一章  遭難三日目  ふと気がついたら、学校から出られなくなっていた。  神代タツキの現状をストレートに説明するならば、そういうことになる。  ぴったりの言葉が見つからなかったので、タツキはこの状況を「遭難」と呼ぶことにした。  遭難してから、かれこれ三日になる。  タツキは膝を抱え、ほの白い月の光を眺めながら、目下の空腹をどうしようかと考えていた。空腹で眠れないので、とりあえずじっとしているしかない。食料がある場所など、見当もつかなかった。横に置いた薄っぺらい鞄には、もちろん食料など残っていない。  夏とはいえ、半袖のワイシャツから伸びる腕に夜の空気は冷たすぎる。ため息をついて首を回すと、壁に貼られたベートーベンの写真と目が合った。思わずその目をにらみ返す。  目の前のグランドピアノがすました様子で立っているのも腹立たしい。タイル張りの床よりはましかと思っていたのに、ちっとも寝心地のよくないじゅうたん敷きの床も恨めしい。 「そりゃあ、しょせんは音楽室だもんなあ」  吐き出した言葉を、聞く者はいない。  神代タツキは、自分の通う学校の校舎内で遭難していた。  遭難、と言っても、別にこの学校の校舎が迷うほど大きいわけではない。確かにこの学校は生徒数が多く、その教室数も敷地面積も設備も、山の下にある公立高校と比べれば段違いだ。とはいえ校舎自体はたったの三棟、それにこぢんまりとした特別棟が四棟。それらが旧校舎や倉庫を間に挟みながら、大した秩序もなく並んでいるだけだ。 「誰か、何とかしてくれよ……」  独り言のボリュームが上がる。誰かがこの声を聞いてはくれまいか、という淡い期待があることは否定しない。タツキはもう何百回目になるのかもわからないため息をつき、小さくうずくまりながら、三日前のことを思い出していた。  退部届けを取りに夏休みの学校にやって来たのは、たしか午後四時頃、まだ日の高い時間だった。所属しているサッカー部の練習にはついて行けず、さらに言うなら、というか、もしかするとこちらの方が重要なのかもしれないが、人間関係もあまり面白くない状態になっていた。ここ二ヶ月ほどは練習そのものにも出ていない。それでもきちんと退部届けを出そうと思うまでにこんなにも時間がかかってしまったのは、単に届けを出すのが面倒くさかったからだ、と言うほかない。サッカー部の部員にはクラスメイトも少なくないし、辞めたとなればどんな顔をして会えばいいのか分からない。いや、今でも既によく分からず、適当に彼らを避けている状況だ。  タツキが住んでいるのはこの学校の男子寮だが、その寮からこの学校までは山道を歩いて十分ほどかかる。物理的にはさほどでもない距離かもしれないが、単調な上りの坂道は歩く人間のやる気を削ぐのに充分な攻撃力を備えている。同じ十分歩くなら、山の上よりは山の下の、バス停やコンビニに足が向いてしまうのは仕方のないことだろう。それでも、同室の生徒に「愚痴ばかり言うのもいい加減にしろ」と怒鳴られたこともあり、タツキは七月の末の補習が終わって以来二週間ぶりに、高校の門をくぐったのだった。  職員室で担任としばらく話をして、なぜかミルクティーと煎餅をごちそうになりつつ、退部届けを受け取った。担任には「本当にいいのかい?」と何度か聞かれたが、「もう決めたことですから」と言い張ると、「まあ、好きにしなさい」と納得したのか諦めたのかよくわからないことを言われた。あとはこの場で退部理由を記入して顧問に提出すればいい、と思ったところで、印鑑が必要なことに気付いた。寮まで帰るのは面倒だな、と思いながら、惰性で自分の教室に入り、机の中に忘れていた教科書を引っ張り出した。そういえば宿題があったっけ、と思いながらそれを読んでいるうちに眠くなってしまい、気がついたらずいぶん時間が経っていた。タツキは教科書を鞄ではなく机の中に戻すと、慌てて目の前の用紙に退部理由を記入しはじめる。  欄を半分ばかり埋め、我ながら実に愚痴っぽい文章になった、と感心しながら時計を見ると午後五時半。