スプリング*スプリング9 「嘘つきは魔法使いのはじまり」   月香るな  春休みの校舎内はやけに静かで、校庭から聞こえてくる野球部のかけ声ばかりが開けた窓から聞こえてくる。キーボードを抱えた樫原輝美が準備室へと入っていった。「俺が持つよ」と藤城育人が彼女に話しかけ、「大して重くもないわよ」と言う輝美の手からキーボードを受け取った。 「本当に重くもないし、それほどの距離でもないわよね。ああ暑い、あの辺のお二人からすごい熱気がただよってくるわ」  わざとらしく手で顔を仰ぐ春月に、山田が同意の声を上げる。  軽音楽部の新入生歓迎コンサートは、新学期が始まればすぐにやって来る。もちろん部員は春休み返上で練習に挑むが、バンド別に練習スケジュールを組んでいる以上、集まることができる時間は限られていた。  今のこの時間も、春月たち四人にとっては貴重な練習時間だが、大きな音が出てしまう軽音楽部の休日の活動時間は限られている。あの野球部も、窓を閉めた時の自分たちと同じくらいにはうるさいだろうに、という不満は、かなり頻繁に部員達の口に上る。 「まったく、大した騎士様だな」 「そういうお前はどうなんだ、山田? 6組の辻堂の話じゃ、その後もけっこう藤原の家に行ってるみたいじゃないか」 「それは辻堂さんが大げさに言ってるだけだろ。冗談じゃない」  山田の答えに、輝美と藤城は顔を見合わせ、楽しそうに笑う。 「わかってるわよ、あれはさすがに舞ちゃんの勘違いよね。どうしてみんな、あんな噂をすぐ信じちゃうのかわからないわ」  ありがとう輝美、と春月が彼女の手を取る。輝美は上品な笑顔で微笑み、次の言葉を続けた。 「二人とも、積極的そうな外見してる割にオクテだもんね。特に山田くんに、春月の家に泊まりに行くような甲斐性があるわけないわ」  春月の笑顔が凍る。 「そうそう。そんなに上手く立ち回れるような奴じゃないよな。むしろお互い、本気で気付いてなかったりするんじゃねえの?」 「同意してんじゃねえよ、藤城! しかも何か勘違いしてるし!」 「そうよ、そうよ! あの噂は本当にただの誤解なんだから!」  藤城と輝美は再び顔を見合わせて楽しそうに笑い、「じゃあ、お二人でごゆっくり」と言いながら視聴覚室を出ていった。 「輝美、私はあんたを信じてたのに……」  ため息をついた春月の視界に、輝美が持っていたはずの手帳が飛び込んできた。机の上に置きっぱなしになっている。じきに気付いて取りに来るだろう、と思い、春月はそれを手に取った。  その時、春月の背後で、洗面器を勢いよく床に落とした時のような音がした。山田が苦虫を十匹くらい噛みつぶしたような表情で、そっと音の方を向く。  そこには、薬局の前によくある、カエルの人形がいた。  サイズはそこそこに大きい。緑色の塗装をほどこした、プラスチック製とおぼしきカエルの表面は、古びてあちこちひび割れている。丸いつぶらな瞳が春月の方を向いた。春月は嫌な予感がして、思わず数歩後ずさる。カエルが、表情を変えないままに声を上げた。 「逃げるな、藤原春月!」 「普通は逃げるわよ! まったく、何しに来たのよ、王子!」  カエルの頭の上には、ちょこんと王冠が乗っている。これもやはり痛んだプラスチックのような外見で、よく似合っていた。 「決まっているだろう。そこの魔法使いの手から逃げていたのだが、道に迷ったから帰ってきたんだ」 「バカですか、あなたは」  山田が苛立たしげにつぶやいて、カバンを放り出し、王子のもとへ近づく。講堂を兼ねた視聴覚室の机は動かないので、王子は衝撃を殺すこともできず、したたかに机に激突しているようだった。 「たまには正統派で行こうと思って、わざわざカエルにしてみたんですから、もう少しフットワークよく動いたらどうなんですか」 「無茶を言うな! この姿では跳びはねようもないだろうが!」  はあ、と王子がため息をついたようだったが、カエルの顔は相変わらずトラウマになりそうなほどの笑顔を浮かべている。 「だいたい、騙すなんて卑怯だぞ、魔法使い!」 