ヴェイパー・トレイル 第一話 雲と戦闘機  十日ぶりに登校すると、クラスメイトがどこかぎこちない様子で挨拶をしてきた。仕方あるまい。父親を亡くした人間に、いったいどんな言葉をかけるのが正しいというのだろう。  山下直樹は精一杯の笑顔をつくり、「おはよう」と挨拶を返す。自分が沈んでいたら、周囲はもっとやり辛いはずだ。  この数日間で起こったことについては、実感が湧かない、というのが正直なところだ。平凡な高校二年生。帰宅部で、一応は進学を希望していて、かといって成績もいいわけではなく、アルバイトに精を出すわけでもない。そんな日常が、まだまだ続くのだと信じていたのに。  直樹の母親は彼が小さい頃に他界している。八つ年上の姉は既に結婚していて、直樹は父親と二人で暮らしていた。その父親が突然倒れたのが先週の土曜日。あとはもう、あっという間だった。  もう大丈夫だから、と友人に笑いかける。どこか無理のあるこの笑みも、今ならその不自然さごと受け入れられるだろう。  まだまだ思考は混乱していて、我ながら落ち着いているとは言い難い。それでも、声をかけてくる皆に「もう大丈夫」と言い続けていると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。  席について筆箱を引っ張り出し、寄ってくる友人を適当にあしらいながら担任が来るのを待つ。  校内の公衆電話のあたりでたむろしていた女子の一団が戻ってきた。最近はポケベルも携帯電話に取って代わられて、公衆電話も空いてきたらしいが。  そのうちの一人、網崎遊羽がこちらを向いて、驚いたような表情を浮かべる。直樹の元に駆け寄って、口にするのはもう何度言われたか分かりやしない、「もう大丈夫?」という質問。  それでも遊羽の台詞ならばうるさいと思うこともなく、直樹は机の上に置かれた彼女の手を取り、「心配かけてごめんね、ユウ」と答えた。遊羽はホッとした様子で、「困ったことがあったら何でも言ってね」と照れくさそうに笑う。 「あ、そうだ……ねえ、もしかして、引っ越しとかするの?」 「それは平気。家のローンも払い終わってるし、嫌じゃなけりゃそのまま住んでろって姉貴に言われた」  遊羽が安堵の表情を浮かべる。度の過ぎない茶髪に薄い化粧、華やかな顔立ち。やっぱり彼女は笑顔でいる方がいい、と思う。  直樹の家は築二十数年のマンションだ。一人で住むには広すぎる気がするが、今は引っ越しをすることなど考えたくもない。  いや――正直、そんなことは大した問題には感じられない。  チャイムが鳴って、遊羽は自分の席へと戻っていく。直樹は自分の左手を見つめながら、小さくため息をついた。  さすがの遊羽も、こんな話は信じてはくれまい。  この数日、一体何をどうしていたのか、はっきりと覚えてはいない。父の死に呆然としているうちに姉と義兄が様々な手続きを済ませ、喪主として立たされて型どおりの挨拶を述べた。まるでこうなることを予期でもしていたかのように姉の手配は的確で、直樹はただ弔問客に頭を下げながら、他人事のようにその様子を見ていた。  父の上司だという男性に「ちょっと来てくれないか」と呼ばれたのは、初七日法要から精進落としまで、一通りのことが済んだ後だった。会わせたい人がいる、と車に乗せられ、飲み物を勧められたところまでは覚えている。やがて耐え難い眠気に襲われて、どうやらそのうちに意識を失ったらしい。しかし普通に考えて、そんなところで薬を盛られるなどと誰が想像するだろうか。  目を覚ますとそこは見知らぬ場所だった。