3 カメラの悪魔とうそつきデュラハン 「十二円のお返しになります。ありがとうございました!」  晴妃の元気な声がなぜか重く感じて、俺は商品棚の陳列を直す手を止めた。 「ありがとうございましたァ」  つとめて明るく言ってみるけれど、どこか変なのではないかという疑念がぬぐえない。  あれから二日、住之江は俺の首のことについてはいっさい触れない。夏夜と呼ばれていたあの少女妖怪も姿を見せない。彼に見られたことはまだ有坂には話さずにいる。  次はない、という気がする。牛乳プリンを餌に守護霊に尋ねてみたが、やはり妖怪が見える人間は極めて珍しいそうだ。「前に住んでいた町よりは確実に多いようですが、クラスに三人はいくらなんでも多すぎます。なにかの陰謀ですか? 気に入りません」だとか。  となれば、実は晴妃も妖怪に理解があってラッキー、なんて展開はとても望めそうにない。 「いらっしゃいませー」  自動ドアが開いてチャイムが鳴った。客のピークはとうに過ぎ、晴妃はもうすぐ上がる。  棚の低い位置を整理していた俺は、立ち上がって客の顔を見た。 「……あ」 「あら、奇遇ね」  わざとやってるだろう、お前。  しれっとした顔で微笑むのは、私服姿の灯花ちゃんだった。落ち着け俺、こいつは客だ。  灯花ちゃんはおつまみとジュース、調理パンをカゴに入れてレジへ向かう。途中で「地元産の商品」コーナーにちらりと目をやり、売れ残っている古い絵本を懐かしげに撫でた。この店が酒屋だった頃からあるコーナーだ。あの絵本は小さい頃に読みでもしたのだろう。 「コウちゃん、知り合い?」  レジ奥に引っ込んでいた晴妃が戻ってきて、灯花ちゃんを見る。灯花ちゃんのほうは晴妃の胸元につけた「かのう」のネームプレートに目をやって、うん、とうなずいた。 「晴妃ちゃん、久しぶり! 沖浜灯花です」  え? 「あーっ!」  どうして晴妃がカウンターから出てきて、灯花ちゃんに抱きついているのだろう。 「なんで? いつからこっちにいるの?」 「先週こっちに引っ越してきたの。今はそっちの桐生くんと同じクラスなのよ。よろしくね」  きょとんとしている俺に、晴妃はテンションも高く説明してくれる。 「なんで教えてくれなかったの? 小学校で同じクラスだったんだよ! いきなり引っ越しちゃって寂しかったぁ。いやー、すっかりキレイになっちゃって!」  そういえば灯花ちゃんは昔この町に住んでいたと言っていた。となればこの辺りの小学校は二つしかない以上、俺と同じ学校だったとしてもちっともおかしくない。だいたい児童数は俺がいた学校のほうが多いのだ。  それにしてもそんなことは聞いていない。なんだか灯花ちゃんが一気に身近に見えてくる。 「だいじょうぶ? このバカが迷惑かけてない?」 「ええ、仲良くしてもらってるわ」  晴妃が目を丸くする。失礼な。俺はたしかに灯花ちゃんと仲良くしている。灯花ちゃんがこんなに俺だけのことを見てくれているのだから間違いない。放課後には毎日のようにじゃれあって、二人きりでいるところをクラスメイトに目撃までされているんだぞ。 「そう、ならいいんだ。ねえ、良かったらちょっと待ってて! わたしもうすぐ上がるから、ちょっと話さない? 灯花ちゃん、家はどっち?」 「桜ヶ丘団地に戻ってきたわ。棟は変わったけどね」 「じゃあ、途中まで一緒に行こう! 急いで支度するよ。コウちゃん、あとよろしく!」  晴妃の家は俺と同じ二丁目にあるから、ここからは歩いて七、八分ほど下ることになる。 「ああ。任せとけ」  さっさと灯花ちゃんに出ていってほしくて、俺はひらひらと手を振った。  ……はずなのに。  いつになくバタバタと帰り支度をする晴妃に話を聞いた店長がよけいな気を回し、「桐生くんも今日はもう帰っていいよ」と言ってくださった。店長の腰が心配な俺は断ろうと思ったのに遠慮していると思われてしまったようで、半ば追い出されるように店を出てきてしまったのだが、いったい俺にどうしろと言うのだろう。 「間に合ってよかった。金曜日なら晴妃ちゃんがあのコンビニにいるって聞いて探してたの」 「わざわざ来てくれたの? ありがとう!」 「うん、引っ越しが多くて住所録もどこかに行っちゃったし、他に連絡の方法がなくて」  きゃあきゃあとやかましい二人を横目に、俺は原付のハンドルを握り直す。ポプラ並木の下り坂は原付を押して歩くには向いていない。 「みんな元気かな」 「うん。エツコは南高校だからもう会ったかな? 田中くんが今、モヒカン頭にして番長の子分やってるよ。あ、番長ってひとつ上の加賀先輩って人なんだけど、分かる? あの、飼育小屋のニワトリを逃がしちゃった……」 「ああ! 