4 みっちゃんと馬鹿なおばけさん  月曜日の朝には住之江はいつものように遅刻して現れ、試しに「おはよう」と手を振ってみたら片手を上げて答えてくれた。こういう普通の反応も悪くない。男に無視されたところであまり嬉しくないのだ。  しかしこれであっさりクラスに溶け込んでしまったりすると俺は今まで何をやってきたのだという話になるので、隣の席のリカちゃんに「おはよう、今日もキレイだね」と言ってみる。冷ややかな視線が返ってきた。  住之江にあまり近づくのも怯えられそうでためらわれる。嫌われるのならともかく怖がられるのは本意ではない。気がつけばため息が出ていた。 「あら珍しい。ヘンタイにも悩みがあるの?」  振り返るとすぐそばに夏夜ちゃんの顔があった。背中側から俺の首に手を回し、耳元でささやく。息づかいも重みもないものだから違和感がある。朝のホームルームが終わり、俺は喧噪にまぎれるような小声で答えた。 「あるさ。どうやったら理想の女王様に出会えるのかって、俺はいつも悩んでる」 「悪趣味。死んじゃえ」 「お褒めの言葉をありがとう。夏夜ちゃんこそ悩まなくていいの? 俺を殴ったりしてたら、そのうちカメラの悪魔に殺されちゃうよ」  どう答えるかと思ったら、夏夜ちゃんは余裕の表情を見せて「心配ないわ」とささやく。 「どっかの鎧じゃあるまいし。あんな女にやられるほど、アタシは弱くないもの。見くびらないでちょうだい」 「へえ、そうなの?」  俺は眉を上げる。鎧というのは加藤のことだろう。やはり喋れる妖怪どうし、繋がりもあるということなのだろうか。加藤がああして色々なところに遊びに行っているのなら、夏夜や住之江とも面識があってもおかしくない。 「アタシにどうしても傍にいてほしいって、一志が強ぉーく願ってるからね。その祈りはアタシの力になる。さくらが丘にいる限り、アタシは死にやしないわ……襲われたら痛いけど」  人間が何かを願えば、それは妖怪の力になる。ペットのミケと再会したいと強く願えば、妖怪はミケと飼い主を引き合わせるための力を得る。夏夜ちゃんにしても加藤にしても、そばにいてほしいと願われれば、願う者のそばにいるための力を得る。  住之江が夏夜ちゃんと一緒にいたいと願っているから、夏夜ちゃんは有坂や灯花ちゃんにはやられないだけの力を持っている。そういうことだろうか。  だがどうやら加藤を必要としている人間はいるようなのに、それでも加藤は有坂に怯えている。何が違うのだろう。 「なあ、住之江って彼女がいるだろ。それでもお前にそばにいてほしいと思ってるわけ?」 「恋人と母親と妹と夏夜への愛は全部違うし両立しうる、って一志は言ってたわ。それに一志はアタシのために犠牲を払うことを厭わないんだもの。あの三つ編みちゃんがカメラを使ってアタシ達を苦しめる能力を持ったり、転入生ちゃんが道具を使ってアタシ達を操ったり、ヘンタイの首が取れるのと一緒で、一志はアタシのために人生を捧げることができるのよ」  住之江の席に視線を向ける。机につっぷしてすやすやと眠る彼は、どうせまた授業が始まっても眠り続けるのだろう。面倒な病気を抱え込んでいるものだ。 「……って、まさか」  そんなバカな。もしそうだとしたら、頭おかしいんじゃないか、あいつ? 「あいつがいつも寝てるのは、お前のせいなのか……?」  夏夜はにやりと笑ってうなずいた。バカだ。目の前にこんなとてつもないバカがいたとは。自分の意志で選択しているのだとしたら本当に筋金入りのバカだ。あの病気さえなければあいつはもっと幸せに生きられたのではないだろうか。それでも夏夜ちゃんと一緒にいたくて、夏夜ちゃんを生かすために眠り続けているのだというのか。 「だからアタシは消えない。まあそんな妖怪、さくらが丘中を見回してもアタシくらいだけどね。人の願いを叶えるための妖怪が、願う本人を不幸せにするなんて、めったにあることじゃないから……ああ、そうか、でも」  夏夜ちゃんは俺の背中から離れて正面に回り机の上に両手をつくと、思わせぶりに俺の顔を見つめる。 「なに?」 「ねえヘンタイ、あんた自分が死んだときのこと覚えてる?」 「は?」  正直に言えば前後の記憶は吹っ飛んでいる。なんとなく森林浴でもしたい気分になって町はずれにある鎮守の森へ向かい、冬に向けてだんだん数を減らしていくアリを観察したりしながらぼーっとしていたところまでは覚えているのだが、気づいたときには泉堂さんの家でソファに寝かされているところだった。  俺が首を横に振ると夏夜ちゃんは「へえ」とおかしそうに笑った。 「じゃあいいわ」 「気になるじゃねえか、最後まで話せよ」 「イヤよ、教えてあげない。アタシが知ってるなんて気取られたくないしね」  誰に? 詳しく追及する間もなく夏夜ちゃんはひらひらと手を振って姿を消した。