「ダンピール」   月香るな 「赤い瞳の娘が来たよ」 「ああ、ついにやって来た」 「赤い瞳の退治屋だ」 「だが、誰が彼女を呼び止める?」  ほんの数刻前までにぎわっていた、町一番の大通り。しかし今、そこは奇妙なまでの静けさに包まれていた。  その通りの真ん中を、歩いてくる少女がひとり。白いコートに身を包み、茶色い髪を冷たい風になびかせながら、彼女は歩を進める。  少女の表情は少し不機嫌そうだった。理由はかんたん。静かな通りの両端から、彼女の様子をうかがう住人達の気配を感じるから。建物の中に身を潜め、ひっそりと彼女のことを見つめているのがわかるから。  いい加減、少女の機嫌が目に見えて悪くなった頃、唐突にそばの酒場の扉が開いた。中から、転がるように一人の少年が出てくる。どうやら、中の誰かに追い出されたらしい。 「…………」  少女は無言のまま、慌てて膝についた砂を払う少年の様子を見ていた。少女の機嫌はいま、もの凄く悪かったものだから、見下すようにして少年を見据える彼女の瞳には、それはもう怖いものがあった。彼女の赤い瞳に見つめられ、少年が慌てて目をそらす。 「あ……え、えーと、ミス、この度はお日柄もよく……」  一通り砂を払った少年が、少女の名を確かめもせず、ぼそぼそと喋り出した。ちなみに空にはどんよりと雲が立ちこめている。 「挨拶はいいから、早く用件を言いなさいよ」  彼が話しかけている相手は間違ってはいない。その少女に冷たく言い放たれ、少年は慌ててポケットからメモを引っ張りだした。 「え……ええと、ミス・ジェイラ・コプトー。本日はわざわざこの町までお越しくださり、えーと……」 「……もういいわ。それ貸して」  少女は気が短かった。少年の手からメモをひったくり、少女――ジェイラはそれにざっと目を通す。 「つまり私を呼んだのは、町外れに住み着いた吸血鬼を退治するため。成功報酬は町長が出してくれると、そういうわけね」 「は、はい、多分……」  頼りない少年の答えを聞いて、ジェイラはため息をついた。  ――どうしてこんな子供が応対に出てきたりするのだ。どうせ押しつけられでもしたのだろうが。 「……ねえ、あんた」  彼の名前が判らなかったので、取りあえずジェイラはそう呼びかける。少年はどもりながら返事をした。 「そんなに私が怖い?」 「え? い、いえそんな、滅相もありません、そんな……」  少年の態度は、明らかに彼がジェイラを怖がっていることを示している。露骨すぎて指摘する気にもなれない。 「まあいいわ。どんなに怖がるのも勝手だけど、あとで払うものはちゃんと払ってもらうわよ」  彼女の言葉には、自分が依頼を成し遂げるという自信に満ちたひびきがあった。  彼女は「ダンピール」。生まれながらにして、吸血鬼と戦う力をもつ者だ。そしてダンピールであることは、同時に彼女が吸血鬼と人間の間に生まれた子供であることを意味する。  そんな者に、わざわざ関わりたがるバカはいない。さっきの少年だって、あれだけ怖がっていたではないか。町長がジェイラに手紙を書いてから、今までの間に何があったかは想像に難くない。きっと彼が出てくるまでには、応対する人物を巡って相当の紆余曲折があったのだろう。 「は……はい。も、もちろんです、報酬はきちんと払いますっ」 「そう。それじゃ、その吸血鬼が住んでる所まで案内して」  そのジェイラの言葉を聞いたあとの少年の顔たるや、傑作だった。苦い木の実を間違って食べてしまったような、そんな泣きそうな表情。さっき出てきた扉を振り返ってみたところで、誰も助けてくれそうにない。皆、黙って様子をうかがっているだけだ。少年は、我が身の不幸を心から呪った。  