「コーポ南条201 バス・トイレ・地縛霊つき」 月香るな  なにか眩しい光が網膜を焼いた。  そう思ったのはおそらくただの錯覚で、実際には夕日も沈んだこの時間、部屋を照らす光などないのだけれど。  そのままテレビの電源でも消したかのように視界が狭窄し闇に沈む。ブツリという音まで聞こえそうだ。コウヤは息苦しさを持て余し、喉にからみつく細い紐に手を伸ばそうとした。  そこで、ふつりと記憶は途切れ、あとは茫漠とした時間の中、行く場所を見失ったコウヤはただその場に立ちつくしていた。  有村エイコは、引っ越し業者が運び込んでいった段ボールを踏み越えながら、新居の台所へ向かった。  1DKのアパートは、広さの割に安く、古い割にはこぎれいに掃除されている。これから、少なくとも二年間はこの部屋のお世話になるのだ。どんな部屋にしようかと、エイコは立ててきた計画のいくつかを頭に思い浮かべる。  大きく印をつけておいた段ボールを開けて、ヤカンを取り出し、水を入れる。銀の蛇口から、冷たい水が流れ出した。ヤカンを洗ってしまうと、水を入れたヤカンをコンロにかける。がらんとした台所には、きちんと食器棚と冷蔵庫が運び込まれていて、エイコはホッとした。  持参したハサミで段ボールを縛る紐を切りながら、エイコはくるりと部屋の中を見回す。梁が横切る天井、張り替えられたばかりらしい白い壁。扉の向こうにある部屋のまた奥、南に向かって大きく開いた窓の向こうに、申し訳程度のベランダが見える。四方から迫る寒々しい壁のせいで部屋は狭く見えるが、きっと物を置けば広く感じられることだろう。 「なんだか、楽しくなりそう!」  思わず呟いたエイコは、しかし直後、肩に貼りつく重みに顔をしかめた。連日の引っ越し作業のせいか、やけに肩が重い。まだ十九になろうかという年で、肩こりに悩まされるなんてとエイコはため息をついた。 「……楽しくなりそう、だよ」  力無く繰り返したエイコの耳に、「そうだな」という声が聞こえた。弾かれたように顔を上げる。視線を巡らし、振り返ったエイコの目に一人の男が映った。短く刈った髪を立て、シャツにマフラーというやけに暑そうな恰好で立っている、エイコと同い年くらいの青年。 「な……なんですか、あなた?」  一瞬、引っ越し業者の人間かとも思ったが、恰好からしてそれはない。青年はニコリと微笑んで、エイコの方に右手を伸ばした。 「俺、市ノ瀬コウヤ。この部屋に憑いてる地縛霊」  握手でも求めているようなその手が、エイコの手をすり抜けたのを見て、エイコは思わず大声を上げた。 「ああ、また出たの」  何事もなかったかのように隣人は言った。陽気な女性だ。 「そっかー、君も不動産屋に騙されちゃったんだ。まあ、悪い人じゃないみたいだし、おとなしく一緒に住んであげれば? あの人のおかげで家賃が安いのは確かだしね」 「……知ってるんですか、あの地縛霊のこと」 「そりゃあ、まあね。一年前に首を吊った学生さんよ。どこかの専門学校に行ってたらしいけど、よく知らないわ。あたしが入居したのは半年前だから、幽霊になってからの彼しか知らないし……」  言いかけた隣人は、そこで言葉を切り、エイコの背後を見つめた。 「あら、コウヤ君。出てくるなんて珍しいじゃない」 「どうも……ちょっと、引きずり出されてしまって」  いつの間に、と呟いたエイコの前で、コウヤは唐突に拝むような仕草をしてみせた。 「ごめん、カノジョ」  私はエイコ、と呟くと、「それじゃあエイコちゃん」と改まった表情で口元を引き締める。 「本当は、下の空き部屋で大人しくしてるつもりだったんだけど……俺、うっかりエイコちゃんに取り憑いちゃったみたいで、なんか離れられないんだよね」  ぽかん、と口を開けたエイコの背後で、隣人が大笑いをはじめた。 「というわけで、俺、しばらくエイコちゃんの部屋に住みます」 「大丈夫よ、有村さん。彼、このアパートからは出られないから」  エイコは唖然としたまま、目の前に立つコウヤを見つめる。足があって、透けてさえおらず、触れられないことを除けばただの青年。