俺は彼女がいたあたりの空気を掴んで眉をひそめる。あのガキは何が言いたいんだ。  教室はあくまでいつもの通り。住之江が眠る理由を知ったところで何も変わりはしない。俺はクラスメイトの輪の端っこに辛うじてぶら下がっていてその位置に俺自身は満足し、灯花ちゃんは早々とクラスに溶け込んでどちらかと言えば地味な女の子達とアニメの話に興じ、隣の席のリカちゃんは見えない何かとブツブツ喋っている俺を白い目で見つめている。  リカちゃんやミキちゃんを始めとした何人かはたぶんそれなりに本気で俺に死んでほしいと思っていて、残りのうちの何人かはなにかの弾みで俺が死んだら嬉しいなと思っていて、間違いなく十何人かは俺と同じクラスになったことを嘆いている。まあどこのクラスに行ってもどうせ一人や二人問題児はいるのでそんな彼や彼女たちに逃げ場などないのだが、残念なことにこのクラスにいる不良と言えば授業中に最大ボリュームで携帯ゲーム機を遊んでしまう美人さんくらいのもので、彼女はあまり学校に出てこないのでさしあたって害もないしたぶん根はいいヤツだ。となればやはり一番鬱陶しいのは俺だろう。  ちなみに欠席の多い彼女は俺の初恋の人に似ている。その昔、雨の中で泥の付いた傘を剣のように振るって俺のみぞおちを直撃してくださった姿も俺の初恋の人に実によく似ている。たとえいくら取り巻きにむさ苦しい野郎どもが多かろうとも俺の目にはかわいい女の子しか入らないので、俺の心の中であの情景はさながら彼女と二人っきりのデートであるかのように輝いている。  まあそれくらいの縁がある女の子は学校の中だけでも何人いるか分からないくらいなのでどうでもいいのだ。それにしてもどうして女子生徒は直接的に暴力に訴えてくれる機会が少ないのだろう。  ふう、とため息が漏れて俺は驚いた。こんなステキな情景を思い浮かべているというのに俺はいったい何に嘆息しているのか。  そんなことを考えているうちにふとあることに思い至ってしまい俺はこめかみを押さえた。一時間目の授業はまったく耳に入らなかった。もちろん原因の大半はそれが数学の授業であったということにあるのだが。  灯花ちゃんは何やら時計を見ながら友達の誘いを断っていた。早々とホームルームが終わったらしい有坂が廊下からちらりと顔を覗かせる。灯花ちゃんが一瞬だけすごい形相で有坂を睨みつけたのを見て俺はこっそり興奮した。女の子というのはこうでなければいけない。できればそのエネルギーを死なない程度にこちらに向けてくれると幸いなのだが、灯花ちゃんの場合は最大出力で襲ってくるものだからさすがに恐ろしい。  とりあえず灯花ちゃんが友達と喋っているうちに俺は急いで教室を離れる。有坂が小走りに後を追ってきた。 「今日はご用事でもあるんですかね」  有坂が教室を振り返りながらつぶやく。灯花ちゃんが俺を最優先してくれるならそれはそれでとっても嬉しい。住之江がきっと夏夜ちゃんを何よりも優先するように、灯花ちゃんだって俺のために人生くらい捧げてくれたっていいじゃないか。警察さえ恐れないのならば灯花ちゃんはナイフで俺を一刺しすればいいと思う。自分で手を下そうとしないから面倒なことになるのだ。  駐輪場への道すがら、南高校のものではない制服を見かけて俺はそちらを向く。正門の門柱に寄りかかるように立っている彼女が着ているのは、襟に黒縁がついた灰色のブレザー、同色のスカートに赤いネクタイ。こげ茶の髪はセミロング。ちょっと待て、あれはもしかしなくても…… 「あ、コウちゃん!」  晴妃だ。有坂が「誰ですか?」と言いたげに俺の顔を見上げる。 「なんでお前がこんなところにいるんだ?」 「灯花ちゃんとエツコと待ち合わせ! 宏美もあとから来るよ」  つまり仲のいい面子を集めてプチ同窓会を開こうというわけだ。灯花ちゃんが時間を気にしていたのはそういうことか。どうして平日なのかと聞いたら「エツコの部活は休みが月曜だけなの」と言われた。 「そちらは?」  俺の後ろに半ば隠れるようにしていた有坂に向かって晴妃は笑いかける。 「友達だよ。有坂、これは俺の友達」  適当な説明をするとなぜか二人とも驚いたような表情で見つめ合っている。なぜだ。 「じゃあな、晴妃」  駐輪場に回ればあとはそのまま裏門から出ていくことになる。有坂は「あ、先輩、あたしもここで失礼します」と頭を下げた。一年生の駐輪場は反対側だ。灯花ちゃんが来る前にこの場を離れるべく、俺は二人に手を振って駐輪場へと急いだ。 *  先輩と別れ、あたしはまじまじとハルキさんと呼ばれたその人を見つめる。驚いているのはハルキさんも同じらしく、戸惑ったような笑みを浮かべながら「こんにちは」と言った。 「えーと……コウちゃん、じゃない、桐生くんのお友達?」  あたしは小さくうなずく。桐生先輩の下の名前は忘れたけれど、コウなんとかという名前なのだろう。