「バカの花」   月香るな  その花は、ワタナベの頭の上に咲いていた。  丸みをおびた五枚の花弁は、林家パー子も裸足で逃げ出すショッキングピンク。チューリップのそれと言うよりはストローのような茎、子供の落書きのような不揃いの葉。  それは紛れもなく、ワタナベの頭に根を下ろし、ワタシも髪の毛ですよと言わんばかりに胸を張って生えている。 「も、もういいだろ?」  ワタナベはまた布団の中に潜り込んでしまった。布団の端からピンク色がのぞく。 「あの」私はおずおずと口を開いた。「理由は、よく分かった」  確かに、これでは家に引きこもりたくもなるだろう。私は目の前でうごめく布団の塊から目を逸らす。そばの机の上には食べかけのポテトチップス。布団の中から操作できるよう、目いっぱいコードを伸ばしたプレイステーション2。部屋の中にはすえたような臭いが漂っている。しかし、まあ、男の一人暮らしにぜいたくは言うまい。 「スズコ」  部屋の主が戸惑ったように私を呼んだ。 「何か言ってよ、不気味だよ」 「お前のそれの方が数段不気味じゃないか」  問いつめたいのは山々だが、聞いてはいけないような気もする。ワタナベがわずかに布団を持ち上げた。顔は見えないがメガネが光る。 「鈴木さん」 「なに、突然あらたまっちゃって」 「この花なんだけど……」  布団の端から手が伸びて、机の上のポテトチップスをつまんだ。ワタナベは困ったことがあると食べてごまかそうとする。それでも太らないのが羨ましい。 「なに、早く言ってよ」 「バカの花なんだ」  私もポテトチップスに手を伸ばした。コンソメパンチ。 「……は?」 「だから、バカの花なんだよ」 「バカの花?」  ボケの花の親戚か。いや、そんなものは聞いたことがない。 「そう」ワタナベの声に、ポテチが砕ける音が混じる。「バカに生えるんだ」 「ワタナベ、ポテチもうないの?」  返ってきたのは深いため息だった。 「気をつけろよ、スズコ。この花、風で種をばらまくんだ。バカをみつけると発芽する」 「なんで? 私、バカじゃないから平気だよ。出て来なよ」 「あとで泣いても知らないぞ」  布団から出てきたワタナベの頭上で、ピンクの花がちょこんと揺れた。 「しかし物好きな花だね。わざわざバカに生えるなんて」 「バカの養分吸ってるうちに、自分までバカになったんだろうよ」 「ああ、なるほど! ワタナベ、頭いいね」  ワタナベは肩を落としてため息をついた。 「どうでもいいからさ、これ、何とかできないかな」 「そもそも、どこで貰ってきたのよ、そんな種」 「センパイの家」  ポテチの袋に残った粉を指で取りながら、ワタナベは三度目のため息をつく。 「ため息つくと幸せが逃げるよ」 「これ以上逃げてく幸せなんかないよ」  ピンク色の花びらはしっとりして、よく手入れされた温室の花を思わせる。頭の上に生えてさえいなければ。 「じゃあ、そのセンパイとやらに相談すればいいんじゃないの」 「昨日のうちに電話したよ。大爆笑されておしまい。センパイには生えなかったんだって」 「あら、ご愁傷さま」  正直なところ、普段なら別にワタナベが引きこもろうと旅に出ようとバカだろうと、興味なんかないのだ。大学なんて来るも来ないも個人の勝手だと思っている。しかしながら、ワタナベの出席に私の単位までもがかかっているとなれば話は別だ。なんで発表、こいつと組まされたんだっけ。記憶を探ってみる。ああ、たまたま隣に座ってたんだった。 「あれ? 待てよ、確かあの時……」  ワタナベは首をひねる。寝間着らしき奴のジャージはそばに寄ると汗くさい。私はさり気ない風を装って距離を取った。狭い部屋だけに限度はあるが、少しはましだろう。 「『バカに常識は通じない』……か」 「なに、それ?」 「電話した時、センパイが言ってた。あと、『自分がバカだと気付いたってことは、お前は真のバカじゃない』とも」  ワタナベはメガネを外し、レンズをジャージの裾で拭く。ポテチの脂で汚れた指やそんなジャージでメガネを触ったら、余計に汚れそうなものなのに。