八章  胡蝶の夢  ハンナは目を見開き、ゆっくりと身体を起こした。 「あれ、アタシ……どうしたんだっけ」 「それはこっちの台詞だよ。いきなり消えるから驚いたじゃないか」  アキジがゆっくりと、三人に聞こえる程度の声でつぶやいた。 「ご……ごめん。アキジちゃん、大丈夫?」 「大丈夫なわけがない。見ての通りボロボロだよ」  寝転がった姿勢のまま、アキジは不満そうに口角を下げた。 「何があったんだ?」 「……サワちゃんがいたの」  ハンナは力無く答えてうつむいた。その頬を、大粒の涙が伝う。サワちゃん、というのは確か五人目の「迷子」、佐脇トウヤだ。 「生きてたのか」 「あれは、生きてるって言わない」  そう答えたきりハンナは押し黙り、アキジが代わりにその後を引き取った。 「お前たちを追いかけて旧校舎に入ったあと、廊下を歩いていたら、いきなり隣の教室から魔法で殴られたんだ。驚いてその教室に入ってみたら、竹刀を持った一年の男子が立ってた。そいつは雪島さんを見ても何も言わずに、ひたすらその竹刀を魔法で強化して殴ってきたよ。でも、その顔が」  アキジは奥歯を噛みしめ、所在なげに視線をさまよわせる。 「どう見たって死んでるんだ。見たら分かる。目が濁ってて、血の気がなくて。雪島さんに言われて、それが佐脇トウヤとかいう、さっき話をしていた生徒だと分かったんだけどね。思い出すのも不愉快だ。人間のことを、石像と同じように操っているんだからね。そのまま雪島さんは悲鳴を上げたっきりどこかへ消えるし、僕は教室の扉を閉じられて逃げられないし、どうしようかと思ったよ。僕は僕なりに善戦したつもりだったけど、結果はこのザマだ」  途切れ途切れにそう語る、その呼吸はずいぶん落ち着いてきていた。 「死んでる、って」 「思い出させないでくれ、気味が悪い。あんなものに触られるなんて、まったく不愉快だ」 「そんな言い方、しないで」  ハンナがぼそりとつぶやいた。 「岸本ラウラも死んでたよ」  無神経な発言であることは承知で、タツキは口を開いた。 「たぶん、他の三人も、もう――」  ハンナは目を伏せたまま、何も言わない。ユリンがためらいがちに話しかけた。 「ハンナちゃん、あなた犯人が誰だか知ってるの?」 「犯人? ……七不思議の幽霊、じゃないんだよね。知らない。知ってたら、ユリンちゃんにだって話してると思うんだよ……あ、あれ?」  言いながら、ハンナは自分の身体を見下ろした。不思議そうに腕や足を眺め、スカートを引っ張る。当惑気味の表情を浮かべ、きょろきょろと視線を動かすたびに、長い銀髪が揺れた。 「なんか変な感じが……ユリンちゃん、アタシに何かした?」 「……あなた、本当に魔女? その鈍さはちょっと尊敬に値するわよ」  ユリンは立ち上がると、ハンナの手を取った。支えられながら立ち上がったハンナは、きょとんとした顔でユリンからタツキの方へと視線を移す。 「ねえ、タツキちゃん」  そして彼女はゆっくりと手を伸ばした。 「君も、もう行っちゃうの?」  その手が自分の肩を素通りするのを感じながら、タツキは突然襲ってきた強い眠気に耐えかねて目を閉じた。  息苦しさに襲われて、タツキはゆっくりと目を開けた。  暗い天井が目に入る。全身がやけに重い。タツキは咳き込みながら身を丸めた。右手が動かない。 「ああ、ついに目を覚ましたんだね」  そんな夏茨の声が、背中の方から降ってきた。そちらへ目を向けたかったが、わずかでも身体を動かすのが辛かった。みぞおちの辺りに鈍い痛みがある。 「何、ですか、これ」 「君を捕まえるために一度追い出した魂が、死を前にして身体に舞い戻ってきたんだね」  テストの問題に解説を入れるような口調で、夏茨が答える。  つまり、これが現実だ。  箱の中の岸本ラウラ、アキジ達を襲ったという佐脇トウヤ。ハンナの話によれば「迷子」はあと三人ばかりいたような気がするが、どうせ彼らも似たり寄ったりの結末を迎えているのだろう。  ハンナを逃がした今、夏茨がどうする気なのかは分からなかったけれど。  心臓の鼓動にわずかに遅れて、左手で押さえたみぞおちの傷から断続的に出血がある。