どのみち印鑑を取りに帰らねばならないのだし、漫画を借りに行こうにも、もうこの時間では図書室も閉まっているだろう。タツキは筆記用具くらいしか入っていない鞄を肩にかけ、まだ陽の高い校庭を横切って、寮へと続く小さな校門から一歩外へ踏み出す。  ――違和感があったのは、その直後だった。  タツキは眼前の状況を確認する。目の前にはだだっ広い校庭。その向こうに並ぶ三棟の新校舎。振り向けばそこにはアスファルトの道路が、だらだらと木々の奥へと続いていく。  ちょっと待て、とタツキは考えた。  確か今し方、自分はこの校庭から、門の向こうの道路へと出ようとしたはずだ。  踵を返し、門を前にして、目の前の情景をもう一度確かめる。いくつかある門の中ではかなり小さい門だ。背の高い金網のフェンスがここだけ途切れ、三人も横に並べばぎりぎり通れるかどうか、という幅の鉄製の引き戸がついている。入学してからの一年半、何度となく通った門なのだから、今更見るまでもない。門柱を引っ掻いて書き付けた相合い傘の落書きさえ、近寄るまでもなく思い出せる。  きっと何かの気のせいだ、と思いながら、ゆっくりと門のレールを越える。 「え――」  今度は、はっきりとした圧迫感を身体に受ける。  視界が一瞬ぼんやりと霞み、驚いて目を閉じた。おそるおそる目を開けると、そこには確かに、一瞬前まで背中側にあったはずの校庭が広がっている。  落ち着け、とタツキは一度深呼吸した。  こんな悪戯をしたのが誰かは知らないが、こんな現象を引き起こす手段は分かる。 「V種魔法か」  つぶやきながら、タツキは自分のいい加減な授業態度を深く反省していた。  高宮魔法学院は、今から五十六年前に開校した、魔法学校としてはもっとも伝統のある学校だ。魔法学校は全国に約五十校、だいたい各都道府県に一つずつくらいあるそうだが、高宮はその中でも最大の規模と設備を誇る。「使者」高宮ゴロウと「大魔女」春川セイカという、国を代表する強力な魔法使いが設立しただけあって、排出する人材の質の高さにも定評がある。  何をどう間違ったのかそんなご大層な学校に進学してしまったせいで、タツキの成績は地を這っている。普通中学に通っていた頃は決して悪くない成績を取っていたタツキだが、なにせ周囲のレベルが違うのだから仕方ない。入学する生徒に魔法の才があるのは理解できるが、加えて偏差値や運動能力でもやたらと高い平均値を見せつけられると、誇りに思う以前にうんざりする。いったいどうして自分がこんな学校に来ることができたのか、今になって考えてみるとまったく理解できない。  タツキは再びため息をつくと、側にある布を引き寄せ、鞄を枕に横になる。この布はグランドピアノにかけてあったものだが、背に腹は替えられない、とばかりに毛布代わりに利用させてもらっている。  成績が悪いのが英語や数学だけならまだ良かった。体育の成績が悪いのも、まあ仕方ない。タツキは足こそ速いが、自分でも運動神経のない方だと思っている。サッカーだってそうだ、足が速いだけでは試合にならない。だがいかんせん、タツキの成績表の中で最低の成績を誇っているのが、魔法に関する知識一般を扱う授業――魔法理論というやつだった。ちなみに高宮の時間割の中でも最も多くの時間が費やされる授業だから、この授業の成績が悪いのはある意味致命的だと言えるかもしれない。 「助けに来いよ、くそ……」  出来のいい同室の生徒の顔を思い浮かべると、さらに情けなさがつのる。あの、気分屋だが頭はいいルームメイトの後藤がこの場にいれば、きっとすぐに校門にかけられた魔法の正体に思い当たり、適切な解除方法を考えてくれているだろう。  あの後三日間でタツキが知り得たことと言えば、どこを通ろうがタツキの行く手が阻まれるということと、タツキ以外の人間は何の問題もなく外へ出ていくことができるということくらいだった。なんの解決にもなっていない。 「ちくしょう!」  