四章  神隠し 「旧校舎……?」 「そうね」  ユリンは満足げな笑みを浮かべる。 「あとはこの旧校舎に行って、この物騒な魔法を解約すればおしまい。私たちはめでたく外に出て、家に帰れるに違いないわ」  アキジとハンナは釈然としない表情を浮かべている。明らかに不自然な魔法の痕跡を前に、ハンナは七不思議を否定されたことで、アキジはいとも簡単に結論を出されたことで、それぞれ不満を感じているようだった。 「でも春川さん、策もなく突っ込んでいったら俺たちの方が危ないんじゃねえの?」  地図上で真っ赤に染まった旧校舎の中心部と、その場所に力を奪われて青く染まる周囲を見ながら、タツキは正直な感想を漏らした。ユリンがうなずく。 「論理空間なんて、確かに学校で習いはするけど、実習で作るのはせいぜい人間ひとりが入れる程度の大きさのものよ。こんな馬鹿でかいお人形の家を作って、あまつさえ中に複数の人間を入れるなんて、並の魔法使いにはできないと思うわ」  ハンナが口を開きかけ、小さく首を振って視線を落とした。まだ拳を握りしめたままでいるところを見ると、先ほどタツキに宣言したことをまだ守るつもりらしい。 「だから、場合によっては危険な作業になるかもしれないわね。これだけの魔法、解約して力を解放するにも技量が要りそうだし。まあ、魔女がいるんだからそんなに心配しなくてもいいかしら?」 「あ、アタシ? 期待されても、そんなに難しい魔法を使いこなす自信はないよ」 「私が何とかするから、ハンナちゃんは手伝ってくれればいいわ」  さて、とユリンは立ち上がり、薬品を棚に手早く片づける。 「作戦会議と行きましょうか」  まずは話を整理しましょう、とユリンは新しいレポート用紙を広げた。 「混乱するから、七不思議の話は無しにしましょう」 「ちょ、ちょっとそれは短絡的――」 「ここまで来て、まだ七不思議にこだわるの?」  動かぬ証拠とばかりに地図を突きつけ、ユリンはハンナにそう言い放つ。ハンナは悔しそうに奥歯を噛んだあとで、「論理空間だとしたら、アタシがこんなに長いこと『迷子』でいられるわけがないもん」とうめいた。 「だって本当に論理空間だったら、こんなにいっぱい『迷子』が来るなんておかしいと思うんだよ。それに、みんな一体どこに消えてるっていうの?」 「消えてる?」  ユリンが怪訝そうな顔で尋ねた。ハンナは大きくうなずく。 「もしかしてユリンちゃん、『迷子』がアタシたち四人だけだとでも思ってるの?」 「違うの?」 「そう、違うんだよ。この空間の中にいちばん長いこと住んでるのはアタシだと思うけど、アタシ、タツキちゃんの前にも何人か『迷子』を見てるもん」  そう言って、ハンナは机の上で拳を握りしめた。彼女は自分の爪が痛くないのだろうか、とタツキは唐突に思う。 「アタシが最初に会ったのは志野田アイカちゃん。すごく仲良くなった。『迷子』とか、七不思議とか、そういう話はみんなアイカちゃんと話してる時に出た言葉や結論。三つ編みで、眼鏡が可愛くて、優しくて、いい子だったのに……十四日目の夜、突然いなくなっちゃった」  最初は軽い調子で話していたハンナの表情が曇る。三人の視線から逃れるように、じっとうつむいた。長い髪が表情を隠す。 「次が三田村シオン君。初めて会った時が二日目。可愛い男の子だった。ずっとアタシから逃げてたから、あんまり話はしてないけど。十八日目に見に行ったら、いなくなってた」  知らない名前だ、とハンナの言葉を聞きながら思う。 「その次の子は、名前知らない。金髪の、背の高い男の子。二日でいなくなった」  アタシが見失っただけかもしれないけど、とハンナはつけ加える。 「それから、岸本ラウラちゃん。アタシと同じ魔女だった。