1 放課後の教室で、かわいいあの子と二人きり 「死ねっ!」  彼女の声はキレイだ。性格やその他もろもろはさておき、俺は彼女の声が大好きだ。  その声で俺を死ねと罵倒してくださって、あまつさえそのおみ足で踏みにじって頂けているのだから、なんという幸福! なんという僥倖!  学生服越しにもはっきりと分かる上履きの感触。俺の肩胛骨の間に右足を載せて、かかとで背骨を突くように蹴る。あの長い黒髪を振り乱して彼女が叫ぶさまはどれほど美しいだろう。俺はうずくまっているので残念なことにそのお姿を拝見できないわけだが、もし携帯電話で撮らせてくれると言うなら今月のバイト代を全部さし上げてもいいくらいだ。 「へらへら笑ってんじゃないわよ、この変態!」  なんと甘美なこの時間。惜しむべき点はただ一つ。 「さっさと死ね!」  彼女が本気で俺の死を願っているということくらいじゃないだろうか。  それから彼女はしゃがみこむと冷たい手で俺の首筋に触れ、チョーカーと肌の隙間に指をねじ込んで引き上げた。息が詰まって俺は咳き込み、彼女は苛立たしげに「死ね」と繰り返しながらなおも力をこめる。新たな境地が見えかかってきた。もう少しで丘の頂上にたどり着いて、その向こうの広大な景色が俺のものになるはずだ。 「この野郎!」  いつもの口調は楚々とした大和撫子、だけれどそれは少し前まで住んでいた土地の方言を隠すためだと俺は知っている。けれどそのキレイな声で紡がれる別人のようにシンプルな罵声、それはそれで訛りの入る余地すらなく、その衝撃に俺は震える。最高!  放課後の教室でこんな美少女、いや美がつくかどうかは分からないがとにかく少女に、この美しい俺が罵倒され踏みつけられるというこの倒錯! そして彼女はいったん俺の首から手を離し自分のカバンを漁る。女の子らしくカバンに飾り付けたストラップがしゃりしゃりと鳴った。俺が身を起こす前に彼女は目的のものを見つけて振り返る。古びた紙がぺたぺたと貼り付けられた鞘入りの短刀。いやお嬢さんそれ銃刀法違反じゃないですか。封をするようにのりで貼られた紙は破られていて、彼女は優雅な仕草でその鞘を払う。  きぃん――と、耳鳴りがした。  またやってしまった。早く逃げればよかったのに、つい判断を誤ってしまった。それもこれも彼女が魅力的すぎるのがいけないんだ。あんな声であんな言葉であんな蹴りを入れられたら、そりゃあ腰砕けにもなる。だが、ええと、くそ……。  全身からどっと汗が噴き出す。また怪しい代物を持ってきたものだ。あんなもので刺されたらただではすむまい。口元を押さえる俺の肩まであるハニーゴールドの髪を掴み、彼女は再びキレイな声で叫ぶ。 「死ね!」  頼むから落ち着いて。いや積極的なコは嫌いじゃないけど、それにしたってちょっと限度というものがある。俺の毛根はただでさえ遺伝的に早死にする運命を負わされているというのに、それを引っ張ったら余計に寿命が縮む! 待って! 俺はどうなってもいい、だから毛根にだけは優しくしてあげて!  けほっ、と俺の喉から息が漏れ、同時に髪にかかる力が緩んだ。 「この妖怪男が……」  憎々しげにつぶやいて、彼女は『胴体からすっぽ抜けた俺の生首』を放り投げた。後頭部がロッカーの角に直撃。痛い痛い、ちょっと洒落にならないよ。そんな大胆なキミも大好きだけどさ。 「ったあ! 灯花ちゃん、もうちょっと優しく! 愛をこめて!」 「うるさい、死ね!」  彼女が叫んだそのとき、だしぬけにカメラのフラッシュが教室を照らし出した。 「なにやってるんですか!」  視線だけを動かして――なにせ首は回らないのだ、あいにくと生首なもので――、俺は入ってきたもう一人の少女に目をやる。息を切らしながら入ってきたみつあみの彼女は、大切そうに俺の首を抱え上げた。 「桐生先輩のバカッ。注意してって言ったのに! そんなに死にたいんですか!」 「美人に殺されるなら俺は本望だよ」 「ひどい! 最低!」  どうして彼女がそんなに腹を立てているのかはともかく、こうしてなじられるのもまた一興。二人の冷たい視線を浴びれば、俺はもういつ死んでもいい気分だ。  詳しい話はあとにするとして、俺がこんなステキな女の子たちに囲まれてそれはもう幸せに生きているのだということは、分かっていただけたと思う。  ところで。  確かに俺はこのとおり運命の女神に呪われそうなほど美しいが、べつに生まれたときから生首がごろんと体から外れる体質だったわけではない。少なくとも俺にはきちんと戸籍も家もあるし、彼女が憎む妖怪とやらの存在を知ったのも、実のところごく最近のことだ。  隙あらば俺を殺そうとするとっても積極的なあのコは、妖怪を殺すことを自分の使命だと思っている。なにせ初めて二人っきりになったときにそう言っていた。彼女は正義の味方で俺は悪の怪人というわけだ。そういうイタい青春の暴走は大好きだ。ただ残念なことに彼女の妖怪殺しの能力はそれなりに本物らしい。身をもって体験したから、それは認めよう。  そしてそんな彼女はわざわざ俺を殺すために、クラスが一緒になることまで見越して転校してきたというのだから、これはなかなかエキサイティングな話だ。十六年間生きてきて、ここまで熱烈に愛されたことはそう何度もない。しかしそれはなんとわずか三日前の話で、俺はそれまで彼女のことなど何も知りはしなかったのだ。  ついでにつけ加えるなら、俺を助けに来たほうのみつあみ女と俺が初めて出会ったのは十四日前の午後四時三十分。俺がこんな体質になったのも、まさに同じ瞬間だった。  あれは記念すべき瞬間と言っていいだろう。この俺、桐生昂紀があの有坂郁葉と初めて接触したとき、俺は首を刎ねられて死んでいたのだ。なんと運命的な出会い!  町はずれにある鎮守の森はのんびりと森林浴をするにはいい場所で、ついでにたぶん死ぬにもいい場所だ。静かで人が通らず、それでいて奥へ踏み込みやすい。