七章  逃走  夏茨ジュンは大柄な男だ。縦にも長いが、横幅もどちらかと言えばたっぷりしている方だろう。その横幅は残らず筋肉で出来ているというわけではないが、かといって肥満体型というわけでもない。  その夏茨が握っているのは何の変哲もない包丁だった。魔法のための儀礼用剣ですらない、飾り気のないただの包丁。男子生徒の手から包丁が引き抜かれ、刃先から血が滴るのを、その男子生徒本人であるところのタツキはぼんやりと見つめていた。 「入ってくる時は、ちゃんと自分の名前と用件を言おうね」 「2年G組、春川ユリンです。夏茨先生をブン殴りに来ました」  どこまでが本気か判別のつかない口調で、ユリンが大人しく答える。その途端、なぜか笑いのスイッチが入ってしまい、タツキは腹を抱えて笑い出した。  なんだこの茶番劇は。 「やべえ、全然意味わかんねえ!」  こんな展開があってたまるか。きっとこれは夢だ。夢ならば突飛で当然だろう。きっとそのうちに目が覚めて、こんな夢のことなどすっかり忘れてしまうのだ。 「遊んでる場合じゃないでしょう」  ユリンに頬をつねられ、タツキは笑いを抑えられないまま不明瞭な声で抵抗の言葉をつぶやいた。悲しいかな、想像していたよりは痛い。  刺したあとで血が流れているということは、自分はまだ生きているらしい。正視するほどの根性はなかったので、代わりに周囲を見回した。元は実習室だったのか、色々な器具が所狭しと棚に並んでいる。しかし椅子や机はあらかた取り払われていて、部屋の隅に机が一つと椅子が数個、ほこりをかぶったまま積み上げられているだけだ。  床にはばかに大きな円が描かれていた。板張りの床はところどころどす黒く変色している。その上の空間では、時折さまざまな光や音が爆ぜた。夏茨がいるのは円の端で、その円の中心には、薄暗い実習室にはそぐわない天蓋つきのベッドが置かれている。  タツキは笑いすぎて滲んだ涙を拭いながらそのベッドに近づいた。大小のぬいぐるみとパステルカラーのクッションに囲まれて、銀髪の少女が眠っている。 「近寄っちゃ駄目だよ、神代くん。穢れが移ってしまう」 「それもそうですね」  髪が長くて、静かな、人形のような少女。  ベッドの上で、少女――雪島ハンナは落ち着いた寝息を立てている。 「春川さんの推理、かなりいい線行ってたんじゃないの?」 「そうみたいね」  これが彼女の身体なら、タツキ達が行動を共にしていた雪島ハンナは、きっと彼女本人の言葉を借りれば「タマシイ」というやつなのだろう。夏茨がタツキとベッドの間に立った。彼の手を汚す血の匂いの方が、よほど彼女に悪いと思う。  これだけ人間の血液があれば、魔法のための力を集めるのに苦労はしないだろう。夏茨の魔法に関する知識は大したことはないはずなのだが、どこか高宮以外の場所で魔法を学んだ可能性は否定できない。これほどの魔法を連発し、長期間維持することも、不可能というわけではないと思われる。信じたくはないが、こればかりは仕方ない。  ふざけた話だ。  ハンナに言おうとした時には止められたが、おそらくは志野田アイカをはじめとする今までの「迷子」も、タツキと同じようにここへ連れてこられたのだろう。  アキジとユリンの身体は見あたらなかった。彼らは生身というわけか。 「というわけで先生、とりあえず私たちをここから帰してくれませんか」 「駄目だよ。帰ったら春川さんは警察に駆け込むだろう?」 「当たり前じゃないですか。血を目的として人を傷つけるのは重罪ですよ」  律儀な人だなあ、とタツキは横目でユリンを見た。口からでまかせで、絶対に他人には話さない、とでも言っておけばいいのに。 「それに、先生はまだ西貝くんを捕まえていないんだ。彼もなかなかいいものを持っていると思うんだけれど、なかなかガードが堅くてね。ところで神代くん、西貝くんは今どこにいるんだい?」 「さあ、その辺にいるんじゃないですか。ところで、俺はそんなに不用心でしたかね」 「それはもう。神代くんはバカだからすぐに捕まるだろうと思っていたら、本当に簡単に捕まえられたから驚いたよ。