ヴェイパー・トレイル 第三話 蜘蛛と千頭鬼  戦いの予兆だ。  電話を切った後、直樹はしばらく考えた。  千頭鬼はつい先日、その主を佐藤浩と定めた。その弟でなかったのがせめてもの救いだ。  気がつけば佐藤浩も高校を卒業していた。その弟は再び都内に戻り、従兄の家から高校に通い始めた。その方が直樹にとっても安心だ。何せあの弟、佐藤隆は、少しばかり危険な兆候を見せている。 「お墓を作ってるんだ」  以前会った時のことを思い出す。あれはもう随分前のことだ。実年齢よりもいくつか年下に見える、無邪気な表情。 「鳩さんのお墓。放っておいたら可哀想だから」  公園の隅に穴を掘りながら、屈託のない笑顔で答える。 「死んでたのか?」 「ううん、僕が殺した」  即答だった。もっと小さな子供ならまだしも、中学生の返答ではない。どちらかと言えば頭が足りないことは知っているが、しかしこれはあんまりだ。 「どうして?」 「刺したらどうなるのかなって、ちょっと気になったんだ」  ただの子供ならいい。せいぜい好奇心から殺せるのは虫くらいだ。鳩って何だよ。それが正直な感想だった。かたわらに横たわる鳩の死骸は、その喉をばっさりと斬られている。よく考えれば、実に不自然な状況だ。  この子供じみた好奇心が、あの魔獣のような、人間には不釣り合いな力を得たら――ナントカに刃物、という言葉が思い浮かんで、直樹は小さく首を振った。  そして悲劇的なことに、この子供の中に秘められた力は、まず間違いなく兄より強くなるだろう。そうなれば千頭鬼は彼の前にかしずく。この無垢なる残酷さの前に。 「……どうしたの、怖い顔しちゃって。ひどい顔になってたわよ」  声をかけられ、現実に引き戻される。直樹は携帯電話をしまいながら、慌てて嘘をこしらえた。 「あ、いや、ちょっと急にバイトが入っちまって」 「それは災難ね。私もよくあるんだ、他の人が急に来れなくなっちゃったりしてさ。どうも私、暇人だと思われてるみたいでね」  院生だって暇じゃないんだから、と口をとがらせる六ツ川明美。結局、彼女とは一緒に院まで進学してしまった。あれだけ学業よりも仕事を優先していながら、よくもまあ留年せずに進学できたものだと、我が身を振り返って不思議に思う。 「じゃあ、バイト頑張ってね」 「ああ」  相変わらず彼女には彼氏のひとつもいないのだそうだ。このままじゃ負け犬まで一直線ね、とよく茶化している。そろそろ彼氏の一つもできてもいいだろうに、それが出来ないのか、それともする気がないのか。おそらくは後者だろう。  下手に恋愛沙汰などでもめるよりも、このさっぱりした関係が心地良い。大学院は悪くなかった。少なくとも、あの帝国のダミー企業に通い詰めて雑務をこなすよりは、ずっとましな生活に違いない。  窓の外を睨んで、直樹は顔をしかめた。  佐藤浩が失踪した。  それが、電話の内容だった。  失踪は彼自身の意志か、そうでなければどこの馬鹿の仕業だろうか。考えながらバイクを走らせ、ほどなくして帝国の土を踏む。心当たりはあちこちにありすぎて分からない。無害な玩具を装っても、千頭鬼が強力な武器たりえることに変わりはない。これが悪用されでもしてみろ、それは直樹の、いや戦闘機のアイデンティティに関わる問題だ。散歩の途中で首輪の引き紐を放してしまった飼い主は、噛まれた者に責められてしかるべきだろう。  佐藤浩本人とて、自らが秘めた危険性は知っているはずだ。そう不用意な行動を取るとは思えない。 「あのバカ、見つけたら絶対ブン殴ってやる」  上着のポケットで携帯電話が震えた。バイクを止め、周囲に人気がないことを確認した上で電話を取る。  この事態をお上も一大事と見たか、いつもに比べれば彼らもやたらと協力的だ。報告書に判子を押すことすら面倒くさがる帝国が、いったい何を敵に回したのやら。どこかで誰かが大きなヘマでもやったのだろうか。  