ガルガス帝国の野望2
「ヴァルタミア要塞を奪還せよ!」   月香るな



「財政難だ」
 重々しく告げたのは、ガルガス帝国皇帝・ダウストローゼ=フォン=ガルガス。玉座に座り、居並ぶ重臣を見回すその視線は、これでもかというほど鋭い。背中に落ちかかるほどの長髪は、ここ一年あまりは金色に染めていたのだが、あまりに評判が悪く、今はもとの黒髪に戻っている。赤い瞳を細め、その瞳と同じ色の液体で満たされた杯を左手に持つその様は、伝説に語られる魔王を想起させた。
「そうです陛下、事態は非常に切実です! 悠長にそんな今更なことをおっしゃっている場合ですらありません!」
「落ち着け、リーネ」
 財務長官リーネの叫びを手で制し、皇帝は静かに口を開いた。
「先の大戦で結ばれた終戦条約、ボルソネード条約において、我が国が要求された賠償金は二億シルビア。決して法外な額とは言えないが、国は先の大戦、三年前の紛争を経験している。五年前の飢饉の爪あとも考慮しないわけにはいくまい。とにかく、疲弊しきった今の我が国には、とても払えるものではない」
 外交長官ディーナ、宮廷魔術師代表ベムド、財務長官リーネ、宰相ジルヴェーン。順々に巡らされていた皇帝の視線が、近衛兵団大隊長・バルザークの所で止まる。十一年に渡り皇帝の側に仕えてきたこの男を、皇帝が重んじているのは周知の事実。
「そこで、だ。私はしばらく城を空ける。バルザーク、お前はついて来い。向かう先はゴルド」
「恐れながら陛下、何を――」
 不安げに声を上げるベムドを一瞥し、皇帝はにやりと笑った。
「……伝説の埋蔵金を掘りに行く」
 ぶっ、とリーネが吹き出した。ディーナが頭を抱える。「正気ですか、陛下!」と絶叫したのは当のバルザークで、それらの声に対し皇帝は、すこぶる真面目な顔でうなずいた。手にしていたトマトジュースの杯をあおり、玉座から立ち上がる。
「数日で戻る。その間、内政はジルヴェーンに一任する。なお、このたびの事態に伴い、予定されていた慰安旅行・潮干狩りは無期限延期とする。良いな」
 ……こうして、会議はなし崩しにお開きとなった。

 大陸暦千二百十五年十一月十九日、ヴァルタミア要塞(注1)にて、帝国軍と共和国軍が衝突、戦闘が始まった。帝国軍五千に対し、共和国軍は三万の兵力を投入。共和国軍はフェリシア、アクエイト両将軍を筆頭にヴァルタミア要塞南方の草原に展開、対して帝国軍は魔法師団およびキリグ将軍率いる精鋭部隊を投入し、要塞を守るべく布陣を敷いた。しかし善戦むなしく帝国軍は敗退し、共和国軍はヴァルタミア要塞を占領。のちのボルソネード条約において、正式に要塞および周辺地域は共和国領となった。
(注1)ゴルド南方に位置する要塞。千百五十年建設。
(リシェ=アグダナ著 「詳説ガルガス帝国史」より)