紅茶に薬を入れたことには気付いていたかな?」 「気付くわけないじゃないですか。気付いてたらとっくに何とかしてますよ」 「だろうね。先生も、君に気付かれない自信があったから入れたんだし」  そんな会話を交わす間にも、タツキの身体はぐったりと地面に横たわり、右腕を血に染めている。目はわずかに開いていたが、何かを見ている様子はない。白いシャツはあちこちが血で汚れていたが、それが別の傷のせいなのか、右腕から流れた血がついたものなのか、わざわざ目をやって確かめる度胸はなかった。 「西貝くんは後でゆっくり仕留めようと思って、取りあえずこちらに引きずり込んだんだ。論理の成績はいいが、実技の成績は今ひとつでね。ポテンシャルが高い割には、簡単に勝てるような気がしたんだよ」 「私はどうしてここに来たんですか?」 「あれは不幸な事故だね」  ユリンの問いに夏茨は答える。夏茨とタツキは、それぞれ逆方向に後ずさってベッドから距離をあけた。タツキは苦い表情を浮かべる。 いいから襲ってくるなら襲って来いよ、こっちは心の準備をして来てるんだから、と言い出したい気分だった。わざわざ自分で墓穴を掘る意味もないので何とかこらえたが、ハンナならばしびれを切らしてさっさとそう怒鳴りそうだ。 「神代くんと西貝くんがハンナちゃんを捜していてね。こちらの存在を気取られないようにと対抗呪文を組んでいたら、そちらに力を取られて、この箱庭と現実世界との垣根が薄くなってしまった。そこにちょうどいいタイミングで君が現れて、あの首無しの魔法使いにちょっかいを出したものだから、計算が狂って君までもがこちらへ来てしまったんだよ」  部屋の隅に立てかけられた姿見に目をやり、タツキは納得した。東棟の大鏡の中で見たのは、まず間違いなくこの部屋の映像だ。あの魔法は、学校中の鏡を呼んで、映った像の中からハンナを捜すもの。魔法式の中には、これら鏡と共にタツキの真名も組み込まれている。その魔法を夏茨が無理にはね返したために、術者と調査対象がごちゃ混ぜになった魔法がうっかり働いてしまったのだろう。だから鏡は命令の通り、探し当てた彼自身の姿を映した。  推理小説の探偵が推理を披露する場面に似ている、とタツキは思った。犯人が探偵に追いつめられ、自らの罪を暴露する場面でもいい。だが、ここで問題なのは、今現実に起こっているこの事件はまだ終わっていないし、犯人だってちっとも反省なんぞしている様子を見せていないということだ。  そう、この担任教師はちっとも反省していない。なぜなら今だって、床に倒れたタツキの身体を抱え上げ、その喉元に包丁を突きつけているところなのだから。 「……先生」  力をこめれば傷がつくだろう。切っ先が喉仏の斜め上に当たり、わずかに血を滲ませている。ユリンは奥歯を噛みしめ、鋭い表情で夏茨を睨みつけていた。そんなに怒らなくてもいいのに、と相変わらず他人事のように思う。 「どうしたんだい、春川さん?」 「ひどい。何が目的か知りませんけど、そんな人だなんて思いませんでした。……というか」  ユリンの足元で風が渦巻いた。何をする気か、と見ていると、風はオレンジ色の光をはらんで広がり、夏茨の方へと流れていった。夏茨は包丁を抱いた身体の喉から離し、血が止まりかけていた右の手首をかき切った。流れた血が床に落ちるのとほぼ同時に、強烈な柑橘系の香りが部屋を満たす。 「うちらがガキだからってナメてんじゃねえぞ、畜生が」  一瞬、それがユリンの口から発せられた言葉だと理解できなかった。  ユリンはそばに立つタツキの腕を掴む。自分が数メートル先で倒れているという非現実的な状況に首をひねっていたタツキだったが、無理矢理に彼女の魔法に巻き込まれて我に返った。 「ボケッとしてる暇があったら手伝え! 死にたいんか!」  どんどん化けの皮が剥がれてないですか、などと指摘する暇もなく、ユリンの魔法はタツキの力を計算に入れて発動する。この空間に濃く澱んだ力を吹き飛ばそうとでも言うのか、叩きつぶされそうな強風が決して狭くはない部屋の中を暴れ回る。