それが、自分に、取り憑いたって? 「ユウキ君の時は、そんなことなかったのにね」 「そうなんですよ。俺もなんだか意外で」  隣人とコウヤは、何事もなかったかのように前の住人の話で盛り上がっている。慌ててその会話に割って入ると、エイコはコウヤに詰め寄った。 「取り憑いたってなに、一緒に住むってなんなのよ! だいたい一人暮らしの女の部屋に、どうしてあんたみたいなむさ苦しい男が居候するっていうの!」 「迷惑はかけないって。別にエイコちゃんに触れるわけじゃないし、隠れてろって言われれば隠れるし。ただ本能的にエイコちゃんの後ろにくっついていたい、って思う、それだけだから」 「やかましい! 取りあえず続きは部屋でやるわよ、恥ずかしい」  隣人に挨拶を済ませると、エイコは部屋に戻る。コウヤが入る前に勢いよく扉を閉めても、コウヤは何事もなかったかのように扉をすり抜けて出てきた。なんだか悔しい。  組み立ててあった座卓のそばに座り、コウヤに正面に座るよう要求する。大人しく正座したコウヤの顔を真っ直ぐにらみつけながら、エイコは口を開いた。 「……で、市ノ瀬君、だったっけ? あんた何者よ、死ぬ前は何をしてたわけ? この状況については諦めるから、せめてそれくらいは教えなさいよ」 「さっきとずいぶん態度が違うじゃないか、つれないなあ。……まあいいや。俺は市ノ瀬コウヤ、享年二十歳。看護系の専門学校に通ってた。もう少しで卒業、っていう昨年二月の終わりに、唐突に首を吊って自殺。理由は自分でもよく覚えてない。……これでいい?」 「……まあ、ないよりマシね」  ぬるい麦茶を飲み干しながら、エイコはコウヤを睨め付ける。 「ところで、その暑苦しい恰好、何とかならないの?」 「なるけど……このマフラー取ったら、多分エイコちゃん、嫌がるんじゃない? 前ここに住んでたユウキは、絶対取るなって言った」  首をかしげるエイコの前で、コウヤはマフラーをゆるめた。露わになる日に焼けた喉に、くっきりと残る赤黒い索条痕。う、とエイコは声を上げ、手でマフラーを戻せと命じた。 「……そうか、首吊ったんだっけ」 「まあ、そういうこと」  地縛霊って、死んだときの傷が残るんだよ、とコウヤは笑った。 「そのくせ、服はけっこう融通が利くんだ。霊界の不思議だね」  そんな不思議は知りたくなかった。  コウヤがベランダに立っているのを見て、エイコは洗濯物を干すべきかどうか逡巡する。覗いてみればガラス戸の向こう、コウヤはやってくる鳥を笑顔で眺めながら、なにやら話しかけている。 「鳥は地縛霊を怖がらないのね」 「俺の善良さを見抜いてるんだよ」  茶化して笑う。背の高いコウヤに話しかけると、エイコは彼を見上げるかっこうになって首が疲れる。ただでさえ肩がこっているのに、これ以上は勘弁してほしかった。 「そういえばあんた、普段は何をやってたの? 地縛霊って、ヒマじゃない?」 「よく、大家さんと将棋を指したよ。碁も教えてもらった。ユウキ――前の住人の部屋で一緒に漫画を読んだり、点けっぱなしのテレビを見たりしてた。基本的にはヒマだから、屋根裏で寝てるけど」  地縛霊も寝るんだ、とエイコは笑う。この世への未練もなにも感じられないコウヤの様子に、大きく気をそがれる。 「そんなこと聞いてきたの、エイコちゃんが初めてだ」  鳥からエイコに視線を移し、ベランダの手すりに寄りかかったかっこうのまま、コウヤは呟く。 「みんな生前と死後の話しかしない。未練を払え、成仏しろ、ってよく言われる。どうやったら未練が晴れるのかもよくわからないし、いつになったら成仏できるのか、そんなこともわからないけど」  しゃがんで鳥の方を向き、その姿を観察するようにしながら、コウヤは続けた。 「俺は今ここに居るし、昔のことは昔のこと、未来のことは未来のことだ。……というより、生きてた頃のことはあんまりよく覚えてないし」  革紐で首から下げた十字架をいじりながら、コウヤは目を伏せた。 「そうなの?」 「俺が生きてた頃について、エイコちゃんに話したことくらいなら覚えてる。