2 愛のかたちは人の数だけあるんだよ 「おはよう住之江。あと、いろいろと俺が悪かった。ごめんなさい」  月曜日の朝、とりあえず目についたのでクラスメイトの住之江一志に話しかけてみると、ヤツは眠そうな顔と声で「何を企んでるんだ」とだけ言ってまた机につっぷした。いつも不機嫌そうな顔をしている割には根はいいヤツだと評判なので適当に謝ってみればなんとかなるかと思ったが、やはりそんなことはなかった。  病気だとかなんとか言っていた気がするがとにかく午前中の住之江はひたすら眠っている。体育の時間ですらうっかりすると寝ているくらいだ。夜更かしがたたっているわけではなくただ単に寝ても寝ても寝たりないらしい。  昼休みごろ、目を覚ましてからまた来よう。そう思って踵を返しかけた俺はふと足を止めた。住之江の体に隠れるようにしてこちらを見つめる目がある。教室にあふれる黒い学生服と濃紺のセーラー服に埋もれてしまいそうな、黒衣の子供がひとり。  全身を黒と赤で統一した少女は見たところ十歳くらいだ。大量のフリルがあしらわれたゴシックロリータ調のワンピースに、くるくると巻いた背中までの黒髪。じっと見つめていると、彼女は「しっしっ」と犬を追い払うように手を振った。 「一志に近寄るな、ヘンタイ!」  反射的に唇が笑みを浮かべる。それが気に入らなかったのか少女は住之江の蔭から飛び出すと俺に頭突きをくれた。スカッとすり抜けていくそれは妖怪ならではの感触。彼女が妖怪でなければいい頭突きだっただろう。惜しいことをした。 「ムダだよ妖怪。なにせ俺のほうがお前より美しい」 「意味わかんない! もう、あんたなんか、あんたなんかこうしてやるんだからっ」  世の中には喋る妖怪が思ったよりもたくさん棲息しているのかもしれない。そんなことを考えながら彼女を見つめていた俺は腹に重い一撃をくらってたたらを踏んだ。何もないところでふらついて机にぶつかった俺にクラスメイトたちは気味悪そうな視線を向け、それからすぐに興味を失ったように視線を逸らした。まあそこで「だいじょうぶ?」なんて声をかけられたらかえって不気味だ。 「だいじょうぶ?」  あれ。  振り返ってみるとそこには腕組みをした灯花ちゃんが立っていておかしそうに笑っていた。ゴスロリ娘は灯花ちゃんと目が合って「うわ」とつぶやき、パッとその場から消え失せる。あの一瞬で灯花ちゃんが妖怪に向ける悪意を感じ取ったのかそれとも単に自分の姿が見えることに驚いたのか、その辺りは本人に聞いてみないと分からない。 「気をつけなさい。妖怪はその気になれば生身の人間に触れられるわ。私の妖怪だって、ちゃんとあなたを殺せるんだから」  すれ違いざまにささやいて灯花ちゃんは行ってしまう。沖浜さーん、と彼女を呼ぶのはクラスの中でも地味なグループの女子だ。聞き耳を立てれば、声をひそめることすらなく「あいつとは関わらない方がいいよ」とかなんとか言っている。前に彼女が描いている漫画を見てヘタクソとか時間のムダだとか言ったのがいけなかったのだろうか。あのときは怒ってくれるかと思ったら泣かれてしまって複雑な思いをしたものだ。そんなに読まれるのがイヤなら作った漫研の部誌を教室に置かなければいいのにと思う。ところで皆に好かれなければならないということはあの軍勢にも謝る必要があるのか。俺はわりと正直な感想を言っただけなのでなんだか釈然としないものがある。  チャイムが鳴ったので俺は席に座って頬杖をついた。そうか、今まで灯花ちゃんが起こすあの耳鳴りや頭痛や吐き気ばかりを警戒していたけれど、いつも有坂はぜんぜん違うところを見て、ぜんぜん違うところにカメラを向けていた気がする。有坂のカメラには妖怪を祓うとかいう力があるようなことを十七日前に聞いたような気もしないでもない。あの時の俺はこっそり動転していたので何を言われたのかあまり覚えていないのだ。  まあとにかく、すると灯花ちゃんは妖怪を使って俺を殴るなり刺すなりして殺すつもりなのか。明日で灯花ちゃんがやってきて一週間になるのに俺はようやくそんなことを理解した。どうも頭のどこかが未だに妖怪とかなんとかいう話を拒絶している気がする。俺が今いちばんの当事者だというのに。  ああ、面倒くさい。俺はこういうややこしい話が嫌いなのだ。  だいたい住之江にあんな美少女がくっついているなんてずるい。生徒会副会長である彼は風紀委員長の恋人で、その風紀委員長がまた冷ややかな目で俺を見下してくれるとびきりステキな女の子なのだ。片方俺によこせ。  ヤツの敵といったら生活指導教諭くらいのものだ。それも度を過ぎた遅刻と居眠りのために目をつけられているにすぎない。放課後は図書室か生徒会室で過ごし寄り道もせずにまっすぐ帰る品行方正な生徒だ。友達も多い。寝ている住之江にサボってんじゃねえよなどと声をかけるとなぜか本人ではなく周囲が怒る。ああ考えれば考えるほど腹が立ってくる。なんであんな生き物が存在しているんだ。  そんな現実逃避をしているうちに昼休みになった。俺はあくびをしている住之江の元に向かう。ぐずぐずしているとこいつの愛する彼女がやって来てややこしいことになりそうだ。 「何の用だ」  いきなりそれはないだろう。 