覚えてるわ」  空を見上げれば、空の半ばを覆う雲のあいだからちらほらと星が見えている。夜の空気が肌寒い。吐く息はまだ白くはならない。どこからかカレーの臭いがする。 「加賀先輩も南高だっけ?」 「ああ、三年にいる。廊下を走ってると因縁つけてくるから、廊下は静かに右側を歩けよ」 「本当?」 「さあね」  のべつまくなしに喋り続ける晴妃、いつになく饒舌に見える灯花ちゃん、たまに話を振られて答える俺。  担任だった鈴木先生が結婚したと聞いて灯花ちゃんは目を輝かせ、俺は先生から聞いた新婚旅行の話をしてやる。知らなかったあ、と目を輝かせる灯花ちゃんはまるで普通のクラスメイトでしかなく、ナイフを振り回して俺を殺しに来る彼女とは別人のようだった。  ミキちゃんと灯花ちゃんが喋っている時には考えもしなかったけれど、こうしてみると灯花ちゃんは明るくて礼儀正しい女の子だ。優しい、というミキちゃんの評価もうなずける。  俺と晴妃はさらに駅前の交差点まで歩き、そこで灯花ちゃんと別れた。去りぎわに携帯電話のアドレスを交換した晴妃は、俺の隣でだらだらと長いメールを打っている。灯花ちゃんが小学一年生で引っ越してからの十年間を、すべて語り尽くそうとする勢いだ。  俺は少しだけ店長に感謝して、それからそんなことを考えた自分に驚いた。  土曜日の夕方、コンビニでよく労働してきた俺はいつものようにベッドにもぐり込む。寝転がって携帯電話をいじりながら夕飯までだらだらと過ごすのだ。俺の携帯電話はもっぱらウェブ閲覧に使われていて、ずいぶん長いこと電話として使われたことはない。 「まだお天道様は出とるで、少年」  茶化すような関西弁。もういちいち驚いたりはしない。ベッドの縁に腰掛けた人影には視線すらやらずに俺は答える。 「やあ加藤。なんの用だ?」 「用事がなくても遊びに来たい日はあるんや。構ってくれ」 「有坂のところにでも行けばいいだろ」 「まあ……そうも行かんのや。人には色々事情があるんやで、なあハナちゃん」  誰を呼んだのかと思ったら、加藤のそばにするりと現れたのは我が家の守護霊だ。そういえば俺は彼女に名前を聞いていなかった。花柄の着物だからハナ、とでもいうところだろうか。 「知りませんよ、牧雄さんと一緒になさらないでください。少なくともわたくしは、昂紀さまにお話しできないことなどいたしません」  顎を引いて胸を張るようにしながら腕組みをする、その仕草はどこか母に似ているような気がする。長年そばで見ていると仕草も似てくるものだろうか。思わず眉を寄せる。俺は世界中のどんな女性にだって罵ってもらえれば嬉しいが、ただ一人、母だけは例外なのだ。そんなことを口にするとマザコンだと言われてしまいそうだが、こればかりは仕方ない。 「カタいなあ。まあええわ、元気にしとるか?」 「見たら分かるだろ。まだ生きてるよ。お前こそどうなんだ」 「心配してくれるんか? 嬉しいなあ」  へらへらと笑う加藤とはやはり相性が悪いと思う。こっちが笑っているのがバカバカしくなってくる。俺と会話している他の連中もそんなことを思っているのかもしれない。 「心配ですよ。世の中には怖いものが沢山あるのですから、よくご注意なさいませ」  俺の代わりにハナが大真面目な顔で答える。腰をかがめ、加藤の顔をのぞき込むようにして「本当に!」と念を押した。 「妖怪にも怖いものなんかあるのか」 「ございます。なんでも線路の向こうにはカメラを持った悪魔が住んでいて、少しでも人間に手を出した妖怪のもとに現れては、塵も残さず祓って回るそうですよ。恐ろしいことです」  自分の肩を抱くようにして彼女は身を震わせた。前に言っていた「『やり損ねる』と祓われてしまう」というのもその話と関係しているのかもしれない。  ところで俺はひとつ思い出したことがある。有坂がいつもこそこそとカバンの中に入れて持ち歩き、俺を助けるときに使っているものがあったはずだ。見間違いという可能性もほんの少し残されているが、あれはどう見てもカメラだろう。  ……さて。 「聞いた話では、いじめられっ子を助けるためにいじめっ子を傷つけた妖怪さえも、問答無用で祓ってしまったとか。傷つけたと言っても、ただ強く叩いたくらいのことだという話で、殺したなんてことはないんですよ」 「この町では有名な話やな」  うんうん、と加藤はうなずく。 「それから怖いのは、妖怪使いに操られた妖怪さえも消してしまうということですね。いくらわたくしたちにその気はなくとも、強い妖怪使いにはなかなか逆らえないものです。そんな無慈悲な悪魔がいるとなれば、わたくしも怖くて仕方ございません……わたくしは末永くこの家をお守りしたいのです」  ハナは不安げにそう言って、寝ころぶ俺の髪を撫でた。  