六章  ダンス・マカブル 「図星、ってことかしら?」  ハンナが消えた廊下に出て、ユリンが静かに微笑んだ。 「まだ何もわかんねえだろ。あんたが雪島さんを知らないのだって、学年が違うんなら当たり前だ」 「百歩譲ってそうだとしても、食事をとらずに春からずっと、つまり少なくとも四ヶ月以上は生きてる人が、まともな人間であるわけがないわ」  アキジも小さくうなずいた。 「僕だって、何日かまともなものを食べていないだけで思ったより辛い。科学部の冷蔵庫から食べられそうなものを勝手に貰ってきたけど、あれ賞味期限も怪しいからな……」 「まあ、細かいことを気にしちゃいけないわ。さっきのお菓子だって、実は賞味期限ちょっと過ぎてたし」 「え?」  タツキの不安げな視線を受けて、ユリンは明るく笑う。 「そりゃあ、この空間が去年の九月に出来たんなら、置いてある食べ物はその時のものになるんじゃない? 校庭のリンゴの木や、園芸部の温室の中身は安全だと思うけど」 「分かってて食べさせたのか?」 「だから責任もって、私も一口食べたじゃない」  けろっとした顔でそう言われ、タツキは不安げに腹のあたりを押さえる。今のところ、まだ異常はない。 「大丈夫よ。おかしな味はしなかったでしょう?」 「まあ、確かに味は普通だったけど」  ユリンはひとしきり笑ったあとで、そばにあった女子トイレの扉に目を向ける。 「七不思議のひとつ、女子トイレに現れる女生徒の幽霊、か。案外、ハンナちゃんはあの幽霊だったのかもしれないわね」 「あれ、あんた七不思議には反対なんじゃねえの?」 「超常現象としての七不思議なんかあるわけないとは思ってるわ。でも、その七不思議自体がちゃんと魔法的または科学的に説明できるものなら、私は受け入れるわよ」 「そんなもんかね」  ユリンは自信たっぷりにうなずいた。アキジが横でこめかみに指を当て、無言で頭痛を訴えている。 「女の考えることはわからない……」 「あら、それはちょっと聞き捨てならない発言ね。男だから、女だからって問題じゃないでしょう?」 「いや……何というか、その調子の良さが僕の姉によく似ているんでね」 「あら、お姉さんがいるの?」 「姉が一人、兄が一人、弟が一人。僕は四人兄弟の三番目」  勝手に彼のことを一人っ子だと思っていたので、タツキは驚いて目をしばたいた。タツキにも二つ年下の妹がいるが、ユリンとは正反対の大人しい少女だ。もっとも、猫をかぶっているだけだという可能性は否定できないが。  そういえば妹は元気だろうか。ずいぶん長いこと連絡を取っていない気がする。高宮の敷地内は携帯電話の電波が入らず、電話と言えば共有の公衆電話だけなので、つい家族への連絡を怠ってしまう。筆無精のタツキには、手紙を書くなどという選択肢もない。  思えば、タツキが妹と同じ中学三年の夏休みを迎えたころには、まさか高宮なんかに来ることになるとは考えてもいなかった。地元の友人に誘われて、県の中心部にある魔法教室をのぞきに行ったのが夏の終わり。その時はただ、ちょっとした魔法が使えたら便利だろうな、程度の考えでいたのだが、なぜか筋があると見込まれてしまったらしく、友人そっちのけで高宮の受験を勧められた。どうも、その教室を開いていた魔法使いが高宮の関係者だったらしい。  学費の問題があってためらっていたタツキだが、奨学金が取れなければ蹴ればいい、と言われるままに高宮を受験。例の友人も一緒に受験したのだが、結局タツキだけが受かり、県立高校を蹴って高宮に通うことを決めた。  なぜ急にこんなことを思い出したのかといえば、それはもう、今ちょっと現実逃避したい気分だから、と言うほかない。  どうして高宮なんかに来てしまったんだろう。友人と一緒に県立の普通高校に行けばよかった。アキジのような編入など狂気の沙汰としか思えない。魔法などというものはただの専門技術に過ぎない。高宮では授業の三分の一程度が魔法関係の授業に取られているが、この程度のレベルの授業なら、その気になれば後で専門学校にでも行って受けることは可能だろう。確かに高宮を卒業しておけば就職は楽になると言うが、それがどうしたと言うのだろう。そんなものは、平穏な生活には代え難い。  高宮にさえ入らなければ、こんなわけの分からない事件に巻き込まれることもなかったのだ。  