それからしばらくして、二人はその吸血鬼が住むという所へ向かう、細い道を歩いていた。少年の方は余程怖いのか、心ここにあらずといった感じ。ジェイラが声をかけても、何の反応も見せない。 「……あんた、私の話聞いてる?」  ジェイラに言われ、少年はハッと我に返った。 「あ、あの、すみません! そ、それで何の話でしたっけ……?」 「いつまでも『あんた』じゃ悪いでしょ。あんたの名前を聞かせて、って言ってるのよ」 「は、はい!」  慌てて答えたものだから、声が思い切り裏返る。 「な、名前ですね。僕はディック。ディック・ベイカーですっ」  しどろもどろになりながら答える少年・ディックの頭を、ジェイラはよしよしと撫でた。 「ディック……ね。今、何歳?」 「ぼ、僕ですか? 来月で、じ、十三歳になりますっ」  私は十八、とジェイラが言った。もっと年上かと思っていたので、ディックは驚く。 「でもいつも二十歳か、それ以上に見られるのよ。私、そんなに老けてるかしら?」  ジェイラが自分に意見を求めている、とディックが気付いたのは、数瞬後のことだった。めったなことを言うと自分の身が危なそうだと、ジェイラの腰に引っかけられている銃を見ながら彼は思う。 「そ……そんなことないですよっ。まだまだ十分、若いですよっ」  取りあえず当たり障りのない答えを返す。いつもは近すぎると思っていた吸血鬼の家までの道のりが、今日はやけに長く感じられた。 「それはそうと、ディック。その吸血鬼って、どんな人なの? 性別とか、年齢とか……なんだっていいわ。知ってることを教えて」  今までどうでもいい話をしていたのが急に真面目な雰囲気になり、ディックは一瞬混乱する。自分勝手なペースで話を進めるジェイラには、なかなかついていけそうにない。 「え……えっと、姿を見た人の話によると、二十歳かそこらの男の人……らしいです。薄茶の髪をして、目はぎらぎらと光っていたそうです。えっと……今向かっている先の家に住み始めたのは、ここ半年くらいの話です。ずっと空き家になっていた、ボロの屋敷ですっ……ぼ、僕が知っているのは、これくらいです」  ディックの話を聞いて、ジェイラは少し考える。実のところ、不死性を持つ吸血鬼の年齢など聞いたって無駄なのだが、そこはそれ。相手の容姿を判っておいたほうが、出会った時に落ち着いていられるような気がする、という程度のものだ。目がぎらぎら光っていた、などというのは、吸血鬼を見た人間がしょっちゅう言う言葉だから、無視してもいいだろう。それより気になるのは、半年前に彼が引っ越してきたという話と、さっきディックが目的地までの道のりを「そう遠くない」と言ったこと。そしていきなりの要求だったにもかかわらず、ディックが吸血鬼の家を知っていたということ。普通は人里離れた山奥などに、長いこと住みつづけるものだというのに。 「で? 今まで、何人くらい襲われたの? 吸血鬼化した人は?」  ジェイラの次の質問を聞いて、ディックが唇を噛んだ。 「こ、この町では、四人。全員、吸血鬼化はしてませんっ。あと、他の町からも被害者が出ていると、少し前にそう聞きましたっ」  へえ、と考えているジェイラのコートの裾を、突然ディックがぎゅっと掴んだ。驚いて、ジェイラは彼の顔を見つめる。 「み、ミス・コプトー。絶対に……絶対に、あの吸血鬼を退治してください……! この町での三番目の犠牲者、リタ・ベイカーは、僕の姉さんなんです……姉さんの仇を、とってほしいんです……」  ディックの表情は真剣だった。ジェイラのコートを掴む手が、少し震えていた。 「判ってるわよ。わざわざ長い時間をかけてこの町まで来たんだもの、報酬をもらえずに帰るような真似はしないつもりよ」  頼られて悪い気はしない。