叫んだはずみに、腹が大きな音を立てて空腹を主張した。 「おなか空いたの?」  からかうような女の声が聞こえたのは、その時だ。  タツキは慌てて身を起こし、声の方を見る。みっともない所を見られてしまった、という焦りが先に立った。 「まあ、無理もないよねー」  わずかに開いていた音楽室の扉が、勢いよく開かれる。その向こうから一人の女生徒が顔を出した。ネクタイは外しているが、スカートは間違いなく高宮の高校の制服だ。 「いま、食堂はお休みだしね」  目を丸くするタツキに構わず、少女は真っ直ぐこちらへ向かってきた。同じ二年生くらいだろうな、と思う。彼女は小学生がよくやるように、「はーい」と手を挙げた。 「アタシ、雪島ハンナ! 君は?」 「か……神代タツキ」 「カミシロ君かあ……カミ……うーん。あ、そうだ、タツキちゃんって呼ぼう!」  そう言って、ハンナと名乗った少女は明るい笑い声を上げた。  ハンナが声を発するたびに、長い銀髪が揺れる。つやのある真っ直ぐな銀髪に、日に焼けていない白い肌。どこから見ても普通の日本人ではない。かといって物珍しいわけでも得体が知れないわけでもなく、これは高宮の校内ではそれなりに数の多い「魔女」という人種だ。この銀髪と、魔法への高い適性が最大の特徴である。 「で、タツキちゃん。こんな所で何やってるの? 警備員のおじさんに見つかったら、怒られると思うんだよ」 「ご心配ありがとう。でも、ここで三日も寝泊まりしてるけど、警備員は来たことないぜ」 「え? じゃあ……」  ハンナが小首を傾げた。化粧っ気のない顔だが、目鼻立ちがはっきりしているので地味な印象は受けない。銀髪の魔女は、ともすれば印象が薄くなりがちな眉を強調する者が多いのだが、彼女に関してはそんな小細工をする必要もなさそうだった。率直に言えば、可愛い。  そんなタツキの視線に気付いているのかいないのか、ハンナは無邪気に尋ねてくる。 「タツキちゃんも迷子?」 「迷子、って……」 「迷子は迷子だよ。この学校から出られなくなった人」  まるで当たり前だと言わんばかりに、ハンナはそう答えた。  驚いて目を見開いたタツキの態度を肯定と取ったのか、ハンナは笑顔で手を出してくる。 「よし、お近づきのしるしに握手をしよう!」  手を出そうとしないタツキに業を煮やし、ハンナは強引にタツキの手を取ると力強い握手をした。ハンナの手は細く、爪がきれいに手入れされていた。ただいかんせん、その爪は少々長すぎる。握られたはずみに彼女の爪が手の甲に刺さり、タツキは顔をしかめた。 「ち……ちょっと待て、離せよ。何言ってんのか全然わかんねえ」  彼女の手を振りほどき、タツキは立ち上がる。そうしてみると、ハンナはかなり小柄な少女だった。 「わかんないって、何が?」 「迷子とか、出られないとか……なんであんたがそんなこと知ってんだよ」  ハンナは首をかしげた。銀髪が月の光に映える。 「だって、よくあることじゃない?」  タツキの姿を頭の上からつま先まで眺め回し、腕組みをして、ハンナは言った。 「高宮の七不思議、第七番。七不思議を全部知ったら、学校の中で迷子になっちゃうんだよ!」 「は?」  突然出てきた「七不思議」という単語に、タツキは眉をひそめた。何を言っているんだ、この女は。しかしハンナの方はそんなタツキの表情を意に介さず、「知ってるよね?」と訊いてくる。 「知らねえよ。だいたい何なんだよ、七不思議って」 「え? ウソ、もしかしてタツキちゃん、高宮の七不思議、知らないの?」  やばーい、と言いながら、ハンナは口元を手で覆った。 「一番レアなのを最初に教えちゃった? いけなーい。もしかしてタツキちゃん、高校からの入学? だったら知らないのも無理ないかも」 「そうだよ、高校から。あんたは?」 「アタシは中学から。それまで東京に住んでたんだけどね、学院の人が『ぜひ来てください』って言うから、遠路はるばるこんな田舎までやって来たんだよ!」 「……こんな田舎って言うなよ。