「さっきも言ったとおり、お前に謝ろうと思って来た」  住之江が苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。ちょっと待て、まだ俺は何もしていないだろうに。 「どういう風の吹き回しだ」 「……星占いで、メガネの野郎と仲直りすると吉って言われた」  適当にウソをつくと住之江は納得したようだった。単純なヤツめ。 「じゃあ断る」 「そこをなんとかお願いします。ホントにもう何も言いませんから」  懐疑的な視線。思わず笑いたくなるがなんとかこらえる。コンビニでも頭を下げるときにはつい笑いたくなってしまうものだがそれをやると客が本気で怒ったりするので侮れない。 「なあ桐生」  複雑な表情で頭を抱え、住之江はしぼり出すように言った。 「しばらく考えさせてくれ」  え、なにこれ。脈あり?  逆にびっくりしている俺を前に住之江は弁当箱を持って立ち上がった。今日はこちらから彼女のもとに向かうらしい。珍しいな。  ぼんやりと後ろ姿を見送っていると彼の後ろにふわりとゴスロリ娘が現れ、俺に向かって舌を出して消えた。  金曜日に俺に逃げられた灯花ちゃんはあれで学習したらしい。黒板を爪で引っかく音を無理やり聞かされているような寒気がし始めたのはまだ帰りのホームルームも終わらないうちだった。サッといなくなっていくクラスメイトたちを横目に、俺は机の天板に頬をつけてグロッキー。いくらステキな女の子にいじめられてるのだと分かっていても喜んでいる余裕がない。ああ本当にやめて! これはやめて!   この寒気は周囲の誰にも影響がないのだと思うとなんだか悔しい。俺と灯花ちゃんだけが別の世界に住んでいるようだ。喉の引っかかるような感覚をこらえて息をする。呼吸だけでこれだけ苦労するなんて一昨年の夏に近所の川で溺れかけて以来だ。  ところで気がつけば俺と灯花ちゃんは教室の中で二人きりになっていた。教室というのはこんなにすぐに空っぽになるものだっただろうか。もし皆が俺を避けていったなんていう理由だったならばそれはそれで嬉しいので、とりあえずそう思うことにした。 「まったく、気持ち悪い町ね」  透明な声でそう言いながら、灯花ちゃんはガラス窓を閉めた。一体いつから開いていたのだろう。こんな寒いときに窓が開いていれば、早々と帰ろうという気にもなるかもしれない。 「こいつらがこんなに思い通りに動いてくれるなんて、かえって不気味だわ」  俺は重い頭を上げて教室じゅうを見回した。灯花ちゃんがささげるように両手で支えているのは、昼下がりの番組でカーテンの色をあれこれ言うおっさんが持っているような風水盤だ。見れば黒板の前にはふわふわした塊。ロッカーのそばに紫色のネコ。窓際の椅子に留まっているインコも妖怪か。 「おまけに死人は生き返る。どうしてこんな町ができたのか知らないけど、これ以上おかしなことにはなってほしくないわね」  俺は頭を押さえながら立ち上がった。余裕を見せてやるべく笑う。ところで彼女は何を言っているのだろう。 「この町が、どうしたって?」 「ふつう、死体っていうのは生き返らないものなのよ」  そんなこと俺だって知っている。 「あなたみたいな死に損ないだって、そのまま死んでしまうのが当たり前。それをこんな形で生き返らせるなんて、この町が持ってる不思議な力がなくちゃ不可能よ」 「不思議な力……って」 「さくらが丘は、妖怪の力がとくに強い町。そもそも私がこの町に引っ越してきたのも、父がそこに目をつけたから。昔からおかしな町だと思っていたけど」  昔から……ああ、そうだ。灯花ちゃんは十年ぶりにこの町に戻ってきたとかなんとか言っていた。 「こうやって妖怪が見えるような人間が集まってくるものだから、ますますおかしな町になっていくのね。妖怪は事件を呼び、事件は妖怪を呼ぶんだわ。まったくひどい町。あなたはこのあたりの生まれ?」 「ああ。母親の腹ん中にいるときからさくらが丘の住人だ」 「だからそんな奇妙な状態で生きていられるのかしらね。おかしな町で育てば、人間のほうもおかしくなるものなのかもしれない」  ガツッ、と後頭部に何かが当たった。続けてもう一発。俺はよろけて机をひとつひっくり返しながら膝をつく。  さくらが丘がどんな町だろうが俺の知ったことではない。灯花ちゃんの言葉は俺の脳みそに入れず上滑りしていく。 「これはアタリね。すごく調子がいいわ」  風水盤を見ながら灯花ちゃんは勝ち誇ったように笑う。振り返ると紫色のネコがすまし顔で歩いていった。灯花ちゃんの上履きが俺の背中を蹴りつける。勢いよく倒れた俺は椅子の足で額をぶつけた。ちくしょう、俺の美しい顔に傷がついたらどうしてくれる。いや、まあ、それはそれでなかなか素晴らしい話だが。 「だいじょうぶよ。死んだらちゃんと焼いてあげるから、安心して死になさい」 「焼く? なんで」 「あなたの首の傷を他人に見られるわけにはいかない。妖怪のことを都合良く隠蔽してくれるような便利な組織は存在しないから、病院に見せたら不審がられてしまうわ」  なに! 秘密組織はないのか! ドラマではサングラスをかけた怪しい黒服なんかがこっそり動き回ったり、主人公が働くラーメン屋の店主がいきなり裏の顔を見せたり、そういうロマンがあるものではないか。