床にじわじわと染み通る暗い赤色が、頼りない蛍光灯の灯りの下でもはっきり見えた。  夏茨が欲しかったのはタツキ自身が持つ力ではなく、その血液が持つ、より多くの力を呼び出すことができるという性質だ。ここまでの彼の行動と教科書の内容をあわせて推測すれば、容易に答えは出る。  ふと、古典の教科書に載っていた漢文を思い出す。男は夢の中で蝶になっていた。目を覚まして男は思う。男が蝶になる夢を見たのか、蝶が男になる夢を見ているのか。  どっちでもいい。今のタツキにとっての現実は、死に迫った身体で尊敬すべき教師の裏切りに身を任せているこの瞬間だ。  はあ、と息をついて、タツキは硬い床に頬を押しつけた。  どうすりゃいいんだ。 「何か質問は?」  いつものようにそう問われて、タツキは考える。いつものように無視すべきか、ここで聞くべきことは聞いておくべきか。  散漫になる意識をかき集めながら、衝動にまかせてうめき声を上げる。 「そう、言えば……なんで、七不思議なんかになぞらえてるんですか、ここ」 「ガーゴイルや魔術師のことを言っているのかな? それなら、ただの戯れさ。最初のいくつかが符合したのはただの偶然だけど、捕まえた女の子がそれに気付いて、すべては『七不思議』が起こしたことだと唱えたんでね。それは面白い着眼点だと思ったから、あまり『七不思議』から逸脱しないように動くことにしたんだ」 「志野田、アイカ……?」  ハンナと仲が良く、ユリンの友人だったという、見知らぬ少女の名を口にする。夏茨は少し黙ったあと、さっきユリンがひっくり返していった棚の下から一抱えほどの四角い缶を取り出した。視界の隅に映るその姿を見ながら、ずいぶん落ち着いているな、と思う。ハンナの身体はここにはない。そうなれば、もう少し取り乱すかと思っていたのに。 「そうだよ。君も忘れているだろうから、思い出させてあげようか」  缶の蓋を開ける音がした。中身を、夏茨がこれ見よがしに示す。  中に入っていたのは変色した人の骨だ。それでもそれが志野田アイカのものだと主張するように、タツキの記憶の中から彼女の存在が浮かび上がる。地味でおとなしい、三つ編みの少女。丸顔で、赤いフレームの眼鏡をかけていた記憶がある。クラスは違ったが委員会が同じで、同じテーブルを囲んで話し合いをした記憶がおぼろげに浮かび上がる。  マジかよ、と思いながら目を閉じた。夏茨が缶をしまう音がする。  そう言えば去年の冬から、ぱったり彼女の姿を見なくなった。なぜそこに疑問を抱かなかったのだろう。 「七不思議は諸説あって、先生が思い出せるだけでも七つじゃ済まなかったから、結局は八つ以上の七不思議を起こしたけどね。さっき、『生者を恨む落ち武者』が西貝くんを襲いに行ったはずだ」  それが佐脇トウヤか、と納得した。普段ならば間違いなく不快感を覚えるところなのだろうが、非日常に慣れて感覚が麻痺したのか、他人のことになど構っている余裕がないせいなのか、そんなものか、としか思えない。 「さあ、このくらいにしようか。先生はこれから、君たちが持っていってしまったハンナちゃんを取り戻しにいかなくちゃいけないからね。そのためには君の血が必要だ」  夏茨はタツキの右肩を掴み引きずり上げた。苦悶の表情を浮かべるタツキに構わず、夏茨は床に転がっていた包丁を空いた方の手で握る。 「ところで、どうして自分じゃなくて、ハンナちゃんを助けることにしたんだい? このまま放っておけば、君がじきに死ぬのは分かっているだろう? 君には代わりがいるし、ハンナちゃんは君と違って死ぬことなどないのに」 「優先順位の問題、でしょう。俺の身体を助け出したって、痛いだけで、治療ができるわけでもないし」 「これはまた冷静な意見だね。いつもそんな風に冴えた考えができれば、成績も少しはましになるんじゃないかな。まあ、もう遅いけどね」  部屋の中にはぬるい空気が満ちている。なま暖かく、わずかに辛く、時折ブランコがきしむような音をはらむ風。 「すぐに死なれては困るから、この辺りで失礼するよ」  包丁がタツキの右肘の内側をえぐる。