「ゴルドに来ると、なんか嫌な記憶が蘇りますね」
 お忍びでゴルドの街に宿を取り、バルザークは魔術師組合から借りて来させた書物をひもといていた。皇帝はバルザークの読む本をのぞき込むようにしながら「そうだな」と頷いた。
「あの日もこのような曇天だった……あれからもう一年か」
「勇者さえ無事に召喚できてれば、勝てたかもしれない戦だったんですけどね」
 人目がないのをいいことに、くだけた調子でバルザークは笑った。この皇帝は今年で二十二歳になるが、彼が十一歳の頃から面倒を見てきたバルザークにとっては、今でもたまに小さな弟のように感じられる。
「あ、ありましたよ、埋蔵金伝説。なになに、総額……推定十億シルビア! これだけあれば、賠償金の支払いどころか、パン屋へのツケも部下の給料も払えます! 慰安旅行にも、何十回でも行けちゃいますよ! うわあ、すごいなあ」
 無邪気に喜ぶバルザーク、二十七歳独身。ついでに言えば、愛用の黒い鎧と怖い顔のせいで「黒騎士」の異名を取る男。皇帝以外の人間には人当たりが悪いので敬遠されがちだが、実はそれが単なる人見知りだということを知る人間は少ない。
「陛下、埋蔵金掘り当てたら、今度こそ慰安旅行の行き先を潮干狩りから温泉に変えましょうよ!」
「その埋蔵金とやらが、本当に掘り当てられたらな。……よーしレティシア、埋蔵金を掘り当てたら新しいリボンを買ってやるぞー」
 皇帝が話しかけたのは、ずっと抱きしめていた大きなクマのぬいぐるみ。その毛並みをブラシで梳かす手は止めずに、皇帝は再びバルザークの持つ本に視線を落とした。
「九世紀の話らしいですから……うわ、もう四百年も前に埋められたんですね。当時のゴルド領主ツェーダが、略奪されるくらいならばと地下深くに埋めた大量の宝石だとか。領主家に伝わっていたという、財宝の隠し場所を示した言葉は――」
「『アイデ・ヴェガ・リンタイ・ヤ』今のガルガス語で言えば、『吾輩は留守である』といったところか」
「あれ、ご存知だったんですか」
「それくらいは事前に調べた。知りたいのはその意味だ」
「意味って、見たまんまじゃないですか。吾輩は留守なんでしょ」
 バルザークが馬鹿にしたような口調で言う。皇帝はクマのレティシアを空いた椅子に座らせると、改めて彼の正面に座りなおした。
「……。ところで実を言えば、当時のゴルド領主家は母方の先祖でな。私には埋蔵金の正当な所有権があるような気がするのだが」
 唐突に言い出したかと思うと、ふところから一枚の紙を取り出し、バルザークに渡した。
「先日、なんとか頑張って倉庫から見つけ出してきた。おそらくこれが、代々伝わってきたこの謎の言葉を解く鍵なのだ」
「へえ……っていうか陛下、自分で探したんですか」
「仕方ないだろう! 長いこと給料が払えずにいたら、あの下働きども、サボタージュを始めおって。どこの馬鹿が発明した方法だったかは忘れたが、まったく困った習慣を持ち込んでくれたものだ!」
 怒りに顔を歪めるその様は、生きとし生けるもの総てを憎む魔王の姿を思い起こさせた。扉の外にためらうような気配を感じて、バルザークは顔を上げる。
「そんなところに居ないで入ってこい、ダグ!」
「は、はい!」
 恐怖に顔を引きつらせながら入ってきた部下を、バルザークは手招きする。部下は大きく首を横に振り、その場に留まった。
「……そんなに怖がらなくてもいいじゃないか……」
 拗ねたような口調で、皇帝がぼそりとつぶやいた。
「そんなことより陛下、これ」
 言いかけたバルザークは、ふと捨てられた子犬のような目(に見えるのはバルザークだけで、周囲の人間には何か鬱屈したものを抱え込んだ冷たい目にしか見えないらしいのだが)でこちらを見つめる皇帝の存在に気づいた。ごほん、とひとつ咳払いして、その目から視線を外す。
「この紙、本当にその言葉の謎を解く鍵なんですか……?」
「そう言って母から渡されたのだ、間違いない」
「だって、これ!」
 悲鳴じみた声を上げて、バルザークはその紙を皇帝の眼前に突きつける。
「どこからどう見ても、おいしいキムチの作り方じゃないですか!」
「だから、そこに謎が隠されているのだろう」
「本当に!? 本当にそう言い切れるんですかッ陛下! 亡きエリザ様がうっかり間違えたとか冗談で渡しちゃったとかそういう可能性はないんですかッ!?」
「なっ、お前、私の母を疑うのか!?」
「疑いたくもなりますよ! っていうかエリザ様が亡くなった時、確かまだ陛下は二歳じゃないんですかッ!?」
 あの、と部下が言いかける声も耳に入らない。不幸な部下はおろおろと二人の口喧嘩を見ていたが、やがて自分の任務を思い出し、思い切って二人の間に割って入ることにした。
「失礼します。埋蔵金の謎が総て解けましたのでご報告しますッ!」
 ぴたり、と二人の動きが止まった。