灯花ちゃんの言うようにさくらが丘が異常な町であるならば、せめて病院と警察とマスコミくらいは秘密組織に協力していなければならないはずだ。なんてこった!  俺がショックを受けていたその時、遠くからこの教室へと近づいてくる足音が聞こえて俺と灯花ちゃんは思わず顔を見合わせた。殺したい女と殺されそうな男の間柄だというのに俺たちの間には奇妙な連帯感のようなものが生まれ、とりあえず灯花ちゃんは風水盤を片づけようとカバンを探し俺は首のチョーカーがきちんと巻かれていることを改めて確認する。  コンコン、と扉をノックする音。灯花ちゃんはカバンに風水盤を突っ込んでいる。頭の中にあったもやが晴れるように気分が楽になった。 「はいはい」  あれ、これ逃げ出すチャンスなんじゃないの? とか思いながら俺は鍵を開けるついでに自分のカバンをひっつかんで教室から飛び出した。扉の前で不景気なツラをしたメガネ野郎とぶつかりそうになる。 「あ……悪い、もしかして取り込み中だったか?」 「いや、全然! じゃあな!」  俺は笑顔で言って走り去る。まあ今だけは仕方ないから救世主と呼んでやろうじゃないか住之江一志。よくぞ偶然通りかかってくれた。  ……偶然、だよな。  その住之江は、友達ではない人間の秘密は守らない主義の男だった。翌日の昼までにはすっかり桐生昂紀と沖浜灯花の密会はクラス中の知るところとなっていて、灯花ちゃんには友達がみんなで俺の悪行を語り聞かせ、俺には「灯花ちゃんが優しいからってつけ込もうとしてるのね、サイテー!」という彼女たちの文句が飛んできた。灯花ちゃんがあれで優しいというなら有坂なんかきっと神様に違いない。  正直なところ住之江がそういうヤツだとは思っていなかったのでこの展開には驚いた。しかしさらに驚いたのはその後だ。 「ああそうだ、昨日の話だけど」  どの話だ。何にせよ住之江がまるで友達のように話しかけてきて俺は腰を抜かしかけたのだが、驚くべきことというのは続くものである。 「今朝の星占いでな、てんびん座のラッキーパーソンは『髪を明るく染めている人』だったんだ。というわけだから、記念に過去のことは水に流してやる」  なにこれ、ドッキリカメラ?  重度の遅刻魔である住之江が朝の星占いなんか見ているわけがないと気が付いたのは五分くらい後のことだった。いちいち面倒くさい喋り方をする野郎だ。言いたいことがあるなら素直にバシッと言ったらどうなんだ。もっとも俺が他人のことを言えるわけもないのだがそれはそれ。  俺が足りない頭でヤツの豹変の理由について悩んでいるとそこに神様もとい有坂がやって来た。  できればもう少し後にしてほしかった。たとえば、今ものすごいケンカ腰で俺を取り囲んでいる女の子たちがいなくなったころとか。 *  二年B組の教室は、いつもと少し違う感じがした。あたしが前の扉からそっと中をうかがうと、いつもはサッと立ち上がってやってくる桐生先輩が、なんとクラスの人と喋っていた。当たり前じゃないか、なんて言ってもらいたくはない。この二週間、あたしは何度も先輩の教室を訪れているけど、桐生先輩が沖浜先輩以外の人と話しているのを見るのは、じつはこれが初めてだった。  桐生先輩はいつものようにへらへら笑っていたけど、でも相手の人たちはなにか怒っているようだった。 「とにかく、もう灯花ちゃんに近づかないで!」 「あはは、それは約束できないや」 「近づいたら殴るからね! 本当に!」 「ミキちゃんに殴ってもらえるなら、むしろ俺は嬉しいな」  ああ、この人はやっぱり誰にでもこんな調子なのか。あたしが壁に隠れるように――なんで隠れてるのか自分でも分からないけど――観察していると、ミキさんと呼ばれた先輩はスカートを翻して桐生先輩が座っていた椅子を蹴飛ばした。うわあ。  でも高校二年生の男の人ひとりが乗った椅子は、そうカンタンには倒れない。椅子はバランスを崩すことすらなく、桐生先輩はミキ先輩をバカにするように笑い、ミキ先輩は悔しそうに「死ね!」と桐生先輩に言った。  ああ。そりゃあ、死ぬはずだ。  妖怪は人々の願いを叶える。意識してようとしてなかろうと、妖怪が見えようと見えなかろうと、彼らはおかまいなしだ。ここが普通の町なら、そんな願いはすぐに埋もれてしまうはずなんだけど、この町は違う。さくらが丘はおかしな町だ。願いの力はよどんで溜まり、ときどき思い出したように噴き出して、人間には起こせないようなことをする。理由なんか知らないけど、きっとちょっとした偶然かなにかだろう。  とくに線路のこっち側にあるニュータウンなんかは、すごい勢いで高齢化が進んでいって、子供もあんまり見かけない。その先の見えない雰囲気なんかも、少しは影響しているかもしれない。きっと世の中は微妙なバランスで成り立っていて、この町はそれがちょっと崩れてしまった場所なのだ。  格好よく言ってみるなら、さくらが丘は願うだけで奇跡が起きる町だ。  あたしはじっと桐生先輩を見つめる。沖浜先輩も桐生先輩に死ねと言っていた。ミキ先輩はきっと本当に死んでほしいわけじゃなくて、ただ桐生先輩のことがウザったくて仕方ないってだけだろうけど、でも死ねって言えちゃうくらいには、桐生先輩のことが嫌いなんだ。  