冗談のようだと思いながら、思ったよりも勢いよく噴き出す血に視線を向け、すぐに逸らした。やはり血は駄目だ。感覚がないので痛みはない。どこか上腕のあたりで神経でも切れたかな、と思う。このまま動かなくなるのは嫌だと思ったが、思うだけでどうすることもできない。  夏茨が包丁を床に突き立てた。切っ先がわずかに床を削る。その包丁と刃を濡らす赤色を中心に白い光が散った。血の匂いをかき消すように硫黄の臭いが鼻をつく。臭いも光も強すぎる。いったいどれだけの力が渦巻いているのか、探る気にもなれない。タツキが生きている限り血は供給され続けるのだから、新たに力を呼び集めることはできるのだろう。  佐脇トウヤやガーゴイルを操っていたのはきっとただのW種魔法だ。単純なものなら大して力を必要としない。ユリンが作った濃度地図が正確なら、タツキの血の存在を抜きにしてもとてつもない量の力が集められている算段になるから、それを端から注ぎ込んでいけばこのくらいの副次現象は起こってしまうだろう。しかし、それにしてもめちゃくちゃだ。 「それにしても君は冴えてはいるが馬鹿だね。彼女を逃がしたところで、どうせこの学校から出られるはずがないのに。ここはハンナちゃんと先生のために作った遊び場なんだ。うっかり人を招き入れてしまうことはあっても、絶対に逃がしはしないよ」 「大丈夫……あっちには、春川さんが」 「たとえ大魔女の孫だろうが、所詮はただの高校生さ。先生に勝てるはずがないよ。ハンナちゃんは可愛い子だけど頭は弱いし、西貝くんは筆記試験の成績はいいが、魔法そのものについての認識がまだ甘い。相手にならないよ。こっちには『禁書』もあるしね」  キンショ、という言葉が咄嗟に思い浮かばず、しばらくして「禁書」なのだろうと思い当たった。中身はよく分からないが、響きからしてきっとろくでもない魔法でも載っているのだろう。 「大丈夫です」  もう喋る余裕などないはずなのに、それでも声を絞り出した。これだけは言っておきたい。言っておかなければならない。 「アキジは俺より魔法は上手いですよ。どこかで努力してるんでしょう。高宮に来たのは、別に冷やかしなんかじゃない、みたいですから。雪島さんは頭弱そうに見えますけど、意外に手厳しいこと言いますよ。春川さんは……あれを、大魔女と比べているうちは、先生に勝ち目はないと思います」 「神代くん」  夏茨はタツキの髪を乱暴に掴み、自分の方を向かせる。 「そろそろお喋りの時間はおしまいだ」  包丁が床から引き抜かれる。タツキは思わず目を閉じた。  その時、目を閉じたままでもはっきりと感じられる明るい光が目の前を過ぎた。夏茨のうめき声と、包丁が床に転がる重い音がする。  慌てて目を開けると、開けっ放しの扉の向こうに、ユリンとハンナが立っていた。  動けないアキジはまだ校舎の外にいるのだろう。ハンナは呆然と目を見開き、タツキと夏茨を見つめていた。ユリンの右腕には細いペンで描いた赤い紋様が増えている。 「ジュンちゃん先生……? え、なんで、どうして」  夏茨はやけに冷めた目でハンナを見ている。あれだけ執着しているはずの彼女に、どうしてこんな目を向けられるのか分からない。 「言ったでしょう。こいつは教師の皮を被ったゲス野郎だって」  もはや猫をかぶる気もないらしく、ユリンはそう言ってわざとらしく肩をすくめた。挑発のつもりだろうか。 「ラウラはこいつが殺したのよ。佐脇くんとやらもそうでしょうね」  夏茨はにやりと笑い、タツキを床に寝かせると、さっき戻した四角い缶を取り出した。その缶をユリンに見せまいとタツキは自分の真名を呼んだが、魔法を使うに足るほどの力が集まってこない。式を組み直し、慣れないながらも自分の血を使った。身体から離れた血は、タツキ自身とは別の存在だ。何とか打ち出した衝撃波は、夏茨の太い腕で魔法も使わずに弾かれる。 「それじゃあ、これは親友の君に返しておこうか」  夏茨の手から投げられた缶はきれいな放物線を描いてユリンの腕の中に収まる。「開けるな」と叫ぼうとしたが、焦りのせいか息が詰まり、かすれた声を出すのが精一杯だ。タツキの願いもむなしくユリンは缶の蓋を開ける。  