死ぬ一年前の成人式で、友達と暴れたことも覚えてる。だけどその時一緒だった友達が誰かなんて思い出せないし、死ぬ前の一週間くらいなんて、何があったかも覚えてない」  首を吊ると脳細胞がいかれるらしいから、その時バカになって忘れちゃったのかな、とコウヤは唇の端を上げる。その表情を、笑った、と形容していいものかどうか、エイコにはわからなかった。 「とにかく気がついたら、目の前に自分の死体があった。天国に行く方法もなにもわからなくて、なぜかアパートから出る気にはなれないし、そのままここで地縛霊してるってわけ」  そう言って、コウヤは肩をすくめてみせた。エイコは手にした洗濯物に目を落とす。 「……へえ、なかなか興味深い話を聞かせてもらったわ」  一瞬ベランダに落ちた沈黙をごまかすように、エイコは部屋の中を指さした。 「ところで、今から洗濯物干すから、部屋に戻ってくれる?」  コウヤは頷いて、大人しく部屋に戻っていった。  洗濯物を干すにはちょうど良い晴天だったが、南西にかかる小さな黒雲が、ふとエイコの心に引っかかった。  それからたちまち十日が過ぎて、コウヤはテレビの前に定位置を与えられ、だらしない居候のような生活を送っている。エイコの方もそれでコウヤが大人しくしてくれるならと、多少の電気代は我慢することにした。  とにかく現世のものに触れられないコウヤにとって、テレビはいい娯楽らしい。今日は子供向けの教育番組を見ている。 「ねえ、ちょっと」  声をかけると、コウヤは振り向いた。子犬のようだ、とエイコは思う。エサを持って呼んでやれば、きっと尻尾を振って飛んでくる。 「私、出かけるからね」 「うん、行ってらっしゃい」  コウヤはいつも、律儀にアパートの前までエイコを見送りに出てくる。事情を知らない人間が見たら誤解するだろうな、とエイコは思うが、どうやらこのアパートに住む人間は皆コウヤのことを知っているようで、エイコはなぜか「頑張ってね」と言われてばかりだ。  ふと思い立って、エイコは場所を教えてもらったばかりの図書館へ向かった。なかなか規模が大きい。エイコの地元にある図書館ほどきれいではなかったが、蔵書数は多そうだ。  いや、そんなことはどうでもいい。これだけ大きな図書館ならば、おそらく過去の新聞記事があるはずだ。縮刷版でいい。地方紙、もしも事件が少ない日なら、もしかすると載っているかもしれない。  カウンタで手続きを済ませ、貸し出しカードを作るのもそこそこに、エイコは過去の新聞を手に取った。 「昨年二月の終わり、って言ったわよね……」  適当にあたりをつけて、新聞をめくる。コウヤの名を探して、指先を紙面の上でさまよわせる。 「……あった」  二月の二十七日の地方紙、その最終面に記事が載っている。市ノ瀬幸也――コウヤ。間違いない、コーポ南条201で起きた事件だ。……事件?  エイコがその記事に目を落としていると、突然後ろから肩を叩かれた。振り向くと、そこには知らない男が立っている。年はエイコより少し上といった感じだ。フレームの太い眼鏡の奥で、目がスッと細められる。 「有村エイコさん、ですよね」  小さく頷いた。 「コウヤに聞いたら、図書館だと言われまして。……初めまして、僕は支倉ユウキといいます。あなたの前に、コーポ南条の二階に住んでいました」  ユウキ。すると、隣人やコウヤが話していたのはこの男か。エイコが考えている間に、支倉はさっさとエイコの隣に座ってしまった。エイコが読んでいた記事にチラと目を落とし、小さくため息をつく。 「……今、お暇ですか? 少し、長い話がしたい」 「ええ。ここじゃ何ですから、どこかへ行きましょうか?」  支倉がうなずき、二人は図書館を出て、近くの公園へと向かった。 「……僕があの部屋に越して来たとき、コウヤはあんなにはっきりとした実体を持っていませんでした。最初は話もできなくて、お祓いをしようかと思っていたものです。それが、日が経つうちにだんだん影が濃くなって、気が付けばあんな風に、普通の人間と変わらない姿をとっていました」  ベンチにだらしなく背をあずけ、支倉は空を見上げた。