奪い合うほどの遺産もないはずなのに、一体何がどうなっているのだと当惑する。壁の白い、小さな部屋だった。右手に扉がひとつ。直樹は清潔そうなベッドに寝かされている。ふと見ると、左腕には肘から手の甲にかけて包帯が巻かれていた。  一瞬、交通事故にでも遭ったのかと思ったが、左腕には感覚はあるし痛みもない。喪服にしていた学生服の上着は、そばの壁にハンガーで吊されていた。 「何だ、これ……」  思わず口に出す。頬をつねってみたが確かに痛い。身を起こし、ベッドから降りようとしたところで扉が開いた。 「あ、あの、川越さん」  そこに自分を連れてきた男の顔を認め、直樹は困惑しながらも声をかける。川越博人は「手荒なことをして申し訳ない」と小さく頭を下げた。 「なにぶん、時間が無かったものでね」 「ちょ……ちょっと待ってください、ここはどこですか? あと、これは……」  自分の左腕を指さすと、川越は早足で直樹の元に近づき、彼の左手を取った。 「痛くはないか」 「え……はい、全然」 「そうか。流石は山下家の長男だ」  川越はそばにあった丸椅子に腰を下ろし、満足そうに頷いた。 「あ、あの、だからここは……」 「ランケル帝国首都、ユゼスコミア」 「……は?」  ちょっと待て。何だそれは。 「東京都白見沢市城跡公園の、上空約五キロメートルの地点に浮遊している」 「バカにしてるんですか?」 「とんでもない、私はいたって真面目だよ。ついでに言うなら私は魔法省の役人でね、君の父上が働いていたのは魔法省のダミー企業だ」 「ま、魔法……?」  目の前に立つ川越はただの黒いスーツ姿だ。彼はどう見ても日本人。一体どこからそんなカタカナ名前の国やら魔法やら、わけの分からない言葉が出てこなければならないのだろうか。 「そう、魔法だ。我々は独自の文化圏を持ち、地上の人間に対しその存在を伏せている。君の父上は、その地上とこの国を繋ぐ大切な仕事に就いていたんだよ――そして」  川越の骨張った指が、直樹の腕の包帯をゆっくりと解いていく。 「その父上の後任に、君を指名する」  包帯の下から出てきたのは、傷などではなかった。  手の甲から肘までを覆い尽くすように刻まれていたのは、蜘蛛とその巣を模した刺青。  足の長い蜘蛛は腕に食らいつくようにその存在を主張し、巣は複雑に曲がりくねりながら規則的な模様を描く。 「な、何だッ!?」  思わず上擦った声で叫んでいた。喉の奥から吐き気がこみ上げる。ただの模様ではない。右手で口を覆い、上ってきたものを飲み下した。五感では説明できない何かの気配がする。規則正しく脈打ち、腕と同化した何かの気配。魔法、という言葉が急速に現実味を帯びてきた。これが魔法だと言うなら、その実在も信じられる。 「君に拒否権はない」  これは何の冗談だ。  直樹の頭からは、既に父の死のことさえ吹き飛んでいた。  何事もなかったように時間は流れていく。担任に忌引関係の話をし、授業を受け、休み時間には居眠りをして、昼休みに弁当を食べる。袖からのぞく左手の甲に、蜘蛛の刺青は見えない。しかしそれは決して消えたわけではなく、上から幻覚を被せただけのこと。 「直樹、食べる?」  ふと顔を上げると、遊羽がミルクチョコレートの欠片を差し出していた。板チョコは彼女のお気に入りだ。いつもは自分一人で食べるのだと譲らない彼女が、一欠片でも食べさせてくれるとは珍しい。 「辛い時は甘いモノを食べるといいって、私のおばあちゃんがいつも言ってる」 「俺、辛そうに見える?」 「すっごく」  礼を言ってチョコレートを受け取った。口に含むと、甘味と苦味がいっぱいに広がる。  辛いのだとしたら、それは何のせいだろう。  