先輩の様子からすると、かなり仲が良さそうだ。 「ねえ、失礼なこと訊くようだけど、コウちゃんとはどういう関係?」 「え?」  このあいだ見たお昼のドラマを思い出す。「このメスブタ!」とか「私のユウタさんを返して!」とか、そんな言葉が飛び交う難しいドラマだ。もしかしてこの人は先輩の彼女かなにかだろうか。恋人くらいいたとしてもおかしくない。先輩は変態だけどきれいで優しいし、ハルキさんのかわいいルックスは桐生先輩によく似合いそうだ。うう、ついハルキさんの胸に目が行ってしまう。  それにしても、どうしてあたしの心臓はこんなにドキドキしているんだろう。 「と、友達……です」 「あいつは部活もやってないし、バイト先で知り合ったってわけでもないでしょ? 最近、新しい人は入ってきてないもんね」 「えーと……色々あったんです」  ふうん、とハルキさんは腕組みした。そのしぐさに余裕を感じる。その口ぶりでは、アルバイトも一緒らしい。 「あの、あなたは……」 「わたし? わたしは叶野晴妃。コウちゃんとは幼稚園に入る前から一緒の幼なじみだよ」  なるほど。桐生先輩の気さくな態度の理由が分かった気がする。でもまだ、ただの幼なじみかどうかは分からない。沖浜先輩の名前を出していたのも気にかかる。あたしはできるだけの笑顔を作って軽く頭を下げた。 「あたしは有坂郁葉です。ここの一年生で、桐生先輩とはたまたま知り合ってお友達になりました」 「へえ、コウちゃんは何も言ってなかったけどな。あ、もしかして最近コウちゃんとケンカした? 十日くらい前だったかな、誰かと仲直りしたがってたみたいなんだ」 「それはあたしじゃないと思いますけど……」 「ふうん、そうか。変なこと聞いてごめんね」  それはたぶん、あたしが先輩に「生きたかったらみんなに好かれてください」と言ったときのことだろう。あんまり人に頼るようには見えなかったけど、この人に相談してたんだ。 「でも有坂さん、だいじょうぶ? コウちゃんってああいう人でしょ、一緒にいじめられたりしてない?」 「いじめられ……ですか?」 「うん」  先輩にいじめられているか、ならともかく、一緒にいじめられる? 首をかしげるあたしを見て、ハルキさんは納得したようだった。 「ないならいいんだ。まあ、もうずいぶん経つもんね、コウちゃんだっていつまでもいじめられてるわけじゃないか」 「あ、あのう」  なんだかよく分からなくなってきて、あたしはハルキさんに尋ねた。 「桐生先輩って、いじめられてたんですか……?」 「……知らなかった?」  確かに好きこのんでいじめられに行く人ではあるけど、いざそう言われてみると強い違和感がある。だっていじめても喜ぶだけで、全然いじめがいのなさそうな人なんだから。 「うーん……まあ、逆にそれがいいのかもしれないね。変なこと言ってごめん」  そんなこと言われたって困る。あたしの中で、先輩という人がどんどん分からなくなっていく。ウソつきだってことくらいは前から知ってたけど、あたしはいったい、先輩のどこを見ていたんだろう。考えたら、あの腕の傷の話だって本当かどうか分からなくなってくる。  先輩を助けられるのはあたしだけで、先輩はあたしがやっと見つけた、一緒に妖怪を見ることができる同年代の友達で、先輩はあたしに助けられることを喜んでいて、あたしが誘ったら一緒に買い物にも来てくれて。あたしは先輩のこと、けっこう知ったつもりでいた。  なのに。 「本当は悪いやつじゃないんだけど、意地っ張りなんだよね。打たれ弱いところもあるから、あたたかく見守ってあげてくれると嬉しいな」  母親みたいに言って、ハルキさんはポンとあたしの肩を叩いた。先輩と一番親しいのは自分だという自信をハッキリと感じる。実際、そうなんだろう。 「あ、灯花ちゃん!」  ハルキさんがそう言って大きく手を振った。見れば友達と一緒にやってくる沖浜先輩の姿がある。なんだかよく分からないけど、ハルキさんと沖浜先輩は知り合いらしい。沖浜先輩もあたしに気づいたようだ。 「あの、あたしここで失礼します。それでは」  ハルキさんに頭を下げ、あたしはその場から走り出した。駐輪場から自転車をひっぱり出して、正門ではなく通用門へ向かう。  息が上がっているのは、ただちょっと走ったからにすぎない。  嫉妬なんか、してない。  そもそもあの人に恋なんかしてない、しちゃダメだ。  駅前に自転車を向ければ人通りは少しずつ増えていく。立体交差になっている線路をくぐると、夕方のにぎやかな喧噪が駅前の通りを包み込んでいた。家に向かって自転車を飛ばす。  あたしは大きく頭を振った。  ダメだ。  あたしさえいなければ先輩は死ななかったかもしれないのに、そのあたしが先輩に恋したりなんか、していいはずがない。 *  疑いというものは、抱いているうちにだんだん大きくなっていくものだ。