そしてそのまま、呆然と立ちすくんだ。  逆にハンナの方が早々と環境に順応し、一歩前へ出る。 「先生、なんでこんなことしたの……?」 「君をいつまでも飾っておくためさ。外面はこんなに美しいのに、どうして中身はこんなにふさわしくない存在なんだろう。先生はそれが惜しくて仕方ないよ」  意味がわからないのか首をかしげるハンナの横で、ユリンは大事そうに缶を床に置き、右手を突き出した。憤怒の形相を浮かべる彼女の腕に、音を立てて力が収束していく。 「絶対あんたをブチ殺す……あんたを教師だと尊敬してたのが恥ずかしいわ。術者が死ねば、私たちは元のところに帰れるはず。それがどう見ても一番手っ取り早い!」 「ゆ、ユリンちゃん、落ち着いて」 「うるさい! こんなことは言いたかないけど、元はといえば全部あんたのせいなんだからね! あんたをお人形さんみたいに飾っておくために、こいつは自分の教え子攫ってブチ殺してんのよ! 分かったらボサッと見てないで、あいつを殺すの手伝いなさい!」  アクセントがガラリと変わる。全国各地から生徒がやってくる上、田舎にあるせいで地元民の少ない高宮の校内では、普段は標準語が使われることが多い。だからユリンが標準語圏の出身ではなかったのだと、タツキはついさっき知ったばかりだ。  ユリンの脳裏にも志野田アイカの記憶が蘇ったのだろう。仲が良かったのなら、なおさらその怒りが大きくなることは想像できる。 「ユリンちゃん、さっき自分で言ったこと忘れたの!?」 「あんな面倒なこと、やってる暇はない!」  ハンナは伸ばされたユリンの腕を掴む。止めるのかと思ったが、すぐにユリンの腕がまとう力がぐんと増した。 「よかった。ユリンちゃん、思ったよりいいキャラしてるんだね。いいお友達になれそうなんだよ……でも、殺すのはよくない」 「あんた、あいつが許せるの? ラウラだけじゃなくて、あいつ、アイカまで……それにこのままじゃ、神代くんだって死んじゃう。あんた、それでいいの?」 「諦めなければ、たぶん何とかなると思うんだよ。アタシはもう目の前のことから逃げるつもりないし、タツキちゃんだけでも救いたい。これがきっと夢なんかじゃないってことは、仕方ないから認めるつもり。でもね」  ハンナの銀髪が風にあおられて舞い上がる。刺すような強い力が肌に感じられた。タツキは歯を食いしばり、這いずって夏茨の元から離れようとする。その足を踏みつけられ、思わず舌打ちした。 「アイカちゃん達と同じところには、まだ先生に行ってほしくないの。万が一向こうで顔を合わせたりしたら、きっとすごく嫌だと思うんだよね」 「大丈夫。どうせこいつは地獄に堕ちる。天国のアイカと会うことはない」  ユリンとハンナを囲む光がオレンジから銀に変わった。そこで、ハンナがユリンの魔法を夏茨から逸らそうとしていることに気付く。まだそんなきれい事を言えるのかと、タツキは逆に感心した。  室内の力の流れがめちゃくちゃだ。四人がてんでに真名を呼び回るせいで、ろくな魔法が起こりそうにない。  ふとタツキの視界に、さっき夏茨の手から吹き飛んだ包丁が飛び込んできた。当の夏茨はハンナを捕らえるべく式を組み直しているが、実習室とは違うひどい環境の中ではなかなか上手くいかないようだ。タツキの身体から血と力が抜けていき、そこから立ち上る紫の光はそのまま夏茨の手の中へ消える。タツキは無事な左手を伸ばし、包丁を掴んだ。  夏茨はずいぶん消耗しているように見える。さっきから魔法の使いすぎだ。ユリンが吹き飛ばしたせいで、部屋の中にある強力な器具はあらかたがあるべき位置から外れ、床の図形はあまり意味をなさなくなっている。最後の「迷子」だった佐脇トウヤが死んでいるということは、もう他に血を抜くために攫ってきた生徒もいないのだろう。  死者の血は、生者の血に比べれば魔法式内での役割はずっと軽くなる。真名が変質してしまうから、これは仕方のないことだ。  タツキは夢中で刃を見つめる。脂汗をじっとりとかいた左手では、ともすれば包丁を離してしまいそうだ。みぞおちの傷はそれほど深くもないようだったが、痛いことには変わりない。