5 祈れよ、されば救われん  わああ、と情けない悲鳴を上げたのは住之江だった。 「大失敗」  俺がつぶやくと、加藤もそれを認めるようにうなずいた。腕時計のバンドに沿うように刻まれた左手首の傷はぱっくり口を開けていたしその傷から先はゴム手袋がぶら下がっているように無感覚だが出血はない。泉堂さんのところに行けばきっとなんとかしてくれる。してくれなかったらその時はその時だ。あまり先のことを想像すると顔から血の気が引きそうなのでやめておく。臭いものにはフタをする後ろ向きなポジティブシンキングは俺の得意技だ。見れば引き抜かれた刃は骨のあたりで止まっていたようだ。こんな傷ではたとえ手で止めなかったとしても俺を殺すには至らなかっただろう。 もし「やり損ね」なければきっと血が噴き出していたに違いない。また隠さなければならない傷が増えた。 「参ったな……俺の負けか」  ひたすら俺に抱きついていた有坂がハッと我に返り、俺の手首の傷を見て驚いたように目をみはった。たったそれだけの反応で済んでいるのはつまり女は強いということなのだろうか。そこで腰を抜かしているチカンとは大違いだ。  俺は傷を隠すようにハンカチを巻いて笑ってみせた。もっと余裕のある笑みを浮かべたはずだったのに漏れたのは力のない乾いた笑い声。  疲れた。  膝の力が抜ける。そばの倒木の上に座り込み、俺はぼんやりと空を見上げた。相変わらず世界はとっても美しい。俺はまた醜い傷を作ってしまったが、それはそれでよし。やっぱり俺も美しい。  ハッピーエンドにはたどり着けなかったけれど、それはもとより仕方のないことなのかもしれない。俺にはこれくらいの半端な結末が似合いだ。 「……ごめんなさい」  有坂が隣に座り、深々と頭を下げた。 「あたしがマキちゃんを消していれば、先輩もケガしなかったのに……あの」 「お前のせいじゃない。灯花ちゃんのせいでもない。加藤も悪くないだろ」  よく考えればたぶん、被害者も探偵も犯人も俺という、バカな主演俳優兼監督による壮大な一人芝居だ。  俺はふと頭を下げる有坂の手にすり傷があることに気づく。自転車で転んだ時の傷には絆創膏が貼ってあるから、これはさっき住之江ともみあったときの傷だろう。見れば俺の黒い学生服もずいぶん汚れている。抱きついてきた有坂が土まみれになっているせいだ。  手首に巻いていたハンカチを解き、有坂に渡す。 「とりあえずその顔を拭け」  有坂はしばらくハンカチを見つめ、それからあっさりと俺の指示に従った。気を遣わせただろうか、と思ってしまってから、そんなことをコンビニの外で考えるのは久しぶりだな、などと考える。 「あっちに水道があっただろ。手も洗ってきた方がいい」 「……そうします」  ハンカチを持って走り去った有坂と入れ替わるように、住之江が近づいてくる。 「分かっちゃいると思うけどな、桐生」  そんなに怖い顔しなくたっていいじゃないか。チカン呼ばわりされたのがそんなに不満か。俺なら喜んでその称号も頂いてやるぞ。 「まだ、問題は何ひとつ解決してないんだぞ」  むしろ悪化してるよな、うん。俺もなんとなくそんな気がしている。喉の傷ももちろんだがこの傷もなかなか隠しづらく、病院などに行った日には大変なことになってしまうのは間違いない。妖怪の存在を知られたくないという灯花ちゃんの懸念は懸念のままだ。おまけに有坂はこのあと加藤を殺さなくてはいけないし灯花ちゃんはそれを阻止しなければならない。 「でもさあ灯花ちゃん、もう妖怪には頼れないんじゃない?」  加藤が全力を尽くしてもこれだ。妖怪の力で俺を殺すことは難しい。そんなことは最初から分かっていたのか、それとも分からずにやっていたのか、はたまた色々な人間の、そう俺を含めた色々な人間の、俺を殺したいという思いがこの二週間で弱まってしまったのか――俺には分からない。  