黙って死んでいればそこらの野良犬やタヌキに食い散らかしてもらえるだろう。  そしてそんな場所で俺の死体を見つけたとき、彼女が真っ先にこう考えたと聞いて俺はとても嬉しくなった。曰く、 「なんてキレイな死体なんだろう!」  完璧な反応だ。  ちなみに誰が俺を殺したのかについては十四日後の今も分からないが、とりあえず心当たりはありすぎて分からないので考えるつもりもない。世の中から浴びせられる嫉妬の視線に常日頃から悩んでいる俺としては、誰が犯人だろうと、正直なところどうでもいいのだ。  ところで有坂は鎮守の森で俺の死体を見つけたあと、二番目にこう考えたそうだ。 「このままでは、あたしが殺人犯にされてしまう」  気持ちはよく分かる。第一発見者は常に第一の容疑者となるのだ。そしてこの次が、俺が有坂のことを抱きしめたいほど大好きになった理由。 「仕方ない、生き返らせよう」  このセンスが最高じゃないか!  並みの女子高生には思いつかないだろうその決断をもって、有坂は俺の死体を彼女の友人の家に運んだ。彼女の友人も俺の美しさに感動したのか、とっておきの方法で俺の蘇生に挑み、 「驚いたな。上手くいってしまった」 とおっしゃった。なんとすばらしい人だろう。感動のあまりその細っこいが女性的な体に抱きつこうとしたら殴られて、俺はまた感激に打ち震えた。  しかしながら何事も完璧にはいかないもので、俺の首は未だにつながらず、強く引っ張ると簡単に外れてしまう。とは言え欠点のひとつくらいあった方が、美しさというものはより際だつのである。俺はとりあえず満足し、首の傷痕に幅広のチョーカーを巻いて生活することにした。  俺は細かいことを気にしない主義の男だ。もちろんこの美貌にかけては一点の曇りもない状態を目指すべく努力しているが、それ以外のことについてはかなりぞんざいだと自覚している。なにせ家計簿をつけているはずなのに財布の中身はしょっちゅう減りすぎているし、このあいだは上履きに入っていた画びょうに気づかずかなり痛い思いをした。  だから、俺がどうやって生き返ったのかだとか、十四日前から俺の目に見えているこのお化けどもは何なのかだとか、神社に入ると気分が悪くなるのはなぜだとか、そんなことはわざわざ詮索しないのである。それがオトナの余裕というものだ。  かくして俺はいつもと変わらずハッピーな新生活を始めたはずだった。有坂がうるさくまとわりついてくるくらいで、特に変化もない日常だ。まあ俺も殺されるほど恨みを買ったことについては少しだけ反省して、ちょっぴり大人しくしておこうと思ってはいたのだが。  そんな俺の人生計画を軽々しく蹴飛ばしてくださったのが、三日前に転入してきた沖浜灯花ちゃんだ。最初に殴られたときのことは今でもはっきりと思い出せる。いや、それは当然か。それもたった三日前の話なのだから。 * 「その目、最高だな! もっと俺をなじってくれ、冷たい視線を浴びせてくれ!」  そう言って、桐生先輩は楽しそうに笑った。本人はハニーゴールドと言い張る、明るいオレンジの髪がふわりと揺れる。染髪のしすぎで荒れてはいるけれど、そんなところも含めて先輩によく似合っている。  自分でも言っているとおり、桐生先輩はかっこいい。くっきりした二重まぶた、整えられた眉、ニキビなんてものとは無縁そうな肌、整った顔立ち。テレビカメラにアップで映されたって平気な顔だと思う。背は高くはないけど低くもなくて、近づくと意外にしっかりした体格であることも分かる。これで変態でさえなければ、と惜しんでいる女子は少なくないんじゃないだろうか。少なくとも、あたしはそう思っている。  十四日前にあたしが先輩の死体を見つけたとき、あたしは驚いた。死体を見つけたことよりも、そのあまりの美しさに驚いた。そこは林の中で、草に埋もれて眠る先輩はまるで景色の一部みたいで、オレンジの髪と緑の草のコントラストが印象的だった。  きれいだと思ったのは錯覚ではなかった。動いて喋っていても、やっぱり先輩はきれいだ。頭の先から爪先までのすべてが、美しくあろうとする心を忘れていない。性格さえ、そう、この性格さえ治ってくれれば、先輩はきっともてるに違いない。  それはそうと、あたしは別に先輩の顔に見とれに来たわけではない。この格好いいけど致命的になにかが抜けている先輩を、助けに来たのだ。 「やめてください、沖浜先輩! 言ってるじゃないですか、桐生先輩は変なことなんかしません、殺さなくても大人しくしてますっ」 「あら、何を根拠にそんなことが言えるのかしら」  沖浜先輩はフルネームを沖浜灯花と言って、桐生先輩には灯花ちゃんと呼ばれている。あたしのことは苗字で呼ぶのに。  その沖浜先輩は天使の輪っかがきらめく長い髪をかき上げて意地悪く笑った。この人は桐生先輩によく似ている気がする。言ったら怒られるだろうけど。 「人を信じるのに、根拠が必要ですかっ」 「必要に決まってるでしょう。何言ってるの」  桐生先輩を死角から狙っていた妖怪は、あたしがさっき祓ってしまった。でも沖浜先輩はそれで困ったような様子もなく、あくまで余裕ぶった調子でそう答える。  沖浜先輩が転校してきたのは三日前のことだ。転入試験とか、そういった手続き自体はもうずっと前に終わっていたようなので、それ自体は別に桐生先輩を追ってのことではないはずだ。だって、桐生先輩が沖浜先輩の敵になったのは、わずか十四日前のことなのだから。  そう、誰かが桐生先輩を殺して、あたしたちがその先輩を生き返らせてしまったからこそ、桐生先輩は沖浜先輩の敵になったのだ。「やっぱり同じクラスになれたわね。良かった」と沖浜先輩が言ったと桐生先輩は言っていたけど、その理由はあたしにはよく分からない。  三日前、沖浜先輩が桐生先輩を呼びだしたとき、あたしはちょうど二人が見える場所に立っていた。体育館と校舎の隙間にあるコンクリートの渡り廊下。