不愛想な口調で答えはしたものの、いつもそんな調子の彼女にしては好意的な響きをこめた台詞。しかしそんなことがディックに判るはずもなく、彼は相変わらずおびえた表情を浮かべたまま、小さく頷いた。 「あ、あれです……! あれが、吸血鬼が住んでいる家ですっ。そ、それでは僕はこの辺で失礼します!」  しばらくして、遠くに一軒の屋敷が見えた。それを見たとたんにディックはやっと帰れるとばかりに目を輝かせ、さきの台詞を言うなり走って逃げ出してしまった。ジェイラは小さく肩をすくめると、屋敷に向かって歩き出した。  玄関の扉に鍵はかかっていなかった。ジェイラはさっさと無断侵入を試みる。中に入った途端、かび臭いにおいが鼻をついた。 「辛気くさいところだこと……」  ジェイラがさっきの町についたのは、正午を大分回った時間だった。それから町に長居できない空気を感じて、真っ直ぐここまで案内させたのだが……失敗だったかもしれない。もうすぐ、日が暮れる。夜はもちろん、吸血鬼の活動時間だ。 「ま、いいけどね」  腰の銃を抜き、片手で構えながらジェイラは進む。とりあえず、棺を探さなければ。見つけたら棺ごと焼き払う。棺から出て活動していれば、この銃で撃ち抜く。それで仕事は終わりだ。  窓にはがっちりと鎧戸が降ろされている。玄関を抜けると、最初に入ったホールは真っ暗だ。ジェイラは小さくため息をつくと、銃を腰に戻しその手に灯りを握った。  がらんとしたホールを過ぎ、ジェイラはひとつの部屋に入った。所狭しと物が並べられた部屋だ。猫の形の置物、奇妙な仮面、珍しい天球儀まである。それらの品物に一貫性はなく、ただ雑然とそこにあるだけだ。宝の持ち腐れ、という言葉がよく似合う。  向かって右手に、暖炉がしつらえてあった。つい最近、火が入れられた跡がある。吸血鬼か、それともただそう誤解された人間かは知らないが、とにかく誰かがこの屋敷に住んでいるのだろう。 その暖炉の上には、時計と写真立てが置かれていた。灯りを動かして、ジェイラは何とはなしにその写真を見る。 ――その瞬間、彼女の心臓が跳ね上がった。 「……馬鹿な」  写真には、二人の男女が写っていた。一人は年若い、薄茶の髪の男性。もう一人は、やはり茶色の髪をした女性だ。古ぼけた写真の中で、二人とも、とても幸せそうな笑みを浮かべている。  その女性の顔に、ジェイラは見覚えがあった。いや、見覚えがあるなどというものではない。  女性は、ジェイラの母によく似ていた。  ジェイラが幼い頃他界した母の顔は、写真でしか知らない。その写真も、真ん中で二つに破られている、ひどく痛んだものだ。しかしジェイラにとって、母の顔を知る唯一の手段であるその写真はとても大切なもので、それゆえに何十、いや何百遍も写真で見たその顔を、ジェイラが見間違える筈はなかった。  しかし男性の方は。一緒に映っているこの男の正体は、状況や先刻のディックの話から考え合わせれば、一人しか考えられない。  この屋敷に住む、吸血鬼だ。  ヴァンパイアは老いることがない。然るべき方法でなければ死ぬこともない。となれば、ジェイラが小さいころ他界した母が、今と同じ姿の吸血鬼と写真に写っていたところで、何の不思議もないではないか。赤い瞳と青白い肌は、正真正銘の吸血鬼である証。 「……馬鹿な……!」  しかしそれは、あまり喜ばしい状況ではなかった。  ダンピールは人間と吸血鬼の間に生まれた子供だ。ジェイラがそうであり、なおかつ母が人間である以上、父親は吸血鬼であるに違いないのだ。そしてこの写真に映った男女の、実に親密そうな様子からして、ジェイラの父親がこの吸血鬼であるということには、疑う余地もない。