スプリング*スプリング11
「白い虚構」   月香るな



 教科書の英文を和訳する手を止め、樫原輝美は難しい顔でため息をついた。春月は横から彼女のノートをのぞき込み、「ああ、そういう意味だったんだ」とつぶやいた。
「いやあ、もう全然わかんなくてさあ」
「春月、英文科行くんでしょう? 大丈夫?」
 笑ってごまかそうとする春月を、輝美が軽く睨む。
「いいよねえ、もう進学決まってる人は」
「ごめんねー。まさか推薦で行けるとは思わなくて。でもほら、輝美が狙ってるような学校に比べれば、そんな凄いところじゃないし」
「何言ってるの、十分よ。育人も専門に決めちゃったし、山田君は就職だし、何だかわたしだけ、すごく出遅れてる気がするわ」
 春月は、視線を輝美のノートから教室の隅にいる山田へと移す。彼は窓枠に頬杖をつき、ぼんやりと空を眺めているようだった。
「そういえば、アメリカに帰るとか言ってたね、山田」
 春月はそう言って、山田の後ろ姿を見つめた。クラスの男子に文句を言われ、山田は窓を閉める。冷たい風が吹き止んで、教室の中の空気がたちまち停滞していった。
 嘘つき、と小さな声でつぶやく。その言葉は隣にいる輝美の耳にも入らない。アメリカなんて嘘だ。叔母のところへ帰るなんて嘘だ。彼は生まれも育ちも決してアメリカなどではない。友人にも担任にも、適当な嘘八百を並べているだけだ。残念なことに、春月はそれをよく知っている。
 ほどなくしてチャイムが鳴って、授業が始まった。

           *

 放課後、山田は家に帰ろうと屋上へ続く階段を上がる。春月はその後を追って階段を駆け上がった。
「ちょっと待って、山田、ノート返すの忘れてた」
「あ、どうも」
 山田の方もノートの存在を忘れていたのか、驚いたように声を上げ、ノートを受け取る。よく言えば達筆、悪く言えば雑な筆記体で書かれる山田のノートにもそろそろ慣れてきた春月は、ことあるごとに彼にノートをコピーさせて欲しいとせびっていた。一応、英語に関しては山田のノートはかなり正確で分かりやすい。
 もっとも他の教科に関しては期待するだけ無駄という感じで、特に現代文や古典に関しては、読んでいると頭痛を起こしそうなほどの誤字脱字のオンパレードだ。基本的には黒板を写すだけなのに、なぜこんなことになるのか、春月は理解に苦しむ。実際、英語のノートの和訳文にもかなり誤字は多いのだが、さすがに同じ内容の英文がついているのだから、書こうとしていることの意図はわかる。
 それに加え、一年生の頃はシュリフィードの方言が混じるせいで意図が汲めないことも多かった。しかし今では独特の表現もなりをひそめ、ごく普通の標準語になっている。
「じゃあ、オレはもう帰るから、また――」
 本来なら施錠されているはずの屋上への扉を開け、山田は一歩踏み出す。また明日、と言おうとしたその言葉が、途中で切れた。
 ついでに、春月の視界から山田の姿が消える。
「ここで会ったが百年目ッ!」
 代わりに、王子の声が聞こえた。

           *

「……で、何なのよその格好」
「見てわからんのか。どう見ても白馬だろう」
 そう言って、王子、もとい白馬はヒヒンと啼いた。
 山田は少し離れたところに転がったまま呻いている。どうやら、王子に思い切り体当たりされたようだ。
「そこの魔法使いにこんな姿に変えられたものだから、何とか復讐しようと機会をうかがっていたんだ。どうだ魔法使い、痛いだろう苦しいだろう。お望みなら後ろ足で蹴飛ばしてやってもいいぞ」
「ちょっと本当に勘弁してくださいよ、洒落になりませんってそれ」
 打ったらしい右腕を押さえながら、山田がゆっくりと身を起こす。背中と右脚をかばうように立ち上がり、ため息をついた。
「何もそんなに全力で突っ込んでこなくてもいいじゃないですか」
「ねえ山田、だったらいつもみたいに、もう少し動きにくいものに変えとけば良かったんじゃないの?」
