二章  首無し魔術師  魔法使いが人々の前に姿を現したのは、今からざっと六十年ほど前のことだ。  異彩を放つ風体の魔女、彼らが起こす奇跡の数々。彼らは人知れず百万の民を救ってきたと言うが、その存在が「公表」された後、その力で一千万の民を惑わせたのだと言う者もある。  魔法という技術がいつから存在したのか、魔女という人種はいつから存在しているのか、正確なところは魔法使い達自身にも分かっていない。しかし、彼らが奇怪な術を使い、科学で証明されてきた論理をいとも簡単に破ってみせることが出来るのは事実だった。物体を宙に浮かべ、幻聴を聞かせ、人々の無意識に干渉しては行動さえも操る。魔法が人口に膾炙する過程で危険な魔法はその利用および研究が禁じられたが、消え去ったわけではない。  魔法使いのコミュニティは非常に閉鎖的であったためか、日本では魔法というものは独自の進化を遂げている。その強力さゆえに扱いは難しく、専門の学校にでも通わない限り使いこなすことは難しい。かつては魔法使いの子女くらいしか通う者のなかった魔法学校は、魔法使いという職業が一般に認知されるにつれて規模を拡大しているが、それでもいまだに特殊な存在であることには変わりない。  医療を中心に、魔法は少しずつ活躍の場を増やしている。魔法使い達は少しでも偏見を減らし安全に魔法を使うために、日々努力を重ねているのだ。 「神代くん、曙川条例の制定は何年ですか?」  担任の声がする。そうか、今は補習の最中だ。曙川条例は魔法の使用について定められた最初の条例。制定は……何年だっただろうか。  斜め前に座っている男子生徒が、せかすようにこちらを見てくる。タツキはこの生徒が嫌いだった。補習なんて受ける必要のない成績を取っているくせに、この補習に通い詰めているのは何の嫌味だろうか。普通高校からの転入生だが、タツキよりも魔法の筋は良さそうだった。それがまた腹立たしい。  するとさっきまでのあれは夢か。妙な魔女が出てきたのも、学校に閉じこめられていたりするのも、きっとすべて夢だ。 「神代くん?」  担任はどこまでも優しい。そんな態度だから生徒につけ入られるのだ。同じように補習に出ながら居眠りで時間を潰す一部のクラスメイトに、ちらりと視線をやる。 「うーん、それでは西貝くん」  担任が転入生の名を呼び、彼は正しい年号を即答する。  ――そこで、目が覚めた。  目が覚めると、いつの間にか朝になっていた。  身を起こし、視線を巡らせる。五線を引いた黒板の上にかかる時計は朝九時を指していた。妙な夢を見た、と思いながらのびをする。とうに終わったはずの補習の夢を見たのは、やはり学校にいるせいだろうか。  タツキは立ち上がり、髪の寝ぐせを指で梳いてごまかしながらそばの水道場へ向かう。顔を洗って口をゆすぐと、何となく目が覚めたような気がした。  机の上に置いたままだったリンゴの芯をゴミ箱に捨てながら、あれは夢ではなかったんだな、と昨日のことを思い出す。雪島ハンナの言葉が本当なら、自分はまだ学校から出られないはずだ。そしておそらく、彼女も。  取りあえずはハンナを探そう、とすぐに結論を出し、タツキは鞄を持って廊下を歩き出す。これまでの三日間と同じように、誰ともすれ違うことはない。  どこへ向かおうか、と思いながら、渡り廊下のところで立ち止まる。  高校の新校舎は、三階建ての校舎が全部で三棟ある。西棟、中棟、東棟と並んでいて、それぞれ北端と南端、そしてその真ん中に、校舎同士をつなぐ渡り廊下がある。上から見ると、ちょうど縦線の太い「田」の字に見える格好だ。  今歩いているのは中棟の二階。職員室は西棟の一階。タツキの教室は東棟の一階。  中棟の真ん中、渡り廊下との交点に立ってタツキは左右を見る。しばらく考えて、西棟の方へ向かうことにした。渡り廊下を歩き。一年生の教室が並ぶ西棟の二階へたどり着くとそばにある階段を下りる。その先には職員室があるはずだった。  