どうしてあんなことを言われているのか知らないけど、なんとなく桐生先輩の雰囲気には似合った光景だと思った。あれだけハデな変人が教室の中で黙ってるなんて、その方がずっと気持ち悪い。 「誰かに用事?」  二年の先輩に声をかけられ、あたしはうなずいて「桐生先輩に」と答えた。眠そうな顔をしていた男の先輩はびっくりしたように目を見開いて、それから桐生先輩を呼んでくれた。  ところで、なんだか視線が痛いのだけれど、これは一体どういうことなんだろう。あたしも一緒に変人扱いされているとしたら、それはちょっとイヤ、かなあ。 「あ……あのスイマセン先輩、昨日ちょっと新町のスーパーでタイムセールがあって、ついうっかりこっちに来るの忘れてて……だいじょうぶでしたか?」  やましいことなんか何もないけどなぜか小声であたしは尋ねる。桐生先輩は笑って「まあ大した問題はないよ」と言った。大した問題じゃない問題はありそうに見える。 「いやあ、しかし俺もモテモテで困っちゃうよな。あんまり格好いいもんだから、俺を転入生に近づけたくないんだとさ。まったく灯花ちゃんは愛されてるね、まあ俺も灯花ちゃんを愛してるけど」  あたしがバカだからだろうか。先輩の言葉のどこまでがウソなのか、あたしにはぜんぜん分からない。 「先輩の愛してるは、なんか間違ってます」 「愛のかたちは人の数だけあるんだよ、俺は間違っちゃいない。ところで、用事はそれだけ?」  あたしはうなずいた。もともと用事なんかあってないようなものだ。でも桐生先輩は、放っておいたら本当に沖浜先輩に殺されてしまいそうな気がするので、あたしがこうして二年B組を訪ねるのはきっと生存確認のためなんだろう。もしかすると、他にもなにかあるかもしれない。 「でも、またあとで来ます」 「今日はバイトだから早く帰りたいんだよね。有坂が助けに来てくれると助かるよ」  この人は、やっぱり何かが抜けている。 「それから」 「ん?」  桐生先輩は相変わらずの笑顔で首をかしげた。 「……あ、なんでもないです」  言おうとしたら急にバカバカしくなって、あたしは続きの言葉を飲み込んだ。  ちゃんと、生きててくださいね。  そんなこと、口に出したら笑われちゃうかもしれない。だからあたしは心の中でこっそり祈った。桐生先輩を殺さないでくださいって、沖浜先輩が操っているらしい妖怪に向かって、心からお祈りした。  なにせさくらが丘は、願えば奇跡が起きる町なんだから。 *  あのあと有坂がかわいい紫のネコを消すのを見て俺はちょっとした罪悪感を覚えたけれど、それは有坂自身の方がずっと強く感じていたようだから黙っておくことにした。俺は女の子を怒らせるのが大好きだが悲しませるのはあまり好きではなく、また有坂は晴妃と似て、彼女自身の行動をからかっても怒ってはくれないのだと俺は学習していた。いや、怒りはするのだがその怒りを俺に向けてくれないと言うべきか。他人を叱ることはできるのに自分のために怒ることはできない、理解できるようなできないような存在だ。  そのあとはいつものようにバイト先へ出かけたが、いつも鬱陶しくて仕方ない晴妃が心のオアシスに見えたのだから俺はよほど疲れていたらしい。何気なく首に巻いたチョーカーに手をやって、この仕草が癖になりつつあるという事実に気づき俺は苦笑した。  火曜日の夜は何事もなく過ぎていく。俺はベッドにひっくり返りダンベルを片手に白い天井を見つめた。美しいプロポーションを維持するためには、この体内の筋肉をみすみす脂肪に変えるわけにはいかない。元運動部だった俺の体は、自分で言うのも何だがそれなりに鍛えられている。逆に言えば気を抜くとただのデブになってしまうということだ。俺は今でこそインドア派だがかつては立派なスポーツ少年だったのだ。中学三年の夏に怪我で足首を痛めなければ俺は高校でも運動部に入っていただろう。  ここのところ俺の周りには急な変化が多すぎて、正直なところ置いてけぼりを食らっている気分だ。二年前の夏に病院で「先生、八月の大会に助っ人で出ることになってるんですけど」「無理に決まってるじゃないか、キミ。そんなことよりリハビリを頑張りなさい、ここでサボると歩けなくなるよ」なんて会話を交わしたあの頃以来のひどい混乱だ。ちなみにチームは一回戦でボロ負けしたし俺が助っ人に入っていたとしてもやはり一回戦でボロ負けしただろう。足は速いが致命的にコントロールが悪かった俺でもあっさりレギュラーになれるような小さな部だった。ちなみに野球は打っても投げてもボールがあさっての方向に飛んでいくせいで六年間レギュラーとは無縁だったので、中学校ではわざわざ人の少ないハンドボール部を選んだのだからこれは仕方ない。それでも球技にこだわったのは好きだったからだ。俺には他になにもないのではないかと思えるほど好きだったからだ。もっとも辞めてみたら人生には他にもたくさん楽しいことがあるということが分かったので、それはそれでいいと思っている。具体的に言えばステキな女王様を捜すことが俺の当面の趣味だ。  それにしても俺がいったい何をしたというんですか神様。これは美しすぎる俺に対する神の挑戦ですか。そういうことなら受けて立つ覚悟はありますが来るなら俺の美に値するだけの本気で来やがれ。そして俺を正面からこてんぱんにぶちのめしてくれるといい。  