大切な父を亡くしたせいだろうか。  それとも、幻覚さえも易々と作り出す、魔法というやつのせいだろうか。 「ねえ直樹、今週末って忙しい?」 「いや……土曜はダメだけど、日曜は平気」 「もし不謹慎じゃなかったら、一緒にどこか出かけない?」  小さく頷いた。  帝国とか魔法とか役職とか、そんなものは忘れてしまおう。  今は少しでも、遊羽と一緒にいたかった。  ランケル帝国は空を飛んでいる。というより、世界中に点在する魔法使いの国は、そのほとんどが空に浮いているそうだ。  地上の歴史からその痕跡をぬぐい去り、ひっそりと生きている魔法使い。その規模は決して無視できるものではない。彼らは独自のコミュニティを形成し、高度な魔法を編み出し、その姿を地上から隠すことに成功している。  その研究の過程で、彼らは自然に有らざる様々な存在を作り出した。その一つが魔獣と呼ばれる生き物だ。高い知性と敏捷さと凶暴さを併せ持つ、人に害をなす動物の総称。  その中でも、ランケル帝国の人間なら誰でも知っているような有名な魔獣がいる。変幻自在の黒い獣。見るたびにその顔を変えることから、ついた名前は千頭鬼。影に潜み長い月日を生き、血に飢えた厄介者だ。  その魔獣が今どこでどうしているのか、知っている者は少ない。しかし教えられたところによると、その魔獣は獣使いの一族によって捕らえられ、彼らに従っているのだという。  その一族も、大人しく帝国に住んでいればいいものを、自らの社会的身分の低さを疎んで日本に降りて来ているそうだ。無論、その最悪の魔獣を従えて。 「君の仕事は、その魔獣の監視と維持だ」  川越の声が蘇る。そしてどうやら、直樹自身の地位も、帝国の中では決して高くはないらしい。そうでもなければ、こんな非人道的な扱いを受ける覚えはない。  現在、その獣を従える獣使いの名は佐藤春楽。写真を見た時の第一印象は「今にもくたばりそうなジジイ」。あんな老人でも一族の中では最強なのだそうだ。千頭鬼は、その獣使いの血族の中で最も力のある人間に服従する。 「維持、って何ですか」 「奴を放っておくと見境無く人間を襲いかねないのでね、運動をさせてやる必要がある。君は適当に、奴と戦う相手を見繕ってきてくれればいい」 「え、それって獣使いの仕事じゃないんですか」 「千頭鬼は獣使いの影に潜む。獣使いは千頭鬼を自らの許に留めることはできても、奴と戦うことはできない」  自らの影を傷つければ、自分もただでは済まない。ここで影と呼ばれているのは遮られた光が落とす形ではなく、もっと魔法的な意味を持つ存在だ。付け焼き刃のあやふやな知識でも、それくらいのことは理解できた。  何のことはない、直樹の仕事はただ単に、運の悪い一般人を見つけて武器を渡すだけのこと。川越はからかうように、その行動を「勇者を捜す」と表現した。 「魔王を倒すための勇者を捜すんだ。光栄な仕事だとは思わんかね」 「はあ、でも、魔王って……倒しちゃっていいんですか?」 「大丈夫さ。この程度の武器では、絶対に奴を倒せない」  渡されたのは重いが使いやすそうな長剣だ。適当に振り回すだけでも、それなりに戦えるだろう。 「ただし、君自身がこの剣を振るってはいけない。それでは『賭け』が成立しないからね」 「……賭け?」  思い出すだけでも反吐が出る、川越の返事。 「そうさ。勇者と魔王の戦いは、物好きな奴らの賭けの道具になっていてね。あの魔獣に一太刀浴びせられるか、それとも他の魔獣に蹴散らされるか」  きっと千頭鬼を殺そうと思えば殺せるのだろう。殺さないのは、見知らぬ誰かの気まぐれのため。  