やけに静かな階下の様子をうかがいながら「縁起悪い」とつぶやいて、のろのろと歩を進めた。いつもならこの廊下はもっと騒がしいはずだ。職員室の中からだって、談笑の声や生徒の声が聞こえるはず。職員室を目の前にして、嫌な予感は最高潮に達する。  遠くからはざわついた人の声と、それをかき消すようなやかましい蝉の声。いくら夏休みとはいえ、この校内の静けさは異様だ。タツキはおそるおそる、目の前の扉に手をかける。 「失礼します!」  言いながら思い切り扉を開けた。クーラーの効いた部屋の中から、涼しい空気が漏れてくるのを感じる。一歩中に入り、ぐるりと部屋の中を見回した。  誰もいない。  見事にもぬけの殻になっている室内を見ながら、タツキは思わず笑い声を上げる。そばの机の上には中身の入ったコーヒーカップ。その隣の机には、書きかけの書類とボールペンが転がっている。会議のために席を外しているのだとか、たまたま人がいないのだとか、そういったタツキの期待を見事にうち砕く光景には、もはや笑うしかなかった。  誰にも助けを求められないから、『迷子』になっているんだ。  ハンナの言葉を思い出しながら、タツキはその場に立ちつくす。  無駄だと思いながらも「落ち着け」と自分に言い聞かせ、踵を返すと職員室を飛び出した。どうせ何かの魔法だ。V種だろうがW種だろうが、その他タツキには縁の無いような高度な魔法だろうが、そんなことは知ったことではない。このくらいの現象なら、起こす方法があるはずだ。なに、地球上からすべての人間が消えたわけではない。魔法の範囲はたかだか高宮の敷地内だ。すぐに何とかなるに決まっている。すがるようなその願望とは裏腹に、心臓がやけにせわしなく鼓動を打つ。  七不思議だと割り切ってしまうのと、どちらが楽かと考える。ハンナの言うことにも一理あるとは思うが、逃れる方法がわからない七不思議よりは、まだ正体の見えている魔法の方がましだ。  複雑な思いを抱えながら、校舎の南端に向かって早足に歩いていく。突き当たり右手は昇降口になっている。校庭から聞こえる生徒の声が、少しずつ大きくなってきた。知らず知らずのうちに小走りになる。  下駄箱の前を上履きのまま突っ切り、ガラス戸を開けて外に飛び出した。  その瞬間、全身に強い圧迫感を感じる。校門を出ようとした時と同じ、強い違和感。  反射的に目を閉じた。嫌な予感がする。 「……って、おい」  おそるおそる目を開けると、校庭からは生徒の姿がきれいさっぱり消えていた。同時に、あれだけうるさく聞こえていた生徒の声も消えている。その代わり背後に建っている校舎の中から、ざわついた人の声が聞こえてきた。 「あー、くそ、馬鹿にしやがって……」  タツキは踵を返すと、ずかずかと校舎の中へ戻っていく。聞こえる声が切り替わった。扉を抜ける時にまたあの圧迫感を覚えたが、この三日間で何度も体験した感覚だけにそろそろ慣れた。思えば今までだって、校舎に出入りする時にこの感覚を覚えていたに違いない。身体が慣れてきたのか、と思いながらタツキは舌打ちした。  真っ直ぐ正面、突き当たりのそばには図書室がある。七不思議でも魔法でも知ったことではないが、何らかの手がかりがあるかもしれない、とタツキは考える。相変わらず校内には人の気配がない。背後からは人の声。挙げ句の果てに斜め前方、中庭と思しきところからも、楽しそうに笑う人の声がする。距離がずっと近いだけに、余計に苛立ちがつのる。  うるせえ、と思わず地元の言葉で叫んでしまったその時、ガラリと音を立てて図書室の扉が開いた。 「大した元気だな」  扉のかげから人間が現れたのを見て、タツキは目を丸くした。 「誰かと思ったら、神代じゃないか」  声の主は腕組みをして、あからさまにがっかりしたような表情を浮かべた。タツキは目の前に立っているこの男子生徒が、級友であることにようやく気付く。タツキが一方的に嫌っている、普通学校からの転入生。 