魔女は胡蝶の夢をみる
-八章 胡蝶の夢-


胡蝶の夢 :2
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 動けないアキジはまだ校舎の外にいるのだろう。ハンナは呆然と目を見開き、タツキと夏茨を見つめていた。ユリンの右腕には細いペンで描いた赤い紋様が増えている。
「ジュンちゃん先生……? え、なんで、どうして」
 夏茨はやけに冷めた目でハンナを見ている。あれだけ執着しているはずの彼女に、どうしてこんな目を向けられるのか分からない。
「言ったでしょう。こいつは教師の皮を被ったゲス野郎だって」
 もはや猫をかぶる気もないらしく、ユリンはそう言ってわざとらしく肩をすくめた。挑発のつもりだろうか。
「ラウラはこいつが殺したのよ。佐脇くんとやらもそうでしょうね」
 夏茨はにやりと笑い、タツキを床に寝かせると、さっき戻した四角い缶を取り出した。その缶をユリンに見せまいとタツキは自分の真名を呼んだが、魔法を使うに足るほどの力が集まってこない。式を組み直し、慣れないながらも自分の血を使った。身体から離れた血は、タツキ自身とは別の存在だ。何とか打ち出した衝撃波は、夏茨の太い腕で魔法も使わずに弾かれる。
「それじゃあ、これは親友の君に返しておこうか」
 夏茨の手から投げられた缶はきれいな放物線を描いてユリンの腕の中に収まる。「開けるな」と叫ぼうとしたが、焦りのせいか息が詰まり、かすれた声を出すのが精一杯だ。タツキの願いもむなしくユリンは缶の蓋を開ける。
 そしてそのまま、呆然と立ちすくんだ。
 逆にハンナの方が早々と環境に順応し、一歩前へ出る。
「先生、なんでこんなことしたの……?」
「君をいつまでも飾っておくためさ。外面はこんなに美しいのに、どうして中身はこんなにふさわしくない存在なんだろう。先生はそれが惜しくて仕方ないよ」
 意味がわからないのか首をかしげるハンナの横で、ユリンは大事そうに缶を床に置き、右手を突き出した。憤怒の形相を浮かべる彼女の腕に、音を立てて力が収束していく。
「絶対あんたをブチ殺す……あんたを教師だと尊敬してたのが恥ずかしいわ。術者が死ねば、私たちは元のところに帰れるはず。それがどう見ても一番手っ取り早い!」
「ゆ、ユリンちゃん、落ち着いて」
「うるさい! こんなことは言いたかないけど、元はといえば全部あんたのせいなんだからね! あんたをお人形さんみたいに飾っておくために、こいつは自分の教え子攫ってブチ殺してんのよ! 分かったらボサッと見てないで、あいつを殺すの手伝いなさい!」
 アクセントがガラリと変わる。全国各地から生徒がやってくる上、田舎にあるせいで地元民の少ない高宮の校内では、普段は標準語が使われることが多い。だからユリンが標準語圏の出身ではなかったのだと、タツキはついさっき知ったばかりだ。
 ユリンの脳裏にも志野田アイカの記憶が蘇ったのだろう。仲が良かったのなら、なおさらその怒りが大きくなることは想像できる。
「ユリンちゃん、さっき自分で言ったこと忘れたの!?」
「あんな面倒なこと、やってる暇はない!」
 ハンナは伸ばされたユリンの腕を掴む。止めるのかと思ったが、すぐにユリンの腕がまとう力がぐんと増した。
「よかった。ユリンちゃん、思ったよりいいキャラしてるんだね。いいお友達になれそうなんだよ……でも、殺すのはよくない」
「あんた、あいつが許せるの? ラウラだけじゃなくて、あいつ、アイカまで……それにこのままじゃ、神代くんだって死んじゃう。あんた、それでいいの?」
「諦めなければ、たぶん何とかなると思うんだよ。アタシはもう目の前のことから逃げるつもりないし、タツキちゃんだけでも救いたい。これがきっと夢なんかじゃないってことは、仕方ないから認めるつもり。でもね」
 ハンナの銀髪が風にあおられて舞い上がる。刺すような強い力が肌に感じられた。タツキは歯を食いしばり、這いずって夏茨の元から離れようとする。その足を踏みつけられ、思わず舌打ちした。
「アイカちゃん達と同じところには、まだ先生に行ってほしくないの。万が一向こうで顔を合わせたりしたら、きっとすごく嫌だと思うんだよね」
「大丈夫。どうせこいつは地獄に堕ちる。天国のアイカと会うことはない」
 ユリンとハンナを囲む光がオレンジから銀に変わった。そこで、ハンナがユリンの魔法を夏茨から逸らそうとしていることに気付く。まだそんなきれい事を言えるのかと、タツキは逆に感心した。
 室内の力の流れがめちゃくちゃだ。四人がてんでに真名を呼び回るせいで、ろくな魔法が起こりそうにない。