棚から器具が落ち、大きな台が倒れ、あちこちで危なげな物音がした。床に描いた円の上に置かれていた一抱えほどの箱が、風に飛ばされて壁にぶつかり音を立てる。その勢いで蓋が開き、中に入っていたものが蛍光灯の頼りない光の下にまろび出た。  ――一瞬、音が消えたような気がした。  そんなことがあるはずはない。ユリンの魔法と夏茨の対抗魔法がぶつかって鼓膜を刺激し、風の音と相まってとてつもない不協和音を奏でているのだ。  それでも、タツキとユリンの視線はその箱の中身に釘付けになる。  箱の中に入っていたのは、腐りかけた人の身体だった。  死体は高宮の女子制服を着ている。ショートの銀髪は輝きを失い、腕は妙な方向にねじれていた。タツキはとっさに視線を逸らす。  ふと気付くと風が止んでいた。ユリンがその場にへたり込む。夏茨はそちらを一瞥すると、やれやれ、とでも言いたげに首を振った。眉を残念そうにひそめ、点数の悪いテストを返却する時のような、演技じみた表情を浮かべる。 「あれでは、もう力を紡ぐ役にも立たないね。そろそろ換え時だ」 「せ……せんせ、い」  一瞬前までの気迫はどこへやら、ユリンは掠れた声でそうつぶやいたきり押し黙る。タツキは彼女と箱の間に立ち、夏茨の方を見た。  恐ろしさよりも怒りよりも、哀れみが先に立った。朝のホームルームで出席を取るのと同じ声で、部活をやめようとするタツキを引き留めるのと同じ口調で、生徒の抜け殻に包丁を突き立てながら、死体の腐臭に眉をひそめる。  時折、床の図形のあちこちから香りが巻き起こされては腐臭を隠すように広がるが、そんなものはものの数秒で消えてしまう。 「何……なんなの、それ、だって」  ユリンは腰を抜かした格好のまま、重そうに右手を上げ、タツキの方を――箱がある方角を指さした。 「ラウラじゃないの……?」  夏茨が眠るタツキの身体を離し、銀髪の少女を箱の中へと収めた。壁にぶつかった衝撃で歪んだ蓋を、力ずくではめ込む。 「そうだね。C組の岸本さんだ」  その名前には聞き覚えがある。ハンナが言っていた、「迷子」の一人、岸本ラウラ。 いや、それ以前にも会ったことがあるではないか。気の強そうなつり目に、これまた目つきの鋭さを強調するような化粧。細身ながら締まった少年のような体型に、銀髪でなければ男と見間違いそうな短髪。快活な笑い声が耳に蘇る。 待て、と頭のどこかで警鐘が響く。タツキは彼女を知らないはずだ。ハンナにその名を聞いた時、自信を持って否定することができたじゃないか。 それなのに、どうしてこんなにもはっきりと彼女のことが思い出せるのだろう。 「殺したの……? あんたが? この鳥頭のために?」  ユリンは眠るハンナを指さす。まなじりから堰を切ったように涙が流れ出した。ゆっくりと頬を伝い、顎へ流れ、制服の胸元へとしたたり落ちる。 「中身なんかどうだっていいさ。先生はいつも言っているだろう? 人は見かけじゃない、と言うけれど、いざという時に大切になるのはやっぱり見た目だ、ってね」  タツキの染髪をとがめた時に口にした台詞を、夏茨は繰り返した。それでもその時タツキは「校則は破ってなんぼ」と開き直っていたし、高宮にはそもそも魔女やらその血を引く女生徒やらがいる。彼女たちのおかげで高宮の生徒の髪色には相当のバリエーションがあり、今更髪を染めたところで大して目立ちはしない。染めた後でもタツキの髪は暗い茶色であることもあり、特に罪悪感はなかった。  しかし、あの時は聞き流していた夏茨のこの言葉が、今はやたらとカンに障る。 「雪島ハンナを知っているのかな? この子は見ての通りの美人だが、あんなに頭の悪そうな発言が飛び出してはこの美しい顔が台無しだからね。こうして先生のもとで眠っている方が、彼女のためになるんだよ」 「あの鳥頭に、ラウラを殺すほどの価値があるとは思えない」  ユリンがぼそりとつぶやく。表情を変えないまま、涙を拭いもしない。  岸本ラウラは、この人形と空間を維持するためだけに力を搾り取られて死んだのだろうか。