花籠の囚人
-0 五浬霧中-


五浬霧中
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 風の強い日だった。
 小船は確実に沖へ流されていく。発動機が動き出す気配はない。
 春風の代わりに、加工竹管が吹き出す熱風が額を撫でる。ハクト・グレイダームはくたびれた発動機に工具を叩きつけ、ぎり、と歯噛みした。両腕で抱えられるほどの心臓部に、その五倍ばかりある熱源と冷却水筒、歯車の塊が絡みついている。本来ならやかましく回っているはずの歯車は、もう長いこと押し黙ったままだ。
小さな心臓部の右側、加圧部分は十分に熱せられている。減圧部の冷却も正常だ。無骨な四角い心臓部の周りを黄色い冷却管が取り巻き、断熱材でくるまれた熱源がそばに寄りそう。本来ならばその温度差から、高圧空気が船の動力を生むはずだ。接合部は何度も確かめた。螺子も締め直したし、引っかかるところもない。ならば圧縮空気が漏れたか。なぜ圧力計が設置されていないのだろう。目測でむやみに加圧すれば、竹管が破損しかねない。
「ああ、もう、意味わかんねえ! これだから古い型は!」
 正直な感想が口をついて出る。
「トウヤ、船の現在位置よこせ!」
 船のやや後方底部に据えられた、狭苦しい機関室の中から叫ぶ。操舵台から「やばい」と叫ぶ声が聞こえた。この船に乗るもう一人、技師学校での相棒にして親友の声だ。
「三百八十! 現在位置が制限線を越えた、じき霧に突っ込むぞ! まだ動かないのか!」
「さっぱりだ、何が悪いのか見当もつかねえ。そっちはどうだ、離脱できそうか!」
 返事の代わりに、数字だけの簡潔な報告があった。航行距離計は淡々とその数字を増していく。この船の針路は西。操舵台の相棒にはけぶる霧が見えていることだろう。四方は湾、透明度の低い塩水が船を取り巻いている。進行方向左手、南側にはかすかに岸が見えるはずだ。距離はせいぜい五浬といったところ。発動機を積んだ船ならばたったの五浬、しかし今はその五浬が途方もなく長い。相棒の鼻声が苛立たしい。泣きたいのはこっちだ。
 足音が階段を下りてくる。入口に目をやると相棒が立っていた。双眼の硬度鏡を額に上げ、帽子は被っていない。馬鹿野郎、針路から目を離すな。喉まで出かかった言葉を、ハクトは結局呑み込んだ。足音が乱れている。まずいな、と舌打ちした。相棒の、振り乱した黒い髪の下で、同色の瞳が落ち着きなく揺れる。これではまともに操舵をしている場合ではない。
「お前はこっち見てろ、トウヤ」
 工具を腰帯にねじ込み、右目の拡大鏡を額に押しやって、ハクトは相棒を突き飛ばすようにして操舵台へと駆け上がる。開けた視界の向こうに、乳白色の霧がぼんやりと見えている。もう距離がない。
 もとよりハクトはただの技師であり、距離計や磁針とにらめっこするような航行は初めてだ。それは相棒も同じこと。慣れない操舵を相棒に押しつけたのはハクトだし、そこに少しばかりの後悔を覚えてもいる。仕方ないじゃないか、ただ何浬か船を走らせて、おんぼろ発動機の調子を確かめるだけのはずだったんだ。苛立ちながら歯噛みする。
 学校で取らされただけの簡易免許でも、この等級の船ならば運転することができる。五人も乗ればいっぱいの小さな漁船だ。操舵輪を握ってみたが、どうしようもないことはすぐに分かる。舵でどうにかなるものではない。船は進行方向に対して右の腹を見せるようにしながら、あきれるほどの勢いで流されていた。復原性の高い漁船でなければ、とうに転覆していただろう。
 風がハクトの茶髪をなぶりながら吹きすぎる。せめて帆船なら、この風を使って北へ逃れられたかもしれない。羽根車がこんなにも役立たずだと思ったのは初めてだ。背後から、相棒の哀れっぽい声が聞こえる。もごもごと鬱陶しい。
「すまない、僕のせいだ……もっと早い段階で離脱できていれば」
「うるせえ、こんなもん俺でも無理に決まってる!」
 一瞬の沈黙があった。発動機がその仕事を果たそうと、必死にあえいでいる。
「ハクト、距離はいくつだ」
「四百。とは言え、これじゃ距離計なんざ役に立たねえよ」