俺の頭の中で有坂がふわっと笑い、少し困ったような顔で「もう大丈夫です」と言った。加藤は知らん顔で壁のポスターを眺めている。ビジュアル系ロックバンドのボーカルが叫んでいる構図だ。頭の中の有坂がカッと目を見開き、マイクを勢いよく掴んで「今日は特売日なんですよ! くそったれ!」とシャウトする。ああ、なんて似合わないのだろう。  俺はウェブへの接続を切ってメール作成画面を呼び出した。有坂の番号とアドレスは以前教えてもらったからきちんと入っている。本名をそのままローマ字にしたなんのひねりもないアドレスだ。特に理由もなく宛先にそのアドレスを指定し、それから何を打とうか考える。  自分が何をしているかくらい有坂だって分かっているだろうが、天然らしいところがあるからひょっとするとあまり深く考えていないのかもしれない。気にしているのは確かだが、それが彼女の行動を変えるわけではなさそうだ。考えても有坂と悪魔という言葉はどうしても頭の中でつながらず、どちらかと言えば神様という言葉のほうが彼女を適切に表現している気がして、俺は説明を求めるかのように「元気?」とどうでもいい文章を打つ。 「なあ加藤」  確認したくないけれど確認のために、俺は尋ねてみる。 「でもその悪魔はかわいい子で、お前と友達になってくれたりするんだよな」  顔を上げると加藤はいつの間にか鎧の姿に戻っていた。表情はうかがえない。 「やってらんねえな」 「ホンマにな」  ハナが不審げな表情を浮かべたが俺はなんでもないと首を振る。 「今度またプリン買ってきてあげるよ。新商品が出てるんだ、プリンの上に生クリームとブルーベリーソースがかかったやつ。けっこう合うらしい」  上体を起こして笑ってみせる。 「俺だって末永く君と一緒にいたい」 「ありがたき幸せです。紗希さまがお嫁に行かれるまで、わたくしは絶対に昂紀さまをお守りいたします」  姉の名前が出たところでふと思い出した。ハナが着ているこの着物はたしかタンスの中にある母の着物と同じだ。そうだ、この前の成人式で姉が着ていた。すると彼女はあの着物の精なのか。そうだとすれば母と仕草が似るのもうなずける。そして彼女は姉と共に嫁ぎ、今度はその家の守護霊となるのだろう。俺が彼女と共に過ごせる日はあんがい短いのかもしれない。 「よろしくね。……じゃあな加藤、俺はちょっと用事を思い出したよ」  愛の告白のようなその言葉が今さらになって恥ずかしくなって、俺は打ちかけのメールを放り出すと冷蔵庫を漁りに部屋を出た。  せっかくの日曜日に俺はこんなところで何をしているのだろう。さくらが丘から二駅先にあるショッピングセンターを歩きながら俺は前を行く有坂を眺める。今いる服屋はどれも驚くほどの安値で品質もだいたい値段相応。それにしても五百円以下のシャツがこんなにあるとは思わなかった。一着くらい買っていってもいいかもしれない。 「すいません、つき合わせちゃって」  三階建てのショッピングセンターを最大限に活用すべく有坂はきっちり計画を練っていた。人手として自分の妹を考えていたらしい有坂だが、俺がたまたま明日は暇だという旨のメールを送ってしまったがためにターゲットを俺に切り替えたらしい。「やっぱり男の人は持てる量が違いますね!」とさわやかに言われてはどうしようもない。そこでついでのように有坂の父親がずいぶん昔に死んでいることを聞かされて俺はちょっと反応に困った。 「あたしに妖怪が見えるのって、父からの遺伝みたいなんですよね。妹はほとんど見えないから、家の中で妖怪と話せるのはあたしだけなんです」  そんな話を聞いて、妖怪が見えるというのが遺伝的性質であることを俺は初めて知った。  服屋で目的のものを見つけたらしい有坂は腕時計で時間を確かめ、俺をベンチまで案内してからスニーカーの靴ひもを確かめた。 「先輩はここで待っていてください。すぐ戻ってきます!」  どうせ俺はお一人様いくつの商品を確保するために必要な頭数でしかなく、アグレッシブに走っていく有坂を見ながらベンチでティッシュペーパーとキャベツとネギの番をする他にやることもない。  ベンチで伸びをして周囲を見回した。この町には妖怪がいない。どこかにいるのかもしれないが出てこない。さくらが丘では右を向いても左を向いても妖怪がいるような有様だが、おそらくあちらのほうが異常なのだ。なるほど、たしかにさくらが丘はおかしな町だ。  境界線はどこにあるのだろう。北東側を考えれば、駅の向こう、団地のあたりにはまだ妖怪がいる。では南東側はどうだろうか。