理由は知らないけど、アタシのことをすごく嫌ってたから、それ以上のことは知らない。ショートカットの似合う、声の大きい子だったよ。あの子は十日くらいいたような気がするけど、いつの間にかいなくなってたな」  ユリンが難しい顔で考え込む。アキジも何事か考えているようだった。タツキはぼんやりと、辛そうに言葉を続けるハンナの銀髪を見る。やめればいいのに、と思ったその時、ぽつりと机の上に涙が落ちた。 「最後が、佐脇トウヤ君。アタシはサワちゃんって呼んでた。今の一年生だった。いなくなったのに気付いたのは二十三日目。サワちゃんも神出鬼没だったから、本当はもっと前からいなくなってたのかもしれない。あの子はよく西棟の屋上で、ずっと空を見てた」  ハンナはしゃくり上げながら「これでおしまい」と言い、手の甲で涙を拭った。 「ねえ、あの子たちがどうなったか知らない? 知ってる子はいない?」  三人が揃って、「そもそも彼らの存在を知らない」と答える。ハンナはうつむいたまま、掠れた声でつぶやいた。 「じゃあ、百歩譲ってこれが魔法のせいだとしたら、術者は禁呪にも手を出してるってわけなんだね」 「……え?」 「禁呪?」  ユリンが上げたのは驚きの声、アキジが上げたのは疑問の声。目でそれは何だと尋ねるアキジ。ユリンは律儀に、禁呪と呼ばれるものについて解説を始める。 「禁呪はそのまま、禁じられた魔法のこと。あまりにも危険な魔法も禁呪に指定されることがあるけど、大抵はそれほど難易度の高い魔法じゃないわ。ただ、魔法使いにそんなことが出来ると知れたら社会的に問題がある、という魔法が禁呪にされることが多い」  ますますわけが分からないという顔をするアキジ。タツキはその辺りの事情を一年生の時に習ったような気がする。 「だから……六十年前に、魔法の存在が世間にはじめて公表されたわけじゃない。それから今まで、なんとか魔法が禁じられずにすんでいるのは、私のおばあさまやあの時代の魔法使いが、魔法の有益な点を前面に押し出して必死にイメージアップを図ったからよ。人を殺めたり、操ったりするような魔法は、たとえ論理的に実行可能でもやってはいけない。科学だってそうでしょう? それでも、科学はもう既に社会に認知されているわ。今更どんなに危険なものを作ったって、非難されるのは科学技術じゃなくて制作者。でも魔法使いは違う。危険な魔法が一度使われれば、魔法という技術全体が白眼視されてしまう。細々とした事件のたびに、みんなとても焦っているのよ」  魔法界の重鎮の孫娘だけに、ユリンの言うことには説得力がある。「なるほど」とアキジはうなずいた。 「そこで、魔法使いの評判を落としそうな魔法を、禁呪として指定した、と」 「そう。魔法書は厳重に保管されて、一般人の目には絶対に触れないようになっているわ」  たぶん、とユリンは小声でつけ加える。 「でも、禁呪の中にどんな魔法があるのかは、ちょっとだけ聞いたことがあるんだよ」  ハンナが荒い息をつきながら口を挟んだ。顔を上げると、白目がすっかり充血している。 「『神隠し』っていうのは、そんな禁呪のうちの一つなんだ……人間の『存在』を、『なかったこと』にしてしまう魔法」  あ、とユリンが声を上げた。口元に手をやり、驚いたように目をみはる。 「たぶん私、おばあさまに、昔その話を聞いたことがある。ホラー映画みたいで、とても怖かったことを覚えているわ。『神隠し』の魔法をかけられた人間は、自然に人々の記憶から消えていく。教室に机はあって、家には自分の部屋があっても、それが消えた人間のものだとは認識されない。たとえば、私が『神隠し』にあえば、教室にある私の机はそのままそこにある。