももう慣れた。屋上に向かうのは実に容易いことだ。 剣を持った方、「勇者」が見たところ劣勢。獣使いは従えた獣に「勇者」を襲わせている。 「親友が相手だってのに、手加減がないねえ」 誰にともなくつぶやく。 佐藤浩は影に千頭鬼を飼っているわけではない。だから本来は、「勇者」が襲いに行くべき存在ではない。その原則を曲げて、少年が獣使いに斬りかかっているのも、その太刀筋が本気なのも、すべては直樹が仕組んだことだ。少年が獣使いの親友であることも、もちろん計算に入っている。 「少しは苦しめよ、クソガキ」 直樹の言葉は、誰に届くこともなく消えていく。 ハスキー犬に似た獣の爪が、剣を握る少年の腕を捉えた。遠目にも血がしぶく様が分かる。剣を取り落とした少年の腹を爪と牙が蹂躙し、かくして対決はあっさりと幕を閉じた。 呼ぶと、少年が持っていた剣は直樹の手の中に現れる。あとで血を拭わなければ。望まれない用途に使われて、剣が不満げに震えるのが分かる。全く、わがままな剣だ。 「お前が悪いんだからな」 つぶやくと、直樹は剣を腰のベルトに差し、かたわらに立てたバイクにまたがった。 バイクは白い雲を吐きながら、空の上へと走り出す。 予想通り上からは叱責を受けたが、説教の言葉など右から左へ流れていく。軽蔑している相手からの説教などというものに、どれだけの意味があるだろうか。 こんなにはっきりと他人を憎んだのは久しぶりだ。それも、あんなにも些細なきっかけで。 『同情するよ――あなたにも、あなたをここに遣わしたあの人にも』 浩があの不幸な「勇者」にかけた言葉を思い出し、改めて歯噛みする。彼の実力などたかが知れているのだ。今の実力はともかく、素質ならばその弟の方がよほど優秀だから、次に千頭鬼を飼うことになるのはきっと弟の方だろう。けれど兄の方は、事あるごとに直樹に「同情」する。同情! 何と意味のない行動だろう。まるで奴の方が格上のような気がしてくるではないか。そればかりか彼だけが十二分に幸福であり、矮小で不幸な自分を憐れんでいるかのようだ。冗談じゃない。 俺の方が強い。情けをかけられるほど弱くはない。罵りの言葉よりも、憐れみの方がよほど腹立たしい。すべての境遇を甘受し、柔らかい笑みで受け流すあの甘っちょろい子供に、真実というやつを見せつけてやらなければならない。 「山下ちゃん、オハヨー」 友人の声で直樹は我に返った。声の主である学科の友人、六ツ川明美は、ひらひらと手を振りながら定位置である二つ前の席に座る。彼女とは取る講義が多く被っているせいか、比較的仲がいい。 「あ、六ツ川さん、おはよう」 男ばかりの工科大の中で、彼女は貴重な女子学生だ。だからといって特に何があるわけでもなく、先日それとなく聞いてみたところによると、未だに彼氏もいないらしい。 「ねえねえ、火曜一限のレポート、提出は来週でいいんだよね?」 「ん。確かそうだったはず」 ありがとー、とまた手を振って、明美は携帯電話を取り出した。大学の中は電波が悪く、すぐに電池が切れてしまうとよく愚痴を言っている。 「メモっとかないと、すぐに分かんなくなっちゃう。いつも思うんだけど、山下ちゃんって記憶力いいよね」 「そうか?」 「うん。すごく細かい数字とか、よく覚えてるから羨ましいよ。私なんか自分の携帯の番号も覚えてないのにさ」 「そんなもん、長いこと使ってりゃ勝手に覚えるよ」 昔に比べれば、記憶力は多少良くなった、のかもしれない。何かがあった時のために、帝国の関係者への連絡先は携帯電話のアドレス帳には入れていないし、もちろん紙にも記していない。それでもすべて、特に労することなく暗唱できる。 蜘蛛がどこまで自分の脳に根を張っているのか、直樹にはよく分からない。