 ふとタツキの視界に、さっき夏茨の手から吹き飛んだ包丁が飛び込んできた。当の夏茨はハンナを捕らえるべく式を組み直しているが、実習室とは違うひどい環境の中ではなかなか上手くいかないようだ。タツキの身体から血と力が抜けていき、そこから立ち上る紫の光はそのまま夏茨の手の中へ消える。タツキは無事な左手を伸ばし、包丁を掴んだ。
 夏茨はずいぶん消耗しているように見える。さっきから魔法の使いすぎだ。ユリンが吹き飛ばしたせいで、部屋の中にある強力な器具はあらかたがあるべき位置から外れ、床の図形はあまり意味をなさなくなっている。最後の「迷子」だった佐脇トウヤが死んでいるということは、もう他に血を抜くために攫ってきた生徒もいないのだろう。
 死者の血は、生者の血に比べれば魔法式内での役割はずっと軽くなる。真名が変質してしまうから、これは仕方のないことだ。
 タツキは夢中で刃を見つめる。脂汗をじっとりとかいた左手では、ともすれば包丁を離してしまいそうだ。みぞおちの傷はそれほど深くもないようだったが、痛いことには変わりない。勢いよく刺されたような気がするのだが、意外に上手くいかないようだ。かと言って、今さら右腕を刺してもなんの意味もない。
 しばらくためらった末、タツキは喉に刃を押し当てた。
 どこを切ってもいい。自分が死んでしまえば、ユリンは夏茨を殺せるだろう。刺し違いになる可能性は否定できないが、それでも犬死によりはましだ。
「タツキちゃん」
 ハンナの声で手が止まる。
「みんなで帰ろう。アキジちゃんも一緒に、高校に帰ろう。まだ夏休みは残ってるんだよね。宿題は終わってる? アタシはこんなところで諦めないんだよ。五人も見殺しにしちゃったんだ。もう願望にすがりついて逃げたりしない。だからタツキちゃんも、人任せにしないで最後まで一緒に来て! ユリンちゃんだって、少しでも仲間が多い方がいいに決まってるんだ!」
 そしてそのまま、夏茨の顔を睨みつける。
「見た目だけでも、先生に好きになってもらえてちょっと嬉しかったよ。ジュンちゃん先生のために伸ばした髪だもん。先生、アタシの憧れだったんだもん。でもアタシも、先生の見た目しか見てなかったのかもね。それはお互い様かな。ごめんなさい」
 ハンナの言葉を聞いて、タツキは苦笑しながら身を起こした。自分の足を踏んだままの夏茨に目をやり、無言で包丁を逆手に持ち直す。
 夏茨の視線がユリンの方へ向けられているのをいいことに、その太股に包丁で斬りつけた。スーツの生地に包まれた筋肉質の脚は、近くで見ると思ったよりも力強く見えた。
「先生、すいません。ほら、俺も世間で荒れてるって噂の十七歳なんで、一度くらいは暴れてみてもいいですよね」
 手応えはあったが、想像とは少し違う衝撃がタツキの左手を襲う。中心こそ外したようだが、それでも奇跡的に刺さった刃を引き抜くと勢いのない血液が流れ出した。夏茨はタツキを蹴りつけようとしたが上手くいかない。返り血と出血と場を満たす力のせいで、全身がどろどろとしたものに包まれているような感覚がある。一瞬、左手にしびれるような感覚が走る。同時に視界が暗くなったということはただの貧血症状だろうか。タツキは包丁を取り落とし、重力に負けて床に倒れ込んだ。
「そうだよな……いつも委員長任せじゃ、申し訳ない」
 つぶやいたタツキの視界の端で、突然天井が爆ぜた。暴れていた力が逃げ場を求めてそこから流れ出す。ハンナがその天井の穴を指さした。その指先から、力がオレンジ色の軌跡を描きつつ一直線に飛ぶ。さらに天井の穴が大きくなり、タイルが剥がれ落ち、コンクリートの中から鉄筋が突き出しているのが見える。あの真上は廊下だろう。
「ユリンちゃん、行くよ!」
 ユリンはうなずき、ポケットから何かを取り出した。それを放り投げると、紋様を描いた右手で指さす。途端、空中でその何かは爆発四散し、少量の液体をまき散らした。ハンナは危なっかしい足取りでタツキの元へ近づくと、その背中を抱いて上半身を起こし、「掴まって」と背中を向けた。無理だろう、と思いながらもタツキは彼女の首に左腕を回す。右腕は動かないのだから仕方ない。夏茨はと見れば、天井の穴の方へと視線を向けたままだ。奥からバイオリンの音色のような、耳に心地よい和音が聞こえる。おそらく誰かが真名を呼んでいるのだろう。誰だ、と思っていると、突然天井の穴から竹刀が突き出す。一拍遅れて、その竹刀を握る主が顔を出した。
「これでいいのかな、春川さん?」
「ありがとう。無茶を言ってごめん」
 竹刀の主――アキジは階下の光景を目にし、何か言いたそうに口を開いたが、そのまま黙って竹刀を構える。ハンナは意外にもしっかりした足取りで歩を進めていく。顔は見えないが、間違いなく真剣な様子だ。アキジは時間稼ぎをしてくれているのだろうか。ユリンはラウラの箱の真名を呼んだようだ。箱があった方向から、それらしい音とわずかな酸味を感じる。