エイコもつられてそちらを向く。新緑が目にまぶしい。 「なんとか成仏してほしくて、色々と調べてみたのですが、どうも難しい問題らしくて……でも、たまたまある日、コウヤが大きな誤解をしていることに気づきました」  支倉は小さく息を吐き、オフホワイトの上着のポケットからタバコの箱を取り出した。吸っていいですかね、と聞かれ、エイコはまた小さく頷く。 「……あいつ、自分が自殺したって思いこんでるみたいで」  ぽつり、と支倉の言葉が落ちる。そうだ、コウヤ自身がそう言っていた。隣人にも、そう言って自己紹介したに違いない。 「そこを誤解してる限り、成仏はできないんじゃないかな、なんて……思ったんです、僕は」  市ノ瀬コウヤは殺された。  だから新聞に載った。それなりに平和な日々の中で、埋もれることなく書かれていた。 「……最初は、言ってやろうかと思ったんです。お前は殺されたんだ、って。お前の身体を梁から吊ったのはあの人なんだ、って。全部知ったら、コウヤは成仏するんじゃないか、って思ってたんです」  ぼんやりと空を見上げて、しかし支倉の目はどこへ向けられているのか。エイコは支倉の言葉の底に、ひどく戸惑うような響きがあるような気がしていた。 「でも、言えなかった。一緒にいて、暮らしてて、楽しかった。成仏してしまったら、もう二度と会えない。そう思ったら、どうしても言えなくて……大家さんや近所の人にも、黙っていてくれるようにお願いしたんです。あいつと別れたくなかったから。僕は、あいつの友達だから」  投げ出した支倉の右手、タバコを持っていない方の手が、強く握りしめられる。小刻みに震えるその手を支倉は一瞥した。タバコの煙を深く吸い込み、思い切り吐き出す。 「だから私にも、言わないで、って言いに来たんですか」 「はい」  痩せぎすのコウヤと比べれば、やや丸みを帯びた支倉の頬が紅潮する。太っている、というわけではないが、肉付きはいい。あえて言うなら中肉中背、エイコは支倉をそう評した。 「仕事の都合で、これ以上あの部屋に住むことはできなくなりました。でも、せめて、コウヤにはあそこに居てほしくて」  同じ地上にいるのなら、まだ出会う機会はあるはずだから。  遠い、手の届かない遠くへ行ってしまえば、きっともう二度と会うことはないから。  支倉はエイコとほとんど目を合わせなかった。  青空を鳥が横切っていった。  エイコはため息をついた。  迷っていた。 「エイコちゃん、電話……」 「うわあ、来るんじゃないわよ地縛霊!」  思いっきり洗面器を投げつける。洗面器は閉まったままの風呂場のドアに当たって、けたたましい音を立てた。コウヤが、扉から半分出した身体を引っ込め、「ごめん」と言った。 「……ほっとけばいいわ。用事があるならまたかかってくるでしょ」 「最近、勧誘の電話ばっかりだもんね」  ドア越しにコウヤの声。ドアを介しているのに、くぐもることはない。ふとエイコは戸惑った。現世のものに触れられないコウヤが、どうして空気を震わせ、音を出せるというのだろう? 「さあ、わかんないなあ」  声が返ってきて、エイコは目をしばたいた。声に出してはいないはずだ。それなのに、どうして。 「……あんたは私に取り憑いた。あんたは地縛霊であると同時に、私の背後霊。だから、私の心があんたに伝わってる……?」 「背後霊って、そういうものかなあ?」  当の幽霊が困っているのだからどうしようもない。エイコは小さくため息をついて、肩こりのひどさに顔をしかめた。 「あんたの声も、私の心に伝わってるっていうの……?」 「おや、それは新事実発覚だね」  冗談じゃない、とエイコは頭を抱えた。こんなのに心の中を見られるくらいなら、まだ悪霊に取り憑かれた方がマシだ。支倉には悪いが、なんとか成仏してもらいたいところ。  それでも、とエイコは扉の向こうに視線を向けた。コウヤに伝わらないよう、考えないよう、必死に頭を空っぽにしようと深呼吸。  