三章  ドールハウスの人形たち 「ところで神代くん、この人は知り合いなの?」  春川ユリンにそう聞かれ、タツキは小さくうなずいた。 「まあ、知り合いと言えば知り合いと言えなくもない」 「あ! タツキちゃん、その言い方はちょっと冷たいと思うんだよ!」  ふうん、とユリンは首をかしげる。 「なんだ、仲良しなのね」 「違う!」  タツキが噛みつくように答えると、ハンナが「ひどーい、アタシちょっと傷ついたんだよ」と肩をすくめた。 「どうでもいいけど、いい加減に放してほしいんだよ。あんまり意味もないしさ」  それでも二人が手を放さないのを見て、ハンナは小さく首を振った。 「交渉決裂なんだね」  その途端、甘ったるい空気がハンナの周りで渦巻く。綿アメのようなざらついた感触と甘味を感じると同時に、銀色の光がひらめき、タツキの手の中からハンナの姿が消えた。 「二人とも、魔女をナメたらいけないと思うんだよ」  数歩離れた場所に現れたハンナは、すぐ横にいたユリンに「ねえ?」と同意を求める。 「え……う、うん」  状況がわからないままとりあえず頷いた、といった様子のユリンに、ハンナは右手を差し出す。 「アタシは雪島ハンナ。あなたは?」 「あ……どうも。春川ユリンです」  はるかわ、と彼女の苗字を復唱した後で、「あ!」とハンナは声を上げた。目やら口やら、開けられるところを開けきった表情で、ユリンに人差し指をつきつける。 「春川セイカの孫娘!」  ユリンがあからさまに顔を引きつらせる。アキジがハンナの袖を引き、「失礼だぞ」と声を荒げた。 「やめて、西貝くん。事実だし、別に彼女を叱る理由はないわ」  毅然とした態度でそう言い放ち、ユリンはアキジを押し戻す。ハンナが差し出したままの右手を握り、軽く握手を交わした。 「確かに『大魔女』春川セイカは私のおばあさまです。でもあなたには、そういう先入観抜きで私を見てほしいの。いい?」 「う……うん、そうしよう」  ユリンは静かに笑っているが、その声にはどこか棘がある。ハンナがここで首を振れば、今握っている手に爪を立てるくらいのことはしかねないような雰囲気があった。自分の怒りを表現したいのかしたくないのか、彼女自身にも決めかねているように見える。ハンナが唖然としている間にも、ユリンの表情は小刻みに変化していく。  しばらくユリンの顔を見つめていたハンナだったが、やがて二、三度うなずき、指でOKサインを出す。ユリンが祖母の話題を必死に避けようとしていることを、肌で理解したのだろう。ユリンは表情を和らげ、「それじゃあよろしくね、雪島さん」と微笑んだ。 「ハンナって呼んでくれればいいよ」 「そう? じゃあ、ハンナちゃんって呼ぶわね」  そんな様子を後目に、アキジとタツキは顔を見合わせ、小声でささやき交わす。 「女の子には優しいんだな」 「僕たちが春川セイカの話題を出したら、それだけで血相変えて怒るのにね」  女って怖いな、とタツキがつぶやくと、アキジも小さくうなずいた。そうこうしているうちに、ハンナが勢いよくこちらを振り返り、アキジの方へと近寄ってくる。警戒しているのか三歩ばかりの距離を保ったままで、アキジに「はじめまして!」と挨拶した。 「アタシは雪島ハンナ。君の名前は?」 「西貝アキジだ。よろしくな」  アキジには握手を求めないまま、ハンナは「よろしく!」と明るい声を上げる。 「よし、それじゃあ、アタシも一緒に肝試しをしてあげよう!」  タツキはその言葉に耳を疑う。さっきまで、逃げようと必死に暴れていた少女の台詞とは思えない。 「何、どういう心境の変化?」 「肝試しは男女同数じゃなきゃロマンがない、って言ったのはアキジちゃんだもんね。