「ガルガス帝国の野望」
月香るな |
大陸歴千二百十五年九月、ガルガス帝国は平和条約を破棄し、パティア共和国を砲撃した(ヴァルタミア要塞事件)。これを受け、共和国は宣戦を布告。ガルガス帝国とパティア共和国の間に戦争が勃発した(第二次マークシリアン大戦)。この戦争は、将軍フェリシア率いるパティア軍の活躍により、共和国の勝利に終わった。 同年十二月、二国間でボルソネード条約が締結され、長年ガルガス帝国が占領していたヴァルロム城の返還、賠償金二億シルビアの支払いなどが約束された。 (パティア共和国指定教科書 「よいこのれきし」 より) 「謀りおったな、あの腐れ大統領め!」 拳をテーブルに打ち付ける。振動で花瓶が倒れ、水が豪奢な絨毯を濡らしたが、声の主はそんなことにも気付かないようだった。 「我々が、いつパティアを攻撃したというのだ! まったく、言いがかりも大概にしろ!」 ガルガス帝国の若き皇帝、ダウストローゼ=フォン=ガルガスは、手にしたグラスの中身を一気に呷った。空になったいちごミルクのグラスを、割れんばかりの勢いで机上に戻す。 「ディーナ! 何とか、ことを穏便に済ませる方法はないのか!?」 名前を呼ばれた外交官ディーナは、不安げな表情で皇帝の顔を見上げた。彼女よりも二回り若いこの皇帝が、今回の事件にひどく混乱していることは分かっている。普段なら、顔を合わせたくらいでこんなに怯える必要はない。いや、今もないのだろうが、苛々と長い黒髪をもてあそぶ皇帝の目は、その激しい言動とは裏腹に冷たく冷え切っている。下手な受け答えをすれば、勢いで何をしでかすか分からない。 この間とて、単なるちょっとした思いつきで、二十万シルビアもかけてパンジーの球根を買いあさり、それら全てを城の敷地内に植えたのだ。春になったらどんなに可愛らしい花畑になることか、考えただけでディーナの偏頭痛がはじまる。 「恐れながら、陛下。すでにパティア共和国が宣戦を布告してしまった以上、武力衝突は避けられないでしょう。そこで私は、大陸連合に仲裁を頼むのが得策と考えます」 「……ディーナ」 先ほどとはうってかわって静かな口調で、皇帝は答える。すっ、と赤い瞳を細めると、ディーナを睨み付けた。先代の皇帝であった父に似て、彼の容姿は整っている。しかしそれが、ちっとも好印象を与えないのは何故だろうか。かえって人間味のない、冷ややかな印象ばかりを与える。挙げ句、他国からつけられた呼称が「『暗黒皇帝』ダウストローゼV世」ときた。 「大陸連合には、既に使いをやった。帰ってきた返事がこれだ」 皇帝はディーナの眼前に、分厚い手紙を差し出す。大陸連合のサインが入ったその手紙に目を通し、ディーナは愕然とした。 ざっと要約すると、こんなところだ。 『ほう、帝国と共和国が戦争になるんですか。でもそういう時って、絶対悪いのは帝国ですよね。しかも国名に濁音までついちゃって、もういかにも悪い帝国って感じで。響きが違うんですヨ、奥さん』 「奥さんって誰。……って、そうじゃない! 何よ、これ!」 読み進めるにつれて、ディーナの顔が怒りに青ざめる。 『そもそも、慈善事業で有名なパティアの大統領と、暗黒皇帝として悪名高いガルガスの皇帝じゃ、どっちが悪いかなんて一目瞭然だと思いません? ああ、言い訳は結構ですよ、聞いても無駄ですから。大陸連合は、正義の共和国・パティアの味方です――』 ディーナは思わず、手紙を机に叩きつけていた。 「どうして……どうして何もしてない我が国が、こんなわけの分からない理由で……っ!」 「そうだ。ガルガスは過去五百年間、一度たりとも他国を侵略してはいない。得た領土はすべて、平和的に割譲されたものだ」 押し殺した怒りの声が、皇帝の口から漏れる。 「断じて! あの卑怯者のパティア共和国の言うなりになどなってはいけない! 言われのない偏見に負けてもいけない!」 居並ぶ大臣達を見渡して、皇帝は声高に叫んだ。 「とにかく……平和に事が進めば、それに越したことはない。ディーナ、できるだけ早くパティアと話し合いの場を持とう。無駄とは思うが、話し合いが何より重要だ」 「了解致しました、陛下」 こうして顔の割には平和主義者の暗黒皇帝は、実は腹黒い共和国の軍事担当大臣に、話し合いの場を設けるよう要求したのだった。 