勢いよく刺されたような気がするのだが、意外に上手くいかないようだ。かと言って、今さら右腕を刺してもなんの意味もない。  しばらくためらった末、タツキは喉に刃を押し当てた。  どこを切ってもいい。自分が死んでしまえば、ユリンは夏茨を殺せるだろう。刺し違いになる可能性は否定できないが、それでも犬死によりはましだ。 「タツキちゃん」  ハンナの声で手が止まる。 「みんなで帰ろう。アキジちゃんも一緒に、高校に帰ろう。まだ夏休みは残ってるんだよね。宿題は終わってる? アタシはこんなところで諦めないんだよ。五人も見殺しにしちゃったんだ。もう願望にすがりついて逃げたりしない。だからタツキちゃんも、人任せにしないで最後まで一緒に来て! ユリンちゃんだって、少しでも仲間が多い方がいいに決まってるんだ!」  そしてそのまま、夏茨の顔を睨みつける。 「見た目だけでも、先生に好きになってもらえてちょっと嬉しかったよ。ジュンちゃん先生のために伸ばした髪だもん。先生、アタシの憧れだったんだもん。でもアタシも、先生の見た目しか見てなかったのかもね。それはお互い様かな。ごめんなさい」  ハンナの言葉を聞いて、タツキは苦笑しながら身を起こした。自分の足を踏んだままの夏茨に目をやり、無言で包丁を逆手に持ち直す。  夏茨の視線がユリンの方へ向けられているのをいいことに、その太股に包丁で斬りつけた。スーツの生地に包まれた筋肉質の脚は、近くで見ると思ったよりも力強く見えた。 「先生、すいません。ほら、俺も世間で荒れてるって噂の十七歳なんで、一度くらいは暴れてみてもいいですよね」  手応えはあったが、想像とは少し違う衝撃がタツキの左手を襲う。中心こそ外したようだが、それでも奇跡的に刺さった刃を引き抜くと勢いのない血液が流れ出した。夏茨はタツキを蹴りつけようとしたが上手くいかない。返り血と出血と場を満たす力のせいで、全身がどろどろとしたものに包まれているような感覚がある。一瞬、左手にしびれるような感覚が走る。同時に視界が暗くなったということはただの貧血症状だろうか。タツキは包丁を取り落とし、重力に負けて床に倒れ込んだ。 「そうだよな……いつも委員長任せじゃ、申し訳ない」  つぶやいたタツキの視界の端で、突然天井が爆ぜた。暴れていた力が逃げ場を求めてそこから流れ出す。ハンナがその天井の穴を指さした。その指先から、力がオレンジ色の軌跡を描きつつ一直線に飛ぶ。さらに天井の穴が大きくなり、タイルが剥がれ落ち、コンクリートの中から鉄筋が突き出しているのが見える。あの真上は廊下だろう。 「ユリンちゃん、行くよ!」  ユリンはうなずき、ポケットから何かを取り出した。それを放り投げると、紋様を描いた右手で指さす。途端、空中でその何かは爆発四散し、少量の液体をまき散らした。ハンナは危なっかしい足取りでタツキの元へ近づくと、その背中を抱いて上半身を起こし、「掴まって」と背中を向けた。無理だろう、と思いながらもタツキは彼女の首に左腕を回す。右腕は動かないのだから仕方ない。夏茨はと見れば、天井の穴の方へと視線を向けたままだ。奥からバイオリンの音色のような、耳に心地よい和音が聞こえる。おそらく誰かが真名を呼んでいるのだろう。誰だ、と思っていると、突然天井の穴から竹刀が突き出す。一拍遅れて、その竹刀を握る主が顔を出した。 「これでいいのかな、春川さん?」 「ありがとう。無茶を言ってごめん」  竹刀の主――アキジは階下の光景を目にし、何か言いたそうに口を開いたが、そのまま黙って竹刀を構える。ハンナは意外にもしっかりした足取りで歩を進めていく。顔は見えないが、間違いなく真剣な様子だ。アキジは時間稼ぎをしてくれているのだろうか。ユリンはラウラの箱の真名を呼んだようだ。箱があった方向から、それらしい音とわずかな酸味を感じる。  ユリンが何のために魔法を使ったのかはわからない。戸惑うタツキをよそに、夏茨はなぜか余裕めいた笑みを浮かべる。 「逃げるのは自由だよ。逃げられるのならね」 「神代くんやハンナちゃんのこと、捕まえようと思わないんですか?」 「まあ、神代くんには君や西貝くんという代わりがいるからね。