でも、それが誰の机であるのか誰も思い出せないし、そもそも関心を払うこともない。誰かがこっそりその机を片づけても、誰も不思議に思わない。学級会の進行は何事もなかったように副会長がやるだろうし、春川家の跡取りは、ごく自然な流れで私の妹に移る……」  ユリンの話は非現実的すぎてピンと来なかった。いくら魔法でも、周囲の人間の心にそれだけの影響を与えることは難しいはずだ。もっとも、そんな馬鹿げたことを現実に起こしうるからこそ、その魔法が禁呪として闇に葬られるわけなのだろうが。 「どんな真名を呼べばそんな風になるのか見当もつかないけど、アイカちゃんやラウラちゃんについてみんなが何も知らないって言うんなら、それは『神隠し』のせいだと思う。だって……」  そこで言いにくそうに言葉を切って、ハンナはユリンの顔を見た。 「アイカちゃんは、自分はユリンちゃんの親友だ、って言ってたんだよ」  ユリンは黙ってハンナの目を見つめ返す。 「でも、知らない。友達だと思ってないとか、そういうことじゃないわ。私は、志野田アイカという人間を知らない」 「……うん。別にそれは、いい。たぶん、ユリンちゃんのせいじゃないから。本当に『神隠し』が使われているなら、ユリンちゃんはアイカちゃんのことを知らなくて当たり前だから。ユリンちゃんだけじゃなくて、アイカちゃんの友達も、お母さんも、お父さんも、アイカちゃんを知らないはずだから……」 「ちょっと待ってくれ、雪島さん」  アキジの声に、ハンナはのろのろと視線を動かした。 「それじゃあ、もしかして……僕たちがこの空間から出ることができたとしても、僕たちのことを知っている人間が誰もいなくなっている、という状況は起きうるのか?」 「それはないと思うんだよ。本人を目の前にして、本人の真名を感じ取って、それでもその人の存在を消し続けるような魔法があったら、とっくに世界は滅んでるよ。だからユリンちゃんも、アイカちゃん本人を前にすればあの子のことを思い出すんじゃないかと思うんだ」  ほかの人についてもそう、とハンナは誰にともなくつぶやく。 「でも、目の前にいない人間のことは思い出せないから、タツキちゃんやアキジちゃんが四日や五日ここにいても、誰も助けに来ないんだよ。二人とも寮生?」 「僕は自宅から通っているよ」 「俺は寮生」 「じゃあ、アキジちゃんには家族、タツキちゃんにはお友達がいるんだね」  うなずくと、ハンナは再び机の上に視線を落とした。 「どうして誰も助けに来ないんだろう、って思わなかった?」 「思ったよ」  ルームメイトの後藤の顔を思い浮かべながら、タツキは答えた。確かにアキジに出会うまでは、彼が助けに来るのではという淡い期待を抱いていた。 「でもユリンちゃん、アキジちゃんの家族やタツキちゃんのルームメイトが二人を捜しに来たなんて話、聞いてないよね?」 「何も知らないわよ。あの首無し人形に会う前に夏茨先生にもお会いしたけど、別に何も言ってなかったし」  残念な気持ちと、安堵の気持ちが入り交じった。後藤は自分を見捨てたわけではない。きっとただ単に、魔法のために自分の存在を一時的に忘れてしまっているだけだ。  ついでに言うなら、家族とて決して自分に無関心だというわけではない。そして――こちらの方が重要なのかもしれないが――タツキはまだ、その家族に心配をかけていない。病気がちな妹のことでただでさえ胸(と、ついでに懐)を痛めている両親に、これ以上余計な心配の種を増やすわけにはいかない。 「その『神隠し』とかいう魔法が本当に使われているとしたら、下手に手を出すわけにはいかないな。目的は分からないが、相手は強そうだ」 「最悪、殺されちまったりしてな」 「神代。やめろ、ちっとも冗談になっていない」  アキジが呆れたようにそう言った。