そして道楽の審判役を務める直樹には、獣使いを越える力が与えられる。  剣はたまたま立ち寄ったコンビニの店員に押しつけてきた。何でもあれは、大した呪いのかかった剣だったらしい。受け取ったら最後、千頭鬼に戦いを挑まずにはいられない。戦いが始まればその気配は直樹に伝わり、必要があれば審判よろしく間に立つ。そして不幸な勇者が敗北すれば、剣は再び直樹の許に戻ってくるのだ。 「なんで俺が」  つぶやいて空を見上げる。よく晴れた空。絶好のデート日和。ごめんなさい父さん、と心の中で詫びる。あなたの死を悼むほど、心に余裕がありません。  早く遊羽のところへ行かなければ。それからどこに行くわけでもない。ただ一緒にいるだけでいい。大切な彼女の許へ、早く―― 「え?」  ふと背後に気配を感じて振り返る。左腕が熱を持った。いつからそこにいたのか、痩身の男が直樹に向かって会釈した。長袖のワイシャツに灰色のパンツ、この季節には少々寒そうな格好だ。 「やァこんにちは、新人さん」  ひょいと上げられたその右手には、鉛筆ほどの長さの棒。けれどそこから強い魔法の気配を感じる。無意識のうちに、身体が戦闘態勢を取っていた。左腕を中心に身体に刻まれた魔法回路が、直樹自身の思考よりも優先して行動を操る。 「ほう、第三式に神経のコントロールを預けられるのかい。流石は戦闘機、血筋ってのは素晴らしいね」  何を言っているのか全く理解できなかったが、とにかく体内を熱い力が駆けめぐる。その熱は右手に収束し、カッターナイフと包丁を足して二で割ったような、奇妙な形の短剣として具象化した。 「身体が慣れないうちに叩いておこうと思ったんだけど、そう簡単にはいかないようだねェ」  このクソ忙しい時に、いったい何を言っているんだ。  遊羽との約束の時間は迫っている。見知らぬ男の世間話につき合う暇はない。 「俺が君に殺される前に忠告しておくよ、新人さん。恋人がいるなら別れた方がいい。好きなコがいるなら諦めな。雨の中で濡れてる子猫も拾わない方がいいぜ。戦闘機には壊すしか能がない。特に君のような高性能なヤツはね」  何が言いたい、と尋ねたかったが、舌さえも思い通りには動かない。全身がこの男に対する警戒態勢に入っている。 「君の側に置いておくと、何もかもが壊れてしまうよ……まァ、俺みたいな物好きが壊しに行くんだがな」  不意に視覚が切り替わった。それまで触覚として感じていた魔力の濃度を視認する。サーモグラフィのようなサイケデリックな色調と通常の視界の二重写し。その意味を考える間もなく、聴覚が男のつぶやく呪文を捉える。左腕の蜘蛛が命を持ったように糸を吐いた。男の次の行動は攻撃。ここで優先すべきは自身の防御ではなく戦闘の隠蔽。ここは日本だ、魔法の街ユゼスコミアではない。  左手の指先から放たれた魔力の糸は網となって二人の周囲を覆う。町中ではあるが、これで少々の戦闘は可能だ。通りすがる一般人は直樹と男を認識しない。  断じて認めたくはないが、今の山下直樹は戦闘機だ。男の握る小杖から放たれたのは鋭い刃。右手の短剣で受けるが衝撃を殺しきれず、裂けてばらけた刃が不規則に指や手のひらを刺した。痛覚は鈍麻させたから痛みはないが、それにしても少しばかり不快だ。 「壊すしか能がない、とは失礼な」  淡々と答えたのは、直樹かそれとも内に潜む蜘蛛か。 「後始末までが俺の仕事だ。壊しっぱなしの三下と一緒にされるとは、『俺たち』も堕ちたもんだね」  かりそめの実体を得ていた刃は、男が手を引くのと同時に霧散する。溢れる血はすぐに止まった。早回しのビデオでも見ているように、傷が塞がっていく。 