ふと思い立って、俺は天井を眺めたまま口を開いた。 「おーい守護霊、見てるなら出てこーい」  つぶやいてみたが特に反応はなかった。 「すいません、もし聞いてたら出てきてください」  なにかがちらりと視界の隅で動いたような気がした。俺は身を起こす。 「お力を貸していただきたいのです守護霊さま。もし出てきてくれたら冷蔵庫のプリンをさし上げますから」 「まことですか!」  かわいらしい声がした。それにしてもそんな安っぽいエサに釣られるなよ守護霊。俺は複雑な気分で目の前に現れた守護霊を見つめる。背筋をぴんと伸ばしてベッドの傍らに正座するのは、住之江の後ろにくっついていたのと同じくらいの年頃の少女だ。とは言えこちらの方が、住之江のそばにいた彼女よりもずっと素直そうに見える。長い黒髪はまっすぐに肩から背中へ流れ、白地にほのかなピンクで桜を描いた着物は隙なく着付けられている。帯は桜色だ。  ごっつう若いと加藤は言っていたが、それにしてもこれは若すぎる。まあこんな子供に責め立てられるのも楽しそうだと考えられなくもないが、やりすぎると俺がロリコン呼ばわりされてしまいそうだ。俺は年上の女性が好きなのに! 「ああ。もっと欲しいならいくらでもやるよ」  賞味期限が切れそうで気の毒なコンビニのプリンを思い浮かべながら俺はうなずいた。廃棄するのはもったいないとよく店長がこぼしている。すぐ近くに他の店がないという意味では立地は悪くないが経営は見るからに厳しく、雇ってもらっているというだけで店長に深く感謝している俺は、できるだけコンビニで買い物をすることに決めている。 「そのお気持ちが大変うれしゅうございます。ああ、昂紀さまがわたくしを呼んでくださる日が来ようとは、わたくし想像もしておりませんでした」  なのにプリンで釣るまで出てこないのか、このガキめ。だいたい食べられるのか? などと思ったけれどそんな不満や疑問は顔には出さず、俺はこちらも嬉しくてたまらないよという表情でベッドから降りて邪魔な雑誌を押しのけると床に座った。妖怪には違いないのだろうが守護霊を見下ろすのは罰当たりな気がする。 「驚かないの?」 「常識的に考えまして、それはわたくしが申し上げるべき台詞なのではないかと存じます」  そう言われても俺はこのもうすぐ三週間になろうかという新生活の中で、驚くほど大量の妖怪を見てきたのだ。加藤のような喋る妖怪は最初に見たときこそ不思議に思えたが、住之江について回るあの少女のこともあった今の俺にとっては、たかが守護霊がひとり現れたくらいで驚けというほうが無茶な要求だ。 「そうか。いや驚いたよ、こんなにかわいいと思ってなかったからね」  しかしできればもう十歳くらい年上なら良かった。きっといい女になるだろう。 「お上手ですね。わたくしも驚きました、いきなり昂紀さまがなんだかよく分からない気持ち悪い生き物になっているんですもの」 「事実だろうとなかろうと、その言いぐさはひどくないか」 「この方が昂紀さまが喜ばれると思ったのですが、違いますか?」  無邪気に首をかしげる守護霊。うわ、こいつなかなか俺のこと分かってやがる。 「牧雄さんもこの方がいいとおっしゃっていましたし」  守護霊があまり気軽に呼ぶものだから一瞬誰だか分からなかったが、すぐに思い出した。あの関西弁のデュラハンか。余計なことをと言うべきか、よくやったと言うべきか。 「まあ、どんな状態であろうとお命に別状がないのであれば幸いです。妖怪に首を吹っ飛ばされても気にしないなんて、さすがは昂紀さまです」  そこはかとなくバカにされている気がするのだが気のせいだろうか。ところで、今彼女が妙なことを言った気がして俺は身を乗り出す。 「妖怪に、って言った?」 「人間はふつう、一瞬で人間の首を切断したりはできません。先日の刑事ドラマで刑事さんがそう言っておりました」  それにしてもあの刑事さんは格好良い方でしたわ、と守護霊は頬に手をやり、ついでのようにつけ加える。 「それに、人間に殺された人間はふつう生き返りませんもの」 「え、だって灯花ちゃんが『さくらが丘は死人も生き返るおかしな町だ』って……」 「確かにそれは事実でしょう。ですが、普通に死んだ人間までもが生き返るほどにおかしければ、今ごろこの町は大変なことになっていますよ」  大真面目な顔で守護霊はそう言ったが、しかし年齢が年齢だけにあまり説得力がない。幼稚園児に「知ってる? サンタさんはね……本当は妖精の国じゃなくて、フィンランドにいるんだよ!」と言われているような、なんとも言えない微妙な気分だ。 「……妖怪は、人の願いを叶えるために動くんだっけ?」 「基本的には。おそらく、どなたかが昂紀さまの死を願ったのでしょうね。それにしたって、そんな願いを聞いてしまう妖怪のほうもどうかと思いますけれど。よほど強い願いだったのでしょうか」  守護霊は案じるように首をひねり、それからふと思い出したように手を叩いた。 「そう言えば、わたくしが協力すればプリンを頂けるというお話でしたよね。何をすればよろしいのですか?」 「いや、あの……」  俺は手短にここまでの経緯を話し、 「どうしたらいいと思う?」  と尋ねてみた。