 仲間同士でのジャンケンに負けて報告に来るはめになったらしい部下の話では、どうもゴルドの老魔術師が、この暗号(本当にキムチの作り方に模してあったそうだ)を解いていたらしい。
「それで、その魔術師はどうして埋蔵金を掘りに行かなかったんだ」
「行かなかったのではなく、行けなかったそうです……長いこと、その近くで紛争が続いたそうで……」
「ほう。それで、肝心の埋蔵金はどこにあるのだ?」
 皇帝に最敬礼をして、ああどうして俺はジャンケンに負けたんだろうと小さくつぶやいてから、部下は泣きそうな顔で口を開いた。
「ヴァ……ヴァルタミア要塞の、地下だそうです!」
 険しい顔で皇帝が彼をにらみつけた。バルザークの部下は必死に悲鳴を押し殺したような妙な声を上げると、「失礼します!」と叫んで部屋から飛び出していく。
「……おい、バルザーク。あれでは近衛兵としては役に立たないのではないか? 顔を見るたびに逃げられたのでは、話にならん」
「まあ、そう言わないでください。剣の腕だけは優秀なんで」
 だけ、というところをやたら強調しつつ、バルザークは丁重に頭を下げた。

 ヴァルタミア要塞一帯は、さきのボルソネード条約で、ヴァルロム、フィナ地方と共にパティア共和国が手に入れた地域である。面積はさほどでもないが、この場所に要塞を手に入れた意味は大きい。詳しい軍事的な話は割愛するとして、とにかくどう見ても、ホイホイと近づける場所ではない。
「……さて、どうしたものか」
 部下の報告によれば六十五年前、時の皇帝・イザリーW世は埋蔵金の在処を知り、その埋蔵金を守るために要塞を建てたのだという。確かに六十五年前と言えば、このせっぱ詰まった戦国時代に入る前のこと。埋蔵金などに頼らずとも、財政は充分に潤っていたことが推測される。
「くそ、どうしてもっと城の近くに埋めないんだ」
「今更そんなこと言っても仕方ないですよ」
 ゴルドの鐘楼からは、はるか彼方に要塞が見える。望遠鏡を借り出した皇帝は、鐘楼の最上層に登ると要塞を眺めた。ゴルドから要塞までの間には草原が広がり、その左右から伸びた山並みが、要塞のところで行き会う。その草原の中に無遠慮に建てられた、粗末な木の柵が、さしあたっての国境だ。
「……? おい、バルザーク、あれは何だ」
 皇帝に望遠鏡を渡され、バルザークは彼方をのぞき込む。その手が思わず望遠鏡を取り落としそうになり、喉から妙な声が漏れた。いや、声を上げた原因は、そこではなくて。
「て……敵襲、ですかね」
 バルザークが答えた瞬間に、ずん、と地面が揺れた。
 それが砲撃だと気づいたのは、しばらく経った後のことだった。

「悪の枢軸、帝国に虐げられているゴルドの民を、解放せよ!」
 共和国軍第三師団長・メリー=アクエイトは、高らかに叫ぶと騎馬を駆った。後に続く騎兵たち、そしてその後ろに布陣する歩兵たちから、ときの声が上がる。
「我々には、勇者がついているのだ!」
 どよめきのような地響きのような、そんな歓声が大空を満たす。
 このときメリーは幸福だった。
 自らの正当性を疑うことなど、あるわけもなかった。