 ユリンが何のために魔法を使ったのかはわからない。戸惑うタツキをよそに、夏茨はなぜか余裕めいた笑みを浮かべる。
「逃げるのは自由だよ。逃げられるのならね」
「神代くんやハンナちゃんのこと、捕まえようと思わないんですか?」
「まあ、神代くんには君や西貝くんという代わりがいるからね。まずはこの部屋を立て直すことが先決かな。ハンナちゃんを手に入れたところで、君たちに逃げられては台無しだからね」
 無言でアキジが何かの液体を穴から垂らした。すぐに臭いが伝わってくる。魔法の副次現象などではない、強い灯油の臭いだ。夏茨の顔色が変わる。
「よく間に合わせた!」
 ユリンが一声叫び、素早く魔法を組み上げた。ハンナはユリンの側にたどり着く。タツキはハンナの肩に頬をあずけながら、眼前で起こる光景を見ていた。
 ユリンの指先から光が放たれ、逆巻く流水のような音を立てて床に届く。先刻ユリンが撒いた液体の上に光の欠片が落ちると同時に、その光が勢いよく燃え上がった。
「先生、すいません」
 アキジが言葉と共に、ほとんど空になった赤いポリタンクを放り込んだ。火がまき散らされた灯油に燃え移り、火勢が一気に激しくなる。ユリンは足元の缶を抱き上げ、ハンナとその背中のタツキを押し上げるようにしながら階段を上がった。そこへ、竹刀を杖代わりにしたアキジが片足で跳ねるようにしながらやって来る。ふと視線をやれば、廊下の真ん中に大穴が開いていた。白い煙がわき上がる。
 ハンナが振り返りざまに魔法を使った。彼女の呼び声に答え、木製の床が音を立てて変質していく。切り出される前の大木に戻ろうとでも言うのか、廊下の板が立ち上がり、寄り集まり、ごつごつとした樹木の質感を得ながらでたらめに伸びていく。平らだった床は、すぐに原型を留めないほどに盛り上がり、密林のごとく変化していった。
 夏茨は追っては来ない。代わりに、背後で激しい爆発音がする。さっき夏茨が立っていた真上の教室が壊れたのか、爆風で扉が外れて飛んだ。出口までのほんの少しの距離が、やたらと長く感じられる。ハンナはタツキの左手を強く握った。タツキはハンナの首に回す手に力をこめる。大丈夫だ、きっと何とかなる。四人が必死に校舎から出ると、それを待っていたかのように派手な爆発が巻き起こる。アキジがバランスを崩してその場に膝をついた。それでも彼は自分のことには構わず、タツキに「大丈夫か!」と声をかける。
 ふと、何度も感じたあの圧迫感が全身を包んだ。ハンナの背中から降り振り返ったタツキの目の前で、旧校舎の二階の外壁がはじけ飛ぶ。
 ――そして、突然フィルムを巻き戻すように修復を始めた。
 あっけに取られるタツキの前で、玄関から吹きだしていた煙が止まる。完全には修復されなかった外壁が、大きなひび割れを何カ所か残したまま動きを止めた。その動きの最中、色とりどりの光と下手くそなオーケストラのような響きと中華料理屋の厨房のような匂いとスナック菓子のような塩気のある味と真綿のような感触が、まとめて身体に襲いかかる。
「解けた!」
 ユリンが叫ぶと同時に、身体を包んでいた圧迫感が消える。ハンナが長く大きく息をついた。アキジはタツキと同じく呆然とその様子を見守る。
「あ……アハハ、たぶんこれで戻れたんだよ! みんなで! タツキちゃんも一緒に!」
 ハンナが泣き笑いの表情を浮かべ、座るタツキの左腕に抱きついた。
「なんで……危ない、だろ。俺のことなんか、放っておいてくれても」
「嫌だよ。タツキちゃんが一緒じゃなきゃ嫌だ。タツキちゃんを助け出せないようだったら、火は点けない。そう決めたのはユリンちゃんだけど、でもアタシは、言われなくたってそうしたと思うんだよ」
「どうして、そんなに……」
「友達を助けるのに、理由なんかいらない!」
「全くだ」
 アキジが同意の声を上げるのと、四人の目の前に野球のボールが落ちてきたのはほぼ同時だった。時を同じくして、すぐ近くでやかましい蝉の声が聞こえる。
「そうだ、病院! こんなことしてる場合じゃない。ちょっと待っててね! 病院に行くまで死んじゃだめだよ!」
「ここまで来て、今更諦められるかよ」
 タツキの返答を聞いて、ハンナは満足そうに笑った。
 気が抜けたのか、タツキは勢いよくその場にひっくり返る。
 青い空に白い雲が流れていった。
 血が足りないだろうか、強いめまいが襲ってくる。
 自分の身を気遣うアキジの声を聞き流しながら、タツキはそっと目を閉じた。


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