確かに田舎だろうけど、ここ、俺の家よりは都会なんだぞ」  えー、ウソだー、とハンナはわざとらしく窓の外を見た。正面にはもう一つの校舎があって、すぐ右を見れば高校の校庭が広がっている。校舎のかげになる辺りに幼稚園から中学校までの敷地があるはずで、校庭の向こうにあるはずの寮や大学は木々に埋もれて見えない。そのずっと向こう、山の下には、決して小さくはない街が広がっている。 「だいたい、それだけ見事な銀髪の魔女なら、幼稚園の頃から高宮に呼ばれたっていいはずだろ。呼ばれたのが中学からってことは、大した魔法使いでもないんだな」 「あ、タツキちゃんのイジワル! 確かにアタシは頭悪いし、魔法もヘタクソだけど、いま会ったばっかりの人にそこまで言われるほどヒドくないもんねっ」  小学生のように頬をふくらませて、ハンナはそっぽを向く。  魔女という人種は今でこそ日本人の中に自然に混ざりこんでいるが、高宮魔法学院が開校した五十六年前には、まだ彼らは独自のコミュニティの中に引きこもっていたはずだ。設立者の一人が魔女であるこの学校は、その当時からの伝統なのか魔女が多く学ぶことで知られている。入学時に別枠が設けられているそうだから、ハンナもその制度を利用したのだろう。いくら魔女の血を引いていても、男性にはその特徴的な銀髪も魔法の才能も現れないから、もとよりタツキには縁のない話だ。ちなみに、銀髪が女性にしかあらわれない理由については諸説あるが、未だに論争には決着がついていない。 「ところでタツキちゃん、ここより田舎ってことは出身はどこ?」 「九州の端っこだけど……って、そんなことはどうでもいいだろ! そんなことより七不思議だ、七不思議!」  怒鳴ったはずみに腹が鳴って、ハンナはくすくすと笑い出す。 「大丈夫だよ、タツキちゃん。三日くらいゴハン食べなくても何とかなるって。で、七不思議の話だったよね?」  すっかり彼女のペースに巻き込まれている、と思いながらタツキは深呼吸した。そもそも、彼女は何者だ。名前と出身地は勝手に喋ってくれたが、「なぜこんな夜中に校内をうろついているのか」というのが最大の疑問なのだと、今更になって気付く。 「誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえるとか、校庭にある厄除けのガーゴイル像が夜になるとリンボーダンスを踊っちゃうとか、高宮にはいろんな不思議が伝わってるんだよ」  したり顔でハンナは話しはじめる。 「他にも、東棟二階の大鏡が、とか、旧校舎が、とか、いろんな七不思議があるんだけど、全部言っちゃうと何が起こるかわかんないからやめておくね!」 「……くだらねえ」  思わず正直な感想が口をついて出た。 「誰もいない音楽室からピアノの音が聞こえたら、まず疑うのはT種魔法。厄除けガーゴイルが踊り出したら、普通はW種魔法を疑うだろ。俺が今閉じこめられてんのも、七不思議なんかのせいにするよりは、誰かがイタズラでかけたV種魔法だと考えた方が自然だ」 「うわ! タツキちゃんって、すっごーく夢のない人間なんだね!」  すごく、の部分をことさらに強調して、ハンナは唇をとがらせた。 「何でもかんでも魔法のせいにするのって、頭の悪い証拠だよ?」 「幽霊のせいにするよりは百倍マシだ!」  まあ落ち着いて、とハンナはタツキをなだめ、ピアノの椅子に腰掛けた。 「確かにT種魔法なら、ピアノの音くらい好きに鳴らせるよね。でもそんなの、ラジカセ使ったって同じじゃない。T種なんて、使ったところで大したことが起こらないからT種に分類されてるわけでさ。不思議なことが起こった時にT種魔法のせいにするのって、頭が悪いって言われても仕方ないと思うよ。それって、『リンゴが木から落ちるのは重力のせいだ!』っていうくらい、何の意味もない主張だもん。だったらまだ幽霊のせいにした方が、夢があるだけマシだと思うんだよ」  鍵盤の蓋を開け、ハンナは鍵盤に指をすべらせる。