南高校はあまり部活動が盛んなほうではないから、放課後にこのあたりを通る人間は意外に少ない。あたしは桐生先輩を捜していて、たまたまそこにたどり着いてしまったのだ。 「正義の名の下に、あなたを殺す!」  沖浜先輩の第一声は確かそんな感じだった。そのあんまりな口上にあたしはちょっと感激したけど、どうやら言った沖浜先輩のほうが恥ずかしくなってしまったらしく、しばらく「そんな顔せえへんといて!」とかなんとか叫んでいた。でも沖浜先輩の関西弁を聞いたのはそれが最後だ。郷に入っては郷に従え、ということで、きっと標準語を喋ろうとがんばっているんだろう。あたしは柱の陰からその光景を見つめながら、いま出ていったら気まずいだろうなあ、と思ったのを覚えている。  桐生先輩はその口上にも動じず、にこにこしながら「どうぞ」と自分の胸を指さした。ちょっと何やってるんですか先輩、いいからそんなアブナい人とは関わり合いにならないでくださいよ、なんて独り言をつぶやいていたあたしだけど、次の瞬間、勝手に手が動いてポケットの中のカメラを取り出していた。  いつの間にか沖浜先輩の右手に握られていた鈴が、凛とした音を立てる。そこで桐生先輩の笑顔が引きつり、口元を押さえてその場に膝をついた。喉が痛いんだろう、とあたしは直感した。いったん斬られた首を魔法みたいな力で無理やりに繋いで、止まった息を吹き返させて、だましだまし使っている体だ。あんなもの使ったら、先輩の首を接いでいる力が乱れて、苦しむことになるってことくらい分かる。もしかすると喉だけじゃなくて、頭や体も痛くなるかもしれない。前例を知らないから、先輩がどんな思いをしているのかあたしは知らない。先輩に聞いてみても「すごくエキサイティングだよ」とかなんとか、はぐらかされるばかりだ。  そのあと沖浜先輩の横に現れた、鋭い爪を持つ大きな犬のような獣を見て、あたしの直感は確信に変わった。一目で分かる。沖浜先輩は、この街にあふれる「妖怪」――オバケや幽霊と呼ぶ人もいるけど、とにかくそんな感じの、正体不明の存在だ――というやつを、それなりに操れる人だ。あの犬はその一つ。鈴の音で乱れた場の空気に吸い寄せられて、沖浜先輩の力に捕らえられてしまった存在だ。  世の中にはたまにそういう、不思議なものが操れてしまう人がいて、あたしもその一人。妖怪が見えるだけの人ならもう少したくさんいるけれど、そういう人はふつう「ちょっと霊感が強い」ってことで済まされてしまう。あたしや沖浜先輩のように、彼らに干渉できる人はまれだ。そして、そういう人たちはだいたい三つのグループに分けられる。  ひとつは、あまり気にせず、妖怪と関わらずに生きていこうとする人。  もうひとつは、積極的に妖怪と仲良くなって、いろんな力を得ようとする人。  そして最後が、やっきになって妖怪を退治して回る人だ。沖浜先輩は、これ。  あたし自身は、大ざっぱに言えば二つめのグループに入る。桐生先輩を生き返らせたのも妖怪の力だ。でもどうやら沖浜先輩はそれが気にくわないらしい。気持ちだけはわかる。同意はできないけど。  我慢できなくなったあたしはその場に飛び出し、カメラのファインダーを覗いた。シャッターを切れば犬が消える。それほど強い妖怪じゃなかった。沖浜先輩があの鈴を使って妖怪に干渉したように、あたしはカメラを通じて妖怪に関わる。インスタントカメラでも構わないんだけど、使い慣れたコンパクトカメラが最高だ。もっともあたしは相手に命令を聞かせることなんて上手くできなくて、もっぱらあの子たちを消してしまうだけなんだけれど。 「やめてください! 誰ですか、あなたは!」  叫んだあたしを冷ややかな目で見つめ、沖浜先輩は小さなため息をついた。その大人ぶった仕草が腹立たしくて、あたしは思わず膝丈のスカートをぎゅっと握りしめていた。同じセーラー服を着ているのに、どうしてあの人の動きはあんなに優雅なんだろう。  それから沖浜先輩は、さっきの関西弁は何だったのかと思うほどきれいな標準語で、あたしの問いに答えてくれた。 「沖浜灯花。今日付けで二年B組に転校してきた転入生よ。この町には小さい頃に住んでいてね、十年ぶりに戻ってきたものだから、とても懐かしいわ。……あなたは一年生ね」  沖浜先輩はあたしの上履きを見て言った。 「一年A組出席番号二番、有坂郁葉です」 「ふうん。こんな規格外の妖怪をのさばらせてるのは、あなた?」 「どうでもいいじゃないですか!」  そのファーストコンタクトの時から、あたしは沖浜先輩には勝てそうにないと感じていた。妖怪を退治して回ろうとする人たちにとっては、その妖怪の力で生きてる先輩なんて悪に決まっている。ああいう人たちにとって存在を許される妖怪というのは、人間の言うことに忠実に従い、決して余計なことをせず、邪魔になれば大人しく消滅してくれる、そういう妖怪のことなのだ。あたしにはそれが理解できないし、妖怪は友達だと思っているから、とても相容れそうにない。  まあそんなわけで、転入からというもの、沖浜先輩は延々と桐生先輩を襲い続けている。あの鈴はべつに使い慣れたものではなかったようで、色々な道具を試しては、より桐生先輩を苦しめられるものを探しているようだ。最終的な目的はたぶん桐生先輩を殺すこと。それも、凶器とかそういったものを考えなくてすむように、妖怪の手で殺すこと。  うっかり現実逃避していたあたしの考えは、三日間の時を飛び越えて渡り廊下から教室に帰ってくる。あたしはいま目の前にいる沖浜先輩を睨みつけた。この人が正義なら、あたしだって正義でいいはずだ。 「桐生先輩が、みんなを困らせるようなことをする人に見えますかっ」 「見えるわよ! 当たり前でしょう、だいたいそいつ変態なのよ!」  変態なのは事実だけど、それは関係ないと思う。  もう少しあたしの頭が良ければ、ちゃんと反論できるのかもしれない。