じっと自分の右手を見ながら、鏡の中の映像を思い出す。  だいたい、リンゴ一つで育ち盛りの高校生が四日間も持ちこたえるわけがないじゃないか。  ユリンの言葉と、ハンナの反応と、自分の体調と、鏡で見た自分の姿を照らし合わせれば、結論は出る。  タツキは反射的に廊下を走り出した。ハンナを捜さなければ。  彼女が死んでいるというなら、たぶん、タツキも既に死んでいる。  ハンナを捜して走り回っていると、廊下の角で息を切らしたアキジと鉢合わせする。なまじタツキの足が速いのが災いしたかもしれない。アキジはタツキの腕を掴み、「落ち着け」と彼をなだめた。 「うるせえ! 放せ、早くあいつのところに行かないと」 「行き先には心当たりがある」  タツキが動きを止めると、アキジの手が離れた。早足で歩くアキジの後を小走りについて行く。アキジは三階に上がると、そばの教室に入り、窓を大きく開けた。 「ほら、やっぱりね」  アキジが示した窓から身を乗り出すと、二階の窓の上に張り出したコンクリートのひさしの上で、ハンナが身を縮めていた。背後にあるのはトイレだ。トイレの窓は小さいから、ハンナが座っていても中から見つかる気づかいはない。  ハンナはタツキの声を聞いて、小さく肩を震わせる。 「……ここのこと、アキジちゃんに教えたのは間違いだったみたいだね。何しに来たの、タツキちゃん?」 「あんたを捜しに来たんだよ。このまま逃げられたら不愉快だからな」 「放っといてよ。別にアタシなんかがいなくたって、タツキちゃん達にはユリンちゃんがいるじゃない。あの子に任せておけば、きっと勝手に何とかしてくれると思うんだよ」  タツキの方を見もせずに、ハンナはしゃがみ込んだまま、眼下の中庭を見下ろしている。 「まあ、確かにそうかもな。やっぱり春川セイカの孫だけあって、よく出来る人だし」  窓際の机を足がかりに桟を越え、タツキはひさしの上に降りる。菓子やパンの袋が散乱した幅一メートル半ばかりの足場は、乗ってみると思ったよりも頼りなく感じられた。おっかなびっくり歩を進め、ハンナの横にしゃがみ込む。アキジは窓から身を乗り出した格好のまま、困ったように二人の方を見ていた。 「でも、そしたら俺、もう春川さんには会えないかもな」 「何言ってるの、タツキちゃん? もしここが論理空間なら、ここが消滅した瞬間にアタシ達は……この中にいる人は全員、平行世界、っていうか元の学校に戻れるはずなんだよ」 「その時に、まだ生きてりゃな」  ハンナが目を見開いてタツキの方を振り返り、驚いたような表情を浮かべた。 「な……何言ってるの、タツキちゃん? 意味が分かんないよ」 「雪島さん。中学から高宮にいたなら、俺よりは色んな話を聞いたことがあるだろ? さっき春川さんが言ってた、魂と肉体がなんたら、って話、知ってたら教えてほしいんだ。俺にも西貝にも分かるように」 「知ってるよ。ヒマだったから、図書室でいっぱい魔法書読んだもん。全然難しい話じゃない。たとえばアタシという存在は、この身体と、その中を巡る『力』から出来てるよね。でもここですごい魔法を使えば、アタシのこの身体から『力』を外に追い出すことが出来るんだよ。追い出された力はそのままだと四散しちゃうし、そうしたらアタシは身体ごと死んじゃうんだけど、その力をそっくりそのまま、カタマリとして保存する魔法があるの」  タツキは魔法を使う時のことを考える。効率のいい方法を計算して、いくら力を集めても、その力を保存しておけるのはわずかな時間だけだ。手でいくら水をすくっても、指の間からこぼれ落ちていくのを止めることはできない。だから、こぼしてしまう前に使い切るのだ。  けれど、その水を氷にすれば、どこへでもそのままの形で置いておくことができる。 「無生物の持つ力をカタマリにしても、ちょっと便利に使えるってだけで位相は変わらない。だけど、生き物の――特に、アタシたち人間みたいな、複雑な構造の生き物の持つ力をカタマリにすると、面白い現象が起こるんだ」  右手の人差し指を立て、空中にくるくると円を描きながら、ハンナは解説する。 「そのカタマリは、記憶とか感情とか、そういった情報を保持してる。どうせそのうち習うだろうから詳しいことは端折るけど、とにかく、そのカタマリには人間の心がごっそり写し取られてるんだよ。