千二百十五年十月、ガルガス帝国首都ボルソネードにて、第一回ボルソネード会議が開かれた(ガルガス全権=皇帝ダウストローゼV世、パティア全権=軍事担当大臣アンドレ)。賠償を求める共和国側に対し、帝国側は砲撃そのものを完全否定。交渉は決裂に終わる。 (フェルナ=パージィ著 「マークシリアン大戦概略」より) (まだ終わらないんかなぁ……) 近衛兵団大隊長バルザークは、その第一回ボルソネード会議に列席しながら、必死に「あるもの」と戦っていた。 (まだ、終わらないんだろうなぁ……) 顔が引きつる。ところで「黒騎士」との不名誉な異名を取るバルザークだが、もちろんそこには理由があった。黒い鎧と、怖い顔だ。 本人としては、顔が怖いと言われてもどうしようもないので当惑するばかりなのだが、こればかりはどうしようもない事実。 (ええい、もう二時間にもなるのに、どうしてこう遅々として話が進まんのかな!) 直立不動の体勢を二時間。それだけでも結構疲れているのだが、そんなことよりもバルザークには、目下戦わなければならない重要な敵がいた。 尿意。 (トイレ行きてぇ……! でも皇帝を差し置いてそんなアホなことできんしなぁ……近衛兵としてのメンツにも関わるし) 槍を握る手が震える。 バルザークの苦悩は、まだまだ終わりそうにない。 パティア共和国軍事担当大臣・アンドレ=エイロックは、目の前に座るガルガス帝国皇帝と目を合わせないように、手元の書類に視線を落としていた。 (いったいどうして、ディーナ女史が出てこないんだ!?) てっきり、あの人の良さそうな外交官が出てくると思っていたアンドレにとって、この状況はいささか想定外だった。「暗黒皇帝」の異名を取る若い皇帝は、愛想笑いというにはあまりに恐ろしげな笑みを浮かべている。今にも取って食われそうな気がして、アンドレの背筋が寒くなる。 (後ろに控えてる兵士も強そうだし……無礼があったら切捨御免、ってな勢いで殺されそうな気が) ちらりとバルザークの方に視線をやる。目が合った瞬間、アンドレはまるで深淵を覗き込んでしまったかのような恐怖に襲われた。 (うわぁあの目! 絶対ヤバいってアレ、やっぱり帝国なんかに乗り込んできたのが間違いだったよ! な、なんか怒ってるし!) 実際は激しい誤解なのだが、そんなことに気付くべくもない。勝手に妄想をふくらませたアンドレは、不審そうに自分を見つめる皇帝の視線に気付いて本能的に作り笑いを浮かべた。 (な、何をやってるんだアンドレ! ここで退いたら男がすたる!なにがなんでも、ベリント地方の割譲は成功させなければ! そのために色々と姑息な手段も使ってきたわけだし……) と、まあこんなことを笑顔の下で延々考えているのだから、交渉など進むはずもない。 「……大臣。話すことがないのなら、こちらから良いか?」 反射的にうなずく。バルザークの視線が自分から皇帝の方へ移り、アンドレは心からほっとした。 「先ほどから言っている通り、我が国は、貴国の宣戦布告に対し異議を申し立てるものとする。我々は平和的な解決を望んでいるのだ。大陸連合による詳細な調査が行われれば、こちらが正しいことは分かるはずだ」 その言葉を、アンドレはふん、と心の中であざ笑う。 (連合には根回し済みだ。どんなに叩いたところで、共和国が帝国に戦争を仕掛けるなんて馬鹿げた話、出てくるわけがない) それでも表情だけは殊勝さを取り繕って、答える。 「分かりました。それでは、さっそく連合に通達をいたしましょう」 ああ、と皇帝がうなずいた。 「ところで陛下、さっきから気になっていたのですが」 失礼にならないように精一杯の気をつかいながら、アンドレは尋ねる。これだけは聞いておかなければならないような気がした。 「そのクマのぬいぐるみは、一体……?」 「レティシアだ。可愛いだろう」 そう言って「暗黒皇帝」ダウストローゼV世は、ずっと抱きしめていた馬鹿でかいクマのぬいぐるみを、アンドレが読んでいた書類の上に、どん、と載せた。 「あ……っの大臣、絶対俺のこと怖がってましたよ! 何が、何がそんなに怖いっていうんですか! そんなに怖い顔っすか俺!? 俺はただトイレを我慢してただけなのに!」 しばらくしてアンドレが退室した後、全力疾走でトイレに駆け込んで戻ってきたバルザークは、皇帝相手に一気にまくしたてる。 