そこの斜面から俺を突き落とせば俺はケガをするだろう。死ぬかどうかは分からない。運良く頭を打てばくたばってしまうこともあるかもしれないが確率は低い。おまけにそのあと俺の死体を処分しなければならないのだから大変だ。  俺だってもう妖怪に願いを叶えてもらうわけにはいかない。かわいそうな悲劇のヒロインのまま死ぬことはできないのだ。くそったれ、自殺なんて殺人だぞ、やってられるか。  殺すだの死ぬだの俺たちは気軽に喋っているけれどいざこの手でやれと言われるとお互いためらってしまうもので、それは妖怪にしてみればいい迷惑だろう。殺せと言うのと殺すのは全然違う。  俺は住之江の顔を見上げて尋ねてみた。 「お前さあ、やらなきゃ夏夜ちゃんを痛い目に遭わせるって言ったら、俺を殺せる?」 「可能な限り努力する」  住之江の返事は途方もなくシンプルだった。分かりやすい生き方で大変よろしい。  灯花ちゃんは改めてナイフを逆手に握る。腰が入っていないからきっと深くは刺さらないだろうが順手に持つよりはマシだ。戦闘訓練なんて受けているはずもない俺たちがナイフを持って戦ったところできっとマヌケな戦いになることは想像できる。  俺はだらだらと立ち上がり左手を押さえた。振り回すと千切れてしまいそうで怖い。 「そうだ、その手で刺せよ。こんなバケモノ、さっさと殺して焼いちまえ」 「や、やって……やるわ」  なんて茶番劇。灯花ちゃんが退けない理由は俺と同じところにあるのだろうか。だとしたらお互い不器用にもほどがある。 「やめとき」  てっきり住之江が言うかと思ったその台詞を口にしたのは加藤だった。 「もう、ええやないか」  一度ふりかざした大義名分を「やっぱり怖いから」なんて理由で引っ込められるほど安いプライドは俺も灯花ちゃんも持っていない。いや灯花ちゃんの行動については俺の推測でしかないけれど俺は俺を傷つけようとする女の子の心理には敏感なつもりだ。なにせその思考を上手く捉えて逆撫でしなければ彼女たちは俺に手を出してくれない。とにかく灯花ちゃんはいつからか俺を本気で殺すことをやめたはずだ。でなければあの風水盤を手放してわざわざ力の弱い道具に持ち替えて弱体化してくれる必要などないし、屋上で鎧武者を操っていたときのような明らかなチャンスをあっさり看過してくれたことも説明できない。たぶんあの時、灯花ちゃんがその気になりさえすれば警告無しに俺を斬り殺すことができたはずだ。  そして有坂はちょっと詰めが甘い。世の中は彼女のような素直な人間ばかりではないのだ。当たり前の結論に達しても、それを受け入れることができないバカが世の中には存在するのだということを彼女は覚えておくべきだ。  殺されたい男と殺したい女はしばらく無言で見つめ合い、どちらからともなく視線を外す。俺は倒木の上に腰を下ろし灯花ちゃんはその場にぺたりと座った。彼女の手からナイフが滑り落ちる。 「……殺人は犯罪だよ、灯花ちゃん。やめて正解だ」 「あなたの口からそんな言葉が出るとは思わなかったわ」 「俺もびっくりだ」  だけどカメラの悪魔に魅了されてしまった俺は認めたくはないけれど少しだけこの世に未練なんてものが湧いてきてしまったようだった。妖怪じみた存在である俺はもしかすると妖怪のように他人の願いを叶えたくなってしまう体質になったのかもしれない。もっとも俺は妖怪ほど聡くないので他人の願いなどはっきり言ってもらわないと分からないのだが。  住之江が呆れたようにため息をついて踵を返した。 「もうおれの用は済んだよな。あとは勝手にやってろ」  その背中に抱きつくように夏夜が現れ、べーっ、と灯花ちゃんに向けて舌を出す。 「つれないな」 「眠いんだよ。