アタシ、その意見には全面的に賛同するんだよ。やっぱり人生に必要なのはロマンだよね!」  「ちゃん」付けで呼ばれたせいか、アキジが苦い表情を浮かべた。何にせよ、逃げられるよりは一緒にいてくれた方がありがたい。ユリンの方にもちらりと目をやると、彼女は当惑気味の表情を浮かべたままこちらを見ている。ここにいる、ということは彼女も「迷子」なのだろうが、正直、アキジよりはずっと心強い相手が現れた、と思う。理論の授業ではアキジとユリンの成績は同程度だが、実践の授業になればその実力差は歴然だ。品行方正な学級委員長にして学院創設者の孫娘。明るい色の髪は決して染めたものなどではなく、魔女の血を色濃く引く証拠だ。聞いた所によれば、付属幼稚園から始まってかれこれ十一年、ずっと学院で育ってきたらしい。魔法使いとしては、エリート中のエリートだ。  そんなタツキの視線に気付いたのか、ユリンはぷいと顔をそむける。どうも反応が芳しくないが、嫌われる心当たりがないどころかほとんど喋ったこともないので、いかんともし難い。 「ところで、西貝くん」  ハンナとアキジの間に割ってはいり、ユリンが不思議そうに尋ねる。 「分かりやすく事情を説明してくれない?」  もっともな要求だった。  すぐ側にあった教室に入り、四人は適当な椅子に座る。ユリンはきっちりと背筋を伸ばし、ハンナは椅子の背に抱きつくような形で顎を背もたれに乗せ、アキジはその隣の椅子を乱雑に引いて浅く腰掛ける。タツキはユリンの隣に座った。 「あのね、ユリンちゃん。ちょっと窓から顔を出してみてほしいの」 「なんで?」 「やってみればわかる」  ハンナの要求に、いぶかしげな顔をしながらもユリンは従った。先刻見たあの魔術師らしき人影のせいだろう、ユリンは何か異常な事態が発生していることに気付いているようだった。  窓を開け放ち、ユリンは窓から身を乗り出す。数秒の後、振り返ったユリンの表情はやけに苦々しいものだった。 「……誰よ、こんなおかしなイタズラ仕掛けたの。おおかた、さっきの幽霊も同一犯ね」  ぴしゃりと窓を閉め、ユリンは三人の元へ戻ってきた。 「窓から顔を出したら外にいた人間が消えた。おそらく、私が顔を突っ込んだ先の空間は、こことは隔絶された論理空間なのね。論理空間の中にいたら、普通の状態の人間とはコンタクトが取れない。その代わり、あの空間を確保するにはそれなりの力が必要だわ。私たち高校生にはちょっと難しい」  てきぱきと事情を分析しながら、ユリンは首をかしげる。 「あら? もしかして、ここも論理空間の中だって言いたいのかしら?」 「もしこれが魔法的な現象だとしたら、可能性としてはそれが一番高いと思うよ。でもユリンちゃん、論理空間って、三年生で習う範囲だと思うんだよ……ネクタイが赤ってことは、みんなアタシと同じ二年生だよね。だったら、タツキちゃんに言ってもわかんないって」  アキジちゃんは知ってる? と問われ、アキジは首を振った。 「僕は高一まで普通学校にいたんだ。知識では高校からの入学の神代にもずっと劣るよ」 「へえ、珍しいね! 編入試験に受かるくらい頭がいいなら、最初から高宮に来ればよかったのに。あ、もしかして、技術とか知識じゃなくて高宮の卒業証書が欲しくなったってやつ?」 「お前には関係ないだろう。それで? 論理空間ってのはどういう概念だ?」  うーん、とハンナが頭を抱えた。 「ものすごーく大ざっぱに言うと、現実世界の舞台裏なんだよ」 「ハンナちゃん、半端な説明はかえって誤解を呼ぶわよ」  うー、とハンナが声を上げた。本人の申告によればタツキ達とは同い年のはずだが、中身はかなり幼いように感じられる。 