この町へ抜ける山道の途中まではちらほらと妖怪を見かけたが、たしか市境を越えたあたりにはもうそれらしき存在はなかった。  そんなことをぼんやりと考えているうちに冬服を買い込んだ有坂が駆け戻ってきて「なかなかいい買い物でした」と言いながら俺の隣に荷物の山を築く。家からここまでは線路と並行する道路でたった五キロの道のりだが、これだけの荷物を積んで走るのは面倒くさそうだ。 「あ、そうだ! 忘れずにカメラのフィルムも買わないと。行きましょう」  両腕を最大限に活用して有坂はたくさんの紙袋を抱え、俺は余った袋を担ぐ。デジカメ全盛のご時世にフィルムとはレトロな、と考えたところでふと気がついた。そのフィルムは何を撮るために使うんだ?  これまでは値札を睨みながら一円でも安く買い物をしようとしていた有坂だが、フィルムだけは安いほうから二番目のものを数えもせずにカゴに放り込む。両腕にそれだけの買い物袋を提げたり抱えたりした上で、よくまあ両手を開けて買い物ができるものだ。 「そんなに撮るの?」 「いえ、お祓いするのに使うんです。強い妖怪だと、一回撮っただけでフィルムがダメになっちゃうんですよ」  カメラの悪魔はあどけなく笑う。短い三つ編みがぴょこんと揺れた。思わず抱きしめたい衝動にかられたが普通の女の子はそんなことをすると激怒しながら殴ってくるので、互いに両手が塞がっている今はやめておくことにする。いや有坂の場合は慌てるだけで怒りはしないかもしれないが、彼女が右手に提げている大根で殴られたりしたら本気で痛そうだ。 「お祓いって、よくやってるの?」 「そうですねー。放っておくと、さくらが丘はひどいことになっちゃいますから」 「ひどいこと?」 「妖怪を放っておくと、色々なことがあるんですよ。あたしがもっと頑張っていれば、先輩だって死なずにすんだんです」  有坂はそう言うとさっさとレジへ向かってしまった。俺は大荷物を抱えてレジを迂回し、その向こうで有坂を待つ。  彼女がさくらが丘にあふれる妖怪を祓わなければ妖怪は人の願いをどんどん叶え、結果としてたくさんの人が傷つく、と言いたいのだろうか。  性善説論者に見える有坂の口からそんな言葉が出たことが、俺には少し意外だった。持っていた紙袋のひとつにフィルムを詰め込みながら有坂がやって来る。俺は歩調を合わせてゆっくり歩きながら会話を続けた。 「それじゃあさ、西町のほうでたまに変質者に子供が殴られるっていうのも、あれはもしかして……?」 「普通の人間の仕業かもしれませんし、妖怪の仕業かもしれません。でも妖怪の仕業だとすれば、あたしが頑張れば止められるんです。妖怪がおかしな事件を起こして不思議がられたりするなんてことも、ちゃんと防がないといけません。悪い妖怪をどんどん祓うのが、あたしの仕事です」  もしかして彼女は、灯花ちゃんとほとんど同じ理由で動いているのだろうか。悪い妖怪から町を守る、正義の味方。  頭の中のリストを参照するように視線を天井にやり、それから有坂は小さくうなずいた。 「これで買い物完了です。先輩、どこか行くところありますか?」 「いや、別に。もう用がないなら、さっさと帰ろう」  CDショップに行きたい気持ちもあるが、この大荷物がやる気を奪う。 「はい!」  自転車置き場はショッピングセンターの敷地の端にあってずいぶん歩くことになった。どうせ有坂は自転車だろうと踏んで自転車で来たのだが、この荷物を積んで山を越えると考えただけでやる気がなくなる。あれ以上の坂道を通って毎日山奥の学校へ向かう晴妃などはまったく尊敬に値する。 「なあ有坂」  ペダルが重い。昔なら荷台に縛り付けられる程度の荷物ではここまでの苦労はなかったはずなのだが、やはり筋肉は使わなければ衰えるものだ。 「悪い妖怪って、どうやって見分けるんだ?」 「悪いことをしたら悪い妖怪です」 「悪いことって?」 「人を傷つけたり叩いたり、人間に必要以上に干渉したり」  すると夏夜などはとうに祓われていてもおかしくない気がする。殴られた話を有坂にしてみたい気もするが、あれを祓ったら住之江が怒り出しそうだ。 「その妖怪が友達だったとしても、祓うの?」 「……仕方ないじゃないですか」  有坂がぐんとスピードを上げて俺を引き離す。俺も負けじとペダルを踏み込んだ。車輪の直径が大きい分だけ俺の方が有利だ。 「俺は悪い妖怪じゃないの?」 「なに言ってるんですか。先輩は人間ですよ」 「でも死んでる」 「今は生きてます。それで十分でしょう」 「そうかな?」 「そうですよ。家族もいて友達もいて、心配してくれる人だっている。消えたって誰も困りやしない妖怪とは、わけが違うんです」  有坂はむっとするように眉根を寄せ、それから坂の上を睨みつけた。