「仕方ないだろ、一度やってみたかったんだから」
 そう言って、山田は王子を指さす。
「白馬の王子様」
「うわ寒っ!」
 思わず春月は叫ぶ。が、改めて見ると、確かに立派な白馬だった。健康的な毛並みといい、よく締まった筋肉といい、馬には詳しくない春月から見ても立派に見える。
「で、でも綺麗だろ? このために競馬場に行って馬を観察したりして、綺麗な白馬に変身させてやろうと色々頑張ったんだからな」
「そのエネルギー、もっと建設的なところに使いなさいよ……」
「そもそも、そんな下らないギャグのためにこんな目に遭う俺様の身にもなってみろ!」
 まだケロちゃんの方がマシだったかもしれん、と王子はつぶやく。
 その時、空からひらひらと薔薇の花びらが落ちてきた。
 コンクリートの床に落ちた真っ赤な花びらを見て、春月は恐ろしいほどの既視感を感じる。おそるおそる顔を上げると、そこには思った通りの人影があった。
「お兄さん……」
 春月が心底うんざりしたような声音でつぶやいた。相変わらず大仰な動きで、ヨシュアは地面に降り立つ。光沢のあるシャツ、男性にしては艶のある茶髪、そして肩からかけた、重量感のある刺繍入りの赤いマントと、そのマントの赤に負けないほどに主張する片手の薔薇籠。正直、くどい。
「やあ魔法使い。また弟が世話になっているようだね」
「何しにいらしたんですか、ヨシュア様」
「可愛い弟を助けに来たに決まっているじゃないか」
 白馬のつぶらな瞳がヨシュアの方へと向けられた。
「間に合ってます」
 そして短く、鼻息と共に声が漏れる。
「照れることはないぞ、弟よ! さあ、兄さんの胸に飛び込んで」
「兄上。それ以上やったら本当に飛び込みますよ」
 ぴしゃりと言い捨てて、王子はいなないた。下にいる他の生徒達にばれるのではないかと、春月はフェンスに駆け寄り首を巡らせたが、誰一人として反応している様子はない。音は漏れていないのか、と思いながら、春月はフェンスから離れた。
「こっちだって、多少は成長するんですよ、兄上!」
 そう言って、王子は山田の方へと駆け寄る。けげんな顔をする山田の脇をすり抜けると、急停止して、後ろ足で山田の身体を蹴り上げた。客観的に見て、明らかに痛そうな音が響く。
 山田が声にならない悲鳴を上げ、その場にうずくまると、右手だけを王子の方へ伸ばして「菊花賞!」と叫んだ。それは呪文かなにかだったようで、王子はポンという音と共に、メリーゴーランドにいるような派手な木馬へと変化した。
「っ、つう……確かに、成長なされましたね、王子」
 脂汗を浮かべながら山田が顔を上げる。しかしその顔に浮かぶのは、春月が予想していたような苦悶の表情ではなく、嬉しくてたまらない、とでもいうような笑顔だった。
「ご心配なく、ヨシュア様。王子に、傷を負わせることは、しない、と誓います、から」
 ダメージは見た目以上に大きかったのか、途切れ途切れにそう言ったまま、立ち上がりもせずに山田はうずくまっている。
「山田、大丈夫なの?」
「あんまり、大丈夫じゃない、かも……しばらく放っといてくれ、すぐ魔法で何とかするから」
 彼は再び顔を伏せる。何度か激しく咳き込んだ。
「す……すまん。こんなことをしている場合ではないのにな」
「お気になさらず、王子。私めは王子の成長ぶりを見て涙が止まりません。もう色々な意味で。ちょっと後で呪うんでご覚悟を」
 ふむ、とヨシュアが顎に手をやった。
「私が来るまでもなかったか」
「何度もそう言っているではありませんか、兄上」
 王子が不機嫌そうに答えた。
 木馬になっては先程までのように動き回るわけにもいかず、王子は小刻みに揺れながら、少しでも体勢を変えようとしているようだった。この光景を他人が見たらどう思うだろう、と春月は唐突に考える。夢でも見たと思って帰るだろうか。
 ヨシュアは肩をすくめ、やれやれ、と首を振る。
「それはそうと、さすがに地上は違うな。この程度の高さでも、周りをホウキもじゅうたんも飛んでいかないとは」