それはいつしか確信めいたものになって、俺の心の奥底に静かに溜まっていく。  俺の部屋は北東の角にあり、窓からの光は姉の部屋に比べればずっとマイルドだ。カーテンを閉めれば部屋は薄暗くなる。右手に巻いていた首と揃いの革ベルトを外し、机の上のカゴに放り込む。それからヘアピンを抜き取って、ピアスと一緒にカゴに入れた。腕時計はその隣に置く。  携帯電話も腕時計も耐水・耐衝撃のものだ。便所に沈められても壊れないすぐれもの。携帯電話のほうは途中で学校に持っていくのをやめたからどうでもいいのだが、腕時計は頑丈でよかったと何かにつけて思う。  首のチョーカーはカゴではなくベッドの枕元に置き、着替えたジャージのファスナーを顎の下まで閉める。ふと机の上の鏡が目に入った。何気なくファスナーを開け、喉の傷を鏡面に晒してみる。  まったくひどい傷だ。癒える気配がないのが厭わしい。せめて手首の傷くらいまで目立たなくなってくれればいいのに、喉の傷は血が染み出してきそうな傷口を見せたままだ。死体の首を切ったらきっとこういう感じだろう。癒えもせず出血もせず、ただそこにあるだけの傷。こんなものに比べたら体のあちこちに残るほかの傷などどうでも良くなってくる。  何かにつけて血の気の多そうなステキな連中を挑発しては殴られていたというのに残った傷はあまり多くない。アザはどれもきれいに治ってしまったし小さな切り傷はよく見ればわかるほどのものでしかなく、タバコを押しつけられた痕ですら目立つものは腕のいくつかくらいだ。手の甲にも火傷の痕はあるのだが目を凝らしてもよく分からない。  こんな傷を躍起になって隠すのはバカなことだとは分かっている。喉のシャレにならない傷を見たあとはなおさらそう思う。これくらいの傷、晒してみればそれはそれで俺の美しさを引き立ててくれるいい小道具になるかもしれない。だいたい夏に長袖なんか着るのは暑くてものすごく辛いのだ。貧乏公立高校の教室にクーラーなどあるわけがない。「見ただけで暑くなってくるからやめろ」とよく言われるのだが着ている俺がいちばん暑いに決まっている。  有坂だって知っているのかもしれないが俺は中三の夏からずっといじめられていて、まあそれはそれ以前にずっと加害者だったのがいけないのだろうから別に誰かを恨んだりはしていないが、それでも昔はそれなりに悩んだりもしていた。  ある日ふと俺を蹴っ飛ばしている女の子の美しさに、さらに言うなら蹴っ飛ばされている俺の美しさに気づいてしまってからはむしろいじめてくれと頭を下げている次第だが、どうやら今は向こうも俺を喜ばせてやる義理などないということに気づいてしまったようで大半のいじめっ子様は俺に構わない方針を貫いている。ひどいヤツになると無視すらしてくれないのだ。俺を無視しようとする相手に無理やり話しかけて鬱陶しがられるのが大好きな俺としては、それはとても悲しい反応なのである。やりすぎるとこちらがいじめているような気分になって、いや実際そういう面もきっとあるのだろうけど、とにかくやる気がなくなるのだ。  さて。  どうして俺がだらだらとこんなことを考えているかといえば、ひとつ気になって仕方ないことができてしまったからだ。 「なあハナ、いるか? プリン買ってきたぞ」  どうせ大半は俺が食べることになるプリンを床の上に置き、俺は彼女を呼んでみる。 「お呼びですか」 「ああ。これやるから、ちょっと座れ」  おとなしく座った彼女の正面に腰を下ろし、俺は右手首の傷を見せた。 「この傷のこと、覚えてるか」 「はい。昂紀さまが高校に上がる少し前のことでしたね。昂紀さまがお亡くなりになってしまうのではないかと、とても慌てたことを覚えております」  たいへんな出血でしたから、とハナは頬に手を当てた。 「あのとき、俺は落として割った皿を拾おうとして手首を切った。でもよく考えたら、ちょっと不自然だよな、その状況」 「ええ。ですから、未知子さまも自傷をお疑いになったのでしょう」  母の名前を出して彼女は言う。病院に運ばれた俺に向かって「あんたをこんな風に育てた覚えはないわ」と泣かれたことを思い出した。俺だってこんな風に育てられた覚えはない。 「たとえばそこに、妖怪の意志が加わってることはあり得る?」  たしかに気づいたときには手と食器のかけらが血でべっとり濡れていたけれど、俺は自分の意志で傷を作った記憶はない。ハナは難しい顔で考え込んだ。 「なにかお心当たりでも?」 「うん、まあね」 「妖怪の存在をご存じない方の願いでも、妖怪を動かすことはあります。どうしても殺したいと思っていた相手が、妖怪の手によって先に殺されてしまう……なんてことも、さくらが丘でなら起きるかもしれません。わたくしはこの家に災いが起こらないよう気をつけてはおりますが、昂紀さまのその手首の傷は、妖怪の手でつけられたものだという可能性はあります。