電話の内容は直樹の疑念を裏付けるものだった。電話の相手は明らかに犯人を断定しているような口振りだ。いざという時の逃げ道を確保するような鬱陶しい物言いだったが、まあいい。偵察は戦闘機の本業ではないから、その手間が省けることは素晴らしいことだ。  まだ日本でふんぞり返っているであろう連中に一言連絡を入れて、それから自宅にくり返し電話をかけて発信履歴を潰す。もちろん携帯電話会社にまで手が回れば発信先など簡単に分かってしまうのだろうが、まあ気休めのようなものだ。  左腕にまとった幻覚の下で、蜘蛛が静かに脈打っている。そろそろお前の出番だぞ、と呼びかけてみた。了解、と返事があったような気がして、直樹は小さく微笑む。子供じみた感傷だとは自覚しているが、これくらいならバチは当たらないだろう。 「それじゃあ一発ブッ壊しに行くかね、相棒」  帝国の町並みは日本と変わらない。違いはただ、そこに歩いている人間が余さず魔法使いであるということくらいだ。小さな違いは色々あるが、気にしなければどうということはない。バイクを走らせながら町並みに目をやる。頭の中の地図と照らし合わせ、行くべき場所へとハンドルを切った。  目指すは地下。構造的に発生が避けられないスラム地区だ。物語に出てくる天空城とは違い、この魔法の国は厚い地層を伴って空に浮かんでいる。詳しいことはよく知らないが、とにかくそうでなければ浮かばないのだそうだ。水道管やガス管が通った下に無法地帯たる地下街が発生するというのは、この国だけが抱えている問題ではないらしい。  偉そうな連中からの指示を二回受け(お互いが矛盾する指示だったが、取りあえずはより偉い者からの指示を優先した)、おかげで大して広くもない国中を走り回るはめになった。 「面倒くせえ」  蜘蛛が行動を急かしている。ちょっと待て、あと少しだ。  あと少しで、気持ちよくブッ壊せる相手が見つかるからな。  そう考えて、思わず唇を歪める。他人のことなど言えた義理ではないじゃないか。無垢なる残酷さがどうこう、などと偉そうな口を利くなら、まずは魔獣使いよりも自分が先に始末されるべきだ。  何故だろう、そんなことも気にならない。やけに気分が浮き立っている。こんなことでは、こちらの方がよほど凶悪な魔獣になってしまう。いや、実際その通りだろうか。  魔王を作るのは勇者だ。魔王だって、最初から魔王になろうと思って存在しているわけではあるまい。ならば勇者を作る直樹は、いったい何様だと言うのだろう。  自分が消えれば魔王は、と考えて小さく首を振った。死んだところで代わりはいるだろう。ここまで強く蜘蛛と同調できるかどうかは知らないが。まったくこの蜘蛛というのも厄介な魔法だ。たかが腕に彫られた刺青のくせに。魔法的意味がきちんと計算された模様は、直樹の身体に流れる魔力を餌に動き出す。これだって魔獣と変わりやしないと思うのだが、偉いさんに言わせれば全く違うらしい。  分かっている、もうすぐだ。殺し足りないのは、佐藤隆も自分も同じ。だから当代の魔獣使い、佐藤浩には無事であってほしい。彼が死ねば千頭鬼は彼の弟のもとにかしずくだろう。直樹と同じように魔獣の飢えを制御できない、それどころかその飢えに同情してしまいかねない、魔獣使いとしてはある意味無能なあの少年に。  ただ平穏に暮らしていければいいのに、蜘蛛は直樹の思考の根っこの辺りに居座って、うるさく飢えを訴える。否応なしに直樹を戦場に引きずり出し、強くなれと命じ、不要なものを直樹の代わりに切り捨てる。  違う、違う、本当は逃げ出したいなんて思ってなんかいない。逃げ道は残されていないこともないのだから、本当に嫌ならばとうに逃げているはずだ。なに、逃亡なんて簡単なことだ、ただ姉の命と自分の左腕、それからこれまでの人生を犠牲にするだけで済む。  苛々しながらバイクのスピードを上げた。無理な追い越しをくり返し、車の間をすり抜ける。