「しかもこの鎧着てるとトイレ行くのも一苦労で! 陛下、笑ってないで真剣に考えてくださいよ! そもそも俺の二つ名、『黒騎士』って何ですか! 俺、そこまで怖い顔してますか!?」 クマのレティシアを抱きしめたまま、皇帝は笑い続ける。それでもやはりその顔に人情味は感じられず、子供の頃からのつき合いであるバルザークでなければ、それが純粋な笑顔であることすら分からないだろう。彼の笑みは、どちらかというと世界を征服しようと企む魔王の笑みに近い。その笑みが、ふと消える。 「だが、お前はまだいい方じゃないか。私など、目すら合わせてもらえなかったんだぞ! 二時間も喋ったのに、ずっと目を逸らされ続けるんだ……あれ以上の侮辱があるか!? なあレティシア……」 力無くクマのぬいぐるみを抱きしめる皇帝。その背中があまりに哀愁漂っていて(といっても、バルザーク以外の人間には悪巧みの最中にしか見えないのだが)、バルザークは思わずその背をさする。 「……そりゃあ確かに私の目は赤いさ。だからどうやら悪魔の血が入ってるとか言われているらしい。でも先祖代々こうなんだから仕方ないじゃないか、私にどうしろというんだ……。国旗が赤と黒で怖いとか、城の外壁がツタだらけで怖いとか、ああ、もう!」 だからせめて城を可愛くしようと思ってパンジーを植えたのに。そう呟いた皇帝を見ながら、バルザークはかえって逆効果だろうな、と思う。咲き乱れる可愛らしいパンジー畑にこの皇帝。おぞましい光景になるのは目に見えている。 「そ……そうだ陛下! イメチェンしましょうよ、イメージチェンジ! 俺もつき合いますから!」 無理矢理に話を逸らそうとして、バルザークが提案する。 「馬鹿野郎!」 それに対する皇帝の反応があまりにも恐ろしかったので、この皇帝とつき合って十数年近くになるバルザークですら、一瞬命の危険を覚えた。 「うわ、やっぱり駄目ですよね、すいません陛下、俺が悪か――」 「そんなアイデアがあるなら早く言え! 床屋を呼べ、さあイメチェンだ!」 その次の言葉を聞いて「驚き損」という言葉が頭をよぎったバルザークだったが、取りあえず今は床屋を呼びに走ることにした。 ちなみに、短く切った髪を金に染め、しかも何を思ったかワックスで固めた皇帝を見て、大臣たちが悶絶したのはまた別の話。 |
千二百十五年十一月十九日、ガルガス帝国はついに「伝説の勇者」を召喚することにしたらしい。 とはいえそれは単なる噂であり、決して私がその勇者とやらを目にしたわけではない。 しかし、帝国の宮廷魔術師の実力が未知数だったあの時、私は確かに怯えていた。私には、とてもそんな真似はできないだろうから。 あの日は、フェリシア将軍さえもが怯えていた。「伝説の勇者」とは、それほどのものだったのだ。……たぶん。 (パティア共和国軍第三師団長 メリー=アクエイトの手記より) 戦場に設えた仮の玉座に座り込み、クマのレティシアを抱えた皇帝ダウストローゼは、開いた手でフルーツ牛乳の入ったグラスを呷る。ぷはぁ、とまるで麦酒でも飲んだ時のような反応をする彼を、可愛いなあと思うのはおそらくバルザークくらいのものだろう。 「それでベムド。策というのは?」 「はい。圧倒的な劣勢に立たされている我ら帝国軍がこの状況をひっくり返すには、『伝説の勇者』を召喚するのが得策かと」 「『伝説の勇者』……」 敬礼の姿勢を取ったまま、真面目な口調で言う宮廷魔術師ベムドに、皇帝は危ぶむような視線を向ける。 「勝算はあるのか?」 「勇者を召喚できたあかつきには、必ずや勝利は我が軍の元に」 言いながら、破壊神ベルガーナへの祈りの印を結ぶ。破壊と再生を司る神ベルガーナはガルガス帝国全土で広く信仰されているのだが、他国からは破壊神というところばかりを注目され、すっかり邪教として名が通ってしまっている。ベムドは、そのベルガーナ教の司祭でもある。着ているローブも、聖なる色である黒。 「分かった。任せたぞ」 「……あの、ところで陛下」 おずおずと言い出したベムド。何を言うのかと思えば、 「この戦に勝利いたしましたら、今度の慰安旅行を潮干狩りから温泉旅行に変えませんか? 潮干狩りというのは、さすがにどうも」 「……考えておこう」 こうして軍事会議はお開きとなった。 