別に冗談を言ったつもりはない、とタツキは黙って口元を歪める。 「だから……旧校舎に行くなら、そういう相手だってちゃんと分かってから行くべきだと思うんだよ。今までのみんなも、たぶん少しは分かってたんだと思う。アタシはあんなに沢山『迷子』の子を見たのに、旧校舎に行くなんて言ってた人は誰もいなかった。まあ、理由は人によっても違うと思うけど」  ハンナはひとつ深呼吸をして、右手の親指の爪を噛んだ。彼女が話せば話すほど、逆に七不思議の存在は否定されていく。 「術者が一人なら、常にこの空間内にいるとは考えにくいわね」  しゃくり上げるハンナから視線をそらし、ユリンは落ち着いた声でつぶやいた。 「この空間を維持するために、空間の中にいる必要はない。向こうにだって生活があるだろうから、出入りをしているか、完全に外からこの空間を操っているかのどちらかだと思うの」  六人がけのテーブルの下から誰かが忘れていったらしきノートを取りだし、ユリンはそれをパラパラとめくる。名前は書いてあったが学年やクラスの表記はなかった。一年生のノートだ、と分かったところで、ユリンはつまらなさそうにそのノートを机の下に戻す。タツキは机の反対側からそのノートを引っ張り出した。 「術者が外にいる間は、ふつう、中で起こっていることについて大したことは分からない。だから私たちが旧校舎を調べに行ったとしても、それを術者が知る術はないわ。だけど術者が中にいたとしたら、私たちがのこのこ近づいたりすれば気が付いて、何らかの策を講じるはず。追い出されるだけならいいけど、襲われたりしたら洒落にならないわ。さっきの木偶人形じゃないけど」  後藤ノブヒロ、と汚い字で書かれたそのノートを見て、タツキは首をひねる。 「春川さん、話をぶった切って悪いんだけど、ちょっといい?」  ノートの中身は主に実験のレポートだ。金釘流の文字はともかく、内容自体はすっきりとまとまっている。字が下手な割に、添えられた手書きの図は丁寧だ。 「その論理空間って、現実世界とは違う平行世界だってさっき言ってたよな」 「仮想現実と言い換えてもいいわよ」 「難しい用語はよくわかんねえからいいよ。でもさ、たとえばこのノートなんだけど」  ユリンの前にノートを差し出す。ハンナはうつむいたまま視線だけを投げてきた。 「このノートの持ち主、俺の友達なんだ。C組の後藤。このノートを借りたことがあるから、間違いない」  それどころか、タツキはこの友人のノートを写して提出までしたのだから、忘れるはずもない。タツキの馬鹿さ加減にあきれているのか、ルームメイトはよくノートを貸してくれる。 「でもこのノート、去年の九月のところで終わってる。実際には、この後も続くはずなのに」 「つまり、何が言いたいんだ?」  しびれを切らした様子でアキジが声を上げた。タツキは彼の方を一瞥して答える。 「この空間が作られたのは、去年の九月なんじゃないかって言ってんだよ。このドールハウスができた時点では、確かにこのノートはここにあったんだと思う。でもその後、ここにはいないけど本来の世界には存在する人間が、忘れ物に気付いてノートを取りに来た。こっちでは取りに来る人がいなかったから、ノートはそのままここにある」 「ああ、なるほど」  ふう、とユリンがため息をついた。 「それが本当なら、これが幽霊の仕業なんかじゃないっていう決定的な証拠になるわね。七不思議はそれこそ私が中学生のころから伝わっていたんだから、この空間が作られてたった一年しか経っていないという事実とは矛盾する。……ハンナちゃん、諦めなさい。現実から逃げたって、何も変わらないわよ」 「……そうだね」  ハンナは小さくかぶりを振って、額を手のひらでおさえた。 