バカの漫才につき合ってるヒマはないんだ」  その言葉を証明するようにあくびをして、住之江は獣道を下りていく。 「……バカの漫才とか言われたぞ」 「今度おデコに肉って書いてやるわ」  灯花ちゃんはふうっと息を吐き、体育座りをするように膝を抱え込んだ。少しだけ期待したがスカートの下には短パンを履いている。 「加藤」  剣をメガホンに変え、加藤ははっぴを着た男の姿でこちらを見る。 「これからどうするんだ?」 「わいが決めることやないな。逃げたかて、どうせまた何かしでかしてまうやろ」  加害者であるよりも被害者である方が幸せなこともまれにある。加害者であることは誰にも責任転嫁できない。だから加藤に逃げろというのも、なんだか身勝手な気がする。生まれるであろう被害者よりも加藤のことを考えてしまうそのことだって、とても身勝手な話だ。 「灯花ちゃんは?」 「……そりゃ、消えてほしくなんかないわよ」  意地っ張りでそのくせこっそり打たれ弱くて寂しがりやという面倒くさい性格のみっちゃんは、そばに生えた草を千切りながらつぶやく。 「彼の代わりに、桐生くんが消えてくれれば良かったんだわ」  うなずこうとして、上手くいかないことに気づいた。  加藤の言葉が蘇る。  まだ、俺を必要としている人がいる。  そうだ。どうせ死んでも死ななくても迷惑なら、死なないことだってできるだろう。  いつか大変なことを引き起こすかもしれないのは俺も加藤も同じだ。それなのに俺は生きたくて加藤には死ねというのはおかしいような気がする。いやあんな悪魔の一言くらいでいきなり生きたいなんて言い出している俺も俺だ。長年こつこつと積み上げてきた願い事もひっくり返るものなのだと俺は少し驚いている。  ああ。それにしても今日は空がキレイだ。夕日色に染まり始めた光が木々の合間から降りそそぐ。色づいた葉と緑の葉が入り交じる枝々。いくつかの木からは葉が落ち始めてひときわ大きな窓が開いている。  ふと、石段のところに腰掛けている有坂の姿が見えた。住之江はもういない。  あそこで彼女は何を待っているのだろう。 「……逃げてくれ」  いつか誰かがまた殺されてしまうかもしれないと分かっていても、俺はそう言わずにはいられなかった。 「頼む。有坂に、お前を殺させたくないんだ。大丈夫、お前ならきっとなんとかなる。お前が何も傷つけることのないように、俺が祈ってる」 「よう言うわ。うぬぼれよって」 「うぬぼれなんかじゃねえ」  祈りが通じるかどうかなんて問題ではない。俺はただ目の前だけを見て、愛すべきカメラの悪魔を、有坂郁葉を悲しませたくないと、それだけを考えて言っている。彼女がたとえ俺のことなんか見ていなかったとしても、俺の後ろに誰かの姿を見ているのだとしても、ただ義務感から俺を助けているのだとしても、そんなことはどうでもいい。とにかく彼女は俺と一緒にいたいと言ってくれた。それだけで十分だ。たとえすれ違ったとしても叶わぬ恋なんて最高に燃えるじゃないか。想像しただけで心が打ち震える。 「単なる、俺のワガママだ」  どうせ俺は身勝手な人間なので知らないところで誰が傷つこうと知ったことではない。さくらが丘は奇跡を起こせる町かもしれないがそれで万事がうまくいくわけではない。だいたい一山いくらで売っている奇跡になんの価値があろうか。奇跡なんて起こらないと考えているからこそのありがたみだ。  ならば目の前のひとりを悲しませずにすむ方法があればそれで十分。目の前にいるもうひとりだって、努力次第でなんとか笑顔にできるかもしれない。俺はそちらに顔を向ける。 「加藤が何をしようが、それは生んだお前のせいなんかじゃないぜ」  だいたい灯花ちゃんは加藤の母親でもなんでもないのだ。加藤こそが灯花ちゃんを守るために生まれた騎士なのだろうし。