「毎回毎回、同じ手に引っかかる方が悪いんですよ。だいたい、オレは悪の魔法使いなんですからね。基本的には、いかにあなたを騙すかということしか考えてないんですよ」 「しか、か。そうか、友達もいないんだな。かわいそうに」 「黙ってくれませんか、このアンポンタン」 「なんで俺様がお前なんかのために黙らないといけないんだ。……ところで、今は確か春期休暇中ではなかったか。学校にいるとは珍しいな。まあ、おかげでお前をすぐに見つけられたんだが」  山田は小さくため息をつき、王子の頭を勢いよく叩いた。衝撃で椅子と机の隙間にはまりこみ、カエルは必死にじたばたと暴れる。 「世の中の高等学校には、部活動ってものがあるんですよ。王子にはあまり縁のないところだとは思いますけど」 「そうか。ところで魔法使い、これでは全く動けないんだが、ここから出してくれないか。藤原春月、お前でもいいぞ」  春月は小さく肩をすくめ、王子の前にしゃがみ込んだ。 「出してあげるから、ちょっと私の質問に答えてもらってもいい?」 「俺様に答えられることならば、できる範囲で答えてやろう」  当惑している山田を押しのけ、王子の身体を真っ直ぐに起こす。 「私の母様について、ちょっと教えてほしいことがあるの」  王子は「知らんな」とぶっきらぼうに答えた。 「お前に教えられるようなことは何も知らない」 「じゃあ、もう一度そこに埋め直してあげる。それが嫌なら答えなさい。……私の祖母ちゃんは生きてた頃、母様のことを『この子は昔から忘れっぽい子でね』ってよく言ってた。確かに物語としてはつじつまが合うかもしれないけど、正直、母様が魔法の影響を受けてるなんて信じられない。せめてその辺の真偽だけでも教えなさい。できれば詳しい事情も知りたいけど」  山田は驚いたような表情で春月の方を見ている。それに気づき、春月は「何なのよ」と彼を睨め付ける。 「藤原彰子に魔法がかけられてるってのは、ちゃんと見ればオレにもわかる。オレがその事実を保証したんじゃ、不足か?」 「あんたは真顔でウソつくから、こんな時はイマイチ信用できない」 「そうか。残念だ」  本当に残念そうな顔で、山田は小さくため息をついた。ちょっと可哀想だったかな、と春月は一瞬だけ思い、まあいいか、と思い直す。たまには困らせてやってもいいだろう。 「詳しい事情なんか本当に知らない。ママについては、マリアンヌの方が詳しい話を知っているだろう。こっちが教えてほしいくらいだ。ただ、藤原彰子に魔法の影響が及んでいることは断言できる。だが藤原春月、それは大して珍しいことでもないぞ。今の世の中、魔法使いなんて生き物はそれなりの割合で地上人に紛れている。この学校ひとつ取っても、ここにいる魔法使いがこいつ一人とは断言できないんだ。例えばこの学校の周りにも、やけに整った魔法の存在が見える。誰か魔法を使う人間がいるんだろう。そうでなくともこの魔法使いだって、俺様が遊んでやった後には、校内の色々な人間の記憶をいじっているはずだぞ。ぎっちょんやらUFOやらについて、誰か一人でも騒ぎ立てている奴がいるか? そんなものは序の口、魔法なんて意外にあちこちで使われているものだよ」  事も無げに、王子はそう言い放った。  その時、春月の耳に二人分の足音が聞こえる。よく響く足音は、階段を上履きで駆け上がってくる時のものだ。春月はそこで初めて、手帳の存在を思い出す。 「まずい、山田、輝美たちが――」  扉が開くより一瞬早く、山田がパチンと指を鳴らした。王子のサイズがみるみる小さくなり、筆箱大になって止まる。 「ごめん春月、わたしの手帳、その辺になかった?」 「これでしょ。取りに来ると思って待ってた」  春月が手帳をかざすと、輝美が駆け寄ってくる。後から藤城もついてきた。山田がさりげなく、王子を彼らの死角に放り込む。 「ん? 山田、何だそれ」  しかし藤城は目ざとく王子を発見する。ただのカエルのふりをしている王子を、藤城はじっとのぞき込んだ。