箱の中の彼女は答えないが、タツキが彼女と同じ運命を辿るのならば、それはおのずと分かることだ。もっとも、その結末をタツキが知ることはないだろうが。 「価値観は人それぞれだよ、春川さん。先生はね、どんなことをしても彼女をここに置いておきたいんだ。ここにいる限り、彼女は時を止めたままだ。醜く太ることも、見苦しく痩せることも、このあどけなさを失うこともない」  論理空間とやらを維持するには、いささか強大すぎるような力。その余剰分は彼女のために注ぎ込まれていたのか、とタツキは想像する。あまり自分の思考に自信はなかったが、それならば少しは納得がいく気がした。 「彼女と出会った時に、これは運命だと感じたんだ。魔法とは無縁な学校に進学したのも、教師になったのも、高宮に戻ってきたのも、きっと彼女と出会うためだったんだと思ったよ。中身はいらない。たとえうわべは上品でも、春川さんのように、心の底では薄汚い言葉を吐きながら先生のことを嫌っているかもしれないんだからね」  ユリンは箱の方に目を向けたまま動かない。 「ああ、そうか。岸本さんは先生が『神隠し』に誘ったんだっけ。彼女がいなくなって四ヶ月も経つのに、みんな何も言わないんだから、冷たいよね」 「冷たいって……そういう魔法なんですよね? その人の存在を、『なかったことにする』」 「うん。でも見ての通り、彼女本人を前にすれば魔法は解けるし、破って破れない魔法じゃない。この魔法の存在に気付くことができれば、きっとみんなにも破れるよ。まあ、それが一番難しいんだけどね。ちなみに、本人と会えば効果が切れるというこの魔法の性質は、『神隠し』の魔法を作った人間がもともと長期旅行のためにこの魔法を作ったことに起因するんだ。責任ある立場にいたその魔法使いは、旅行中に何らかの方法で呼び戻されることを恐れた。旅行をしている間は誰にも捜して欲しくはないし、自分のことを思いだして欲しくもないけれど、ちゃんと後で魔法が解けるように保険をかけておかないと、万が一解くことに失敗したら寂しいことになるからね。あとは、まあ、イタズラ防止の意味もあったのかな。それでも強力すぎて、すぐに禁呪の仲間入りを果たしたんだけどね」  授業中によく挟み込まれる雑学講座のように、やけに気合いの入った様子で饒舌に話し続ける夏茨。感心するのが一割、あきれたのが六割、苛立ちが三割くらいの内訳で、タツキはそっとため息をついた。 「その魔法があるから、俺たちがいなくなっても誰も捜しに来る奴はいないってわけですか」 「そうだね。たとえここで死んでも、岸本さんがずっとこの論理空間の中にいれば、先生が魔法を解かない限り彼女の存在が思い出されることはないというわけだ」  夏茨が得意げに言ったその時、頭上で机がひっくり返る派手な音と、ハンナの叫び声が聞こえた。そう言えば、とタツキは思う。アキジとハンナはどこへ行ったんだ。自分たちの後ろをついて来ていたはずなのに、一体何をやっているのだろう。  夏茨は明らかに上階の様子を気にしているようだった。ユリンがタツキの肩にすがって立ち上がり、どうしたものかと夏茨と天井の間で視線を行き来させる。  タツキは夏茨と、その足元に転がる自分の身体に目をやった。文字通り魂が抜かれたような様子で、ぼんやりと目を開けたまま、右腕をどす黒い赤色に染めている。痛そうだ、と素直に思った。本来タツキの真名と力があるべき場所だというのに、あまりあの身体には戻りたくない。  それでも、行かなければならないのだろう。  タツキは一歩足を踏み出した。ヒット・アンド・アウェイ、一撃で決めて逃げる。背後のユリンは勝手に逃げてくれるだろう。夏茨とタツキの間にはハンナが眠るベッドがある。どのようなルートを通るのが最適か、冷静に判断する。小学校や中学校から高宮にいる生徒にはとてもかなわないけれど、これでもタツキは高宮生の端くれ。魔法を使うために訓練させられるから、ある程度正確な距離の目測は可能だ。  最適解にたどり着き、タツキは床を蹴った。 「させるか!」  夏茨がタツキの身体の前に立ちふさがった。