『やり損ね』なければ、人間がつけた傷との区別はつきません。お皿の欠片という有力な容疑者がいるなら、なおさら疑われることはないでしょうね」  なるほど。とりあえず気になっていたことの一つはこれで片づいた。  俺はプリンを食べるハナを見つめながら、もうひとつの懸案事項について考える。  さて……どうしようか。  いろいろ考えてはみたものの優柔不断な俺は決断を下すことができず、気がつけば今日もいつものようにコンビニでレジを打っている。コンビニエンスストアのくせに二十四時間営業ではないこの店は、夜十時になるとぼちぼち閉店に向けて動き始める。都心から遠いので勤め人の帰宅時間は自然と遅くなり、シャッターを閉めるぎりぎりまで立ち寄る客もちらほらといるのだが、彼らのためだけに店を開けておくわけにもいかない。 「そういえば晴妃、昨日はどうだった?」 「楽しかったよ。いろんな話が聞けたし。灯花ちゃんのお父さんって雑誌記者なんだって。知ってる? 『アトランティス』っていうオカルト雑誌」 「雑誌は知ってるよ。でもその雑誌記者が、なんでこんな町に戻ってきたんだ?」 「この辺りには不思議な遺跡や伝説が多いから、じっくり調べたいんだってさ。十年前もそう考えてここに住んでたんだけど、男手ひとつで灯花ちゃんを育てるのが大変で、灯花ちゃんのおばあさんの家に行ったんだって話をしてたよ」 「母親はいないのか」 「うん、昔から病気がちだったみたいでね」  それ以上は特に語らず、晴妃は強引に話題を変えた。 「ところでコウちゃん、あの有坂さんって子とはどういう関係?」 「なんだよ、いきなり……友達だよ。たまたま話が合ったんだ」 「へえ。いい子みたいだし、大切にしなよ。あんまりいじめちゃダメだよ」 「いじめてねえよ」  ふうん、と晴妃は信じていないような顔で首をかしげ、それから外の掃除に向かった。だいたいお前がどうして有坂について知っているんだ。あのあと立ち話でもしたのだろうかと考えながら俺は晴妃の背中をぼんやりと見送る。  いつまでも流されていてはいけない。動くなら早い方がいいだろう。  灯花ちゃんが思いつめたような顔で俺の元にやってきたのは翌日の放課後だった。 「ねえ、ちょっと来てほしいんだけど」 「どこまで? デートコースは詳しいよ、俺」 「神社の森」  このあたりで神社と言えばだいたい上山町の神社を指し、そこにある森と言えば鎮守の森だと決まっている。俺が死んでいたあの森だ。 「いいよ」  俺がとびきりのスマイルで答えると灯花ちゃんは「そう言うと思った」と答え俺を手招きすると歩き出す。俺はカバンを担いで後を追い、ちらりと教室を振り返った。窓からさし込む光の中で女の子たちがきゃあきゃあとお喋りをしてサッカー部のお調子者がそれに加わり昨日のドラマの話題で盛り上がる、いつも通りの平和な日常だ。  灯花ちゃんは早足に歩くが身長差があるのでそれほど引き離されはしない。押し黙る灯花ちゃんは内に秘めた怒りのようなものをオーラにして纏っているようでなかなかキュートだ。 「学校で殺したんじゃ証拠隠滅が大変だって、やっと気がついた?」 「うるさい」  まっすぐ正面を睨みつけながら歩く灯花ちゃんをからかうように俺は声をかけてみる。何事もまず形から入ってみることが重要だと思うし自分にできることをやってみるのは大切なことだと思うので、俺を殺す勇気もないくせにあんな物騒なものを振り回して遊んでいた灯花ちゃんにはよく頑張ったねと声をかけてあげたいものだ。 「なんで逃げないの」 「色々あってね」 「死にたいの?」 「最初から言ってるじゃないか、俺は灯花ちゃんに殺されるなら本望だって」  正面を向いたまま灯花ちゃんは歩き続ける。隣を歩く俺を見まいと努力しているのがまたかわいらしい。  灯花ちゃんが躍起になって俺を殺そうとする原因は色々考えられるのだが、俺の心の中ではひとつの仮説ができあがりつつある。と言ってもそれは「こうだったら納得できるなあ」という程度の妄想であって正しくなかろうと別に構わない。  人気がないという意味では河川敷もおすすめだがここは鎮守の森へ行った方がいいだろう。あそこから始まったものはあそこで終わらせるのが美しい。 「ねえ灯花ちゃん」  今度は俺が尋ねる。 「どういう心境の変化? なんでいきなりマジになってるの?」 「私は最初からずっと本気よ」 「ご冗談を」 「……住之江くんに見られたのは本当にまずかった」  灯花ちゃんはまるで俺が聞き逃すことを期待するようにつぶやいた。黙っていることへの罪悪感と喋ってしまうことへのためらいの間で彼女なりに迷った結果だろう。俺はいつでも寛容な男なので灯花ちゃんの話をいつまでも待ってあげるつもりだ。 「いつ誰にバレるか分からない。