「……ふざけるな! あの腐れ大統領、まだ懲りていないのか! ベリントの割譲は呑まないと約束したはずだろう!」
 バン、と目の前の机を叩き、皇帝ダウストローゼは叫んだ。
 ゴルドから馬車で四時間ほど行ったところにある、ギズル城。別荘として使われることの多かったそこに、今は仮の軍事本部がしつらえられている。財政難のためろくに手入れもされていなかった城は薄暗く、よく見ればあちこちにクモの巣が張っていて、魔王城さながらの形相を呈していた。
「……それにあちらには、伝説の勇者がついているそうだ……」
 悲しそうに肩を落とすのは、慌てて首都から駆けつけたベムド。その隣には、交渉をするべく駆けつけた外交官ディーナの姿もある。
「くそ、あの勇者め、裏切りおって……」
 ぶつぶつと呟くベムドに、バルザークは同情した。なにせ勇者が彼を邪教徒呼ばわりし見捨てた、その場に彼も居合わせたのだ。
「もうあんな奴、勇者でもなんでもあるものか!」
 破壊と創造の神ベルガーナに祈りはじめたベムドの横で、ディーナもぶつぶつと何か呟いている。
「なにか、埋蔵金も手に入れて、ゴルドの民も守って、要求されてるベリントのオリハルク鉱山も渡さない方法はないかしらね……」
 今ごろは、首都に残してきたジルヴェーンやリーネも大忙しだろう。埋蔵金が手に入らなければ、彼らは何と言うだろうか。いや、その前になんとかして下働きに給料を払わないと、城が荒れ果てる。考えるうちに、皇帝の気も重くなる。
「くそ、一体何がどうなっているんだ……」
 呟いた皇帝の耳に、けたたましい鐘の音が聞こえてくる。慌ててバルザークが窓を開ければ、二頭立ての馬車が城門から駆け込んでくるところだった。
「おい、誰か見てこい!」
 バルザークがそう叫んでしばらく経った後、部下の一人がみすぼらしい身なりの男を連れてきた。当惑顔のディーナをよそに、ベムドは驚いたように目を見開き、彼に向かって恭しく頭を下げる。
「お久しうございます、領主様」
 憔悴しきった目で彼を一瞥し、短く挨拶の言葉を述べると、男――現ゴルド領主ディガロは、皇帝の前に膝をついた。
「恐れながら陛下、現在我が街は危機的状況に瀕しております。私めも、包囲から脱出して参るのがやっと。ついてはどうか、共和国軍を退けるために兵を貸して頂きたく参りました」
「久しいな、ジリース卿。……詳しく話を聞いても良いか」
「申し訳ありませんが、時間がありませぬ。手短にお話しすることをお許しください。……簡潔に言うと、勇者と名乗る男が、ゴルドの街で破壊と略奪の限りを尽くしております」
 ベムドが、まるでイボガエルでも踏んだかのような顔でバルザークの方を見た。バルザークも困ったように眉をひそめる。怖い顔がさらに怖くなり、ディーナが妙な声を上げた。
「あ……ご、ごめんなさい。ねえ、勇者ってあの伝説の勇者?」
「おそらくは」
 突然の客に愚痴を聞かせ続けるわけにも行かず、ディーナはベムドの袖を引いて部屋から出た。バルザークは室内に残る。
「どうして勇者がそんなこと……」
「何を言っている。勇者には、勇者三権と言われる、人家に無断で立ち入って良い権利、他人のものを無断で持ち出して良い権利、自分が敵っぽいなーと思った人間を虐殺していい権利、が大陸連合によって認められているんだぞ!」
「そ、そうなの……?」
「嘆かわしいことだが、そうだ。あの分厚い法典に、小さな文字でこっそりと書いてある。あの時勇者にコケにされたのが悔しくて、勇者については詳しく調べたんだ」
「……ねえ、それじゃ、勇者の弱点なんかも知ってるの?」
 ディーナの言葉に、ベムドは一瞬ためらい、それから頷いた。
「一応な。――『魔王』だ」
「まおう? って、伝説の?」
「そうだ。勇者は魔王がいると聞けばどこへでも飛んでいく。それが彼の使命だからな。たとえそれがガセネタでも構わん。勇者がいなくなったあとの共和国軍ならば、フェリシア将軍さえなんとか出来れば、我々魔術師団と近衛兵団で退けられるかもしれない」
 ディーナが驚いたように目を丸くするが、ベムドは小さく首を振り、その先を続ける。
「……が、残念なことに勇者は瞬間移動の魔法を心得ていてな、ガセだと判ればすぐに帰ってくるだろう。この方法で勇者を戦場から遠ざけるには、勇者と互角に戦える戦士が必要なんだ……」
「なんだ、それじゃ無理じゃない。そんなの――」
「居る!」
 突然、声と共に扉が細く開けられた。バルザークは部屋の中に気を配りつつ、小声で二人に話しかける。
「勇者と互角に斬り結べる男を知っている。あいつなら、魔王の代役くらい務められるだろう」
「ほ、本当か!」
「ああ。しかし俺たちは、ゴルドを守ると同時に、至急ヴァルタミア要塞を奪還しなければならないんだろう? ざっと一万の共和国軍を、どうやって要塞の向こうまで追い出せって言うんだ?」
「任せろ。私に考えがある」
 ベムドはにやりと笑うと、黒いマントを翻し、どこかへ足早に去っていった。