「……西貝」  西貝アキジはため息をついて、「ちょっと話がある」とタツキを図書室の中へ招き入れた。  図書室に入ると、奥の机の上には乱雑に本が積み上げられている。アキジはその机に近づくと、椅子に座り、タツキに対面の椅子を勧めた。 「……何日目だ」  アキジは何の脈絡もなくそう聞いてくる。タツキが「四日目」と答えると、アキジは「嘘だろ」と頭を掻いた。  いつもはきちんとセットしている髪はやけに乱れ、眼鏡の奥の瞳も精彩を欠いている。ただでさえ痩身の彼は、どことなくやつれているように見えた。 「もしかして、あんたも『迷子』なの?」  タツキは本の山に埋もれるような格好になったアキジに尋ねる。 「高校の敷地内から出られない、というのを『迷子』と表現するなら、そういうことだ」  いつものように回りくどい口調で、アキジはそう答えた。  春に転入してきたばかりの西貝アキジは、タツキとはほとんど会話を交わしたことがない。元はどこか他県の普通高校に通っていたというアキジだが、それでも魔法理論の成績はタツキよりもはるかに良かった。どうしてわざわざ魔法学校である高宮に転校してくる必要があったのかは知らないし聞く気もなかったが、とにかくその成績を含めて、あまり積極的に関わりたいと思わせるような人間ではない。 「それにしても、四日目か……お前、今までどこにいたんだ?」 「どこって……音楽室だけど」 「中棟か。しかしまた意味のないところに居座ったもんだな」  積んだ本の山を軽く叩きながら、アキジは肩をすくめる。 「原因を調べようとか、思わなかったのか?」  タツキは小さく首を振る。居心地の悪さに辟易しながらも、なんとか口を開いた。 「つまり、あんたも『迷子』なんだろ。あんたこそ、いつから校内にいるんだよ」 「五日前から」  苦虫を噛みつぶしたような顔で、アキジは答えた。 「もっと早く出会うべきだったな。下手に出歩くのは得策ではないと思っていたけど、案外そうでもなかったようだ」  独り言のようにそう言ってから、アキジは本の山を越えて身を乗り出してくる。 「もう恥も外聞も知ったことじゃない。神代、お前が知ってることを教えてくれ。こいつは、僕の手には負えない」  アキジが『遭難』したのが五日前ということは、タツキが退部届けを取りに来たあの日には、既にアキジは校内にいたということになる。もっと早く出会うべきだった、というアキジの意見には、全面的に賛同できた。  だがしかし、アキジと出会ったところで、どうやら話はいっこうに進展しないらしい。 「知ってること、って……」 「お前、ここから出る方法を知らないのか」 「そんなもん知ってたら、とうの昔に寮に帰ってるよ。アホじゃねえの」 「役に立たないな」  そこまで言われていい気はしない。タツキはテーブルの下で拳を握りしめ、視線をそらすと、もったいぶった態度でつぶやいた。 「出る方法はともかく、原因なら知ってるんだけどなあ」  アキジが表情を変えた。声に抑えがたい苛立ちをはっきりとにじませながら、「話せ」とタツキの腕を掴む。 「お? 役に立たない俺なんかの話が、そんなに聞きたいんですか」 「……さっき言ったことは謝る。だから話せ」  合格点にこそ届かないが想像よりも素直なその態度に、タツキは拍子抜けしながらアキジの顔を見た。もっとお高くとまっている印象があったのだが、今のアキジの表情はかなり必死だ。もしかすると、さきの「役立たず」発言は嫌味でもなんでもなく、純粋な本心だったのだろうか。 「分かったよ。話すから落ち着け」  テーブルを乗り越えて来そうな勢いのアキジを押し戻しながら、タツキは机の上に広げられた本と十数枚のルーズリーフを見る。教科書から辞書、入門書から専門書まで脈絡なく積まれた本は、あちこちに付箋がつけられていた。ルーズリーフにはぎっしりと計算式と魔法用語が書かれている。それにしても教科書の多さには驚かされる。