「星見の丘に降る雨」   月香るな



 二十二歳の時からしばらく、僕はメアリー・アン=フリューゲルの家庭教師を務めていた。
 発端は偶然訪れた。僕が大学で教えを受けていた教授が、この少女の父親と知り合いであり、そして当時の僕が金に困っていることを知った教授が、僕に家庭教師の職を紹介してくれたのだ。
「なに、相手は十四歳の女の子さ。君になら簡単な仕事だろう」
 教授がそんな事を言うから、僕はすっかり軽い気持ちで引き受けたのだ。賭けてもいい、今の僕だったら、絶対に受けないだろうが。
 これは、そんな頃の話だ。


 僕はぐるりと部屋の中を見渡した。その部屋に通されてから十数分、一体これで何度目だっただろう。数えるのも馬鹿らしかった。
 とはいえ、この部屋はとうぶん僕を飽きさせてくれそうになかった。上品な百合の形のシャンデリア、さぞや高価なのであろう金時計、それに僕の座ったソファだって見事な細工物だった。そして窓には、まともに暮らしていたら絶対にお目にかかれないのではないかという、大きな板ガラスまではめ込まれていたのだ(僕たちの国では、まだまだ板ガラスは貴重品だった)。
 どれもこれも、今この街で一番の隆盛を誇る、フリューゲル家の栄華を感じさせるものばかり。生まれてこの方、足を踏み入れたこともないような世界の中で、僕はじっと身を縮めていた。もし気を緩めたら、このままこの部屋の家具たちと一緒になって、消えてしまうのではないかという気さえしていた。
 待ち望んでいたノックの音が聞こえたのは、それから五分くらい(僕には、正直一時間くらいに感じられたが)後だった。
 メイドに連れられてやってきた少女、メアリー・アンは、高価そうなドレスの裾をつまんで、僕に恭しく、正式なお辞儀をしてみせた。顔には、僕が普段つき合っている女友達とはまったく違う、上品な微笑みを浮かべて。
「お初にお目にかかりますわ。私、メアリー・アンと申します。どうかよろしくお願いします、トゥーリ=クレイシュ先生」
 僕も慌ててソファから立ち上がり、精一杯丁寧に礼をした。緊張しきっていたから、何かおかしな失敗をしたかもしれない。それでもメアリー・アンは、まるで最高位の貴族にするような態度で僕に接してくれた。さすがは良家の令嬢というだけあって、礼儀作法をよくわきまえていた(当然といえば当然のことだったが)。
 彼女の桜色をした唇やばら色がかった頬は、僕がよく行く雑貨屋の隅に大切そうに飾られている、典雅な磁器人形を思わせた。どちらも優雅で、上品で、そのあまりの美しさ故に人を寄せ付けないような、そんな空気を漂わせていた。
 その後、僕がメイドに案内された部屋は、壁に設えた大きな鏡が印象的な、天井の高いこれまた豪奢な部屋だった。これから週に一度、僕はここで彼女に経済学を教えることになっているのだった。そしてこの日が、そのいちばん最初の一日、というわけだ。
「お嬢様、それではまず、少し質問に答えていただけますか? どのようなことから教えたらいいのか、まだ判りませんので」
「ええ。私、経済学を教わることが出来ると聞いてから、少し勉強いたしましたの。どれほど答えられるか、楽しみですわ」
 とは言えメアリー・アンの知識たるや、とても「少し勉強した」だけとは思えないほどのものだった。これだけのことを、ただ本を読んだだけで理解できる少女に、これ以上何を教えたらいいのだろう。僕はその時、真剣に悩んだのを覚えている。
