終章 それから  突然ベッドの脇のカーテンが開けられて、タツキは読んでいた漫画本を取り落とす。高宮の付属病院は思った以上に居心地がよく、退院が迫っているのがいっそ惜しいほどだった。 「タツキちゃん、こんにちは! お見舞いに来たんだよ」  入ってきたハンナの髪は、腰近くまであったものを思い切って短くしたようで、高く結った髪の先が背中にかかるくらいになっている。前に見舞いに来た時に、「失恋したら髪を切るのが世間の常識なんだよ!」とかなんとか、よく分からないことを言っていた気がする。  タツキは左手をついて身を起こした。刺されどころが悪かったらしく、右手は未だに動きがぎこちない。じきに動くようになるとは言われているが、やはり不便だ。利き手ではないのがまだしもの救いだろう。 「病院では静かにな」  入ってきたハンナにそう答え、ふとタツキは彼女の制服のネクタイに目を留める。えんじ色のネクタイは二年生をあらわすものだ。その後ろから、彼女を押しのけるようにしてアキジが入ってくる。 「やあ神代。元気か」 「見ての通り。しかしあんたも暇だね、いちいち」 「お前よりはマシだろう」  山の下、駅の近くに建つこの病院は、高校や寮から来るにはあまり交通の便が良くない。たまにルームメイトの後藤がやって来たり、いつの間にか着任していた新しい担任が挨拶に来たりするが、さすがにこう毎日のように訪ねてきたりはしない。 「それにしても珍しいな、雪島さんが来るなんて」 「うん。いろいろ手続きとか検査とかあって、大変だったからね。でも、やっとすっきり話がまとまって、今日からバッチリ復学することになったんだよ!」  何となく、嫌な予感がした。 「それじゃあタツキちゃん、今日からはクラスメイトとして親しくつき合ってくれたらいいんだよ。クラスメイトって言ったらお友達だよね、仲良く喋ったらいっそ親友だよね!」 「意味がわかんねえよ」 「つまりアタシは親友の、というかむしろ愛するタツキちゃんのためにお見舞いに来たんだよ。ユリンちゃんには負けないからね!」 「いつから競争になったんだよ……」  ハンナはタツキの首を絞めるような勢いで肩を抱き寄せ、唇は触れないままに舌でキスの効果音を鳴らした。  たぶんこれは平和ってことなんだろうな、と思いながら、タツキは三週間前のことを思い出す。  旧校舎から力が抜けるあの音を聞きつけて、たくさんの人間が駆けつけたのが数分後。タツキに記憶はないが、どうやらそのまま病院に担ぎ込まれたらしい。  目を覚ますとそこは病院の個室らしかった。側でユリンが誰かと話している。起きた事を気取られないよう、再び目を閉じてから薄目を開けて確認すると、座っていたのは一人の老女だった。それほど長くはない銀髪、モダンなつくりのマント。ユリンが彼女を「おばあさま」と呼んだので、やっと彼女が高宮の創設者、春川セイカなのだと気がついた。 「申し訳ありません、おばあさま」  ユリンはそう言って頭を下げた。夢中で気付かなかったが、彼女もいつの間にかあちこち切っていたのだろう。彼女の腕や脚、それからこめかみの辺りなどに、大小取り混ぜて絆創膏が貼ってあった。  他の二人がどうなっていたのかは知らない。麻酔でもかかっているのか、右腕には感覚がなかった。その腕に巻かれた包帯の真名がやたらと自己主張している。医療というのは魔法がもっとも有効活用されるジャンルの一つなのだから、高宮ともあろう学校の付属病院が魔法による治療を行わないはずがない。  けっこう金かかってるよな、と正直に思った。保険金は下りるのだろうか。こんな状況でも、そんなことが気になってしまう。 「どうして謝るのですか?」 「私がついていながら、こんなことになってしまって。アイカのことだって、私、ずっと完全に忘れていて。ラウラのことだって、燃えないように守るのが精一杯だった……どれも私のせいだわ」 「仕方がないでしょう。あなたはZ種魔法を破るには若すぎます」 「でも――」 「思い上がりはよしなさい、ユリン。これがあなた一人に背負えるような出来事だと思っているのなら、考えなおすべきです」  セイカは凛とした声でそう答え、ユリンの手を取った。 「それにしても、あなた達はよほど仲がいいのね。アキジくんもハンナさんも、同じようなことを言っていたわ」  ユリンが戸惑ったような表情を浮かべた。タツキは目を閉じ、会話の続きに耳を澄ます。 「けれど――よく頑張りましたね、ユリン」  ユリンからの返事はない。代わりに嗚咽の声が聞こえてきた。セイカが立ち上がり、こちらへ歩いてくる。タイル張りの床が規則正しく音を立てた。 「起きているんでしょう、タツキくん。お久しぶりね、私を覚えているかしら?」  おそるおそる目を開けると、目の前にしゃがみ込んでくる春川セイカの姿があった。