そこでふてくされているみっちゃんだって、もうデュラハンに守られなければいけない年ではないだろうから、きっとうまくやっていけるはずだ。 「それにあいつなら、たぶん上手くやれる」  さくらが丘を離れれば、加藤だってそれほどの力を持たずにいられるかもしれない。人の願いなど叶えたくても叶えられない、ただそこに寄りそうことしかできない、そんな妖怪になるかもしれない。……ならないかもしれないし、もっとおかしなことになるかもしれない。  みんなが幸せになるような奇跡なんてめったなことでは起こらない、だからこそ俺は祈るのだ。ガラではないかもしれないけれど、そんなことはもうどうだっていい。  加藤が笑い、黙ってその場から消えた。  俺は有坂を呼ぶために獣道を下りる。  灯花ちゃんは何も言わずに膝を抱えじっと地面を睨んだまま、「他人のことを祈ってる余裕があったら、自分のことを考えたらどうなの」とつぶやいた。  それは確かにその通りだし反論のしようもないが、俺のぶんはきっと有坂が祈ってくれるだろうから、まあ、なんとかなるだろう。 *  あたしはマキちゃんのことを祓ったりなんかしたくなかった。そうしなきゃいけないのは分かってるつもりだし、泉堂さんだってそうしろって言った。でもマキちゃんはあたしの友達なんだ。友達を殺したくないのは、当たり前じゃない。  だからあたしは一ヶ月前のあの日、バイクを壊してしまったマキちゃんを祓うために追いかけたけど、それは沖浜先輩がやるような、義務感と勢いだけに支えられたものだった。いや、沖浜先輩だって最初は本気だったかもしれないから、一緒になんかしちゃいけないのかもしれないけど。  大切な友達を殺さなきゃいけないんだけど、どうしたらいいかな? なんて相談できる人なんかあたしにはいないから、あたしは一人でやるしかなかった。マキちゃんは逃げた。あたしは追いかけた。そしてこの鎮守の森にやってきた。  マキちゃんはあたしの友達だから、あたしがお人好しでバカだってことをよく分かっていたんだと思う。目の前に死体が転がってたら、マキちゃんのことなんて放り出してその死体にかかりきりになるって、ちゃんと分かっていたんだと思う。  あたしの目の前で、桐生先輩は殺された。  あまりにもきれいな死体が地面の上に放り出されるのを、あたしは見てしまった。  死体がうちの学校の制服を着ていると気がついたのはそのあとで、その死体があの変人のものだと気づいたのはさらにそのあとだった。傷から出血がないのを見て、ああこれは「やり損ね」ちゃったんだなと思って、このままじゃマズいって気がついた。もしあのときマキちゃんがちゃんと先輩を殺していたら、あたしは黙ってその場を離れただろう。妖怪なんかに関係のない、ただの猟奇殺人事件のできあがりだ。でもマキちゃんは先輩を殺しきれなかった。だからあたしは泉堂さんに頼んで車を出してもらって、生まれて初めて死体を担いで運んだ。  あたしが追いかけなければ先輩は死ななかったんだって、言ったら先輩はなんて思うだろうか。あたしを嫌いになるだろうか。先輩はああ見えて、ちゃんとまっとうな考え方だってできる人だと思う。  石段に腰掛けたあたしはそんな下らないことをつらつらと考えながら、ぼんやり空を見ていた。そこの獣道を上ったら、あたしは今度こそマキちゃんを祓わなきゃいけない。  ずるいよ。  あたしが妖怪を怖がったり嫌ったりしたら、妖怪はその期待に応えて怖いヤツや嫌なヤツになってしまうというのに。仲良しのいい子だって思わないと、妖怪はどんどん強くなっちゃうのに。それなのに、そのかわいい妖怪をあたしは祓わなきゃいけない。  神様はなんて力をあたしに与えたんだろう。ぜったいこんなの、あたしには向いてない。  