普通は幽霊みたいにふわふわ漂って、相手に自分の存在を知覚させられない存在になるけど、色々な条件が重なれば普通の人間みたいに身体を持つこともある。まあ、身体って言っても仮のものだけど。で、その幽霊みたいなカタマリを指して、タマシイって呼ぶこともあるんだ。さっきユリンちゃんはタマシイって言ってたよね」  アキジが感心したようにうなずいた。ハンナは小さく首を振る。 「でも、魔法的に説明できるものを幽霊って呼ぶのは、やっぱり抵抗があるんだよ……。だいたい、今の理屈で言えば、幽霊って死んでるとは限らないもんね」 「ちょっと待て、力を抜かれた身体はどうなるんだ?」 「目を覚まさないだけで、ちゃんと面倒さえ見てもらえてれば生きてるよ。力と身体は同じ真名を持ってるから、魔法的には強い繋がりがあると言えなくもないけど、物理的には何の関係もない。だから最悪の場合、身体が死んじゃってもタマシイが生きてるって事例はあるみたいだよ。まあ、限界はあるみたいだけどさ」  ハンナは自分の顔を指さして、「どう?」とタツキに尋ねた。 「こんなに長いこと元気でいるんだから、アタシは死んでるわけがない。でしょ?」 「ああ……うん、あんたは生きてるかもな。でも、志野田アイカは――」 「神代!」  アキジが唐突に叫び、タツキの声を遮った。 「やめろ、黙れ。こっちに戻って来い」 「やだよ。文句があるならこっち来て、力ずくで引き戻してみたら?」 「そ……それは」 「ああ、もしかして高いところは怖い?」  アキジは小さく舌打ちして、「そうだよ」と吐き捨てた。 「怖いんだよ。だからお前たちがこっちに来い」 「あんた、俺の何なの? 偉そうに言うなよ」 「友達だろ、たぶん」 「いや、友達になった覚えはねえけどな」  その答えを聞くと、アキジはいつの間にか手にしていた白のチョークで左手の甲に何かを描きはじめた。チョークを離すと、自分のネクタイを外して左手で握る。 「遊んでる場合か!」  アキジの左手を中心にネクタイと同じ赤色の光が閃いた。同時にタツキの身体を軽く引っ張られるような感覚が襲う。直後、黒板を引っ掻くような不快な音がしてタツキは耳をふさいだ。至近距離で音の直撃を受けたアキジは、顔をしかめながらも魔法を解かずに立っている。 「くそ、何で上手く行かないんだ!?」  計算よりもはるかに効きの悪い魔法を前に、アキジはネクタイを握りしめる。ハンナが耳をふさいだまま、「ヘタクソ!」と叫んだ。 「い、今の音はひどいんだよ! だいたい、ネクタイ引っ張ったら下手すると首が絞まっちゃって良くないと思うんだ!」 「いいじゃないか、別に」  口振りだけは素っ気なく答えたアキジだったが、涙目でにらみつけてくるハンナの剣幕に少したじろぐ。 「アキジちゃん、真名を呼ぶところまではうまいよ。うまくアレンジしてあると思う。多すぎず少なすぎず、いい量の力が集まった。でも、その後がダメだったんだよ。力を使えずに逃がしちゃったから、あんなひどい音になったんだ」 「いちいち解説してくれなくて結構。少しは自覚もあるよ」 「じゃあ、どうして力を導きそこねたか、理由はわかるか?」  タツキはゆっくりと立ち上がり、壁づたいに窓の下まで歩いた。降りる時よりも戻る時の方が怖いな、と思いながら桟に手をかける。アキジが数歩退いて場所を空け、元々そこに置いてあった机を押し戻した。 「あんた、ネクタイ使ってあんな魔法を組んだってことは、俺の身体じゃなくてネクタイが狙いだったんだろ?」  よっ、とかけ声をかけて桟に足をかけた。窓の下に戻された机の上に乗り、がたつくその机から飛び下りる。  アキジの左手に目をやった。ネクタイではなく手に、それも手の甲に図形を描いたあたりに性格が出ている。ネクタイに触れる手のひらに描いた方が魔法の成功率は上がるが、それではネクタイがチョークの粉で汚れてしまう。夏の暑い日で、手が汗ばんでいるから尚更だ。 「そいつを媒介に、俺のネクタイの真名を呼んで繋げようとした。でも、こいつが真名を呼んでも答えてくれなかったから、行く先に迷った力が音となって発現した」 「そうだな。繋がる感覚がなかった。上手く行けば、お前のネクタイ掴んで引きずり上げられるはずだったのに」 「ああ。……おかしいと、思わなかったか?」  アキジはわずかに眉をひそめた。言いながら、無茶な要求だ、と思う。