……仕方ないか、バカなんだから。 「ふうん……じゃあ、比較的軽度のバカだったんだ。良かったじゃない」そこがせめてもの救いというやつだろうか。「ねえ、それ、普通に切ったんじゃダメなの? 髪の毛みたいに、ハサミで」 「……それがな、切ると痛いんだよ」  「俺、水虫なんだよ」とでも言い出しそうな表情で、ワタナベはうつむいた。一瞬だけ同情しそうになったが、頭の上のピンク色を見ると気が抜ける。 「我慢すれば?」 「無理! 麻酔なしで虫歯の治療するくらい痛かった! あんなの我慢するくらいなら、俺一生このままでいいよ」 「じゃあ、一生このままでいなよ」 「いいのか? 発表、俺がいないとスズコ困るだろ?」  その妙に恩着せがましい物言いは、妻との離婚を渋る暴力夫を思わせる。 「だから、その花を生やしたまま来りゃいいじゃない。ファッションだと思って受け入れてもらえるって」 「お前が俺なら出来るのか?」 「無理ね」  他人事になると、人間はとたんに無責任になれる。怪しい健康器具を売るセールスマンしかり、他人の恋路を応援する女しかり。 「じゃあ帽子は? 怒られるかもしれないけど、その花よりマシでしょ」 「俺、帽子なんか持ってない。この頭じゃ買いにも行けないし」 「確かに。……ワタナベ、あんた食べるものはどうしてるの? 買い物、行けないんでしょう?」 「台所の備蓄が切れたら終わり。そうだスズコ、何か買ってきてよ」 「やだ。私はあんたの彼女じゃないんだから。自分で行きなよ」 「殺生な!」  すがりついてこようとするワタナベの額に、私は手元にあった発表資料を振り下ろした。命中、ど真ん中。 「そうだ。あんたがバカじゃなくなったら、花も枯れるんじゃない?」  ずり落ちたメガネを押し上げながら、ワタナベは小さく頷いた。 「でも、バカって治るのか?」 「死ななきゃ治らないんだっけ?」 「死んでも治らないって言う人もいるぜ」  ワタナベは頭を抱えた。 「だとしたら」心なしか、頭の上の花がより生き生きしてきたような気がする。「どっちにしろ、俺は一回死なないといけないのか」 「外に出る勇気がなけりゃ、どうせ飢え死にするんでしょ。ねえ、そろそろ真剣に考えようよ」 「え?」  メガネの奥の目が、驚いたように見開かれた。 「スズコ、今まで真剣じゃなかったの?」 「……ワタナベ、今の真剣だったの?」  さすが、頭にバカの花が生えるだけのことはある。私は花を突っついてみた。どこからどう見てもショッキングピンク。宇宙的な恐怖さえ感じさせる、実に名状しがたい存在だ。 「お、俺はいつでも真剣だ。たぶん」 「でも、バカなんでしょ?」 「それだって、何かの間違いかもしれないじゃないか」 「そうかなあ。そのバカの花、けっこう頭いいんじゃないの? きっとあんたのバカをちゃんと見抜いたのよ」  私はもう一度、花に触ろうと手を伸ばす。その途端、まるで意志を持ったような――いや、明らかに意志を持った様子で、花が私の手をすり抜けた。 「ワタナベ、今なにかやった?」 「いや、俺はなにも」 「そう」私は手を引っ込め、肩をすくめた。「ところで、794うぐいす?」 「平安京……」 「正解。じゃあ、1192つくろう?」 「鎌倉幕府。どうしたんだよ、いきなり」 「決まってるでしょ、バカを治すの。こんなのに栄養与える必要ないよ。被子植物の分際で、人間に楯突こうなんて百万年早いわ!」  息巻いた拍子に空き缶を踏んだ。痛い。中身が残っていなかったのがせめてもの救いだ。 「ちょっと、掃除くらいしなさいよ」 「いつかステキな彼女が俺の部屋を掃除してくれるのを待ってるんだ。ほっといてくれ」 「だから柱にキノコが生えるんだよ。まあ、バカの花よりはキノコの方がましかもしれないけど」 「そうだな。バカの花は食べられないだろうし」  食べられるものなら食べてやろうか。そう考えてやめた。バカを体内に取り込んだら、ろくなことにならないだろう。  待てよ。 