 しかしそれでも僕はメアリー・アンの家庭教師を続けた。なんと言っても、当時の僕には金がなかったのだ。五人兄弟の一番下ともなれば、やはり実家をあてにするのにも限度があった。
 メアリー・アンは有り体に言えば「いい子」だった。頭の回転も速かったし、冗談もよく通じた。気配りもよく行き届くし、所作も美しい。まるで物語の中にでも出てきそうな、理想的な「小さなレディ」だったのだ。

 ……そんな彼女に対する認識が崩れたのは、家庭教師をはじめて二ヶ月ばかり経った、ある日のことだった。
 僕は経済学を教えるかたわら、彼女とさまざまな雑談を交わしていた。それはたいてい、やれホールの絵は誰が描いただの、やれ庭師のベルガを街で見かけただのといった、ほんとうに取るに足らないことでしかなかった。というのも、僕と彼女の間に、共通の話題というものが驚くほど少なかったからだ。
 それは決して、性別や年齢の差から来るものばかりではなかったはずだ。彼女は家柄もよく、おまけに財力もある家のお嬢様であったわけだから、街で悪友と騒ぎ立ててばかりいた僕との間に、想像もつかないほどの隔たりができていたのも無理はない。
 そんな中で、話は大学にある天体望遠鏡のことに及んだ。僕には何の関係もないが、友人の中にそれを触ったことのある奴がいたのだ。少なくとも、金さえ出せば(おそらく)手に入る板ガラスに比べて、天体望遠鏡が珍しいことは確かだったから、これにはメアリー・アンも興味を示したようだった。
 そしてどうした成り行きからか、僕はメアリー・アンを連れて、大学に望遠鏡を見に行く羽目になってしまったのだった。
「あの……先生? どこか具合でもお悪いのですか?」
 幌馬車の中、隣に腰掛けたメアリー・アンが僕の袖を引いた。そんな風に見えたかと、僕は慌てて表情をつくり、否定の言葉を口にした。もちろん具合なんて、どこも悪くはなかった。こう見えても僕は健康優良児で知られていたのだ。
「そんなことより、ほら、あの丸屋根の建物が見えますか? あそこが、望遠鏡のある建物です。ビジル教授に話はつけてありますから、すぐに見られますよ」
 望遠鏡があるのは僕が普段通っている、民家を改造した学寮の二階などではなく、きちんとした建物の中だった。僕でさえ、ほとんど足を踏み入れたことはなかった。ビジル教授(あそこで望遠鏡を扱っているひとだ)と会ったことだって、今まで二回しかない。
 僕たちが馬車を降りると、御者はメアリー・アンに一礼して帰っていった。フリューゲル氏は僕を信用してくれているのか、僕と彼女を二人きりにしていったのだ。帰りは歩いて帰ると言ってあった。メアリー・アンの家は街はずれにあったが、それでも大した距離ではなかったからだ。
「それではお嬢様、こちらへ」
「判った。早く行こう、トゥーリ」
 ……僕はその時、メアリー・アンの返事に妙な違和感を抱いた。それでもその原因に思い当たるまでにしばらく時間がかかってしまったのは、きっと僕が彼女に対して「完璧なお嬢様」のイメージを強く持っていたせいだろう。
 僕は自分の気を落ち着かせるため、一つ咳払いをしてから言った。
「お……お嬢様。言葉づかいがいささか乱暴では」
「気にするな。大体、いつもが丁寧すぎるんだ。いつもあれでは、さすがの私も息が詰まるだろう。不快か?」
「いえ、別に嫌というわけでは」
「それならいいではないか。誰にも迷惑はかかっていないぞ」