しかしタツキは自分の身体には目もくれず、ベッドの上のハンナに近づく。彼女の身体にかけられた薄い布団をはね除けると、夏茨が包丁を構えて突進してきた。こういった咄嗟の動きに対応するには魔法は向いていない。なんとかステップを踏んで切っ先を避け、機をうかがう。夏茨はタツキとハンナの間に割り込むようにして、がむしゃらに包丁を振り回した。ユリンのように足にでも魔法式を描いておけば良かっただろうか。そうすれば、一秒程度の準備時間で蹴りを強化するくらいのことはできる。  包丁を振り回す夏茨に対し、攻めあぐねるタツキ。不規則なその包丁の軌道を読めるほど、タツキは物騒な人種ではない。  その時、そっとベッドの方へと回り込んでいたユリンがハンナの肩を捕まえた。脇の下に手を回し、ベッドから彼女を引きずり下ろす。それに気付いた夏茨は包丁を振り下ろそうとしたが、ユリンはハンナの身体を楯にした。そうなっては彼女を傷つけることもできず、夏茨は舌打ちして手を止め、転がしたままのタツキの身体へと大股で近づく。  夏茨が次にやろうとすることは想像がつく。短時間で力をかき集め、ユリンの足を止めるための魔法を使う。そのために自分なら何をするかと考えた。すぐに答えは出たので、タツキは勢いよく駆けだした。  夏茨が包丁を振り上げ、眠るタツキの腹に切っ先を突き立てる。  タツキはハンナを引きずるユリンの元へ駆け寄ると、ハンナの足を抱えて走り出した。彼女の肩を抱えたユリンが当惑した表情を浮かべる。タツキは構わず、いつの間にかほとんど閉まっていた扉に駆け寄るとそれを蹴破って外に飛び出し、階段を駆け上がる。  身体があからさまな変調を訴えているが、問題ない。まだ走れる。  開けたままの扉から濃密な力が溢れだし、タツキの視界が一瞬虹色の光に覆われた。もはや何の音なのか判別もつかない大音響が鼓膜を揺るがし、ねばついた湿気と鋭い痛みと、酢とコーヒーを混ぜたような味がラベンダーの香りと共に襲いかかってきた。拷問のようなその衝撃に耐えて何とか階段を上がりきり、目に付いた外への出口へと走る。ユリンが必死に追いすがってくるのが分かった。全力で走るタツキの足について来ているのだから、彼女が火事場の馬鹿力を出しているか、そうでなければ、タツキの方がいつものように走れていないのだろう。  突然そばの教室の扉がはじけ飛び、中から何かが勢いよく吐き出された。再び机が倒れる音が校舎中を揺るがす。タツキが速度を緩め振り返ると、そこには廊下を横切るように点々と落ちた血と、廊下の壁に叩きつけられて呻いているアキジの姿があった。  ハンナの身体を外に運び出すと、ユリンは踵を返して旧校舎の中へと戻ってくる。しばらくして、ハンナはアキジに肩を貸しながら戻ってきた。  アキジは出口のすぐ外に座り込み、制服のズボンをまくり上げる。左足のふくらはぎに深い裂傷があり、今しがた廊下に落ちていた血はこの傷からのものだろうと思われた。しかしアキジはその傷よりも、足首を押さえて荒い息をついている。先ほども引きずっていたその足首は、明らかに腫れ上がっていた。 「大丈夫か?」 「いや、あんまり……挫いたみたいだ。歩けそうにない」 「何があったんだ?」 「……悪い……ちょっと、話したくない」  そのままアキジはゆっくりと地面に横になった。身体を丸めて苦しげに咳き込む。 「神代、お前が、何をしてたのかは知らないけど、……っ」 「もういい、話は後だ。喋るな」  後、なんてものがあるのかどうかは知らなかったが、取りあえずそう声をかけるとアキジはうなずいて目を閉じた。 「あんた、他人の心配なんかしてる場合?」 「どうだろう。ヤバいような気はしないでもないけど」  アキジは寝かされているハンナの姿に気づき顔を上げた。何か言いたげに口を開きかけたが、その先の言葉は咳に紛れてしまう。 「春川さん、あんたは大丈夫? その身体、本物?」 「大丈夫よ、ちゃんと制服や靴の真名も感じられる。幽霊なんかじゃないわ。……それにしても、さっきは変なところを見せちゃって悪かったわね」 「いやあ、面白かったよ。