「じゃあ、言い直すんだよ……すべての物質には真名があって、真名を呼べば力を呼び起こせるわけでしょ。でも、生き物の身体に宿る力と、無生物に宿る力は、同じものではあるけど位相がぜーんぜん違う。それを取捨選択して、自我のある生き物を排除した平行世界が論理空間。詳しい仕組みについては来年習うと思うんだよ」  さっぱり意味が分からなかったが、隣でアキジが「なるほど」と頷いたので、あとでこっそり彼に聞こうとタツキは思った。 「……タツキちゃん、もしかして分かってない? じゃあ、普通学校にいる普通の人にでも分かっちゃうくらい、ものすごーく分かりやすい例で話してあげるね」  ハンナが手を広げた。アキジの控えめな笑いがやけに不快だ。 「こっちの世界は、ふだんアタシ達が住んでる世界。物があって、生きてる人がいるところね。で、そっちの世界が論理空間だとするの」  右手と左手の握り拳を使って、ハンナは懸命に説明してくれる。 「論理とかやり方とか全部スッ飛ばして解説すると、右の世界には生き物がいて、左の世界には生き物がいないんだよ」  今度は端折られすぎて意味がわからなかった。 「ふつうは左の世界には誰もいないから、その存在を知覚する人間もいないんだね。でも、そういう世界を作り出すことはできる。現実世界じゃなくて、その平行世界としてね。確か作り出すのにはすごい力がいるけど、維持はけっこう簡単なんだよ。ちょっとしたY種魔法だけでいい」  Y種などという名前が出てくる時点でちっとも簡単に聞こえなかったが、まあいい。 「この学校くらいの広さなら、維持するには普通の人間が一人で頑張れば足りる。でも、それだけじゃ空っぽの、実物大のドールハウスを造っただけで、あんまり面白くないでしょ?」  ね、と同意を求められたが、人形遊びはしないのでよく分からない。 「だからそのドールハウスに、人を入れたり、動物を入れたり、自分が入ったりするの」  ああ、とタツキはうなずいた。 「で、俺たちは空っぽのドールハウスに放り込まれたお人形ってわけか」 「まあ、そういうことなんだね」  そう言ってハンナが肩をすくめる。「まあ、それでもいいか」とユリンがつぶやいた。 「あまりピンと来ないけど、間違ってはいないわ」 「ホント? 良かったあ、中学の時の授業で聞いたっきりだから、あんまり自信なかったんだよね」  えへへー、と子供のように胸を張るハンナ。年齢不相応なその子供っぽい仕草には、鼻につくような所はない。彼女がずっと浮かべている、楽しそうな笑顔のせいだろうか。 「でもね、一つのドールハウスだけじゃつまんないから、いくつか並べて大きな学校を作ってるんだよね。だから……タツキちゃん達はもうやったと思うけど……『お人形の世界』である学校の敷地から外には出られないのに、この校舎っていう一つのドールハウスから、校庭っていう隣のドールハウスに移ることはできる」  ちなみに繋ぐのはちょっとしたV種魔法でいいんだよ、とハンナは続けた。 「でも今アタシ達がいるこのドールハウスはあんまり性能がよくないから、ドールハウスの中からは隣のドールハウスじゃなくて、現実世界の生き物が見えちゃうんだよね」 「その現実世界にいるのが、あそこで野球やってる奴ら、ってわけか」  うん、とハンナはうなずいた。 「タツキちゃん、よく出来ましたー、えらいえらい!」  頭を撫でられてもちっとも嬉しくない。 「だから、こことあの校庭にいる人達がいる世界は、つながっているようでつながってない。でも、ここが論理世界って言うにはちょこっと矛盾もあるし、そう考えたらそもそもここは論理世界でもなくて、もっと非魔法的な世界、ズバッと言っちゃえば七不思議の第七番が作った世界じゃないかってアタシは思ってるんだよ」  結局はそこに行き着く訳だ。