「ワタナベ、いっそのこと、その花は生やしっぱなしの方がいいかもしれない」 「なんで?」 「養分代わりに、ワタナベの中のバカな部分を吸い取ってくれるかも」  ワタナベが大きく頷く。その日の授業が全部休講になったら、このくらいの笑顔は見られるかもしれない。 「スズコ、お前って天才だよ!」  紙くずを膝で踏みつけながら、ワタナベは私に握手を求める。 「どこに水をあげたらいいのかとか、日に当てた方がいいのかとか、ずっと悩んでたんだ。俺のバカを栄養にしてるんだな、だったら肥料の心配もないな!」 「そっちかよ!」  さすがだ。バカに常識は通じない。 「まあ、本当にバカを吸ってくれるかどうかは分からないけどね」 「でも何だか希望が湧いてきたよ! ありがとうスズコ! 鈴木様!」 「分かったら明後日はちゃんと学校に来てこれ読んでね。いやあ、原稿が上がってて本当によかったわ」  ワタナベの表情が凍る。 「ちょっと、忘れないでよ。私は元々、そのために来たんだからね」 「わ、分かってるよ? 大丈夫?」 「大丈夫だと思うなら疑問形にするな」  ワタナベは肩を落とし、しばらく何ごとかつぶやいていた。かと思うと、突然顔を上げて私の顔を凝視する。 「な、なに」 「そうだスズコ! スズコも頭に花を生やせばいいんだよ! そうしたら俺も行く!」 「はあ?」 「赤信号、二人で渡れば怖くない!」 「怖いよ!」  ワタナベが身を乗り出す。ショッキングピンクの花が、大口を開けた肉食動物に見えた。てのひらほどの大きさの花は、見つめていると目がチカチカしてくる。こんなものを頭に乗せて歩いたら、すぐに警察に捕まりそうだ。いったいどんな罪になるのかは分からないけれど。 「俺、折り紙得意なんだよ。今ちゃちゃっとスズコの分を折ってあげるから」 「いらない」 「まあまあ、遠慮しないで」  私はワタナベの額を中指で弾いた。変な声を上げてワタナベは額を押さえる。少しでも動くたびに花が大きく揺れる。何とかならないものだろうか。 「しかも折り紙かよ」 「本物の方がいい? スズコがバカなら、すぐに生えてくると思うよ。成長は早いから明後日には間に合うし」 「冗談じゃない。私はバカじゃないって言ってるでしょ」  どうかな、と笑いながら、ワタナベは私の頭をぽんと叩く。  ……そしてもう一度、今度は真剣な顔で。 「あ、あの」 「何だね」 「べ、別に深い意味はないんだけど、今日はそろそろ帰った方がいいんじゃないかなー、なんて……」 「どうして?」 「す、スズコ、頭痛くない?」  ワタナベはうっかり教授のカツラに気付いてしまったときのような変な笑顔を浮かべながら、ぎこちなく首をひねる。 「いや、全然」 「ならいいんだ。うん」ワタナベは立ち上がると、部屋の隅に積んであった新聞――そんなもの取ってたのか――を持ってくる。「スズコ、俺、やっぱり明後日はちゃんと学校行くよ」 「どうしたのよ、いきなり」  ワタナベの手元で、新聞紙がみるみるうちに三角形のカブトに化ける。折り紙が得意だというのは嘘ではないらしい。 「ほ、ほら! これかぶって行けば楽勝! だからスズコもちゃんと来いよ!」 「だから、私は行くってば」 「約束だぞ! 男と男の約束だ!」 「私、女だけど」 「じゃあ男と女の約束だ!」  なんだか卑猥だ。それはともかく、私は小さく頷いた。突然どうした。  新聞紙カブトを被ったワタナベは、小さな台所の横にある玄関扉を開けた。風が吹き込み、よどんだ空気を晴らしていく。 「というわけだから、今日はもう帰りな。俺はこれから飯を買いに行く」 「わ、分かったよ……って、それで行くの?」 「もっといい手があれば教えてくれよ。スズコと喋ってたら腹が減ったんだ」 「通報されないように気をつけてね。最近、どこも物騒だから」 「大丈夫。バカは風邪を引かない」 「関係ないし」  ワタナベが満面の笑顔で私を見送ってくれた。風で髪が乱れる。私は頭に手をやり――  ――ん? 今、指先に触れたのは……  いやいや。  ち、ちょっと待て。  そんなバカな。 (完)