 確かにその通りだった。だがしかし、あの豹変ぶりはあんまりだと思う。紗を重ねたドレスも漂う香水の香りも、まったく変わりないというのに、その時のメアリー・アンは、一刻前とはまったく違う少女のように見えた。雑貨屋の磁器人形よりは、裏路地の子猫に近かったとでも言おうか。
「それにしても天体望遠鏡か、楽しみだな。日が暮れるまであとどれくらいかかるだろう?」
「太陽も随分傾いていますし、そろそろだとは思いますが」
 とは言え、星など見えなくとも天体望遠鏡そのものが十分面白い見せ物であっただろうから、実のところ僕は昼間に来てもいいという考えでいた。しかしメアリー・アンは星を見ると言って聞かなかったのだ。そのせいで、僕たちの到着は夕方になった。ちなみに、メアリー・アンはついさっきまで作法を学んでいたそうだ。大きな家のお嬢様というのも、大変なものだなとその時思った。
「ああ、トゥーリ君にお嬢様! 準備は整っていますよ、早くこちらへ!」
 僕たちの姿を認めたビジル教授が、遠くから声を張り上げた。お嬢様に気をつかってか、丁寧な言葉遣いだった。僕はあんなにきちんとした恰好をした教授を、それまで見たことがなかった。

 楽しい時間というものは、あっという間に過ぎるものだ。
 教授に天体望遠鏡の説明をして貰っているうちに、たちまち日は暮れていった。
 星については何の知識もない僕は、ただ凄いなぁと感心するだけだったが、メアリー・アンは星についての知識もあり、ビジル教授と小難しい会話を交わしていた。そしてメアリー・アンは、またいつの間にやら、上品な「小さなレディ」に戻っているのだった。
「さて、もう夜も遅い。いくら警備兵がいるとは言え、夜の街は物騒ですからね。そろそろお帰りになられると良いでしょう、お嬢様」
「ええ、そうさせて頂きますわ」
 名残惜しそうな目でちらりと望遠鏡を見たメアリー・アンは、教授の申し出を意外にあっさりと受け入れて、壁にもたれてうとうとしていた僕のもとへ歩いてきた。最後に振り返って、一礼する。
「今日は良い物を見せていただき、感謝しておりますわ。また改めてお礼に伺います」
 その時教授の顔に浮かんだ複雑な表情が示すのは、良い話し相手が帰っていくことへの悲しみか、それともかのフリューゲル家の「お礼」に対するよこしまな期待か。僕には、後者のように思えた。
 建物を出た途端に、メアリー・アンはあの乱暴な口調に戻った。
「見たかトゥーリ? 私はあんなに面白い物を見たのは久しぶりだ! 望遠鏡があんなに繊細なものだとは知らなかったぞ。ああ、それにしてもあの星々の美しいこと!」
 両手を組んで、うっとりとした表情で夜空を見上げるメアリー・アン。しかし、お嬢様らしくしていない今の方が、彼女はずっと楽しそうに見えた。上品に微笑むより、白い歯を見せて笑ってくれる方が良かった。僕は彼女の笑顔を見ているうちに、さっきビジル教授に対して抱いたもやもやとした思いが、どこかへ消えていくのを感じた。
「ああ……いいなあ。空が飛びたい。あの星のもとへ飛んでいって、あの光をすくい取れたら、どんなに素敵だろう?」
 月のない夜だった。おかげで、空にまたたく星がよく見えた。
「帰ってしまうのが勿体ないな。こんな綺麗な星の夜なのに」
「……そうですね。明かりのついた部屋からでは、こう綺麗に星を見ることはできませんし」
 つないだメアリー・アンの手は温かかった。端から見たら、僕たちはどんな関係に見えるのだろう。そんな下世話な想像が、ふと頭をもたげた。恋人……には見えないだろう。兄姉だろうか、それともお嬢様と使用人?
