魔女は胡蝶の夢をみる
-三章 ドールハウスの人形たち-
ドールハウスの人形たち :3 | 前へ | TOP | 次へ |
扉の鍵は閉まっていたが、床近くにある背の低い掃き出し口が開いていた。ハンナがそこから教室の中へ潜り込み、内側から鍵を開ける。 「なんだか久しぶりな気がするんだよ……ところでユリンちゃん、何するの? 濃度地図でも作る?」 「そうね。それがいいわ」 二人が話しているのは、魔法の元になる「力」の分布を示す地図だ。自然な状態なら均一になるが、魔法を使うとその濃度が歪む。この校舎内では、四つある魔法実習室がもっとも力の濃い空間になるはずだ。これらの教室には、魔法に不可欠なその力を集めるためのさまざまな設備が整っているため、放っておけばどんどん濃度が高まっていく。 棚を開け、目当ての薬品を探していたハンナを、ユリンが手で押しとどめた。 「座ってていいわよ。私一人でやるから」 「え、でも……」 「いいから座ってなさい。大人数でやると混乱するわ」 ハンナが取ろうとしていた茶色の小瓶を取り、ラベルを確認しながらさらに幾つかの小瓶を取り出す。ピペットと試験管を取ってそのうちの一本を試験管立てに差し、さらに鞄からレポート用紙とボールペンを取り出した。 「あ……春川さん、使う? さっき俺たちが使ったやつなんだけど」 レポート用紙を裏返し、白い面に学校の図面を描き始めたユリンに、タツキはずっと持っていたさっきの地図を見せる。ユリンはそれを一瞥して、「汚いからいらない」と答えた。 「そんな図面で魔法をかけたわけ? 信じられない。男子の神経って分からないわ」 「別にいいだろ、上手くいったんだから。校内の鏡を呼んで、雪島さんを探したんだ。これがあったから、さっき春川さんと会えたんだし……」 「あきれた。その運の強さだけは認めてあげるわ」 言いながらも、ユリンは定規とボールペンを使って地図を描き続ける。高校の敷地とその建物を、かなり正確だと思われるサイズと配置で描いていった。 「うわあ、すっごくキレイだ! さすがユリンちゃん、描き慣れてるね!」 「高宮の校舎図なら、幼稚園から大学まで全部描けるわよ。こういうのは得意なの」 はしゃぐハンナには目もくれず、あくまで落ち着いた言葉を返すユリン。アキジは興味深そうに机の上に並べられた薬品を眺め、タツキはそばの椅子に腰掛けてあくびをした。汚い、とストレートな感想を叩きつけられようと、地図を描いたのはアキジなのでタツキが傷つく筋合いはないし、そもそも彼女のやたらと攻撃的な口調に、少しずつ慣れつつある自分がいた。 タツキが頬杖をついて見ている前で、ユリンは紙の四隅にピペットで薬品を垂らす。薬品が紙の上に赤い染みを作った。 その主成分である動物の血は魔法を手助けするよい薬になるが、古くさい、生臭い、気持ち悪い、と若い魔法使いからの評判は散々だ。挙げ句、最近は動物保護団体までが乗り出してきて、血を魔法に使うことに抗議してみたり、残酷だと魔法使いをこき下ろしてみたりと、面倒なことになっているという。どういうわけか社会科の教師が説明していたそんな話を思い出しながら、タツキは再び小さくあくびをした。 「よく考えてみりゃ、豚肉食ってる奴らに『豚の血を魔法に使うなんて残酷だ』なんて言われたくねえよな」 「ええと……それ、だいぶ前に夏茨先生がしてた話だったかな?」 「そうそう。人間の血を使うとか言われたらさすがに俺も引くけど、豚くらい別に――」 社会科の教師である担任の名前を出すと、横からひょいとハンナが身を乗り出してくる。 「カイバラ? って、ジュンちゃん先生のこと?」 「え、あんたもあの先生に当たったことあるの?」 「アタシはジュンちゃん先生のファンクラブ会員一号なんだよ! まあ、会員はアタシしかいないんだけどね! 部活の顧問だったし、社会の授業も持ってもらったことあるし、しかも部活は中高合同だったから中学校の時からの仲良しさんなんだよ! 七不思議の話だって、アタシに教えてくれたのはジュンちゃん先生なんだ。ジュンちゃん先生のことなら、何でもアタシに聞いて!」 ハンナは幸せそうに頬をゆるめる。夢見る乙女、という形容がぴったり当てはまるような表情だった。胸に手をやって、伏し目がちに語り出す。 「夏茨ジュン、二十九歳、男性、独身。中・高と高宮で過ごして、思うところあって大学は普通の大学に進学。地歴の教員免許を取ったら、その頃ちょうど高宮が地歴の先生を募集してて、ダメもとで受けてみたら採用されちゃったんだって。好きな食べ物はおせんべい、好きな飲み物は紅茶、好きな色は白。自分を動物にたとえるならクマ、もし百万円あったら新しい車を買いたいって言ってた。それでね、好きな女の子のタイプは、髪が長くて静かな、お人形さんみたいな女の子なんだって! アタシってば、ジュンちゃん先生の好みのタイプ、そのものズバリだと思わない?」 「いや、『静かな』子が好みって時点で、あんたに望みはないと思う……」 「そ、そんなことないんだよ! アタシだってやろうと思えば静かになれるんだよ?」 「じゃあ、今から静かにしてみてくれねえかな」 ぐ、とハンナは言葉に詰まり、「分かった!」と言ってタツキの隣の椅子に腰掛けた。口をへの字に曲げて、正面に座るユリンの額のあたりを凝視する。スカートの上に置いた両の拳が、小刻みに震えていた。 「いや、そこまで無理しなくても」 「む、無理なんかしてないんだよっ」 ハンナが答えたその時、ユリンのピペットが地図の真ん中に別の薬品を垂らす。レモン色の液体が地図に落ちると同時に、ユリンは手早くピペットを戻し、両手をかざして魔法を発動させた。甲高い電子音が響き、オレンジ色の風が四人の頬を撫でたのとほぼ同時に、地図に落とされた薬品がさっと色を変える。赤からオレンジ、黄色、緑、青と、鮮やかな極彩色に地図が染め上げられ、表面をさっと白い霧がかすめた後には、しわもなく乾ききった紙だけが残る。 術者でないタツキには味や臭いまではほとんど伝わってこなかったが、ユリンはわずかに顔をしかめ、「酸っぱい」とつぶやいた。 参考書どおりの見事な魔法を成功させたところで、ユリンはその紙の端をつまみ、三人に見えるように胸の前にかざした。 「さて、これをどう思う?」 全体が淡い黄色に染め上げられた地図の中、左上の一部だけが色彩豊かに彩られている。 その虹色の中心にあるのは、今は使われていない旧校舎だった。 |
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