でもあたしは沖浜先輩と口で戦って勝てるとは思わないので、とりあえず逃げることにした。 「桐生先輩、帰りましょう」 「え? ああ、有坂がデートしたいって言うなら俺は全然構わないよ。じゃあ灯花ちゃん、また明日遊ぼうね!」  あたしが腕を掴んでひっぱると、桐生先輩は笑顔で沖浜先輩に手を振ってからされるがままについてくる。沖浜先輩が視線で人を殺せそうな形相で桐生先輩を睨んでいたので、あたしは後ろを振り向かないことにした。  それにしてもこの人は、やっぱりなにかが足りていない。殺されかけていたって自覚はあるのだろうか。  ……ないだろうな。  やっぱり、あたしが見てなきゃダメだ。 * 「もう、本当になにをやってるんですか! 死にたいんですかっ、そうなんですね、そうに決まってる!」 「あはは、参ったなあ」  俺の腕を掴んで引っ張りながらわめき散らす有坂がかわいらしくて仕方ない。自転車を引いて歩くのには少しばかり邪魔だが、こんな有坂ならそれでもいい。そりゃあもちろん笑顔も悪くないが、俺だけをじっと見て叱ってくれる彼女も大好きだ。ダサいというか地味な、いや別に否定的なことを言いたいわけではないのだが、そんな雰囲気の彼女が細い肩までの三つ編みを揺らして叫ぶ様はなかなかのものだ。通行人が向けてくる非難がましい視線も最高。女の子を怒らせるだけでこれなのだから、都会の真ん中で女の子を泣かせたらどんな反応があるだろう。 「マジメにやってください!」 「なんで? 俺がどうなろうとお前には関係ないだろ。むしろ俺が灯花ちゃんに殺された方がいいんじゃないの? そしたら逮捕されるのも灯花ちゃんだ」 「い、イヤです!」  こういう人間を博愛主義者と言うのだろうか。妬みたくなるほどの美人だろうが他人だろうが、とりあえず人間が死ぬのは大嫌い。アフリカの子供が死ぬのをテレビで見れば涙を流しなけなしの百円をユニセフに寄付してしまうタイプ。それでいて番組が終われば今度は同じ涙をメロドラマのために流すのだ。俺はそんな利己的な女の子がヘッドロックしたくなるほど大好きなのだが、そう言ってもきっと彼女は認めないだろう。もちろんそんな女の子にヘッドロックされる方が嬉しいのは言うまでもない。  ところで有坂の家は西町、学校の前の無駄な二車線道路を左にまっすぐ行った上に線路をくぐった先にあったような気がするのだが、どうして彼女はこのゆるい坂を俺と一緒に上がって来ているのだろう。手入れが大変だからと切り倒されそうになっているポプラの街路樹は散歩道にはうってつけという気もするからあえて詮索もしないが、それにしても世の中にはずいぶんと物好きがいるものである。ちなみに彼女につき合って自転車を押して歩く俺もそんな物好きの一人かもしれない。  ちなみにこの住宅街はさくらが丘という名前だが桜は駅前に少し生えているだけだ。まあ俺も毛虫の下を歩き回る趣味はないのでこの賢明な判断をした誰かにはサンキューと言いたい。丘というだけあって全体はゆるやかな丘陵地になっていて、学校のある駅近くから奥にある四丁目に向かう坂の上に盛り土をして家が建ち並んでいる。五丁目だけは学校の目の前、丘の下の方にあって、丘の上である四丁目の向こうにはさらに緑山という名前の新興住宅街が建ちつつある。緑の山しかない場所なのでその町名はとても的確だと俺は思う。さくらが丘よりはよほど実状を表している。  十月も終わりとなれば風もさわやかと言うよりはいい加減肌寒い。しかしそんなことに愚痴を言っているうちは人生を楽しめているとは言い難いだろう。この寒風は俺の美しさに嫉妬した風の妖精が必死に俺をいじめている証拠なのだ、ほらこう考えるだけで人生は一気にバラ色になる。ポジティブシンキングは俺のモットーだ。  ああそれからもう一つ思い出した。寒ければマフラーが巻ける。ちょん切られた俺の首は盛大な傷痕を残しているものだから露出するわけにはいかない。マフラーならチョーカーよりもよほど自然で安全に首を隠せる。よきことかな。 「せんぱーい」  有坂が不満がるような不審がるような、とにかくじっとりとマイナスの感情を含んだ瞳で俺を見ている。 「なんだい有坂、俺がそんなに愛しいか?」 「あのですね」  俺の言葉をさらりと無視する彼女。そのテンポを忘れずにこれからもぜひ活用してほしい。あきれたような顔で俺の言葉や行動を無視する、その行為から俺は隠れた親しみと愛と蔑みを読み取り、そしてますます彼女を愛しく思う。俺は有坂のことは嫌いじゃないというか大好きで、いや俺はもちろん俺を罵倒してくれるかわいい女の子ならすべて等しく大好きなのだが、とにかくそんな彼女にはもっともっと俺を愛してほしいのだ。 「あたし、先輩には死んでほしくないんです」 「もしかしてそれ愛の告白?」 「違いますっ」 「残念だな。俺は有坂のこと愛してるのに」  何かを言いかけたまま言葉を詰まらせる彼女のために俺は一言つけ加えてやる。 「まあウソだけど」 「ち、ちょっと今本気で信じちゃったじゃないですか! 先輩のバカ!」  だまされる方が悪い。だいたい世の中には二種類の人種がいるのだ。だます奴とだまされる奴、有坂はどこからどう見ても後者だ。俺は屈折しまくって俺を殺しに来るような女の子も好きだが、じつは素直で単純な女の子も大好きなのだ。そうすると今ウソだと言ったそれこそがウソなのだろうか。まあどちらにせよウソはウソだし俺はウソをつくのが大好きだ。 「そんなことすると、とっておきの情報も教えてあげませんから!」 「とっておきの情報?」 「そうです。桐生先輩が沖浜先輩を討ち果たすための、最大にして最強の方法です」  ちょっと待ってくれ、そんなものがあるなら最初に言ったらどうだ。  いや三日前から今まで有坂と俺が交わした会話と言えば罵倒と歓喜のそれぞれ一方通行、コミュニケーションとも言い難いものだったので、有坂を責めても仕方がない気もしてきた。 