制限時速三十キロオーバー。知ったことか、今は緊急だ。  ああそうだ、久々の戦場に興奮していることは認めよう。直樹は軽く唇を噛んだ。さてはて、どいつが魔獣なのだか。  景気よく壊して殺して叩きのめす。いつの間にこんなに手際が良くなったのだろう。戦場と敵を与えられれば、整備された戦闘機は調子よく戦い続ける。乗組員の意思なんかおかまいなしだ。戦闘機はただその本能に従う。ふと、機械より鬼の方がまだ人間に近いよな、と思った。なんだ、やはり千頭鬼なんかより、戦闘機の方がよほど化け物じゃないか。  後始末は自分ではない誰かの仕事だ。直樹はただ壊すだけ。どうせ市井の治安維持隊が使う魔法など、銃にも劣る代物だ。こういうことはプロの異邦人に任せておけばいい。そして偉いさんは、我が国は何ら武力など有してはおりませんと口を拭うのだ。  似たような境遇の人間はあちこちにいるのだろう。偉いさんの子飼いになっているのは直樹だけではないだろうし、彼らと利害が対立しないとも限らない。昔々、直樹がまだ蜘蛛の正体も理解しないうちに襲ってきた無粋な誰かさんのように、他人の顔をした人形を操って事態を掻き回す馬鹿もいる。そういう面倒な馬鹿が相手にいると大変なことになるのだが、幸いにして今回の相手はただの馬鹿だったようだ。  扉を蹴破り部屋の中にいた二人のうち一人の首を絞めてもう一人を切り刻み、床の真ん中で脳天気に眠っていた目的の人物を視界に収める。 「迎えに来てやったぞ」  直樹の声に反応して、佐藤浩は鬱陶しそうに目を開けた。うるせえ、起きろ。苛立ちと怒りを込めて睨みつけると、佐藤はそのまま目を逸らす。  そして周囲に転がっている人の腕を見つけ、弾かれたように身を起こした。 「え、あ、何……」 「お前を助けに来たに決まってんだろ。ブン殴るぞバカ、死ね」  起きあがった途端に佐藤は胸元を押さえて大きく息をする。苛つきを抑えられないまま彼を閉じこめる不可視の檻を破壊し、両腕に絡まる鎖を引きちぎった。彼の呼吸と魔力の流れを乱していた鎖は、飴のようにあっさりと切れてしまう。 「あ……おい、もう大丈夫、来い」  顔をしかめ、かすれた声で呼ばわると、佐藤のそばに一頭の獣が現れた。黒い毛並みをしたオオカミのような魔獣。もちろんこれはこの獣が持つ顔のひとつに過ぎない。 「こ、殺したん、ですか」  佐藤はそばに転がる死体を指さす。見れば分かるだろうに。  魔力の流れが戻ると共に、身体機能も正常に戻ったらしい。拘束されるまでに随分暴れたのか、腹や腕、足などあちこちに傷が見える。再び出血がはじまったその傷口を、魔獣が甘噛みしていった。痛みも感じられるようになったようで、身を起こした姿勢のまま動くに動けない様子だ。 「賢明なバカはもう逃げた。殺したのは筋金入りのバカだけだ」  うるさい、黙れ、そんな目で俺を見るんじゃない。誰のせいだと思ってるんだ。くそ、バカ、死んじまえ。そこのバカの代わりにお前が死ねば良かったんだ。  直樹が内心で毒づいているのに気付いたかどうかは分からないが、佐藤は「すみませんでした」と小さく頭を下げた。 「ごめんで済んだら警察も俺も要らねえよ。分かってんのかクソ魔王。だいたい何で捕まってんだよ。お前のペットは守ってくれなかったのか?」 「襲われた時に殺すなって言ったのは僕です。あと、なんか知らないけど強い人がいて、その」 「死ね。そこで殺しといた方がまだ世間のためだったんだ」  お前は自分の立場がどれだけ脆いものか分かっているのか。続けようとしてやめた。さすがに傷がひどい。説教に費やす時間はない。その辺に止めてきたバイクも心配だ。いや、どちらかと言うとバイクの方が心配だ。そういうことにしておく。  どうせこんな場所で何があったところで、偉いさんは何も知らないふりをするだけだ。先刻の敵とて、殺したところで犯罪にすらならない下層民だろう。