「あ……なんか、さっきはいきなり泣いたりして、ごめんね。みんなのこと思い出したら、急に悲しくなっちゃって」 「悲しい、ったって、また会えるかもしれねえわけだろ。まだ泣くのは早い」 「会えるのかな。少なくとも今のところ、タツキちゃんたちはアイカちゃんのこと、全然分からないんでしょ?」  涙ぐむハンナの背を、アキジが軽く叩いた。 「大丈夫。もしかしたら、みんな仲良く旧校舎で遊んでるかもしれないじゃないか」 「うん……そうだよね」  ためらいながらもハンナはうなずく。 「もしそうだったら、別にアタシ、犯人が七不思議なんかじゃなくてもいいや」  今にも崩れてしまいそうな、かすかな笑みが口元に浮かぶ。  結局のところ、彼女がここまで七不思議に執着してきたのは志野田アイカのためなのだろう。消えた志野田アイカがハンナのために最後に残していったものがその「七不思議」という話だと言うのなら、それを否定することには抵抗があるだろう、とは想像できる。 「そうと決まったら、やることは多いんだよ。何とか外に出て、ついでにアイカちゃんたちがどこに行ったかも調べたい」  ユリンが小さくうなずいた。虹色の地図に指をすべらせる。 「西貝くん、あなたも編入試験を受けるために、少しくらいは魔法の勉強もしたんでしょう? 正直、神代くんよりは役に立つと思うから、ぜひ忌憚ない意見を聞かせてちょうだい」  頭の中でキタンという言葉がなかなか漢字にならなかったが、そんな細かいところが分からなくとも彼女が失礼な物言いをしたということくらいは分かる。諦めが早いのが俺の長所だ、と口の中でつぶやいて、タツキは黙ってその言葉を聞き流した。 「とりあえず、遠くからでも旧校舎の様子を見てみればいいんじゃないか?」  しかし無視され続けるのもそれはそれで不快なので、タツキはいちおう案を挙げてみた。ユリンはつっけんどんに「そうね」と答える。 「そういえばあなた達、旧校舎のそばを通ったりはしなかったの? まさかここに閉じこめられてから、ずっと校舎の中にいたなんてことはないでしょう?」 「通ったけど、変な気配はなかったよ」 「うん。少なくとも、外に漏れ出すほどの魔法は使われていなかった」 「でも、そこに桁外れな量の力が集められていることは確かだわ。これだけ集めたら、Y種やZ種の魔法を使ったってすぐにはなくならないわ」  魔法には大ざっぱにわけて、T種から]種までの分類がある。高宮の教育課程を大学院程度まで修了すれば、Y種くらいの魔法までは使えるようになるらしい。しかしそれ以上は努力と才能がものを言う世界だ。ちなみにユリンの祖母であり高宮の創設者でもある春川セイカは、]種までの魔法を自在に使いこなすと言われている。それがどれほど凄いことなのか、よく偉い魔法使いが力説しているが、正直なところタツキにはよく分かっていない。  ちなみに、レベルの高い魔法というのは同時に大量の力を食うため、使うためにはこの旧校舎のように何らかの手段を使って力を集める必要がある。 「見た目が静かだったのは、術者が不在だったせいかもしれないわ。術者がずっと外にいるなら、わざわざ空間内のパワーバランスを歪める必要はないだろうし、きっと術者はこの空間の中に入ってきていると思うの」  ハンナが深いため息をついた。 「喋っててもどうせ何も進展しないと思うんだよ。ユリンちゃん、もう話し合いとかやめてズバッとやりたいことをアタシに命令して。もう、考えるの疲れちゃった」 「同感だ。文句は言わないから、俺がやるべきことを教えてくれ」 「じゃあ私のために力をちょうだい。どんな魔法が必要になるか分からないんだし、いざという時に使える力は多い方がいいわ」 「あんたについて行って、必要な時に力を貸せばいいんだよな?」 