月光を背にしたその姿はとても幻想的だったが、残念ながら彼女が引きはじめたのは調子っぱずれの「猫ふんじゃった」。風情もなにもあったものではない。 「ところでタツキちゃん、今お勉強はどこまで進んでる? V種のうち、空間をくっつけたりねじ曲げたりする魔法が、どれだけ難しいかってことは分かってるよね? 学校の周りをぐるっと囲むようにそんな魔法使ったら、よっぽど準備がきちんとしてない限り、すぐにスタミナ切れしちゃう」  どこか小馬鹿にするような口調で、ハンナが言った。視線は鍵盤に落としたまま、唇には笑みを浮かべている。 「ガーゴイルがW種魔法で踊ってるなら、アタシたち高校生が小細工なしでかかると、魔法の持続時間はいいとこ五分。もちろん薬や道具を使えばもっと伸びるし、難しい理論をお勉強すれば踊らせっぱなしにもできるらしいけどね。でもそれが難しいってことくらいは、ちゃんと教科書読んでたら知ってるでしょ?」  タツキは舌打ちした。魔法の持続時間だとか、そういうややこしい計算は苦手だ。 「だからね、こういう不思議を幽霊のせいにするってのは、あながち間違ったことじゃないと思うんだよ。魔法だって科学だって、まだまだ限界があるんだから、何でもできるって夢見てるだけじゃダメだと思うんだ」 「……分かったよ。信じればいいんだろ、七不思議」 「うん、つまりそういうこと」  ハンナがこちらを向いて、歯を見せて笑う。タツキが苦笑するのと同時に、ぐう、と腹の音が響いた。ハンナは腹を抱えて笑い出し、スカートのポケットに手を突っ込む。不自然にふくらんでいたそのポケットから出てきたのは、艶のある真っ赤なリンゴだった。 「食べていいよ、タツキちゃん」  放り投げられたそれを受け止める。ずっしりとした重みといい、その触感といい、どう見ても本物のリンゴに違いない。 「ちょっと季節ハズレだけど気にしないでね。アタシはそういう魔法、得意なんだ」  どういう魔法なのかは知らないが、とにかく空腹の前では細かいことに構ってはいられない。タツキは迷わずリンゴに歯を立てた。甘味が口の中に広がる。 「食べながらでいいから聞いて。タツキちゃんは何かの理由で、七不思議の第七番に引っかかっちゃったんだと思う。『迷子』になってるのがその証拠だよ。警備員さんに三日も会わなかったんでしょう? 『迷子』でもなきゃ、そんなことにはならないよ。この学校、そこまで広いわけじゃないもん」  タツキが目で先をうながす。ハンナは鍵盤の蓋を閉め、そこに左手で頬杖をついた。 「警備員さんだけじゃなくて、先生やほかの子にも会わなかったんじゃないの?」 「え? いや、ほかの奴らは校庭なんかで、普通に部活やってたけど」 「その子たちに、『助けて』って言いに行った?」  タツキは小さく首を振る。 「どうして?」 「どうして、って……いきなり見ず知らずの奴に、そんなこと言えねえだろ」 「じゃあ、先生は?」  ハンナに問われ、タツキはこの三日間の行動を思い出そうと天井を見上げた。たしか最初の日は困っているうちに日が暮れて、一晩かけて敷地内を周りながら、何度も外に出ようと試みた。朝になって眠くなったので、とりあえず自分の教室に入って机で居眠りをした。目が覚めたら昼過ぎで、前日と同じように敷地内をうろつきながら魔法の正体を探り、この音楽室に潜り込んで眠った。今朝は腹が減って動く気になれず、だらだらと時間を過ごして…… 「あれ?」  そう言われてみれば、どうして職員室に向かわなかったのだろう。 「別にタツキちゃんを責めてるわけじゃないから、そんなに変な顔しなくていいよ。たぶんタツキちゃんが職員室に行ったって、誰もいなかっただろうしね。食堂が閉まってるのも、偶然じゃないと思うんだよ」 「誰もいない、って」 「他人に助けを求められるような状態だったら、『迷子』とは言えないんだ。まあ、これはただのアタシの経験則だけどね。『迷子』になってからタツキちゃんに話しかけたのって、アタシが初めてなんじゃないの?」  おそるおそる頷くと、ハンナは「ビンゴ!」