 出てきたばかりの機関室と、その入口に立つ相棒に目をやった。船の揺れに踏ん張りが利かず、相棒は壁に体重を預けた。編んだ黒髪が頭を追いかける。ハクトはそばの柱に手をかけ、思わず笑みを浮かべた。そう気を落とすな。一人で死ぬわけじゃないんだから。
 船はまっすぐ西へと進む。舵板もなにもお構いなしに、波は船を叩き、捕まえ、西の果てへと引きずっていく。この先にあるのは霧だけ。つまり、湾の終わりだ。空はしっかり晴れているし、南の空の虹だって鮮やかに見えるのに、この波はどこから来るのだろう。そういえばどこかで、月に一度、西へ向かう潮流があらわれると聞いたことがあるような気がする。しかしそれは、こんなにも乱暴なものではなかったはずだ。
 世界の果てには何があるの、と子供はよく親に尋ねる。ハクトも幼いころに、父親にそう訊いたことがある。「何もないよ」と、父は答える。「霧の向こうには何もないんだ。湾の水は世界からこぼれ落ちて、どこでもない場所に流れていくんだよ」と。湾の果て、山の果て、世界の果てではいつも毒の霧が渦巻き、すべてを飲み込んでしまう。人がその霧を吸えばたちまち喉が腫れ、やがて死に、骨肉は埋めるまでもなく朽ちる。
 相棒がやってきて、柱を掴んだままのハクトの代わりに操舵輪を握った。まるでそうすることが当然のように、ハクトは七段の階段を飛び下り、機関室へともぐり込む。工具を掴む手がうまく動かない。爪が白くなるのを見ながら、馬鹿らしい、とつぶやく。こんなところに逃げこんだところで、霧から逃れられるはずもないのに。
 発動機のほかには、人ひとりがようやく入れるだけの小さな機関室だ。室、と言うよりは大きな箱に似ている。壁は純正の金属で出来ていた。そのくせ発動機には安い硬木や、さらに一段落ちる加工竹がふんだんに使われているのだから、この船の持ち主は金のかけ所を間違えたとしか思えない。間違えたと言えば、技師見習い二人に発動機の整備を頼んだのも大きな間違いだ。慣れた船乗りならば、きっとこの潮流から逃れる術を知っているだろう。
 十八年、考えてみれば短い人生だった。まだ学校を卒業もしていないのに。流れ込んでくる湿り気は霧の前触れか。心なしか息が苦しい。
 何が悪かったのだろう。たぶん、なにより運が悪い。まったくひどい話だ。船が湾の果てへ流されるなんて、予想できるほうがどうかしている。ハクトは手を伸ばし、機関室の扉を閉めた。指先が引っかかり、扉は音を立てて閉まる。相棒がどうしているのか、そんなことには興味もなかった。
 すき間からうす白い霧が忍び寄る。吸うまいと思っても、もはやハクトに逃げ場はない。発動機に吊した灯りを消したが、熱源が放つ赤光はしつこく霧を照らし出す。
 扉ごしに小さな水音がした。トウヤが飛び込んだのだとハクトは思う。無駄なのに。霧の毒は生き物の精気を奪う。霧に巻かれたと思った時には既に手遅れだ。だからこうして、ハクトは金属の壁に背中を押しつけたまま動けずにいる。疲労感が全身を包む。硬木からも少しずつ精気が抜け出して、断熱材が煙を上げるのがわかった。硬木の難燃性が失われはじめたのだ。精気の代わりに釉薬をかけただけの加工竹が、はじめて頼もしく見えた。喉の奥がうずく。
 船が大きく揺れた。発動機の熱源が足に押しつけられ、思わず声を上げる。潰れた声に自分でも驚いたが、しょせんその声を聞くのは機械だけだ。祖霊への祈りが口をついて出る。頬を伝うのは涙か、それとも漏れた冷却水か。
 直後、天地が逆さまになり、冷却管が音を立てて砕けた。耳に届く音が遠い。厚い幕の向こうで鳴っているようだ。管の鋭い破片が上腕に突き刺さる。管から吐き出される空気は弱々しい。やはりどこかで空気漏れがあったのか。そう思ううちに天井だった部分に肩を叩きつけられ、首が強く揺すられた。とっさに手で額の拡大鏡をかばう。
 ところで、相棒は無事だろうか。無事ならいいのだが。けれどそうだとしたら、俺は一人で死ぬことになる。それは少し寂しいな。でもまあ、男と心中ってのもしまらない話だ。脈絡のない思考が堰を切ってあふれ出す。
 耳の奥で鈍い音がした。
 認識できたのは、そこまでだった。


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