タツキはやれやれと首を振る。しかしもっと冷ややかな反応を返したのはユリンだ。「バカじゃないの」とつぶやく。 「バカって……けっこうキツいこと言うね、春川さん」 「何を言い出すかと思えば、幽霊ですって? そんな非科学的かつ非魔法的な存在、私は認めないわ」  ぴしゃりと言い放ち、ユリンは唇をゆがめる。 「どこかに魔法使いがいるはずよ。多少の矛盾は、魔法を重ねていけば発生しうるわ」 「だ、だから、きっとさっきの首のない魔法使いさんが術者で……」 「あれは違う」  ハンナの言葉を遮って、ユリンはそう断じた。 「あのでくの坊にそんな力はないわ」 「春川さん、そのでくの坊にやられてたのはどこの誰――」 「あれはちょっと油断しただけよ。人じゃなかったから、きっと誰かの作った人形ね」  凄みのある形相で睨まれ、タツキは息を呑む。思わず「すいませんごめんなさい俺が悪うございました」と声が出ていた。 「ところで、春川さんは高宮の七不思議を知ってるの?」 「中学校の頃から第七番まで全部知ってるけど、学校から出られなくなったことはないわよ。……ああ、今出られなくなったのか」  アキジの問いに、ユリンはそう答えて笑った。その含みのある微笑を見て、タツキは思わず彼女の顔を凝視する。祖母のことにさえ触れなければ大人しい、気さくな優等生だと思っていたが、意外にクセのある性格をしているようだった。 「西貝くんは……知らないか。高校生にもなって、そんなもので騒がないわよね」  ハンナが視線をそらして頬を掻いた。 「ええと、話を戻すけど、つまり『高宮の七不思議が現実になっている』って言いたいのね?」 「一言でバシッとまとめると、つまりそういう話なんだよ」  ハンナがうなずきながら指を立てた。 「第三番、西棟にあらわれる首無しの魔術師。第七番、七不思議を全部知った人間は学校から出られなくなる。アタシ達は、その第七番に引っかかって学校に閉じこめられたんだ」 「それはつまり、私を含めて、ということかしら?」 「たぶん、そうだと思うんだよ」  ふうん、とユリンは顎に手をやった。 「ハンナちゃん。あなた、説明下手ね。回りくどいわ」 「うわ! 直球勝負! ユリンちゃん、けっこうツッコミがキツいんだね」  よよ、と泣き真似をして、ハンナは哀れっぽい声を上げる。ユリンは顔色ひとつ変えずにその様子を見ていた。冷ややかな彼女の視線に耐えかねたのか、ハンナはひとつため息をつくと、何事もなかったかのように顔を上げる。 「ところで春川さん、ほかの七不思議ってどんな話なんだ?」  アキジにそう尋ねられ、ユリンは難しい顔で考え込んだ。 「首のない魔法使い、出られない学校、それから……勝手に鳴る音楽室のピアノ、自分の死に様を映す鏡、踊る厄除けガーゴイル像、旧校舎で夜な夜な騒ぐ幽霊、それから女子トイレに出る死んだ生徒の幽霊、だったかな」  指折り数えながらそう言って、「ハンナちゃんが知ってるのと同じ?」と尋ねる。ハンナは小さくうなずいた。 「でも、『女子トイレの幽霊』は入ってたり入ってなかったりした気がするわ。あのころ流行ってた別の幽霊、ほら、口裂け女とか人面犬とか、あの辺と入れ替わったりもしていたような気がする。平家の落ち武者が出てきたり、階段の段数が変わったりというのもあったかしら」 「え、もしかして結構いい加減なの?」 「そうよ。だから現実に起こるなんてあり得ない。高宮に伝わっている不思議を全部集めたら、たぶん七つよりもずっと多いだろうしね」  ユリンはオーバーに肩をすくめた。