どこかで会ったことがあっただろうか、と必死に記憶を掘り起こし、ふと入学試験の時の面接を思い出す。確か彼女は何食わぬ顔で、面接官として座っていた。そのくらいしか心当たりはないが、初対面というわけでもないようだった。大魔女と呼ばれる割には、ごく普通の女性に見える。 「よくぞ、最後まで諦めずに走り抜きました」  何を言っているんだ、と思いながら彼女の顔を見る。自分はすっかり全てを諦めていた。信じる心が奇跡を起こした、などと安っぽいドラマのようなことを言うのなら、その言葉は自分以外に向けられるべきだろう。 「こうして無事に帰ってきたのがその証拠。あとは私たち年寄りに任せて、ゆっくり休みなさい。あの物騒な『禁書』が流出したのは私たちの責任ですから、あなたたちが気に病むことではありませんよ」  小さくうなずいた。セイカは満足そうにほほえみ立ち上がる。 「それでは、また」  セイカは部屋を出ていった。ふと、泣いているユリンと目が合う。ユリンは慌てて目をこすり、視線を逸らした。 「……神代くん」  ユリンは明後日の方向を向いたまま、腰掛けていたパイプ椅子から立ち上がる。 「本当にごめん。今でもあなたのことは嫌いだけど、やったことは悪かったと思ってる」  何について謝っているのかよく分からなかったが、そのままユリンは部屋から出ていってしまったので、タツキは小さく息をついて目を閉じる。  人様の訳のわからない行動にも、それぞれタツキにはうかがい知れない理由があるのだろう。それを詮索する気はない。いや、詮索する必要もないだろう。  この感情は、きっとただの諦めではない。  その後何度か春川セイカとは顔を合わせることになった。彼女は多くを語らなかったが、どうやら夏茨はあの旧校舎から逃げおおせたらしい。  「神隠し」の魔法も、論理空間の消滅と共に解けたようだった。中に閉じこめられていた存在は元の世界に吐き出され、そこに消えていた人間に関する記憶も人々の中に戻ってきた。  アキジが必死に殴り倒していた佐脇トウヤ、ユリンが防火措置を執っていた箱の中の岸本ラウラ、抱いて帰った志野田アイカの三人については、どうやら内々で事件の処理がなされるらしかった。残りの二人、三田村シオンともう一人の男子生徒については何も教えてもらえなかったが、タツキの知らないところで何らかの後始末が行われているのだろう。  特にそれが不快だとも思わなかった。魔法使いは所詮、ユリンの言うように怪しげな存在だ。事件を起こしたことを世間に知られてはならない。普通の高校生は、間違っても床を抜いたり、離れたところに火を点けたりはしない。魔法使いなんてものはただの技術者だ。都合のいい時には適当に持ち上げられるが、それだけの存在に過ぎない。ならば、ややこしいことは偉い人に任せておけばいい。  何でも諦めればいいというものではないし、欲望のままに事を行えばいいというものでもない。ベッドの上でひたすらに暇な時間を過ごしていたタツキは、寝ぼけた頭でそんなことを考えていた。  だからきっと、自分の足も治らないうちから毎日のようにやって来るアキジを追い払う必要はない。面倒だからやめてくれと言うことはできるが、その必要もないのだろう。  それでも意地で退部届けは提出した。代わりに届けを出しに行ったユリンは、提出前に夏茨以上にしつこくタツキの意志を確認したが、もう決断してしまったものは譲れない。  タツキの周囲の時間は、少しずつ動き出そうとしていた。  それはきっと、茶番劇などではない。 「忘れてた、これも」  アキジが鞄から出したのは、ルームメイトの後藤の手によるノートのコピーだ。夏休みも終わり、新学期が始まって、授業はもう進みはじめている。 「これ以上迷惑かけんなよ、って言ってた」 「ああ。もうお前だけに迷惑かけたりしないから安心しろ、って言っといて」 「了解。じゃあ、またな」  ハンナはタツキの袖を引き、顔をぐいと近づけてくる。 「それはつまり、いざという時はアキジちゃんやユリンちゃんにも頼っちゃおうっていう魂胆なんだね?」 「困った時に助け合うのが友達だろ」 「お! ついに友達だって認める気になったんだね! ちょっと驚いたんだよ」  アキジが仏頂面でハンナの首根っこを掴み、「帰りますよ、先輩」とわざとらしく言ってみせる。 「だから、アタシはアキジちゃんと同じ二年生なんだって。青が一番だと思ってたけど、赤のネクタイも可愛いじゃない。もう身も心もバッチリ君の同級生なんだから、今更になって後輩ヅラされても困るんだよ。愛しのタツキちゃんのように、こうフランクでラブリーな感じで頼むよっ」 「ラブリー……?」  病院では静かにな、と繰り返し、タツキは二人をカーテンの外へ追い出す。  なぜか頬がゆるむその理由は、考える必要もなさそうだった。