と叫んでピアノの椅子から飛び下りる。 「やったあ、またまた大当たりだ!」  そしてそのままタツキに抱きついた。そのままの勢いで押し倒される。 「って、ちょっと、おい!?」  お世辞にも大きい方とは言えない胸が、夏服ごしに押しつけられる。必死になって彼女を引きはがすと、ハンナは不満そうな顔でタツキを睨みつけた。 「タツキちゃん、意外に甲斐性ないんだね。据え膳食わぬは男の恥、って言うじゃない、普通」 「アホ、こっちにも選ぶ権利ってもんがあるわ!」  思わず叫ぶと、ハンナはタツキの片手に握られたリンゴの芯を見ながらため息をついた。 「せっかく貢いであげたのに、アタシを捨てるのね」 「捨てるも何も、最初から拾ってねえよ!」 「そう言えばそうだね、うまいこと言うじゃない。今アタシ、タツキちゃんのことをちょっとだけ見直した!」  タツキの顔を指さしながらそう言うと、ハンナはひょいと立ち上がる。 「さて、それじゃあアタシはそろそろ行こうかな」 「……え?」  思ってもみなかったハンナの言葉に、タツキは戸惑った声を上げる。 「どうしたの? ああ、もしかしてタツキちゃん、アタシが君のことを助けに来たって思ってた?」  ハンナは無邪気に笑みを漏らす。意味もなくつま先でくるりと一回転して、押し倒された姿勢のままで座っているタツキの顔を見下ろす。スカートがふわりと膨らんだ。 「残念でした! アタシはただ、タツキちゃんが『迷子』なのかただのヒマ人なのか、それを確かめに来ただけなんだよ。アタシにとっては、それってちょっと重要な問題だからね。タツキちゃんがただの『迷子』だって分かったら、これ以上ここにいる意味もないし」  ばいばーい、と手を振って、ハンナは音楽室を出ていこうとする。タツキは慌てて立ち上がると彼女に駆け寄り、その細い腕を力任せに掴んだ。ハンナが顔をしかめる。 「待てよ」  掴んだ左手を放さないまま引き寄せて、正面を向かせる。一瞬おびえたような様子を見せたあとで、すぐに彼女はへらへらと、不真面目な笑顔を浮かべた。 「やだなあ、タツキちゃん。寂しいなら寂しいって最初っから言えばいいんだよ。そうすればアタシだって、少しは考えてあげてもいいんだからねー」 「すこし黙れ」  ハンナは鼻白んだ様子で、顔から笑いを引っ込めた。タツキは一度深呼吸をしたあとで、できる限り優しく問いかけた。 「お前、何なんだ?」  それでも、声に苛立ちがにじみ出ていることは否定できない。 「だいたい、こんな夜中に女の子が校内をウロついてるってのがおかしいだろ。それに、本当に俺が『迷子』で、誰にも助けを求められないとかいう状態なら、あんたとだって話せるはずがない」  ハンナは黙ってタツキの顔を睨みつける。 「何とか言えよ!」 「だ、黙れって言ったのはタツキちゃんでしょ!」  タツキの手を振りほどこうと腕に力をこめながら、ハンナは叫び声を上げる。タツキの方も意地になり、ハンナの腕を握る手に力を込めた。 「あ……アタシはただ、『迷子』を見つけて、その子に『これは七不思議のせいだ』って伝えて回ってるだけ! アタシがタツキちゃんと喋れるのは、そりゃあ……」  ハンナは顔を伏せ、顔をゆがめた。 「アタシも、『迷子』だからだよ」  その返事を聞いて、タツキの手が一瞬ゆるむ。ハンナはその隙を逃さず、タツキの手を振りほどいて廊下へと走り去った。よく響いていたその足音が突然消える。タツキは後を追おうと廊下へ飛び出し、ハンナが走っていったと思しき右手方向を見て舌打ちした。いくら何でも、この短時間で彼の視界から消えることができるほどハンナの足は速くあるまい。ならば、きっと魔法で足取りを消したのだろう。追っても無駄だ、と判断し、タツキは音楽室の中へと戻る。  今度は内側からきちんと鍵をかけ、ピアノにかかっていた布を毛布代わりにして、鞄を枕に寝転がった。  難しいことは、明日考えよう。  そう思いながら目を閉じると、ほどなくして眠気が襲ってきた。