いくら支倉にああ言われたからといって、エイコが、知った事実をコウヤに伝えなかったのは、どうしてだろう?  肩こりと、いつの間にか追加された頭痛は留まるところを知らない。このままではエイコ自身が参ってしまう。それでも、出かけるたびに玄関から脳天気に自分を見送るコウヤ、子供向けのアニメに目を輝かせるコウヤを見ていると、どうにも決心が鈍る。  やってられない、とエイコはため息をついた。最近、ため息が増えたのを感じる。  風呂から上がりジャージに着替え、ベッドに突っ伏すとコウヤが寄ってきた。その目を真っ直ぐに見られずに、エイコは視線を落とす。コウヤの胸に下がった十字架が目を引いた。革紐で吊った銀の十字架には、細かい模様が彫り込まれている。  ――勝手に拝借した、姉のペンダント。  ふと、エイコは目をしばたいた。……今のは、なんだ? 「ねえ、あんた……お姉さんがいるの?」 「いるよ。名前はアヤ、俺より三つ年上。二年前に結婚して、今は子供もいるんじゃないかな……どうして?」 「いや……なんとなく」  アヤ、の名には覚えがあった。向田綾。どこで見たのかと考えて、エイコは思わずきつく目を閉じた。 「俺、けっこう姉貴と仲も良くてさ、姉貴の旦那とも仲良くしてたんだ。そんな気がする。ああ、なんか少し、思い出せそうな気がしてきたよ」 「思い出しちゃ、だめ!」  思わず叫んでしまってから、エイコはハッと口元を押さえる。コウヤが驚いたように自分を見ているのに気づいた。しかしそれでも、叫ばなければコウヤに伝わってしまうかもしれない、と思ったら、止めることなどできなかった。  向田綾。新聞記事に載っていた。支倉も話していた。弟の首を絞めて殺した、犯人の名として。 「……だめ、」  考えてはいけない。思い出してはいけない。伝わってしまう。コウヤに伝わってしまう!  点けっぱなしになっているテレビから、下世話なコントが流れ出す。下手くそな漫才は不自然な沈黙を盛り上げるだけ、ベッドから起きあがってコウヤの顔を見ると、コウヤはぽかんと口を開け、エイコの顔を凝視していた。  ……崩壊を悟った。  コウヤとエイコの間にあった壁がゆっくりと崩れ落ち、あとは危険なほどに無防備な記憶と感情が、それこそ堰を切ったように流れ出した。共有する記憶はほんの少し、それでもお互いを戸惑わせるには充分すぎる。コウヤが語ったそれよりはるかに巨大な記憶を手にしてエイコは混乱し、エイコが知った記憶に触れてコウヤは呆然とし、その互いの感情が恐ろしいほど直接に互いの心に流れ込んでいた。 「……そんな……」 「エイコちゃん、俺……」  言いかけ、コウヤは言葉を切った。深く触れあいすぎた感情は、互いの心に軋みをもたらす。長くは続かない。  唐突に、二人の意識が分離した。コウヤとエイコは顔を見合わせたまま、大きく息をつく。酸素を求めるように咳き込んでから、エイコは毛布に顔を埋めた。 「……ねえ」  顔に流れた前髪越しに、コウヤを見る。コウヤはエイコを、痛いほどまっすぐに見つめ返した。 「見た……?」  最後まで言わずとも伝わる。コウヤは顔を歪め、エイコの髪に触れるような仕草をした。 「……エイコちゃん、ユウキと会ったの?」  頷く。コウヤは戸惑ったようにひとつ深呼吸をして、エイコの前にしゃがみ込んだ。目の前に、コウヤの顔がある。 「え……エイコちゃん、泣かないで。俺、別にそれを秘密にしてたこと、怒るわけじゃないから」  泣いていたか、とエイコは奥歯を噛みしめる。 「違う……そうじゃ、なくて」  大きくかぶりを振る。自覚した途端に涙が次から次へとあふれ出て、エイコはふたたび毛布に顔を埋めて、口の中に粘っこい感覚が染み出すのを感じていた。毛布が涙を吸って、頬を冷やす。  涙で視界はにじみ、目の前にいるコウヤの顔も定かには見えない。エイコは掴めるはずもないのに手を伸ばして、コウヤの頬に指を泳がす。 「そうじゃ、なくて」  涙が止まらなかった。流れる理由も定かでない涙は、ジャージの袖口を不愉快に湿らせる。コウヤはエイコの顔から視線を逸らして、ふたたび深呼吸をした。 