ハンナが不機嫌そうに頬をふくらませる。そんな仕草をしても許されるのは、彼女の持つ幼い雰囲気ゆえだろう。 「だから、こんなふざけた魔法をかけているのも人間よ。間違っても幽霊なんかじゃないわ。七不思議なんて、しょせん人間が作り出したものだしね。それに従っているのは、人間でしかあり得ないの」  当たり前のことを言っているだけだとでも言わんばかりの調子で、ユリンは淡々と言葉を紡ぐ。「ね?」と同意を求められ、ハンナは大きく首を振った。 「でも、でもだよ、ユリンちゃん。アタシはずいぶん長いこと学校の中で迷子やってるし、タツキちゃんの他にも人を見たんだよ。七不思議の幽霊でもなかったら、そんなこと続けるメリットがないと思うんだよ!」 「私たちが知らないだけで、きっと何らかの利益があるのよ。調べていけばわかると思うわ」  で、とユリンは三人の顔を順繰りに見回す。 「私はさっき初めてこんな状況になっていることを知ったし、三十分前にこの校舎に入ってきた時にはまだこの空間の中に取り込まれてはいなかったわ。あなた達は?」 「……俺は出られなくなって今日で四日目、西貝は五日目」 「アタシは長いこと居すぎて、もうどれくらい経ったかなんて分からないんだよ! ベテランって呼んでくれると嬉しいな!」  三人の返答を聞いて、ユリンは失望の表情を浮かべてため息をついた。 「神代くんには期待してなかったけど、西貝くんも五日もかけて何も分からなかったわけ? ハンナちゃんはいいわ、調査なんてする気もないみたいだから」  ハンナとアキジが顔を引きつらせる。タツキは抗議する元気もなく肩を落とした。いったい俺があんたに何をしたんだ、とあやうく口に出しそうになったが、彼女を相手に口論で勝てる気はしなかったので思いとどまる。 「僕だって努力はしたんだ。とはいえ、魔法なんて習い始めて半年も経ってないんだから、調べるって言ったところで何をしていいのか分からなくてね。五日間かけて分かったのは、図書室には基本の教科書を置いていないってことくらいだ」  ユリンはぽんと手を叩き、初めて気がついたというような表情でうなずいた。 「確かにそうね。魔法の扱いって経験がものを言うことが多いし、実践経験の少ないあなたに高望みをして悪かったわ。でも、それを言うなら神代くんは? ええと、中学からじゃないわよね? あなた、出身は普通中学?」 「ウチは貧乏なんだ、中学校から私立の魔法学校になんか通えるわけない。普通中学だよ」 「高宮に来れるなら、十分な経済力がある家庭だと思うんだが」 「あー、西貝んトコみたいに普通に払ってりゃな。ウチは当座の学費は高宮財団の奨学金で賄ってんだよ。有利子、要返還。将来は財団関係の仕事に就かないと、全額返還なんてやってらんねえ」 「財団関係職に就きたいってことは、奨学金の返還免除枠狙いか」 「それにしても、実習であんなひどい魔法を連発してる人間の言う台詞じゃないわね。西貝くんが同じことを言ってたらまだ納得できるんだけど」  アキジの言葉に水を差すように、ユリンが冷たく言葉を挟む。 「本当に出来が良かったら、貸与じゃなくて返還不要の奨学金が貰えるだろ。俺、そこまで頭良くねえよ」 「ユリンちゃん、顔の割にいちいちツッコミが厳しいんだよ! って、あれ、みんな遠慮なくツッコミ入れられるようなお友達同士なんだっけ?」 「二人ともクラスメイトだけど、友達ってほど仲良くはないわよ」 「春川さん、いくら何でもそこまでストレートに言わなくても……」 「必要のない嘘をつくのは嫌いなの」  なだめるアキジに対しても、ユリンの態度はにべもない。 「話が逸れたわね……と言うより、逸れっぱなしだわ。