そう、彼が吸血鬼でない可能性は、あまりに低い。  それでも、ジェイラは今からこの吸血鬼を殺さなければならないのだ。それが彼女の仕事なのだから。  しかしそれはジェイラにとって、ある意味では好都合でもあった。なぜなら、ジェイラは父を殺すことを、内心願っていたのだから。  幼い頃、母を亡くしたジェイラに村人たちは言ったものだ。 『ジェシカを殺したのは吸血鬼だよ』 『お前の父親がジェシカを殺したんだよ、ジェイラ』  ジェイラの母、ジェシカは村の中でも人気があった。それが吸血鬼なんかの子供を産んだと、当時はずいぶんな騒ぎになったらしい。  しばらくして、ジェシカは死んだ。殺されていた。彼女が抱いていた赤子の、その父である筈の吸血鬼は、どこにもいなかった。  ――だからジェイラはぼんやりと、母の仇を討たなくてはならないのだな、と考えていた。そのチャンスが今、巡ってきたのだ。  ジェイラは灯りを暖炉の上に置き、その写真立てを手に取った。見かけに比べ、それはずっしりと重かった。  と……その時、 「いらっしゃい」  不意に、背後から声がかかった。ジェイラは小さく声を上げ、声の主の方を振り返った。  そこには一人の男が立っていた。年齢は二十歳そこそこ。薄茶の髪、赤い瞳を持ち、口元からは牙をのぞかせた……吸血鬼。 「出迎えが遅れて申し訳ない、お嬢さん」 「……パパ……?」  思わずジェイラは、そう口走っていた。吸血鬼が、きょとんとした顔になる。 「……お嬢さん、君は一体……」 「ジェイラ。……ジェシカの娘、ジェイラ・コプトー」  その名を聞いた吸血鬼が、明らかな反応を示す。しばらくじっとジェイラのことを見つめたあと、 「ジェイラ……! 僕の大切なジェイラじゃないか……!」  ……唐突に、ジェイラの身体を抱きしめた。  突然のことに、ジェイラは戸惑いを隠せなかった。本当に彼が自分の父だったのか、と思う前に、どうして母を殺して消えた男が、こんな反応を示すのだ、と思った。彼女にとって、まったく予想していなかった展開だった。 「大きくなったね。今はもう、ええと十八歳かい? 一瞬だって君のことを忘れたことはなかった、ずっと会いたいと思ってた……ああ、しかしこんなに大きくなっていたなんて。僕は嬉しいよ……」 「……ど……どうしてそんな事が言えるの? ママを殺して、私を独りぼっちにして、消えちゃったのはパパの方じゃない!」  叫びながら、ジェイラは吸血鬼の腕を振りほどいた。吸血鬼は何を言ってるんだ、と言った様子で、ジェイラのことを見つめている。  ややあって、吸血鬼が口を開いた。 「何だと? あのホラ吹きどもめ、君にそんなことを吹き込んだのか……? 信じちゃいけない、ジェイラ。それはみんな嘘だ……!」  嘘? なにが。言いかけた彼女の言葉を遮るように、吸血鬼は喋り続けた。必死の表情だった。 「ジェシカを殺したのは僕じゃないよ、ジェイラ。……吸血鬼なんかと交わった女を許せなかった村人たちが、あのひとを殺したんだ。僕はジェシカを愛していた、殺したりするわけがない!」 「……嘘よ」  かわいた声で、それだけ言うのがやっとだった。――今まで信じていたことが、全部嘘だったとでも言うのか。まさか。 「それから大蒜(にんにく)と山査子(さんざし)の杭で、あいつらは僕を墓に縛り付けた。自由に動けるようになったのは、つい最近のことだ。あいつらの中に僕を消滅させる力を持った者はいなかったから、僕はこうして復活したが……しかしそんなことになっていたなんて、知らなかった」  吸血鬼は、唇を噛んでかぶりを振った。彼の言葉を信じていいものか、ジェイラは迷っていた。