もしバレたりしたら世界中がめちゃくちゃになっちゃうわ。妖怪はいつまでもオカルト雑誌だけをにぎわしていればいいのよ。生きてちゃいけない」  俺と灯花ちゃんは並んで自転車を引っ張り出した。鎮守の森まではすぐだ。 「よく分かる」  灯花ちゃんが不思議そうな顔でこちらを見た。  それからしばしの沈黙があって俺と灯花ちゃんは自転車をこぎ、石段の下に自転車を置いて歩き出した。 「あら、そっちに行くの?」  石段から脇道に入り込んだ俺に灯花ちゃんが声をかける。 「境内にいると気分が悪くなるんだ」 「なるほど。ここの神様、自分以外の妖怪が嫌いだものね」 「そうなの?」  灯花ちゃんはうなずく。 「だからあなたのような、不完全な存在には厳しい場所なのよ」  俺は逃げるように獣道を上った。倒木がベンチ代わりになる、心安らぐ森の中。カタをつけるにはいい場所に違いない。  ここはいい場所だ。近くに人家もないから他人に見られる心配もない。まともな逃げ道は俺が上ってきた獣道だけで、その他の場所から下りようとすれば急斜面に足をとられる。俺が足を痛めたのもこの場所だった。中学三年生の夏、ちょっとした誤解から高校生の怖いお兄さんたちにこの森に連れてこられた俺は必死に逃げようとして斜面で足を滑らせ、脱臼した足で歩こうとしたりその足をバットでぶん殴られたり脳内麻薬がドバドバ出たのか気持ちよくなったりしていたら気がつけば左足首は全治六ヶ月の大怪我になっていた。実にステキな思い出だ。「私にもやらせて!」とかなんとか言いながら嬉々として金属バットをぶん回していた彼女は今ごろ何をしているのだろう。  俺は名残を惜しむように空を見上げた。木々の合間から見える空はよく晴れている。夕暮れまでにはまだ少し時間がある。 「殺したくないなら、わざわざ殺さなくたっていいのに」  手にしたナイフを見つめて震える灯花ちゃんに俺は笑いかける。灯花ちゃんは憎々しげに俺を見た。 「うるさい。私がやらなくちゃいけないのよ」 「どうして?」 「元はと言えば私のせいだもの。私があんな子を作らなければ良かったのよ」  まさか実際の子供などではないだろう。灯花ちゃんが指すのはきっと妖怪だ。 「確認してもいい? 俺はどうせ死ぬんだから、話してくれたっていいよな」  灯花ちゃんは震えながらうなずいた。 「そいつを生んだのは十年以上前だな。それから灯花ちゃんは、そいつを置いて引っ越した」 「知ってるの……?」 「いや、推測だ。ただ、そうでもしないと灯花ちゃんの行動に納得がいかない」  人を殺せるような危ない妖怪を有坂が放っておくとは思えない。あれだけ仕事熱心な女の子だ。加藤やハナの言葉が確かなら賢い妖怪はたいてい有坂に怯えている。夏夜は例外だが彼女はさくらが丘に同類はいないと言い張っているから、ほとんど全ての妖怪は有坂によって倒されうるはずだ。  それでもなお有坂が俺にくっついてくる理由を考えると、もしかして有坂はまだ俺を殺した犯人を消せていないのではないかという気がする。  さらに灯花ちゃんの口ぶりから、彼女は俺を殺した犯人を知っているということが想像できるではないか。  そして今、適当にかけたカマは大当たりした。俺としては「全然違うわよ、バカ」と灯花ちゃんが笑ったりして勢いを取り戻してくれることを期待していたのに。  灯花ちゃんはぐっと眉根を寄せ、俺が憎くてたまらないとでも言いたげな美しい表情で吐き捨てる。 「そうよ。まだ生きてると思わなかったし、まさか人殺しなんかしてると思わなかった。だからこそ私は――」 「放せーっ!」  灯花ちゃんの声にかぶさるように、遠くから女の子の声が聞こえてきた。あれはもしかして有坂か?  灯花ちゃんも言葉を切ってその声に耳をすます。石段を駆け上がる足音。一つではない。「きゃあ」という叫び声と「行かせるか!」という男の声。聞き覚えがあるその声が気になって石段のほうをうかがえば、木々の隙間からもつれあう人影が見える。 「誰か来て! この人チカンです!」 「違う!」  灯花ちゃんがほっとしたように笑う。有坂を捕まえようとしている男、もとい住之江は運動不足だろうが文化系だろうが男には違いない。  住之江は有坂の口を塞いだらしく声はくぐもったうめき声になる。 「邪魔が入らないうちに終わらせましょうか。私は、私が生んだ子のためにあなたを殺して、すべての懸念を消すの」 「……あれはなんだ?」 「ただの部外者よ」  住之江の腕から逃れた有坂が獣道を駆け上がり右手のコンパクトカメラを構え、そのシャッターが切られるより早く住之江が後ろから有坂にタックルした。倒れた有坂のカメラを掴み住之江はそれを遠くへ放り投げる。  俺はただその光景を見つめていた。驚いて体がついてこない。固めていたはずの決意もどこかへ吹っ飛ぶ。 「殺させるもんか!」  敬語さえ忘れて有坂が叫んだ。