「で、その方法って?」 「はい」  有坂は神妙な顔でうなずいた。車なんかちっとも通らないのをいいことに俺と有坂は遠くの横断歩道を無視して道を渡り、バス停とベンチを避けながらだらだらと歩く。ぴったりと横についてくる有坂は黙ったままだ。どうしたのだろうと見ていると彼女はしばらくして困ったように俺を見て、またすぐに正面を向いてしまった。化粧っ気のない顔は高校生らしく張りがあってそこは大変よろしい。不自然に整えた眉やマスカラは彼女には似合わないだろう。なにせこの年になって通学カバンにクマのアップリケでつぎを当てるような女だ。  その貧乏人、いや経済観念の発達した倹約家は、話のとっかかりを掴み損ねているのか口元に手を当てて考え込む。 「長くなりそう?」 「いえ……ただ、どこから説明すればいいのか分からなくて」 「分かんなかったらその時に聞くよ。で、俺は何をすればいいの?」  俺が尋ねると有坂は少し困ったように「あのう」と言いよどみ、それからものすごく理不尽なことを言わなければならないように、そう例えて言うならお腹を空かせた子供たちを前に今日のおかずはタクアン一切れだけよと言わなければならない母親に似た、こちらが申し訳なくなるほど悲壮な表情でこう言った。 「結論だけ言うと」 「うん?」 「桐生先輩が、みんなから好かれるようになればいいんです」  それはムリだ!  真っ先に俺が考えたのはその六文字。もし名前を書かれると死ぬノートが南高校にあったらそのノートの筆頭に書かれるのは俺の名前ではないかと思う。恨んでいるとか憎んでいるとかそういうわけではなくただノートの効果を試してみたいから、とりあえず死んでも困らないヤツの名前をサラッと書いてみるのだ。俺の死体を見ながら「わぁスゴい本当に死んでる!」と歓声を上げるクラスメイトの顔はかんたんに想像できた。ちなみにきっとその時にも俺の死体はさぞかし美しいに違いない。  別にクラスメイトでなくとも構わない。どうせ南高校に俺の顔を知らない人間はいないだろうし顔は知らなくても存在くらいは知っているはずだ。有坂だって俺を見たことくらいはあるだろう。真夏の暑い日でも長袖の柄シャツで校内を闊歩する暑苦しくて鬱陶しい男。しかし仕方がない、半袖など着たら俺のこの珠のような肌が夏の乱暴な太陽光線に焼かれてしまう。自らの美貌を守るべく日々努力している俺としてはそんな太陽光線の横暴を許すわけにはいかないのだ。 「……先輩、大丈夫ですか?」 「ああ、気にするな。あまりにも高い目標を聞いてちょっと気が遠くなっただけだ」 「やっぱり高いんですか」 「高いな」  やっぱり?  そこを深く突っ込んでやれば彼女のことだから必死になって「違うんです、別に先輩が嫌われてるとか、そういうことが言いたいわけじゃなくて」などと言い訳してくれそうだが今はそれどころではないのでやめておく。 「どうしてそんな無謀なことをしないといけないのか、聞いてもいい?」 「いくらでも説明します」  大通りから逸れて階段を昇りながら、どうやら本当に俺には死んでほしくないらしい有坂は真剣な顔でうなずいた。俺は階段脇のスロープから車輪が落ちないように、それでいてゆっくり歩く有坂を引き離してしまわないように、歩調とバランスを整えながら歩く。もちろんぐるりと坂を迂回してもいいのだが、歩いて行くにはあまり気が乗らない距離だ。 「沖浜先輩が持ってくる色々なもの、さっきのあのナイフもそうですけど、あれは妖怪の力を集めて思う通りに操るためのものです。沖浜先輩は沖浜先輩で、色々なものを試してるみたいですね」  灯花ちゃんは色々なものを持ってくる。三日前に初めて会ったときに「念のために持ってきて良かったわ」と言いながら彼女が振ったのは小さな鈴だった。その音を聞いた途端に俺は吐き気に襲われてずいぶんひどい目に遭ったのだからよく覚えている。一昨日は今日のものとよく似た、けれど色が違う短刀。昨日は紙に包まれた鏡だった。明日も別のものを持ってくるのかもしれないが、とりあえずそれをやり過ごせばようやく土日がやってくる。  あれらに近づくと吐き気やら頭痛やらめまいやらに襲われるのは、つまりあれが操っている妖怪の力のせいらしい。 「ところで、あたし達が見ている妖怪というのは、人間の願望が反映されたものだと言われています。たぶん他にもいろいろな説があると思いますけど、泉堂さんがこの説を採ってるので、あたしもそれが正しいとして話しますね」  泉堂さんというのは俺を生き返らせた眼鏡の女性だ。不健康なほど白い肌と痩せぎすの体はなかなか強烈な印象があって、実はあちらが妖怪だと言われても俺は何の疑問も抱かずにうなずくだろう。そのイメージを一言で表すならマッドサイエンティスト。魔女でもいい。 「その説によれば、妖怪を動かす全ての力の源は人間の願い。つまり、人間が願っていないことは妖怪にはできないということです」 「ちょっと待て、じゃあそこのやたら凶悪そうなツラした妖怪は、人間には害がないのか?」  俺が指さした先で赤ん坊の顔をした犬がキヒヒと笑った。それにしても人面犬とは古い。 「どうして害がないなんて思うんですか?」 「だって、自分を襲ってほしいと思う奴なんかいないだろ」 「でも、誰かを傷つけたいと思ってる人はこの町にもいっぱいいますよ」  人生には腹立たしいことがいっぱいですから、と有坂はため息をついた。 「お一人様一個までの特売のトイレットペーパーを、何度も並んでたくさん買っていくオバサンなんかヒドイですよね。正直者がバカを見る気がしてイラッとします」 「……お前にとっての腹立たしいことって、そんなもんか?」 「そんなもんって言わないでくださいよ! あの駅前のスーパーって、ダブルのトイレットペーパーはなかなか特売にならないんですよ!」  いつもぼんやりしていてどこか遠くを見ているような有坂が、妙に力のこもった視線で俺を見ている。