 僕が手にしたランプの明かりだけが、申し訳程度に辺りを照らしていた。このランプを消したら、もっと綺麗に星が見えるだろう。唐突に、そう思った。
 せっかく星を見るのなら、できるだけいい場所を選ばなければならないと思った。だから僕は、フリューゲル家に向かうには真っ直ぐ行かなければならない道を、右に曲がった。メアリー・アンの手は掴んで離さなかった。離すものか、と思っていた。
「お、おいトゥーリ? 屋敷はあっちだぞ?」
「いいじゃないですか、少しくらい寄り道したって」
 ほんの少しだ。そんな思いが僕を突き動かしていた。慌てたようなメアリー・アンの声を聞きながら、僕は早足で、真っ直ぐ目指す場所へと歩いていった。
 星見の丘。
 そう呼ばれる場所こそ、僕たちが向かう先だった。
 自慢じゃないが、僕は今まで女の子と、こんなロマンティックな場所に来たことはなかった。
 だからやってみたかったのかもしれない。あのフリューゲル家のお嬢様と星見の丘に行ったのだと、友人に自慢したかったのかもしれない。星なんて一人でも見られるのに、むしろその方が楽に決まっているのに、わざわざ彼女を連れて行ったのは、そういうわけからだったのかもしれない。
 それとも、ただの思いつきだったのだろうか。後になって考えてみても、それだけはどうしても思い出せなかった。
 とにかく、僕たちは星見の丘に来た。街とは反対側を向いたこの丘の下には、なだらかな斜面に沿って葡萄畑があるはずだ。しかし今は、夜の闇に紛れて何も見えない。僕はランプを消した。
「ここは……」
「『星見の丘』です、お嬢様」
 その名の通り、星がよく見えた。邪魔な樹も山も建物もなくて、視界はたっぷりと開けていた。ミルクをこぼしたような天の川、天頂に浮かぶひしゃく星。地平線からのぞく赤い星、北の空に浮かぶ明るい三つ星。
 その時星々は、きっと僕たち二人のために存在していた。
 以前友人と来たときは、こんなに星が見えなかった。雲間に見える星を見て、雲に恨み言を吐き捨てただけだった。
 だから知らなかった。この景色が、興奮して喋っていたはずのメアリー・アンを黙らせて、その視線を星空に釘付けにさせてしまうほどの、強い力を持っていたなんて。
「……ほぉ。良い場所を知っているではないか」
「気に入って頂けましたか、お嬢様?」
「ああ。ここでお前が気の利いた言葉でもかけてくれれば、もっと気に入るだろうがな」
 気の利いた言葉。僕は考えた。しかし一体どんなのが、「気の利いた言葉」になるんだろうか?
 考えた末、僕は口を開いた。
「お嬢様、あそこに赤い星が見えますよね?」
 メアリー・アンは頷いた。
「あの赤い星が、その下に見える二つの山の間に見える時、その星に願いをかけると、それが叶うそうですよ」
「二つの山……あのとがった山のことか?」
「はい。雨月の中頃になると、真夜中に、ちょうどあの山の間に来るそうです」
 以前ここに来たとき、友人に聞いた話だった。「気の利いた言葉」とは少し違ったかもしれないが、とにかく幸いにもメアリー・アンは僕の言葉に興味を示してくれた。腰を下ろした僕の横に、彼女も座った。せっかくのドレスが汚れてしまうな、と僕は思った。
「雨月といえば、来月だな。しかし雨月の中頃といえば、当然雨ばかりだ。星など見えないぞ」
「簡単に見えてしまったら、意味がないじゃないですか。雨月の夜中、サン・ヴァレリ教会が一つ鐘を鳴らすとき、あそこに赤い星が見える。それに願いをかける、素敵な話ではありませんか?」
 ふん、とメアリー・アンは鼻で笑った。
「確かに素敵な話だな。しかし残念ながらお前と違って、私は夜中にひょいひょい出歩けるような身分ではない。……本当に残念だ」
 夜闇に慣れた僕の目が、メアリー・アンの残念そうな表情をとらえた。はしたない真似を恐れてか、目立った感情(特に、マイナスのもの)の起伏を見せない普段の彼女と違い、この時の彼女は本当に判りやすかった。