「俺は見境なしの戦闘狂じゃない。命令に沿って戦うだけの戦闘機さ。残念ながら、お前は俺が対等に戦ってやるべき敵じゃない」  蜘蛛は流暢に言葉を紡ぐ。そして静かに網を張る。獲物を捕らえるための巣が、直樹の理解を超えた計算と共に紡がれる。 「運と相性とセンスと、ついでに見る目が足りなかったな、三下」  男が表情を凍らせた。ゆっくりと周囲をたゆたい、見えるか見えないかという微弱な魔力をまとっていた蜘蛛の糸が、瞬時に色を増し絡み合い組み上げられて繭の如く男を包む。  殺すのか。  直樹の不安を肯定するように、繭は目の奥を灼くほどの光を放ち、消えた。それと同時に視覚も元に戻り、やけに色味のない、ブロック塀とアスファルトに囲まれた世界が戻ってくる。  直樹は何の痕跡も残さないアスファルトに目をやり、慌てて踵を返すと、一度も振り返ることなく遊羽が待つ公園へと走っていった。 「ごめん、待った?」 「ううん、今来たところだよ」  遊羽は読んでいた漫画本を閉じ、ベンチから立ち上がった。確か今日発売のその少年漫画を、彼女はあらかた読み終えているようだった。 「あれ、手、どうかしたの?」  言われて目をやれば、右手に火傷のような痕が残っている。治しそびれた先刻の傷だ。 「大したもんじゃねえよ。どうせすぐ治る」 「そう?」  左手の蜘蛛は既に幻覚の下だ。たとえ傷が残ったところで、右手にも同じ処置を施せばいいのだろう。 「私も昨日、自転車でブッ飛ばしてたら思いっきり転んじゃって。見てよコレ」  苦笑しながら遊羽が袖をまくる。肘のところに大きな絆創膏が貼られていた。絆創膏からはみ出した擦り傷が痛々しい。 「大丈夫か? 気ぃつけろよ」 「うん。しばらくは安全運転を心がけまーす」  おどけた仕草で敬礼をしてから、遊羽は直樹の腕に抱きつく。まだ寒いのではないかと心配になるような薄い服越しに、彼女の体温と花の香りが伝わってきた。この香りはシャンプーか何かのものだろうか。確か前に、香水は嫌いだと言っていた。  空いた左手で彼女を抱きしめようとして、ふと手が止まる。 ――君の側に置いておくと、何もかもが壊れてしまうよ。  男の言葉が蘇った。彼は死んだのだろうか。この手は彼を殺したのだろうか。もしそうだとしたら、この手で彼女を抱きしめることは許されるのだろうか。  それは冒涜にあたるような気がした。その相手が何なのかは分からない。遊羽か、あの男か、直樹自身か、その内に巣くう蜘蛛か、それとも未だ信じたこともない神とやらか。 「……やっぱり、まだ辛い?」  彼女の問いが、直樹の父の死に向けられたものなのだと気付くまでに、しばらく時間がかかった。答えに詰まる。何とか返事を吐き出した時には、遊羽は今の質問を後悔しているようにも見えた。 「そりゃ、完全に大丈夫、ってワケにはいかねえけど」  けど、の続きは何だろう。それ以上遊羽の顔を見ることができず、彼女の頭を抱いた。小柄な彼女の頭は、ちょうど直樹の胸の高さ。 「でも、こうなっちまったもんは仕方ないんだし。大丈夫、何とかやっていくよ」  何とかしていくしか、ないじゃないか。  遊羽は何も言わずに、じっと直樹の胸に身を寄せる。  心の中で「ごめんなさい」と繰り返しながら、直樹は遊羽の華奢な身体を強く抱きしめた。 「君はなかなか優秀だな」  川越の顔を真っ直ぐに見つめ、「ありがとうございます」と返事をした。我ながら大した自制心だと感心する。  あれから随分と日が過ぎた。日常生活は今のところ正常に機能している。時おり妙な時間に呼び出されるくらいで、生活に大きな変化はない。