もはや自分のどこまでが蜘蛛で、どこまでが山下直樹なのか、その区別すらつきはしない。もしかするとこの思考を巡らせているのも、白見沢工科大三年の山下直樹ではなく、忠実な戦闘機たるあの「蜘蛛」の方なのかもしれない。 「でもやっぱ、羨ましいなー」 「お前、それは俺に夢見すぎだろ」 明美は何がおかしいのかケラケラと笑いながら、「そんなことないよ」と答えて携帯電話に視線を落とした。 友人を刺した件で停学になった佐藤浩は都外の県立高校へと転校し、直樹が彼と顔を合わせる機会は減った。 彼が引っ越していった先は県境近くの小さな市だ。魔法使いのテリトリー争いの中では緩衝地帯となっている場所でもある。帝国の力が強い地域内で処理をすることも出来たのだろうが、直樹は手続きの際、あえて電車で一時間ほどかかるその土地を選んだ。 末端で中心となって後始末をするのはどうせ自分なのだから、少々の融通は利く。彼らの一族に関わる用件は、基本的に直樹のところへ回ってくる。裏でどのような話が進んでいるのかは知らないが、表向きは直樹が彼らに関する窓口だと言える。 転入試験の都合で、彼の転校は夏休み明けになった。中学生の弟もそれについて転校することになったが、彼も一学期いっぱいは元の中学校に通い続けたようだ。 時折、変わったことはないかと勇者探しを兼ねて彼の家を見に行くが、それほどの変化は感じられない。ただ平穏に暮らしているのだと、そう思っていた――つい先日までは。 「まったく、偶然ってのは恐ろしいね」 バイクの高度をゆっくり落としながら、直樹は小さくため息をついた。 国同士の緩衝地帯と呼ばれるだけあって、その地区に住まう魔法使いは決して少なくはない。しかし彼らは基本的に自らの素性を隠すものだから、そう簡単に互いが出会うことはない、と思っていた。 しかし高校の同じクラスともなれば、互いの素性に気付いてしまうのも時間の問題だったのだろう。こうして佐藤浩が出会った魔法使いの少年は、浩をかばうように動いた。 彼は敵国の人間だ。隣国シュリフィードの田舎者。おかげで日本名まで分かっていながら、その正体を知るまでにずいぶんと遠回りをしてしまった。 おまけに接触してみれば、既に向こうはこっちを知っている。まったく気分の悪い展開だ。 ぐんぐん大きくなる地上の建物。校庭のせいでひときわ目立つ高校の建物の屋上には、空から見ればはっきりと分かる形で魔法陣が描かれている。大した意味はない、ただ眠気を払うだけの魔法だ。これは空からやってくる直樹のための、単なる道しるべにすぎない。 直樹はひとつ、深呼吸をする。 何をすべきか、それを誤ってはいけない。 山下直樹は、戦闘機だ。 バイクは静かにコンクリートの屋上に降り立った。エンジンを止め、スタンドを立て、扉の前で待ちかまえる。 「やあ魔法使い」 開いた扉の向こうで、敵国の魔法使いはわずかに眉をひそめた。 藤原、と呼ばれた女子高生は、魔獣を見ても眉ひとつ動かさなかった。たまたま巻き込んだだけの女子学生だが、どうも魔法使いとは深い知り合いらしい。 「僕はあなたが嫌いです」 佐藤浩が静かにつぶやいた。ああ、それでいい。真っ白な濾紙に色素を落としたときのように、満足感と寂寥感がじわりと広がっていく。これでいい。これこそが、待っていた言葉だ。 魔法使いと喧嘩に来たはずなのに、気がつけば魔獣が佐藤に喧嘩を売っていた。彼らの一族が従える魔獣よりはずっと大人しいが、明らかに国際協定には違反するイレギュラー。そして、直樹の指示に従う忠実な飼い犬だ。これは蜘蛛の采配か、あの魔獣自身の判断か。後者だとしたら、あの魔獣も千頭鬼に負けず劣らずたちが悪い。 だいたい、あの獣使いの一族と自分との間に、どれほどの差があろうか。 