最後の汚い仕事だけは戦闘機に任せて、自分は基地から傍観するだけ。  知ってるか、と思わず口を開きそうになる。俺もお前も、この国の住人からは人間としてすらカウントされていないんだぞ。言っても詮無いことだし、彼もとうに知っているかもしれないが、愚痴のひとつも吐きたい気分だった。 「退け、千頭鬼。お前のご主人を病院に連れて行く」  直樹の言葉を理解したのか、佐藤が魔獣を制したためか、とにかく獣は牙を剥くだけで襲っては来なかった。直樹が佐藤を担ごうとすると、獣は直立する影となって主人を支える。 「いい子だ。そのまま担いでこい」  壊したドアを踏み越えて、直樹はバイクの元へと走り出す。奥の方に人の気配がしたが、知ったことか。蜘蛛はひとまず満足している。佐藤に手を出した以上直樹が来るのは自明なのだから、わざわざ目撃者の口を封じる必要もない。  バイクは無事にそこにあった。まるで直樹の意思を汲んだかのように、魔獣は佐藤をタンデムシートに押し上げる。久しぶりに後ろに人間を乗せたと思ったらこれでは、バイクの方もへそを曲げそうだ。 「病院に着くまで死ぬなよ」 「さっき死ねって言いませんでしたか、山下さん」 「うるさい」  反射的に答えてしまってから、佐藤が自分のことを名前で呼んでいることに気がついた。いや、それは当然あり得ることで、むしろ他にどう呼べというのだという気はするのだが、しかし何か、強い抵抗感がある。 「ありがとう、ございました」  予備のヘルメットを後部座席に放り、佐藤が掴まったことを確認してアクセルを踏み込む。下手をすれば振り落としそうだし、こんな怪我人を乗せて人目のあるところを走るわけにも行かない。それよりもまずは地上に出なければ。  ところで、今この馬鹿は何と言った? 「誤解するなよ。ただの仕事だ」 「それでも。本当に、すみませんでした」  うるさい。謝って済むなら警察も自分も神様もいらない。これだから馬鹿は嫌いだ。しっかり目を開けて見るといい。お前も俺も、平穏な生活なんてものが似合うタマじゃないだろうに。  そうだ、蜘蛛やこいつに責任転嫁したって仕方ない。俺の意思じゃない、俺の名で蜘蛛を呼ぶなと屁理屈をこねたところで、そんなものはただのわがままに過ぎない。結局ここにいるのは自分の、山下直樹自身の意志だ。くそったれ。  小さく舌打ちする。馬鹿なんかこの世から消えてしまえばいい。  もちろんその時には、直樹も一緒に消えてしまうだろうけれど。  スピードを上げて向かう先は、やはり帝国の施設。  結局のところ、今の自分の居場所はここにしかないのだ。  その日の夜、少しだけ泣いた。  研究室の前の廊下で、六ツ川明美は壁に寄りかかってメールを打っていた。直樹が来たことに気付き、笑顔で駆け寄ってくる。 「おはよう! ……あれ、なんか元気ないぞー、どうした?」  片手にはめたパペットを直樹の頬に押しつけながら、明美はけらけらと笑う。確か、チョコレートだか焼き菓子だかについているシールを集めると貰える人形だ。 「あ……えーと、おはよう。集まったんだ、シール」 「うん。〆切ギリギリで、もう大変だったんだから。あ、山下ちゃんも食べる?」  鞄から板チョコを一枚取り出して、明美は直樹の手に握らせる。 「もう当分はチョコなんか見たくもないから、これあげる」 「え、これ丸ごといいの? どうも」  受け取って、直樹は軽く頭を下げる。 「欲しかったらまだまだあるよ? 板チョコのシールを三十枚って、正直あり得ないわよね」 「そんなに買ったの?」  だってこの子が欲しかったんだもん、と明美はパペットの口を動かしながら言う。  南側になるように造られた研究棟の廊下には、こんな朝方から日が射し込んでいる。こうして窓際に立っていると、よく晴れた空が目に入った。  本当に今日は昨日の続きなのかと疑いたくなることがある。もしかすると自分はただ、夢と現実を混同しているだけなのではないかと思いたくなる。