山田が助けを求めるように春月の方を見る。春月は反応に困って視線を逸らした。 「わあ、可愛い! 山田くん、こういうの好きなの?」 「え? ああ、それなりに……」  横から現れた輝美が、ちょっと触らせて、と王子を手に取った。春月たちの間に緊張が走るが、輝美は気付かなかったようで、「王冠が可愛いわね」と言いながらカエルを撫でている。 「樫原さん? もういいだろ、返してくれよ」 「うん、ごめんね、ありがとう」  輝美は山田にカエルを返そうとする。しかしながら、さんざんくすぐられた王子の方はついに耐えきれなくなったらしく、思わず身をよじって笑い声を上げた。 「……山田くん、あの、今なにか、カエルが動いたような」 「気のせいだよ」 「でも、何だか笑い声も聞こえたような……」 「気のせいだって」  そこに「怪しいなあ」と割って入ってきたのは藤城だ。輝美の手からひょいとカエルをつまみ上げる。 「何か入ってたりするんじゃねえの?」 「入ってない、入ってない! 全部気のせいだって」 「うーん、電池は入ってねえな。他には……」  藤城の手が王子を撫でた。引っ掻いてみたり、叩いてみたりと、明らかに輝美よりも扱いが悪い。 「やめろ藤城、あんまり叩くと――」  突然、風船が割れるような音と共に白煙が吹きだした。思わず藤城は王子を取り落とす。落ちると同時に、王子は元のサイズに戻った。山田が頭を抱え、春月は驚いた勢いで尻餅をつく。 「……えーと、山田?」 「藤城。実はこれ、ボタン電池式なんだ。頭を叩くと巨大化する」 「そうか! すごい人形だったんだな!」 「ああ。すごいんだ。精密だからあんまり触るな」  やっぱり心の準備がないとうまく行かないな、と山田がつぶやき、王子の頭を叩いて先ほどのサイズに戻す。 「分かったら帰れ。用は済んだだろ」 「えー、こんな面白いおもちゃを置いて帰れねえよ」 「帰れ」  山田は藤城の両肩を掴み、正面から彼の目を見つめた。何らかの魔法が働いたのか、藤城はうなずき、踵を返す。  山田は一瞬だけ安堵の表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締め、藤城と輝美を追い出しにかかった。 「一時はどうなることかと思った……」  机の上に置かれたままの王子が、震える声でつぶやいた。藤城たちが部屋を出ていくのを待って、今度は堂々と口を開く。 「しかし、あの髪の長い女は美人だな。胸も大きくていい。あんな美人に触ることができたというだけでも、今日は良しとしよう」 「意外と現金なのね。胸のない女は嫌い?」 「そんなことはないが、妻にするのならば豊かな体つきの女性を求めるのは至極当然のことだろう」  扉の方で藤城たちを見送っていた山田が戻ってきて、「日本ではそうでもないですよ」と口を挟む。 「彼女のようにややふっくらとした子よりは、痩せすぎたくらいの女性の方がもてはやされる傾向にあるみたいです」 「そうか。そこの洗濯板のような胸の女でも、腰は細いようだし、日本ではそこそこに見られるというわけか」  春月は頬を引きつらせ、反射的に王子を掴むと、その手に力をこめた。王子が「痛い、放せ」とうめく。 「自業自得よ。誰が洗濯板だって?」 「お前だ。他に誰がいる」 「ちょっといっぺん反省してきた方がいいと思うわよ、王子様」  両手でカエルの首部分を絞める。プラスチック製のカエルはへこみこそしないが、王子は抗議の声を上げる。本気で苦しそうなその様子に、山田が春月の手から王子を奪い取った。 「やりすぎだ、藤原」 「うるさい! まあ、今日は冗談ってことで許してあげるけど」  春月は苛立たしげに答える。 「だいたい、姫だってどっちかっていうと痩せ形じゃないの?」 「マリアンヌはいいんだ。まだあいつは十五だしな、これからもっといい女になるに違いない」 「え、姫ってそんなに年下だったの!? ちなみにあんたは?」 「俺様は今年で十六になったところだ」  へえ、と春月は感心したような声を上げる。知らなかったのか、と山田が口を挟んだ。 