呼び出されたところで、直樹は蜘蛛に身を任せ、適当にやっていればいい。不幸な犠牲者を見つけだすコツも会得しつつある。あまり嬉しくない技能だが。 「このままの調子で頼むよ。くれぐれも妙な気を起こすことのないよう」 「心配して頂かなくても、別に逃げたり反抗したりはしませんよ」 「ああ。そうしてくれると、こちらも余計な犠牲を出さずに済むので助かるよ」  ここは直樹の父が勤めていることになっていた会社の一室だ。狭いながらも平凡なオフィスにはデスクが並び、直樹はその部屋の隅にあるソファに腰掛けている。 「余計な犠牲、って何ですか」 「君が反旗を翻した時、真っ先に犠牲になるのは君の身近な人間だ。君にも大切な人の一人や二人はいるだろう」  遊羽の顔が頭に浮かんだ。高校の友人、それから姉夫婦。戦う術を持たない、無力な一般人たち。  直樹は奥歯を噛みしめ、一瞬のためらいの後に口を開いた。 「分かりませんよ。そんなの、所詮は他人じゃないですか」 「いざという時に同じ台詞を吐けるようなら、私は君を尊敬しよう」  その時、電話の着信を告げる電子音が鳴った。川越がポケットから出したのは黒い携帯電話だ。失礼、と言い置いて、川越は廊下へ出ていった。  携帯電話か、いいなあ、欲しいなあ、と散漫な考えを巡らせているうちに、ふとそばのデスクの上に置かれたバインダーが目にとまった。  そういえばこの人たちは普段何をやっているのだろう、と気になって、思わず手が伸びる。この数週間で、魔法使いが地上のあちこちに潜伏していて、魔法に関する事件を巧妙に隠蔽しているのだということは理解した。その辺りのパイプ役を果たしているのがここの人間なのだろう、とは思っているが、それほど自信も知識もない。  バインダーの表紙を開き、中に綴じられた薄い名簿を見る。すぐに、近郊に住むランケル人の名簿だ、と気付いた。字の小さい名簿には、びっしりと名前が記されている。カタカナの名前に日本名が併記されているものもあった。当然と言えば当然だろう。ランケル帝国に首都の名前がユゼスコミア、人名にだけ日本語を使う義理はない。日本に溶け込むために日本名をつけるのは、ごく自然な行動だろう。  五十音順に並ぶ名簿の最後の方を見たが、直樹自身の名前は載っていなかった。なぜかホッとしながらページを繰る。  その視線が、ある名前の上で止まった。  扉が開く音がして、直樹は静かにバインダーを元に戻す。何事もなかったかのようにソファに腰掛け、川越も特に不自然な様子も見せずに戻ってきた。  その日、結局彼と何を話したのか、よく覚えていない。  昼休みの中庭には、あちこちに弁当を食べる生徒の姿が見受けられる。花壇のへりに腰掛けてうつむく直樹の前に、ぬっと人影が現れた。 「どうしたの、直樹? なんか暗いじゃない」  遊羽の声に顔を上げる。直樹の足元にいるのは一匹の野良猫だ。この黒猫は数日前から高校の敷地内に迷い込み、いつの間にか居座っている。弁当のおかずをもらって味をしめたらしい。 「そうかな。俺はただ、この猫かわいいな、って」 「だったら、どうしてそんなに怖い顔してるのよ。ねえ猫ちゃん、このお兄ちゃん怖いでちゅよねー」  遊羽は直樹の隣に座ると、猫を抱き上げ明るく笑う。 「ところで直樹、今度の日曜日だけど」 「あ、ユウ、ごめん。それなんだけどさ、急用ができちゃって。また今度、な」 「え? ちょっと、私よりも大事な用事って何よぉ」 「どうでもいいだろ。別にやましいことじゃねえぞ、姉貴がいきなり呼びつけてきたんだよ」  仕方ないなあ、と遊羽は肩をすくめ、猫の手を持って直樹の肩をぽんぽんと叩いた。よく人に慣れた猫だ。 