魔女は胡蝶の夢をみる
-五章 悪魔と踊れ-


悪魔と踊れ :2
前へ | TOP | 次へ


 階段を駆け上がると、ちょうど上から二人が降りてくるところだった。
「もう、ユリンちゃんってば! アタシ達、けっこう頑張って『危なーい』って叫んでたんだよ! 聞こえないくらいうるさい魔法でも使ってたの?」
「まさにその通り。ちょっと時間が余計にかかったのがいけなかったわ」
 言いながらそばの流し場に近寄り、擦り傷を作った右腕を洗う。それから流し台に腰掛けるようにして足を上げ、右膝から太ももにかけてのの擦り傷を洗った。人目をまったく気にしないその仕草に、タツキとアキジは思わず視線をそらす。
 ハンカチで押さえるようにして傷を拭くと、ユリンはすぐそばにあった教室に入る。タツキにはあまり縁のない礼法室だ。と言うよりは、こんなところに礼法室があったということを完全に忘れていた。覚えていたら、音楽室ではなくここで夜を過ごしていただろう。ユリンはさっさと上履きを脱いで畳敷きの部屋に入り、ぺたりと座り込む。そういえば、彼女の友人には茶道部の生徒が多い。彼女が茶道をしているところはあまり想像できなかったが、タツキが知らないだけで彼女も茶道部員なのかもしれない。
「みんな、上がって。正座しろとは言わないから」
 そう言いながら、ユリンは三人を畳に上げ、さり気なく入口をふさぐような位置に座った。入口近くにあった棚を開け、中から和菓子を取り出す。和菓子といっても個包装の小さな物で、決して高くはなさそうだった。
「食べていいわよ。どうせ私たちが食べたことなんて分からないもの。この空間を消したら少しは向こうに影響があるだろうけど、お菓子が少々減ったくらいじゃ誰も不自然には思わないわ」
 勧められるままに和菓子を手に取った。食べると、甘ったるい味が口の中に広がる。甘党のタツキには嬉しかったが、ユリンは一口食べてから「甘すぎ」と顔をしかめた。
「やっぱりお茶請けはお煎餅がいいわ。甘すぎるお菓子って好きじゃないのよね」
 ユリンの言葉を聞いて、ふとタツキは担任のことを思いだした。結局、「遭難」する前に最後に食べたのは、担任が出してくれた煎餅とミルクティーだったことになる。タツキはどちらも好きだが、その組み合わせはどうかと思う。それでも今は、その取り合わせさえもが恋しい。
「まあ、いいわ。……さて、ちょっと話があるんだけど、いいかしら」
 くつろいだ姿勢でユリンに視線を向ける三人。ユリンはその顔を順繰りに見たあとで、ハンナの顔に指を突きつけた。
「非常に唐突な質問で悪いけど。……あなた、何者?」
 ハンナは小首を傾げた。
「アタシは雪島ハンナ。それ以外に、何が聞きたい? 誕生日からスリーサイズまで、答えられるものには何でも答えるよ」
「じゃあ答えて。あなた、人間?」
 え、とハンナが戸惑ったような声を上げた。タツキとアキジは彼女の言う意味がわからず、顔を見合わせる。
「だってあなた、私たちの学年にはいないでしょ?」
「え、何で……」
「中学校は高校と違って、大した人数がいるわけじゃないもの。その中で魔女って言ったら、私が知らないはずはないわ。『神隠し』の魔法があなたにかかっていても、こうして顔を合わせてしまえば魔法は解けるはず。それでも私があなたを知らないということは、あなたは私たちと同じ学年の生徒ではない」
 ハンナはきょとんとした顔でユリンを見ていたが、やがて大きく首を振った。
「違う違う、それはたぶん誤解なんだよ! アタシ、本当にいつからここにいるのか思い出せないんだけど、たぶんユリンちゃん達より年上なんだ。アタシがここに来てから今までの間に、春が来ちゃったりしてるもん。きっと、学年がズレてるんだよ」
「だとしたら、たぶん一つ上ね。おそらく、この空間ができたのは去年の九月だもの。でもハンナちゃん、六十年ここにいたっていうならともかく、一年も経たないうちに自分がここに来た時のことを忘れる?」
「だ……だって、思い出せないものは仕方ないんだよ」
「今までここに来た子たちのことは、あんなにちゃんと思い出せたのに?」
 ハンナは軽く唇を噛んでうつむいた。きちんと正座して揃えた膝の上で、握った拳に力がこもる。
「分からないものは、分からないんだよ……」
「じゃあ、もう一つ。ハンナちゃん、普段は何を食べてる?」
「え……?」
 ハンナは不思議そうに目を見開き、それから眉根を寄せて考え込んだ。予想外の反応に、タツキは隣に座るハンナの肩を叩き、「あのリンゴとか?」と尋ねる。
「あ……リンゴ。うん、校舎裏のリンゴはたまに食べる……アタシ、植物の真名を呼ぶのはとっても得意だし、年中いつでも実をならすコトくらいできるよ……でも、あれ?」
 合点がいかない、とばかりにハンナは頭を抱える。
「アタシ、ここに来てから、ゴハンをちゃんと食べた記憶がないよ……?」
 周りの反応をうかがうように、ハンナはおずおずと三人の顔を順繰りに見る。ユリンは淡々とした表情でうなずいた。
「やっぱり。可能性としてはあり得るわね」
「どういうことだ?」
 アキジが尋ねると、ユリンは少し考える。
「まあ、分かりやすく言えば……この子は、たぶん幽霊じゃないかと思うの」
「幽霊? だって、そんなもの信じないって言ったのは春川さんじゃ」
「だから、分かりやすく言ったらそうなる、っていうだけよ。私だって、おばあさまのように本当に分かりやすい説明ができるほど理解してはいないけど、そういう現象があるってことくらいは聞いたことあるんじゃない? 肉体と心は、魔法的には切り離すことができるのよ。肉体が滅んでいても、心は時に実体さえ伴いながら生き延びることができる。普通の空間なら力が混濁してすぐに崩れてしまうかもしれないけど、ここは小さな閉鎖空間で、しかも旧校舎に大量の力が集められているから、環境としてはかなり安定しているはず。肉体を保持する必要がないのなら、食事をとる必要もない。つまり、あなたが死んでいて、魂だけがこの世界をさまよっているとしても、ちっとも不思議はない」
「ち、違うんだよ! アタシ、少なくともまだ死んではいないもん!」
 そんな現象の存在を聞いたことがあるような気がするが、いざそう言われても納得はできない。だってハンナは現にここにいるじゃないか、と思いながらタツキは彼女の横顔を見た。彼女はユリンに詰め寄り、必死な表情で訴えている。
「そうだよ。大体、死んだら力の位相も変化して、心だけ取り出すなんてことしてる場合じゃなくなるだろ。幽霊になるほど力が余ってんなら、その力で身体を治療して生き返れよ」
「だから、アタシまだ死んでないってば」
 タツキの肩を掴んで、ハンナはすがりつくように叫んだ。
「どうかな?」
 言いよどんだタツキに代わり、アキジが畳みかけるようにそう尋ねる。ハンナの頬にさっと朱が差した。
「も……もうアタシ知らない、知らないんだよ!」
 ハンナは勢いよく立ち上がると、ユリンを突き飛ばして上履きを突っかけ、廊下へと走り出した。慌ててタツキとアキジが後を追うが、はじめて会った時のように、彼女は廊下から忽然と姿を消していた。


前へ | TOP | 次へ