殺されたくないがための出まかせか、それとも。……もし彼の言うことが真実だとしたら、 (もしあれが真実だとしたら、私はパパを殺せない……)  本当に彼が父親かどうかすら怪しいのだ、実際のところ。しかしジェイラは、もうすっかり彼の言葉に心を動かされていた。 「そうだジェイラ。今までちっとも父親らしいことが出来なかったお詫びに、君にプレゼントをあげよう。もうすぐクリスマスだったね、ちょっと早いけどクリスマス・プレゼントだ。この部屋にある、何でも好きな物を持っていくといい」 「何でも……?」  ジェイラは部屋の中をぐるりと見渡した。壁に貼ってあるのは珍しい世界地図だ。透明な小瓶の中には虹色の液体が入っている。その隣にある腕輪は相当な値打ち物であることが、ぱっと見ただけで判る。そう思ってみれば、まるでおもちゃ箱のような部屋だ。  クリスマス・プレゼントなんて、物心ついてからはもらったことがなかった。幼いときに母は死んでしまい、預けられた孤児院にそんな余裕はなかった。初めてだ……こんなこと。  うすい紫の液体の入った、硝子の小瓶に手を伸ばしかけて、ジェイラは不意にその手を止めた。  ――このプレゼントを受け取ってしまったら、もう自分はこの吸血鬼を殺せない。そう、思った。 「ねえ、その前に一つ聞いてもいいかしら」  プレゼントを受け取るのを先延ばしにしたいがため、ジェイラは吸血鬼に話しかけた。質問なんて考えていなかった。……少し間があったあと、ジェイラはひねり出した質問を口にした。 「……どうしてこんな、町の近くに住んでるの? だから簡単に、私のような吸血鬼退治屋に入られるのよ」  吸血鬼退治、というところに少し力をこめて、ジェイラは言った。吸血鬼はちょっと肩をすくめて、答えた。 「……花嫁を、探しているのさ」  花嫁? とジェイラは問い返した。吸血鬼は頷く。 「僕を愛してくれる女性を、探しているのさ。僕だって、ずっとひとりで生きるのは寂しいからね」  不死性を持つ吸血鬼は、それ故に永い時をひとりで過ごさなければならない。それは判るけれど、しかしジェイラにとっては意外な答えだった。そしてそれはひどく、自分勝手なことのように思えた。  しばらくの沈黙のあと、ジェイラは叫ぶように言った。 「ば……馬鹿みたい! 町の人を襲った吸血鬼を、ほいほい好いてくれる物好きがいるとでも思っているの? だったらパパ、あなたって人はとんだ楽天家だわ!」 「……僕だって生きたいんだ。そのために血を吸うのは、君たち人間が食べるために獣を殺すのと同じ、必要なことなんだよ」  娘に罵倒され、戸惑ったような声音で吸血鬼が言った。 「……それに……君だっていずれそんなことは言えなくなるはずだ。君も知っていよう、ダンピールは死ぬと吸血鬼になるってことを」  ……ジェイラは、無言で頷いた。そうなのだ、吸血鬼と人間の間に生まれたダンピールの子供は、死すと吸血鬼になる宿命を背負っている。そんなことは知っていた……納得しているつもりだった。 「ジェイラ、よくお聞き。……僕も、昔は君のような、ダンピールだったんだ」  ジェイラをそばの椅子にかけさせ、吸血鬼は諭すように言った。 「もう、ずっと昔のことさ。退治しようとした吸血鬼に殺された僕は、こうして吸血鬼になった」  すると、自分もいずれこうなるのだろうか。吸血鬼として生き、そして退治屋に殺されるのか。そう考え、ジェイラは背筋の寒くなる思いをした。今まで遠い未来のことだと考えていたそれが、ぐっと身近に迫った気がした。怖かった。 「だから……人間の花嫁を探して子供を設けるのは、きっと僕が自分と同じような目に遭うダンピールの子を増やしたいと、それが僕がこんな目に遭っていることへの復讐になると、そう考えたからなんだ……! 