道路が大きく右へ湾曲し、左手にバス停が見えてくる。目の前にある斎場のためだけに作られたバス停を抜ければほどなくして道は下り坂になり、次のバス停はもう市境を越えた先、さくらが丘の外れだ。 「……べつにあたし、妖怪が嫌いってわけじゃないんですよ」  とってつけたように有坂がつぶやいた。 「本当に、嫌いなんかじゃないんです。本当です」  俺にというよりは自分に言い聞かせるようにそう言って、有坂は最後の一歩を踏み込んだ。ここから先はゆるやかな下り。ペダルもずっと軽くなる。 「妖怪が嫌いだと、なにか不都合でもあるの?」 「知りません!」  考えることすら拒否するように叫ぶと有坂はさらにペダルを踏み込んだ。どんな不都合があるのかなあと考えながら俺はのんびりとその後を追う。有坂は俺との距離が開いたことに気づきわずかに減速した。後ろのカゴから飛び出したネギが風に揺れる。荷台に取り付けるタイプのあのカゴはなかなか便利そうだ。 「ねえ、先輩」  斎場から少し行ったところには病院がある。こんないかにもという場所にすら妖怪がいないのだからかえって不気味だ。有坂は病院の入口を少し過ぎたところで一旦自転車を停め、俺が追いつくのを待って走り始めた。たまにここを抜け道にするトラックが通るので、車道にはみ出して走る有坂は危なっかしい。 「何か起こったとき、どうして自分だけがこんな目に、って思ったこと、ありませんか」 「ないよ。俺に降りかかるすべてのアクシデントも幸運も、俺の美しさに引き寄せられるものに決まってるからね」  病院のそばにあった林が切れ、その向こうに線路が見える。線路は地形に合わせて左に曲がり、やがてさくらが丘駅に達するはずだ。 「先輩は美しかったから、妖怪に殺されたって言うんですか」 「ああ。他にどんな理由が考えられる?」  空はよく晴れていたが西の方には黒っぽい雲も見える。いずれ一雨くるかもそれない。とは言えこの分なら家に帰るまでに降り出すということはない。この荷物を担いで有坂の家に行ったところで十分な時間がある。 「あたしは、神様って意地悪だと思ってます」  俺の質問には答えず、有坂はため息と共にそう言った。 「妖怪を祓う力なんて、あたしじゃなくて、別の人が持ってれば良かったんですよ」 「いいじゃないか、大抵のものはないよりあった方がいい」 「だって……あたしのせいで」  言いかけたそのとき背後からエンジン音が聞こえてきた。有坂はスピードを上げて俺の正面に割り込むように自転車をこぐ。路側帯には一台分の幅しかない。左へ曲がったはずみにハンドルに引っかけていた紙袋が大きく揺れた。その中身がスポークに挟まりでもしたのか妙な音が聞こえ、あ、と思う間もなくバランスを崩して有坂の自転車は転倒した。  俺は急ブレーキをかけたが間に合わず、有坂の自転車の後輪を突き飛ばすような形でなんとか止まった。トラックが一台なにごともなかったかのように通過していく。右側に転んだのではなくて幸いだ。俺はスタンドを立てると見事にすっ転んでいる有坂の元に駆け寄った。 「大丈夫か」 「痛たた……ちょっとすりむいただけです」  それより、と有坂は散らばった買い物袋を確認し、真っ先にタマゴの入った袋を開けた。 「す、すごい! 割れてないですよ先輩!」 「そりゃ良かった。それにしても見事な転びっぷりだったな。神様の悪口なんか言うからバチが当たったんじゃねえの?」 「う……」  真剣に反省されるとむしろこっちが困るのだが、とにかく有坂は神妙な顔で買い物袋を拾い集めはじめた。紙袋のひとつが口を開けてひっくり返り、フィルムの箱が散らばっている。見れば前方を流れる水路に浮かんだフィルムがひとつ、張り出した小枝に引っかかって揺れていた。有坂もそれに気づいたらしい。俺は左の袖をまくり、右手でそばの木を掴んで水路端に下りると小さな箱に手を伸ばした。紙箱はふやけているがどうせ中のフィルムはケースの中だ。よほど運が悪くなければ無事だろう。 *  なんでこんなタイミングの悪いところに川があるんだろう、と思っているうちに桐生先輩はさっさと動いていた。川縁の若木を掴んで体を支え、袖をまくった左手をフィルムの箱に伸ばす。防水らしい腕時計はつけたままだ。  そんなことをしたらせっかくの服が汚れてしまいそうで、あたしはハラハラしながらその様子を見守っていた。とにかく先輩の服ときたら、飾りのベルトや紐が多すぎて大変なのだ。シンプルな黒に見えるジャケットはよく見れば布と同じ色でドクロが大きくプリントされていて、光の加減で浮かび上がるようになっている。