いい冥土の土産になりそうだ」 「あら、まさかこのまま死ぬ気なの?」 「あれじゃあ助からないだろ、もう」  何だか動くのが億劫になって、タツキはその場にしゃがみ込んだ。やけに腹が減る。これは自分の身体から「力」が抜けていく感覚なのだと、今になってようやく気付いた。ちょっとやそっとの魔法を使ったところで、体内の力はそれほど減りはしない。けれど出血があれば、その血と共に大量の力が抜けていくことは避けられない。ハンナにもらったリンゴにも、気休め以上の効果はなかったのだろう。 「ふうん、もう諦めちゃうんだ。私が見込んだ通りの腰抜けね」 「何だよ、それ」  ユリンはタツキの隣に座った。数歩離れたところで、アキジは再び目を閉じてじっとしている。 「私は高宮の創設者であるセイカおばあさまの孫で、両親も魔法使い。高宮には幼稚園からいるの。自分で言うのもなんだけど、成績は決して悪くないと思うわ」  突然そんなことを言い出され、タツキはユリンの横顔を見る。ふと、その視界にもやがかかったような気がして、慌てて目をこすった。 「何と言ってもおばあさまの孫だから、成績なんて良くて当たり前よね。おばあさまの孫だから、しっかりしていて当たり前。性格もよくあるべきよね。運動もできるんじゃないかしら。将来は高宮の大学を出て、高宮財団の関係企業に就職ね」  頬杖をついて遠くを見ながら、ユリンは不快そうな表情で語り続ける。 「おかしな話よね。私は銀髪の魔女でもないんだから、そう高いポテンシャルを持ってるわけでもないわ。幼稚園から来てる高宮生なんて、どのクラスにも少なくとも五人は混じってる。両親が魔法使いなのは、高宮の生徒としてはちっとも珍しいことじゃない。私たちの親くらいの世代より下なら、生まれた時にはもう魔法が当たり前に存在していたわけだし、魔法使いもぐんと増えていたものね」  ふとユリンの足に目をやった。ずり落ちた靴下のかげからのぞく、真っ赤な紋様。タツキの視線に気付いたのか、ユリンは靴下を直す。本当に性格のいい優等生は、こんな下品な魔法を使わない。 「正直、天井も見えてるのよね。おばあさまの孫だから、ってちやほやされても困るだけ。私よりも魔法の才能がありそうな人間なんて、いくらでもいるじゃない。例えば、あなたみたいにね」  突然ユリンに視線を向けられ、タツキの心臓が跳ねた。その彼女の顔が、ふとソフトフォーカスをかけたように滲む。何度か目をしばたいて、再び目をこすった。 「ラウラだって、私よりはずっと才能のある魔法使い……だった、わ。西貝くんも、魔法を使い始めて四ヶ月だなんて、とても信じられない。凄いわよね、普通やらないわよ、普通高校からの編入なんて。バカだとしか思えない」  当のアキジを目の前にしていながら、ユリンはそれを意に介する様子もない。 「なんでわざわざ、こんな田舎のツブシの効かない学校に来るのかしら。本当に……もう、みんな私をバカにしてるようにしか見えないわ。私に選択権がないのは分かってるくせに。それでいて都合のいい時だけおだてて乗せて、陰でこっそり笑ってるのよ。大した実力もないくせに、なにが大魔女の孫だか」  ユリンは唇の端を歪めた。ちっとも楽しくなさそうな笑みだった。 「私ね、あなたが嫌いなのよ、神代くん。実力がないわけじゃないのに、いつもボーッとして何もかもサボり倒して。それなのにちっとも苦しそうな様子もないし、それを気に病んでる感もない。少しは足掻いてみなさいよ。諦めが早いのは何の自慢にもならないわ。もしも諦めてるんじゃなくて、あなたなりの信念があって自堕落に生きてるって言うんなら、私はあなたに嫉妬する。どっちにしろ、絶対に好きにはなれないわ」  反論はできない。否定もできない。本当に何も考えていなかっただけで、特に信念などあるわけがない。ただ、必死にならなくても生きていけるし、目先の課題だけはギリギリで通過し続けているし、それ以上のことは望もうとも思わない。 「だからサッカー部の子に色々吹き込んで、あなたを孤立させてみたりもしたのよ」 「え?」  