許しておくれジェイラ、僕の勝手な考えで、君とジェシカを不幸にしてしまったことを……」  ぽた、とジェイラの頬にしずくが降りかかった。顔を上げると、吸血鬼は泣いていた。ジェイラの顔を見下ろして、顔を歪めて涙をこぼしていた。 「まったく、僕は何をやっているんだ……何故、こんな馬鹿なことをしているんだ……! 君とジェシカにはどれだけ謝っても足りないよ……僕自身がダンピールであったことをさんざん嘆いたというのに、同じ境遇の子供を増やしてしまうなんて……」  嗚咽に交じってよく聞き取れない声で、吸血鬼は何かを思いついたように「そうだ」と言った。  そのあと吸血鬼が言った提案は、ジェイラにとってはとても受け入れにくいものだった。 「……ジェイラ。吸血鬼にならないか? そして二人でどこか遠くへいって、そして一緒に永い時を生きないか?」  え、とジェイラは戸惑いの交じった声を上げる。やっと出会えた父親と、自分のことを確実に好いてくれているらしい父親と、永遠を過ごすことができたら……ジェイラには、その要求をはねつけることができなかった。 「答えを急がなくてもいいよ、ジェイラ。僕たちには時間がある」  ジェイラは頷いた。それは彼女にとっては、とても簡単に選べるはずもない選択だった。吸血鬼は答えを待つ間に、ジェイラの持っていた灯りを消し、暖炉に火を入れた。あたたかな光が、部屋を照らす。  明るい光の中で見る、青白い吸血鬼の顔は、驚くほどジェイラに面影が似ていた。写真で見たときは何とも思わなかったというのに。最早疑う理由はなかった。彼は彼女の父親だ。  ジェイラの迷いに拍車がかかる。わざわざ吸血鬼なんかになって、他人に害をなすのは嫌だ。仕事柄ジェイラは、吸血鬼の被害がどれだけの騒ぎをもたらすかを知っている。しかしそれ以上に、やっと出会えた家族と、一緒に暮らしてみたかった。ずっと一緒にいられたならば、どんなに嬉しいことだろう。誤解が解けた今、ジェイラが父親を嫌う理由は、もうないのだ。 「ええ、そうよ……私たちには時間があるわ、パパ」  椅子から立ち上がり、ジェイラは若い娘がよくそうするように、父親の身体を抱きしめた。  その時だ。何だか判らない感情が、ジェイラの身体を駆け抜けた。  死人である吸血鬼の身体はひやりとして、温もりを感じさせない。それはいくら涙を流し、熱っぽい口調で過去を語ろうとも、彼が人間でないという事実をジェイラの前に突きつけた。  彼はジェイラを拒絶しない。怯えて逃げることもしない。こんな風に無条件に受け入れてくれる相手が、彼の他にいないこともまた、ジェイラは知っていた。……それでも、生理的な嫌悪感が、ジェイラの胸の内にわだかまっていた。  ――不意に彼女の脳裏に、さっき夕暮れの道で、ディックがジェイラに言った言葉がよみがえった。 『絶対に、あの吸血鬼を退治してください……!』  ひどく真剣な表情で、ディックはそう、ジェイラに乞うたのではなかったか。そしてジェイラは答えたはずだ。「判ってるわよ」と。  吸血鬼の胸に顔を埋めたまま、ジェイラは強く唇を噛んだ。自分のとんでもない運の悪さを、ただ呪った。  ……しばらくの静寂。 「――ごめんなさい」  小さな声で、ジェイラは呟いた。その言葉は、吸血鬼にすら届いたのかどうか。吸血鬼が怪訝そうにジェイラの顔を見下ろしたとき、彼女は顔を上げてその視線を真っ向から受け止めていた。 「……パパ。さっき、この部屋にある何でも好きなものをくれると、そう言ったわよね?」  もちろんだよ、と吸血鬼は頷いた。