まずはこの部屋を立て直すことが先決かな。ハンナちゃんを手に入れたところで、君たちに逃げられては台無しだからね」  無言でアキジが何かの液体を穴から垂らした。すぐに臭いが伝わってくる。魔法の副次現象などではない、強い灯油の臭いだ。夏茨の顔色が変わる。 「よく間に合わせた!」  ユリンが一声叫び、素早く魔法を組み上げた。ハンナはユリンの側にたどり着く。タツキはハンナの肩に頬をあずけながら、眼前で起こる光景を見ていた。  ユリンの指先から光が放たれ、逆巻く流水のような音を立てて床に届く。先刻ユリンが撒いた液体の上に光の欠片が落ちると同時に、その光が勢いよく燃え上がった。 「先生、すいません」  アキジが言葉と共に、ほとんど空になった赤いポリタンクを放り込んだ。火がまき散らされた灯油に燃え移り、火勢が一気に激しくなる。ユリンは足元の缶を抱き上げ、ハンナとその背中のタツキを押し上げるようにしながら階段を上がった。そこへ、竹刀を杖代わりにしたアキジが片足で跳ねるようにしながらやって来る。ふと視線をやれば、廊下の真ん中に大穴が開いていた。白い煙がわき上がる。  ハンナが振り返りざまに魔法を使った。彼女の呼び声に答え、木製の床が音を立てて変質していく。切り出される前の大木に戻ろうとでも言うのか、廊下の板が立ち上がり、寄り集まり、ごつごつとした樹木の質感を得ながらでたらめに伸びていく。平らだった床は、すぐに原型を留めないほどに盛り上がり、密林のごとく変化していった。  夏茨は追っては来ない。代わりに、背後で激しい爆発音がする。さっき夏茨が立っていた真上の教室が壊れたのか、爆風で扉が外れて飛んだ。出口までのほんの少しの距離が、やたらと長く感じられる。ハンナはタツキの左手を強く握った。タツキはハンナの首に回す手に力をこめる。大丈夫だ、きっと何とかなる。四人が必死に校舎から出ると、それを待っていたかのように派手な爆発が巻き起こる。アキジがバランスを崩してその場に膝をついた。それでも彼は自分のことには構わず、タツキに「大丈夫か!」と声をかける。  ふと、何度も感じたあの圧迫感が全身を包んだ。ハンナの背中から降り振り返ったタツキの目の前で、旧校舎の二階の外壁がはじけ飛ぶ。  ――そして、突然フィルムを巻き戻すように修復を始めた。  あっけに取られるタツキの前で、玄関から吹きだしていた煙が止まる。完全には修復されなかった外壁が、大きなひび割れを何カ所か残したまま動きを止めた。その動きの最中、色とりどりの光と下手くそなオーケストラのような響きと中華料理屋の厨房のような匂いとスナック菓子のような塩気のある味と真綿のような感触が、まとめて身体に襲いかかる。 「解けた!」  ユリンが叫ぶと同時に、身体を包んでいた圧迫感が消える。ハンナが長く大きく息をついた。アキジはタツキと同じく呆然とその様子を見守る。 「あ……アハハ、たぶんこれで戻れたんだよ! みんなで! タツキちゃんも一緒に!」  ハンナが泣き笑いの表情を浮かべ、座るタツキの左腕に抱きついた。 「なんで……危ない、だろ。俺のことなんか、放っておいてくれても」 「嫌だよ。タツキちゃんが一緒じゃなきゃ嫌だ。タツキちゃんを助け出せないようだったら、火は点けない。そう決めたのはユリンちゃんだけど、でもアタシは、言われなくたってそうしたと思うんだよ」 「どうして、そんなに……」 「友達を助けるのに、理由なんかいらない!」 「全くだ」  アキジが同意の声を上げるのと、四人の目の前に野球のボールが落ちてきたのはほぼ同時だった。時を同じくして、すぐ近くでやかましい蝉の声が聞こえる。 「そうだ、病院! こんなことしてる場合じゃない。ちょっと待っててね! 病院に行くまで死んじゃだめだよ!」 「ここまで来て、今更諦められるかよ」  タツキの返答を聞いて、ハンナは満足そうに笑った。  気が抜けたのか、タツキは勢いよくその場にひっくり返る。  青い空に白い雲が流れていった。  血が足りないだろうか、強いめまいが襲ってくる。  自分の身を気遣うアキジの声を聞き流しながら、タツキはそっと目を閉じた。