彼の編入からわずか四ヶ月しか経っていないのだから、使った魔法の量もタツキよりはずっと少ないはずだ。知識はあっても、それを実際に生かすことは難しい。 「何が?」 「制服のネクタイだぜ。デザインは一緒。真名もかなり近い。高宮の人間なら、小学生でも力を繋げるだろうよ。それが失敗したってことは、お前の導き方がヘタクソだったか、運が悪かったか、そうでなけりゃそもそもの式が間違ってたってことだな」  意味もなく指先に力を集める。澄んだ紫の光と、ライトに手を近づけた時のようなほのかな熱気。こんなにきれいな紫色が出たのは初めてだ。 「距離を測り間違ったんだろ。俺のネクタイ、今どこにあるのか知らないけど、ここからはきっと遠い」  術者から見た対象の距離と方角を過てば、魔法は成功するはずもない。小学校や中学校から高宮に通っていた生徒は、十メートル先の対象までの距離を数センチ単位で目測できるというが、これはそれとは別の話。 「たぶん、ここにいる俺は『タマシイ』なんだな」  アキジが驚いたように目を見開いたその時、遠くでガラスが割れる濁った音が聞こえた。  何かの魔法が起こした音かと思ったが、廊下に出てみると確かにガラスが割れていた。ここは東棟の三階。廊下の窓からは特別棟と旧校舎が見える。  どこか下の方で、再びガラスが砕ける音がした。ほぼ同時に、背後でガタガタと音がする。ハンナが教室の中へ戻ってきたのだろう。  机をなぎ倒すような勢いで廊下へ飛び出してきたハンナは、血相を変えて窓の外を見た。それだけではただごく普通の光景が広がるばかりだったが、窓を開け放ち、目の前にある見えない境界を突き破って顔を出すと、旧校舎と特別棟の間でオレンジの光が飛び散っているのが分かった。ハンナを追って顔を出したタツキの舌に、ぴりっとした辛さが伝わってくる。  遠くではじけるオレンジ色をどこかで見たことがあるような気がして、タツキは考える。すぐに答えは出た。昇降口でユリンが使った、変装の魔法。あの時にユリンの手の中で閃いていた光に相違ない。 「春川さん!」  思わず叫んでいた。ほぼ同時に、狭い窓から頭を出していたアキジが踵を返して階段へと走り出し、ハンナとタツキはその後を追う。三階から一階へと階段を駆け下り、上履きのまま昇降口を飛び出した。  あのオレンジ色はユリンの真名だ。ならば、きっと光がある先にはユリンがいる。アキジを途中で追い抜き、タツキは走った。特別棟の脇を抜けたところで何かにつまずき、危うく転びそうになる。足元に視線を落とすと、厄除けガーゴイルの石の腕が転がっていた。  前方に視線をやると、そこには壁に背を預けてぼんやりと座っているユリン。その数メートル先には、片腕と片足を吹き飛ばされ、地面に這いつくばったままで翼を不格好に動かす石像の姿があった。 「春川、さん……?」  ユリンは気だるげに腕を上げ、転がっている石像を指さした。 「壊しておいたわ。どうせ誰かがやらなきゃいけないんだろうし」  さっき擦りむいた傷のほかに、プリーツスカートにはかぎ裂きが走り、その下の傷口から血が滲んでいた。こちらに顔を向けると、死角になっていた右のこめかみから血が伝っているのがわかる。 「でも、どうして一人で」 「あなた達がいたって何も変わらないでしょう。一人でやった方が早いと思っただけよ。この中に術者と通じてる人がいて、邪魔でもされたらたまらないしね」 「……アタシのこと、疑ってるの?」 「そう思いたいなら勝手にして。私はただ、今日中に家に帰れるといいなと思ってるだけよ。あなた達に任せてたら、何も案なんか出てこないんだもの。かといって、勝手に動くな、って文句を言われるのは嫌だから、面倒なところは私がやっておいたわ」  壁を伝って立ち上がり、ユリンは足で地面に円を描いた。そこには既にいくつかの円と、ほとんど空になった小瓶が落ちている。ユリンの髪が風に舞い上げられ、彼女の足から伸ばした腕の先へと力が伝わっていくのが分かった。バケツの水をぶちまけたような音がしたかと思うや、石像の翼が片方、砕けて落ちた。 「十センチほど間違ったわね。まあ、どうせもう動かないだろうからいいか。ところであなた達、そんな所でぼーっと立ってるヒマがあったら、この後何をするつもりか教えてくれない? それは私が考えることじゃないはずよね」  タツキは旧校舎を指さした。