ウォレットチェーンについた飾りは地面に擦れて土がついているけれど、岸に戻った先輩はまだそれに気づく様子がない。太ももと脛のあたりにぐるぐるとベルトが巻き付けられたジーンズには、日本語に訳したらとても口にできない英語がどぎついピンクでびっしりとプリントされている。悪趣味と紙一重のその格好は、それでもなんとか似合ってしまっていた。かっこいい人は何を着ても似合う、ということなのか、本当にうまい組み合わせなのか、そのあたりはあたしにはよく分からない。 「落ちたのは一個だけかな……あっても流れちまってるか」  レシートを確認すれば数は分かるんだろうけど、なんとなくこれで全部だろうという気がする。そんなことより、ぶつけた肘と膝が痛くてあたしはちょっと泣きそうだ。自転車で転ぶなんて何年ぶりだろう。それも、こんな何もないところで。 「まあいいや。片づけとけよ」  桐生先輩は濡れた手で箱を差し出す。どこに入れて帰ろう、と考えながらあたしはふと先輩の腕を見た。夏でも長袖のハデなシャツで歩き回り、体育の時間ですら断固としてジャージを脱ごうとしない先輩だけに、肌は男の人とは思えないほど白い。だからといって生白いわけではなくきちんと筋肉がついていて、触ったらそれなりに固そうだ。  ところで、その腕にぽつりぽつりと落ちるこの小さな傷は、なんだろう?  桐生先輩はあたしがフィルムを受け取らないのを見てわずかに首をかしげ、それから自分の腕に目をやって、ああ、と納得したようにつぶやいた。 「タバコで焼いた」  先輩は腕の火傷を指さし、あたしの疑問に先回りで答えた。その数は一つ二つではない。  もしかして長袖は日焼けを防ぐためなんかじゃなくて、この傷を隠すため? 「これでも昔は、触るものみな傷つけちゃってた時代があったのよ」 「その歌はちょっと古いです」 「有坂だって知ってんじゃねえか」  ふん、とバカにするように笑って先輩はジャケットの裾で水滴を拭い、何事もなかったかのように袖を直した。乾燥したオレンジの髪がふわりと揺れる。 「なんか、似合わないですね」 「だから隠してんだろ」  隠しているんだということはあっさり認めた。 「若気の至りってのは怖いんだよ。分かったらさっさと忘れな」  そう言われても困る。これはなかなか忘れられそうにない。この傷のこと、みんなは知ってるんだろうか。 「怖い?」  からかうような笑顔。そうだ。あれだけの数なんだから事故であるはずもなく、確かに根性焼きなんだろう。駅前のスーパーの駐車場や河川敷、たまに鎮守の森なんかにもたむろしているヤンキーの人たちを思い浮かべる。見かけのハデさだけなら、先輩だってあの中に置いても見劣りしない。あたしの想像の中で、先輩がタバコの煙をふうっと吐き出した。 「こ、こ、怖くなんかないですよ! ホントですよ!」  あたしが答えると先輩はなぜか噴き出し、大笑いしたいのをこらえるように肩をふるわせながら買い物袋を拾ってくれた。あたしはスタンドを立てた自転車の前と後ろに袋を積み直し、なんとかハンドルにかける袋をひとつ減らした。  それにしても、人は見かけによらないものだ。いや、先輩の場合は、やっぱり見かけ通りだったというべきだろうか。少なくとも変態なんて言葉よりは、不良の方がまだ似合う。先輩は優しすぎて、あたしにはだんだん、先輩が変態と言われる理由が分からなくなってきた。  隣を走る先輩の顔をちらりと見て、あたしは再び正面に視線を戻す。またひとつ先輩のことを知って、あたしの決意はいっそう強くなる。  あのバス停を左に曲がればもうさくらが丘の四丁目だ。道をぴょんぴょんと横切る金色の狐にはしっぽが三本。  これがあたしの住む町だ。あたしはこの町を守らなくちゃいけない。  たとえそのために、ひとり友達を失うことになろうとも。 * 「いらっしゃい……なんだ、桐生くんか」  コンビニの自動ドアをくぐると、あまりやる気のない挨拶が飛んできた。レジ裏の丸椅子に座った店長は、顔をしかめて腰を叩く。人には「もっと元気に!」とうるさいくせに自分はこれだ。もういい加減に若くないということを、この人は最近やっと自覚してきたふしがある。 「大丈夫ですか? なにか手伝います?」 「ああ、心配いらんよ」  あまり大丈夫そうには見えないので俺は目に付いた棚の陳列を直していく。店長はずいぶん長い時間この棚に手を触れていないようだ。ついでにまもなく廃棄になる弁当を処分してやろうか、それともさっさとプリンを買って帰ろうか、と考えていた俺の目にふと「地元産の商品」コーナーが飛び込んでくる。漬け物やジャムに混じって絵本が置いてあるのは、作家がこの辺りの出身だからということなのだろう。