「……お嬢様は、」
 考える前に、言葉が出ていた。
「もしも赤い星に願いをかけるとしたら、何を願いますか?」
「……そんなことを訊いて、どうする」
 帰ってきたのは、不機嫌な声。僕は答えにつまった。
「そうだな……父上に言わないでくれるというのなら、言ってもいいぞ。どうだ?」
 僕が隠し事の下手な性格だと判っているのか、そうでないのか。悪戯っぽく、彼女は僕に笑いかけた。
 やがて僕が小さく頷くと、メアリー・アンは呟いた。
「……一日でいいんだ。一日でいい。お前を含めた家庭教師どもに追い回されずに、好きなところで、人の目なんか気にせずに、思いっきり遊びたい。お前の、街での話を聞いていて、そう思った」
 ひどく意外な告白だった。
 彼女が、こんな幼い願いを口にするなんて、思ってもいなかった。しかしよく考えれば、彼女はまだ十四歳の少女だったのだ。
 「遊びたい」
 名家の娘として生まれ、小さい頃から厳格にしつけられてきた彼女には、人並みに遊んでいる暇などなかったのかもしれない。
「別に、街に興味なんかなかった。街で遊ぶなど下賤の輩のすることだと思っていた。でもお前が街での話をするとき、すごく楽しそうだった。だから、私も行ってみたいと思った」
 屋敷から出ることなんて滅多になかったのだと彼女は言った。欲しい物は何でも、誰かが買ってきてくれた。仕立屋は向こうからやってきたし、街のどんな食堂より優秀なコックがフリューゲル家にはいたのだから。必要なんて、なかったのだ。
「トゥーリにこんな事を言っても仕方ないことは判っている。でも他の人間には言えないんだ。きっと、笑われるか、怒られるから。お前はさっき、私のことを叱らなかっただろう? こんな言葉遣いをしていたら、みんな私を叱ったのに。だからお前には、言ってもいいと思った」
 メアリー・アンは立ち上がった。ドレスについた土を乱暴に払う。
「トゥーリ。雨月の夜、サン・ヴァレリ教会の鐘が鳴る前に、もし空が晴れたら……ここに、来たい」  彼女と目が合った。僕は深く考えもせず、頷いてしまっていた。
「そして赤い星に願うんだ。家庭教師がみんな風邪を引いて、父上の気がふれて、私が外に遊びにいけるようになりますように、と」
 それは随分過激な発想だったが、僕は気にならなかった。
「……喋りすぎたな。そろそろ帰ろう」
 メアリー・アンが言った。僕はマッチを擦って、再びランプを点した。

 そして雨月がやってきた。
 大勢の予想通り、雨月に入ってからは土砂降りの雨が降り続けた。たまに思いついたように弱くなっては、すぐまた強くなるのだった。
 それでも僕は週一回、ぬれねずみになりながらも、フリューゲル家に通っていた。雨月に雨が降るのは仕方ない。霜月に霜が降りるのと同じことだ。
 その日のメアリー・アンは、なんだか落ち着きのない様子で羽ペンをいじっていた。感情を表に出さないあの表情で、淡々と。
 屋敷の中では、たとえ二人きりになっても、彼女は「小さなレディ」のままだった。いつ誰が入ってくるか判らないからだと、彼女は一度だけ言ったことがあった。
「……雨、止みませんわね」
 ぽつりと彼女が言ったとき、僕は一瞬、彼女が何を言おうとしているのか判らなかった。
「止んでくれればいいのに。でないと、星が見えませんわ」
 赤い星の事を僕が思いだしたのは、その時だった。
「何とかしてくれませんの、先生? 私に夢物語を吹き込んで、その物語に酔わせてしまったお詫びに」
「え……何とか、ですか?」
「そうですわ。男でしたら、怖じ気づいたりせずにやるべき事をやってくださいな。レディに対して優しくするのは、男の方の義務だと言いますでしょう?」
 それは上流階級の話だ、と反論しかけてやめた。ここは上流階級の人間の家なのだ、郷には入れば郷に従えと言うではないか。僕は思った。ふと、彼女の瞳が僕をとらえた。
「それとも先生は、レディの願い一つ叶えてくださいませんの?」