明美のパペットを撫でてから、直樹はチョコレートの包み紙を剥いた。 「それで六ツ川さん、これ何枚食べたの?」 「山下ちゃんにあげたの含めて、八枚残ってるわ」 「えーと、じゃあ……八千キロカロリーくらい?」 「や、やめて! それは計算しないでっ」  耳をふさぎ、芝居がかった仕草で明美は首を振る。明美の髪に押しつけられて、パペットが苦しそうだ。明美はパペットを髪から離すと、空いている右手で汚れを払った。汚れたようには見えなかったが、やはり気になるらしい。 「山下ちゃんの意地悪。あんまり言うとチョコ返してもらうよ」 「別にいいよ。よく食って太れ」 「ひどーい!」  そっぽを向いた明美は、「あ、飛行機」とつぶやく。彼女の視線の先を追うと、確かに青い空を飛行機が飛んでいった。白い飛行機雲が長い尾を引いていく。  板チョコを割って一欠片を食べる。ミルクチョコレートの味わいが口の中を満たした。べたつかない甘さが心地良い。 「山下ちゃん、ホントに大丈夫? 昨夜はちゃんと寝た?」 「大丈夫だって。寝たよ」  むしろ英文資料に目を通すのも頼まれていた調べものをするのも、全てを放棄して昨日は寝たのだ。そこだけは胸を張れる。  再び窓の外の飛行機雲に目をやった。少しずつ消えていく白い雲。こんな時間もいつまでも続くわけではない。学生でいられるのだって恐らくはあと二年、それが過ぎたらどうなることやら。 「ねえ、本当にどうしたの?」 「いや、時が経つのは早いなあ、と」  思わずつぶやくと、明美は隣で腹を抱えて笑い出した。何がツボに入ったのか知らないが、やかましいことだ。 「似合わないよ山下ちゃん、あんたに詩人は似合わないっ」 「何だよ、失礼な」 「だってなんかオッサン臭いわよ、それ。私たち、まだ一応は若者じゃない。そうやって黄昏れてると、あっという間にホントのオッサンになっちゃうわ」  それも悪くない、と思いながら苦笑する。明美はしれっとした顔でその先を続けた。 「もう青春って歳でもないんだし、そろそろ彼女でも見つけたら? 何ならまた合コン誘うよ」 「あ……いや、いいんだそれは、本当に。ていうか、どうしてそんなに俺のこと構うわけ?」 「浮いた噂がなさ過ぎて、ついにはホモ疑惑まで囁かれている山下ちゃんのことだもの。そりゃあ友人として気になるわよ」  思わず口の中にあったチョコを飲み込んだ。むせ返ると、「大丈夫?」と明美の困ったような声が飛んでくる。 「あ、もしかして図星だった?」 「冗談じゃねえ。噂の出所を突き止めたら、絶対ブッ殺してやる」  そんな下らないことを言うのは誰だろう。あいつか、あの男か?  と、そこまで考えたところで、意外にたくさんの顔が浮かぶことに気付いた。気がつけば廊下には人が増えている。今思い浮かべた顔もちらほらと混じっていた。 「本気になるところが怪しい。……まあ、何でもいいけど、鬱陶しいから哲学的な思いにふけるのも大概にしときなさいよ。どうせ私たち理系なんだし」 「理系は関係ねえだろ。そりゃ、哲学とか全然知らないけど」  あれ。  明美のパペットを叩きながらそう答えて、直樹はチョコレートをもう一欠片ほおばる。  もしかして俺のそばには、結構いろんな人がいたりする?  見上げた空に伸びる飛行機雲は、もうほとんど消えかかっている。  そろそろ、空に焦がれるばかりの人生はやめようか。  空に手が届かないことを呪うのは、やめようか。  ミルクチョコレートで思い出す彼女のことは、いい思い出にして。  消えてしまった飛行機雲は、心の中にだけ収めて。  人間としてはポンコツの戦闘機にだって、それくらいは出来るはずだ。  いざという時に仲間を守る力くらいは、蜘蛛が持っているだろう。  直樹はチョコレートをもう一欠片口に放り込む。  ミルクチョコレートの味は、もう脆すぎた昔の恋ばかりを連想させはしない。