図書室と言えば漫画を借りる以外に利用したことがないタツキと違い、彼はきちんと自習に来たのだろうか。  それはともかく、ここまで必死に魔法を計算している相手に「七不思議です」と平気な顔で告げられるほどタツキの神経は太くはない。魔法にこだわっているということ、ルーズリーフに「七不思議」に類する語が見られないことから、まだ彼はハンナに出会ってはいないのだろう。それはまず確実だと思われたが、それでも、万が一すでにアキジが七不思議のことを知っていればまた嫌味が襲ってくるだろう。そう思い、予防線代わりにタツキは質問をした。 「ところでお前、俺の前に魔女の子に会ったりしてない? きれいな長い銀髪の」  手で髪の長さを示すタツキ。アキジは目を細め、「それはいつから数えて?」と逆に尋ねてくる。そう言われてみれば、タツキだって四日前に学校に来てから、少なくとも数人の教師と会話を交わしているわけだ。どの瞬間に『遭難』したのか、それはタツキにもまだ分かっていない。 「えっと……お前が、『迷子』になった、と思ってから」  アキジは「そんな子には会っていない」と答えた。 「そもそも、この五日間で顔を合わせた人間はお前だけだよ。それが何か?」 「いや、だったらいいんだ」  雪島ハンナが本当に彼女が言うとおりの「迷子」なら、「迷子」になる前のアキジには出会うことができないはずだから、アキジが「遭難」以前にハンナに会っていることはあり得ない。  ならばおそらく、アキジは七不思議のことを知らないだろう。  タツキはしばらく考えた後、うまい切り口を思いつくことができないまま投げやりに口を開いた。 「西貝、あんた、高宮の七不思議って知ってる?」 「は? ……いや、知らない」  アキジは小さく首を振る。 「高宮の七不思議の七つ目。七不思議を全部知ったら、学校の中で『迷子』になるらしいんだけど」 「くだらない」  昨夜のタツキと同じような言葉で即答してから、アキジは頬杖をついた。 「僕は高宮の七不思議なんて知らないから、その『七つ目』とやらに襲われる謂われはないね」 「あれ、あんた、七不思議自体は信じるの?」 「別に否定する必要もないだろう。今なら、これがUFOの仕業だと言われても古代文明の神秘だと言われても信じられるような気がするよ。……で? お前は、その七不思議を全部知ったから学校に閉じこめられてるとでも?」 「いや、俺も七不思議は知らないんだけど」  だったら問題外だ、とつぶやいてアキジは首を振った。 「そんな下らない話をお前にしたのは誰だ?」 「同じ『迷子』だっていう、魔女の子。雪島ハンナ、って言うんだけど」  ハンナの名前を口の中で繰り返したあとで、「知らないな」とアキジは首を振った。 「うちの高校の生徒か?」 「制服はそうだったけど」 「学年は?」 「ネクタイ外してたから分かんねえ」  そう言えば、とタツキは昨日のことを思い出す。彼女の雰囲気からてっきり同学年か年下だと思っていたが、もし先輩だったりしたらタメ口を利いてしまったのは良くなかっただろうか。もちろん、昨日のうちにそんな常識的判断ができたとは思えなかったが、形だけは後悔してみることにする。  そうか、と答えて、アキジは黙り込む。机の上のシャープペンシルでルーズリーフの余白に何かを書き付けて、さらにもう一枚ルーズリーフを出してきた。 「で? その子は、他にどんな話をしたんだ?」 「他に……って、別に。東京出身で、中学校からの入学だとか……」 「その子についての話はどうでもいいんだ。僕たちのこの状態について、何か話していなかったか、と聞いてるんだよ」  どうでもいい、を強調しながらアキジはシャープペンシルで机をコツコツと叩く。いちいち言い方がカンに障るが、本人には悪気がないようなのでどう返していいかも分からず、タツキは黙って昨日のことを思い出す。 「『迷子』は、他人に助けを求めることができない。