五章  悪魔と踊れ 「おい、神代?」  アキジの声が聞こえて、タツキは我に返る。生ぬるい風が足元を撫で、どこかへ消えていった。改めて鏡を見ても、そこにはただ、呆然と立ちつくす自分の姿が映るばかり。 「どうしたんだ?」 「いや……何でもない、気にすんな」  それでもアキジが心配そうに自分のことを見てくるのを感じながら、タツキは無理に明るく笑う。 「何でもねえよ、ただちょっと、鏡を見てるうちに俺の美男子っぷりに惚れ込んじゃっただけでさ」 「ああ。良くあることだよな」 「あるのか!?」  反射的に突っ込んでしまってから、タツキは改めて今見てしまったものについて考える。自慢ではないが血は苦手だ。深い、刃物で切ったような傷が、鏡の中にいたタツキの右手首あたりに刻まれていた。その傷口を押さえることもせず、板張りの床に横たわる身体。焦点の合っていない瞳。  そしてどう見ても、それは現在からほど近い場所にある未来だろうと思えた。一時期は染めていたものを、億劫になって手入れもせずに伸ばしている髪は、根本だけが半端に黒い。こんな髪型はあと一月もすればまったく違う印象のものになってしまうだろうし、遠い未来に同じ髪型になることがあるとも思えない。  だから、鏡の映像が現実になるとしたら、今だ。 「……雪島さん。ちょっと、一つ聞いてもいいかな」 「アタシに答えられることなら答えるんだよ」 「この鏡に関する話、七不思議の中になかった?」 「あるよ」  ハンナはあっさりうなずいた。 「朝の四時四十四分、この鏡の前に立つと、自分の死に様が見えるって」  時間はずいぶん違うが、場所はここで間違いないようだ。 「それでね、ここで自分が死ぬところを見ちゃった人は、すぐに本当に死んじゃうんだって」 「そうか。……うん、分かった、ありがとう」 「どういたしまして!」  まだ泣きはらした赤い目で、それでも明るく笑うハンナの顔から、タツキはそっと視線をはずした。どうしたものか、と考える。  もちろん、無視してしまうのが一番だろう。けれどそのあまりに鮮烈な印象が、タツキの頭の中をかき乱している。当たり前だ、自分の死体と思しきものを見て、愉快に思う人間がいたら見てみたい。そんなことを考えながら鏡を見るが、隣で鏡をのぞき込むアキジには、特におかしな映像は見えていないようだった。 「ここまで来て、今更怖じ気づいたのか?」 「別に、そんなことは……」  自分の右腕に目をやりながら、タツキは言葉を濁す。アキジに話したところで、何の解決にもなるまい。 「じゃあ早く行け。僕たちはちゃんとここで見張りをしてるから」 「分かってるよ。じゃあ、また後でな」  ユリンに促されるまま、タツキは鏡の前に残るアキジとハンナから離れた。ユリンと二人で階段を下り、ふだん彼らが使っている昇降口の前で立ち止まる。ここを出て向かって右に曲がりしばらく行けば特別棟が建っている。旧校舎は、そのすぐ向こうだ。 「まあ、こんなT種魔法は気休めみたいなものだけど……」  ユリンがタツキの両手を握った。力を集めるためのさまざまな道具や手順は省略して、何よりも力強い、自分の身体を流れる血を利用して魔法をかける。ユリンが真名を模した声を上げると、刺すような冷気がタツキの背中を撫でると同時に、オレンジ色の光が数度、すぐ目の前で点滅した。力は順調に集まっている。そのあと感じるぬくもりと塩気のある味は、慣れ親しんだタツキ自身の力だ。執拗に腕のあたりを這い回るぬめりは、一体どこから呼ばれた力なのだろう。  冷気が消え去る寸前、屋内だというのに二人の間を一陣の風が吹きすぎる。 「これで、少しは変装になるかしら?」  そう言ったユリンの姿は、見知らぬ女生徒のものに変わっていた。くせのある明るい茶髪が、真っ直ぐな長い黒髪に。標準よりも少し細いくらいの身体は、ややふっくらとしている。 「すげえ」  答えたタツキの姿も、アキジのようなやや長い黒髪の男子生徒のものに変わっていた。二階にあったものよりもさらに大きな鏡に、二人の姿が映っているのが見える。  