灯花ちゃんが懐かしげに見ていたことを思い出して、俺はその絵本を棚から抜き取った。  それにしてもさっきの有坂の顔は傑作だった。怖いなら怖いと素直に言えばいいのに。どのみち俺は女の子を殴ったりはしないし、まして有坂に危害を加えたりはするはずがない。俺がいじめるとしたら、それはその暴力を三十倍にして返してくれるような女の子だけだ。もっと淡々とした反応をしてくれると思っていたのであの驚きようは意外だったが、まあ根性焼きなどという文化とは対極にいるような女だから、あれくらいの態度は仕方ないのかもしれない。例によってあの話の半分はウソだが、たぶんすっかり信じているのだろう。  絵本は「みっちゃんとおばけ」という、タイトルからはさっぱり内容を想像できない代物だった。髪を二つくくりにして毛布を握ったパジャマ姿の女の子がみっちゃんだろう。寝る前には髪をほどかないとクセになってしまうと思うのだが絵本に向かってそんなことを言っても仕方ない。  水彩絵の具らしきやわらかいタッチの絵は見ているだけで心がなごむ。ページをめくると、左側にイラスト、右側に横書きの本文があらわれる。窓から見える夜空には月。みっちゃんはベッドの前に立っている。どうもみっちゃんは、夜の暗闇が怖くて眠れないらしい。  次のページで玄関のドアがノックされた。「ごめんください」という声にみっちゃんは「はあい」と応えてドアを開ける。泥棒や不審者だったらどうするんだ。そういえばみっちゃんの家族はどこへ行った。  「こんばんは」「きゃっ!」というシンプルな台詞のあとに一行。「みっちゃんの家にやってきたのは、おばけさんたちでした。」あまりの急展開に俺は驚いたがタイトルにも「おばけ」と入っている以上は仕方のない展開だろう。まず入ってきたのは狼男。ふんわりした絵柄のせいで犬にしか見えない。  「こわがらないで、みっちゃん」と狼男は言ったが初対面らしき彼はどこでみっちゃんの名前を知ったのだろう。ひょっとしてストーカーか?  一ページに多くて五行しか文章がないのですぐに読み終わりそうだ。そう思ってページをめくった俺は狼男の後ろから出てきた妖怪に驚いた。狼男に吸血鬼はわかる。おばけと言えばそのあたりだろう。  なのにどうしてその後ろに、デュラハンなんかがいるんだ?  奥付を確認すると発行は十二年前の日付だった。改めて絵本を眺めてみると、たしかに紙の焼け方は相当な年月を思わせる。  みっちゃんはおばけさんたちと仲良くなり、狼男のしっぽにリボンを結んだりコウモリになった吸血鬼を追いかけたりデュラハンに肩車されたりして遊んでいる。だからどうしてデュラハンなんだ。十二年前ならファイナルクエストの第何作かも発売されている頃だろうから、そこからインスピレーションを受けたのだろうか。  そうでなければ、と俺はもうひとつの可能性を考える。加藤は十二年前にすでにさくらが丘に住んでいて、この絵本の作者に目撃されていたというのはどうだろう。  今度加藤に会ったら聞いてみようと思いながら俺は絵本を閉じた。最後のページはみっちゃんがベッドですやすやと眠っている絵だ。「みっちゃんはもうこわくありません。くらやみのなかにはおばけさんたちがいて、いつもみっちゃんをみまもってくれているのです。」そんな文章で絵本は終わっていた。 「どうした、怖い顔で」  プリンと絵本をレジに持っていくと店長がそんなことを言ったので俺は「なんでもないですよ」と明るく答える。そんなつもりはなかったのだがよほど妙な顔をしていたらしい。 「読むのか?」 「はい」  怪訝そうな顔をしながら店長は絵本をプリンと一緒に袋に入れる。絵本というのは意外に高いものなのだと会計のときにやっと気がついた。  部屋に戻るとなぜか加藤が待ちかまえていた。 「よう来たな! まあ座って、ゆっくりしていけや」 「ここが誰の部屋だと思ってんだ」 「コウちゃんの部屋」 「次にコウちゃんって呼んでみろ、灯花ちゃんを呼んで祓ってやるぞ」 「了見の狭いやっちゃな」  有坂の名前を出さなかったのはせめてもの気遣いだ。加藤はつまらなそうな様子でベッドに横になる。布団はへこみもしない。 「どけよ」 「ええやん、まだスペースはいくらでも開いとるで」 「ハナならともかく、お前と添い寝なんか死んでもごめんだ」  ベッドの枕元に腰掛け、犬を追い払うようにしっしっと手を振ったが加藤は動じない。 「どいてもええけど、その代わりに頼みがあんねん」 「頼み?」 「ああ。大したこっちゃないはずや、人間様にはな」  加藤が起きあがってボールのように頭を放り投げると、鎧が消えて若い男の顔が現れる。ふと見れば、剣だったものは黄色いメガホンになっていた。