誰とも会わないし、すすんで会おうとも思わない……って感じだったな。でも実際にやってみたら職員室ももぬけの殻だったし、会わないというよりは会えないって言った方がいいのかも。ただし、同じ『迷子』のあの子やあんたとは喋れたから、『迷子』同士なら普通に会えるんだと思う」 「そうか。うん、他人と会おうと思わない、というのは確かにそうだな」  そうでなければもっと早くお前と会えただろうに、とアキジは恨めしげにつぶやいた。 「まあいい。相手が野郎ってのが今ひとつ気にくわないが、いないよりはマシだ。神代、何とかしてここから出るぞ。相手が七不思議だろうが、諦める必要はあるまい」 「……あんた、意外とポジティブにものを考える人なんだね」 「ん? お前はもう諦めているのか?」 「俺、逃げ足と諦めは早いのが自慢なんだよ。……とはいえ、俺だってここで飢え死にする気はねえしな。お前が諦めないんなら、協力してやってもいいぜ」  冗談めかして言うと、アキジは真顔で「そうか」と答えた。 「しかしメシやクソならともかく、そんなものが早かったところで芸にもならないだろうに」 「うるせえよ」  少しは自分の心にも余裕が出てきたのかな、と思いながら、タツキは軽い調子で言葉を返した。 「そういうお前は? それだけ色々調べたなら、何か分かったんだろ?」 「残念ながら、どれも推測の域を出ないよ。V種魔法でこの現象を引き起こすには、よほど高度な魔法か質のいい道具がない限り、それなりに腕の立つ魔法使いが何人か必要だ。かといって、そんな暇人がゴロゴロいるとも考えにくい。それ以外の手順でこんな閉鎖空間を作ろうと思ったら、そいつはもっと面倒な魔法の領域だ。普通の高校生には手が出ないだろうし、ましてや僕なんかに計算できるわけもない」  タツキやアキジのような、せいぜい一、二年魔法をかじったような人間は、少しレベルの高い魔法になると手順を計算することすらおぼつかない。 「もしW種より上なら、俺たちの知識で魔法を解放するのは諦めた方が良さそうだな」 「ああ。術者を探して説得するほうがずっと現実的だ」  しかしそれができれば苦労はしない、とアキジはため息をつく。 「やはり、基本がなっていないと本を読んでも意味がないな。その雪島って魔女の子が中学校からの入学なら、少なくとも僕たちよりはマシな知識を持っているはずだ。何とか話を聞きたいところだな」  眼鏡を指で押し上げながら、右手で机の上に散らばるルーズリーフをまとめる。 「探しに行こうか」  アキジの言葉に、タツキはうなずいた。  教科書を片手に、アキジは紙に校内の見取り図を書いていく。無地の方がいいだろう、とプリントの裏を使い、青いボールペンを走らせる。真上から見た形で、三棟の校舎と旧校舎、それから特別棟を描く。 「なあ、新校舎だけでいいんじゃねえの?」 「お前の力を借りれば、特別棟まで届くだろう」  プリントの一枚が、そのまま高校の敷地に見立てられている。青いボールペンで図面を引き終えてから、アキジは赤鉛筆のキャップを外した。 「なあ、本当に上手く行くのか?」 「知らないよ。あいにくと魔法ってやつに関しては、僕は君よりもずっと実践経験が少ないんでね」  鞄の中から、アキジは小さな手鏡を取りだした。何でそんなもの持ってるんだよ、とタツキがつぶやくと、身だしなみは男のマナーだよ、と分かったような分からないような返事が返ってきた。 「鏡を計算に入れてもいいかな? 僕はやったことがないんだけど、お前、こいつの真名は呼べそうか?」 「努力はするよ。上手く行く保証はねえけどな」  床の上にわら半紙のプリントを置いて、アキジはその正面に座った。タツキはその向かい、プリントを挟んで反対側に腰を下ろす。 「しかし、人を探すのにわざわざ魔法を使うとはね……頭のいい人が考えることは良くわかんねえや」 「茶化すな。