「何としたこと!」
 メリーは思わず悲鳴を上げた。
 どこからか「魔王が出たぞ」という声が聞こえたのが二時間前。勇者は聖なる解放活動を止め、そちらへと魔法で飛んでいってしまった。未だに帰ってくる気配はない。
 民を虐げてきた張本人である領主は、農民に紛れて逃れたという。捕らえそこなったのは残念だが、これで民も幸福に暮らせることだろう。そう思っていたところに、伝令が敵襲の報を伝えてきた。
 広い草原に、黒と赤の旗を掲げた帝国軍の布陣が見える。フェリシアとメリーは、それぞれの率いる計二師団・一万人のうち、七千人を草原に展開した。ひらけた南方の草原に比べ、東西から山脈が迫る北方の草原では、パティア式の戦法が通じにくい。下手に大勢力を投入して、混乱を招くのは避けたかった。
 帝国軍、ざっと見積もって三中隊、千人。鐘楼からの報告によれば、後方には魔法部隊が待機しているそうだ。それに比べてこちらは、魔法には弱い騎兵隊。数では勝っていても、機動力にものを言わせて突っ込めば、魔法部隊の餌食になるのは目に見えている。
 加えて、勇者の不在とこの地の寒さで、共和国軍の士気はずいぶんと低下している。こんな冬場に、こんな北方に軍を派遣するなど、参謀の失策としか言いようがない。確かに昨年の十一月、共和国軍は帝国軍をこの地のすぐ南で破っているが、あの時の寒さなどこの十二月下旬の寒さとは比べものにならない。
 そこで前述の台詞というわけだ。フェリシアもメリーも歴戦の将軍ではあるが、しかしだからこそ、士気を失った兵を率いての戦闘の無謀さを知っている。
 その時、ふと頬に冷たいものを感じて、メリーは空を見上げる。
「あっ……」
 すぐにその正体は知れた。
雪だ。
北国であるガルガスでは珍しくない光景だが、ヴァルタミアからさらに山脈をひとつ越えた南のパティアラ郡に住んでいた身には、その途方もない冷たさがこたえると同時に気持ちいい。喉の奥から子供のような衝動が突き上げてきて、メリーは思わず破顔した。
「アクエイト」
 ふと名前を呼ばれて振り向けば、ひげ面の中年男――フェリシアの姿がある。
「雪は不吉だ。戦場で雪が降るときは、戦の女神が怒っている時だと聞いたことがある」
 きょとんとするメリーの耳に、ふと柔らかい女の声が聞こえた。
 ――退きなさい、メリー。今は戦うときではありません――
「誰ッ!?」
 振り向いたが、そこには冷たい草原の空気があるばかり。
 戦の女神だ、とフェリシアが呟いた。
 彼にも声が届いたのだと思うと同時、メリーの中で戦意が急速に失せていくのがわかった。

「すごい! 本当に南に帰っていくわよ、共和国軍!」
 ディーナは子供のような声を上げて、ベムドに抱きついた。普段なら、やめろ、人妻のすることじゃない、と怒るところだが、あいにく今のベムドにはそれほどの気力が残っていなかった。
「ああ。……最後の仕上げだ、行くぞ。ディーナ、もう一度頼む」
 ベムドは背後に控える魔術師団の面々に声をかけた。揃いの黒いローブを着た魔術師団は、地面に描いた簡素な陣の周りを取り囲み、精神を集中する。
 ぱっ、と空で光が閃いた。ベムドは南の空に現れたその光に向けて杖をかざし、呪文を唱える。口元から吐いた声が白く凍る。力を使い尽くさんばかりのベムドの頬を、汗がひとすじ伝った。
「ディーナ女史、行きますよ!」
 若い魔術師の声。ディーナは頷くと、打ち合わせ通りに声を張り上げる。
「退きなさい、メリー。その要塞に留まれば、より大きなものを失ってしまうことでしょう」
 魔術師が風を操り、その声を彼方のメリー=アクエイトの元へ届ける。この魔法が得意な男だとは聞いていたが、その見事なやり口に、あらためてディーナは感心した。
 ディーナと若い魔術師は、ベムド達が空に描く光を見上げた。声に合わせるように、空には異国の天使の姿が浮かんでいる。
「本当は、異教徒の使徒など描きたくはないのだが」
 そう言いながらも、ベムドは嬉しそうだ。最後にひときわ強い光を放ち、異国の天使は空にかき消える。
「この雪といい、今の天使といい……大したものね、宮廷魔術師団」
「まあ、我々が本気を出せばこんなものだということさ。あの将軍は有名人だから、性格についてもすぐ判ったし。……それにしても、君の声色も大したものだ。本当に女神が降りてきたかと思ったよ」
「ありがとう。お世辞とわかっていても嬉しいわ」
 魔術師たちが呼んだ雲から、雪は舞い落ち続ける。
 うっすらと銀に染まる草原の、澄んだ空気を歓喜の声が震わせた。