二人の姿に共通するのは、とらえ所のない、これといって特徴のない容姿である、ということだ。もちろんユリンはそれを意識して魔法を調整したのだろうが、それにしてもよく出来ている。すぐに崩れてしまうただの幻覚だが、少しは役に立つかもしれない。  昇降口から外に出ると、あの慣れた圧迫感が身体を襲う。V種魔法で空間を繋げた時にあらわれる、ごくわずかな軋みが影響しているのだろう。先ほどユリンに聞いた話を思い浮かべながら、納得の行くような理由を考える。何が何だかわからない幽霊よりは、まだ正体が見えている魔法の方がましだ。  二人が外に出ても、野球部のかけ声は消えない。どうやらここは同じ屋外でも、校庭とは別の空間として作られているようだった。のんびりと歩く二人は、端から見れば逢瀬を重ねる恋人同士に見えるかもしれない。術者がそう思って気を逸らしてくれればしめたものだが、そんなことはほとんど期待できないし、そもそもそれは恐ろしく胸くその悪い妄想だ。横を歩くユリンの険しい表情に目をやって、タツキはため息をつく。 「ため息をつくと幸せが逃げるわよ。何か不満でもあるの?」 「いや、別に」  タツキが答えると、ユリンはやれやれと小さく首を振った。 「呑気なものね。あなたが何を考えているのか、全然分からないわ。分かりたくもないけど」 「別に分かってもらわなくていい」  正直にそう言うと、ユリンは気分を害したのか、「ああ、そう」と言って顔をそむけた。 「あなたがでくの坊みたいにつっ立っているのは構わないけど、長いこと見てると目障りなのよね」  特別棟の横を回り込めば、その先は旧校舎だ。ふと背後を振り返れば、屋上に二人の人影があらわれている。タツキの視力ではよく分からないが、おそらくアキジとハンナだ。 「ねえ、神代くん」  そちらにはチラリと視線をやっただけで、ユリンは歩調を乱すことなく歩き続ける。 「雪島ハンナをどう思う?」 「どう、って」 「あの子、本当にただの生徒だと思う?」  意味ありげにそうつぶやいて、ユリンは髪をかき上げた。指が髪を梳くごとに、長い黒髪は明るい茶髪へと一瞬姿を変え、また元に戻る。線香花火のような小さな光と、笛を吹き鳴らすような音が一緒だ。 「ただの生徒、って?」 「だから、何て言うか……まあ、単刀直入に言うと」  ユリンは首をかしげるようにしながら、彼女よりも十センチ以上背の高いタツキの顔を見上げた。 「あの子が、術者あるいはその仲間なんじゃないかって言ってるの」  タツキが何か言おうと口を開いたその時、視界の隅に動くものが入った。  同時に地面がわずかに揺れる。定期的に響くその音は、まるで動物が歩く時の足音のようだ。 「危ない!」  反射的にタツキはユリンの腕を引き、身をかがめながらそばにあった植え込みのかげに隠れる。ユリンが非難の声を上げたが、無視して片手でその口をふさいだ。 「……何だ、アレ?」  タツキ達を見失ったのか、その動くものはきょろきょろと周囲を見回す。ユリンとタツキはおそるおそる植え込みの端から顔を出した。息を殺して見守る二人の前に、勢いよく足が踏み出される。  ユリンがあっけに取られたような表情を浮かべた。  その肌は石で出来ている。動きもどこかぎこちない。顔を上げると、そこには翼を広げた悪魔の姿があった。片方の角が折れ、右の翼の一部が欠けたその石像は、どう見ても校庭にあったガーゴイル像だ。元々は創立当時の校舎に取り付けられていたというそれは、今は校庭の片隅で台座に乗っているはずだった。つり上がった目に大きく裂けた口、鋭い牙と、なかなか迫力のある形相をしているそれは、学院を悪いものから守る、という厄除けの意図をこめて置かれているらしい。  石像はそばで見るとかなり大きい。植え込みのかげでしゃがみ込む二人の目の前には、ちょうど膝の部分がある。背中を丸め、大きな翼を広げた石像は、タツキの身長よりもなお高いくらいの大きさがあった。