なんか調子狂う」 「調子が狂うのはこっちなんだよ……」  ハンナが疲れた顔でため息をついた。思うようなツッコミの入らないボケは厳しかろう、と考えたあとで、彼女のこの態度はボケじゃなくてただの天然か、と思い直す。何が悪いのだろう、と考えて、相性が絶望的に悪いのだ、という事実に思い当たった。 「まあ、いいわ。あなたのような不真面目な魔法使いなら、何年勉強しようが使えないことに変わりはなさそうね。高位の魔法を検出するような腕があるなんて、元から期待しちゃいないから安心して」 「そりゃあ、春川さんから見ればそうだろうけどさ」  もうちょっと言い方ってもんが、と言いかけたタツキの言葉を遮って、「じゃあ、これから調べてみましょうか」とユリンが手を叩いた。 「実習室に行けば、たぶん便利な道具が色々揃っているわ。ここが論理空間なら、たとえ勝手に設備を使っても、怒る先生がいないんだから問題ないでしょう」  彼女のその言葉にこたえ、四人は同じフロアにある第一実習室へと向かった。  扉の鍵は閉まっていたが、床近くにある背の低い掃き出し口が開いていた。ハンナがそこから教室の中へ潜り込み、内側から鍵を開ける。 「なんだか久しぶりな気がするんだよ……ところでユリンちゃん、何するの? 濃度地図でも作る?」 「そうね。それがいいわ」  二人が話しているのは、魔法の元になる「力」の分布を示す地図だ。自然な状態なら均一になるが、魔法を使うとその濃度が歪む。この校舎内では、四つある魔法実習室がもっとも力の濃い空間になるはずだ。これらの教室には、魔法に不可欠なその力を集めるためのさまざまな設備が整っているため、放っておけばどんどん濃度が高まっていく。  棚を開け、目当ての薬品を探していたハンナを、ユリンが手で押しとどめた。 「座ってていいわよ。私一人でやるから」 「え、でも……」 「いいから座ってなさい。大人数でやると混乱するわ」  ハンナが取ろうとしていた茶色の小瓶を取り、ラベルを確認しながらさらに幾つかの小瓶を取り出す。ピペットと試験管を取ってそのうちの一本を試験管立てに差し、さらに鞄からレポート用紙とボールペンを取り出した。 「あ……春川さん、使う? さっき俺たちが使ったやつなんだけど」  レポート用紙を裏返し、白い面に学校の図面を描き始めたユリンに、タツキはずっと持っていたさっきの地図を見せる。ユリンはそれを一瞥して、「汚いからいらない」と答えた。 「そんな図面で魔法をかけたわけ? 信じられない。男子の神経って分からないわ」 「別にいいだろ、上手くいったんだから。校内の鏡を呼んで、雪島さんを探したんだ。これがあったから、さっき春川さんと会えたんだし……」 「あきれた。その運の強さだけは認めてあげるわ」  言いながらも、ユリンは定規とボールペンを使って地図を描き続ける。高校の敷地とその建物を、かなり正確だと思われるサイズと配置で描いていった。 「うわあ、すっごくキレイだ! さすがユリンちゃん、描き慣れてるね!」 「高宮の校舎図なら、幼稚園から大学まで全部描けるわよ。こういうのは得意なの」  はしゃぐハンナには目もくれず、あくまで落ち着いた言葉を返すユリン。アキジは興味深そうに机の上に並べられた薬品を眺め、タツキはそばの椅子に腰掛けてあくびをした。汚い、とストレートな感想を叩きつけられようと、地図を描いたのはアキジなのでタツキが傷つく筋合いはないし、そもそも彼女のやたらと攻撃的な口調に、少しずつ慣れつつある自分がいた。  タツキが頬杖をついて見ている前で、ユリンは紙の四隅にピペットで薬品を垂らす。薬品が紙の上に赤い染みを作った。  