「あんたが、そんな風に考えてたなんて、知らなかった。昔、そんな風に生きてたなんて、知らなかった。今、いっぱい流れ込んできたの。お姉さんのことも、支倉さんのことも、全部」  嗚咽に言葉が途切れる。エイコはそれでも、絞り出すように喋り続けた。止めどなく溢れる不安と後悔と絶望を叩きつけるように、コウヤに向けて言葉を発する。 「あんたが、もうすぐ消えてしまうかもしれない、っていうのも、わかったの。支倉さんのために、そうじゃなくてもあんた自身のために、ここに居ようと思ってることもわかった。あんた、すごく生きたがってる。自分が自殺なんかするはずないってことも、ずっと理解してたんだ」  違う? と強い口調で訊ねると、コウヤはひとつため息をついて、ゆっくりと口を開いた。 「エイコちゃんが俺のこと、気遣ってくれてるってわかって驚いた。ユウキにああ言われたら、エイコちゃんは喜んで俺に事実を伝えるだろうって思ってた。俺、今しがたエイコちゃんの記憶を見て、すごく混乱した。それで、色々考えて、やっぱりまだ死にたくないって、消えたくないって思った……」  エイコの肩に顔を埋める。抱きしめるように腕を回す。払いのけようという気は不思議と起こらなかった。ただ、生身のコウヤに触れてみたかった、と思った。 「私、だって……まだ、消えてほしくないよ、ねえ」  鼻の頭がツンと痛い。ひどい顔だろうと思う。振り返ってドレッサーの上の鏡を見る勇気はなかった。 「こんな半端なままで、終わりたくないよ……っ!」  薄い壁の向こうに迷惑をかけるのを承知で、エイコは声を上げた。終わりは近い。感覚的にわかる。コウヤはもう、長くは留まっていられない。そろそろ行かなければならないのだ、コウヤが居るべきところへ。 「私は、あんたのお姉さんじゃないよ。あんたを守ってあげられるわけじゃないし、あんたを束縛したりするわけじゃないし、あんたを……あんたを、殺すわけでもない……」  コウヤの記憶の中、そこかしこに見えるアヤの存在。優柔不断でたまに直情的、自分で言うのもなんだがエイコとよく似ている。そして、コウヤもそう思っている。 「重ねないで、私はあんたを救えない、だから、お願い、満足しないで、絶望しないで、行かないで……」  エイコの言葉を、硬いコウヤの声がさえぎった。 「もう遅い」  ごくり、と息を呑む。おそるおそる涙を拭って、目の前のコウヤを凝視した。その姿が揺らいで見えるのは、きっと涙のせいばかりではない。 「きっと俺の存在がすごく不安定になってたから、エイコちゃんに取り憑いたり、心がつながってしまったりしたんだと思う。姉貴に似たエイコちゃんに優しくしてもらって、俺、すごくホッとした。引っかかってた謎も、今、ぜんぶ知ってしまった。ユウキも、もうここにはいない。俺、もうここにいる理由、持ってない……」  コウヤは訥々とつぶやく。エイコの肩に回していた腕をほどいて、床にぺたりと座り込んだ。ベッドの上のエイコを見上げるようにしながら、助けを求める子犬のように顔を歪める。その目尻にじわりと涙がにじんだ。 「成仏するのに、やらなきゃいけなかったこと、すごく沢山あったみたいで。だから俺、今までこっちの世界で粘っていられた。アパートから出れば消えてたかもしれないし、清めてもらえば天国に行けたかもしれないし、そんなのよくわからないけど、俺、もう全部やってしまったみたいで」  コウヤの身体を透かして、背後の本棚が見えた。終わってしまう。全部、終わってしまう。 「いやだ、そんなのいやだ」  目を閉じたら、その瞬間にコウヤが消えてしまいそうで。まばたきひとつ出来ずに、エイコは彼を凝視していた。 「いきなりじゃない、そんなの、あんまりだ……」 「仕方ないんだ。俺がここにいるのだって、すごく不自然なことで、長く続くはずなんかなかったことなんだから。俺はもうほとんど知ってたよ、自覚しようとしなかっただけ。だから、引き金さえあれば、消えるのに苦労はない……」  コウヤの頬を涙が伝う。エイコはベッドを降りて、触れられるはずもないコウヤの頬を拭う仕草をして、叫んだ。 