こんなところでスイッチが入る女だったとは知らなかった。  ひとしきりヒートアップしながらオバサンの悪口を言ったあとで有坂はハッと我に返り、わざとらしいほどのオーバーアクションで辺りを見回し誰かに聞かれていなかったか確認する。心配しなくてもこの時間にサラリーマンはいないし主婦も買い物を終えたころで、いちばんそのあたりにいそうな小学生や幼稚園児もほとんどいない。ニュータウンの人口構成比が偏ることはきっとよくあることだから、道路で遊ぶ年代の子供が極端に少ないのはこのさくらが丘に限った現象ではないだろう。そもそも俺たちと同い年の人間でさえ姉の代に比べればかなり少ない。丘の上にある桜ヶ丘小学校は十年ちょっと前に出来たばかりのくせにもう大量の空き教室を抱えているという話だ。もっとも俺自身は丘の下にあるオンボロな小学校に通っていたからそんなことは知ったことではない。最初期の分譲地であるさくらが丘二丁目に住む子供は、多くが桜ヶ丘小学校の設立前に学齢期に達していたから、そのまま元の小学校に通い続けた人間が少なくないのだ。俺自身はそのときまだ幼稚園児だったが、姉と同じ学校に行く方がいいだろうと両親が考えたらしい。  前方には公園が見えてくる。俺が小さい頃にはまだにぎやかだった公園も、今では嘘のようにしんと静まりかえっている。遊び相手が必要な子供たちは線路をくぐって駅の向こうの公園に向かうのだろう。駅の向こうをしばらく行くと団地があってそこにはまだ子供だってたくさん住んでいる。  人面犬がバカにするような笑顔を浮かべながらのっそりと後をつけてくる。それにしても俺はこんなブサイクな人面犬が闊歩するような公園で遊んでいたのか。俺がそんなことにいたく感心している前で有坂は自分が住む地域と比べて静かすぎることを訝っているのか、不思議そうに首をひねると話を再開した。 「すいません、ちょっと取り乱しました。……とにかく、ですね。人間が何かを願うとそれが妖怪の力になり、その力をとらえて操ることができればすごいことができるんです。たとえば沖浜先輩がやってるように、桐生先輩を苦しめたりとか、殺したりとか」  確かにすごい。 「でも、たとえば先輩を殺すためには、そういう目的を持った妖怪の力を集める必要があります。そのためには、先輩の死を願うような人の心が必要です。分かりますか」 「ああ。料理を作るためにはまず材料を集めて来なきゃいけないってことだな。野菜だけじゃオムレツは作れねえもんな!」 「本当に分かってますか?」  たぶん完璧。俺は自信を持ってうなずく。 「じゃあ、先輩が人に好かれれば色々解決するんだってことも分かりますよね」 「兵糧責めにするんだな。俺を殺したいって思う奴がいなくなれば、灯花ちゃんは俺を殺せない」 「正確には、先輩を殺すのが難しくなるだけです。妖怪の存在をとにかく許せないから消したいとか、誰でもいいから殺したいとか、そういう願いを持っている人のことはどうしようもありませんから」 「ニワトリの卵がなくなっても、ゾウの卵で卵焼きを作ることはできるってことか。まあそこまで考えていったらキリがないな」 「ゾウはほ乳類です」 「お前、小さい頃あんまり絵本とか読んでこなかっただろ」 「なんですか! 読みましたよ! なんかオバケが出てくるやつとか、大好きでしたもん!」  そんな絵本はたくさんあると思うのだが、まあいい。  たぶんオーケイ、きちんと理解できている。できていないとしてもそれがどうした、勘違いくらいで死にやしないし死んだって何とかなるということは十四日前に分かった。しかし問題はいかにしてニワトリの卵を灯花ちゃんの前から一掃するかにある。入学してからの一年七ヶ月あまりでこつこつ築き上げてきた悪名はそう簡単に晴れるものだとは思わないし、簡単に晴れてしまうとしたらそれはそれで一抹の淋しさがある。だいたい女の子の優しい視線なんてちっとも面白くない。やはり女の子はその心の中にひそむ腹黒さをそこはかとなく匂わせる冷たい視線で、非論理的で理不尽な言葉を吐きながら俺を罵ってくれるべきだ。その方がずっと刺激的で気持ちいいだろうに、なぜわざわざ面倒な思いをして仲良しなんかにならなければならないのだろう。世間の一般人の思考は理解できない。 「あの、あたしに手伝えることがあったらなんでも言ってくださいね。協力します」 「本当に物好きなヤツだな、お前。俺は貧乏だからなにも出ないぞ」 「そんなことどうでもいい……わけじゃないですけど、でも気にしません!」  大丈夫か。あとで高額の利用料金を請求されたりしないだろうな。まあ他人に何かを期待するのは趣味ではないのでどのみち有坂に協力を仰ぐ気などない。だいたい俺が好かれるために有坂に何ができるだろう。まっとうな女が傍にいたら俺も普通の男子高校生に見えるだろうか。しかしその前に「純真な女の子をたぶらかすなんて最低!」という誰かの叫び声がなんとなく想像できる。  歩調に合わせてカバンを揺らしながら、有坂はふぅ、と小さく息をついた。とりあえず言うべきことは言ったというような満足げな表情だ。俺は不意に歩調を早める。車ひとつ通らない静かな町に自転車の車輪が回る音が響く。 「まあ、お前に手伝えることはなにもないから気にしなくていいよ。じゃあな」  浮かべるのは営業スマイル。有坂は慌てて追いすがってきたが俺は振り返らず自転車に飛び乗った。彼女よりも五秒ほど早く角を曲がれれば勝ったも同然。だいたいこの町は階段と坂道が複雑につながっていて迷いやすい。もちろん俺にとっては勝手知ったるなんとやらだが有坂には理解できまい。子供のころしょっちゅうここで遊んでいたというなら別だが、俺が子供なら遊具がたくさんあって広い団地の公園で遊ぶ。  角を曲がると同時に俺は階段の脇にあるスロープを滑り降りる。自転車のカラカラいう音で気づかれるかもしれないが走っても追いつけないだろう。