普段はうずくまるような姿勢を取っているので、その予想外の大きさにタツキは息を呑む。 「ちょっと、放しなさいよ」  口をふさぐタツキの手をどけながら、ユリンが小声で言った。しばらく立ち止まってタツキ達の姿を捜していた石像は、やがてまた愚鈍な動きで、ゆっくりと旧校舎の向こうへと角を曲がっていく。 「あのガーゴイル……見張りでもしてるのかしら」 「そんな気がするな」  ふう、とユリンがため息をついた。 「だとしたら……もしかすると、高宮の七不思議の一つ、『夜になると厄除けガーゴイルが踊る』とかいうやつを意識したのかもしれないわね。さっきいきなり廊下で襲ってきた、あの魔術師気取りの木偶人形と同じで」 「術者が七不思議を意識してるってことか?」 「そうね。例えば――」  ユリンは背後を振り返る。特別棟のかげになって、東棟の屋上は見えなかった。 「ハンナちゃんなんか、ずいぶん七不思議にこだわっていたわよね」  タツキを試しているかのように、ユリンは軽い調子でそう言った。彼女の疑いを正面きって否定するほどの自信はなかったが、ハンナがそんなことをするような人間にも見えず、答えられずにタツキは黙り込む。 「ところで、神代くんはどうしてこんなところに来たの?」 「どうして、って?」 「私は夏茨先生に提出するものがあったから学校に来て、帰りにたまたまあの木偶人形に出会ったの。てっきり不審者か何かだと思って、三階まで追いかけて呼び止めたら、いきなり殴られて」  ユリンは腹のあたりに手をやる。顔には苦い表情が浮かんだ。後悔しているのか、痛い目にあったことを思い出したのか、単に敗北を喫したことが悔しいのか、タツキにはよく分からなかった。 「横でハンナちゃんがトイレに逃げ込んだのが見えて、ああ、この人は本当に不審者なんだって思ってね。思わず魔法で捕まえようとしたら、相手が人間じゃなかったせいで失敗した」  相手が人間のときと無生物のときでは、魔法のかけ方が違う。うまく調節してやらないと、魔法は適切な効果を発揮せず、ただ空気に溶けていくことになる。 「ヤバい、と思った時には向こうの魔法が通っててね、あとは見ての通りよ。たぶん、私があの人形を見た時点で、既に何らかの魔法が始まっていたんだとは思うけど。ああ、早く術者を捕まえたいわ。このままじゃ納得いかないから、ちゃんと説明してもらわなくちゃ」  ユリンの話を聞きながら、アキジやハンナが「遭難」した時の話をまだ聞いていないことを思い出した。ハンナからまともな返事が聞けるとは考えにくいが、アキジがどうしてこの空間に踏み込んだのか聞いてみればよかった、と今更になって後悔する。アキジにとっては意味のない情報でも、魔法の心得があるユリンになら、何らかのヒントにはなったかもしれない。  そこまで考えて、他力本願な話だ、とタツキは顔には出さずに苦笑する。 「神代くんは?」 「話すほどのことはないな。職員室に用があったから来て、用事済ませて、帰ろうと思ったら校門のところで弾かれた。最初は何もわからないから、誰かがイタズラでV種魔法でもかけたんだろうって思ったんだよな。俺には解除できないから、先生に相談しようと思って校舎に戻って、何となく廊下の窓から外を見たら、みんなが普通に門から出ていってるのが見えてさ。コレはおかしいんじゃないかと思って外に出てみたんだけど、やっぱり俺だけ出られない。仕方ないからそのまま三日間ウロウロしてたら、いきなり雪島さんが現れて、七不思議の話をしていったんだ」 「ハンナちゃんとは知り合いだったの?」 「いや、それが初対面」  タツキが答えると、ユリンは口元に手をやって何やら考え込む。そうこうしているうちに、再び遠くで重い足音が聞こえて、ユリンとタツキはふたたび植え込みのかげで息を殺す。  どこかで蝉がけたたましい鳴き声を上げはじめた。足音はかき消えても、地面からわずかに伝わってくる振動は一定のリズムを刻んだままだ。  しばらくじっとしていると、石像はまた来たのとは反対側の角を曲がって去っていく。