ジェイラは彼の身体に回していた腕を放すと、腰の銃を握った。 「あのね。……私、この部屋の中ですごく欲しいものを見つけたの。たとえ何を言っても、私にそれをくれる?」  ああ、と吸血鬼が頷いた。娘の願いを叶えられることが、嬉しそうでもあった。 「そう。それじゃあ――パパの、その命を、私にちょうだい」  ジェイラは片手で、銃を彼の胸に突きつけた。 「入ってるのは銀の弾丸。吸血鬼だって殺せるわ。私のために、私を頼ってくれている人たちのために、これからあなたが殺すかもしれない沢山の人たちのために、そして何より、いつかパパがつくるかもしれない『ダンピール』の子供と、その母親のために――パパに、死んでもらいたいの」  一気に、言い切った。言い終わったとき、全身からどっと汗が吹き出すのがわかった。これでいいの? という疑問の声が、心のどこかから上がっていた。  抵抗されると思った。殺されるかもしれないと思った。ジェイラは一分の隙も見せずに、吸血鬼の顔を見つめていた。 「……ああ、判った」  しかしジェイラの意に反して、吸血鬼は笑って両手を挙げた。 「僕の可愛い娘、君がそう望むのなら」  抵抗しない、と言っているのだ。ジェイラに黙って殺されてやると、彼はそう言っているのだ。 「……いいの? 今度こそ本当に死んでしまうのよ。私は吸血鬼を消滅させる力を持っているの。それでも黙って殺されてあげるっていうの?」 「ああ、そういうことになるね」  ジェイラに対して、一片の恨みすら感じさせずに、吸血鬼は笑った。 「だって君は、僕の大切な娘。娘の願いを叶えてやりたいと思うことは、悪いことではないだろう?」  ジェイラの銃を握る手が、細かく震えていた。 「さあ。僕が君にあげられるものがそれしかないというのならば、僕は喜んでこの命を君に差しだそう」  ジェイラが一回、引き金を引いた。  耳障りな、甲高くかつ腹に響く音と共に銃が火を吹く。  手元が狂って、銃弾は大きくそれ、後ろの棚にあった瓶を壊した。虹色の液体が、ぽたぽたと滴った。  銃を撃った反動で痺れがはしる手を押さえていると、吸血鬼がその手にそっと触れた。 「……ありがとう、ジェイラ。君に会えて、本当によかった」 「本心から……そんなこと、思ってるの?」  自分の声が震えているのが、ジェイラにはよく判った。 「死ぬのが、怖くはないの? 逃げたくはないの? 答えてよ……」 「僕はもう、十分すぎる時を生きたよ。もう、やりたいことはみんなやってしまった。欲しい物はみんな手に入れてしまった」  そう言って、吸血鬼は部屋の中を見回した。ジェイラもその視線の先を追う。おもちゃ箱のような、部屋。 「だから今、僕がいちばんやりたいことは、君の願いを叶えてあげることなんだ。君が喜んでくれると思うだけで、怖くなんかなくなってくる」  さあ、と吸血鬼が、ジェイラの指を引き金にかけさせた。 「僕の決心が鈍る前に。朝日が昇る前に。僕の大好きなジェイラ」  吸血鬼のその赤い瞳から、思わずジェイラは顔をそむけていた。正視できなかった。 「天国で、ママに……よろしくね」  そう呟いて。吸血鬼の答えを待たずにジェイラは。  撃った。  腕に強い衝撃がはしる。銃を撃った反動だ。  どさ、と小さな音がした。  恐る恐る視線を戻すとそこには、銀の銃弾で胸を撃ち抜かれ、じっと目を閉じたまま動かない、吸血鬼の姿があった。  その身体が、見る見るうちに灰へと変わっていく。  ジェイラの手から、銃が滑り落ちた。床に当たって、カランと音を立てる。  ジェイラは床に座り込み、両手で顔を覆った。  屋敷を出ると、ちょうど朝日が昇ろうとするところだった。  