 周囲に視線をめぐらし、話題を逸らすように言った。確かに、と山田と王子が同意する。
「ねえ、やっぱり上の人達って、みんなホウキやじゅうたんで移動するわけ?」
「そりゃあそうさ。ホウキもじゅうたんも、ここでいう自転車みたいなもんだからな。もちろん、自転車で空飛ぶ奴もいるけど……何にせよ、やっぱり空を何も飛んでいないってのは落ち着かない」
 春月の問いに、山田が答えた。ふらつきながら立ち上がる。
「まったく不便だよなあ。空飛んだ方が絶対早いのに」
「でも危なくない?」
「ホウキから落ちる事故と、地上を走って車にはねられる事故じゃ、起こる確率は大差ないって昔学校で習ったぜ」
 へえ、と春月は感心して声を上げた。空を鳩が飛んでいく。
「やっぱりここは外国なんだなあ、ってよく思うよ」
 春月はわずかに眉を上げた。彼が日本語を話すこともあって普段はあまり意識していないが、確かに彼は文化も社会構造もかなり違うらしい外国の人間だ。春月には思いもよらないようなところで、違和感を抱くこともあるのだろう。
「どうした藤原春月、難しい顔をして」
「何でもないわよ」
「じゅうたんの利便性と安全性に感動でもしたか?」
「そんなところ」
 ふう、と息をついて、小さくかぶりを振る。くだらない。
 だいたい、世の中にはいくらでも、母国以外の場所で暮らす人間がいるのだ。彼との間に文化の断絶があったところで、それが何だ。まだ日本語を話しているだけ、意思の疎通ができるのだからいいだろう。そんなとりとめのない思考で、自分の不安をごまかす。
「いけませんね、お嬢さん。美しい女性にため息は似合いませんよ」
 いつの間にかそばに来ていたヨシュアが、春月の肩を抱く。春月は反射的にその手を振り払い、距離を取った。
「ふむ……そうだ、美しい花々を眺めれば、あなたの気も晴れるやもしれませんね」
 パチンとヨシュアが指を鳴らす。突然、コンクリートの床から花が生え、二人の周囲三メートルほどの地面に花畑を作った。
「あのさあ、美しい花って言って、ラフレシア出すのはどうかと思うよ。気持ち悪いから引っ込めてくれない?」
「おお、その逞しい表情! 美しいことは素晴らしいことですね!」
 春月の発言を完全に無視して、ヨシュアは勝手に自分に酔っている。春月は自分の周りを取り囲むラフレシアを飛び越え、山田の側へと近づいた。毒々しい真っ赤な花びらを広げる巨大なラフレシアの花からは、覚悟していた腐臭はしない。しょせんは幻覚なのだ、とそこでようやく気がついた。視覚は作り出すことができても、嗅覚は作り出せなかったというわけか。
「山田、大丈夫? 余力があったら、あの不気味なラフレシアを消してほしいんだけど」
「あー……消すのは無理、かな。これくらいなら平気だけど」
 山田がラフレシアを指さすと、そのラフレシアの花びらの一枚に、可愛らしいピンクのリボンがちょこんと乗った。
「うわ、いらねえ!」
「贅沢言うな」
 ふう、と山田が息をつく。
「自分の治療には本気を出さなくとも、愛する女の要求には本気で応えてやるというわけか。気に入った」
 ヨシュアが今度は山田に近づこうとする。王子がじりじりと近づきながら、制止の声を上げた。
「兄上。何をしても構いませんが、ここは日本ですし、藤原春月はただの日本人です。やりすぎることのないよう」
「弟よ、お前は私を何だと思っているんだ?」
 木馬の顔がわずかに変わる。不信感まるだしのその視線を受けて、ヨシュアは肩をすくめた。
「兄上。あなたが正式に王族として列せられたあかつきには、節度ある行動をとられることを期待しています」
「え……王子、そんな話があるんですか?」
「ある意味当然だろう。王位継承権は放棄されているがな。このまま順調にいけば、来年の四月か五月には発表があると思うが」
 へえ、と山田が興味の無さそうな声で答えた。
「いつの間にかやることはやっていたんですね。城内のことには無知そうでしたから、心配だったんですけど」