 彼女の願いは知っていた。しかしそれを叶えるのは、僕には無理だ、と思った。
「……そんなことを言われましても……お嬢様が街に出れば、危ないこともあるでしょう。今の領主様はまだお若くて、あまり優秀な方ではありませんから、街の治安もそう良いとは言えませんし……もしお嬢様に万一のことがあったら大変ですし」
 僕が言い訳をはじめると、メアリー・アンは一瞬だけあの野良猫のような笑みを漏らした。
「トゥーリ先生。それは、私の婚約者がその領主様だと知った上でおっしゃっておりますの?」
「……え!?」
「あら、その様子ではご存知なかったようですわね」
「し、失礼しました……!」
 僕は本当に、全然知らなかったのだ。しかし考えてみれば街一番の金持ちが、次に欲しがるのは家柄に決まっていた。娘を嫁がせるのは、一番手っ取り早い方法だったのだろう。
 しかし取りあえず、その場をやり過ごすことはできた。メアリー・アンはその日、それ以上その話に触れようとしなかったからだ。
 ただ、帰りしなに一言、こう言っただけで。
「……雨、止みませんわね」

 雨月の三週目。その日もやはり雨だった。
 街にも、星見の丘にも、雨は降っていた。僕はいつものように、横殴りの雨には何の意味もない傘を手に、フリューゲル家に行った。
「いらっしゃいませ、先生」
 メアリー・アンはいつものように挨拶してきた。僕はそれに答えると、ちょっと窓の外に視線をやった。
 雨はまだ、止みそうになかった。
「お嬢様」
 僕はひとつ深呼吸をすると、言った。
「街の図書館に必要な本があるんです。貸し出しが禁止されているので、こちらから図書館に行きたいと思うのですが、お父様に許可はもらえるでしょうか?」
 この一週間、ずっと考えていた。このまま雨が止まなかったら、いやたとえ止んだとしても、彼女があの山の間に赤い星を見ることはない。それなら僕は、メアリー・アンに夢物語を吹き込んだ責任を取らなければいけない、と。
 いや、それ以前に僕は彼女の家庭教師だった。だから教えなければならなかった。経済学なんかを学ぶ前に、彼女は知らなければならないことがあった。領主の妻になろうというのなら尚更だ。街に住み、遊ぶ人間を下賤の輩とはねつける意識は、住民にあまりいい感情を抱かれないだろう。そんな考えが脳裏を巡った。自分の、あまりに不合理的な考えを正当化するための言い訳が。
 いや……むしろそんな理由よりも前に、僕は彼女を街に連れて行きたかった。彼女の願いを叶えてやりたかった。この磁器人形の顔をした野良猫を、今まで見たこともない世界に連れて行って、びっくりさせてやりたかった。あの日、望遠鏡を見たときのように輝く彼女の顔を、もう一度見たかった。
 もしかすると、僕は彼女に、恋していたのかもしれない。

 メアリー・アンはその後、彼女の父親にかけあって図書館に行く許可を取り付けた。馬車が図書館の前で待っているから、帰りはそれで帰ってこいと言っていた。勿論、その通りにする気などさらさらなかった。街にさえ出てしまえばこっちのものだ、と考えていた。
 馬車は雨の中を、ぬかるみに車輪を取られそうになりながらも走り続けた。御者の腕は良かった。さすがフリューゲル家、御者に至るまで一流だったというわけだ。
 馬車は図書館の前に綺麗に乗り付け、メアリー・アンは御者に傘を差し掛けられながら馬車を降りた。御者が中まで着いてくるのではないかとひやりとしたが、幸いにもそれはなかった。
「先生、一体どんな本を……」
「トゥーリで結構ですよ、お嬢様」
 僕がにこりと笑うと、メアリー・アンは白い歯を見せて、にやりと笑った。普段ならば、はしたないと注意される笑みだった。
「それではトゥーリ。これから……」
「まず傘を調達します。それから裏口を通って外に出て、ヴォルミオ食堂に行きましょう。あそこのパイは絶品ですから」
