ヴェイパー・トレイル おまけ1 ビューティフル・マインド |
自分がこんなに嫌な人間だなんて思わなかった。 人を信じなさい、優しくしなさい、良いところを探してあげなさい。 そんなものはどこの世界の戯言だ。少なくとも自分には無理だ。もしも自分の辞書にこんな言葉があるのなら、今すぐ極太のマジックで塗りつぶしてやる。 直樹は膝を抱え、ソファのクッションに身をもたれる。雨はまだ降り続けていたし、制服のズボンも濡れたままだったが、それを脱ぐ気にもなれなかった。 「ユウ」 自分の唇から漏れだしたその名前がひどく汚らわしいものに思えて、その思考にまた嫌悪感を抱く。どうしようもない悪循環だ。何がしたいのかも分からない。 騙されて、いたのだろうか。 最初はそれでも、自分を納得させるための言い訳をひねり出すことができた。きっと彼女がやって来たのは偶然だ、彼女が魔法使いだから何だと言うんだ、この恋とはなんの関係もない。 それなのに、彼女と顔をあわせて言葉を交わすごとに、少しずつ心の中に疑念が募っていく。それを自覚してしまったら、あとは簡単だった。 何もかもが壊れてしまう。焦れば焦るほど深みにはまる。蜘蛛の網にかかった蝶が、もがけばもがくほどその網に囚われていくように。もう止めようがない。指をくわえて崩壊を見ている他に、いったい何をすればいいのだろう。何をしたって事態は悪化するだけだ。きっと。 テーブルの上のリモコンを取ってテレビを点けた。 朝に天気予報を見たときのままチャンネルは変わっていなかった。時間はまだそれほど遅くない。流れはじめたのはあまり見覚えのない番組だった。いや、普段も見ているのかもしれない。ただ、すぐに他のチャンネルに変えられてしまうだけで。 放映されているのは子供向けのアニメ番組だ。いつもなら一顧だにせず、ドラマの再放送に変えてしまうような番組。やたらと目の大きな女の子が、青い髪の男の子の手を掴んで花畑へと走っていく。 「このお花で押し花を作るとね、恋のお守りになるんだって!」 おいおい、こんなところまで恋、恋かよ。チャンネルを変える気力もない。どうせ変えた先は、こんな子供だましの番組よりもずっと陰惨でドロドロした、それでもやはり恋の物語なのだから。いつも見ないチャンネルに変えたところで似たり寄ったりだろう。ワイドショーならば少しはましか。しかし芸能人の熱愛報道など見たくもない。いつも思うのだが、あれは一体誰が見たがっているのだろう。他人の恋愛などのぞき見て面白いのだろうか。 「困った時はいつでも呼んでね。ラブリー・エンジェルは、あなたをいつも見守ってるよ!」 テレビでは別の女の子が出てきて、ハート型のステッキを片手に笑っている。すぐにコマーシャルが始まり、今しがたの女の子が今度はソーセージと肌着の宣伝を始めた。商売熱心なことで、と思わず笑みが漏れる。 その時、ほんとうに唐突に、直樹の心の奥からひとつの感情が突き上げてきた。 エンディングテーマが始まった。ステッキを手にした少女は、ピンク色の長い髪と茶色のマントを風になびかせて走っている。彼女の視線の先には、仲間と思しき子供たち。 「可愛いなあ……」 思わずつぶやいてしまってから、自らが漏らした言葉に耳を疑った。ちょっと待て。これはどう見ても幼稚園児、せいぜい小学生向けの番組だ。その証拠に、コマーシャルの中には園児が出てきて、お弁当の中に入れられたソーセージを見てはしゃいでいたじゃないか。 それでもやはり抱いてしまった感情は止められない。どうしよう何だこれは、可愛いじゃないか。ブラウン管の中の彼女はただ明るく笑っていて、その笑顔は直樹なんかの手では曇らせることもできない。ずっと遠くにいるようで、それなのにひどく親近感を覚える。 そうだ、あの笑顔はいくら蜘蛛にだって壊せない。 いくら愛したって、そばに置いたって、決して崩れてはいかない。 簡単なことじゃないか。 自嘲と諦観と歓喜が混じり合った感情が心のどこかに生まれたのを感じながら、直樹は声を上げて笑い出した。 ガキの俺には似合いの逃げ場だ。 エンディングテーマが終わっても、次の番組が始まっても、直樹はその場で笑い続けていた。 ……しかしまさか、そのまま本気でどっぷり子供向けアニメ番組にはまってしまうなどとは、この時誰が想像しただろうか。 せっせとアニメグッズを買い集める直樹から、周囲がゆっくりと距離を置きはじめたのは、また別の話。 |
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