部内の人間関係が崩壊しているのは、てっきり自分の社交性のなさが原因だと思っていたのだが、まさかそんなところに原因の一端があったとは思わなかった。しかしそんな所から攻めてくるあたりが女の子だな、と思う。 「それでもちっとも困った風じゃなくて、あっさり来なくなってあっさり辞めちゃうんだもの。あなた、サッカー好きじゃなかったの?」 「そりゃ、好きだけど……あんなに面倒な思いをしてまでやるほど好きじゃない」  そんなことを言ったら、真面目に活動をしている運動部の生徒に怒られそうだ、と思いながらタツキは答えた。サッカーは好きだったはずだ。いつからあんな風に楽しめなくなってしまったのだろう。 「他に、何か好きなことでもあるの? 将来なりたいものとか」 「趣味も夢も、これと言えるようなものは何もないよ。行けるところに行くし、やれることをやる。高宮に来たのは勢いと流れからだしなあ」 「ふうん、そんなものかしら。……話を戻すけど」  ユリンは視線を前方に落としたまま、タツキの方へと身体を傾けた。 「あんた、このまま死んじゃっていいの?」 「しつこいな。たぶんもう手遅れだって言ってんだろ」 「そんなこと言って諦めるわけにはいかないのよ」  地下で起こったことが嘘のように、のどかな蝉の声が響いていた。遠くからはバットが野球のボールを打つ高い音。校舎の脇からわずかにのぞく校庭では、どこかの運動部がジョギングをしている。  まったく、平和な光景だ、と思った。 「私がついているのに、あなたが死んだりしたら困るじゃない。助けられないなんて恥じゃない。だからせめて私のために、なんとか生きのびなさい。もし死んだりしたら、一生恨んでやるからね」 「おお怖い」  見上げると空がやけに青かった。白い雲がゆっくりと流れていく。陽光で汗ばんだ肌を冷やすように、木々の間を抜けた涼風が通りすぎていった。 「でも、あんたが俺を恨む筋合いはねえだろ。だいたい、もう岸本ラウラは死んでるじゃねえか。ここで俺が殺されたって、それは恥か? この状況じゃ、誰もあんたを責めないだろうし、責められないだろうよ」 「そんなことない」  だだをこねる子供のように、ユリンは膝を抱き、眉根を寄せる。 「みんなが何も言わなかったとしても、私がいる。私はきっと自分を責めるわ。あんたは逃げ出して、いずれ身体が崩れれば真名が変質して、そのまま力が風に散って痛みもなく死んじゃって、それでも満足なのかもしれない。けど、残された私はどうなるのよ。それって、どうしようもなくムカつくわ」 「厳しいね」 「そうかしら。人がいなくなるって、嫌なものよ。……ところであなた、さっき『自分がやるべきことを教えてくれ』って言ったわよね。文句は言わないで従う、とも言ったわよね?」 「言ったかも」  何となく、彼女の声が聞き取りにくくなってきたような気がする。  それを自覚した途端に眠気が襲ってきた。何でもない風を装って、会話を続ける。 「あなたがやるべきことを教えてあげる。生き延びなさい。生きてここから帰るのよ。それで、もう一度向こうに帰るのよ」  タツキはうまく答えを返せず、正しい答えを期待するようにユリンの顔を見た。驚くほど必死な彼女の顔が、目と鼻の先にあった。 「もう一度、先生のところに行きましょう。そこで、あなたの身体を取り戻す。保存液などの混ぜ物のない血の魔法式内における強度は、時間をおけばおくほど下がっていくわ。それに今や、この大量の力が注ぎ込まれていたハンナちゃんの身体もここにある。先生が正確に私たちの位置を推定することはかなり難しいし、出来たとしても、術者からの距離がありすぎて魔法はかかりにくいはずよ。だからあの地下から直接こちらに魔法が飛んでくる気づかいはないし、先生の元にある力も少しは減っているはずだわ」  常識的な魔法の性質を並べ上げながら、ユリンは指を折る。 「無駄だよ。いくら春川さんだって、そんなことすれば下手したら殺されちまうかも」  その時、アキジが不意にユリンの名を呼んだ。  彼の視線の先で、ハンナが顔をしかめ、そしてゆっくりと目を開けた。