誰かが獣道を下りてくる足音がする。あたしは空を見上げたまま黙っていた。上を向いていないと涙がこぼれてしまいそうだから。  あたしを襲ったあのメガネの人、桐生先輩のクラスで見かけたこともある先輩は、さっきあたしに「ごめん」と一言謝って、だらだらと階段を下りていった。だからこの足音は、沖浜先輩か桐生先輩のもの。 「有坂」  ああ、桐生先輩だ。あたしを呼びに来たんだ。マキちゃんを祓わせるために。そうだよね、マキちゃんは先輩を殺した張本人なんだ。放ってなんかおけるはずがない。 「加藤が逃げた」  ……え。  その言葉の意味がわからなくて、あたしはしばらく雲のかたちと空の色がじわじわと変わっていくのを見つめ、それからゆっくりと先輩の顔を見た。  とびきりの笑顔を浮かべた先輩は、やっぱりものすごくかっこいい。 「ごめんな。俺がうっかりしてたよ」  せっかく井戸のぬるい水できれいに顔を洗ってきたというのに、あたしの頬をまた涙が伝いはじめた。  ふらふらと立ち上がったあたしを、先輩はぎゅっと抱きしめてくれる。なんだかいい匂い。シャンプーかな、それとも何か使ってるのかな。  やっぱりあたし、先輩と離れるなんてイヤだ。殺しちゃった責任があるとか、一緒に妖怪の話ができる人は先輩くらいしかいないとか、そんなの抜きにしたって先輩のそばにいたい。このまま放っておくわけにいかないって意味では沖浜先輩と同じだけど、でもきっとなんとかなる。あたしにできることは何でもするし、何か起こってしまったら、あたしはがんばって先輩を守るんだ。だいじょうぶ。きっと何とかなる。さくらが丘に転がっているバーゲン品の奇跡が何とかしてくれる。その効果は値段相応かもしれないけど、足りない分は工夫と気合と気配りでなんとかするんだ。節約生活をするときと同じ。  ねえ、マキちゃん。  あたし本当にズルくてワガママで、こんなこと考えてるって先輩に知られたりしたらきっと嫌われちゃうから、こっそり言うね。  あの時、先輩の願いを叶えてくれてありがとう。  先輩に会えて、あたし本当に幸せだよ。 *  腕時計では隠しきれない傷をリストバンドで覆い、首の太いチョーカーをチェックして、俺は慌ただしく家を出る。首の傷と違って俺自身の目に付く場所にあるのが気になるが、それはそれでまたよし。火傷の痕がちっとも気にならなくなったのは思わぬ副産物だ。  あのあと俺と有坂は駅前にある泉堂さんの家に行き加藤に逃げられたことを正直に告白した。なんだかすごい形相で怒られたがまあ何とかなるだろう。それにしてもさり気なく帰っていった灯花ちゃんが恨めしかった。  ついでに泉堂さんが電話で怒鳴っていた相手は住之江らしい。どういう縁かは知らないが知り合いだったとは知らなかった。彼女の顔の広さに驚いていたら有坂が「泉堂さんはこのあたりの妖怪トラブルの処理役です」と説明してくれた。もしかすると灯花ちゃんも泉堂さんとコンタクトを取っているのかもしれない。父親がオカルト雑誌に書いているというからそこから繋がりがある可能性はあり、ならば転入さえすればひとり人数の少ない二年B組に入れるだろうという情報だって俺に会う前に伝えられていておかしくない。 「おはよう!」  返事はないしあっても気持ち悪いだけだがとにかくいつものように教室に入り、俺はぼんやりと教室を出入りする連中を見つめる。見納めにするつもりで出てきたこの場所にのこのこと戻ってきてしまったのは少しだけ悔しいがまあいい。愛すべき平和な日常に乾杯。  いつものように遅刻して入ってきた住之江は疲れ切った表情で耳を押さえている。ホームルームが終わるのを待って話しかけてみた。 「やあ今日も眠そうだね」 「ああ……うん。まさかモーニングコールがあるとは思わなかった。