住之江は有坂の背中に膝を乗せ、頭を掴んで彼女の頬を地面に押しつけている。 「何やってんだ、お前」 「夏夜を守るためなら、おれはなんでもすると決めている」  なるほど、夏夜ちゃんを脅すなとは言ったが住之江自身を脅すなとは誰も言っていない。灯花ちゃんが住之江を脅して味方にすることは十分に可能だしそもそも味方にするなら妖怪より人間の方がずっと便利だ。夏夜ちゃんは消されこそしないかもしれないが苦しめられることはあるようだし、それすら嫌がるほどに住之江が夏夜ちゃんを愛しているのならば脅迫は十分に成り立つはずだ。 「放せ! あたしは先輩を守るんだ! 守らなきゃいけないんだ! 先輩、逃げて!」  涙まで浮かべながら叫ぶ有坂の助言はとてもありがたかったけれど、あいにく俺には最初からそのつもりはない。仕方ないので「ありがとう」と笑ってすませた。 「有坂が俺の死体を見つけたっていうのも、偶然じゃないよね?」 「ぐ……偶然なはずないじゃないですか! あたしの家は線路の向こうですよ、こんなところ用もないのに来たりしません!」  言っていいものか一瞬だけ逡巡したあとで有坂は叫ぶ。 「妖怪を追ってたらたまたまそいつが殺した死体に行き着いたんだと思うけど、違う? 俺を殺したのが誰なのかも、有坂は知ってるんじゃない?」 「……知ってますけど、先輩の知らない人ですっ」  そうだろう、俺は彼と会ったことを有坂にはまだ言っていない。  呼べば出てくるだろうか。  あの剣で俺を殺した張本人、加藤牧雄は。  出ておいで、と強く願う。有坂のカメラは彼女から何メートルも離れた土の上で、住之江がああして有坂を押さえつけている限り拾えやしない。安全だ。 「あかんなあ」  加藤が現れても、住之江はわずかに眉を上げただけだった。灯花ちゃんは驚いたように目をみはり有坂はなぜか泣き出す。 「いつから気がついとったんや」 「昨日」  そうかあ、と加藤は頭を掻く。友人は選ぶべきだぜ、加藤。とくに思わせぶりに喋るのが好きな、口の軽い小娘には気をつけるべきだ。 「で? 灯花に頼んでわいを消してもらうんか?」 「それは後でいいし、灯花ちゃんはお前を消したりしないだろ。なにせこいつは、お前の誕生を願ったみっちゃんだろうからな」 「はは、大正解や」  有坂は土を涙で濡らし、住之江は彼女を気遣うように少しだけ力を緩めた。 「それにさあ、加藤」  森は生命の息吹で騒がしい。葉ずれの音、かすかな虫の音、木々の間にひそむ獣の気配、そしてたくさんの妖怪。遠くから聞こえる町の喧噪。 「せっかく俺の願いを叶えてくれた恩人を、みすみす殺させたりしないよ」  加藤は静かに剣を腰の鞘から引き抜く。 「思い出したんか」 「うん」  俺は今とても幸せなので、ここでハッピーエンドを迎えられるといいな、と思う。  静かに俺たちを見守ってくれる三人にも分かるように、俺はにこりと笑う。  騒がしい静寂。 「どうか殺してくれ、って」  悩ましい沈黙。 「願ったのは、俺だよな」  息苦しい一瞬。  ぴたり、と。  加藤が握る刃が、俺の喉元に突きつけられる。 「強い願いを見るとなあ、思わず叶えたくなってしまうんよ」  有坂が呼吸のやり方を忘れてしまったような顔で俺を見た。俺はとびきりの笑みで応える。  死にたくないなんて、一度も言っていない。  だいたい加藤はデュラハン、死を告げる妖精だ。俺を殺すのにこれ以上の適任もあるまい。夏夜ちゃんだってきっと俺の願いを感じたからこそ、加藤が何をしたのか気づいてしまったのだろう。 「そういうわけで、灯花ちゃん」  舞台は絶好だ、観客もいる。盛大な幕引きを行うにはうってつけの環境だ。 「心配しなくていいよ。俺はすぐに死ぬから」  一人でこっそり死んでやらないのは、せめてもの嫌がらせ。  そこの二人の存在は予想外だったけれど、まあいい。 「なあ加藤。最後にもう一度、俺の願いを叶えてくれよ」  そう言ったら、 「ふざけないでください!」  なぜか有坂に殴られた。  彼女を解放した住之江は知らん顔で傍観を決め込んでいる。有坂は小さな体をいっぱいに使って俺を殴り蹴る。土で汚れたセーラー服をはたくことすら忘れて、泣きながら俺の顔にゲンコツをくれた。涙が頬についた土を流して線を作る。 「俺はいつだって本気だよ」 「それでもダメです!」  火事場の馬鹿力のような一撃が俺のみぞおちに入る。俺をふらつかせることすらできないけれど、その必死さだけは感じられないこともない。 「だからあたしは妖怪を祓わないといけないんですよ! こんなバカなこと考える人がいるから!」  確かに俺はバカだが、それとこれとは関係ないだろう。 「お願いです」  殴り疲れた有坂は俺の学生服を掴み、土と涙でぐしゃぐしゃになった顔を俺の胸に埋めた。 