その主成分である動物の血は魔法を手助けするよい薬になるが、古くさい、生臭い、気持ち悪い、と若い魔法使いからの評判は散々だ。挙げ句、最近は動物保護団体までが乗り出してきて、血を魔法に使うことに抗議してみたり、残酷だと魔法使いをこき下ろしてみたりと、面倒なことになっているという。どういうわけか社会科の教師が説明していたそんな話を思い出しながら、タツキは再び小さくあくびをした。 「よく考えてみりゃ、豚肉食ってる奴らに『豚の血を魔法に使うなんて残酷だ』なんて言われたくねえよな」 「ええと……それ、だいぶ前に夏茨先生がしてた話だったかな?」 「そうそう。人間の血を使うとか言われたらさすがに俺も引くけど、豚くらい別に――」  社会科の教師である担任の名前を出すと、横からひょいとハンナが身を乗り出してくる。 「カイバラ? って、ジュンちゃん先生のこと?」 「え、あんたもあの先生に当たったことあるの?」 「アタシはジュンちゃん先生のファンクラブ会員一号なんだよ! まあ、会員はアタシしかいないんだけどね! 部活の顧問だったし、社会の授業も持ってもらったことあるし、しかも部活は中高合同だったから中学校の時からの仲良しさんなんだよ! 七不思議の話だって、アタシに教えてくれたのはジュンちゃん先生なんだ。ジュンちゃん先生のことなら、何でもアタシに聞いて!」  ハンナは幸せそうに頬をゆるめる。夢見る乙女、という形容がぴったり当てはまるような表情だった。胸に手をやって、伏し目がちに語り出す。 「夏茨ジュン、二十九歳、男性、独身。中・高と高宮で過ごして、思うところあって大学は普通の大学に進学。地歴の教員免許を取ったら、その頃ちょうど高宮が地歴の先生を募集してて、ダメもとで受けてみたら採用されちゃったんだって。好きな食べ物はおせんべい、好きな飲み物は紅茶、好きな色は白。自分を動物にたとえるならクマ、もし百万円あったら新しい車を買いたいって言ってた。それでね、好きな女の子のタイプは、髪が長くて静かな、お人形さんみたいな女の子なんだって! アタシってば、ジュンちゃん先生の好みのタイプ、そのものズバリだと思わない?」 「いや、『静かな』子が好みって時点で、あんたに望みはないと思う……」 「そ、そんなことないんだよ! アタシだってやろうと思えば静かになれるんだよ?」 「じゃあ、今から静かにしてみてくれねえかな」  ぐ、とハンナは言葉に詰まり、「分かった!」と言ってタツキの隣の椅子に腰掛けた。口をへの字に曲げて、正面に座るユリンの額のあたりを凝視する。スカートの上に置いた両の拳が、小刻みに震えていた。 「いや、そこまで無理しなくても」 「む、無理なんかしてないんだよっ」  ハンナが答えたその時、ユリンのピペットが地図の真ん中に別の薬品を垂らす。レモン色の液体が地図に落ちると同時に、ユリンは手早くピペットを戻し、両手をかざして魔法を発動させた。甲高い電子音が響き、オレンジ色の風が四人の頬を撫でたのとほぼ同時に、地図に落とされた薬品がさっと色を変える。赤からオレンジ、黄色、緑、青と、鮮やかな極彩色に地図が染め上げられ、表面をさっと白い霧がかすめた後には、しわもなく乾ききった紙だけが残る。  術者でないタツキには味や臭いまではほとんど伝わってこなかったが、ユリンはわずかに顔をしかめ、「酸っぱい」とつぶやいた。  参考書どおりの見事な魔法を成功させたところで、ユリンはその紙の端をつまみ、三人に見えるように胸の前にかざした。 「さて、これをどう思う?」  全体が淡い黄色に染め上げられた地図の中、左上の一部だけが色彩豊かに彩られている。  その虹色の中心にあるのは、今は使われていない旧校舎だった。