「知らないよ。王子も姫も、同い年くらいだと思ってた」 山田の手で机の上に戻された王子は、「苦しかった」と言いながら荒い息をつく。呼吸にあわせて、わずかにカエルの肩が揺れた。 「ああ、怖かった……まったく、今日は心臓や胃に悪いことが多すぎる。これ以上胃潰瘍が悪化したらどうしてくれるんだ」 「胃潰瘍って……あんた本当に十六歳?」 「うるさい。王子という職業には、色々と気苦労が耐えないんだ。この魔法使いがいなければ、もう少しポジティブに生きられるような気がしないでもないが」 「そうですか? 残念ながら、オレはあとしばらくは王宮に居座るつもりですけど。オレが言うのもなんですが、取りあえず、少しずつでも前向きに生きる努力をしたらいかがですか。ほら、今日なんか暖かくて夕焼けも美しくて、素晴らしい春の一日じゃないですか」  山田が芝居がかった口調で言う。そこへ春月が口を挟んだ。 「そうだね。……ねえ、せっかくいい日だから、記念にあんたに言いたいことがあるんだけど、いいかな」  別にいいけど、と答えた山田の前で、春月はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、彼の目を見つめる。 「好きだよ、山田」  山田の顔が目に見えて赤くなった。涼しい顔で笑う春月の前で、明らかに動揺の色を見せ、どもりながら答える。 「そ、それは、どういう――」 「どういう意味、って、そのまんまじゃない。アイ・ラブ・ユー、私はあんたが好きです」  困ったように立ちつくす山田を見ながら、王子がくすくすと笑う。春月もつられて笑いだし、山田の胸を軽く叩いた。 「やだなあ、そんなに可愛い反応するとは思わなかったよ」 「おい魔法使い、今日は何月何日だか知っているか?」  横から差し挟まれた王子の声を聞いて、山田は考え込むような仕草を見せる。春月は困ったように頬を掻き、王子は声を上げて爆笑し始めた。 「あのさ、山田。今日は四月一日、エイプリルフール! 王子も笑ってるってことは、ちゃんとシュリフィードにもある習慣だよね? 私が空回りしてるわけじゃないよね?」 「あ……」  山田は何か言いたそうに口を開けたが、そのまま何も言わずに視線をそらし、「そうか」とつぶやいた。 「そうか、嘘か」 「ごめんね。まさかこんなに素直に引っかかるとは思わなくて」  軽く手を合わせ、拝むような仕草をする春月。王子がからかうような声を上げた。 「おい、魔法使い。真顔でウソがつけるのは、お前だけじゃなかったようだな」 「そうみたいですね」  安堵と失望が混じったような、苦い顔をする山田。その様子を見ながら笑っている春月に向けて、王子は声をかける。 「ところで藤原春月、エイプリルフールにウソをついていいのは午前中だけだという話を知っているか?」 「……え?」  日暮れの空と王子の顔に交互に視線を走らせ、しばらく沈黙した後で、春月は間抜けな声を上げた。 「まあ、それはそれで面白い。自分が四月バカになりたくないのなら、さっきの台詞を本気だったことにしても構わないんだぞ」 「え、えーっと……」 「お断りします!」  叫んだのは山田だ。机の上の王子を掴み上げ、物の多いカバンの中へと無理矢理突っ込んでいく。 「照れなくてもいいんだぞ、魔法使い!」 「まったくもって余計なお世話ですよ、このボンクラ王子!」 「何だと? 俺様に向かって、なんという口を――」  王子はしばらく暴れていたが、やがて静かになった。山田はカバンに視線を落としたまま、「お断りします」と繰り返した。 「やっぱり、私じゃダメ?」 「たとえ本気だったとしても、そういう風には見られないと思う」 「そうか」  野球部の声もいつの間にか止み、夕暮れの視聴覚室はいやに静かだった。春月と山田は、何とはなしに無言のまま帰り支度をして、いつものように「じゃあね」と挨拶を交わして別れた。  一人になった春月は、肩を震わせて笑いながら歩き出す。  夕陽が、やけに目にまぶしい日だった。