「もう、置いていかないで……っ」  彼女の目には俺ではない誰か、たぶん彼女の父親かなにかが映っているのかもしれないし、置いていくもなにも俺は彼女を拾った記憶はない。  まあ、たとえそうだとしても、また最初のきっかけは打算ずくだったとしても、こうしてしがみつかれると何らかの感情を覚えざるをえない。勘弁してくれ。どうして俺のような変態になつこうとするんだ。 「郁葉、離れてくれんか」  加藤がそっと有坂に言い、有坂は「イヤだ」と首を振る。 「そこにおると、頭っから血ィ被ってまうで。今度こそやり損ねんようにするからな」 「それでもいい」  住之江が有坂のカメラを拾った。それを有坂めがけて投げてよこす。 「どうするかは、自分で選びな」  有坂がシャッターを切れば、きっと加藤は消える。彼女はそういう力を持った人間だ。  さくらが丘は願いを叶える町だが、すべてが叶うわけではない。  全員がずっと幸せになんか生きていけるわけがないのだ。  灯花ちゃんが進み出て、有坂の右手を押さえた。振りほどいてシャッターを切ろうと思えばそうできるだろう。 「桐生くんのついでにあなたを殺せば、彼の存在を脅かすものはなくなるわね」 「そこにチカンの人がいますけど」 「彼には何もできないもの」  一度やってしまうとクセになる、と加藤は言った。バイクを壊した加藤は俺の願望に耐えきれず、衝動のままに俺を斬った。もう一度くらい、きっと同じことができるだろう。  有坂を殺すことはできないかもしれない。灯花ちゃん一人の願望のために、加藤は動けるだろうか。もし動けたとしたら、それはそれ。ただ灯花ちゃんの愛情の深さに驚くまでだ。  誰も動こうとしないまま永遠のような時間が過ぎ、実際にはせいぜい十秒といったところのその沈黙の後に、郁葉は灯花ちゃんの手を振りほどいて――カメラを放り投げた。 「こんなもの、なくたって大丈夫です」  灯花ちゃんが眉を上げた。 「たとえ先輩が、妖怪を動かせるほど強く死にたがっていたとしても構いません。あたしはそれ以上に、先輩に死んでほしくないと思ってます」 「あはは、いい感じにうぬぼれてるねえ。そういう子は大好きだよ」 「茶化さないでください」 「俺はいつだって本気だよ。それがうぬぼれでなくて何だって言うんだ」 「うぬぼれじゃないです」  有坂はまっすぐ俺の目を見つめた。俺の言葉に動揺する様子すら見せない。灯花ちゃんと加藤がどんな顔をしているのか気になったが目を逸らしたら負けてしまうような気がしたので、俺はやっぱり正面から彼女の目を見つめ返す。 「そんなんじゃないです」  俺の胸ぐらを掴み有坂は言った。ネクタイがあったらきっと首が絞まっていただろう。 「これは、あたしのワガママです」  ああ。  灯花ちゃんほど美しくはないけれど、これはこれで味のあるハスキーボイス。涙と一緒に鼻水と嗚咽が彼女の声を彩っている。どこかの誰かの代わりだろうが俺自身を見てくれているのだろうが、とにかく彼女は俺の目を見ている。 「先輩がいじめられっ子だろうが死にたがりだろうが意地っ張りだろうがそんなことはどうでもいいんです! あたしは先輩と一緒にいたいんです! 先輩に今ここで死なれるのだけは絶対にイヤなんですよ! 理由なんか分かりません!」  それから有坂は振り返り、加藤めがけて叫ぶ。 「やれるもんならやってみろ!」  冗談じゃない。こんな小娘のワガママひとつで俺のこの願望が邪魔されたりするものか。沈殿して屈折して醗酵してドロドロになったこの俺の素晴らしくも美しい自殺願望がこんな女の素直な願いひとつに負けたりするものか。せっかく整えられた美しい舞台の上で最高にゴージャスな幕引きをしようとする俺の演出を打ち砕いたりさせるものか。俺はこれでいいんだ。ここで美しくくたばるのが俺にふさわしいハッピーエンド。あんなにたくさんの友達が俺に死んでほしいと思っているのだからその方がきっと公共の福祉にだって貢献している。怖いお兄さんにリンチされても同情されるどころかそれをネタにいじめられてきた俺の業の深さを舐めてもらっては困る。俺が死んだあとはきっと灯花ちゃんと住之江がなんとか死体を処理してくれるのだろう。骨になるまで焼いてくれればきっと俺は美しい。 「どうせもう、郁葉とは分かりあえんのやからな」  加藤が剣を振り上げた。住之江が助けを求めるように灯花ちゃんを見つめ、灯花ちゃんはその視線に気づいてはいるようだがヤツを助けたりはしない。 「行くで」  俺は小さくうなずいた。  加藤の剣が俺の肩から胴体を袈裟懸けに斬ろうとした瞬間、有坂が飛び上がって俺の首に手を回し、これじゃあ有坂も危ないのではないかと思った俺は咄嗟に刃を止めようと手を伸ばしたがもちろんタダで止まったりするはずもなく。  気味の悪い感触の正体を確かめるように左手を見ると、刃は俺の左手首を半ば切断したところで止まっていた。