ちなみに俺がこんな答えづらい質問をされたら間違いなく「自分のケツは自分で拭け!」とかなんとか言って追い返すだろう。だが守護霊はプリンのためなのか真剣に考え込んでいる。 「その方から逃れるためにお引っ越し……は無理ですわね。この家にそんな金銭的余裕がないことはわたくしもよく存じております」  父は決して安月給ではないし母も積極的にパートに出ているが、私立大学に通う姉の学費は確実に家計を圧迫している。この家の住宅ローンはあと十三年残っているし、一人暮らしをするにしても俺の給料などとうてい自活できるだけのものではなく、守護霊の提案がなかなか難しいものであることは間違いなかった。だいたいどう言えというんだ。クラスメイトに命を狙われているから転校させてください、ってか? そこで退学して働くだけの度胸が俺にないことくらいは自分でもよく分かっているのでその考えは脇に置いておく。そんなことができたら俺はとうにこの町を出ているだろう。 「申し訳ございません。せめてこの家にお金が貯まるようにお祈りいたします」  役に立つんだか立たないんだか分からない結論を出した守護霊のために俺は冷蔵庫からプリンを取ってきた。守護霊の前にプリンとスプーンを置いてやると、彼女は手を合わせ「いただきます」と頭を下げた。 「食べられるの?」 「ええ、一応」  守護霊はプリンカップのフタの上に左手を添えた。右手に俺が持ってきたのとは別のスプーンが現れる。そのスプーンをフタの上からカップに突っ込んだ。妖怪が人間の体内をすり抜けていくようにスプーンはフタをすり抜け、その下のプリンに届く。えい、とすくい上げるとなぜかそのスプーンにはプリンが一口すくわれていて、カラメルに届いていないそれを守護霊はぱくんと口に運んだ。  おお、食べてる。  守護霊は幸せそうにプリンを味わったあとで、「おいしゅうございました」と頭を下げる。 「勝手につまみ食いをするわけにもいきませんから、ずっと憧れていたのです」  床に置かれたプリンカップのフタは未開封。けれど中のプリンは確かに一口減っていた。俺の訝しげな視線に気づいたのか、守護霊は申し訳なさそうに「すみません」と言った。 「わたくしは未熟ですので、つい『やり損ねて』しまって」 「やり損ねる?」 「本当は、きちんとフタも剥がれるはずだったのですけれど、まだまだ下手で……。妖怪はこうして人間やものに影響を与えることはできるのですが、たまにそちらの世界の法則を歪めてしまうのです。たとえば昂紀さま、首を刎ねられたという割にお洋服は汚れておりませんでしたね。血は出なかったのでしょう?」  有坂に克明な情景を聞いたわけではないが、そう言えば確かにそうかもしれない。服や体のどこにも血の汚れなどなかったが、ふつう首が飛んだら断面からは血が噴き出すだろう。 「昂紀さまを襲った妖怪も、きっと『やり損ね』たのでしょう。だから昂紀さまは死にきれず、生き返ることができたのです。先ほど『人間が殺した人間は生き返らない』と申しましたが、妖怪が上手に殺した人間もまた、生き返りはしません」  すると俺は俺を殺した何かがヘタクソだったことに感謝しなければならないのか。俺の命が意外にも綱渡りの上にあることに気づき改めて背筋が寒くなった。 「あまり『やり損ね』ると目をつけられて、お祓いされてしまいますから、気をつけないといけないんですけれどね」  誰に、とは言わなかったが、俺の脳裏には泉堂さんの顔が思い浮かんだ。俺を生き返らせた魔女。職業を聞いたらウェブデザイナーだと言っていたがあれはきっと仮の姿だ。本業は呪いや毒薬作りに違いない。  守護霊は「また何かありましたらお呼びください、その折にはぜひ牛乳プリンのご用意を」と言って消え、俺は食べかけのプリンのフタを剥がして黄色いプリンにスプーンを沈めた。ところでこれは間接キスになるだろうか?  それは翌日、水曜日の放課後に起こった。 「ねえヘンタイ」  住之江のそばにいた黒衣の少女妖怪が、俺の机に腰掛けて喋っている。 「ひとつ決闘しない?」 「はあ?」  俺はカバンに教科書を詰め込みかけた姿勢のまま固まり、我ながらマヌケな声を上げた。 「殴り合い。アタシが勝ったらあんたは一志に近寄らない。その代わり、あんたが勝ったらアタシはもう文句言わない」 「俺はお前に触れないだろ。不公平な」 「バレたか」  まさかバレないつもりだったのだろうか。頭の中身も年齢相応だとしたらそんなこともあるかもしれない。 「じゃあ決闘はナシとしてさ。あんたに話があるんだけど、ちょっとそこまで来てくれない?」 「ここじゃダメなのか」 「何もないところに向かってブツブツ喋ってる変な人って思われたいなら、好きにしなさい」 「別にいいよ、思われても」  殴られた。こちらからは手が出せないというのに卑怯だと思う。 「もうちょっと強く叩いたら、その首取れちゃうかもね」  黒衣の妖怪は笑った。それはちょっと困る。まだ教室には何人かの生徒が残っている。こんなところで俺の首が落ちたりしたらクラスメイト達はどんな反応をするだろうか。ミキちゃんを始めとして、確実に喜ぶであろう何人かの顔が思い浮かぶ。 「どうする?」  にやりと笑った少女の口元から鋭い牙が見える。ああ、こんな顔をしていてもやはり妖怪は妖怪、しょせん正体不明のバケモノだ。  