ベムドが滞在している塔の地下一階、研究室の床には怪しげな魔法陣が書かれている。その前に立ったベムドは手に持った巻物に書かれた複雑な呪文を延々と唱え続けていた。 「まだ終わらないっすかね」 「当分終わらないだろう」 退屈そうに座り込んで、その一部始終を見つめているバルザークの声に、答えるのは皇帝。こちらはきちんと立ったまま、魔法陣の中を見つめている。 「ところで陛下、そのマントなんすけどね」 「これがどうかしたのか?」 「イメチェンはいいと思うんですけどね、黒じゃなくなって少し明るい感じになったとは思うんですけどね……」 自分より七つ年下の皇帝が、ファッションセンスというものを持ち合わせていないことはバルザークも知っていた。しかし。 「ラメ入りピンクの花柄はどうかと思います、俺」 「ならば、何色ならいいのだ?」 咄嗟に答えられず、バルザークは答えのかわりに首を振った。 と、その時、ベムドの呪文を唱える声が一際高くなる。 「来たれ、伝説の勇者!」 その声が終わるや否や、ぴろりん、という軽い音と共に、魔法陣の中心に一人の男が現れた。 手にする剣は青く輝く。皇帝とそう歳が変わらないのではないかといった感じの若い勇者は、横柄な態度で周囲を見回した。 「んっと……オレを喚んだのは、あんた?」 勇者に指さされ、ベムドは頷く。彼の身体を上から下まで眺め回すと、勇者はため息をついた。 「もしかしてベルガーナ教の信徒? 邪教じゃない。オレ、悪人には手を貸さない主義なのよ」 「な!? 何だ、そのよく分からない主張は!」 「よく分からないも何も。ところで、ここはどこの国?」 絶句しているベムドに代わり、バルザークが答えた。 「ガルガス帝国です。私は近衛兵バルザーク、こちらにいらっしゃるのが皇帝ダウストローゼV世陛下」 しかし皇帝の容姿――ラメ入りピンクの花柄マントに逆立った金髪、赤い瞳に怖い顔――はすこぶる勇者のお気に召さなかったらしい。軽く肩をすくめ、大袈裟なため息をついてみせる。 「あのね。オレってば正義の味方なの。悪に荷担はしない主義なの」 「だから! 我々のどの辺りが悪なんだ!」 やけっぱち気味に叫ぶベムド。勇者は、やってられない、とでも言いたげに首を振った。 「だって帝国でしょ。皇帝でしょ。しかも皇帝が若い。あんた絶対、歳ごまかしてるだろ。魔物とかと契約なんか結んじゃったりして」 「言いがかりも大概にしろ! 私は正真正銘の二十一歳だ!」 「あー、まあその若さが逆に怪しげとでもいいますか。つーか何を言っても無駄でしょ。ここまで条件揃えておいて、自分が悪じゃないって開き直るのが信じられないね。で、オレを喚んだからにはどうせ戦争なんでしょ? 相手は?」 「隣の、パティア共和国だ……」 「ああ、ほらやっぱり! 侵略戦争でしょ? 駄目だって。オレ、帰るわ。せっかく喚んでくれたのに悪いね」 「悪いと思うなら話ぐらい聞け! 誤解だ!」 バルザークの叫びを聞いていたのかいないのか、「伝説の勇者」はひらひらと手を振りながら光の中に消えていった。 こうして十一月十九日、ヴァルタミアの戦いにおいて、ガルガス帝国は大敗を喫することになるのだった。 あれは、僕の人生の中でも一、二を争う衝撃的な出来事でした。ええ、もう二度と帝国との交渉なんかしたくありませんよ。体調を悪くして辞職されたエイロック前大臣の気持ちが、よく分かります。 (パティア共和国軍事担当大臣 サンディ=ウィットの手記より) サンディは宮殿の廊下を歩きながら、黒に統一された調度品に目をやる。ベルガーナ教が聖なる色として黒を大切にするのは知っていたが、しかしこれだけやられると悪趣味だ。 「い……いいかサンディ、僕の任務は例の件について調べてくることだ。条約の調印なんかじゃないぞ……」 表向きにはパティア側の全権大使として宮殿に入ったサンディだったが、その目的は別にある。 「ベリント地方で発見されたという、魔法物質に関する資料だ」 誰かに聞かれたら困るような独り言をつぶやきながら、サンディは歩く。 「馬鹿め! 皇帝陛下は正気であらせられるのか!?」 突然隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてきて、サンディは身を固くした。ついドアの側に身を寄せ、話を立ち聞きしてしまう。 