「行かないで、コウヤ!」  消えてしまう。コウヤのいない日常が訪れてしまう。迎えてくれる人も送ってくれる人もいない。喧嘩をする相手もいない。自覚なんかなかったけれど、もしかすると、とエイコは思う。 「私、コウヤのこと、好きだったかもしれないから……」  どこからこんなに涙が出てくるのだろう。エイコは真剣に考えた。大粒の涙が頬を伝い、顎へ流れ、床に落ちる。もうすっかり視認するのも難しくなったコウヤが、それでも最後に笑ったのを、エイコは確かに見た。 「はじめて名前で呼んでくれたね、エイコちゃん」 「そう、だったかな」 「……うん」  その返事が耳に届いたような気がした、瞬間。  コウヤの姿は空気に溶けて、その残滓すら残さず消え去った。  一晩中エイコは泣いた。  そして、支倉に詫びをしなければ、と思った。  コウヤの墓は街を見下ろす高台にあった。  支倉とエイコは草を抜き、花を供え、その墓をきれいに掃除する。 「……専門学校からの、お友達だったんですね、コウヤと」 「向こうは、すっかり忘れていたようですがね」  支倉が口の端をつり上げて笑い、それがいつだったかコウヤが見せた笑みに酷似しているのに気づいて、エイコは静かに俯いた。 「……すみません」  もう二度と、コウヤに出会うことはない。  エイコも支倉も、その点は同じだ。 「有村さんが謝ることじゃないです。……コウヤは死んだ。それは今更、僕たちがどう足掻いても変えられない事実ですから。いつかこうなることは判ってたはずですし、僕たちはコウヤの未練が晴れたことを喜ばなければいけない」  そんなものかな、とエイコは思う。ひどく淡々とした感情の流れが自分の内にあるのを感じた。きっと情動はコウヤと一緒に、エイコの手の届かないところへ昇華してしまったのだろう。  雨上がりの墓地はしっとりと湿って、爽やかな緑が視界いっぱいに溢れていた。支倉とエイコはしばらくどちらからも口を開かないまま、コウヤが眠る墓の前にたたずむ。  今でも元気でいるかな。退屈していないかな、またお姉さんに似た女の人を見つけて、迷惑かけたりしてないかな。  ほんの半月と少しだった。それだって、いつも一緒にいたわけではない。エイコがコウヤと過ごした時間は、それっぽっちに過ぎない。それなのに、どうしてこんなに色々なことが思い出されるのだろう。 「……有村さん」  支倉がぽつりとエイコの名を呼んだ。 「いなくなってしまった人の思い出は、ことさら美化されて心に残るそうです。僕も、コウヤとの思い出は、コウヤの生前から楽しいことばかりだったように思いますが、実際どうだったのかはよくわかりません」  墓に供えられた花が、風に吹かれて物憂げに揺れた。 「きれいな思い出を抱えるのはいいことだと思います。僕たちがあいつを忘れたら、あいつは本当に死んでしまう。……って、誰かが昔、言った通りです」  だけど、と支倉は顔を上げた。 「僕たちは、生きていかなきゃいけないんです」  どうして支倉がそんなことを言うのかわからなかった。  どうしてそんな当たり前のことを言われるのかわからなかった。 「だから、こっちに戻って、この地面を踏んでください」  エイコは支倉の顔を見つめた。  長い時間が過ぎた。  そしてエイコは、ずいぶんと久しぶりに笑った。  雨上がりの空の雲間から、青空がのぞくのが見えた。 「ねえエイコ、テレビ点けっぱなし、いいの?」 「いいの」  友人を軽くあしらって、エイコは出かけようと靴をつっかけ、バッグを肩にかける。もう重くはない肩が、一抹の寂しさを訴えた。 「あ、泥棒よけとか、そんな感じ? でも、やっぱり勿体ないよ」 「いいの」  扉を閉める。鍵をかける。階段を下りる。  当分、エイコの家のテレビが消えることはないだろう。  もしもいつかコウヤが現れた時、テレビがなかったら退屈してしまうだろうから。  それくらいの感傷にひたることは許されるだろうと思いながら、エイコは早足で歩く。  梅雨晴れの空に、明るい笑い声が流れた。