「じゃあ、遊園地はまた今度ね」 「ん。悪いな」  嘘をついたことに罪悪感はなかった。近頃の姉は暇を持て余している。そうそう直樹を呼んだりはしない。けれど、今はどうしても遊羽と遊びに行く気にはなれなかった。 「でも、そうしたら割引券の期限が過ぎちゃうなあ」 「たかが三百円だろ。気にすんなよ」  遊羽は猫を解放する。黒猫は別の生徒のところへと駆けていった。好物のにおいでも嗅ぎつけたのだろうか。 「でも、三百円あったらプリクラが一回撮れるよ!」 「それこそどうでもいいって。お前、どんだけ撮れば気が済むんだよ。手帳、すげえことになってるだろ」 「直樹とだったら何枚でも撮る!」  遊羽が肩を寄せてきた。ワイシャツの生地越しに、体温と柔らかさが伝わってくる。それに加えてシャンプーの香り。いつも通りの光景だ。 「一個ちょうだい」  直樹のコンビニ弁当から卵焼きを一つつまんで、返事を待たずに食べる。この卵焼きは甘すぎてあまり好きではないので、むしろ食べてくれる方がありがたい。  ふと見上げた空に、飛行機雲が伸びていた。鮮やかな青をバックに、校舎に遮られた狭い空を二分していく白い雲。  直樹はかぶりを振ると、猫のいなくなった足元を見つめ、小さくため息をついた。  あんなに晴れていた空は、放課後までのわずかな間に天気予報の通りに曇った。大粒の雨が地面を打っている。 「聞いてないよ、こんなの!」  直樹の傘に入り、遊羽が悪態をつく。身長差があるために、どうしても遊羽の肩は雨に濡れる。けれどそれを意に介する様子もなく、遊羽は直樹の歩調に合わせ、さっさと歩いてくる。  突然直樹が足を止め、遊羽は勢い余って一歩雨の中に踏みだした。文句を言おうとしたのか、遊羽は直樹の方を振り返ろうとして――すんでの所でそれを止め、視界の端に映ったものへと目をやる。 「……猫ちゃん」  校門の脇に並ぶ花壇のかげで、黒猫が倒れていた。  遊羽は濡れるのも構わず、傘を飛び出して猫に駆け寄る。直樹もそれを追った。  追いついた直樹の傘の中で、遊羽が黒猫を抱き上げる。カーディガンが汚れるのも構わずに、濡れたその毛を撫でた。 「タマネギでも、食べちゃったのかな……」  黒猫はぴくりとも動かない。人間には平気なものでも、猫には毒になるものがあるという。弁当のおかずを手当たり次第にもらううちに、何か毒になるものでも食べてしまったのだろうか。  例えばそれは、直樹が食べさせた何かかもしれない。  冷たくなった黒猫をじっと見つめていた時、不意に頭の中に、もうずいぶん前に言われた言葉が思い浮かんだ。 『君の側に置いておくと、何もかもが壊れてしまうよ』  ああ、全くその通りだ。 「ユウ、どうする?」 「お墓……お墓、作らなきゃ」 「でもこの雨だぞ。せめて雨の当たらないところに置いて、墓はまた今度作ろう、な」  遊羽は「薄情者」と小さくつぶやいたが、それでも直樹に従った。  薄情者でけっこう。戦闘機に、情けなど無用だ。  網崎遊羽は――ランケル人の魔法使いは、黒猫を木陰に横たえた。  そして媚びるように笑い、立ち上がる。  彼女の体温と共にどうしようもない距離感を感じながら、直樹はゆっくりと歩き出した。  近づけば、きっと彼女の魔力に囚われてしまう。蜘蛛は何も言わないが、これは確かに仕掛けられた罠だ。戦闘機を戦闘機たらしめ、傘下に置いておくための。守るべきものを得た人間は、きっと簡単に操れる。  このまま壊れてしまう前に、全てを遠ざけてしまえばいい。  そうすれば、もうこんな思いをしなくてもすむのに。  雨は相変わらず、止む様子も見せずに降り続けていた。