「先に指でもザクッと切って、出た血ごと力を提供してくれるっていうんなら、別にそれでもいいわよ。私はその方が楽だし」 「冗談じゃねえ」  微笑むユリンの言葉が本気のものに聞こえて、タツキの背筋が冷える。はたから見れば軽い冗談に聞こえるかもしれないが、彼女の目だけが明らかに笑っていない。ここまで言われなければならないほど、彼女にひどいことをした記憶はないのだが。  とはいえ、人間の血が強い力を持っていることは確かだ。ハンカチにでも染みこませれば、それをそばに置くだけで魔法の成功率はぐんと上がる。 「それなら、魔女のアタシの方が……」 「あなたと西貝くんには別にやってもらいたいことがあるから、いい」  そう言いながら、ユリンはレポート用紙を半分に破り、その片方にこまごまと何かを書き始めた。 「ところで神代、何の関係もない話で悪いんだが、ひとつ聞いてもいいか?」 「ん?」  廊下をぞろぞろと東棟に向けて歩いていく途中、アキジがタツキの肩を叩いた。まだ空は明るいというのに、人のいない廊下。なまじ大きな校舎であるだけに、その静けさが恐ろしい。それでも相変わらず、遠くからはにぎやかな生徒の声がする。 「『金に困る』というのは、どういう感覚なんだ?」 「はあ?」  バカにしているのかと思い、自分よりも少し背の高い彼の顔を見上げる。しかし予想に反して、視界に入ったのはやけに真面目な顔だった。 「いや、さっきから考えていたんだけど……高宮の学費、そんなに高いか? 年額で六十万かそこらだっただろう? 生活費を加えても、そこまで行くとは……」 「高えよ! 県立高校の何倍すると思ってんだよ! オマケに、なんかよく分かんねえ寄付金も要求されるし」 「それでもたかだか数万だろ?」 「アホか、全然『たかだか』じゃねえよ」  そこがよく分からない、とアキジは首をかしげる。 「そういや、あんまり気にしたことなかったけど、あんたの家って意外と金持ちなわけ?」 「金持ち、というほど金を持っているつもりはないが」 「……あんた、家はどこ? いつもどうやって学校来てるの?」 「家は山の向こう。学校へは運転手がいつも車で」 「ちょっと待て何だソレ!?」  何だか聞き慣れない言葉がアキジの口から漏れたような気がした。  しかしそう言われてみれば、色々と納得できないこともない。いかつい腕時計もネクタイピンも、ただオヤジ臭いだけだと思っていたが、よく見ればどことなく高価そうだ。  タツキの視線に気付いたのか、アキジは腕時計に目をやる。 「ああ、これはこの間の誕生日に父がくれたんだ。スイスの――」 「黙れ、もうそれ以上聞きたくない」  何だか嫌な予感がして、タツキはアキジの言葉をさえぎる。このまま放っておいたら、話題はどんどんタツキの生活圏を越える。 「いつも弁当持参してるし、そんなに金持ちそうには見えなかったんだけどなあ」 「ああ、弁当はいつもばあやが作って――」 「もういい、あんたは何も言うな! これ以上、俺の心の傷口を広げないでくれ!」  まぶしい、とばかりに片目を閉じ、手で眉のあたりにひさしを作るような仕草をした。なまじ第一印象が普通だっただけに、どこか裏切られたような感覚がある。 「自分で聞いたくせに……」 「そこまで行くとは思わなかったんだよ! なんか聞いてるだけで悲しくなってくるじゃねえか!」 「そうそう、タツキちゃんのような貧乏人に、お金持ち自慢は厳しすぎるんだよ!」  ハンナが横から余計な口を挟んできた。ユリンは数歩離れた所で、心底あきれたような顔で肩をすくめている。 「西貝はともかく、あんたに貧乏人って言われる筋合いはないと思うんだけど」 「あ、ごめんなさい。