心の別の場所からにじみ出てきたその考えを振り払うように、目の前の光景に集中する。魔法使いは女子高生を気遣うのに忙しい。彼女はもうこちらには目もくれず、魔法使いと二人の世界を作っていた。ただの友人というには、傍目に見ただけでも仲の良すぎる関係だ。 自分が高校生だった時のことを思い出す。網崎遊羽の名前は、もはや苦い感情と共にしか浮かんでこない。あの魔法使いの少年は、彼女の正体について悩むことはないのだろうか。彼女自身が口走ったところによれば、あの女子学生はただの日本人だ。魔法に対抗する術もない、無力な人間。ああやって、敵である自分をそっちのけにしてでも気遣いたい、守るべき存在。 そんなものは綺麗事だ。少なくとも、自分には関係ない。直樹は奥歯を噛みしめ、二人から視線を逸らした。 「僕はもう、あなたに会いたくない」 こちらこそ願い下げだ。胸の中がさまざまな感情で埋め尽くされる。やめろ、そんなものは必要ない。蜘蛛がどこかで叫んでいる。その通りだ、感情なんていらない。上の人間にだって叱責されたじゃないか。私怨なんて下らない。戦闘機にそんなものは要らない。怒りも悔しさも寂しさも、とめどなくあふれ出す羨望も憤怒も、すべては戦闘機のスペックを落とすノイズに過ぎない。 まるで魔力を視覚化した時のように、身体の中がめちゃくちゃな色彩で溢れているような感覚に陥る。 「そうか」 口が勝手に言葉を紡いだ。それと同時に、霧が晴れるように感情が冷えていく。なんだ、簡単なことじゃないか。すべてを放り出して、奥底に潜む蜘蛛に身を任せればいい。あれはいつだって、直樹の身体を欲しがっている。彼我の境界なんて難しいことを考える必要はない。だって今なら、こんなにはっきりと自覚できるじゃないか。下らないことを思い悩むのは人間だ。蜘蛛は真っ白で、ただ本能のままに行動する。そのためには身体が必要だ。感情なんて下らないことで満たされた直樹自身なんてものは、逆に奥底に押し込めてしまえばいい。 踵を返す。 「それでは、そろそろ失礼するよ」 おい魔獣、なぜ笑う。何がおかしい。早く消え失せろ、お前の仕事は終わりだ。 バイクに乗り込み、勢いよくエンジンをふかす。流れる魔力を整えて、前輪を浮かせばそのまま空へと飛び上がる。 佐藤浩は、山下直樹を憎んだ。 それはあの女子生徒を傷つけたからだろうか。それとも、何か別の理由があるのか。そんなことは考えても詮無いことだ。確かなのは、彼が直樹を憎んでいるということ。同情や憐れみなどという似つかわしくない感情を捨てて、ただ激情に任せて自分を憎んでいるということ。 素晴らしいじゃないか。 戦闘機は風を切りながら空を駆け抜ける。 これは決して、逃走などではない。 マンションの鍵を開けて、靴を脱ぐのももどかしく、直樹はリビングのソファに倒れ込んだ。もう一人になったのだから、こんな立派なソファなんて必要ないのに。そう思いながら身を横たえ、小さく息をつく。 手を伸ばして机の上のリモコンを取り、テレビの電源を点けた。静かだった部屋の中に、お笑い芸人のやかましい声が響き出す。 「これでいい」 つぶやいた言葉は、スピーカーが発するにぎやかな笑い声にかき消された。もう少し静かな方がいいな、とニュース番組にチャンネルを切り替える。 あの魔法使いのことなど忘れてしまえ。彼は魔法使いのご多分に漏れず、保守的な思想の持ち主だそうだ。放っておいても問題はない。あの女子高生のことだって忘れてしまえばいい。魔法に直面して、それでも直樹のように怯えることもなく、堂々と対峙して―― ……怯える? ふと、自分の思考に疑問を持った。怖かったのだろうか。