あれでまだ怒り足りなかったとは」  くそ、と住之江は頭を押さえながら吐き捨てる。同情と「ざまあ見ろ」が三対七くらいでブレンドされた気分で俺は笑い、ついでに昨日から気になっていたことを口にする。 「お前、泉堂さんと知り合いだったんだな。早く言えよ」 「そんなことか。しかもお前の生首を見る前から事情は知ってましたよ、沖浜さんのやりたいことも含めてね。クラスメイトが夏夜と喋ってるって連絡したら、すぐに話してくれた。でもだからって、なんでおれがわざわざお前なんかにそんな話をしなきゃいけないんだ?」 「まあ、そりゃそうか」  しかも知っていたのか。屋上のときには知っていてあの反応だったのか。驚いて損した。ああ、でも考えてみれば推察できたことだ。俺の喉の傷について何も尋ねないのは不自然だし、誰かにもう事情を聞いていたとすればあの行動も納得できる。しかし逆に言えば話に聞いていたとしても気持ち悪くて耐え難い状況だったということだ。 「まあ、泉堂さんがお前らの行動に注意してろって言った意味もよく分かったよ。バカだもんな、お前。けっきょく傷のこともうやむやにして乗り切るみたいだし、信じられないバカだ。何かあったらすぐに泉堂さんに言えよ、俺も最大限の努力はするから」  俺の謝罪をあっさり受け入れたのはそういうわけか。泉堂さんに言われて俺に近づく機会をうかがっていたというわけだ。それならば俺の提案は渡りに船だろう。それにしてもこいつはやっぱり不機嫌そうな顔をしているがそれはつまり助けてくれるということなのだろうか。相変わらず回りくどい言い方をするヤツだ。 「まったく……バカは調子に乗るし、おまけに沖浜さんはしつこく手を出してくるし、踏んだり蹴ったりだ。だいたいなんでおれまで説教されなきゃいけないんだ、逃がしたのはおれじゃないぞ」  住之江だって俺に負けず劣らずのバカだと思うのだが、今の俺は寛大な気分なのでそんな細かいところに茶々を入れたりはしない。 「やっぱりチカンしたのが良くなかったんじゃないかな」 「誤解だ!」 「そうよそうよ、誰がチカンよ! 一志はあんな小娘に興味なんかないんだからね!」  なぜか夏夜まで出てきて住之江の弁護をしている。それだけ必死になるとは、よほどショックだったのか。 「どっちにせよ、女の子に手を出すのは良くねえな。女の子っていうのは、叩くより叩かれるべきものなんだ! それでこそ美しさが際だつものなんだよ! 俺の!」 「お前と一緒にするな、変態。だいたいおれだってやりたくてやったんじゃないんだぞ。従わなきゃ夏夜を襲うって言われてなければ、あんなこと絶対にしない」 「俺だってお前と一緒になんかされたくねえよ、ロリコン」  返す言葉が見つからずに苦悩する住之江にひらひらと手を振り、俺は自分の席に戻った。あいつはチカンでロリコンで素直すぎるバカだが、たぶん悪いヤツではない。 「おはよう。今日も可愛いね!」  ついでに近くを通りかかった灯花ちゃんに手を振ってみると、灯花ちゃんは顔をしかめながらも「おはよう」と言った。  俺は相変わらずクラスメイトの輪の隅っこに申し訳程度に引っかかっている魚の小骨みたいな存在だが、それでもここに自分の机があることを喜ばしく思う。  重い物を持ち上げると左手がぐらつくことには閉口したが、おおむね問題なく日常生活は送れている。レジを打ち終え、お客様を見送ったところで晴妃が棚の向こうから顔を出した。 「ねえコウちゃん、あの有坂さんって子とはどういう仲なの?」 「え?」  友達だって言っただろうに。いったい他の何だと言うんだ。 「かわいい子だし、大切にしなよ!」  そんなこと言われても困る。  俺にとって有坂はただの友達で、……いや、ただの、ではないかもしれないがとにかく友達で、そんな、晴妃が期待しているような仲ではない。