つい親近感が湧いちゃったんだ」  あはは、とハンナは明るい笑い声を上げる。銀髪の魔女なのだから、ハンナの両親はどちらも魔法使いの家柄なのだろう。もちろんタツキのように、親戚に魔法使いがいないながらも魔法使いを目指す人間はいる。しかし、そうした魔法使い同士がいくら結婚したところで、生まれる子供は魔女にはならない。ユリンがいい例だ。祖母は魔女であり、父親はその息子であるから、父親の側には魔女の遺伝子が入っているのだろう。しかしユリンの母親の出身は魔法使いの家ではないから、ユリンには魔女の特徴である銀髪はあらわれない。  魔女の血を引くような家なら大抵は高宮財団やその他のコミュニティと繋がっていて、そこそこのポストについてそれなりの収入を得ているイメージがあるのだが、尋ねてみるとあっさり否定された。 「アタシのお母さんは魔法関係なんかじゃないただの看護士、お父さんはアタシが小さい頃に死んじゃった。お兄ちゃんは普通高校から普通の大学に行ったけど、ウチもお兄ちゃんの学費で家計は火の車らしいんだよ。タツキちゃんとは仲間なんだね!」  でも今どうなってるのかな、とハンナは首をかしげた。 「そういえばアキジちゃん、ホントにどうして高宮に編入してきたの? やっぱり親が魔法使いとか?」 「逆だよ。魔法にはちっとも縁がない。だからこそ、家族に変な口出しをされずに好きにやれるってものさ。姉がやたら僕の進路に口を挟んできて、正直困ってたんだ……まあ、やるからには逃げたと笑われないように全力でやるけどね。いつか見返してやらなきゃいけないし」  そんな話をしながら、四人はじりじりと東棟に近づく。ユリンがしびれを切らしてさっさと歩き出し、三人は慌てて後を追った。 「じゃあ、さっき言った通りに。私と神代くんは旧校舎の方に行くから、変な気配があったらすぐにそれ振ってね」  ユリンに渡された黄色いハンカチを手に、ハンナは勢いよくうなずいた。  東棟の向こうには、特別棟を一棟挟んで旧校舎が建っている。十数年前まで使われていたという旧校舎は、割れたガラス窓を段ボールでふさぎ、壁のひび割れを教師の素人大工で埋めた、思わず気の毒になるような姿をしている。  ふと視線を窓から右に向けると、大きな鏡が壁にかかっている。タツキは何の気なしにその前に立った。水を適当につけて直した寝グセが、元のカーブを取り戻そうと起きあがりかけている。制服のネクタイが歪んでいることに気付き、直そうと手をやったその時、その手になま暖かい風を感じた。  どこかで感じたことのある、酸味をともなう硬さがタツキの舌を撫でた。うっかり何かの魔法が発動してしまったのか、と思いながら鏡の中を見つめる。  そこに映ったものを見て、タツキは息を呑んだ。  タツキの無意識か、鏡の仕掛けか、旧校舎が引き起こした歪みか、何が引き金になったのかは分からないが、とにかく鏡の前で魔法が働きつつあった。そうだ、これは鏡の真名だ。舌に触れる硬い感触。静かで、そしてかすかな重低音。魔法のために呼ばれた濃厚な力が、人間の持つ感覚をでたらめに刺激していく。  思わずその場に倒れ込みそうになり、タツキは慌ててそばの壁に手をついた。  う、と小さな声が上がる。ここに他の三人がいなければ、迷わず叫びだしていたことだろう。  ふと、ユリンとハンナが話していた七不思議のひとつを思い出す。  東棟二階の大鏡。自分の死に様を映す鏡。  二つのキーワードはおそらく同じ怪談をあらわすものだろう。  これは七不思議とは関係ない、ただの魔法だ、となけなしの理性が主張する。  タツキが鏡の中に見たものは、うつろな目を見開き、血にまみれて倒れ伏す、まぎれもない彼自身の姿だった。