俺はカバンを担いで少女の後に従った。彼女が向かう先は屋上。鍵は開いていた。建前上は常に施錠されているはずだがいつの頃からか鍵が壊れてかからなくなっている。まったく不用心な。とは言えそんなどうでもいいところにいちいち修繕費をかけないのが公立高校というものである。  空は晴天。屋上には十一月のさわやかな風が吹いていて、振り返ればさくらが丘のはずれに紅葉と緑のまだら模様になった林が見える。駅のこちら側には高い建物がないため、鎮守の森も線路も駅前のスーパーも校舎の屋上からよく見える。線路の向こうにはちらほらと四、五階建てのマンションやビルが建ち、その向こうに四階建ての団地が灰色の壁のようにそびえるのが見える。なんと平和な日常だろうと思っているうちにぐるりと視界が回り俺はコンクリートの床に突っ伏していた。 「ごめんねヘンタイ、アタシも命は惜しいのよ」  そう言って俺の視界から消えた黒衣の少女は俺の名前をヘンタイだと勘違いしているのではないだろうか。しかしまあ悪くない勘違いなので放っておこう。ところで命が惜しいとはどういう意味だ、それにどうして俺はコンクリートの上で這いつくばっているのだろう? 「いらっしゃい、桐生くん」  灯花ちゃんのクリアな声が冷たい空気を切り裂いていく。コンクリートに片頬をつけた俺の視界に入るのは上履きと紺のハイソックス。そのまま視線を上に向けたりしたら灯花ちゃんは俺を蹴飛ばしてくれるだろうか。どうせ膝上数センチのスカートの下には短パンを穿いているだろうから見たところで動じないという可能性もある。 「騙したのか」 「あら、別に騙してなんかいないわ。私がとっておきの道具を用意していたところに、たまたまあなたが来ただけよ」  見れば灯花ちゃんの上履きの向こうには、五百ミリのペットボトルほどの大きさをしたこけしのようなものが置いてある。見回せばそれがあと四つ、いま俺が倒れている場所を囲むように五角形を形作っている。怪しい。 「さあ、今日こそ本気でやるわよ」  彼女はごく普通の女の子だからそうやって悪役めいた笑いでも浮かべないと人を殺せないのだろう。ちなみに俺は人を殺すどころか殴ることもできない。特に女は。  やられてたまるか。俺は自分の髪を掴んだ。ごめんよ俺の幸薄い毛根、あとでワカメいっぱい食べてあげるからな。そんな俺の行動に応えるように怪しい鎧武者が灯花ちゃんの隣に現れて日本刀をかざす。待って、それ本当に切れちゃったりするじゃないの?  ためらう暇はない。俺は右手で髪を勢いよく引っ張り左手で顎を押した。ごろりと俺の首が取れる。それを振り払うように投げてみた。投げる先が見えないのが問題だが見えたところでどうせ真っ直ぐは飛ばない。俺の投げた球が相手の手元へ確実に届くのは五回に三回、あとの二回は少し違うところへ飛んだり全然違うところへ飛んだりするのだ。だから賭けだったのだけれど、俺の額は無事にこけしをなぎ倒した。体が楽になり俺はよっこいしょと声をかけて立ち上がる。 「させない!」  灯花ちゃんは持っていたソプラノリコーダーくらいの長さの笛を吹いた。聞くに堪えないひどい演奏だったが問題はそこではなくその内側に込められた強い力。俺はふたたび膝をつき頭を拾おうと手を伸ばすのだが、いかんせん俺の目は頭の方にあるので大変コントロールが難しい。自分の頭を探して体が右往左往する様はさぞかしバカらしく見えるだろう。なにせ俺自身が見ていてそう思う。  左右の感覚がつかめないまま試行錯誤していると右手が頭に触れ、俺はあわてて自分の頭を引き寄せる。俺は俺の肩越しに背中側を見ている格好だ。すると刀を振り上げる鎧武者の姿が見えて、とっさに数歩這い進んだが屋上のフェンスにぶつかって驚く。 「気持ち悪い。死ね」  足がたくさんある虫を見つめるような顔で灯花ちゃんは吐き捨てた。俺だってそう思う。  なんとか首をもとに戻そうとするが焦っているせいかどうしていいのか分からない。線路の向こうのマンションを見て肝が冷える思いがした。この高校の校舎は二棟が縦に並んで長い直線を作っているので、向かいの校舎から屋上が丸見えなどということはない。けれどどこに人の目があるか分からないのは少し怖かった。  それにしても俺も灯花ちゃんも興奮していたのだろう。  屋上に通じる扉が開くまで、少なくとも俺はそこにある扉の存在を忘れていた。  扉がきしむ音。 「ここは立ち入り禁止……で……」  おお。  住之江が変な悲鳴を上げながら後ずさるのを、俺は妙に冷静な気持ちで見つめていた。  それから思い出したのだがこの真下は生徒会室だ。今月下旬の生徒総会に向けて資料などを作ることもあるだろう。生徒会役員が一番忙しい時期かもしれない。  俺は昨日うちの守護霊と交わした会話を思い出した。お引っ越し、という言葉がなんとなく現実味を帯びてくる。今さらになって顔から血の気が引いてきた。どこからどこへ引いているのかは知らないが。  灯花ちゃんは泣きそうな顔で住之江の学生服を掴んでいた。なんでもないのよ、とバカのひとつ覚えのように繰り返す。俺にもそんなことしか言えない。首をなんとかあるべき場所に戻すと、口が回るに任せて俺は住之江に話しかけた。 「落ち着いて聞いてくれ住之江。