「本当に、慰安旅行の行き先は潮干狩りなのか……?」 (え、潮干狩り!?) サンディの頭の中で、あの強面の近衛兵や眼光鋭すぎる皇帝が、仲良くバケツと熊手を持って潮干狩りを始める様子が浮かぶ。 (……って、正気かよ、オイ) とにかくこの部屋に必要な情報は存在しないと思い、サンディはドアの側を離れた。賢明な判断と言えよう。そのままその場に留まっていれば、ちょうど部屋から出ていこうとしていたバルザークと、正面から鉢合わせることになったであろうから。 黒い扉を押し開けて、サンディは地下へと歩を進める。見張りの目を得意の魔法でごまかし、入ってはいけないと言われる部屋へ。 廊下の一番奥、いかにも重要機密のありそうな部屋を見つけ、サンディは忍び足で近寄る。音がしないように慎重に扉を開け、そっと中へ。 ――そこで、サンディが目撃してしまったもの。 (こ、これは……) それは壁一面にびっしりと飾られた、クマのぬいぐるみ達だった。 しかも部屋の中心にしつらえた椅子にはかの暗黒皇帝が腰掛け、あろうことか大きなクマのぬいぐるみのつややかな毛並みをブラシで手入れしている。あまりに少女趣味な光景にショックを受けたのが災いして、一瞬緊張が緩んだ。開きかけの扉が、ギッ、ときしむ。 皇帝がサンディの方を向いた。赤い瞳に射すくめられて、身を隠すのも忘れる。身の危険を感じたサンディに、皇帝は、 「ああ、これは大臣」 満面の笑みを浮かべてみせた。 (何か間違ってるよなぁ) 皇帝が手ずから淹れてくれたパイナップル紅茶を口にしながら、サンディはほとほと困り果てていた。 (怒るとか人を呼ぶとかするだろう、普通!?) 「美味いか?」 パニックになっているところに話しかけられて、サンディはしどろもどろに返事をした。 「このクマはレティシア。十三年前のクリスマスに父から貰ったものだ……その父は先の戦争で他界したのだが」 ものすごい笑顔で話し続ける皇帝。レティシアにはじまり、棚のクマを端から全て解説しそうな勢いだ。 「あ……あの、陛下? それはともかく、お聞きしたいことが」 勇気を振り絞って尋ねたサンディ。皇帝が彼の方を向く。 「ベリント地方で発見されたという、魔法物質のことで……」 「あれか。……実際にあるとなれば、大した財宝だろうな」 急に皇帝の顔つきが変わった。その恐ろしげな顔に辟易しつつ、サンディは続ける。 「実際に……陛下は、その存在を確認していらっしゃるのですか?」 「答える義務はない」 皇帝は冷たく吐き捨てる。棚からぬいぐるみをひとつ取り出すと、サンディの手に押しつけた。 「メリークリスマス、大臣。このクマをあげるからその魔法物質については聞かなかったことにしておくれ。あとベリント地方の、共和国への割譲もなかったことにしてくれれば嬉しい」 「はぁ……」 (……ってそんなものすごく不平等な話、呑めるわけないだろ!?) うっかり、つぶらな瞳のクマを受け取ってしまってから、サンディは激しく後悔した。しかし時すでに遅し。 「……我々を甘く見るな、大臣。我々には、まだ素晴らしい武器がある。ベリント地方の割譲は、平和条約としても呑まない。嫌ならば、代わりに貴君がここに来た理由を追求してやろうか?」 鼻がぶつかりそうなほどに顔を近づけられ、かの暗黒皇帝にそんなことを囁かれた日には、もうサンディに選択の余地はない。 「そのクマの名前はミレーユ。大切にしてくれたまえ」 「は、はい! それはもう」 周囲の人間の反応に耐えかね、ついに開き直って暗黒皇帝としてハッタリの限りを尽くした皇帝の術に、共和国大臣サンディはあっさり落ちた。かくしてここに、ボルソネード条約が締結される。 「……やはり平和にまさる存在はない」 栄養ドリンクの入ったグラスを傾け、皇帝は勇者を返り討ちにでもしたかのような顔で笑った。あの皇帝とサンディの会話を、部屋の外でこっそり盗み聞きしていたバルザークが苦笑する。 「それにしても……素晴らしい武器って何のことですか。ハッタリも度が過ぎると、聞いていてひやひやしますよ」 暗黒皇帝は、愛するクマのレティシアを撫でながら、答えた。 「愛と勇気と希望と、……クリスマスの奇跡、ってやつかな」 (おしまい) |
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