しわがれた笑い声が追ってきてそちらに視線をやるとさっきの人面犬がいた。こんちくしょう。  家が見えてきたところで気が付いた。とくに何を言われたわけでもないはずなのに、俺はどうして逃げ出したんだろう?  今日は木曜日だからバイトもない。カバンを机の上に放り投げて自分はベッドに飛び込む。有坂の言葉が耳の奥で回る。 「なんや、辛気くさい顔しとんなあ」 「うわっ!」  突然耳元でそんな声が聞こえて俺は跳ね起きる。見れば黒い西洋鎧がひとつベッドの傍であぐらをかいていた。長い剣を持った、博物館あたりに飾ってありそうな鎧だ。もちろん人間であるはずがない。俺の家族にこんな悪趣味な人間はいないし関西には親戚も知人もいない。  そう、まったく悪趣味だ。西洋鎧の上から虎縞のはっぴを着た人間なんか俺は見たことがない。これもあの人面犬の同類なのだろう。喋るやつもいるのだと俺は驚いたが、よく考えてみれば昔話に出てくる鬼だってちゃんと日本語を話している。 「そんな、オバケを見たような顔せんといてや」 「……オバケじゃねえか。ほら」  俺が伸ばした手はずぶりと鎧の中に沈む。感触はない。西洋鎧は身をよじって「いやん、えっち」と言った。撲殺してやりたくなったがあいにくと触れられないし、触れられたところでこの鎧を殴っても殺せないだろう。 「何しに来たんだ、バケモノ」 「バケモノちゃうわ、誇り高きデュラハン様やぞ。そこらの口も利けん妖怪と一緒にせんといてや」  こんなものと話しているところを母親あたりに見つかったらなぜかひどく優しい目で見られてしまうこと間違いなしなので、俺は声を落としながら答える。 「でゅらはん? 何だそれ」 「お前さんもしかして、ファイナルクエスト遊んだことないんか?」 「ないよ」  俺はゲームをやるヒマがあったら外を駆け回り空き地で野球をする、おそろしく健全な小学生時代を送ってしまったのだ。自慢ではないがそんなゲームに関する知識は一切ない。いや名前だけは知っているからゼロではないか。 「わいらの知名度はあれで急上昇したんやで! 今からでも遅うない、遊べ! そしてデュラハン様の特殊攻撃に涙せい!」 「断る」  そんな金があったらバイク貯金か洋服代に回す。それにしてもなんて妖怪だ。だいたいそのゲームに出てくるデュラハンとやらは虎縞のはっぴを着ているのか? 「……で、デュラハン」 「せっかくやから名前を呼んで欲しいんやけど」 「名前?」  デュラハンでいいじゃねえか。そう思う俺の前でデュラハンはぺこりと頭を下げた。 「加藤牧雄と申します」  日本名かよ。  引きつり笑いを浮かべる俺を見て加藤が何を思ったのかは知らない。もしかすると妖怪の名前としてはこれが一般的なのかもしれないので文句は言わないが、それにしてもせめて横文字であってほしかった。 「じゃあ、加藤。……どういうつもりで勝手に人の部屋に入って来たんだ」 「親近感が湧いたんでな、お友達になりたいと思うたんや。妖怪が見える人間ちゅうのも貴重やし、仲良うなって損はない」 「親近感?」  加藤はうなずいて頭に手をやった。ぐい、と首を持ち上げれば鎧と兜が離れる。首のない胴体部と兜の部分がきれいに分離した姿を見て俺は思わず口元を押さえた。俺も客観的に見ればこんなものだということか。気がつくと空いた左手が布団を握りしめていた。落ち着け俺、相手はただの妖怪だ。 「な? デュラハンは首無しの騎士。死を告げる妖精や。よう似とるやろ?」 「首が取れるところしか似てない」 「素直やないなあ。ほんなら、これでどうや。もうちょっと親しみが湧くやろ」  放り投げた首が被っていた兜が霧のように変化して消え去った。その下から出てきたのは二十歳くらいの男の顔。心臓がたぶん普段の二倍くらいの勢いでこき使われているが俺はつとめて平静を装いその顔を見つめた。気がつけば胴体部が着ていた鎧も消えて、長袖のシャツにジーンズというごく普通の人間のような格好になっている。虎縞のはっぴはそのままだ。 「な?」 「気持ち悪い。さっきの方がまだマシだ、鏡見て出直してこい」 「ほんまに冷たい男やなあ。友達おらんのも分かるわ」  余計なお世話だ。そう思うと口元がほころんだ。 「なに笑うとんねん」 「いや、なんか嬉しくて」 「はあ?」  いいじゃないか、友人なんかいなくて結構。孤高の美人に馴れ合いなど不要だ。俺に必要なのは優しい友人ではなく俺を踏みにじってくれる素敵な女王様なのだ!  だんだんいつものペースを取り戻し落ち着いてきたところで、俺は改めて加藤の顔を見た。加藤は頭をひょいと元あったところに乗せて居ずまいを正す。どこにでもいそうな日本人の顔だ。 「まあええわ。そんなわけで、お友達になりまへんか」 「イヤだ」 「そうかそうか……ええっ!」  にっこり営業スマイルで答えてやると、加藤は鬱陶しいほどのリアクションでそれに応えてみせた。俺も鬱陶しい男だと自覚しているがこいつもなかなかのものだ。そういう意味では親近感が湧かないこともない。 「その状況で断るか、普通」 「いや、むしろ普通に考えたら断るんじゃないか?」 「郁葉は断らんと友達になってくれたで」  そりゃあ有坂なら断るはずがない。あいつは地球を侵略中の宇宙人とだってすぐ友達になれそうな女だ。 「だからって俺がお前と友達にならなきゃいけない義理はないだろ。さっさと消えろよ、バケモノ」 「お前さんに言われたァないわ。女々しいナリしよって」 「それは関係ないだろ!」  仕方ないだろう。俺は美しいから女物だってきっちり似合ってしまったりするのだ。と言ってもいま身につけている中ではヘアピンとピアスくらいのものだが。ちなみにヘアピンを挿した上から殴られるとなかなか痛くてそれがまた心地よい。 「いやいや、この家の守護霊かて悲しんどるで、まっすぐ育ってたはずの長男がおかしな道に走ってしもたってな」 「守護霊?」  