お前と校内で四日間もすれ違っていたんだと思ったら、自分の足でその魔女の子を探しに行くのがバカバカしくもなる」  タツキが黒板のそばの箱から白いチョークを取ってくると、アキジはそれを受け取り、プリントを囲むように床に円を描いた。 「すっげえ、キレーな丸だな」 「この程度で感動していたら、春川さんの魔法なんか見れないぞ」  成績優秀な学級委員長の名前を挙げ、アキジはぶっきらぼうに答えた。魔法の精度を上げこそすれ落としそうにはない正確な同心円を描き、その三重円の線と線との間に手鏡と赤鉛筆、そして今使っていた青いボールペンを置く。 「ほかに何かないかな。ドカンと成功率が上がるようなもの」 「あ……あの子にもらったリンゴの芯、捨てて来ちまった」 「……取ってこいとも言えないな」  少し考えて、アキジは広げていた教科書を円の上に置く。 「こんなものでも、ないよりはマシか。相手が同じ高校生なら、もしかしたら引っかかってくれるかも」 「どうかな。発動したらめっけもの、くらいに考えておけよ」  さて、とタツキはつぶやいた。どうせ邪魔をするような人間がやってくる気づかいはない。タツキは理論だけでなく実習の成績も地を這っているので、こんなU種魔法は失敗する方が当たり前だと思うのだが、アキジにとってみればそうでもないらしい。  あからさまに不安げな顔でこちらを睨みつけるアキジに、「協力者への不信は真名を聞く耳をふさぐよ」と、魔法実習の教師が言っていたことをそのまま言ってみせる。 「心配はご無用。僕よりはお前の方が頼りになると信じているよ」 「ああ、そうですか」  アキジはそこで身を乗り出し、プリントの隅を指で押さえた。タツキも両手を伸ばし、反対の端を押さえる。 「雪島ハンナはどこにいる?」  アキジがそう口に出し、タツキはハンナの姿を頭に思い描く。握手をした時の感触、立てられた爪の痛み、月光に照らされた銀髪、馬鹿みたいに明るい声。鏡の真名、すなわち内在する力を呼んで、思い描くその姿を伝える。  すべての物質が持つ、魔法の燃料となる力を呼び覚ます。「真名を呼ぶ」と表現される独特の方法は、魔法学校の生徒ならさんざん習ってきたものだ。  ぞわり、と肌に冷気を感じた。直後、突き刺さるような光を感じて、思わず目を閉じそうになる。タツキは夢中で学校中の鏡を呼んだ。雪島ハンナを映し出したなら、その場所を示せ。  目的を持って寄せ集められた力は、さまざまな形で術者である二人に襲いかかる。T種よりU種、U種よりV種。同じ分類の中でも、ややこしい魔法であればあるほど、必要とされる力も大きくなる。学校は力の集め方と導き方を教えるが、結局のところ物を言うのは術者自身の感覚だ。力の感触も呼ぶべき真名も、具体的な言葉や触覚の形をとるものではない。魔法の気配は視覚から触覚、味覚までさまざまな形をとる。擬似的な感覚であるがゆえに、隣で見ている他者とも共有できないその姿を、正確に他人に教えることなどできるはずもない。もちろん魔法がどのような現象を引き起こすのか、今起こっている現象が正しいのか間違っているのか、それを知識で判断することはできるが、これから感じられることを予想することは不可能に近い。  強いて言うなら酸っぱくて硬いとでも形容すべき気配がタツキの右肩から腕に抜けたかと思うや、その先で右手のそばにあった赤鉛筆がひとりでに立ち上がる。正面でアキジが笑みを浮かべた。  赤鉛筆はふらつきながら地図の上を滑り、やがて一点に赤い印を穿った。その直後、ねっとりとした風が辺りを包み、凝っていた力を吹き飛ばす。赤鉛筆がコトリと倒れた。  赤鉛筆が穿った場所は、ハンナのいる場所、いやもっと正確に言えば、ハンナが鏡に映っている場所だ。 「……結局、同じ西棟の中かよ」  荒い息をつきながら、タツキがうめく。アキジも不満げな表情で地図を睨みつけていた。 「くそ、余計な体力使わせやがって」 「悪かったな」  誰にともなく毒づいたタツキに、アキジが心底申し訳なさそうな声をかけた。 「気にすんな。