旧校舎の周りをぐるぐると回っているようだ。 「行くわよ」  壁の近くにまで背の高い雑草が生い茂り、目隠しになってくれそうな北側へ回り込むと、二人は少しずつ旧校舎へ近づいていく。どこからか聞こえてくる生徒の声に紛れて、石像のものと思しき足音がする。建物の中で何が起こっているのかは、外からではよく分からない。  旧校舎の入口は南北にあるが、北側の入口は閉ざされ、扉が錆びついていた。どうするのかと見ていると、ユリンは木のかげに隠れ、地面に指で円を描く。さっき実習室から持ち出してきたのか、小瓶をポケットから取り出し、中の薬品を一滴、地面の円ではなく自分の指先に垂らした。ユリンの手はハンナのように華奢ではなかったし、爪もハンナのものとは違い、決して整った形をしているとは言えない。それでも、指に絡みつくように伝い落ちる赤い液体は、ぞっとするような色気をかもし出していた。  タツキがぼんやりとその様子を眺めていると、ユリンが唐突にタツキの手を取った。赤い、冷たい液体のぬめりがタツキの肌に触れる。 「神代くん、よく真名が呼びやすいって他人に言われたりしない?」 「さあ、あんまり言われたことないけど」  真名を呼ぶ、と言っても、実際に何らかの言葉を口に出すわけではない。魔法を使うために必要な力を引き出すべく、力を持つ対象に働きかける行為の総称だ。一般人が魔法と縁遠いところにいるのも、わざわざ高宮のような魔法学校が設立されるのも、結局はこの「真名を呼ぶ」というものが非常に特殊な行為であることが大きな原因のひとつだ。  魔法には、「力を集める」段階と、「力を導く」段階がある。何らかの目的を達成するために必要な力は、「真名を呼ぶ」ことで対象から離れ、術者のもとに集う。そうやってかき集めた力を魔法理論に則って操り、術者は目的を達するのだ。  たとえば今、ユリンは旧校舎の中を探ろうとしている。だから術者であるユリンは、魔法を使うための力を集める。ちょっとした魔法ならば、自分の身体に流れる力を利用するだけでいい。それでも足りなければ、外から力を借りてくることになる。ありとあらゆる物質の中に力は潜んでいるが、その性質は均一ではないから、目的に添った力を持つ物質の真名を呼ぶ方がいい。ハンナを捜すためにタツキとアキジが敷いた魔法陣が良い例だ。教科書といい鏡といい、彼女を捜すために適した物質から力を呼び起こす方が、魔法の成功率は上がる。とはいえ必要な物質がいつも側にあるわけではないから、ユリンは取りあえずタツキの手を取り、彼の持つ力がユリンの魔法に混じるよう薬の力を借りて調整を行っているのだ。  魔法理論と実践経験の積み重ねが、より良く力を集める、つまり「上手に真名を呼ぶ」技術を育てる。そういう意味では、ユリンの魔法は出来がよかった。  寄せ集められた力は、さまざまな形をとって二人の身体に感じられる。ラジオのノイズのような音が断続的に耳朶を打ち、溶けかかったかき氷のようなべちゃりとした感覚が腕から肩を撫でていった。 ユリンの指先、地面に描いた円の中心から、焼きたてのクッキーのような美味しそうな臭いが流れてきた。 「うん、見えた……ッ!?」  つぶやいたユリンの身体が、突然視界から消える。慌てて首を巡らせると、数メートル離れたところにユリンが倒れていた。何事か、と腰を浮かせたタツキの後頭部に、鈍い衝撃が走る。頭を押さえながら振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか石像が立っていた。思わず息を呑み、衝撃にふらつきながら立ち上がろうとしたタツキの前で、石像が羽ばたいた。  唖然としているうちに、石像は重苦しい石の翼で器用に舞い上がる。タツキは反射的にその場を飛び退いた。背筋に寒気が走る。  そしてその直後、タツキの頭よりも少し高いところまで舞い上がったガーゴイルは、体重をかけて地面へと突っ込んでくる。一瞬前までタツキの足があった辺りを、石像の前足から生えた鋭い爪がえぐった。恐怖にかられ、タツキは全力で走り出す。