まだ。  だいたい、かつてはボールが恋人で今は楽しい変態ライフを送っている俺に彼女などできたためしはなく、できるとも思ったことはない。俺はこう見えてけっこうリアリストなのだ。  パンポーン、とチャイムが鳴って自動ドアが開く。 「あ、先輩!」  噂をすれば何とやら。ぱたぱたと手を振りながら入ってきたのは有坂だった。高校一年生とは思えないその仕草に苦笑する。 「いらっしゃいませ!」  そのあとに続いて入ってきた人間を見て、俺は一瞬あいさつを忘れ、晴妃は脳天気に「やっほー」と声をかける。 「灯花ちゃん……?」 「そうよ。来ちゃ悪い?」  ちっとも悪くはないがせめて心の準備がしたかった。だいたいなんでその二人が一緒にいるんだ。俺の記憶によれば彼女たちは水面下で壮絶な戦いが繰り広げられていそうな、女の子らしいステキな険悪さに満ちたコンビだったはずなのに。 「これちょうだい」  灯花ちゃんが投げるようにレジに置いたのは野球選手のカードがついたポテトチップスだ。取り出された灯花ちゃんの財布をふと見ればこのシリーズの一枚らしいカードが入っている。右上に虎のロゴが入ったカードを見ながら、俺は加藤が虎縞のはっぴを着ていた理由をなんとなく察した。 「百五円になります。ねえ、どういう風の吹き回し?」 「あの子があなたを探してたから、今日はここでアルバイトだって教えてあげただけよ。私はたまたま、このコンビニで買い物がしたかったの」  さくらが丘の上の方にあるこの店までわざわざ来た理由を問いつめる気はないし問いつめたところで目的はどうせ晴妃だろうが、有坂がここへやって来たことは意外だった。その有坂は晴妃に「先日はどうも」と頭を下げている。校門のところで出会ったのを覚えていたらしい。  それから有坂がレジに持ってきたのはパズル雑誌だった。これならコンビニだからといって割高になることもない。 「来ちゃいました」  照れくさそうに笑ってから、有坂は俺の左手に目をやる。 「だいじょうぶですか、手」 「あんまり調子は良くないけど、何とかなってるよ。三百十五円になります」  じきに慣れるだろう。どんなことにだって、気がつけば慣れているものだ。いつから俺が変態と呼ばれるようになったのかはもう覚えてもいないが、とにかく気がついたときにはそう呼ばれていないことに違和感を覚えるようになっていた。この手もきっとそうなるだろう。 「桐生先輩」 「ん?」  ぴったり三百十五円の小銭とともに、有坂がくれた言葉がひとつ。  俺は驚いてしばし固まり、それから小さくうなずいた。  レシートと雑誌を受け取ると有坂は「ありがとうございますっ」と頭を下げ、それから猛然と走り去っていく。  開いた自動ドアから十一月の冷たい風が吹き込み、けれど俺の頭の中には一足どころか二足も三足も早く春が訪れているようで、「ありがとうございました!」と言う俺の声はきっと傍目にもわかるほど弾んでいたに違いない。  かわいい女の子に蹴飛ばされ罵られるのはとても楽しいことだが、その女の子に好かれ愛されるのはもっと楽しいことだ。俺はわけもなくホウキを掴んで外に出た。どこからか飛んできている落ち葉を掃いて空を見上げる。もう陽はすっかり暮れて空はオレンジから深い藍色に至るグラデーションを描き、家々に点る灯りが暗闇の中にぽつりぽつりと浮かんでいた。遠くなっていくのは有坂の自転車の反射板だ。金色をした三尾の狐がきらきら光りながら道路を駆けていく。振り返ればコンビニエンスストアの柔らかい灯り。灯花ちゃんと晴妃が楽しげな私語に興じているのがよく見える。  そんなわけで。  このおかしな町で、俺がステキな女の子たちに囲まれてそれはもう幸せに暮らしているのだということは、言うまでもなく分かっていただけたと思う。 (了)