「騙されたーッ!」
 バルザークの部下の一人、ダグラスは、大声と共にその場にひっくり返った。全身を覆う鎧がひどく重い。
「誰だあの変な男! やたら強いしやたら偉そうだし。いきなり人を魔王呼ばわりしやがって、くそ、どうせ全部隊長の差し金だな!」
「申し訳ない」
 頭上から聞こえた声に、ダグラスは首を巡らせる。その視界に入ったのは紛れもない皇帝の姿。慌てて跳ね起き、膝をついた。
「へ、陛下……!?」
「楽にしていろ。今に医者が来る。……お前、名はなんと言う?」
「だ……ダグラスです。近衛兵団所属、ダグラス=ゴドシーク」
 この場から今すぐ退出したいのはやまやまだったが、足がふらついて動けない。なにせ勇者とか名乗る妙な男と、二時間に渡り古城の中で鬼ごっこを繰り広げたのだ。結局最後は追いつかれ剣での戦いになり、なんとか男を切り伏せたのが数分前のこと。ちなみに男は、何やら叫びながら魔法でどこかへ逃げてしまった。
「よくやってくれた。ダグラス、お前のおかげで無事に共和国軍を退けることができたよ」
「は? ……恐れながら、何のことやら私には」
 皇帝の顔を見ずにすむように頭を下げたまま、ダグラスは答えた。何がなにやらさっぱり判らない。唐突に軍営地からギズル城に呼ばれたかと思ったら、いきなり妙な男を押しつけられたのだ。
「今お前が倒した男、あれは伝説の勇者だ」
「……? 伝説の勇者、ですか」
「そうだ。お前が彼を足止めしてくれたおかげで、共和国軍を撃退することができた。ちなみに、勇者にはお前のことを魔王だと言い含めさせてもらった。お前には申し訳ないことをしたと思っている」
「……はあ」
 ダグラスより三つ年下の皇帝は、神妙にそう言ったが、その声はどこか嬉しそうに聞こえた。
「バルザークはお前のことを、剣の腕だけの男だなどと言っていたが、そんなことはないな。あの伝説の勇者をあそこまで翻弄した人間を、私は他に知らない」
 見てたんなら助けてください、と言いかけたその時、重い扉が開く音がした。そちらを窺えば、ちょうど医者がやって来るところ。途方もない安堵と混乱と疲労の中、ダグラスはその場で気を失った。

「……あの、陛下」
 共和国軍が一時撤退し、人の気配がなくなった要塞の地下で、バルザークはやけくそじみた声を上げた。
「何で埋蔵金がこんな広大な地下迷宮の中にあるんですか!?」
「そんなものは私のご先祖様に聞け。侵入者に盗まれたくないと思ったのだろう。なあレティシア、お前もそう思うよなー」
「……。でもこれじゃ、俺たちも埋蔵金に辿りつけませんよ」
「何とかしろ」
 入り口の看板によれば、この地下迷宮は地下十階建て。いったいどこにどのように埋蔵金が隠されているのか、皆目見当もつかない。
「っていうか、埋蔵金としての浪漫がありませんよ、コレじゃ」
「お前はこの非常事態に浪漫を求めるのか」
「何言ってんですか、人生は浪漫を忘れたら終わりですよ!」
 バルザークが力説する。皇帝は思わず笑みを漏らし、彼らに付き従っているベムドとダグラスは顔を見合わせた。
 その時、このつかの間の平穏が続くことを願ったのは、バルザーク一人ではなかっただろう。
 折しも今日はクリスマス。使徒の誕生と平和を祝う祝祭の日。
 若い皇帝の笑い声が、地下の迷宮に流れていった。

 ちなみに、埋蔵金はこの迷宮の建設のために大半が使われてしまっていたことが後日判明するのだが、それはまた別の話。


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