実は俺、地球を侵略に来た宇宙人なんだ。この体は着ぐるみみたいなもので」 「近づくな」  住之江の返事は明瞭だった。俺は思わず言葉を切り、それからフェンスの傍まで戻って頭を抱えた。手足に力が入らず、どこかぎくしゃくした動きになる。  このままフェンスを乗り越えて飛び下りたりしても逃げられないだろうなと思いながら俺はフェンスに体重を預けた。  灯花ちゃんが俺を殺そうとする理由を、今さらながらに理解した気がする。  俺だったら、こんなバケモノと一緒に生活なんかしたくない。  認めないようにしてきたけれどやっぱりそれは事実で、「そんなこと気にしませんよ!」と笑顔で言ってくれそうな有坂のほうが間違いなく例外なのだ。  重苦しい空気を深く吸い込むと肺腑までもが重く沈み込むようで胸が苦しい。吐き出せどもその重さは胸の中にずしりと残る。絶やしてこなかったはずの笑顔が消えていることに気づいて俺は笑おうとしたけれど、どうしても上手くいかなかった。珍しいこともあるものだ。何度殴られても金を取られても携帯電話を便所に沈められても俺は笑っていられたのに。 「住之江くん……あの」 「うるさい」  ぴしゃりと言って、住之江は灯花ちゃんの手を振り払った。いつも不機嫌な男だが、今は不機嫌というより怖がっているように見える。  そしてたぶん、俺も何かを怖がっている。 「おい、桐生」  住之江は恨みがましく俺を睨む。それから迷うように視線を巡らせ、沈黙ののちに再び口を開いた。 「叫んで悪かった」  ちょっと待て。  何を言っているんだ、こいつは。  灯花ちゃんも驚いている風だった。住之江はひとつ深呼吸をして、それからしぼり出すように尋ねる。 「わざとやってるのか?」  その質問の意図が掴めず、俺は目をしばたく。さっきから普段の三倍ほどこき使われていた俺の心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻しかけていた。 「なにを」 「屋上でバタバタやって、変な笛まで吹いて。この間だってそうだ。そんなに他人に見つけてほしいのか? それともおれが狙いか?」  住之江の指摘はもっともだ。俺は困ったように灯花ちゃんを見る。どう言い訳するのが一番ましなのだろう。もっともどんなに頑張ったところでゼロ点のテストが三点になるくらいの違いしかないような気がする。むろん百点満点のテストの話である。 「わざとじゃないわ、偶然よ」 「じゃあ桐生がバカなだけか」 「なんで俺のせいになるんだよ、屋上に呼んだのも笛吹いたのも灯花ちゃんだろ」 「ん? ああ、じゃあ訂正する。沖浜さんに考えが足りなかっただけか」  どうして少し丁寧な言い方に変わっているのだろう。住之江の質問の意味もわからない。 「わざとだったとして、どうしてお前にこんなもの見せなきゃいけないんだ」  俺が首の傷を指さすと、住之江は露骨に顔をしかめながら「嫌がらせじゃないのか?」と答えた。 「いきなり桐生がおれと仲良くしようだなんて、裏があるに決まってる。どうせ、おれになら見せても大丈夫だと踏んで近づいてきたんだろ」  住之江のほうもだいぶ落ち着いてきたらしい。まるで退路だけは死守するかのように扉を背にして、俺をじろりと睨みつけた。 「違う、べつにそんなつもりじゃ……」  俺の言葉にかぶさるように笑い声が聞こえた。見ればフェンスの上に黒衣の妖怪少女が腰掛け、くすくすと笑っている。 「アタシがいるから、妖怪に理解があるだろうと思って一志に声をかけたんじゃないの? ……って、その顔は違うみたいね、それはそれでビックリだわ」  灯花ちゃんからは離れた場所で、少女は灯花ちゃんの行動をちらちらと確認しながら喋る。脅威に思っているのだろうか。 「ねえ、一志?」  少女の視線を、住之江は真っ向から見つめ返した。  ……あれ? 「危ないから出てくるなと言ったはずだ、夏夜」 「だって、おもしろいんだもん」  するとなにか。  俺がたまたま話しかけた野郎は、たまたま妖怪が見える男だったのか? 「……桐生くん、本当になにも考えてなかったの?」 「灯花ちゃんが考えてなかったのと同じくらいにはね」  バカが、と住之江が吐き捨てた。そんなことは分かっているが改めて言われると腹が立つ。俺は人を怒らせるのは好きだが怒るのは嫌いなのだ。 「なあ」  疲れ切ったような表情で、住之江はため息交じりに言う。 「説明はいらない、興味もない。でも校内では騒ぎを起こさないと約束してくれないか」 「もちろんよ」  住之江は肩をすくめた。あれは灯花ちゃんの言葉をまったく信じていない目だ。  黙ってその場を立ち去りかけた住之江は、その前に足を止めて振り返る。 「そうだ沖浜さん。もう夏夜を脅すのはやめてくれないかな、ああ見えて彼女は繊細なんだ」  恋人について語るようなその口調が腹立たしい。 「それから桐生」  俺の方には視線すら向けない。 「もし友達が欲しくなったら、とりあえず黙って人の話を聞いてみるんだな。元がこれだから難しいだろうけど、少しはマシになるだろ」 「はあ」  そもそも俺に話しかけてくる人間自体が貴重なのでそのアドバイスを生かせる自信はあまりなかったが、せっかくなのでその余計なお世話も一応覚えておくことにした。