そのままそこから立ち去ろうとしたジェイラは、門柱のかげでうずくまっている人影を見つけ、足を止めた。  かぶった毛布を握りしめ、小さな寝息を立てている少年。 「……ディック」  ジェイラが声をかけると、ディックは眠そうな表情を浮かべたまま、顔を上げた。 「ミス……ぶ、無事だったんですね……!」  寝ぼけ声でそれだけ言うと、ディックはジェイラに飛びついて、彼女をぎゅっと抱きしめた。 「い、一度……帰ろうと、思ったんですけど……し、心配になって、それで」  それで怖いのを我慢してここまでやって来て、一晩中ジェイラの帰りを待っていたというわけだ。たいした根性ではないか。 「そ、それでミス、吸血鬼は……」 「お望み通り、退治してきたわよ」  ジェイラは握っていた袋を示す。吸血鬼は殺せばいいというものではない。きちんと後始末をしなければ、復活することがあるのだ。ぱっと表情を輝かせたディックに、ジェイラは短く訊ねる。 「ディック。この辺りに川はない?」 「か……川、ですか? それなら、町の南に」 「そこまで連れて行って」  不愛想な口調で、ジェイラは命令した。その前に一度町に寄りませんか、というディックの誘いを断って、ジェイラはまっすぐに川へと向かった。  川は静かに流れていた。朝日を浴びて、川面がきらきらと輝く。  ジェイラはその川に、袋の中身を流した。灰はすぐに、流れて見えなくなった。これでもう、吸血鬼が復活することはない。 「あ、あの……ミス。泣いて、いたんですか?」  突然のディックの言葉に、ジェイラは言葉を詰まらせる。 「あ……す、すみません。変なこと、聞いちゃいましたよね」 「別に、いいけど……」 「……やっぱり、彼はあなたの身内だったんですか……?」  そのディックの言葉に、ジェイラは身をこわばらせる。 「どうして、知ってるの……?」 「……名前です。あの家に、表札がかかっていたんです。彼の苗字がコプトーということを、町長は知っていました。その上で――ミス、同じ苗字を持つあなたに、その吸血鬼を退治してほしいと依頼したんです」  信じられない、といった面持ちで、ジェイラはディックの顔を見ていた。 「ご……ごめんなさい、ごめんなさいっ! やっぱりまずかったんですよね、すみません!」 「あんたが謝っても仕方ないわよ」  言いながら、ジェイラは澄んだ川の水で顔を洗う。泣いたあとを残しておきたくはなかった。 「今更謝られたって、もうどうしようもないじゃない……」  数時間後、報酬を受け取ったジェイラは町の入り口にいた。 「ミス! あ、あの、本当にありがとうございましたっ」  さっき言いそびれたその言葉を言いたくて、ディックは前を行くジェイラの背中に声をかけた。 「……ああ、うん」 「あ、あの……それと差し出がましいかもしれないんですけどっ、その……あなたはもっと、わ、笑った方がいいと思いますっ」 「……は?」  振り返り、呆れた顔で問い返すジェイラに、ディックはもう一度、はっきりと言い直す。 「そ、そんな怖い顔をしないで、も、もっと笑ってください。そ、そしたら、きっと……年相応に、見られるのではないでしょうか」  一瞬の後、ジェイラは思わず吹き出していた。声を上げて笑うジェイラの顔は、本当に楽しそうだった。 「あはは、そうね、その通りだわ。やってみる」  それは本当に久しぶりの、心からの笑顔。 「色々ありがとう、ディック。……貴重な経験を、ありがとう」  弱々しい笑顔を浮かべたディックは、やって来た時とはうってかわって上機嫌な顔で去っていくジェイラの後ろ姿を、手を振りながら見送っていた。 「ああ、今年は最高のクリスマスを迎えられそうだ!」  近所に住む誰かが、嬉しそうに叫ぶのが聞こえた。