腰にメガホンを差した加藤は頭を首の上に据え、行くで、と言って部屋を出ていく。断って添い寝されるのも嫌なので、俺はあくびをしながら加藤の後を追った。  なんとなく徒歩で来てしまったが目的地は意外に遠く、気がつけばさくらが丘のはずれ、畑がまばらに広がるところへ来ていた。 「こっちや、こっち」  手招きする加藤の足元から何かが聞こえる。単調なリズムではあるけれど、たまに途切れるかすかな鳴き声。 「……ネコ?」 「ああ」  見れば排水溝のフタが一枚開き、その中で三毛猫が助けを求めるように鳴いていた。出ればいいのに、と思ってしゃがんでみると、どうやらたっぷりした体が狭い溝にぴたりとはまって出られないようだ。 「頼みって、もしかしてこれ?」 「ああ。助けたってくれや」 「これくらいお前にもできるだろ」 「そういうワケにはいかんねん、頼むわ」  そばのフタを外して十分なスペースを確保してから、両袖をまくって右手首のバングルを外しポケットに突っ込む。水の中に手を入れるのは今日だけで二度目だ。今日はきっと水難の相でも出ているのだろう。  さっきはまだ左手だけで済んだから助かった。右手首の内側にある白っぽい縫合痕は見せるとたいていの人間に哀れむような蔑むような視線を向けられる。それ自体は別に構わないのだが別にわざわざ手首を切ったわけではなくたまたま落として割った食器で切っただけなので、下手に同情されたり事情を詮索されたりするのはとても不本意だ。腕の火傷だって別に好きこのんで作ったわけではない。こんな満身創痍の俺の喉にさらに派手な傷を残すなんてどこぞの妖怪もひどいことをする。だがこの理不尽を神様のせいになどしてはやらない。悪いのは全て俺の美しさなのだ。そうに決まっている。  暴れていたネコは俺が無理やり引っ張り出すとぶるっと体を震わせる。水滴が思いきり飛んできた。俺のことなど歯牙にもかけないつもりか。さすがはネコだ、素晴らしい。  恩人に感謝する気配もなく悠然と歩き出すネコの首には赤い首輪が巻かれていた。 「これでサチコも安心やな」 「誰だよそれ」 「飼い主に決まっとるやろ。ずっとミケを探しとったんやで」  俺も誰かかわいい女の子に飼われたい、とかなんとか考えながら歩いていると向こうから小学生くらいの女の子が走ってきて、ミケを器用に抱き上げるとどこかへ駆けていった。あれがサチコだろう。 「妖怪ってのは、人の願いを叶えようとする生き物……ってわけか」 「強い願いには惹かれてしまうんや。これでも自分でやってしまわんよう我慢したんやで。この前はつい自分が抑えきれんで、暴走バイクのタイヤをパンクさせてもうた」  穏やかでない話だが、夜中に駆け回る暴走族が鬱陶しいのは確かだ。最近はバイクではなくスクーターで暴走する志の低い野郎も多い。あれはそのうち自転車や三輪車になるのではないだろうか。 「事故になっただろ」 「ならんよ、停まっとったバイクやもん」  でもなあ、と加藤は笑った。 「そこで折悪しく、郁葉に見つかってしもてな。判定はアウトやった。一度やってまうとクセになるんよ、それをあいつもよう分かっとんねん」  もう一ヶ月近く前の話や、と加藤は肩をすくめた。表情をうかがおうとしてじっと見つめると、加藤はあっと言う間にまた鎧をまとう。 「あちらを立てればこちらが立たん。十年間もうまいことやってきたのに、これでもうお尋ね者や。そのうち郁葉に祓われて消えてまう、はかない命なんよ」 「さくらが丘を出ればいいんじゃないか?」 「嫌や」  俺の家へ向かう道を歩き出しながら、加藤は大きくのびをした。 「まだ、わいを必要としとるもんがおるからな」 「『みっちゃんとおばけ』の出版は十二年前だったな。当時のガキはもういい年だぞ」  顔だけを鎧から出して、加藤は不思議そうな顔で首をかしげた。 「知っとんのか、あの本」 「ああ。あのデュラハンのモデルはお前か?」 「逆や、逆。わいのモデルがあのデュラハン。みっちゃんがそばにいてほしいと願ってくれたから、わいはこの世に生まれたんよ」  暗闇が怖いみっちゃんは、さくらが丘じゅうにおるからな、と加藤はつけ加えた。 「せっかく生んでもろた命やから、大切にしたいんやけどな」  ふと胸の奥が騒いで、俺は視線を逸らした。どうしてこんなヤツの言葉のために俺は動揺しているのだろう。どうだっていいはずだ。有坂が言うとおり妖怪は妖怪で、だからこいつがいなくなって悲しむ人間の数なんてたかが知れている。こいつがいなくなったとき、そのことを知りうる人間の数なんてほんのわずかでしかない。 「そうは思わへんか、コウちゃん?」  コウちゃんって呼ぶな。  俺は答えられずに黙って歩調を早めた。