途中でユリンの手を握って起こし、そのまま彼女と共に走る。一人でならば逃げ切る自信があったが、ユリンがもたもたとついて来るのがもどかしい。女子としては標準的な速さなのかもしれなかったが、こちらを睨んでくる石像の前では亀の歩みに思えた。  東棟の昇降口に駆け込んで振り返ると、石像は興味を失ったのか、それとも命令を果たしたのか、ゆっくりと旧校舎の方へと引き返していくところだった。 「春川さん、大丈夫?」 「平気よ。それにしても、まさか一日に二度もぶっ飛ばされるなんて思わなかったわ」  石像に投げ飛ばされた弾みに作ったらしい右腕の擦り傷を見せて、ユリンはため息をついた。タツキは後頭部に手をやる。ひどく殴られたような気がしたが、痛みはすぐに引いていった。 「でも、ちゃんと見えたわ……術者は今、中にいる」 「じゃあ、雪島さんが術者じゃないってことは分かったんだ」 「それとこれとは別の話よ。神代くん、ちょっと話があるから西貝くん達と合流しましょう」  階段を駆け上がると、ちょうど上から二人が降りてくるところだった。 「もう、ユリンちゃんってば! アタシ達、けっこう頑張って『危なーい』って叫んでたんだよ! 聞こえないくらいうるさい魔法でも使ってたの?」 「まさにその通り。ちょっと時間が余計にかかったのがいけなかったわ」  言いながらそばの流し場に近寄り、擦り傷を作った右腕を洗う。それから流し台に腰掛けるようにして足を上げ、右膝から太ももにかけてのの擦り傷を洗った。人目をまったく気にしないその仕草に、タツキとアキジは思わず視線をそらす。  ハンカチで押さえるようにして傷を拭くと、ユリンはすぐそばにあった教室に入る。タツキにはあまり縁のない礼法室だ。と言うよりは、こんなところに礼法室があったということを完全に忘れていた。覚えていたら、音楽室ではなくここで夜を過ごしていただろう。ユリンはさっさと上履きを脱いで畳敷きの部屋に入り、ぺたりと座り込む。そういえば、彼女の友人には茶道部の生徒が多い。彼女が茶道をしているところはあまり想像できなかったが、タツキが知らないだけで彼女も茶道部員なのかもしれない。 「みんな、上がって。正座しろとは言わないから」  そう言いながら、ユリンは三人を畳に上げ、さり気なく入口をふさぐような位置に座った。入口近くにあった棚を開け、中から和菓子を取り出す。和菓子といっても個包装の小さな物で、決して高くはなさそうだった。 「食べていいわよ。どうせ私たちが食べたことなんて分からないもの。この空間を消したら少しは向こうに影響があるだろうけど、お菓子が少々減ったくらいじゃ誰も不自然には思わないわ」  勧められるままに和菓子を手に取った。食べると、甘ったるい味が口の中に広がる。甘党のタツキには嬉しかったが、ユリンは一口食べてから「甘すぎ」と顔をしかめた。 「やっぱりお茶請けはお煎餅がいいわ。甘すぎるお菓子って好きじゃないのよね」  ユリンの言葉を聞いて、ふとタツキは担任のことを思いだした。結局、「遭難」する前に最後に食べたのは、担任が出してくれた煎餅とミルクティーだったことになる。タツキはどちらも好きだが、その組み合わせはどうかと思う。それでも今は、その取り合わせさえもが恋しい。 「まあ、いいわ。……さて、ちょっと話があるんだけど、いいかしら」  くつろいだ姿勢でユリンに視線を向ける三人。ユリンはその顔を順繰りに見たあとで、ハンナの顔に指を突きつけた。 「非常に唐突な質問で悪いけど。……あなた、何者?」  ハンナは小首を傾げた。 「アタシは雪島ハンナ。それ以外に、何が聞きたい? 誕生日からスリーサイズまで、答えられるものには何でも答えるよ」 「じゃあ答えて。あなた、人間?」  え、とハンナが戸惑ったような声を上げた。タツキとアキジは彼女の言う意味がわからず、顔を見合わせる。 「だってあなた、私たちの学年にはいないでしょ?」 「え、何で……」 「中学校は高校と違って、大した人数がいるわけじゃないもの。