 任せておけ、とヨシュアが胸を張った。春月は王子と同様に、信用できない、という視線を向ける。
「……話を戻そう。魔法使い、お前のその愛はあまりにも美しい。自分の身よりも相手の思いを尊重する、素晴らしい所業だ」
「愛じゃないって言ってるでしょう」
「いい加減にしろ、魔法使い」
 王子がヨシュアに歩調を合わせる。仲がいいのか悪いのかよくわからない兄弟だ、と思いながら春月は二人の会話に耳をすます。
「素直になれ。極悪非道の悪の魔法使いが、道ばたの雑草や小動物には優しくて、雨の日に濡れている捨て犬に傘をさしかけたりしてしまうのは、いわば世界の常識だ。照れる必要はないぞ」
「私は雑草と同列ですか王子さん」
 まあ気にするな、と王子は春月の文句をさらりと流す。
「頼むから黙ってくださいよ、王子! オレだって、出来るだけ考えないように努力してるんです。オレをからかって楽しいですか?」
「ああ、とても楽しいよ。ところで、考えることを放棄するのはおすすめしないな。前向きに生きていないのはお前の方だろう。自分のせいで他人に迷惑をかけると悩むくらいなら、さっさと魔法使いなんかやめて城を出ていけ。お前よりも神経が図太くてしがらみを持たない魔法使いなんぞ、探せばいくらでもいるだろうよ」
「それが出来たら苦労してません」
「なら努力しろ。藤原春月が恋人だろうが友人だろうが、正直言って俺様としてはどうでもいいんだが、お前の煮え切らない態度は腹立たしい。だいたいお前、高等学校なんぞ義務教育でも何でもないんだぞ。嫌なら学校の方を捨ててしまえばいいだけじゃないか。そんなこともせずに、中途半端な態度で他人を傷つけるな。俺様は優秀な家庭教師のおかげで学校なんてものに行ったことはないが、見ている限りではずいぶんと楽しそうだ。つまりは単に未練があるんだろう? 自分が楽しむために、他人を危険に晒しているわけだな」
 山田が唇を噛んだ。まさか図星なんかじゃないでしょうね、と春月は眉をひそめる。
「何とか言ったらどうなんだ。日本が楽しいなら、ずっとこっちにいればいい。シュリフィードから出ていけよ」
 王子の声を聞きながら、春月は取りあえず、声の主がただの木馬であることを忘れようと努力した。多分ここは真面目な場面だ。だからきっと、彼の言葉も真面目に聞かなければならないのだろう。王子の言葉をただの冗談と受け止めることは簡単だ。けれど、それはあまり望ましいことではないような気がした。
「……考えておきます」
 山田が答えるのとほぼ同時に、王子の姿が人間に戻った。勢い余って尻餅をつき、王子は不満げな表情で自分の身体を見下ろす。
「ヨシュア様、今日はこのくらいにしておきますから、王子を国までお連れください。ラフレシアは消していってくださいね」
「承知した。しかし魔法使い、図星をさされたからといって拗ねて仕事を放棄するのはあまり良いことではないと思うがね」
 山田は無言で足元にじゅうたんを広げる。
「所詮はまだ十八の子供か。美しい悪役を気取れるようになるには、十年早いようだな」
「あなたには言われたくありません、つうか同い年じゃないですか」
 ヨシュアはにやりと笑い、王子の側に立って手を差し伸べた。王子はしばらくその手を睨んでいたが、やがて乱暴にその手を掴んで立ち上がる。
 ヨシュアの抱える薔薇籠から花びらが舞い、一瞬春月の視界を覆った。薔薇の嵐が過ぎた後には、二人の姿はない。
「山田」
 うつむく山田の袖を引き、春月は何か言わなければと口を開いた。
「あんたが嘘つきなのはよく分かってるつもりだけど、世の中には嘘ついていい時と悪い時があるんだからね。事と次第によっては、後で思いっきり文句言ってやるから」
 山田は答えない。
 忘れ去られたラフレシアが、二人を嗤っているような気がした。


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