だってこんなものは、上の国々に生まれれば当たり前の事実として真っ先に教えられることだ。テレビが遠くの映像を映し出すのも、バイクが空を飛ぶのも、魔法使いにとっては同列の現象に過ぎない。そんなものにいちいち怯えていたら、生活なんてできない筈じゃないか。 突然ポケットに入れていた携帯電話が震えて、直樹は勢いよく身を起こす。メールだ。背面のディスプレイに映る名前は六ツ川明美。二つ折りの携帯電話を開け、新着のメールを読む。 内容は飲み会の誘いだった。返信をしようとして、本文の入力画面を前に手が止まる。その日の予定は空いている。仕事さえ入らなければ行けるはずだ。夜なら、突然呼び出されることもあまりない。 明美が誘いをかけてくるということは、どうせまた近くの女子大の面子が一緒なのだろう。直樹の通う工科大はほとんど男子校のようなものだから、友人たちはよく明美の誘いには乗っていく。それにしても、大抵の誘いを断る直樹にまで、どうしていつも誘いのメールを送ってくるのだろう。 一瞬だけ馬鹿な考えが浮かんで、すぐにそれを打ち消した。うぬぼれるな、彼女はただ学科の友人に絨毯爆撃をしているだけだ。頭を抱える。彼女に下心があるのではないか、などという下らない妄想をしてしまったことが恥ずかしい。そして同時に、意外だった。 「この期に及んで、まだ彼女なんか欲しいと思ってんのかね、俺は」 わざわざ口に出してつぶやくと、今度はテレビの声に打ち消してもらうこともできずに、音はそのまま自分の耳に返ってくる。 愛だとか恋だとか、そんなものはただの枷にすぎない。何が彼女だ。だいたい結婚なんかして、子供でも産まれてみろ、ただ不幸になる人間が増えるだけじゃないか。そこまで考えて、思わず笑みが浮かんだ。直樹が孤独を貫いたところで、大して意味はないだろう。姉夫婦に子供ができれば、今度はその子供が犠牲になるだけだ。そしてあの姉も、生殺与奪を帝国に握られている。子供を産まないだなんて、そんな帝国に逆らうようなことをするとは思えない。 考えてみればおかしな話だ。どこかに大きな矛盾がある。網崎遊羽はてっきり人質となるために送られてきたのだと思っていたが、もしかするとあわよくば妻になろうとでも思っていたのだろうか。だとしたら、それはそれで気の早い話だ。彼女は死に急ぎたかったのか、それとも生きたかったのか。 『ごめん、ちょっとその日は都合悪い』 メールにそう打ち込んで送信する。ほどなくして返信がきた。 『それは残念。じゃあ、またの機会に!』 軽快な彼女の声が聞こえてくるようだ。直樹は勢いよく携帯電話を閉じ、机の上に叩きつけるように置いた。テレビを消し、携帯電話を置き去りにしたまま部屋を出る。 こんな人間関係は、戦闘機には必要ない。 ただ、もっとシンプルで、後腐れなく、そして憎悪に満ちた関係があればいい。 切れたところで誰も悲しまない、そんな糸でだけ繋がっていればいい。懐に入り込まれることは、ただ攻撃力を弱めることにしかならない。いつか来るべき戦いのために、万全の備えをしておかなければならない。ただ、主たる帝国に尽くすために。 敵は凶悪な、最低最悪の魔獣だ。本能のままに動く獣。ならばこちらも、余計な感情など振り捨てて対峙してやるべきだ。そのために直樹は選ばれた。そのために蜘蛛は存在する。この戦いに敗北は許されない。それはすなわち、彼の存在意義の喪失に繋がるのだから。 そこまで考えて、存在意義などというものも感情の産物に過ぎないのではないかと思ったが――そこで、直樹は考えるのをやめた。 この先には底なし沼しかない。 蜘蛛はそれを、よく知っていた。 |
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