その中で魔女って言ったら、私が知らないはずはないわ。『神隠し』の魔法があなたにかかっていても、こうして顔を合わせてしまえば魔法は解けるはず。それでも私があなたを知らないということは、あなたは私たちと同じ学年の生徒ではない」  ハンナはきょとんとした顔でユリンを見ていたが、やがて大きく首を振った。 「違う違う、それはたぶん誤解なんだよ! アタシ、本当にいつからここにいるのか思い出せないんだけど、たぶんユリンちゃん達より年上なんだ。アタシがここに来てから今までの間に、春が来ちゃったりしてるもん。きっと、学年がズレてるんだよ」 「だとしたら、たぶん一つ上ね。おそらく、この空間ができたのは去年の九月だもの。でもハンナちゃん、六十年ここにいたっていうならともかく、一年も経たないうちに自分がここに来た時のことを忘れる?」 「だ……だって、思い出せないものは仕方ないんだよ」 「今までここに来た子たちのことは、あんなにちゃんと思い出せたのに?」  ハンナは軽く唇を噛んでうつむいた。きちんと正座して揃えた膝の上で、握った拳に力がこもる。 「分からないものは、分からないんだよ……」 「じゃあ、もう一つ。ハンナちゃん、普段は何を食べてる?」 「え……?」  ハンナは不思議そうに目を見開き、それから眉根を寄せて考え込んだ。予想外の反応に、タツキは隣に座るハンナの肩を叩き、「あのリンゴとか?」と尋ねる。 「あ……リンゴ。うん、校舎裏のリンゴはたまに食べる……アタシ、植物の真名を呼ぶのはとっても得意だし、年中いつでも実をならすコトくらいできるよ……でも、あれ?」  合点がいかない、とばかりにハンナは頭を抱える。 「アタシ、ここに来てから、ゴハンをちゃんと食べた記憶がないよ……?」  周りの反応をうかがうように、ハンナはおずおずと三人の顔を順繰りに見る。ユリンは淡々とした表情でうなずいた。 「やっぱり。可能性としてはあり得るわね」 「どういうことだ?」  アキジが尋ねると、ユリンは少し考える。 「まあ、分かりやすく言えば……この子は、たぶん幽霊じゃないかと思うの」 「幽霊? だって、そんなもの信じないって言ったのは春川さんじゃ」 「だから、分かりやすく言ったらそうなる、っていうだけよ。私だって、おばあさまのように本当に分かりやすい説明ができるほど理解してはいないけど、そういう現象があるってことくらいは聞いたことあるんじゃない? 肉体と心は、魔法的には切り離すことができるのよ。肉体が滅んでいても、心は時に実体さえ伴いながら生き延びることができる。普通の空間なら力が混濁してすぐに崩れてしまうかもしれないけど、ここは小さな閉鎖空間で、しかも旧校舎に大量の力が集められているから、環境としてはかなり安定しているはず。肉体を保持する必要がないのなら、食事をとる必要もない。つまり、あなたが死んでいて、魂だけがこの世界をさまよっているとしても、ちっとも不思議はない」 「ち、違うんだよ! アタシ、少なくともまだ死んではいないもん!」  そんな現象の存在を聞いたことがあるような気がするが、いざそう言われても納得はできない。だってハンナは現にここにいるじゃないか、と思いながらタツキは彼女の横顔を見た。彼女はユリンに詰め寄り、必死な表情で訴えている。 「そうだよ。大体、死んだら力の位相も変化して、心だけ取り出すなんてことしてる場合じゃなくなるだろ。幽霊になるほど力が余ってんなら、その力で身体を治療して生き返れよ」 「だから、アタシまだ死んでないってば」  タツキの肩を掴んで、ハンナはすがりつくように叫んだ。 「どうかな?」  言いよどんだタツキに代わり、アキジが畳みかけるようにそう尋ねる。ハンナの頬にさっと朱が差した。 「も……もうアタシ知らない、知らないんだよ!」  ハンナは勢いよく立ち上がると、ユリンを突き飛ばして上履きを突っかけ、廊下へと走り出した。慌ててタツキとアキジが後を追うが、はじめて会った時のように、彼女は廊下から忽然と姿を消していた。