こんだけ範囲の広いU種魔法が一発で上手く行くなんて、お前のおかげとしか思えないし」  アキジは筆箱と鏡を鞄にしまうと、「よっこらせ」とかけ声をかけながら立ち上がる。オヤジくせえ、と顔をしかめたタツキを無視して、早足に歩き出す。 「まあ、何でもいい。彼女が動く前に探しに行くぞ」  赤鉛筆の印は、西棟の中央付近についている。プリントを片手に外に出たタツキは真っ直ぐな廊下を見渡すが、ハンナらしき人影はない。アキジと顔を見合わせ、すぐ側にあった階段を使って二階に上がる。廊下はどこまでも静かだ。 「三階か」  アキジがつぶやいたその時、何か重い物を叩きつけるような音と共に、足元がわずかに揺れた。 「な、何だ……?」 「行くぞ」  音源と思しき上方を一瞥し、アキジは階段を駆け上がった。タツキも慌てて後を追う。三階に上がり、廊下の先を見ると、そこに人影があるのが分かった。 「雪島じゃないな」 「少なくとも、銀髪には見えないね」  立っている黒い人影と、その足元に横たわるもう一人。制服を着た女生徒がうつぶせに倒れている。しかし彼女はハンナのような銀髪ではなく、明るい茶色の髪をしていた。  黒い人影は走ってくる二人の姿を認め、着ていた黒いマントを翻した。今時、魔法使いでさえ敬遠する古風なそのマント。動いた拍子に、被っていたフードが落ちた。思わずタツキは悲鳴を上げる。  そのフードの下には、首がなかった。  タツキの悲鳴から逃れるように、黒い人影は走り出す。タツキは反射的に後を追う。タツキも足には自信があるのだが、人影は滑るように廊下を走り、突き当たりのところでかき消えた。タツキは舌打ちしながら立ち止まり、女生徒の方を振り返る。 「春川さん!」  アキジの声を聞いて、初めてそこにいたのが級友なのだと気付いた。  二年G組の学級委員長・春川ユリンは、アキジに揺り起こされてむずかるような声を上げる。  やがて身を起こしたユリンは、きょとんとした顔でアキジとタツキの顔を見る。「西貝くん」とつぶやいた後で、駆け寄ってくるタツキの方を振り返り、わずかに表情を曇らせた。 「……神代くんも一緒なんだ」  その反応は今ひとつ腑に落ちなかったが、今はそれどころではない。なぜここにいるのか、と尋ねるより先に、思わず質問を口にしていた。 「春川さん、この辺に魔女の子がいなかった?」  ユリンは二、三度目をしばたいてから、そばの女子トイレを指さす。 「さっき、そこに」  そしてアキジの手を借りて立ち上がると、女子トイレの扉を勢いよく開け放った。  その扉の陰から、小さく悲鳴が上がる。 「な……何、なになに、あれ? タツキちゃん?」  ユリンが扉を開けたせいで打ったのか、耳のあたりを押さえながら、ふらふらと扉の陰から出てくる少女。  それは間違いなく、探していた雪島ハンナに間違いなかった。 「そ……そんなに怖い顔しなくたっていいと思うんだよ。アタシだって、そんな悪気があったりしたわけじゃないんだからっ」  じたばたと暴れながら、唇をとがらせてハンナは主張する。 「だから放してっ! アタシに構わないでよ!」  そうはいかないな、とアキジがなだめるように話しかけた。その両手は、ハンナの左腕をがっちりと捕まえたままだ。ちなみに、彼女の右腕はタツキが押さえている。 「だいたいね、肝試しっていうのは男女同数じゃなくちゃロマンがないんだ。このままじゃ数が合わないからね、君にもいてもらわないと」 「意味わかんないよ! いつから肝試しになったのさ!」 「七不思議のために閉じこめられて、首のない魔法使いがうろつき始めたら、こりゃあ肝試しだなって思うのが自然の摂理じゃないか」  七不思議という言葉を聞いて、ユリンが眉を上げた。 「ちょっと待って。じゃあ、さっき私が会ったのは……」  生真面目な学級委員長は、くせのある髪を苛立たしげにいじりながらつぶやく。 「七不思議の第三番、首無しの魔術師?」  ハンナは小さくうなずいた。