そんなものがいるなら最初から俺を守れよ。だいたい俺は俺の道を爆走しているだけで別に親不孝はしていないつもりだ。たぶん。とは言えおかしな道と言われること自体はなんの問題もない。問題は、どうしてその守護霊が俺の目の前に出てきて説教してくれないのかということだ。いや、その前に重要なポイントがあった。 「なあ、その守護霊って男? 女?」 「いきなりそれか。これだからガキはあかん」  健全な男子高校生を前になんて無益なことを言うんだこの妖怪は。ジジイに説教されるよりもキレイな女王様に説教されたいと思うのは男として当然だろうに。 「まあいずれ分かるやろから教えたるわ。女やで、それもごっつう若い」  新たなるチャンスの到来! 生きてて良かった! いや生きてはいないかもしれないがそれはともかく、守護霊に説教されるなんて想像しただけでエキセントリックで魅惑的な情景だ。いつでも来い! 「ありがとう加藤! もう二度と来なくていいぞ!」 「おう! 毎日でも押し掛けたるわ!」  この野郎なかなかやるな。熟練した夫婦漫才のような返答に俺は顔に出さないまでも面食らう。これではまるで仲良くなんかないと言い張るラブラブで鈍すぎるバカップルのようだ。たまにこういう俺と相性の悪いタイプの人間が存在しているおかげで俺の友人の数は少なくはあるがゼロではない。困ったものだ。  だが俺の無理やりなサヨナラの挨拶に負けたのか加藤は出ていってくれた。気を利かされたのだとしたらそれはそれで腹立たしいがまあいい。  俺は再びベッドに寝転がり、手を伸ばしてコンポの電源を入れた。音が家中に漏れ出るようなボリュームでロックをかけたのに守護霊とやらは説教をしにやっては来ず、俺は少しだけ残念に思いながらベッドの上でうずくまりアルバム一枚六十分を聴き続けた。  金曜の放課後は無事に脱出に成功した。快挙なのか失策なのかよく分からないがとにかく俺は家で着替えると原付にまたがる。もちろん歩いても自転車でも問題のない距離だがせっかく免許を取ったからには乗りたいと思ってしまうのが人の性だ。  向かう先は俺が働くコンビニエンスストア。ほんの二年前までナントカ酒店だった、まあよくある形態の店舗である。最低時給すれすれの賃金に釣られてくるのは俺のような高校生と物好きな大学生と立地に魅力を感じたのであろう主婦。さくらが丘の上のほうにある店だけに店員もほとんどがさくらが丘の住人だ。線路の向こうからやって来るフリーターも一人いたがこの前の九月に辞めてしまった。空いた時間を埋めるように入っているオーナー兼店長はいい加減にくたばりそうな年齢の爺さんで、コンビニの明るい色調の制服がまったくと言っていいほど似合わない。  何を着ても似合ってしまう俺はさっぱりとした服装に身を包み、これだけは外せない首のチョーカーをタートルネックの襟で隠している。ハニーゴールドの髪は致し方ないがそれを留めるピンは地味な黒色。俺だって時と場所くらいはわきまえるのだ、一応。 「どうしたのコウちゃん、今日は早いね」  俺のゼロではない友人のひとり、叶野晴妃はそう言って小首をかしげた。金曜日は一時間半だけシフトが重なる。ハルキなんて名前だがれっきとした女で、ここから自転車で三十分くらいの私立高校に通っている。俺の家のすぐ裏に住んでいる幼なじみであり小さい頃から一緒に風呂に入ったりもしてしまった仲であるせいか、いざ離れたくてもなかなか離れられない。こういうのを腐れ縁と言うのだろう。 「どうでもいいだろ」  くだらない、という顔で俺は口角を上げる。それにしてもまだこんな時間か。もちろん、あんなに必死で家に逃げ帰ったのだから少しは早くなるのも当たり前だ。 「うん、別にどうでもいいよ」  こいつの悪いところは物わかりが良すぎる点だ。ちょっとやそっとのことでは怒らない、どころか俺は長いことこいつに罵られた記憶がない。中学校に入るくらいまではよく喧嘩をしていた気がするので、これはお互いが大人になってしまったということなのかもしれない。とは言え俺は晴妃のストレートパーマをかけたこげ茶の髪も大きすぎて下着が高いのが悩みとかいう胸もなかなか魅力的だと思っていて、いつか彼女にあの学校指定の革靴で蹴り倒されたいと密かな野望を抱いているのである。これぞ男のロマン! すばらしき倒錯!  考え事をしていても手は勝手に飲料パックの陳列を直している。一年半もやっていればけっこう様になるものだ。客はまだ少ない。さすがの灯花ちゃんもここまで追っては来ないだろうと思うとホッとする。コンビニであの短刀を抜かれたら俺はもちろん警備会社を呼ぶレジ下のボタンを押すだろうし、灯花ちゃんにだってそれくらいは想像できるだろう。 「なあ晴妃」  レジを終えた客が出ていくのを見計らって俺は晴妃に声をかける。 「俺のことを殺したいほど嫌いな人間と友達になるには、どうしたらいいと思う?」  答えの代わりに、レジ裏に立てたモップが倒れる高い音が店内に響いた。 「こ……コウちゃん? どうしたのいきなり?」  晴妃の声が上擦っている。それはちょっと動揺しすぎだろう。 「頭でも打った?」 「そう言えば昨日、ロッカーの角に思いっきりガツンと」  灯花ちゃんに投げられた時にぶつけたところはコブになっている。あれは痛かった。 「……って、なんでそんな話になるんだよ!」 「ごめん。コウちゃんが誰かと仲良くしようとしてるの、久しぶりすぎて」  晴妃は真顔で言いながらモップを元に戻し、レジから身を乗り出した。 「とりあえず、怒らせたんなら謝っておけば?」  コンビニで釣り銭を間違えて謝るときとはわけが違うような気がする。どこの誰に何を謝ればいいのだろう。いちいち他人に何を言ったかなど覚えていないし何が原因で嫌われているのか明確な理由は思いつかない。ただつもり積もった何かがあるだけだ。  まあいい。とりあえず月曜日になったら、誰かになにか謝ってみよう。