 僕の言葉を聞いたメアリー・アンが、ちょっとびっくりしたような顔をする。すぐに、その顔は極上の笑顔に変わった。
「それじゃあ、そのハゲ親父の作るアップルパイが食べられるんだな? そういうことなんだな?」
「はい。他にも行きたいところがあったら言ってください。僕も男です、レディの願いは叶えてあげましょう」
 その時、メアリー・アンがどんな顔をしていたのかは判らない。彼女は僕に飛びついて、僕の胸に顔を埋めてしまったのだから。
「どうして? どうしてそんな危険なことをするんだ? クビになるぞトゥーリ、父上に知れたらクビだ!」
「覚悟の上です」
 実のところ、全然考えていなかっただけだ。平静を装って答えたものの、内心はドキドキだった。だってもし僕がクビになったりしたら、教授にだって申し訳が立たない。
「ああ……早く行こう、時間が勿体ない!」
 そう言って顔を上げたメアリー・アンは、子猫のような、見る者を惹きつけずにいられない笑みを浮かべていた。

 ヴォルミオ食堂のアップルパイは絶品だった。メアリー・アンの肥えた舌ではどうなることかと思ったが、彼女は素直に「おいしい」と評した。初めて街を遊び回れるという喜びが、たっぷりと調味料になっていたことは間違いないが。
 それから僕たちはブティックに行って、雨の中でも頑張っているマフィン売りからマフィンを買って、蜂蜜をたっぷりかけて食べた。熱いマフィンが、冷えた身体に嬉しかった。
 いつも行く裏路地の酒場に連れて行って、友人達にからかわれたあとは、教会へ行って今日の所業を懺悔した。果物屋に行ったとき、僕は初めて、メアリー・アンが皮のむかれていない林檎を見たことがないという事実を知った。かじりつくという事を知らなかった彼女は、僕が林檎を食べる様子を物珍しそうに見ていたのだった。
 メアリー・アンが一生懸命林檎を食べている間に、雨足は弱くなってきた。僕たちが見上げる空は見る見るうちに晴れ、教会前広場に走り出た時には虹がかかっていた。
「トゥーリ! 虹だ、虹だ! 綺麗だなあ、すごいなあ!」
「そうですね。今日のは綺麗な虹です」
 そもそも、雨月の間に空がこんな風に晴れるのは珍しかった。神様は見ていてくれたのだろうか。
 メアリー・アンは無遠慮に、広場に置かれた処刑台の上によじ登り、空に手を伸ばした。
「いいなあトゥーリ! お前はいつも、こんな風に暮らしているのか? だとしたら、お前は私より恵まれているかもしれない!」
 それはない、と思いながら、僕は曖昧に笑った。僕に、いつでも空を見つめられる自由があるかわり、メアリー・アンには恵まれた財力が、地位がある。人は皆、自分にないものを求めるものだ。
 夕暮れが近い空は、見つめるうちにたちまちオレンジに染まった。
「……そうだトゥーリ、星見の丘へ行こう!」
 メアリー・アンはそう言い出すと、早く早くと僕を急かした。
「今日なら見えるかもしれない! サン・ヴァレリ教会の鐘が鳴る前に、あそこまで行こう!」
 望遠鏡のある丸屋根の建物を目印に、メアリー・アンは晴れ上がった街を駆けた。すぐに息があがってしまうのが可愛らしい。
 丸屋根の建物からは、道を覚えているらしかった。メアリー・アンは僕の先に立って、早足で進んだ。

 やがて日がすっかり暮れてしまった頃、僕たちは星見の丘にたどり着いた。湿った空気と、歩いたせいでかいた汗のせいで、シャツがすっかり肌に張り付いて気持ちが悪かった。
「着きましたよ、お嬢様」
「ああ、やっとだな」
 僕たちは二人とも軽く息をついていた。僕が疲れていたのは、途中ぐずるメアリー・アンを背負って歩いたからだった。そうでもなければ、大した距離でもなかったのに。
「まったく、大した度胸だよトゥーリ。家に帰ったら大目玉だ」
「今頃、血眼になってお嬢様を探している頃でしょうね。これじゃあ、クビは免れそうにないですね、困ったなあ」
 口ではそう言っていたが、僕の心は不思議にさわやかだった。ひとつの事をやり遂げたときの達成感に似ていた。