これだけ派手にやれば、もしも術者がいたならとうに気付かれているはずだ。見ると、遠くにある新校舎のガラスだけでなく、特別棟や旧校舎のガラスも何枚か割れている。旧校舎の、元からガラスが割れていた窓でさえ、窓をふさいでいた段ボールが外れているものがあった。  タツキは少し考えて、ユリンに答えを返す。 「入る。もう待ってたって仕方ないし」 「でも、相手はきっと強いわよ。どうするの?」 「どうって、別に。大丈夫、この身体はただのイメージだから、ケガなんかしないよ」  ゆっくりと校舎の周りを回る。灯油と非常用のテントが置かれた倉庫の横を回り込み、もう何もいないかと辺りを見回す。ユリンが足を引きずりながらついてきた。アキジとハンナは、遠く距離を置いて後ろの方にいる。 旧校舎の南側入口に立って、タツキは扉に手をかけた。 「心配いらない。この身体はタマシイだけの存在だから。自覚すればそうと分かる。真名がいつもと違うんだ」  身体の中を流れる力は、必然的に着ている服や周囲にある物の力を巻き込んで流れる。高宮の制服は魔法的にもきちんと調整された代物なので、普段はほとんど何も感じないが、注意深く自分の真名を呼んでみれば、すぐにいつもと違うことが分かる。 「つまり、ケガを心配するのは無意味ってことさ。たぶん、俺もう死んでるしね」  どうしたらいいのか分からなかった。混乱が過ぎ去った後には諦めがやってきた。思い悩むだけ時間の無駄だ。特にこの世に未練もない。たぶん。  「神隠し」が効いていて、誰も自分の死を悲しまないというのなら、それはそれで素晴らしいことじゃないか。自分でもどこまでが本気なのか分からないまま、そんなことを考えた。  扉を開けて中に進む。古くさい板張りの廊下は、歩くたびに音を立てて軋んだ。一人分の足音が近づいてくる。振り返らなくても誰なのか分かった。ユリンだ。 「術者は地下よ」  ずっと後ろでハンナとアキジが何か話している。会話の中身までは聞き取れなかったが、興味もなかった。地下へ降りる階段を捜していると、後ろから二人が小走りにやってきて、音を立てて入口の扉を閉める。校舎中にその音が反響し、ユリンが舌打ちした。そんなところでピリピリしても仕方ないだろう、と思いながらタツキは歩く。どうせ自分たちが来ていることくらい、向こうは分かっているのだ。 「正直、あなたが何だろうがもうどうだっていいわ。術者に聞けば全部はっきりするもの。でも一つ、ちょっとだけ気になることがあってね」  見つけた階段を前に立ち止まり、ユリンは目を細めた。階段の先は暗い。 「職員室で、用事があったのはどの先生?」 「別に誰でもよかったよ。退部届けをもらいに来ただけだし。結局、夏茨先生がいたから、先生に退部届けと、ついでにお菓子と紅茶をもらった」 「そう。西貝くんにも聞いたけど、最後に会ったのは夏茨先生だそうよ」  思わぬ話の展開に、タツキは首をかしげる。 「つまり、その……あまり信じたくはないんだけど、術者の顔も見えちゃったのよ。あの先に誰がいても、あんまり驚かないでね。さっきみたいに、いきなり逃げ出されたらたまらないもの。まあ、今のうちに逃げ出したいって言うなら止めないけど」  ユリンは大げさにため息をつきながら、階段をゆっくりと降りはじめた。 「西貝くんといい、ハンナちゃんといい、後からついてくるだけならヒヨコにだって出来るわよ。普通高校からの転入生だろうが、頭が悪かろうが、私の知ったこっちゃないわ。思考停止してる奴って、見ていてムカついて仕方ない。ましてやあなたみたいに、逃げることばっかりに頭を使ってる奴なんか、ちょっと殺してやりたいと思うわ」  ユリンが乱暴に扉を蹴破った。その勢いで学校指定のハイソックスがずり落ち、足に赤いインクで描いた紋様が露わになる。この筆致は極太の油性ペンだろうか。やけに描き慣れているようにも見える。蹴る力を強化するだけのそんな単純な魔法は、ケンカっ早い男の専売特許だと思っていたので、正直タツキは少し驚いた。  ユリンが一歩進み出て、口を開く。 「こんにちは、先生」  部屋の中からはすえた血の匂いがした。  床に倒れた男子生徒の右手のひらにナイフを突き立てた格好のまま、タツキ達の担任である夏茨ジュンは、「こんにちは」と明るくさわやかな返事をした。