「それなら……ああ、トゥーリ! 赤い星!」
 赤い星が、少々急ぎ足で姿を現したのは、その時だった。
「お嬢様、お願い事は?」
「今更何を願えというのだ? 私の願いは叶った。すごく嬉しかった、トゥーリ。仕立屋が見繕ってくれるドレスもいいが、自分で選んでみるのも楽しいものだな。それに、あんなにたくさん蜂蜜をかけてマフィンを食べたのは初めてだよ! それから林檎。林檎があんなに真っ赤だとは、私は恥ずかしながら知らなかった」
 経済のことには詳しくても、作法は完璧でも、メアリー・アンは林檎が赤いことを知らなかった。僕はそれが、ひどく滑稽に思えた。
「それからお前の友達、みんな楽しい者ばかりだったな。街にはあんな人間ばかりなのか? だとしたら、私は認識を改めなければならないようだ」
 メアリー・アンがその場に腰を下ろした。まだじっとりと水を含んだ草と土が、その豪華なドレスを汚した。恥ずかしながら、なんて勿体ない、と僕は思った。
「あんな奴ばかりではないですけれど、みんないい人ですよ。領主様にもそう言ってくれませんか? 税金が重くて、みんな大変なんです」
「判った。将来の妻の言うことだ、ハンフリー様も聞いてくれることだろう」
 若い領主の名を出して、メアリー・アンは僕に右手を見せた。その薬指に、銀の指輪が光っていた。
「ハンフリー様がくれた指輪だ。なに、あの方はまだ若い。これからもっと良い領主になれるよう、私が支えてあげるのだ」
 だから一生懸命勉強するんだ、とメアリー・アンは言った。
「すっかり忘れていたよ、私がなんのために山のような家庭教師を雇っているのか」
 僕はそのとき、正直言って領主に嫉妬心を覚えた。そして、そんなことを考えている自分が恥ずかしくなった。元より、領主などとは勝負にもならないというのに。
「トゥーリ、しっかり勉強して偉くなれ。そうしたらいつか、ハンフリー様に雇ってもらえるよう進言してやる」
「ありがとうございます」
 僕は笑った。メアリー・アンが頑張ると言っているのに、僕が頑張らない理由はなかった。いつか領主に雇われるだけの実力をつけられるように、と僕は赤い星に願った。
「そうだトゥーリ」
 僕が祈っていると、メアリー・アンが暗がりの中で笑うのが判った。子猫の笑み、いや植木鉢を蹴倒す迷惑な野良猫の笑み?
「あの星に私が祈っておいてやろう。トゥーリがクビにならないように、とな」
「……ありがとうございます」
 メアリー・アンは本当に祈り始めた。
 僕は、彼女を連れ出すきっかけになった赤い星に、そしてタイミングよく止んでくれた雨に、心から感謝した。
 遠くから、サン・ヴァレリ教会の鐘の音が三つ聞こえてきた。


 結論から言うと、僕はクビにならなかった。
 それから二年、僕はフリューゲル家に通い、その後メアリー・アンの結婚式をもって、お役御免となった。
 勿論、僕は心から領主とメアリー・アンの結婚を祝福した。結婚式が行われたのは雨月の最中で、あいにくの雨ではあったけれど、二人とも実に幸せそうだった。もっとも僕は、その様子を遠くから見ていただけだったが。赤い星に領主と彼女の幸せを祈ろうかとも考えたけれど、結局雨が止まなかったので諦めた。
 もっとも、そんな必要はなかったのかもしれない。メアリー・アンは実にしっかりと領主を支えている。領主自身よりも政治を知っているとさえ言われているのだ。
 あれから長い年月が経った。僕はいつの間にか、自分が教授と呼ばれる立場にいる。メアリー・アンの口添えで、領主に意見したことだってあるのだ。
 どうして今更こんな話をしたのかと言われれば、こう答えるしかないだろう。
 ちょうどあの、二人で星を見た日と同じように、今日も雨雲の切れ目から、赤い星が見えているから……と。



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